瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:生駒騒動

                    
前回は生駒騒動に関わる重臣達を見てきました。それでは、これらの重臣達がどのようなプロセスを経て党争の渦中に引き込まれて行くのかを見てみましょう。
生駒騒動 関係図1
11歳で即位した4代藩主の生駒高俊を取り巻く勢力関係を、確認しておきましょう。
①「後見役」の藤堂高虎・高次の生駒藩への影響・介入
②生駒一門衆(生駒左門・生駒帯刀・生駒隼人)の本家(藩主)の専制政治への牽制
③譜代家臣と地元採用の讃岐侍との土地開発をめぐる対立
④生駒一門衆と家臣重臣団との権力闘争
このような思惑が渦巻く中で、若き藩主高俊は20歳を越えると、1632年(寛永9)には家中の人事を刷新し、自らの意志で藩政を行う姿勢を見せ始めます。

生駒高俊 四代目Ikoma_Takatoshi
  4代目生駒高俊
しかし藩政の意志決定は、惣奉行と譜代の重臣である生駒一族(生駒左門・生駒将監・森出羽)からなる年寄であり、今までの経過から幕府と藤堂藩の意向が強く働く人たちでした。
 このため高俊がやったことは、彼らに変わる自前のブレーンを作って自分の意見を藩政に生かすことです。そのために江戸藩邸で前野助左衛門を重用し、国元(讃岐)の年寄・惣奉行とは別の重臣層を形成していきます。しかしこれは、一つの藩に、国元と江戸屋敷の二つの政策決定機関が生まれることになります。そして、これがお決まりのお家騒動へとつながる道とつながります。

生駒藩屋敷割り図3拡大図
生駒家の重臣達の屋敷配置
 このような四代目高俊と江戸家老・前野の動きは、「後見人」の藤堂高虎とその息子の高次にとっては想定外だったようです。
藩内の家臣団の対立を視て、後見人の藤堂高次は1634年(寛永11)に、高俊に対して家中のことは何事も年寄と相談して決めるように意見しています。また、同年に前野・石崎も年寄と相談の上でなければ高俊に会わないことを誓わされています。しかし、高俊=前野・石崎体制は次第に権勢を強め、この体制で藩政が取り仕切られていくようになります。そして、彼らは藩財政の根本的な転換に着手します。
つまり、知行問題です。
それまでの生駒藩は、家臣が藩から与えられた所領(知行地)を自ら経営して米などを徴収していました。以前にも紹介しましたが高松藩の出来事を記述した「小神野夜話」には
御家中も先代(生駒時代)は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,(松平家)御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」
とあり,
生駒時代は知行制が温存されため、高松城下に屋敷を持つ者が少なかったこと、
②松平家になって家中が大勢屋敷を構えるようになり、城の南に侍屋敷が広がったこと
など、太閤検地によって否定された「国人領主制」が温存され、知行制がおこなわていたようです。そのために生駒家の家臣団は、讃岐各地に自分の所領を持っていて、そこに屋敷を構えて生活している者が多かったと記されています。さらに、生駒家に新たにリクルートされた讃岐侍の中には、さかんに周辺開発を行い知行地を拡大する動きも各地で見られるようになります。
生駒氏国人領主
生駒氏は讃岐に入ってきた際に、旧守護代の香川氏や香西氏の家臣たちを数多く採用して、支配の円滑化を図りました。
 例えば三豊の三野氏は、天霧城の香川氏の下で、多数の作人を支配していた国人領主でした。しかし、秀吉時代になっての太閤検地によって、これはひっくり返されます。太閤検地、刀狩で、土地制度は、領有制から領知制に変わります。国人侍の所領と百姓は切り離され、その土地の所有権は耕作する百姓の手に移ります。
  しかし、三野孫之丞は、700石もの自分開(新田開発)を行っています。三野氏の一族の中には624石の新田を持っている侍もいます。この広大な新田を、三野氏はどのようにして開いたのでしょうか。どちらにしても、生駒藩では豊臣政権以降の太閤検地に伴う土地制度改革が徹底していなかったようです。この現実は、讃岐国人層出身の侍にとっては「新田開発の自由」です。しかし、他国より所領の百姓と切り離され移り住んだ侍たちには百姓を勝手に動員できないので、自分開などできません。
 そうした中で、先ほど述べたように寛永期に入ると若い藩主の後ろ盾に前野、石崎両家老が権力を握ります。
それまでの讃岐出身の奉行層(三野氏、尾池氏等)が更迭され、新たに他国組に政権が移ります。そして、土地制度に関する抜本的な政治改革が進められます。新政権についた彼らからすれば、地侍出身者のみが可能な新田開発、お手盛りの加増は、百姓層との関係を持たない他国出身の侍にとっては「不公平で反公益」的なもので、是正しようとするのは当然です。自分開の新田開発では収穫量が増えても、藩の収益とはなりません。藩の蔵入り増にはならず、財政収入増大にはつながりません。幕命による土木事業や江戸屋敷の経営等で苦しい生駒家の財政を救うことにはならないのです。
 新たに藩政の舵取りを担うことになった前野と石崎は、藩の事業として、百姓層を主体に新田開発(知行文書で新田悪所改分と記され、百姓層の所有に帰したもの)を行い、個人による「自分開」を制限します。これは、自由に新田開発を行い知行地を増やしてきた讃岐出身の侍(かつての国人領主)や生駒氏一門衆にとっては、自分たちの利益に反するものでした。
 彼らは、太閤検地以後も、自分の知行所の百姓を使って自分開を行てきたのです。藩の新田開発は、同じ開墾でも、主体と利益者が異なります。前野、石崎を始めとする新藩政担当者のねらいは、百姓を主体とし、その権限を強めるもので百姓を藩が直接支配するものです。そして、代官に年貢を徴収させて換金し、収入を得る方式に変えていきます。これは家臣のもっていた国人領主的な側面をなくして、サラリーマン化する方向にほかなりません。歴史教科書に出てくる「地方知行制から俸禄制へ」という道で、これが歴史の流れです。この流れの向こうに「近世の村」は出現するようです。
 これに対して、三野氏や山下氏など讃岐侍たちの描いていたプランは、自分たちがかつての国人領主のような立場になり、百姓層を中世の作人として使役するものです。つまり、時代の流れからすると「逆行」です。両者の間に決定的な利害対立が目に見える形で現れ、二者選択を迫るようになります。このような土地政策をめぐる対立が背後にあり、事件が起きます。

