瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:生駒騒動

                    
前回は生駒騒動に関わる重臣達を見てきました。それでは、これらの重臣達がどのようなプロセスを経て党争の渦中に引き込まれて行くのかを見てみましょう。
生駒騒動 関係図1
11歳で即位した4代藩主の生駒高俊を取り巻く勢力関係を、確認しておきましょう。
①「後見役」の藤堂高虎・高次の生駒藩への影響・介入
②生駒一門衆(生駒左門・生駒帯刀・生駒隼人)の本家(藩主)の専制政治への牽制
③譜代家臣と地元採用の讃岐侍との土地開発をめぐる対立
④生駒一門衆と家臣重臣団との権力闘争
このような思惑が渦巻く中で、若き藩主高俊は20歳を越えると、1632年(寛永9)には家中の人事を刷新し、自らの意志で藩政を行う姿勢を見せ始めます。

生駒高俊 四代目Ikoma_Takatoshi
  4代目生駒高俊
しかし藩政の意志決定は、惣奉行と譜代の重臣である生駒一族(生駒左門・生駒将監・森出羽)からなる年寄であり、今までの経過から幕府と藤堂藩の意向が強く働く人たちでした。
 このため高俊がやったことは、彼らに変わる自前のブレーンを作って自分の意見を藩政に生かすことです。そのために江戸藩邸で前野助左衛門を重用し、国元(讃岐)の年寄・惣奉行とは別の重臣層を形成していきます。しかしこれは、一つの藩に、国元と江戸屋敷の二つの政策決定機関が生まれることになります。そして、これがお決まりのお家騒動へとつながる道とつながります。
 このような四代目高俊と江戸家老・前野の動きは、「後見人」の藤堂高虎とその息子の高次にとっては想定外だったようです。
藩内の家臣団の対立を視て、後見人の藤堂高次は1634年(寛永11)に、高俊に対して家中のことは何事も年寄と相談して決めるように意見しています。また、同年に前野・石崎も年寄と相談の上でなければ高俊に会わないことを誓わされています。しかし、高俊=前野・石崎体制は次第に権勢を強め、この体制で藩政が取り仕切られていくようになります。そして、彼らは藩財政の根本的な転換に着手します。
つまり、知行問題です。
それまでの生駒藩は、家臣が藩から与えられた所領(知行地)を自ら経営して米などを徴収していました。以前にも紹介しましたが高松藩の出来事を記述した「小神野夜話」には次のように記します。

御家中も先代(生駒時代)は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,(松平家)御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」

