瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:生駒親正

   長宗我部元親の四国平定の最終段階で、秀吉が小豆島を拠点に介入してきたことについては以前にお話ししました。しかし、長宗我部元親の東讃地域制圧がどのように行われたかについては具体的なことは触れていませんでした。今回は元親の東讃制圧がどのような経過で進められたのかを見ていくことにします。テキストは「田中健二 長宗我部元親の東讃侵攻と諸城主の動向   中世城郭分布調査報告430P」です。
讃岐戦国史年表3 1580年代
1582年前後の讃岐の動き
1582(天正10)年6月、織田信長が本能寺の変で倒れます。
これを見て、対立関係に転じていた長宗我部元親は、好機到来と阿波・讃岐両国へ兵を進めます。7月20日には、讃岐・伊予・土佐の長宗我部方の軍勢が、西讃の戦略拠点である西長尾城(まんのう町長尾)に集結します。この編成を「南海通記」や「元親一代記」などの軍記物は次のように記します。
総大将は元親の二男で天霧城城主香川信景の養子となった五郎次郎親和
土佐勢 
大西上野介、中内源兵衛、国吉三郎兵衛、入交蔵人、谷忠兵衛
伊予勢 
馬立中務大輔、新居、前川、曾我部、金子、石川、妻取采女
讃岐勢 
香川信景、長尾大隅守、羽床伊豆守、新名内膳亮
総勢1、2万人とします。これらの軍勢は「元親一代記」などの軍記物では「西衆」と呼ばれています。年表化しておくと
7月23日、軍律を定め、長尾大隅守・羽床伊豆守を先導として那珂・鵜足両郡へ出陣
8月 3日 讃岐国分寺へ進み本営設置。
   6日 香西郡勝賀城の城主香西伊賀守が降参し、その兵も西衆に従軍。
  11日 国分寺を立った西衆は阿波三好方の最大の拠点である山田郡十河城へ進軍。
長宗我部元親讃岐侵攻図
長宗我部元親の讃岐侵攻図

一方、長宗我部元親が率いる本隊は、岡豊城を出陣して阿波への侵攻を開始します。
土佐勢は阿波上郡(美馬・三好両郡)と南方(那賀・海部両郡)へと二手に分かれて2万余の軍勢が三好氏の拠点を攻めます。元親の率いる本隊は、8月26日には一宮城(徳島市一宮町)を落とし、三好氏の本拠勝瑞城(藍住町)を目指して北進します。

勝瑞城
勝瑞城
このときの勝瑞城の城主は、三好政康(十河存保)でした。政康は阿波三好氏の義賢(実休)の子で、叔父十河一存の養子となっていました。それが天正5年、兄長治が自害した後は三好氏の家督を継いでいました。「土佐物語」には、政康は長宗我部氏による阿波侵攻に備えるために、8月初めに讃岐高松の十河城より急遽勝瑞城へ移ったと記します。8月28日、三好政康は勝瑞城近くの中富川において元親軍と戦います。その戦いを「阿波物語」に記されていることを意訳要約すると次のようになります。

この合戦において三好政康の率いる阿波勢はわずかに3000余人で、土佐の大軍に踏みにじられてしまった。敗れた政康は残兵とともに勝瑞城に立て籠もったが、9月に入ると水害に襲われ、下郡(吉野川中・下流域)一帯が海と化し、城も孤立した。そこで21日、政康は今後は、元親に敵対することは決してしないとの起請文を捧げて勝瑞城を退去し、讃岐へ逃れた。

脇町岩倉城
岩倉城(阿波脇町)
勝瑞城落城の前日に美馬郡の岩倉城(脇町岩倉)も土佐勢の別動隊に攻め落とされています。
城主は「元親記」には三好式部少輔、「土佐物語」には三好山城守とあります。元親は同城を一族の掃部助に預けます。岩倉城は阿讃山脈を越えるための重要な交通路である曾江谷越の阿波側の入口にありました。東を流れる曾江谷川をさかのぼれば、阿波・讃岐を結ぶ曾江谷越(清水峠)です。この峠からは、香川・山田・三木・寒川・大内の5郡へ通じる道が続きます。戦略的な要衝にもなります。

長宗我部元親侵攻図

 土佐軍に鳴門海峡を経て船で兵を送ると云うことは考えられなかったのでしょうか?
  長宗我部軍が水軍らしい船団を保持していたことは史料には出てきません。また、勝瑞城を包囲していた元親軍は、坂東郡木津城(鳴門市撫養)の城主篠原白遁に対して讃岐の三木郡のほか1郡を与えることを条件に調略を進めていたことが「土佐国壼簡集」所収文書)からはうかがえます。しかし、それには城主は応じなかったようです。天正11年の高野山僧快春書状(「香宗我部家伝證文」所収文書)では、5月21日に元親の弟で淡路攻めを担当していた香宗我部親泰が木津城を攻め落としています。それまでは木津城を拠点にして撫養海域は、三好方の制海権上にあったため、土佐軍が鳴門海峡を通過して讃岐へ侵攻することはできなかったようです。そのために脇町の曾江谷越を選んだのであり、その確保のためには岩倉城を手中|こ収める必要があったようです。

虎丸城

勝瑞城を退去した三好政康は、一旦、大内郡虎丸城に入り、ついで十河城へ移ります。
当時、虎丸城には三好方の安富肥前守盛方がいて、寒川郡雨滝城(さぬき市大川・津田・寒川)を家臣六車宗湛に守らせていました。政康が虎丸条に入ると彼は雨滝城へ帰り、その十河城への移動後は同族の安富玄蕃允が虎丸城を守ったと「十河物語」は記します。

十河城周辺の山城分布図
三好氏が最後の拠点とした十河城と周辺山城

10月中旬になると、阿波を平定した長宗我部元親元親は、岩倉から曾江谷越を経て讃岐へ入り、十河城を包囲していた西衆と合流します。その軍勢は併せて、3,6万ほどに膨れあがったとされます。
この時に元親軍として活躍した由佐家には、次のような長宗我部元親の感状が残されています。
由平、行以三谷二構兵候を打破、敵数多被討取之由、近比之御機遣共候、尤書状を以可申候得共迎、使者可差越候間、先相心得可申候、弥々敵表之事差切被尽粉骨候之様二各相談肝要候、猶重而可申候、謹言
(天正十年)                   (長宗我部)元親判
十月十八日                 
小三郎殿
      「由佐長宗我部合戦記」(『香川叢書』)所収。
意訳変換しておくと
先頃の三谷城(高松市三谷町)の攻城戦では、敵を数多く討取り、近来まれに見る活躍であった。よってその活躍ぶりの確認書状を遣わす。追って正式な使者を立てて恩賞を遣わすので心得るように。これからも合戦中には粉骨して務めることが肝要であると心得て、邁進すること。謹言

  感状とは、合戦の司令官が発給するものです。この場合は、長宗我部元親が直接に由佐小三郎に発給しています。ここからは小三郎が、長宗我部元親の家臣として従っていたことが分かります。
 この10月18日の感状からは、由佐氏が山田郡三谷城(高松市三谷町)攻めで勲功をあげていたこととともに、土佐軍の軍事活動がわかります。その1ヶ月後に、由佐小三郎は、二枚目の感状を得ています
長宗我部元親書状(折紙)
坂本河原敵あまた討捕之、殊更貴辺分捕由、労武勇無是非候、近刻十河表可為出勢之条、猶以馳走肝要候、於趣者、同小三可申候、恐々謹言
    (長宗我部)元親(花押)
(天正十年)十一月十二日
油平右 御宿所
  意訳変換しておくと
 この度の坂本河原での合戦では、敵をあまた討捕えた。その武勇ぶりはめざましいものであった。間近に迫った十河表(十河城)での攻城戦にも、引き続いて活躍することを期待する。恐々謹言

11月18日に、坂本川原(高松市十川東町坂本)で激戦があった際の軍功への感状です。戦いの後に引き上げた宿所に届けられています。この2つの感状からは高松市南部の十河城周辺で、戦闘が繰り返されていたことがうかがえます。

DSC05358十川城
十河城縄張り図

 さらに「讃陽古城記」には、十河氏一族の三谷氏の出羽城や田井城、由良氏の由良山城(由良町)なども長宗我部軍に攻略されたとあります。山田郡坂本郷に当たる坂本は、当時の幹線道路である南海道が春日川を渡る地点で、十河城の防衛上、重要な地点でした。到着した元親は、すぐに、十河城を攻撃して、堀一重の裸城にしています。そして、三木郡平木に付城を造営して、讃岐・伊予の武士を配置し、「封鎖ライン」を張ります。三木町平木にある平木城跡は、南海道のすぐそばです。南方の十河城の動きを監視しながら、補給を絶つという役割を果たすには絶好の位置になります。十河城に対する備えを終えた元親は、屋島・八栗などの源平の名勝地を遊覧する余裕ぶりです。そして、力押しすることなく、包囲陣を敷いて冬がやってくると土佐に帰っていきます。

十河城跡

 翌年1583年の春、4月になると元親は讃岐平定の最後の仕上げに向けて動き始めます。
この時の讃岐進行ルートは大窪越から寒川郡へ入り、大内・寒川両郡境の田面峠に陣を敷きます。これに先立つ2月28日の香川信景書状や3月2日の元親書状(いずれも秋山家文書)には、西讃三野の秋山木工進が天霧城主の香川信景の配下に属し、寒川郡の石田城攻めに参加し、感状を受けています。
DSC05330虎丸条
虎丸城縄張図
石田東に広大な城跡を残す石田城は南海道を見下ろす所にあり、北方に三好方の拠点雨滝城、東方に虎丸城が望めます。元親が出陣してくる以前から元親に下った讃岐衆によって石田城攻めが行われていたことが分かります。

田面峠

なぜ、元親は本陣を大内・寒川郡境の田面峠に置いたのでしょうか。
それは、大内・寒川両郡にある三好方の拠点、虎丸城と雨滝城の分断と各個撃破だと研究者は考えています。
 4月21日、戦いの準備が整う中で、大内郡の入野(大内町丹生)で、突発的に戦闘が始まります。この時の香川信景の山地氏への感状です。
 去廿一日於入野庄合戦、首一ッ討捕、無比類働神妙候、猶可抽粉骨者也
  天正十一年五月二日      
                 (香川)信景
山地九郎左衛門殿
意訳変換しておくと
 先月の21日(大内郡)入野庄で合戦となった際に、首一ッを討とった。比類ない働きは、真に神妙である。これからも粉骨邁進するべし
  天正十一年五月二日               (「諸名将古案」所収文書)
これは大内郡入野庄の合戦での山路九郎左衛門の働きを賞した香川信景の感状です。
当時の情勢は、長宗我部元親は阿波から大窪越えをして寒川郡に入り、田面峠に陣を敷きます。入野は田面峠から東へ少し下った所になります。長宗我部勢は十河勢の援軍として引田浦にいた秀吉軍を攻めたようです。この入野での戦いで、長宗我部勢の先兵であった香川氏の軍の中に山路氏がいて、敵方の田村志摩守の首を取ったようです。その際の感状です。
  ここからは天霧城主の香川氏が長宗我部元親に下り、その先兵として東讃侵攻の務めを果たす姿が見えて来ます。
そして、香川氏の家臣山路氏の姿も見えます。この時に香川氏より褒賞された山路氏は、もともと三野郡詫間城(三豊郡詫問町詫間)の城主で、海賊衆でした。芸予諸島の弓削島方面までを活動エリアとしていたこと、それが天正13年に没した九郎左衛門のとき、三木郡池辺城(本田郡三木町池戸)へ移されたことは以前にお話ししました。池辺城は平木城の西方で、十河城を南方に望む位置です。山路氏は、西讃守護代の香川氏の配下でしたから、三好方との戦闘に備えるために香川氏が詫間城から移したと研究者は考えています。このように、香川氏に率いられて西讃の国人たちが東讃へと参陣している姿が見えます。
長宗我部軍と秀吉軍は、入野と引田で軍事衝突しました。
ここにやって来ていた秀吉軍とは、誰の軍勢だったのでしょうか? 