1637年(寛永14)に生駒藩の借財の肩代わりとして、前野派政権が石清尾山の松を江戸の材木屋が伐採したことを、生駒一門衆は取り上げて反撃を開始します。
その先兵となったのは、政権の座を奪われていた年寄・生駒将監の息子である生駒帯刀です。彼は江戸へ赴き、幕府老中土井利勝(高俊の義理の父)や藤堂高次などへ、前野らの所行を非難する訴えを提出します。
 この訴えに対する幕府の評議は長引き、翌年には、江戸家老の前野助左衛門が死去してしまします。このため幕府は、生駒帯刀に対して訴えを取り下げさせ、事態の収拾を図ろうとしました。この時点までは、幕府は生駒藩の存続を考えていたことが分かります。

一方、国元の讃岐では、助左衛門の息子の前野次太夫らと生駒帯刀らの対立は続いていました。
1640年(寛永17)には、前野次太夫・石崎若狭と生駒帯刀は「喧嘩両成敗」で藤堂藩に預けられることになりました。これに反発したのが前野派の家臣で、彼らのとった行動は過激でした。藩士と家族約4,000人が、5月に江戸と讃岐から立ち退くという形で「集団職場放棄」という抗議行動を起こします。この時に讃岐を去った家臣達を各大番組所属で分類したのが下のグラフになります。灰色が残留組、青色が讃岐退去組で、次のような事が云えます。
生駒騒動の残留藩士グラフ
生駒一門衆(生駒左門・生駒帯刀・生駒隼人)は、ほとんどが残留している。
讃岐退去者は石崎・前野・上坂組に多い。
これは、讃岐地侍衆を多く抱え、新田開発を進めていた生駒衆門派と、百姓達を使っての新田開発を行うことができない他国組(前野・石崎派)の対立の構図がうかがえます。
また、立ち退きの人数が家臣の約半数に達することは、藩主高俊=前野の政治路線に賛同していた家臣も多かったことが分かります。ここからは生駒記や講談ものに記されているような単純な「生駒帯刀忠臣説」「藩主無能説」は、成り立たないようです。
また、生駒帯刀の怖れていたことは、次の2点が考えられます。
①惣領家である藩主に権力が集中し既得権益が奪われること
②具体的には新田開発の禁止や知行制廃止
 戦国時代末期には、どんな小領主であっても所領をもつことが当たり前で、「一所懸命」こそが自らの拠りどころだった記憶が、当時の家臣達には、まだ残っていたはずです。その中で、太閤検地以後進められた武士のサラリーマン化は、堪え難いものだったのかもしれません。特に多くの知行地をもつ家臣ほど抵抗感は強かったでしょう。しかし藩主の側から見れば、これは権力専制化のため、近世の幕を開くためには避けて通れない道だったのかもしれません。
参考文献 合田學著 「生駒家家臣団覚書 大番組」

 
images (1)