ここからは次のような事が読み取れます。
生駒時代は知行制が温存されため、高松城下に屋敷を持つ者が少なかったこと、
②松平家になって家中が大勢屋敷を構えるようになり、城の南に侍屋敷が広がったこと
など、太閤検地によって否定された「国人領主制」が温存され、知行制がおこなわていたようです。そのために生駒家の家臣団は、讃岐各地に自分の所領を持っていて、そこに屋敷を構えて生活している者が多かったと記されています。さらに、生駒家に新たにリクルートされた讃岐侍の中には、さかんに周辺開発を行い知行地を拡大する動きも各地で見られるようになります。
生駒氏国人領主
生駒氏は讃岐に入ってきた際に、旧守護代の香川氏や香西氏の家臣たちを数多く採用して、支配の円滑化を図りました。
 例えば三豊の三野氏は、天霧城の香川氏の下で、多数の作人を支配していた国人領主でした。しかし、秀吉時代になっての太閤検地によって、これはひっくり返されます。太閤検地、刀狩で、土地制度は、領有制から領知制に変わります。国人侍の所領と百姓は切り離され、その土地の所有権は耕作する百姓の手に移ります。
  しかし、三野孫之丞は、700石もの自分開(新田開発)を行っています。三野氏の一族の中には624石の新田を持っている侍もいます。この広大な新田を、三野氏はどのようにして開いたのでしょうか。どちらにしても、生駒藩では豊臣政権以降の太閤検地に伴う土地制度改革が徹底していなかったようです。この現実は、讃岐国人層出身の侍にとっては「新田開発の自由」です。しかし、他国より所領の百姓と切り離され移り住んだ侍たちには百姓を勝手に動員できないので、自分開などできません。
 そうした中で、先ほど述べたように寛永期に入ると若い藩主の後ろ盾に前野、石崎両家老が権力を握ります。
それまでの讃岐出身の奉行層(三野氏、尾池氏等)が更迭され、新たに他国組に政権が移ります。そして、土地制度に関する抜本的な政治改革が進められます。新政権についた彼らからすれば、地侍出身者のみが可能な新田開発、お手盛りの加増は、百姓層との関係を持たない他国出身の侍にとっては「不公平で反公益」的なもので、是正しようとするのは当然です。自分開の新田開発では収穫量が増えても、藩の収益とはなりません。藩の蔵入り増にはならず、財政収入増大にはつながりません。幕命による土木事業や江戸屋敷の経営等で苦しい生駒家の財政を救うことにはならないのです。
 新たに藩政の舵取りを担うことになった前野と石崎は、藩の事業として、百姓層を主体に新田開発(知行文書で新田悪所改分と記され、百姓層の所有に帰したもの)を行い、個人による「自分開」を制限します。これは、自由に新田開発を行い知行地を増やしてきた讃岐出身の侍(かつての国人領主)や生駒氏一門衆にとっては、自分たちの利益に反するものでした。
 彼らは、太閤検地以後も、自分の知行所の百姓を使って自分開を行てきたのです。藩の新田開発は、同じ開墾でも、主体と利益者が異なります。前野、石崎を始めとする新藩政担当者のねらいは、百姓を主体とし、その権限を強めるもので百姓を藩が直接支配するものです。そして、代官に年貢を徴収させて換金し、収入を得る方式に変えていきます。これは家臣のもっていた国人領主的な側面をなくして、サラリーマン化する方向にほかなりません。歴史教科書に出てくる「地方知行制から俸禄制へ」という道で、これが歴史の流れです。この流れの向こうに「近世の村」は出現するようです。
 これに対して、三野氏や山下氏など讃岐侍たちの描いていたプランは、自分たちがかつての国人領主のような立場になり、百姓層を中世の作人として使役するものです。つまり、時代の流れからすると「逆行」です。両者の間に決定的な利害対立が目に見える形で現れ、二者選択を迫るようになります。このような土地政策をめぐる対立が背後にあり、事件が起きます。

1637年(寛永14)に生駒藩の借財の肩代わりとして、前野派政権が石清尾山の松を江戸の材木屋が伐採したことを、生駒一門衆は取り上げて反撃を開始します。
その先兵となったのは、政権の座を奪われていた年寄・生駒将監の息子である生駒帯刀です。彼は江戸へ赴き、幕府老中土井利勝(高俊の義理の父)や藤堂高次などへ、前野らの所行を非難する訴えを提出します。
 この訴えに対する幕府の評議は長引き、翌年には、江戸家老の前野助左衛門が死去してしまします。このため幕府は、生駒帯刀に対して訴えを取り下げさせ、事態の収拾を図ろうとしました。この時点までは、幕府は生駒藩の存続を考えていたことが分かります。

一方、国元の讃岐では、助左衛門の息子の前野次太夫らと生駒帯刀らの対立は続いていました。
1640年(寛永17)には、前野次太夫・石崎若狭と生駒帯刀は「喧嘩両成敗」で藤堂藩に預けられることになりました。これに反発したのが前野派の家臣で、彼らのとった行動は過激でした。藩士と家族約4,000人が、5月に江戸と讃岐から立ち退くという形で「集団職場放棄」という抗議行動を起こします。この時に讃岐を去った家臣達を各大番組所属で分類すると次のようになります。
事が読み取れます。したのが下のグラフになります。灰色が残留組、青色が讃岐退去組で、次のような事が云えます。
生駒一門衆(生駒左門・生駒帯刀・生駒隼人)は、ほとんどが残留している。
讃岐退去者は石崎・前野・上坂組に多い。
これは、讃岐地侍衆を多く抱え、新田開発を進めていた生駒衆門派と、百姓達を使っての新田開発を行うことができない他国組(前野・石崎派)の対立の構図がうかがえます。また、立ち退きの人数が家臣の約半数に達することは、藩主高俊=前野の政治路線に賛同していた家臣も多かったことが分かります。ここからは生駒記や講談ものに記されているような単純な「生駒帯刀忠臣説」「藩主無能説」は、成り立たないようです。
また、生駒帯刀の怖れていたことは、次の2点が考えられます。
①惣領家である藩主に権力が集中し既得権益が奪われること
②具体的には新田開発の禁止や知行制廃止
 戦国時代末期には、どんな小領主であっても所領をもつことが当たり前で、「一所懸命」こそが自らの拠りどころだった記憶が、当時の家臣達には、まだ残っていたはずです。その中で、太閤検地以後進められた武士のサラリーマン化は、堪え難いものだったのかもしれません。特に多くの知行地をもつ家臣ほど抵抗感は強かったでしょう。しかし藩主の側から見れば、これは権力専制化のため、近世の幕を開くためには避けて通れない道だったのかもしれません。
参考文献 合田學著 「生駒家家臣団覚書 大番組」