仙石秀久2
仙石秀久
四国の軍記物はどれも、羽柴秀吉の部将仙石権兵衛秀久の名を上げます。
仙石氏の家譜である「但馬出石仙石家譜」には、4月に、羽柴秀吉が越前賤ケ嶽での柴田勝家との決戦直前に、毛利氏の反攻に備えるため仙石秀久を「四国ノ押へ」として本領の淡路へ帰らせたと記します。ただ「元親一代記」は、仙石秀久は秀吉より讃岐国を拝領したが、入国することもなく、「ここかしこの島隠れに船を寄せ」ていただけと否定的に記します。当時の仙石秀久の動きを年表化すると次のようになります。
1582 9・
-仙石秀久,秀吉の命により十河存保を救うため,兵3000を率い小豆島より渡海.屋島城を攻め,長宗我部軍と戦うが,攻めきれず小豆島に退く
1583 4・- 仙石秀久,再度讃岐に入り2000余兵を率い,引田で長宗我部軍と戦う
1584 6・11 長宗我部勢,十河城を包囲し,十河存保逃亡する
1584 6・16 秀吉,十河城に兵粮米搬入のための船を用意するように,小西行長に命じる
 1585年 4・26 仙石秀久・尾藤知宣・宇喜多・黒田軍に属し、屋島に上陸,喜岡城・香西城などを攻略

引田 中世復元図
引田の中世復元図
「改選仙石家譜」には、入野と引田での合戦を次のように記します

秀久は、引田(大川郡引田町引田)の「与次山」(引田古城?)に急造の城を構え、軍監として森村吉を置いていた。田面山に陣取った長宗我部軍が虎丸城を疲弊させるために与田・入野の麦を刈り、早苗を掘り返し、引田浦に兵を出す動きを見せた。そこで秀久は、2千余りの兵を率いて待ち伏せした。思わぬ奇襲に狼狽した長宗我部軍は入野まで退いて防戦した。このときの戦いが入野合戦である。戦況は態勢を立て直した長宗我部軍の反撃に転じた。そのため秀久軍は引田の町に退き、古城に立て籠った。翌22日、長宗我部軍による包囲を脱した秀久軍は船を使って小豆島に逃れた。このときの合戦を引田合戦という。

 中世の引田は阿波との国境である大坂越の讃岐側の出入口で、人やモノの集まる所でした。
また、鳴門海峡を行き交う船は、この湊に入って潮待ちをしたので、瀬戸内海の海上交通上の重要な港であったことは以前にお話ししました。引田の地は東讃の陸上交通と海上交通とが結びつく要衝でした。当時の仙石秀久は淡路を本拠としていました。これは秀吉が仙石秀久に四国・九州平定に向けて、海軍力・輸送力の増強を行い、瀬戸内海制海権の確保を命じていた節があります。そのような視点で見ると、引田は海からの讃岐攻略の際には、重要戦略港でした。そのために足がかりとして引田に拠点を設けていたのでしょう。後にやってくる生駒氏なども、仙石秀久の動きを知っていますので、引田に最初の城を構えたようです。

 話が逸れましたので、長宗我部元親の動きにもどります。
入野において合戦が行われたのと同じ日の4月21日、元親の弟香宗我部親泰は、次のような書状を高野山僧の快春に出しています。
鳴門の木津城を落とし、阿波一国の平定を終えたこと、ついでは淡路へ攻め込む所存であること
(「香宗我部家伝證文」所収支書).
 秀吉が北陸平定を行っていたころ、元親もまた四国平定が最後の段階に差し掛かろうとしていたのです。越前北ノ庄で柴田勝家を滅ぼし、北陸平定を終えた秀吉は近江坂本城へ帰ってきます。その翌々日の5月13日、元親と仙石秀久の合戦結果を書状で知ります。秀吉は秀久に対し、備前・播州の海路や港の警固を命じるとともに元親討伐を下命しています。いよいよ秀吉と元親の軍事対決が始まります。

雨瀧山城 山頂主郭部1
雨滝城

土佐軍はこの時期に、讃岐の三好方の城を次々に落としていきます。
「翁嘔夜話城蹟抜書」によれば、5月に石田城が落城しています。安富氏の居城である雨滝城も家臣六車宗湛の降参により落城し、城主安富肥前守は小豆島へ退去します。小豆島は、秀吉側の讃岐攻略の戦略拠点として機能していたことは以前にお話ししました。
 このような勝利の中で長宗我部方についた讃岐武将への論功行賞が行われます。研究者が注目するのは、論功行賞を長宗我部元親ではなく香川氏が行っていることです。これは讃岐における軍事指揮権や支配権限を香川信景が元親からある程度、任されていたことがうかがえます。それを裏付けるのが、次の元親の書状です。
「敵数多被討捕之由 御勝利尤珍重候、天霧へも申入候 定而可被相加御人数」

意訳すると
敵を数く討ち捕らえることができ、勝利を手にしたのは珍重である。「天霧」へも知らせて人数を増やすように伝えた」

「天霧」とは、香川氏の居城天霧城のことでしょうか、あるいは戦場にいる香川信景自身を指しているのかもしれません。わざわざ天霧城へ連絡するのは、長宗我部氏にとって香川氏が重要な地位を占めていたことを示します。元親は次男親和(親政)を信景の養子として香川氏と婚姻関係を結んでいます。讃岐征服には、香川氏の力なくして成功しないという算段があったようで、香川氏との協力体制をとっています。そして「占領政策」として、香川氏の権限をある程度容認する方策をとったと研究者は考えているようです。
 長宗我部軍による包囲が続けられるなかで、虎丸城も年内には落城したようです。
12月4日の香宗我部耗泰書状(「土佐国壼簡集拾遺」所収文書)には「十河一城の儀」とあります。翌天正12年3月、秀吉は織田信長の二男信雄と対立し、美濃へ出陣します。そして、4月には秀吉は家康に尾張長久手の合戦で破れます。このような中で、長宗我部元親は織田信雄,徳川家康と結び、秀吉と対立します。信雄は3月20日の香宗我部親泰に宛てた書状で、淡路より出陣し摂州表へ討ち入るよう求めています。信雄・家康と連携して、秀吉を東西より挟撃することを考えていたことが分かります。一方、元親にとって秀吉は信長の後継者で、その家臣である仙石秀久とは、すでに入野・引田で一戦を交えた敵対勢力です。引田合戦後に、寒川郡の石田・雨滝両城を落とした元親は、その勢いに乗って山田郡十河城を攻撃します。そして5月になると、元親は三木郡平木に入り、みずから十河城攻めを指揮します。「南海通記」は、その様子を次のように記します。

十河城と云う。三方は深田の谷入にて、南方平野に向ひ大手門とす。土居五重に築て堀切ぬれば攻入るべき様もなし」

ここからは十河城が堅固な守りを備えていたことがうかがえます。しかし昨年来、付城によって海路からの食料の搬入を絶たれていた城内の軍兵は飢餓に陥っていたようです。窮まった三好政康は阿波岩倉城主長宗我部掃部助を通じて、元親に城を開けて降参することを申し出ます。再三にわたる懇願に元親も折れて、政康以下の城兵を屋島へ逃れさせたという(「元親一代記」)。

十河城がいつ落城したのか、その経緯について他史料で見ておきましょう。
①5月20日、元親は讃岐の武士漆原内匠頭に対し、十河合戦での軍功を賞しています。(「漆原系譜」所収文書)
②8月8日書状 徳川家康の部将本多正信が香宗我部親泰に宛てた書状(「香宗我部家伝證文」)には、親泰は、元親軍が十河城を包囲する前夜、政康は逃亡したことを伝えています。
③8月19日の織田信雄書には、親泰は6月11日付けの書状で十河城の落城を伝えています。
④6月16日、秀吉は小豆島の小西行長らに対し、十河城救援のための兵糧米の運送を備前衆と仙石秀久に命じたので警固船を出すよう命じています。が、遅きに失した(竹内文書)とあります。
以上の資料からは、5月下旬から6月初旬の間に十河城は落城していたことが推測できます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「田中健二 長宗我部元親の東讃侵攻と諸城主の動向   中世城郭分布調査報告430P」
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  戦国末期に聖通寺山周辺をめぐって起きた変動は、大きなものでした。平山・御供所の住人や聖通寺の僧侶からすれば、山の上の主が短期間で次のように交替したことになります。
「奈良氏 → 長宗我部元親 → 仙石秀久 → 尾藤知宜 → 生駒親正」

  このような中で聖通寺城も変化していったようです。今回は聖通寺城の城郭が、どのように造られたのか、そのプロセスを追っていきたいと思います。テキストは「坂出市史 中世編 第七章 戦国動乱 第五節 中世城館」です。
聖通寺山

聖通寺城跡は、坂出市と綾歌郡宇多津町にまたがる聖通寺山にあります。
東西約六600m、南北約1080mのほぼ全域にわたる山城で、県下最大級の城域を持っています。この城館跡は、南北朝時代の築城伝承がありますが、今の遺構は永正元(1504)年から大永元(1521)年にかけての奈良元吉から、天正15(1587)年に在城した生駒親正までの83年間の間に築城された城跡とされています。
聖通寺城 曲輪2

この城は北峰と中峰に分かれていますが、両峰の遺構には大きな差異があると坂出市史は次のように指摘します。
北峰と中峰の頂上部から尾根沿いにいくつかの階段状の曲輪跡があります。その中でも北峰の西側斜面は、小さなブロックに分割された曲輪跡が相当な密度で並びます。ここは居住空間跡でもあったようです。山上の城郭施設を、日常の生活空間としても使用するスタイルを「戦国期拠点城郭」と呼ぶそうです。これは織田信長の安土城を始まりとします。北峯はこの「戦国期拠点城郭」スタイルが採用されています。つまり、居住空間と防御施設が一体化した最新型の城郭スタイルが北峯の城郭には持ち込まれています。このスタイルを、持ち込んだのは誰なのでしょうか? それは、後で考えるとして、次に中峰を見てみましょう。
聖通寺城 曲輪

 北峯と中峯では建設者が異なると研究者は考えているようです。
聖通寺城山は、中峰が一番高いのですが、そこにあるのは小規模で簡易な施設です。曲輪の連なりや配置を見ると、中峰の城郭は南方向への防御を考えた造りになっています。ところが新しくやって来た主は、北方向への防御性に備えた城郭を北峯に新しく築き、全体を改造改築します。ここまでで、中峰の主が奈良氏であったことは分かります。それでは、新しい主とは誰なのでしょうか。私は安土城に始まる「戦国期拠点城郭」の採用と聞いて、すぐに生駒親正を考えました。ところがそうではないようです。
それを「聖通寺山には石垣がない」をキーワードに解いていくことにします。織豊政権のお城に石垣はつきものです。ところが聖通寺城は、戦国時代の終末期まで存続しながら石垣跡がありません。