『生駒家時代讃岐高松城屋敷割図』です
この絵図の特徴は、その名の通り家臣団の屋敷がぎっしりと書き込まれた平面図であることです。外堀、内堀の内側はもちろん、外堀の南と西にも侍屋敷が続きます。侍屋敷は外堀内が108軒、外堀西が162軒で、重臣屋敷は中堀の外側に沿って配置されているのが上図から分かります
 今回はこの絵図を見ながらどんな家臣が、どこに屋敷を構えていたのかを見ていくことにします。
 外堀の内側に並ぶ屋敷を、研究者が石高で色分けしたのが下の絵図です。
生駒藩屋敷割り図3拡大図
①1000石以上 オレンジ色
②500石以上   紫色
③300石以上  緑
④300石以下  黄土色
この絵図からは、次のような点が見て取れます
①中堀の外側には1000石以上の家臣団の屋敷がならび、敷地が広い。
②その姓を見ると「生駒」が多く、藩主につながる生駒一族の屋敷と思われる
③外堀の南側入口にも家禄の多い家臣の屋敷が5軒並ぶ
西嶋八兵衛の屋敷が外堀西側の入口角に見える。
もう少し詳しく生駒藩の重臣達の屋敷を見ていくことにしましょう
多くの写本がある生駒家侍帳(分限帳)には、全ての家臣団(生駒宗家の直臣)の氏名が、その役職、知行高と共に記されています。いくつかの写本中には、知行高を記した数値の横に、小さな文字で知行内に含まれる自分開の新田に関する注記もあります。これと、上の屋敷割図をリンクさせながら、重臣達の屋敷を見ていきましょう。
「生駒家侍帳」は、今で云うと家臣団名簿になります。
ここには、生駒家に仕えた百数十名の家臣団の名前があります。しかし、注意しなければならないのは、ここにある名前は「直臣」だけです。封建制度のセオリーである
「王の家臣の家臣は、王の家臣ではない」
を思い出さなければなりません。つまり、各重臣が抱える家臣は「直臣」でないので、ここには名前がでてきません。生駒時代になって讃岐の地侍達がリクルートされますが、生駒家の家臣に採用された場合が多かったようです。生駒家に直接採用されなければ、この分限帳には載っていません。大手企業と、下請け企業の社員の関係になるのかもしれません。
戦闘ユニット「大番組」にみえる生駒藩の重臣達は?
生駒藩では大番組と呼ばれる戦闘ユニットが、総知行高一万石平均で構成されていました。各ユニットの兵力は、三百人から五百人で、九つの正規ユニットがありました。予備ユニットとして三組、そして、槍隊、弓隊、鉄砲隊と、作事・普請といった工兵隊から、軍役衆が構成されていました。その大番組のユニットを見ていくことします。