           
生駒氏による高松城築城の「通説」ストーリーは?
1587年(天正15)、豊臣秀吉の命により、播磨赤穂6万石の領主・生駒親正が讃岐国主に任じられます。親正は、まず引田城に入り、次いで宇多津の聖通寺山城(平山城)に移り、翌1588年(天正16)に香東郡野原の地に高松城と城下を築いた(『南海通記』)。引田城の後、聖通寺山城・亀山(後の丸亀城)・由良山(現在の高松市由良町)と城の候補地を考えたが、結局高松築城に至ったとする説(『生駒記』など)が従来語られてきたストーリーのようです。
 それでは生駒氏の高松城は、いつ完成したのでしょうか?
南海通記は、着工2年後の1590年には完成したとしますが、お城が完成したことに触れている史料はありません。ここから高松城については
①誰が縄張り(計画)に関与したか、
②いつまで普請(建設工事)が続き、いつ完成したか、
の2点が不明なままのようです。
 また、生駒時代の高松城を描いた絵図は、1627年(寛永4)に幕府隠密が高松城を見分して記した「高松城図」(「讃岐伊予土佐阿波探索書」所収)以後のものしか知られていません。そのため完成当初の高松城・城下町がどのような景観だったかについても、よく分かっていないというのが実情のようです。
 文献史料がない中で、近年の発掘調査からいろいろなことが分かってきました。
例えば天守台の解体修理に伴う発掘調査からは大規模な積み直しの痕跡が見られず、生駒時代の建設当初のままであることが分かってきました。建設年代はについては
「天守台内部に盛られた盛土層、石垣の裏側に詰められた栗石層から出土した土器・陶磁器は、肥前系陶器を一定量含んでおり、全体として高松城編年の様相(1600 ~ 10年代)の特徴をもっている」