聖通寺山 仙石秀久

 天正13(1585)年6月 秀吉は四国平定を果たし、長宗我部元親を土佐一国に閉じ込めます。他の三国へは四国平定に功績のあった武将達が論功行賞と封じられます。讃岐には秀吉子飼いの仙石秀久が統治者としてやってきます。彼は、聖通寺城に本拠地を置きます。しかし、それもわずかのことで、九州平定への出陣を命じられ翌年の天正14(1586)12月の豊後・戸次川の戦いの敗戦の責任を取らされ、讃岐から追放されます。仙石秀久の統治は1年余でした。このため聖通寺城には、仙石氏による改修の痕跡は全く認められないようです。それは、石垣跡がないことからも裏付けられます。彼が讃岐に残した記録は、徴税に反対する農民たちを、聖通寺山城で処刑したというくらいです。
大失態を犯し追放されたが、再び秀吉の信頼を得て乱世を生き抜いた男|三英傑に仕え「全国転勤」した武将とゆかりの城【仙石秀久編】 |  サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
洲本城 東の丸 仙石秀久が築いたとされる
 織田信長の安土城築城以後は、石垣を持つ城郭が急増します。
仙石秀久のような織田・豊臣政権の中枢で活躍した武将は、競って石垣のある城造りを目指します。仙石秀久が讃岐に来る前に城主であった淡路の洲本城跡には高い石垣が築かれていて、今も東の丸にその痕跡を見ることができます。しかし、聖通寺城からは石垣跡は、見つかっていません。 
 仙石秀久の支配が短期間でも、聖通寺城の改修に取り組んだとすれば、石垣の導入を考えたはずです。聖通寺山の南峰周辺の山中を歩くと、巨石の中に切り出し途中の痕跡が残るものもあります。しかし、城郭跡からは石垣の痕跡はないようです。仙石氏には、城の改修や増築補強を行う時間はなく、石垣普請も行われなかったとしておきましょう。

DSC08630
仙石秀久の墓(聖通寺境内 昭和40年建立)
 仙石秀久が追放された後の聖通寺城には、天正十五年一月に尾藤知宜が入城します。彼も九州平定戦の失態(根白坂の戦い)で4月には追放されます。そのため尾藤氏が聖通寺館跡に居城した痕跡はありません。
生駒親正ってどんな人?何をした人?【簡単な言葉でわかりやすく解説】 | でも、日本が好きだ。

 讃岐国の統治は、生駒親正に委ねられることになります。
親正には、入部当初は引田や聖通寺山などに拠点を探しながら、最終的に高松(野原)に落ち着いたとされます。その過程で、聖通寺城を本拠地とする考えもあったと伝えられます。しかし、調査からは、実際に聖通寺城に入城した形跡はないようです。
  以上から北峯に最新式の城郭を築いた候補者から、仙石秀久・尾藤知宜・生駒親正は消えます。残るのは長宗我部元親です。
聖通寺 岡豊城の石垣 長宗我部元親
長宗我部元親の居城 土佐・岡豊城の石垣

讃岐には、土佐の長宗我部元親の侵攻を受けて、多くの城が落とされ寺社が焼かれたと記録に残ります。
聖通寺 長宗我部元親の侵攻
坂出市史より

県の「中世城郭詳細分布調査」で明らかになったことのひとつが、長宗我部元親の攻撃を受けた館跡の多くが、それまでの城館よりも「大型化」し「進歩的な形態」をしているということです。私はこれを、土佐軍の侵攻に備えて、讃岐の武士団が自分の城館や山城を整備したためと最初は思っていました。ところがこれは長宗我部氏の占領後に、改修・強化された結果であると報告書は指摘します。つまり、土佐軍は懐柔・攻略した讃岐の城郭を、その後の秀吉軍の四国侵攻に備えて、改修・拡大し防御力を高めたということです。そこには今までの讃岐にはなかった工夫と手法が持ち込まれています。それを土佐的手法と研究者は呼んでいるようです。
  長宗我部氏によて城館が大型化したという根拠を押さえておきます。文献史料で土佐軍との攻防戦が行われた代表的な城郭を、坂出市史は次のように挙げます
①天霧城跡
②藤目城跡(観音寺市)
③櫛梨山城跡(元吉城・琴平町)
④西長尾城跡(丸亀市)
⑤勝賀城跡(高松市)
⑥上佐山城跡(同)
⑦鳥屋城跡(同)
⑧内場城跡(同)
⑨雨滝城跡(さぬき市)
⑩虎丸城跡(東かがわ市)等
このうち①天霧城跡は、曲輸跡群の分布範囲の総延長がおよそ1,2㎞におよぶ県NO1の規模です。その背景としては、長宗我部元親の次男親和と香川氏と間に養子縁組が行われ、両者の間に同盟関係が結ばれたことが考えられます。そのため本拠地の岡豊城(高知県南国市)で培われた土木技術が天霧城に導入され、土佐流に城郭が改修された結果が、この大型化に至つたと研究者は考えているようです。
また、西讃の押さえの城とされた西長尾城跡は、長宗我部氏の重臣の国吉甚左衛門が入り、大規模な改修工事が行われます。その際には、土佐スタイルの防御施設が設けらたことが発掘調査から明らかになっています。そして天正十(1582)年からの東讃遠征の際には、1、2万の軍勢集結の地となっています。それだけの人員を収容できる規模であったことが調査からも裏付けられています。

他の城館跡についても、長宗我部氏による攻城戦の伝承があり、土佐軍の占領と、その後の秀吉軍に対する防衛施設の強化という中で、改修・増築が行われ大型化がすすんだと研究者は考えているようです。再度確認しておきますが、土佐軍の信仰に備えて讃岐の武士たちが大型化を行ったのではないという点を押さえておきます。
もうひとつの指標は、石垣跡をもつ城館跡が現れることです。
高松城跡と丸亀城跡の石垣跡については、以前から知られていました。現在、石垣が確認されているのは引田城跡、雨滝城跡、勝賀城跡、天霧城跡、九十九山城跡(観音寺市)、獅子ケ鼻城跡(同)です。
引田城 - お城散歩
引旧城跡の石垣(野面積方式による石積で讃岐では最初?)
引旧城跡の石垣は讃岐の城館跡の中では初期のもので、生駒親正によって築かれた野面積様式であることが定説化しています。同じような野面積方式の石垣跡が雨滝城跡など、東讃の城館跡においても確認されています。これらの石垣跡についても、生駒親正による城郭網整備の痕跡と研究者は考えているようです。
「長宗我部元親」「石組み」という視点で、もう一度聖通寺城を見てみましょう
奈良氏によって中峰に、小規模で簡易な防御施設が建てられていたのを、長宗我部元親は、北方向からの秀吉軍に備えて改造改築したと坂出市史は記します。これは、先ほど見たように西長尾城や鷺の山城にも見られることです。土佐勢によって落城した後、瀬戸内海の北側の秀吉に向けた前線基地としてに改修された城館跡の事例のひとつのようです。しかし、聖通寺に石垣はありません。
聖通寺城 坂出の城郭
坂出市史より

ところが聖通寺山から2㎞北にある陸続きになった沙弥島の山城には、石垣跡があることが分かってきました。これをどう考えればいいのでしょうか?
讃岐で石垣跡がある城館跡は、引田城も丸亀城も生駒氏によって始められています。そのため石垣のある沙弥島城館跡も生駒氏によって築かれたものと、坂出市史は指摘します。
沙名島 石垣
沙弥島の城山跡の石垣跡
沙弥島の城山跡の石垣跡は、二重の帯曲輪跡の境界部分に残っています。自然石を野面積みした形で、大人の膝高程度の高さです。聖通寺城跡に石垣跡がないということと照らし合わせると、仙石秀久治世時代のものではなく、生駒氏による石垣導入の痕跡のようです。その位置づけを坂出市史は「讃岐国内の国境防衛の施設に位置付けることが適当」とします。だとすると聖通寺城跡のすぐ沖合に位置するので、沙弥島の城郭跡は「聖通寺城の沖合前線基地」という性格が考えられます。
その後の生駒氏は、西讃地域の支配拠点として丸亀を選び、亀山に新たな城の築城を始めます。そこには高い石垣が積まれていきます。そのため聖通寺城はうち捨てられることになります。つまり、聖通寺山には本格的な石垣を導入した城館跡は造られなかった、ただ前線基地である沙弥城山城跡には一部石垣が使われている、ということになるようです。
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聖通寺山・南峰山中の磐座
聖通寺山を歩いていて考えたこと(妄想)を記します。
聖通寺山の南峰の山中には、巨石がごろごろと転がり、磐座として信仰対象となっていた気配がします。かつての岩屋があった所には、今は朽ち果てようとしていますがお堂も建ち、周辺にはミニ八八箇所参りのお地蔵さんが参道に並びます。
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聖通寺の磐座と地蔵
最近までは、信者たちによるお勤めも行われていたようです。ここが修験者たちによる行場で、霊地であったことがうかがえます。聖通寺の奥の院だったと私は推察しています。

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 聖通寺は、この奥の院が源で、その下に開かれた古刹です。その歴史は宇多津が開ける前からあり、聖宝の学問寺と称しています。聖宝は、空海の弟に随って修行し、醍醐寺を開いた修験者です。聖宝は、この沖の島で生まれたとされ、その生誕の地をめぐって沙弥島と本島が争っていました。
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聖通寺の奥の院のお堂?
つまり「聖通寺 ー 沙弥島 ー 本島」は聖宝で結ばれます。さらに、その背後をたどると、児島の五流修験につながっていきます。五流修験は、自らを「新熊野」と称し、熊野修験の亡命者集団であるとします。彼らは、熊野水軍の瀬戸内海や西国への進出の案内人として布教エリアを拡大します。そのひとつが讃岐です。讃岐の海岸線には四国霊場の札所として、道隆寺・白峰寺・志度寺、さらには引田の古刹・与田寺や多度津の海岸寺が並びますが、これらの寺院は熊野信仰の影響色濃く受けています。これは海を越えてやって来た五流修験によって、もたらされたと私は考えています。
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聖通寺

 そういう色眼鏡で見ると坂出エリアでは「本島 → 沙弥島 → 聖通寺 → 金山権現 → 白峰寺」という小辺路ルートが五流修験によってひらかれていたという仮説が思い浮かんできます。