と指摘しています。つまり、入国した1588年(天正16)から10 ~20年ほど立ってから天守台は建設されたようです。
 織豊政権の城郭では、本丸や天守の建設が先に進められる例が(安土城・大坂城・肥前名護屋城・岡山城)が多いので、高松城全体の本格的な建設は関ヶ原の戦い以後の慶長期(1596 ~ 1615年)に行われた可能性が出てきたようです。
1) 上級家臣が屋敷を構える外曲輪では、
ここからは屋敷内や街路にゴミ穴(土坑)が掘られて土器・陶磁器・木器が廃棄されていました。ゴミ穴を年代毎に見てみると外曲輪での日常的なゴミ処理が、1588 ~ 1600年頃には極めて少なく、生活感の希薄な状況であると指摘されています。また屋敷地の区画施設(溝や塀)にも1588 ~ 1600年まで遡るものは、現在までの発掘ではありません。
しかも1630 ~ 40年代までは、それぞれの屋敷地に個別に区画溝が巡らされていて、中世的な屋敷の景観が読み取れるといいます。「高松城下図屏風」に描かれたような、塀(板塀・土塀)や長屋門をもつ区画施設は、1640 ~ 50年代になってようやく現れるようです。つまり、私たちが見なれた「高松城下図屏」と生駒時代のお城や街並みは大きく違うようです。特に家臣団屋敷の景観も相当大きく変化したことがうかがえます。
岡山城と高松城に瓦を供給した「瓦工場」
16世紀末葉~17世紀初頭における高松城跡出土瓦を、時代ごとに分類すると次のようになります。
Ⅰ期 1588 ~ 90年代前半(天正16 ~文禄期)頃。
在地系の瓦主体。まだ瓦の量自体が少なく、中世的で丁寧な製作技法が見られる。
Ⅱ-1期   1590年代後半(慶長1~5年)頃。
在地系の系譜(瓦工集団)で集中的な生産に伴う粗雑化が進む。姫路系の直接的な影響の可能性をもつ系譜も出現する。
Ⅱ-2期   1600年代前半(慶長5~ 10年)頃。
岡山城跡と同笵・同文関係にある軒平瓦の系譜(三葉文系)が普遍化し、瓦の量が急増する。胎土・焼成ともに、近世的な特徴をもつようになる。
Ⅲ期  1600年代後半~ 10年代(慶長11 ~元和6)頃。それ以降も含むか。岡山城跡との同笵・同文関係は継続。
ここでも城・城下の建設の進展を窺わせる瓦の大量供給は、Ⅱ-2期~Ⅲ期(慶長期)になってからのようです。そして大量に出てくるのは、岡山城との同笵・同文瓦の瓦なのです。
これをどう考えたらいいのでしょうか?
 同時進行で建設されていた高松城と岡山城に瓦を供給した「瓦工場」がどこかにあったようです。
「高松での大量供給段階でも岡山城の大規模な普請は継続していることから、現状では岡山からの搬入の可能性の方に妥当性がある。」
と研究者は考えているようです。
  岡山では1590年代(文禄・慶長初期)に瓦の大量生産・供給の最初のピークがあります。一方高松への大量供給はこれに遅れていますので、岡山城での普請が先行すると考えられます。
 岡山城主・宇喜多秀家は信長政権下での中国攻め以来、秀吉と深い関わりがあり、1585年(天正13)には秀吉の養子として元服しています。その後は豊臣政権の中で重用され、文禄の役では総大将を務め、五大老に名を連ねます。岡山城建設の最初のピークは、豊臣政権における秀家の台頭と軌を一にしているようです。
 阿波の蜂須賀氏に対して、どこに城を築くかについては秀吉からの指示があったといいます。天下を握ったばかりの秀吉は、西国の最前線は備讃瀬戸あたりで、この地域での政治的中心地の建設にあたり
「まず岡山城、次に高松城を造る」
という意向があったことは充分に考えられます。その岡山城建設に必要な瓦工場も宇喜多家の管理下に建設操業を始めます。そして、関ヶ原の戦い以後に遅れて高松城築城を開始した生駒家へも瓦を提供することになったという筋書きが描けそうです。
築城に当たっての寺院への対応は?
  西浜で真行寺に隣接して境内があった無量寿院は、戦国期には野原中黒(高松城中心部周辺)に存在したことが「さぬきの道者一円日記」(1565年、永禄8)から分かり、発掘調査により西ノ丸がその旧境内地と特定されました。出土瓦などから
「少なくとも17世紀以降に無量寿院が[西浜へ]移転したものと考えておきたい」
と報告書は記します。
   「高松城下図屏風」等には、外堀に面した片原町に愛行院の境内が描かれています。愛行院は、中世野原から継続する華下天満宮(中黒天満宮)の別当寺で、城下における山伏の統括を行う役割が与えられていました。中世の境内の位置は分かりませんが、絵図にある境内地の周辺にあったと考えられ、城下に組み込まれた形になったようです。
丸亀町の性格は?
大手筋の丸亀町は1610年(慶長15)に生駒藩3代当主正俊の時に、丸亀城下町の商人を移住させて成立したと伝えられます(『南海通記』巻廿下)。城下の中心市街地に立地する丸亀町は城内にあり「高松城下図屏風」での町家の描写からも最も格式の高い町人地であったことが分かります。つまり、丸亀町は城下の整備・拡大に伴い新たに新設された、いわば後発的な中心市街地という性格をもつようです。
城下町の発展
  「高松城下図屏風」は1640 ~ 50年代の景観を描いていると言われます。この屏風からは、南側の寺町を超えて城下が拡大している様子がうかがわれます。寺町の外側(南側)には水路が描かれていますが、その一部は馬場として埋め立てられています。本来は外堀に匹敵する幅をもっていたようです。この水路の内側(北側)に寺町が連続していて、町人地の南大手筋ではこの水路より内側が丸亀町、外側が南新町となっています。ここからも各町の成立年代が違うことが読み取れます。
  こうした水路の存在は何を示すのでしょうか?
  研究者は「城下全体を囲む堀=惣構が存在した」と考えているようようです。その完成は、丸亀町成立の1610年(慶長15)から「讃岐探索書」で「南ニ四筋アリ」(水路以北の範囲に相当)と記された1627年(寛永4)の間で、おそらくは元和の一国一城令(1615年)までに求められるようです。
生駒藩の知行地と自立した家臣団
 「生駒家廃乱記附録」には、4代高俊の治世(1630年代)のこととして
「壱岐守殿御家中大形[方]在郷、時々用事之有る節高松へ罷り出候に付、屋敷小分之由」
とあります。また「小神野夜話」には
「御家中も先代[生駒氏治世]は何も地方にて知行取居申候故屋敷は少ならでは無之」
ともあります。つまり、家臣に対して知行地を与える地方知行が行われていたため、家臣たちは知行地に留まり(在郷)、用事のある時だけ高松へ出仕していた、というのです。これは先ほどで述べた「家臣団屋敷で築城当初の生活の痕跡が希薄
と併せて考えると、いろいろなことが想像できます。知行地制は時代に逆行する制度でした。それが生駒氏では行われていたとようです。同時に、周辺の開発・開拓も知行主が主体となって行っていた様子が窺えます。それは新たに召し抱えられた在地制の強い家臣団であり、彼らが積極的な開発主体であった気配があります。彼らにすれば、知行制が行われる限り高松城下町に屋敷を置き生活する必要はないわけです。この辺りが旧来の家臣団との藩政上の対立を生みだし「生駒騒動」へとつながったのではないかと私は考えています。
 どちらにしても、生駒藩時代の城下町は家臣団が「常駐」していた痕跡はあまりないようです。
発掘調査からの高松城の建設過程を確認しておきましょう
①1588 ~ 1600年頃(第1段階)
小規模で散発的な建設が進められ、領主生駒氏の居館も「仮屋形」にとどまった
②1600年代頃(第2段階)
天守台の建設が始まり順次城郭中心部の建設・整備が進んだ
③1610年代前半(第3段階)、
③新たな中心市街地としての丸亀町の建設が惣構推定ライン外堀0 500m行われ、寺町の形成がほぼ完了し、城下全体を囲む惣構が建設された
④1620 ~ 30年代(第4段階)、
家臣団の屋敷地がほぼ完成形に近付く
 第1段階では、素掘りの区画溝を主体とした領主居館と家臣団・町人地の屋敷割が、部分的に行われていたと見られる。中世から続く寺社は、小さな位置変更程度で存続が認められたようです。(見性寺・愛行院等)。
 第2段階では、外堀より内側での城郭の建設や武家地の屋敷割が全面的に行われました。天守台を含む本丸や二ノ丸・三ノ丸・桜馬場・西ノ丸などが整備され、外堀とこれに沿った土塁も作られます。ただし家臣の屋敷割は、素掘り溝で作られています。この段階で、生駒氏居館は三ノ丸にあり、桜の馬場の対面所とともに領主権力の政庁としての役割を担っていたようです。
城下町の膨張が進んだ段階で高松城に入ったのが松平頼重でした(1642年:寛永19)。
頼重は入部直後から城下に多くの町触を出して都市法の整備にかかります。その背景には、初期高松城下町の成長に伴い、高松という都市を新たな形で把握するという政治的な意志が見られます。