聖通寺 復元図
聖通寺を支えた信仰集団は、どこにいたのか?
 それが平山や御供所の「海民」たちだったのではないでしょうか。彼らは製塩や海上交易・漁業などで生計を立てる海民であったことは以前にお話ししました。その先祖は、沙弥島のナカンダ浜で塩を作り、船で交易を行っていたのかもしれません。それがいつしか北に突き出し聖通寺(半島)の先端部に住み着き、定着したとしておきます。御供所は以前にも触れたとおり、京都の崇徳院御影堂の寺領の一部となり、「海の荘園」として成長し、海産物加工や海上交易の拠点となります。平山も御供所と同じような道を進みます。ある意味、平山と御供所は一体化し、海の荘園で瀬戸内海交易の拠点でもあったと私は考えています。
 聖通寺山の麓にある平山も港町で交易湊がありました。
製塩 兵庫北関 讃岐船一覧
6番目に平山の名が見える
『兵庫北関入船納帳』に、その名前が出てくるので、かなりの規模の港町が形成されていたことが分かります。宇多津よりも沖合いに近い立地を活かして、広域的な沖乗り航路(宇多津・塩飽発の交易船)とを繋ぐ結節点としての役割を果たしていたようです。そのため宇多津と平山は、「連携」関係にあったようです。ふたつの港は自立していましたが、機能面では連動し相互補完的関係にあったようです。平山の集落は聖通寺山の西側にある
①砂堆2の背後に広がる現平山集落と重なる付近
②聖通寺山北西麓の現北浦集落と重なる付近
が想定できるようです。そして、平山や御供所の海民たちの信仰を集めたのが聖通寺なのではないか。その管理に当たっていたのが五流修験系の社僧であったと私は考えています。
以上をまとめておきます
①現在の聖通寺山に残る城郭遺跡の内で、中峰の城郭跡は奈良氏によるもので南向きの防御施設を持つ
②この城を占領した土佐軍は、海を越えて来襲する秀吉軍に備えるために、北峯に中心を移し、北向きに防備ラインを再整備した。
③土佐軍撤退後にやってきた仙石秀久・尾藤知宜は短期間の統治のために、改修・増築は行えなかった。
④生駒親正も宇多津に拠点を構えようとしたという記録はあるが、実際に築城工事にかかった痕跡はない。従って、この時期の織豊政権下の大名の城郭につきものの石垣がない。
⑤生駒氏は、石垣を持つ高松・丸亀・引田の城の同時建設を始める。それは、関ヶ原の戦い後の瀬戸内海における軍事緊張への対応策であり、家康の求めでもあった。
⑥その附属施設として、沙弥島には前線施設が置かれ、そこには石垣が用いられた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

1丸亀城3

天正十三年(1585)、豊臣秀吉が四国を統一した時からが近世の始まりといわれます。秀吉が讃岐国を託した仙石氏と尾藤氏は、両者とも九州遠征に失敗し、短期間で罷免されます。
その後に生駒親正が天正十五年(1587)8月10日に讃岐領主としてやってきます。戦乱で荒廃していた讃岐国は生駒家によって、立て直されていくことになります。まさに讃岐の近世は生駒家と共に幕開けると云ってもいいと思うのですが、後世の評価は今ひとつ高くありません。それは、次にやって来る松平頼重の影に隠されたという面があるのではないかと私は思っています。

 生駒親正は、まず東讃の引田にやって来て城作りを始めます。
しかし、引田はあまり東の方に寄り過ぎると考えたのでしょうか、短期間で放棄して次候補を物色します。さてどこに城を築こうかと考え、宇多津の聖通寺山は狭過ぎる、丸亀はちょっと西に寄り過ぎ、由良山は水が足りないなどと考え、最後に決めた所が野原庄、現在の高松城がある所に決めたようです。この辺りのことは以前にお話ししましたので省略します。野原庄での城作りは天正十六(1588)年から始まったとされますが、近年の発掘調査から本格的な築城は関ヶ原の戦い後になると研究者は考えているようです。
  南海通記は、高松城は着工2年後の1590年には完成したとありますが、お城が完成したことに触れている史料はありません。ここから高松城については
①誰が縄張り(計画)に関与したか、
②いつまで普請(建設工事)が続き、いつ完成したか、
の2点が不明なままです。文献史料がない中で、近年の発掘調査からいろいろなことが分かってきました。天守台の解体修理に伴う発掘調査からは、大規模な積み直しの痕跡が見られず、生駒時代の建設当初のままであることが分かってきました。建設年代はについては
「天守台内部に盛られた盛土層、石垣の裏側に詰められた栗石層から出土した土器・陶磁器は、肥前系陶器を一定量含んでおり、全体として高松城編年の様相(1600 ~ 10年代)の特徴をもっている」

と報告書は指摘します。つまり、入国して10 ~20年ほど立ってから天守台は建設されたと考古学的資料は示しているようです。織豊政権の城郭では、本丸や天守の建設が先に進められる例が(安土城・大坂城・肥前名護屋城・岡山城)が多いので、高松城全体の本格的な建設は、関ヶ原の戦い以後に行われた可能性が出てきたようです。そして、同じように発掘調査から引田城も関ヶ原以後に、本格的に整備されたようです。
次に丸亀城がいつ築城されたのかを見てみましょう
   丸亀は、慶長二年(1597)に城の築城にとりかかったと「讃羽綴遺録」・『南海通記』・「生駒記」などに書かれています。これが現在の「定説」のようです。
年表で当時の政治情勢をを見てみましょう。
1590年天正18 生駒親正,5000余人の軍勢を率い北条氏討伐に参陣
1591年天正19 9・24 豊臣秀吉,朝鮮出兵を命じる
1592年文禄1 12・8 生駒親正・一正父子,5500人を率いて朝鮮半島出兵
1594年文禄3 生駒親正,大坂に滞在.一正は再び朝鮮に出兵
1597年慶長2 2・21 生駒一正,2700人の兵を率い渡海し昌原に在陣する
   春   生駒親正,一正と計り,亀山に城を築き,丸亀城と名付ける

 しかし、年表を見れば分かる通りこの時期は、秀吉の朝鮮出兵の時期と重なっています。多くの兵士が長期に渡って朝鮮半島で戦っています。軍事遠征費に莫大な費用がかかっている上に、親正や一正父子も兵を率いて遠征し讃岐には不在なのです。この様な中で、丸亀に新城を築くゆとりがあったのでしょうか。それに高松城も、まだ姿を見えていません。
 築城が急がれる軍事的な背景や緊張関係も見つかりません。 秀吉没後の慶長3年8月18日(1598年9月18日)以後に、東西の緊張関係激化に対応して築城したというのなら理由もつきますが、・・・・。
関ヶ原の戦い前後の生駒藩の動きを年表で見ておきます
1598年慶長3年9月18日)秀吉没
1599年 生駒藩の検地が始まる〔慶長7年頃まで〕
1600年慶長5 6・- 生駒一正・正俊父子,上杉景勝討伐のため従軍
 7・- 生駒親正,豊臣秀頼の命により丹後国田辺城攻撃のため,
     騎馬30騎を参陣させる.
 8・25 生駒一正,岐阜城攻撃の手柄により,徳川家康より感状
 9・15 生駒一正,徳川軍の先鋒として関ヶ原の合戦に参戦する
 9・- 生駒親正,高野山で出家し家康に罪を謝る
1601年慶長6 生駒一正,家督をつぎ家康より讃岐17万1800石余を安堵
     生駒親正・一正父子,鵜足郡聖通寺山北麓の浦人280人を丸亀城下
     へ移住させる
1602年慶長7 生駒一正,丸亀城から高松城に移る.丸亀には城代をおく
1603年慶長8 2・13 生駒親正,高松で没する.78歳

弘憲寺(生駒親正夫妻 墓所)「香川県指定史跡」 香川県高松市 ...
生駒親正夫妻墓所(高松市弘憲寺)

  生駒家も真田家と同じように、父子がそれぞれ豊臣と徳川に別れて付いて、お家の存続を図っています。そのお陰で、一正は家康より讃岐国を安堵されます。そして、一正は丸亀城から高松城に移り、父に代わり正式に領主となります。
生駒一正 - Wikipedia
生駒一正

 この時に新領主となった一正に、家康が求めたこと何でしょうか。
それは、次の戦争に向けた瀬戸内海交易路の確保のための、海軍力増強と防備ラインの構築だったのではないでしょうか。周囲の姫路城や岡山城などの瀬戸内の城主は一斉に、水城の整備・増強を始めます。先ほど見たように発掘調査によっても高松城は、関ヶ原の戦い後に岡山城との同版瓦が使用されています。ともに、徳川時代になって作られているのです。姫路城には、強力な水軍基地があったことも分かってきました。この様な中で、生駒家は引田城の整備を行っています。丸亀に新城を築くとすれば、この環境下ではなかったかと私は考えています。ちなみに「讃羽綴遺録」では、丸亀城築城を関ヶ原の戦い後の、慶長7年としています。

生駒さんの丸亀城とは、どんな姿だったのでしょうか?
資料①「讃州丸亀城図」とある図面が生駒さんの丸亀城です。
1 丸亀城 生駒時代

 この絵図は、東京目黒の前田育徳会尊経閣文庫に所蔵されていたようです。「前田」と云えば、加賀百万石の前田家です。前田家の五代藩主前田綱紀が古今の書を広く収集し、それらの収集した書物を「尊経閣蔵書」といい、その文庫を「尊経庫」と呼んでいたようです。その中で、城絵図は有沢永貞という人が中心になって集めています。有沢は文武にすぐれていた金沢の藩士で、藩内にこの人に武芸を習わなかった者はいないとまでいわれていたようです。その人が絵図の収集にも精力的に動きました。そして、現在に伝わっています。

 丸亀城は亀山という山に築かれています。この山の岩質は輝石安山岩で、五色台や飯ノ山のと同じ系統の岩で、堅くて割れるとが非常に鋭い岩になります。
城図からは、次のような事を研究者は読み取っています。
①真ん中の黒く囲まれたのが郭一で、今でいえば本丸で、まん中に天守台があります
②図の左側が東で、天守台は入口が東向きにあり、今のお城と異なります。
③天守台を囲んだ郭一の南側から東側・北側にかけて二の郭が取り囲んでいます。
④さらに東側に郭があり、これが三の郭です。
⑤三の郭の南に続いて四の郭があります。四の丸は今はありません。
⑥二、三、四の郭があって、南西に大手門があります。
⑦三の郭の東北端と西北端から山麓へ石垣があり、北側の中腹くらいから平地になっており、ここが五の郭で、山下屋敷といわれた所です。
後に山崎さんによって、再築される丸亀城との比較は次回に行います。次に、お城ができた頃の丸亀城周辺は、どんな状態だったかを見ておきましょう。生駒藩お取りつぶし直前の寛永十七(1640)年「生駒高俊公御領讃州惣村高帳」を見てみましょう。
   鵜足郡
一 高百七袷貳石八斗八升      三浦
  高合 貳万貳千百六播八石四斗五升五合
 那珂郡
一 高四百六石八斗九升一合                  圓龜(丸亀)
一、高八百Ξ拾Ξ石四斗九升Ξ合    柞原
一 高八百三石八斗         田村
 鵜足郡の三浦は、予讃線の北側の西平山、北平山、御供所にあたる所です。ここで172石の米が取れたようです。そして圓龜(丸亀)には、406石余の土地があったと書かれています。今の丸亀の町は、お城周辺以外は、ほとんど田んぼだったということになりそうです。
 次の田村は現在の田村町で田村池周辺ですが、この村高が「八百三石八斗」とありますから、丸亀は、田村のほぼ半分くらの石高だったようです。
「讃岐国内五万石領之小物成」には「小物成」が記されています
小物成ですから雑税、米以外の税金になります。
  「銀子弐百拾五匁  圓龜村  但横町此銀二而諸役免許」

とあり、丸亀は215匁の銀を納め、これで横町は諸役を免除されていたことが分かります。また、
「米三石  圓亀村  但南条町上ノ町 此米二而諸役免許」
とあります。米三石を納めることで、南条町の上ノ町は諸役が免除されていたようです。それから「宇足郡之内」とある中に
一、干鯛(ほしたい)千枚  三浦運上
一 鰆之子百五拾腸     同所
とあります。三浦は先ほど見たように平山町や御供所のことです。ここからは干鯛と鰆の子が納められています。鰆の卵は、からすみにされて珍重されていたようです。江戸での贈答品にしたものでしょう。この地域が漁師町であったことがうかがえます。

亀山の小さな山の上に、お城が乗っていたのは、わずかの間でした。大坂夏の陣のあと軍事緊張がなくなると、幕府は一国一城令を出します。その結果、寛永初めころまでに丸亀城は廃城となったようです。
寛永4(1627)の8月に幕府隠密が讃岐を探索し、高松城と城下町の様子についての報告書が「讃岐探索書」として残っています。そこには高松城については、当時の状態が破損箇所も含めて詳細に絵図を付けて報告されています。しかし、丸亀城については、なにもありません。隠密にとって「報告価値なし」と判断したようです。関ヶ原の戦い後に、西国大名への備えとして作られた丸亀城は、ここに役割を終えたようです。
 ちなみに、この年の生駒藩の蔵入高は「9万4636石3斗4升,給知高12万63522石9斗8升」と報告されています。隠密は必要な情報を集めて、幕府に報告しています。ちゃんと仕事をしていたようです。
以上見てきたように、生駒さんは関ヶ原の戦い前後に、高松城と丸亀城と引田城を同時に建設しています。
丸亀城は1597年(慶長2)に建設に着手し、1602年(慶長7)に竣工したとされます。また引田城は、最近の調査により高松城・丸亀城と同じく総石垣の平山城であることが分かってきました。出土した軒平瓦の特徴から、慶長期に集中的な建設が行われていたようです。このことからこの時期になって、生駒氏は讃岐に対する領国支配の覚悟が固まったと見えます。信長・秀吉の時代は手柄を挙げ出世すると、領国移封も頻繁に行われていましたから讃岐が「終の棲家」とも思えなかったのかもしれません。讃岐への定住覚悟ができたのは関ヶ原後で、その時期から3つの城の工事が本格化したようです。
今回はここまでで、おつきあいいただき、ありがとうございました。

     
西嶋八兵衛60x1053
 
最初に 村治圓次郎の『西嶋八兵衛翁』で彼の略歴を見ておきましょう。
慶長元年(1596)遠州(静岡県)浜松で生まれた(八兵衛自身の由緒書などの史料には記載なし)幼名は之尤(ゆきまさ)で、八兵衛は通称です。木端の名を持ち、晩年は拙翁とも号する文人でもありました。
八兵衛の父は、西嶋九郎左衛門之光で、藤堂高虎に仕えていましたが、年老いたため浜松で隠居生活に入ったようです。
慶長17年(1612)、八兵衛が満16歳の時に、父は息子を高虎へ出仕させようと駿府(静岡市)に行き、家老藤堂古采女(采女元則)の斡旋で、父の跡を継ぐ形で高虎に仕え始めます。父子共に高虎の家臣となります。当時、家康は駿府を隠退の地として、江戸城から移っていました。藤堂高虎もそれに付き添うように、駿府に屋敷を設けていたようです。
生駒藩 藤堂高虎
藤堂高虎

八兵衛は、最初は高虎の右筆(近習役・記録役)として仕えたようです。
 関ヶ原の戦いや大坂の陣で高虎の傍らにあって、戦闘の記録を担当しています。達筆な筆跡の文書が伝わっています。同時に、高虎の身近に仕えて、次第にその信頼を得るようになっていったようです。
 主人の藤堂高虎は、秀吉の弟秀長に仕えていた頃から和歌山城・今治城を築き、次第に「築城の名人」と云われるようになり、家康の下では江戸城・丹波亀山城(京都府亀岡)・安濃津城(三重県津市)・伊賀上野城など数多くの城を築城しています。八兵衛もまた経験豊富な高虎の側に仕え、土木現場の実情や技術者集団に接する中で、築城や土木工事に関わる諸知識を身につけていったようです。
 元和5年(1619)、家康は、藤堂高虎に京都二条城の修築を命じます。
高虎は、この時に八兵衛に、その縄張り作成・設計の実務にあたらせます。八兵衛23歳の時のことです。翌年の元和6年(1620)には、夏の陣・冬の陣で焼け落ちた大坂城の修築にも当っています。当時の最高の規模・技術で競われた「天下普請」を経験を通じて、築城・土木技術者としての能力を高めていったようです。
天下泰平の時代がやって来ると、戦乱からの復興が政策者には求められるようになります。
それまで放置されてきた農業への資本投下がやっと行われるようになります。新田開発と用水の確保はセットで求められますから大規模な治水灌漑工事がどの藩でも行われるようになります。その際に「転用」されるのが築城技術です。石垣などは、堤などにもすぐに転用できます。
 大名の家臣でも民衆の生活と深く関わる『民政臣僚』と呼ばれる家臣団が現れます。その走りが藤堂藩で、八兵衛や山中為綱といった民政臣僚が活躍します。そのような系列に西嶋八兵衛も立つことになります。そんな八兵衛が、元和7年(1621)から寛永17年(1640)までの間、都合4回、通算で19年、讃岐に派遣されることになります。八兵衛が25歳から44歳の働き盛りの頃です。
藤堂高虎に仕える八兵衛が、どうして生駒藩に派遣(レンタル)されたのでしょうか。
生駒親正

生駒親正
  生駒家と藤堂家には、強い絆が結ばれていました。
藤堂高虎は仕えていた秀長(秀吉の弟)が亡くなり、その甥で養子の豊臣秀保も文禄4年(1595年)早世すると、高野山で出家して隠遁生活を送っていました。その将才を惜しんで「復職」の説得を行ったのが生駒親正です。これによって高虎は秀吉に仕え、伊予宇和島7万石の大名に「再就職」することができたのです。高虎は、親正に大きな恩を受けたことになります。
  これ以外にも生駒家と藤堂家は秀吉の子飼い大名という出身ながら、関ヶ原の戦い前後の大政治変動を巧みに泳ぎ抜けた経歴などに似通ったところがあります。そして、両藩共に外様ながら家康からも一目置かれる雄藩だったのです。特に藤堂高虎は、秀吉の弟の秀長の家老に任ぜられていましたが、処世にはなかなかの練達者で、秀吉の死後はぴったりと家康に密着し、外様大名の中では最も家康の気に入られる存在になっていきます。この変わり身のうまさを「風見鶏」とも揶揄されたりもするようです。

生駒騒動 関係図1
 生駒・藤堂家の関係は、その後もいろいろな形で婚姻関係が結ばれるようになります。三代目正敏には高虎の養女が嫁いできます。正俊は、藤堂高虎の娘を夫人としていたのです。生駒藩四代目として生まれてきた高俊は、藤堂高虎から見れば「孫」に当たります。両家は親戚で、強いパートナーシップをもつようになります。
そのような中で生駒藩に危機が訪れます。
三代目正俊が元和7年に36歳で亡くなるのです。正俊には、たった一人の男の子・小法師(高俊)がいましたがやっと11歳でした。当時の幕府は家光の「外様取りつぶし策」の全盛時代でした。幼年の藩主の場合には、責任ある統治が出来ないとの理由で大幅に領土を削られた例もありました。
 そこまで至らなくても幼年藩主の場合は、監督のために幕府から毎年国目付をつかわすことになっていました。その際には、歓迎儀式やなどで格式張った気づかいが求められます。どちらにしても生駒藩としては避けたいところです。
 何らかの不利益な措置が幕府によってとられるのではないかという危惧が、生駒藩内に漂いました。そんな中で藤堂高虎は生駒藩のために一肌脱ぎます。自らが生駒藩の幼い藩主(孫)の「後見人」となって、支えることを幕府に申し出ます。家康の信頼の厚かった藤堂高虎の申し出に幕臣達も動けなかったようです。こうして藤堂藩の家臣達が「客臣」(レンタル家臣)として送り込まれることになります。
西嶋八兵衛4
西嶋八兵衛
高虎が家中から選んで、諸事の目付として讃岐につかわしたのが西嶋八兵衛です。
 西嶋八兵衛は讃岐に4回派遣され、19年間を過ごしたようです。
 一番最初に西嶋八兵衛が讃岐にやって来たのは、正俊から高俊への領主交替という事務引継ぎの実務担当者とでした。そこで、高虎の下で鍛えられた事務処理能力を遺憾なく発揮して、煩雑な事務を処理し、きちんと高虎に報告します。
 その後、後見人である藤堂高虎の目付的な客臣が高松藩に派遣されることになります。その際に、高松藩側からは、この時の手腕や人柄を高く評価して、西嶋八兵衛の再度の来讃を求めたといいます。高虎も西嶋八兵衛は、子飼いの側近で信頼も厚い人物だったので異論はありません。こうして西嶋八兵衛の二回目の来讃が実現します。
 八兵衛の普請奉行としての二回目の来讃は、寛永二年(1625)のことです。
彼が30歳の時のことで、サラリーは500石で、三年間滞在となります。彼の屋敷は、城内には確保することが難しかったようで、当時の城下町最南端であった寺町のさらに南側に構えられました。今の四番丁小学校の西北角に当たります。幕末の「高松城下町屋敷割図」に、大本寺は「藤堂家家臣西嶋八兵衛某宅地趾」との注釈がつけられています。
生駒藩 西嶋八兵衛の元屋敷大本寺
大本寺には「藤堂家家臣西嶋八兵衛某宅地趾」と記されている
彼は日蓮宗の高僧、日省上人に帰依していたようで、屋敷跡に大本寺は建立されたと寺伝には記されています。四番丁小学校は、そのお寺の境内に明治に建てられます。
生駒 大本寺

ちなみに「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」には、西嶋八兵衛の屋敷が記されています。
生駒藩屋敷割り図3拡大図
その位置は、中堀に面する一番西側で重臣層と肩を並べるロケーションです。この屋敷割図が作られた時点では西嶋八兵衛がVIP待遇であったことが分かります。少し回り道をします
「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」には、製作年代が記されていません。
いつ作られたものなのかが分かりませんでした。そんな中で、この西嶋八兵衛の屋敷から作られた年代が明らかにされました。その過程を見ておきましょう。西嶋八兵衛は寛永2(1625)年から寛永16(1639)年まで生駒藩に仕えますが、元々の屋敷は寺町にあったこと、その後に大本寺は建立されたことが,大本寺の寺伝にあることは前述しました。大本寺の建立は「讃岐名勝図会』では、寛永15(1638)年,寺伝では寛永18(1641)年とあります。
 「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」をみると,寺町の西端の大本寺の所に「寺」と記されています。ここから大本寺は、この絵図が描かれたときには建立されていたことが分かります。また,西嶋八兵衛が生駒藩に仕えたのは寛永16(1639)年までですから大本寺は寛永16(1639)年以前に創建されたことになります。
 以上から大本寺の建立は『讃岐名勝図会』の説のとおり寛永15(1638)年で,それ以前に西嶋八兵衛屋敷は中堀と外堀の間に移ったようです。彼が生駒藩に仕えたのは寛永16年までなので,寛永15(1638)年から寛永16(1639)年の間に、この絵図は製作されたと研究者は考えています。
 八兵衛がやってきた寛永二年(1625)は、大変な年でした。
「寛永三年閏四月七日大雨あり爾後 雨なきこと九十五日、秋七月十五日に至る田毛皆枯死し民人飢餓に迫りて餓死する者多し」