 以上の状況を踏まえ、改めて『南海通記』の記事(2)に立ち戻ると、
『南海通記』が記す生駒氏入部後、直後の1588年から高松城の築城に取りかかったというのは否定的に考えざる得ません。それは、朝鮮出兵という大規模な軍事遠征下という背景や、考古学的な発掘調査の示すことでもあります。高松城の具体的な縄張りが実現するのは第2段階であり、生駒親正の最晩年(関ヶ原合戦時に出家し、3年後に死去)になります。高松築城に関与したのは2代目の一正であると見た方がいいようです。
 ところで生駒藩では、関ヶ原の戦い直前の時期に、高松城と丸亀城と引田城を同時に建設しています。
丸亀城は1597年(慶長2)に建設に着手し、1602年(慶長7)に竣工したとされます。また引田城は、最近の調査により高松城・丸亀城と同じく総石垣の平山城であることが分かってきました。出土した軒平瓦の特徴から、慶長期に集中的な建設が行われていたようです。このことからこの時期になって、生駒氏は讃岐に対する領国支配の覚悟が固まったと見えます。信長・秀吉の時代は手柄を挙げ出世すると、領国移封も頻繁に行われていましたから讃岐が「終の棲家」とも思えなかったのかもしれません。

 参考文献 佐藤 竜馬  高松城はいつ造られたか

1高松城寛永16年

生駒時代の高松城のようすを、上の図1から説明すると
城の中央に天守閣があり、その西側に本丸、本丸の北側にニノ丸があり、ニノ丸の東側には三ノ丸があります。ここからは中濠と内濠に囲まれて西ノ丸と三ノ丸があるということが分かります。西ノ丸の下の方の一帯は、現在の「桜の馬場」になります。
 外濠は西の方には「西浜舟入」、東の方には[京浜舟入]と記されています。ここが前回にもお話しした船場になります。軍港としての役割もあったのではないかと私は考えています。
 この船場から南の方に下がって東西に走っているのが外濠です。この中濠と外濠に囲まれたところが、侍屋敷になります。その侍屋敷の南の中央辺りに、今の「三越」は位置しているようです。
 城への門は、中濠の南にかかっている橋が城への出入口で、大手門になります。外濠のあったところは、今では片原町から兵庫町、そして西の突き当たりが広場として残っています。
 城下町は、外濠から南の方に広がっていて、この地図にも当時の地名が書き込まれていますが、今の高松の商店街に残っている町名と殆ど同じです。例えば、片原町・兵庫町・丸亀町・塩屋町・新町・百聞町・通町・大工町・鍛冶屋町などです。当時のメーンストリートは、丸亀町から南新町へと南に進み、後に田町が発展して藤塚へと延びていくことになるようです。
1高松城 生駒時代屋敷割り図
生駒時代屋敷割図
                   
生駒騒動と生駒氏の改易
 秀吉によって讃岐一国を与えられた生駒氏によって、讃岐の近世は始まります。生駒氏は引田 → 聖通寺山と拠点を移し、高松に本格的なお城が築かれ、その南に城下町が形成されていくことになります。生駒氏は約五〇年間にわたって領主として支配し、讃岐に落ち着きを取り戻す善政を行ったと評価されています。
 ところが寛永十四年七月に国家老生駒帯刀が、生駒藩江戸家老前野助左衛門らを幕府に訴えたことから、「生駒騒動」が始まります。そして、寛永十七年五月に、「生駒藩内の家中立ち退き」が幕府で問題になります。生駒藩の家来が、国家老派と江戸家老派の二つに分かれ、江戸家老派に与した藩士が、讃岐からも江戸藩邸からも集団脱走して、大坂に集結するという大事件が起こりました。なぜ、そのようなことになったのか、ということについてはよくわかっていないようです。当然、家臣たちが藩邸を脱走すれば、藩が潰れるということは分かっているはずなのに、なぜ家臣たちが立退いたのか?当然、職場放棄し「脱走」した彼らも後に処分されます、この事件の原因については、諸説あって今後の課題のようです。

Ikoma_Takatoshi
生駒高俊
 この事件は、幕府の老中たちによって裁かれて、藩主の責任だということで、讃岐を取り上げられてしまいます。そして生駒高俊は、温暖な讃岐から秋田県の雪深い矢島へ移されてしまいます。矢島は、冬は2メートルも雪の積もる鳥海山の麓で、冬はスキーで賑わう小じんまりした町です。