ここには
「寛永3年(1626)4月、大風雨となり、その後、7月に至るまで雨がなく干ばつとなった。稲は枯死し、人々は飢餓に瀕した。」
とあります。年代順に並べると
寛永2年(1625) 秋に大地震 西嶋八兵衛が来讃
寛永3年 大暴風雨、次いで大干ばつ、三か月という長期日照りで作物全滅、餓死者発生
寛永4年 大地震、暴風雨による風水害、収穫皆無
寛永5年 満濃池再築に着手
と、自然の猛威が連続して襲いかかってきたことが分かります。。稲が実らず、五穀も残らず、百姓らの困苦は一方でなく、他国に逃散する者も出てくる始末です。藩の存亡の危機でもありました。首席家老の生駒将監は、必死に対応に努めたようです。
  このことは藤堂藩から来ている目付の西島八兵衛は、当然に高虎に報告します。それを受けて、高虎は家老の将監や生駒家の重臣らに、次のように指示します。
「今日第一の急務は、灌漑の便をよくし、百姓共を落ちつかせることである。ついては、目付として遣わしている西島八兵衛は、当地にいる頃郡奉行をつとめ、それらのことに巧者の者である故、家老らよく西島と心を合わせて事を運ぶよう」
 生駒家の重臣らは西島に、この指示書を見せて頼みこんだのではないでしょうか。高虎からの指示でもあり、生駒家の重臣らの頼みもあります。また、目の前の百姓らの困窮を視ているし、やれるという自信もあったのでしょう。西島は、
 「かしこまった。やってみましょう」
 と答えたのでしょう。そして、讃岐国内を巡って現地を見た上で、各地のため池と用水路の築造計画を立てます。
寛永3年(1626)4月地震・干ばつで生駒藩存続の危機的状況
寛永4年(1627年)西嶋八兵衛が生駒藩奉行に就任
1628年 山大寺池(三木町)築造、三谷池(三郎池、高松市)を改修。
1630年、岩瀬池、岩鍋池を改修。藤堂高虎死亡し、息子高次が後見人へ
1631年、満濃池の再築完了。
1635年、神内池を築く。
1637年、香東川の付替工事、流路跡地に栗林荘(栗林公園の前身)の築庭。高松東濱から新川まで堤防を築き、屋島、福岡、春日、木太新田を開墾。
1639年、一ノ谷池(観音寺市)が完成。生駒騒動の藩内抗争の中で伊勢国に帰郷。
なぜ短期間に、集中してこれだけの工事が行われたのでしょうか?
それは生駒藩が「自然災害による藩存亡の危機」という状況にあったからだと私は思っています。何もしないで座していたのでは、未来に希望を持てない百姓達は讃岐から「逃散」しています。その流れを食い止めるためにも、後見人の藤堂高虎が西嶋八兵衛にやらせろと命じてきたのです。
 危機の中で、未來に希望の持てる大土木工事を行うというのは、有能な政治家がとる方策です。その危機管理責任者に藤堂藩からレンタル派遣されていた西嶋八兵衛が就いたのです。そして、彼を危機感で団結した家臣団や百姓が担いだのだと私は思います。
 こうして、三谷三郎池(現高松市内)の嵩上げも行われ、続いて寛永5年には源平合戦の中で決壊放置されていた満濃池の修築にかかります。満濃池は400年以上、姿を消し、池の中は再開発され「池内村」が形成されていたのです。この再築については、以前触れましたので、ここでは省略します。
西嶋八兵衛 香東川
 八兵衛は多くのため池を作る一方、讃岐特有の天井川の改修にも尽くしています。
洪水を防ぐために香東川の堤防を付け替えたり、高松の春日新田の開発など、あらゆる方法で開田を進めます。香東川の付け替え、堤防づくりでは堤防に「大萬謨」の石碑を建てた伝えられます。大正時代の水害で河川敷きからこの石碑が出てきました。鑑定などの結果から八兵衛の直筆とされています。 
 満濃池築造のはじまった寛永4年に高俊は15歳になります。
生駒高俊 四代目Ikoma_Takatoshi
生駒高俊
藤堂高虎の子の高次が烏帽子親となって元服させ、一字を与ええて高俊と名乗らせます。そして、高虎は生駒家に対する幕府の覚えをよくするために、高俊と老中首席の土井利勝の女との婚約をとりもちます。後見人としての高虎の生駒家にたいする心づかいは、細やかです。
  若き藩主と幕府老中の娘との結婚が執り行われた年には各地で進めたため池が完成します。水源確保や暴れ川のルート変更などによって新田開発は一挙に進みます。この新田開発を推進したのが、生駒家に再雇用された讃岐侍たちであったことは前回お話ししました。開発した土地が知行地として認められたために、土着勢力は争って新田開発を行います。それが出来ない他国侍からの不満が生駒騒動の要因になっていくのです。
どちらにしても、この時点では生駒藩では太閤検地後の知行制から俸給制への切り替えがきちんと行われていなかったようです。武士達にはサラリーでなく知行地が与えられていることを示す史料が残っています。
生駒藩 西嶋八兵衛知行地
例えば上のグラフは、丸亀平野の苗田村(現琴平町)に知行地を持つ家臣団を示したものですが、西嶋八兵衛もこの村に知行地があったことが分かります。ちなみに西嶋八兵衛が讃岐を去る直前の知行高は1000石にまで加増されています。
生駒藩知行地2

西嶋八兵衛の進める灌漑・治水工事について、批判的な藩士もいたようです。
 「百姓は飢え疲れている七、無用な工事をおこして、民を虐げる」
 「農事の水利のことのみを目的としている故、国の要害はまるで失われてしまう」

1630年に藤堂高虎が江戸で亡くなります。
その前に西嶋八兵衛は、江戸に出向いて讃岐の状況を報告する一方、帰国願いを再度願いでたようです。高虎の後を継いだ高次は、このあたりのことを承知していたようです。しかし、生駒藩で重要ポストを占めるようになった西嶋八兵衛は、後見人である目付としては最適で、これに代わる人物はいません。
「八兵衛は帰りたがっているが、生駒家の様子を見ると、当分は西島がいて目を光らせていたほうがよさそうである」
と高次は考えたのではないでしょうか。
 ちなみに西嶋八兵衛が伊賀に帰ることが聞き届けられるのは、生駒騒動の勃発直前のことでした。「沈みゆく生駒丸」からの脱出だったのかもしれません
  高次は八兵衛に対して、改めて「讃岐国の用向き」を申しつけて、生駒藩に帰します。
これが西嶋八兵衛の3度目に来讃となります。その際に、生駒藩は五百石を加増し、併せて千石待遇としています。こうして、西島は五百石の加増を受けて、藤堂家からの目付として讃岐駐在をつづけることになります。覚悟を決めた西嶋八兵衛は、いよいよ満濃池再築に向けて動き出すのです。
 西嶋八兵衛のから目から見た当時の生駒藩の政策課題は何だったのか?
それはやはり「知行制からサラリー制へ」の移行、讃岐侍や有力農民による自由な開発に規制をかけること。つまりは家臣団と土地を切り離させること、藤堂藩の事例からそれが藩主権力の強化につながることを熟知していたはずです。そういう目で、生駒藩を見た場合に「危うい藩」と見えたはずです。ため池や治水は完成し、新田開発は行われて石高は増えていますが、それが領主の懐には入ってこないシステムが温存されているのです。これは時代に逆行した制度だったのです。それが保守派の動きで進まない生駒藩は「危うい」と思っていたはずです。
讃岐を去って伊賀に帰った後の西嶋八兵衛は?

西嶋八兵衛 伊賀市
 生駒騒動が始まる前に伊賀に帰ってきた八兵衛は、正保2年頃までの5年間ほどを妻子とともに津の妻の実家である藤堂仁右衛門高経(義兄)の下屋敷で過ごしていたとされています。
 この間に、生駒藩は取りつぶしとなり、松平藩への引渡し作業が行われます。その際に、高松城や讃岐のことを熟知する人物として彼に白羽の矢が当たり、上使案内役として讃岐入りします。これが4度目の来讃となります。この時に高松城や城下町、あるいは自分の屋敷跡をどのような思いで見つめたのでしょうか。心血を注いで立て直した生駒藩がなくなったことへの思いは、いかばかりであったことでしょうか。中国の文人達ならその思いを漢詩に託して詠んだことでしょう。しかし、西嶋八兵衛が四度目の来讃で残した俳句は伝わっていません。
正保2年(1645)、八兵衛は、藩主藤堂高次のもと1000石の江戸家老加判役となります
この頃、藤堂藩支配地の伊賀や伊勢でも大干ばつに襲われ、被害も甚大になって農村の疲弊が著しくなります。高虎の跡を継いだ2代目藩主高次は、農村部の復興を目指し、正保3年(1646)に江戸より帰国します。八兵衛も共に帰国し、伊賀でための新設29池、修理14池を行ったと伝えられます。さらに、翌年からは新田開発を始めます。
 その業績を受けて、慶安元年(1648)、52歳で、城和加判奉行に任ぜられました。
これはは大和・山城に広がる藤堂藩領約5万石の支配地を預かる奉行職です。一時、伊賀奉行も拝命したようですが、52歳の慶安元年(1648)から81歳の延宝5年(1677)の引退まで約29年間、城和奉行として執務します。引退して3年経った延宝8年(1680)3月20日、亡くなります。享年84歳。
 ここからは若い時代に藤堂高虎のもとで学んだ築城術を、讃岐の地でため池の築造に活かし、その経験を晩年には、故郷の伊賀の地に還元した姿が見えてきます。
西嶋八兵衛は文人でもあり、俳句や書にも秀でて流麗な筆致を残しています。
 彼の墓は伊賀上野市紺屋町の正崇寺にありますが、脇に正五位の贈位の碑が建っている。大正四年になって香川県の上申で叙位されたようです。ちなみに八兵衛を祭った神社は香川県にはありません。彼が神となって敬われることはなかったようです。ただ、津市高茶屋の水分神社だけです。彼のことが後の讃岐では忘れられた存在となっていたことが分かります。自分の親分の政治家の銅像を建てようとするのは近代に流行になりますが「讃岐の大恩人・西嶋八兵衛」の銅像が讃岐に建てられることはなかったようです。
 満濃池を作ったのは空海と云われますが、これは「空海伝説」です。史料的に、それを裏付けるものは現在の所ありません。研究者は「空海が造ったと云われる満濃池」という言い方をします。その意味では、現在の満濃池の直接の築造者は、西嶋八兵衛に求められると云っても過言ではないように思います。しかし「空海築造」は云われても、西嶋八兵衛による再築を語る人は少ないようです。
 「そんなものだよ歴史は・・・」と八兵衛は、つぶやいているかもしれません。

参考文献 合田學著 「生駒家家臣団覚書 大番組」

   

 

                    
前回は生駒騒動に関わる重臣達を見てきました。それでは、これらの重臣達がどのようなプロセスを経て党争の渦中に引き込まれて行くのかを見てみましょう。
生駒騒動 関係図1
11歳で即位した4代藩主の生駒高俊を取り巻く勢力関係を、確認しておきましょう。
①「後見役」の藤堂高虎・高次の生駒藩への影響・介入
②生駒一門衆(生駒左門・生駒帯刀・生駒隼人)の本家(藩主)の専制政治への牽制
③譜代家臣と地元採用の讃岐侍との土地開発をめぐる対立
④生駒一門衆と家臣重臣団との権力闘争
このような思惑が渦巻く中で、若き藩主高俊は20歳を越えると、1632年(寛永9)には家中の人事を刷新し、自らの意志で藩政を行う姿勢を見せ始めます。