1Matsudaira_Yorishige
松平頼重
 松平頼重による高松藩の基礎作り
 生駒氏が去った後、寛永十九年二月に松平頼重が高松藩主となります。この時に、讃岐は西の丸亀藩五万石余と高松藩11万石の二つに分けられます。ほぼ土器川から東の方の高松藩の政治体制・領内支配体制を作り上げていくのが松平頼重です。
 ちなみに、この人は水戸黄門のお兄さんになります。本来ならこの人が、水戸藩主になるべき人でした。一説には、頼重が生まれたときには、父の水戸藩主徳川頼房は、お兄さんたちに子供がなかったということで、頼重を世継として幕府に届けるのをためらった。そして、頼重を家臣に育てさせたと伝えられます。
 その六年後に弟の光圀が生まれました。その時には、お兄さんたちにも子供が生まれていたということで、頼房は光圀を世継として幕府に届けたといいます。こんな不遇な回り合わせにあった頼重は、やがてそのことが幕府に知れ、将軍徳川家光の耳にも入り、寛永十五年に下館藩(しもだて栃木県)の五万石の大名となります。そして四年後に高松城に入ることになります。このように高松藩は水戸家の分家的な存在で、幕府に非常に近く家門(親藩)という立場にある藩だったようです。
 城下上水道と溜池
 頼重が高松藩に入ってからの業績は、最後につけた年表にあるように、先ず城下に上水道を敷きます。上水道としては、全国的にみてそう古いものではありません。ただ、地下水を飲料水として使用したのは、全国初ということで注目されています。井戸としては次の三つが使われました。
「大井戸」現在でも瓦町の近くに大井戸というのが、規模を小さくして復元されて残っています。物が投げ込まれたりしていますが高松市の史跡です。
「亀井戸」亀井の井戸と呼ばれていたものです。五番丁の交差点の少し東の小さな路地があり、それを左に入ると亀井の井戸の跡があります。現在埋まっていますが、発掘調査をすればきっとその跡が出てくると思います。
「今井戸」ビルの谷間にほんとうに小さな祠が残っていて、鍛冶屋町付近の中央寄りの所で、普通に歩いていると見過ごしてしまうような路地の奥に、「水神社」の祠があります。この3つの井戸から、高松城下に飲料水としての井戸水を引いています。
 翌年の正保二年は、大旱魅で新らしく溜池を406を築いたといいます。しかし、一度に築いたものではなく、恐らく頼重の時代に築いたものが406で、この時にそれをまとめて記したものと研究者は考えているようです。どちらにしても生駒氏時代に西島八兵衛が溜池を築いたと同じように、頼重の時代に入っても溜池の築造が続いていたことがうかがわれます。
 高松城石垣の修築と検地
 正保三年には、高松城石垣の修築に着手しています。
この時期の高松城の様子を幕府が派遣した隠密が記録した「讃岐探索書」が残っています。
その中に、石垣が崩れているとか、土塀が壊れたりしていると書かれていて、当時の高松城は相当いたんでいたようです。生駒藩は、「生駒騒動」のごたごたで城の手入れも充分できていなかったのかもしれません。年表の寛文五年に、城下周辺から検地を始め、寛文十一年に終わるとあります。
 領主にとって検地は領地経営の根本に関わる重要事業です。
頼重も六年間かかって領内の検地をやり終えています。高松藩では、これ以後検地は行われていません。この検地によって、高松藩における年貢取り立てのための農民支配体制が、ほぼ出来上がったと考えることができます。
1高松城 松平頼重普請HPTIMAGE
いよいよ寛文十一年九月に高松城普請が始まります。
この工事の結果、できた高松城が図2です。
 普請前の生駒時代の違いについて、見ておきましょう
 一つは、生駒時代は東側の中濠は侍屋敷に沿っているだけでした。ところが普請後は、中濠が途中で東に分かれ下横町にぶつかってから北に進んでいます。この結果、中堀まで船が入ってこられる構造になっています。
 二つ目は、普請前は海に面した北の方は「捨石」と記されているように、石を捨てただけの簡単な石垣だったようです。ところが、普請後には、しっかりとした石垣もでき、爪か彫とか対手御門が新しくできています。
 三つ目として、普請前の城内への入り口である大手門が、普請後には橋がとりはらわれていて、右の方のが鼓櫓の横の濠の上に橋がかかっています。現在も、ここにある旭橋から城内に入ります。そして四つ目は北の方の一部に海を取り込んで北ノ丸を新しく造成し、さらに、東の方では侍屋敷と町屋を二つに分割して、新しく濠を設けて東ノ丸をつくり、もともとは城外であったところを城内に取り込んでいます。
 高松城普請は単なる城の修理ではなく、城の拡大であったということです。これ以後の高松城の姿は明治維新まで変わらなかったようです。
 
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この城下の屏風は、高松城だけでなく城下町の様子まで描かれています。そのため城の様子や城下町の様子がとてもよくわかります。人々がどんなものを運んでいるのか、どんなものを着ているのかなど、細かく描かれています。そういう意味で、この屏風は当時の人たちの風俗などが、よく分かる大変貴重な資料と評価が高いようです。