生駒高俊 四代目Ikoma_Takatoshi
  4代目生駒高俊
しかし藩政の意志決定は、惣奉行と譜代の重臣である生駒一族(生駒左門・生駒将監・森出羽)からなる年寄であり、今までの経過から幕府と藤堂藩の意向が強く働く人たちでした。
 このため高俊がやったことは、彼らに変わる自前のブレーンを作って自分の意見を藩政に生かすことです。そのために江戸藩邸で前野助左衛門を重用し、国元(讃岐)の年寄・惣奉行とは別の重臣層を形成していきます。しかしこれは、一つの藩に、国元と江戸屋敷の二つの政策決定機関が生まれることになります。そして、これがお決まりのお家騒動へとつながる道とつながります。

生駒藩屋敷割り図3拡大図
生駒家の重臣達の屋敷配置
 このような四代目高俊と江戸家老・前野の動きは、「後見人」の藤堂高虎とその息子の高次にとっては想定外だったようです。
藩内の家臣団の対立を視て、後見人の藤堂高次は1634年(寛永11)に、高俊に対して家中のことは何事も年寄と相談して決めるように意見しています。また、同年に前野・石崎も年寄と相談の上でなければ高俊に会わないことを誓わされています。しかし、高俊=前野・石崎体制は次第に権勢を強め、この体制で藩政が取り仕切られていくようになります。そして、彼らは藩財政の根本的な転換に着手します。
つまり、知行問題です。
それまでの生駒藩は、家臣が藩から与えられた所領(知行地)を自ら経営して米などを徴収していました。以前にも紹介しましたが高松藩の出来事を記述した「小神野夜話」には
御家中も先代(生駒時代)は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,(松平家)御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」
とあり,
生駒時代は知行制が温存されため、高松城下に屋敷を持つ者が少なかったこと、
②松平家になって家中が大勢屋敷を構えるようになり、城の南に侍屋敷が広がったこと
など、太閤検地によって否定された「国人領主制」が温存され、知行制がおこなわていたようです。そのために生駒家の家臣団は、讃岐各地に自分の所領を持っていて、そこに屋敷を構えて生活している者が多かったと記されています。さらに、生駒家に新たにリクルートされた讃岐侍の中には、さかんに周辺開発を行い知行地を拡大する動きも各地で見られるようになります。
生駒氏国人領主
生駒氏は讃岐に入ってきた際に、旧守護代の香川氏や香西氏の家臣たちを数多く採用して、支配の円滑化を図りました。
 例えば三豊の三野氏は、天霧城の香川氏の下で、多数の作人を支配していた国人領主でした。しかし、秀吉時代になっての太閤検地によって、これはひっくり返されます。太閤検地、刀狩で、土地制度は、領有制から領知制に変わります。国人侍の所領と百姓は切り離され、その土地の所有権は耕作する百姓の手に移ります。
  しかし、三野孫之丞は、700石もの自分開(新田開発)を行っています。三野氏の一族の中には624石の新田を持っている侍もいます。この広大な新田を、三野氏はどのようにして開いたのでしょうか。どちらにしても、生駒藩では豊臣政権以降の太閤検地に伴う土地制度改革が徹底していなかったようです。この現実は、讃岐国人層出身の侍にとっては「新田開発の自由」です。しかし、他国より所領の百姓と切り離され移り住んだ侍たちには百姓を勝手に動員できないので、自分開などできません。
 そうした中で、先ほど述べたように寛永期に入ると若い藩主の後ろ盾に前野、石崎両家老が権力を握ります。
それまでの讃岐出身の奉行層(三野氏、尾池氏等)が更迭され、新たに他国組に政権が移ります。そして、土地制度に関する抜本的な政治改革が進められます。新政権についた彼らからすれば、地侍出身者のみが可能な新田開発、お手盛りの加増は、百姓層との関係を持たない他国出身の侍にとっては「不公平で反公益」的なもので、是正しようとするのは当然です。自分開の新田開発では収穫量が増えても、藩の収益とはなりません。藩の蔵入り増にはならず、財政収入増大にはつながりません。幕命による土木事業や江戸屋敷の経営等で苦しい生駒家の財政を救うことにはならないのです。
 新たに藩政の舵取りを担うことになった前野と石崎は、藩の事業として、百姓層を主体に新田開発(知行文書で新田悪所改分と記され、百姓層の所有に帰したもの)を行い、個人による「自分開」を制限します。これは、自由に新田開発を行い知行地を増やしてきた讃岐出身の侍(かつての国人領主)や生駒氏一門衆にとっては、自分たちの利益に反するものでした。
 彼らは、太閤検地以後も、自分の知行所の百姓を使って自分開を行てきたのです。藩の新田開発は、同じ開墾でも、主体と利益者が異なります。前野、石崎を始めとする新藩政担当者のねらいは、百姓を主体とし、その権限を強めるもので百姓を藩が直接支配するものです。そして、代官に年貢を徴収させて換金し、収入を得る方式に変えていきます。これは家臣のもっていた国人領主的な側面をなくして、サラリーマン化する方向にほかなりません。歴史教科書に出てくる「地方知行制から俸禄制へ」という道で、これが歴史の流れです。この流れの向こうに「近世の村」は出現するようです。
 これに対して、三野氏や山下氏など讃岐侍たちの描いていたプランは、自分たちがかつての国人領主のような立場になり、百姓層を中世の作人として使役するものです。つまり、時代の流れからすると「逆行」です。両者の間に決定的な利害対立が目に見える形で現れ、二者選択を迫るようになります。このような土地政策をめぐる対立が背後にあり、事件が起きます。

1637年(寛永14)に生駒藩の借財の肩代わりとして、前野派政権が石清尾山の松を江戸の材木屋が伐採したことを、生駒一門衆は取り上げて反撃を開始します。
その先兵となったのは、政権の座を奪われていた年寄・生駒将監の息子である生駒帯刀です。彼は江戸へ赴き、幕府老中土井利勝(高俊の義理の父)や藤堂高次などへ、前野らの所行を非難する訴えを提出します。
 この訴えに対する幕府の評議は長引き、翌年には、江戸家老の前野助左衛門が死去してしまします。このため幕府は、生駒帯刀に対して訴えを取り下げさせ、事態の収拾を図ろうとしました。この時点までは、幕府は生駒藩の存続を考えていたことが分かります。

一方、国元の讃岐では、助左衛門の息子の前野次太夫らと生駒帯刀らの対立は続いていました。
1640年(寛永17)には、前野次太夫・石崎若狭と生駒帯刀は「喧嘩両成敗」で藤堂藩に預けられることになりました。これに反発したのが前野派の家臣で、彼らのとった行動は過激でした。藩士と家族約4,000人が、5月に江戸と讃岐から立ち退くという形で「集団職場放棄」という抗議行動を起こします。この時に讃岐を去った家臣達を各大番組所属で分類したのが下のグラフになります。灰色が残留組、青色が讃岐退去組で、次のような事が云えます。
生駒騒動の残留藩士グラフ
生駒一門衆(生駒左門・生駒帯刀・生駒隼人)は、ほとんどが残留している。
讃岐退去者は石崎・前野・上坂組に多い。
これは、讃岐地侍衆を多く抱え、新田開発を進めていた生駒衆門派と、百姓達を使っての新田開発を行うことができない他国組(前野・石崎派)の対立の構図がうかがえます。
また、立ち退きの人数が家臣の約半数に達することは、藩主高俊=前野の政治路線に賛同していた家臣も多かったことが分かります。ここからは生駒記や講談ものに記されているような単純な「生駒帯刀忠臣説」「藩主無能説」は、成り立たないようです。
また、生駒帯刀の怖れていたことは、次の2点が考えられます。
①惣領家である藩主に権力が集中し既得権益が奪われること
②具体的には新田開発の禁止や知行制廃止
 戦国時代末期には、どんな小領主であっても所領をもつことが当たり前で、「一所懸命」こそが自らの拠りどころだった記憶が、当時の家臣達には、まだ残っていたはずです。その中で、太閤検地以後進められた武士のサラリーマン化は、堪え難いものだったのかもしれません。特に多くの知行地をもつ家臣ほど抵抗感は強かったでしょう。しかし藩主の側から見れば、これは権力専制化のため、近世の幕を開くためには避けて通れない道だったのかもしれません。
参考文献 合田學著 「生駒家家臣団覚書 大番組」

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生駒親正
 秀吉が四国に進攻し、長宗我部元親を土佐に封印して後の讃岐は短期間で何人か領主が交代します。その後、天正一五年(1587)8月に秀吉から生駒親正が讃岐を拝領してやってきます。これが讃岐の戦国時代の終わりとなるようです。そういう意味では生駒親正は、讃岐に近世をもたらせた人物と言えるのかもしれません。
まず親正のことについて簡単に見ておきましょう
 親正は美濃国土田の出で、はじめ織田信長に仕えていましたが、後に秀吉の配下に入り、讃岐にやって来る3年前に播磨国に二〇〇〇石を領し、二年後には播磨の赤穂に六万石を有する近世大名へと成長します。そして翌年には、対岸の讃岐領主になるのです。この急速な出生ぶりからは秀吉の期待と信頼がうかがわれます。
 讃岐に入封した親正は領内支配体制を固めるために、讃岐国内の有力な武将を家臣に取り立て家臣団を充実させます。また寺社にも白峯寺50石、一宮(田村)神社50石、善通寺誕生院28石、松尾寺金光院(金毘羅大権現)25石などの寄進・保護を行っています。さらに、大規模な治水灌漑事業を行い水田開発を積極的に行うなど、長く続いた戦乱の世を終わらせ民心を落ち着ける善政を行ったとされています。まさに戦乱から太平への転換を進めた人物として、もう少し評価されてもいいのではないかと個人的には思っています。
 しかし、政治家ですから善政ばかりで世が治まるわけではありません。反抗するものには、徹底した取り締まりを行っています。天正十七年に秋の年貢納入時期になっても山田郡の農民が年貢を納めなかったために、その首謀者を捕えて香川郡西浜村の浜辺で首を刎ねたという記録も残っています(「生駒記」)。
 ところで生駒親正が支配した讃岐の石高は、朱印状が残っていないのではっきりしません。慶長五年に、親正の子である一正は、徳川家康より23000石を加封され173000石を安堵されたようですから、引き算すると15万石ということになります。讃岐にやって来た親正は、最初から高松を拠点にしたのではありません。
最初に引田城、次に宇多津の聖通寺山城を築いています。
1引田城3
なぜ、引田城や聖通寺山城を捨てて、野原(高松)に新城を築いたのでしょうか? 
 生駒氏が最初に城を築いた引田について見ていましょう
引田は、古代から細長い砂堆の先に伸びる丘陵周辺が安定した地形を維持してきました。
HPTIMAGE.jpg引田
ここには『土佐物語』などの近世の軍記物から付近に船着場があったことが想定されているようです。その湊の港湾管理者としての役割を担っていたのが丘陵上にある誉田八幡神社のようです。砂埃の背後は塩田として開発されていたらしく、前面にははっきりした段差があり、その後は海側へと土地造成と町域の拡大が進められていきます。それは住民結合の単位としての「マチ」の領域、本町一~七丁目などとして今に痕跡を残しています。このように中世の引田の集落(マチ)の形成は、誉田八幡神社周辺を中心に、砂堆中央から根元方向に向けて進みますが大きな発展にはならなかったようです。

1引田城1
 引田城は、潟湖をはさんでこの誉田八幡神社に向かい合っています。つまり、引田城の築かれた現在の城山は、沖に浮かぶ島だったことを物語ります。つまり城とマチとは隔たった位置にあったのです。このように見ると、引田は瀬戸内海を睨んだ軍事拠点としては有効な機能をもつものの、豊臣大名の城下町建設地としてはかなり狭い線状都市であり、大幅な人工造成を行わなければ近世城下町に発展することはできなかった地形のようです。それが秀吉に讃岐一国を与えられ入国した生駒氏が、ここを拠点としなかった理由のひとつだと研究者は考えているようです。
1引田城2
 また讃岐東端の引田は、秀吉側が四国侵攻の足掛かりとした場所ですが位置的にも東に偏りすぎています。讃岐の中央部に拠点を置こうとするのは、政治家としては当然のことでしょう。
  ところで私は生駒氏の築城順を
①引田城 → ② 聖通寺山城 → ③ 丸亀城 → ④ 高松城 
と単純に考えていました。引田では東に偏りすぎているうえに城下町建設には狭いので、聖通寺山に移った。その際に、引田城は放棄されたと思ったのです。ところがそうではないようです。近年の引田城の発掘調査の教えるところでは、高松城と丸亀城と引田城は同時に建設が進行していたことが分かってきました。
丸亀城は1597年(慶長2)に建設に着手し、1602年(慶長7)に竣工したとされます。また引田城は、調査により高松城・丸亀城と同じく総石垣の平山城であることが分かりました。また出土した軒平瓦の特徴から、慶長期に集中的な建設が行われているのです。つまり、秀吉が亡くなり朝鮮出兵が終わると、この次期は次期政権をめぐっての駆け引きが風雲急を告げた時です。そのための臨戦態勢として、3つの城を同時に建設するということが行われていたことがうかがわれます。そういう意味では引田城は、この時点では軍事的には放棄された城ではなかったようです。ただ引田城は、城下町が作れないし、東に偏りすぎているということだったのでしょう。
  次に親正が築城を始めたのが聖通寺山です。
1聖通寺山城1
ここは中世は細川氏の守護所が置かれた場所で、歴史的には、新参者である生駒氏が城を築くにはふさわしい場所と言えます。
それでは聖通寺山城と宇多津の関係はどうでしょうか?

DSC03876
 宇多津の中世復元地形は、青ノ山・聖通寺山の麓まで大きく湾入する入江と、その奥部に注ぐ大束川河口部に形成された砂堆が広がります。青野山の山裾から集落が形成され始め、戦国期には砂堆上にも集落(マチ)が展開していたようです。砂堆の付け根に当たる伊勢町遺跡では、一三世紀後半~一六世紀の船着場(原初的な雁木)と思われる遺構が出ています。このような船着場がいくつか集まった集合体が「宇多津」の実態と研究者は考えているようです。その点では、一本の細い砂堆のみの引田と違っていて、どちらかというと香西や仁尾などの規模を持った港町であったようです。しかし、その領域は狭いうえに、宇多津と聖通寺山城は大束川で隔てられていて、引田と同じように城と城下町の一体性という点からは問題が残ります。
1聖通寺山城
また聖通寺山城は、現在は瀬戸大橋の橋脚の下となっていますが備讃海峡西側を押さえる要衝の地で、中世の守護所・宇多津に近い所です。前任者の仙石秀久は、年貢徴収に抵抗した領民を聖通寺城下で処刑しています。また、丸亀城下町の水主町・三浦(西平山町・北平山町・御供所町)は、聖通寺城下北側の平山や同東側の御供所の住民を移転させることによって成立したと伝えられます。もっと前まで遡れば、御供所に隣接する坂出・古浜の住民は、生駒氏とともに赤穂から移住してきた伝承をもつようです。ここからは生駒氏の城作りが瀬戸内の海上交通にアクセスする意図があったことがうかがわれます。
 しかし、聖通寺山城跡からは石垣が見つかりません。また城の縄張りから中世有数の港町・宇多津との一体性が感じられません。さらに宇多津は中世以来の寺社勢力が強い町でした。旧勢力の反発や協力が得られなかったのかもしれません。こうして聖通寺山城と周辺の近世城郭・城下町化は、不十分なままで終わったようです。
 しかも、引田から聖通寺にやって来て翌年1588年(天正16)には香東郡野原の地に高松城と城下を築いたと『南海通記』は記します。引田城の後、聖通寺山城・亀山(後の丸亀城)・由良山(現在の高松市由良町)と城の候補地を考えたが、結局高松築城に至ったとする説(『生駒記』など)もあります。
 どちらにしろ、3番目に着手した城が高松城になるようです。しかし、高松城の着工や完成時期についてはよく分からないことが多いようです。
高松城が着工された時期背景を見ておくことにしましょう 
1590年に、秀吉は関東・東北を制圧し、国内では未征服地がなくなりました。織豊政権は「領土拡大」を自転車操業で続けることによって「高度経済成長路線」を維持してきました。秀吉は、日本国内が「飽和状態」となったにも関わらず「内需拡大による低成長路線」への政策転換を行わず、朝鮮半島とその先の中国(明)に領土を求め「高度経済政策」を再現しようとします。1591年(天正19)に九州の諸大名を動員して、対馬海峡を目前にした肥前・名護屋に壮大な城(名護屋城)を築かせ、1598年(慶長3)まで、休戦をはさみつつ、朝鮮半島全域で軍事行動を展開します。生駒氏を含む四国の諸大名も「四国衆」として、この戦いに加わります。

1生駒親正 名護屋城maxresdefault
名護屋城の生駒親正陣屋跡
生駒氏は、文禄の役で5,500人、慶長の役で2,700人の兵を送り、親正と息子の一正も海を渡ります。
 また親正は、1594年(文禄3)から翌年にかけて、伏見城にいた秀吉に代わり大坂の留守を預かり、1595年(文禄4)7月15日に秀吉から5,000石を加増されています。この日は、秀吉が自らの後継者として関白に任じていた甥の秀次が、謀反の疑いで切腹させられた日です。文禄の役の休戦交渉から秀次事件という重要な時期に、生駒親正は秀吉と名護屋・朝鮮派遣軍との間をつなぐ場所にいたことになります。豊臣政権下で宇喜多秀家・蜂須賀家政などとともに、西国支配の要の役割を果たしてきた親正の位置付けがよく表れています。と同時に、秀吉が讃岐に生駒氏を配した背景に、西国支配の要としての思惑があったこともうかがわれます。豊臣政権下での親正の存在は決して小さくなかったことがここからは分かります。
 相次ぐ国内戦争の延長としての文禄・慶長の役は、豊臣大名たちの領国経営にとって、重い負担だったようです。それは生駒氏にとっても同様で、高松城下町の建設がなかなか進まなかった理由の一つとも考えられます。  
  しかし、秀吉亡き後の豊臣・徳川家の激突に備えて各勢力は臨戦態勢に入ります。そのために生駒氏も引田・高松・丸亀の3つの城郭の整備を同時に行うことになったことは先ほど述べたとおりです。
『南海通記』(享保三年〈1718〉成立)には引田・聖通寺山両城を含めた讃岐の城郭は、
「皆乱世ノ要害」であり、「治平ノ時ノ居城ノ地」である「平陸ノ地」を求めて野原に新城高松城と城下町を建設するに至った
と記します。ここで研究者が注目しているのは、「新たな領国経営の拠点として平城を意識し、生駒氏自身が山城(聖通寺山城)を下りている点」で、秀吉の「山城停止令」との関連がうかがわれるようです。
 『南海通記』は、一次史料ではなく後世に讃岐綾氏の後継を自認する香西成資が香西氏顕彰のためにかいた歴史書という性格があり、内容については信憑性が疑われるところが多々あります。しかし同時に、この史料しかないという事情もありますので、注意しながら頼らざるえません。

 野原(現高松)は安定した二㎞四方の海浜部地形がありました。
DSC03819
 そこに野原中黒里・浜村・西浜・天満里・中ノ村などの集落が分立していました。そして、それぞれが次のような3つのエリアに機能的に分かれていました。
①国人領主・香西氏配下の小領主と地域紐帯を強める伝統的な寺社が押さえたエリア(中ノ村)、
②讃岐国外に開かれた情報センターとしての寺院と流通管掌者が押さえたエリア(中黒里)、
③紺屋・鍛冶屋などの職人や漁労集団などが集住するエリア(浜村)、
 交易の前線としての海浜部(港湾)に近接していたのは②・③であり、①は現在の栗林町あたりで少し内陸部にありました。

DSC03821十三世紀の野原復元図
 また、高松地区で行われた40地点近い発掘では、1650年より前の遺構は、整地された痕跡がなく、盛土などの人工造成を行わずに中世野原の地面に、そのまま城下町の建設を行うことが出来たようです。これも有利な条件の一つだったでしょう。
 以上から、引田・宇多津は城下町建設地としては狭く、町も中世的な住民結合が強く残っていて、新しくやって来た生駒氏にとっては「邪魔になる存在=解体すべき対象」と見えたのかもしれません。生駒氏は、野原の広大な地形と「ニュートラル」な地域構造に、城下町建設の夢を託したとしておきましょう。
DSC03843高松をめぐる交通路
 一方、慶長二年に西讃岐統治と備讃瀬戸へのにらみをきかせるために親正は那珂郡津森庄亀山に丸亀城を築きます。そして、この丸亀城には子一正が居城することになります。
1丸亀城
 秀吉の没後、徳川家康が勢力を強めます。会津の上杉景勝を討つため家康は慶長五年六月に大坂を出発しますが、これには生駒一正が従軍していました。こうして、九月の関ヶ原の合戦では父の親正は豊臣秀吉恩顧の大名として石田方につき、子の一正は家康方について戦うことになります
一正は関ヶ原の合戦で徳川方の先鋒として活躍し、家臣三野四郎左衛門が活躍します。これにより生駒藩は所領没収を免がれ、一正に讃岐171800石余が安堵されました。こうして生駒家は豊臣系の外様大名でありながら、関ヶ原の合戦を乗り切り近世大名としで存続する道が開けたのです。
 慶長十三年九月に生駒一正は妻子を江戸屋敷へ住まわせたことにより、普請役を半分免除されています。これが参勤交代制の始まりになりますが、その際に率先して行うことで一正は家康への忠誠の証を示しています。
 大坂夏の陣の後に、一正は藩主となって丸亀城から高松城に入ります。丸亀城には重職の奉行・佐藤掃部を城代としておきます。一正死後に藩主となった正俊は、丸亀城下の一部の町人を高松城下へ移住させ、その地は丸亀町と呼ばれるようになります。そして丸亀城は元和元年の一国一城令により廃城となります。

以上をまとめると
①生駒親正が讃岐にやってきて最初に築城にとりかかったのは引田城であった
②ついで宇多津の聖通寺山に移り、
③1年後の1588年には高松城の築城にとりかかった。
④最終的に高松城が選ばれたのは、香川中央部の「古・高松湾」に面し、背後の後背地もひろく、城下町形成に適した空間が確保できたことが考えられる。
⑤しかし、当時は朝鮮出兵などの大規模軍事行動が続いていいたために高松城築城はあまり進まなかった。
⑥それが急速に進むのは秀吉死後の関ヶ原の戦いに向けての政治情勢にある。
⑦この時期の生駒藩は、高松城築城と平行して引田城・丸亀城の3つの城を同時に築城していた
⑧家康についた一正は、丸亀城から高松城に移り、高松城を拠点にする。以後、城下町建設も軌道に乗り始める
        参考文献    高松城下町の成立過程と構成
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