1 高松城p51g

その後の高松城はどうなったかのでしょうか
図2の東ノ丸の米蔵丸のところには、現在は県民ホール(レグザム)が建っています。それから米蔵丸の半分から下の作事丸にかけて、県立ミュージアムがあり、その南には城内中学校がありました。城の中にいろいろな建物が建つことは、高松城は国史跡であり、文化財保護の立場から考えると、問題だという意見もあるようです。
 また、本丸の石垣のすぐ横の内濠の部分が築港駅のホームになっています。さらに西ノ丸の一部が中央通りにかかり、生駒時代の大手門の跡の近くの西の中濠が埋め立てられて現在電車が走っています。東ノ丸の東側の濠は、フェリー通りになっています。
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 明治以後、高松は港町として発展してきましたが、この城の辺りが港町として発展していくさいにお城の敷地が切り取られていった歴史があります。21世紀になって、この国にも心の余裕ができたようで、文化的な面にも目を向けていこうという時代になってきました。昔のままの高松城を復元するのは無理でも、少しでも昔の姿に、戻そうとする動きが出てきています。

 昔の高松城は、海に接して石垣のある海城で、瀬戸内海からは海辺に石垣の見えるすばらしい城だったと思います。今では、石垣の北を埋め立てて道路になって、石垣が海に洗われる姿を見ることはできません。しかし、行政は石垣と道路の間の建物を撤去して散歩道をつくり、石垣の北を少し掘って海水を入れて濠のようにして、昔の高松城の姿に少しでも近づけようとしているようです。岡山行きのフェリーが廃止になった跡の利用にも期待したいと思っています。
1 高松城 教科書.明治34年 - 新日本古地図学会
参考文献
  木原 高松城と松平頼重
(『高松市教育文化研究所研究紀要』四五号。1994年)
          「高松城と松平頼重」関係年表
天正12年(1582)6月 本能寺の変
天正12年(1584)6月頃長宗我部元親、讃岐十河城を攻略する
天正13年(1585)春 長宗我部元親、四国を平定する。
   4月 豊臣秀吉、長宗我部元親攻撃を決定する。
   7月 豊臣秀吉、四国攻撃軍と長宗我部軍との和議を命令
   8月 千石秀久、豊臣秀吉より讃岐国を与えられる。
天正14年(1586)12月 豊臣秀吉、千石秀久より讃岐国を没収
天正15年(1587)8月生駒親正、豊臣秀吉より讃岐国を与えられる。
天正16年(1588) 春 生駒親正、高松城築城に着手
慶長2年(1597)春 生駒親正、丸亀城を築く。        
     生駒藩、この頃から同7年頃にかけて領内検地実施
慶長5年(1600)9月  関ヶ原の戦い。
慶長6年(160U 5月 生駒一正、徳川家康から讃岐国を安堵
慶長19年(1614)10月 大坂の陣始まる。
寛永4年(1627)8月  幕府隠密、讃岐を探索する。
寛永8年(1631)2月  西島八兵衛、満濃池を築造する。
寛永14年(1637)7月  生駒帯刀、幕府老中土井利勝らへ訴状衛出・生駒騒動の始まり)
寛永17年(1640)7月 生駒高悛、「生駒騒動」で讃岐国没収 
            羽国矢島1万石に移封。 
寛永18年(1641)9月山崎家治、西讃岐5万石余を与えられ丸亀城に拠る 
寛永19年(1642)2月  松平頼重、東讃岐12万石を与えられ高松城に拠る
正保 元年(1644) 高松城下に上水道を敷設する。
正保2年(1645) 讃岐大干ばつ
正保3年(1646)6月  高松城石垣の修築に着手する。
明暦3年(1657)3月  丸亀藩山崎家断絶する。       
万治元年(1658)2月  京極高和が山崎家領を継ぐ  i
万治3年(1660)この年丸亀藩、幕府より丸亀城普請を許される       
寛文5年(1665)この年 高松藩、城下周辺より検地を始め11年に完了する。これを「亥ノ内検地」という
寛文9年(1669)5月 高松城天守閣の上棟式が行われる。
翌年8年 造営が成る。
寛文10年(1670)丸亀藩、延宝にかけて検地を行う。
寛文11年(1671)9月  高松城普請が始まる。この年家臣知行米を「四つ成」渡しとする。
延宝元年(1673)2月高松藩主松平頼重、病により隠退する。
延宝2年(1674)9月 米蔵丸・作事丸(東ノ丸)が完成する。
延宝4年(1676)3月 月見櫓の棟上げが行われる。北ノ丸完成か
延宝5年(1677)5月 艮櫓が完成する。
元禄8年(1695)4月  松平頼重、死去

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