生駒藩屋敷割り図3拡大図
①生駒隼人組 
四代藩主壱岐守高俊の弟、生駒隼人(通称:西ノ丸殿)のユニットです。藩主の弟ということで、屋敷は城内の西の丸にあります。他の生駒姓の屋敷よりも広さもロケーションも群を抜いているようで「家格NO1」と云えそうです。しかし、藩の実権は、生駒將監(生駒帯刀の父)が握っていました。
与力は、安藤蔵人(1000石)で、侍数26人。彼らの平均知行高は、253石。この組内には安藤氏を名乗る侍が5名いましたが、生駒騒動の際には、その全てが生駒家を去っています。そういう意味では安藤家は、反生駒帯刀派に色分けされるようです。
 生駒隼人の知行4609石の内4588石が寒川郡に集中しているようです。これは生駒甚介(三代藩主正俊の弟、左門の異母兄弟)から引き継いだようです。勘介は引田城主として、東讃岐を支配していましたが、大坂の陣の際に豊臣方に加勢し破れて、引田に戻ります。しかし、追っ手が迫り切腹、所領は没収されました。その所領を生駒隼人が引き継いだようです。
②生駒將監(生駒帯刀の父)が預かる組。
この屋敷は、中堀の南門を守る形で立地します。北側と南側の通路の両方に屋敷は面し、入口も両方に持つ構造で、特別な役割を持たされていたことが想像できます。この家はもともとは、初代親正の兄弟の創始と云われ、当時は將監、帯刀父子が家老として藩政を掌握していたようです。家格意識が高く尊大であったため譜代の家老連との対立が絶えなかったと云われます。後世の史料には
「家臣としての分を忘れ、宗家(生駒本家)を倣い、子の帯刀に至っては、その妻に大名家の姫を望んだ。この幕法をも無視した非常識極まる要求に反対した江戸家老、前野助左衛門、石崎若狭の両名は、この後、將監、帯刀父子に深く恨まれる。これが後の生駒騒動の発端となる」
と批判的に記されています。生駒騒動の発火点は、この家にあるようです。
 この組の特徴としては、次の2点が挙げられるようです。
①尾池氏、河田氏、佐藤氏、吉田氏、加藤氏、大山氏、今瀧氏など、讃岐武士が数多くリクルートされている。
②生駒騒動の際に、職務放棄して讃岐を去った立退者がいない
                ③生駒左門組(三代藩主正俊の異母弟)
私が最も興味を持っているのがこの組です。屋敷は城内の東側で中堀に面するロケーションで、敷地面積はNO3くらいでしょうか。
この屋敷は二代目一正とその側室との間に生まれた左門に与えられたものです。
  左門の母・於夏は、三豊財田の山下家出身です。そして、彼女の甥が金毘羅大権現の別当を務めるようになります。於夏は、生駒家の中に外戚・山下家の太い血脈を作り出していきます。於夏の果たした役割は想像以上に大きいようです。左門の母於夏について見ていきましょう。
  2代藩主・一正の愛した於夏とその子左門
 一正は讃岐入国後に於夏(オナツ・三野郡財田西ノ村の土豪・山下盛勝の息女)を側室として迎えます。於夏は一正の愛を受けて、男の子を産みます。それは関ヶ原の戦い年でした。この子は熊丸と名付けられ、のち左門と称すようになります。彼は成人して、腹違いの兄の京極家第三代の高俊に仕えることになります。
 寛永十六年(1639)の分限帳には、左門は知行高5070石と記されています。これは藩内第二の高禄に当たり。「妾腹」ではありますが、藩主の子として非常に高い地位にあったことが分かります。
   同時に、金毘羅大権現への保護を進めたのも於夏です。
於夏と金毘羅を結ぶ糸は、どこにあったのでしょうか?  それはオナツの実家の山下家に求められます。この家は戦国の世を生き抜いた財田の土豪・山下盛郷が始祖です。その二代目が盛勝(於夏の父)で、生駒一正から2百石を給され、西ノ村で郷司になります。三代目が盛久で於夏の兄です。父と同様に、郷司となり西ノ村で知行200石を支給されます。彼は後に出家して宗運と号し、宋運寺(三豊市山本町)を建立し住職となる道を選びます。
 一方、於夏の弟の盛光は、財田西ノ村の西隣の河内村に分家します。この分家の息子が金毘羅の院主になっていたのです。 慶長十八年(1613~45年)まで32年間、金光院の院主を勤めた宥睨は、殿様の側室於夏と「甥と叔母」という関係だったことになります。  宥睨が金毘羅の院主となった慶長十八年(1613)の3年前に、一正は亡くなりますが、伯母於夏を中心とする血脈は脈々とつながっていきます。そのメンバーを確認しましょう。
①一正未亡人の於夏
②藩主一正と於夏の息子で藩内NO2の石高を持つ生駒左門
  左門には、異母兄弟として生駒甚介がいたことは先ほど紹介しました。しかし、勘介が大坂の陣に参加し、敗軍の責を被り自刃した後は、左門が生駒氏一門衆筆頭となったようです。
 この組には、讃岐出身の三野氏が四人いるほか、山下権内(150石)の名があります。この人は、三野郡の財田西村に自分開の知行所を持っているので、於夏の実家の山下家に連なる人物であったことがうかがえます。また、豊田郡中田井村の香川氏とも関係が深いなど、西讃・三豊地区との関わりが見えます。他に、この組の重要な特徴として、自分開の新田1144石があることを研究者は注目しています。
於夏と一正との間に生まれた於夏の娘山里(左門の妹)について
 山里は京都の猪熊大納言公忠卿に嫁しますが、故あって懐胎したままで讃岐に帰えってきます。離縁後に讃岐で産んだ子が生駒河内で、祖父一正の養子として3160石を支給されます。つまり、左門と生駒河内は「伯父と甥」関係になります。そして、生駒河内出産後に山里は、家老の生駒将監(5071石)と再婚し、生駒帯刀の継母となります。こうして
③於夏の娘山里が離婚後に産んだ生駒河内(一正の養子)
④於夏の娘山里の再婚相手である生駒将監と、その長男・帯刀
   こうして「生駒左門 ー 生駒河内 ー 生駒将監・帯刀」を於夏の血脈は結びつけ、生駒氏一門衆の中に、山下氏の人脈(閨閥)を形成していきました。この血脈が大きな政治的な力を発揮することになります。その結果、もたらされたひとつが生駒家の金毘羅大権現への飛び抜けた寄進です。この背後には、於夏の血脈があると研究者は考えているようです。
  もうひとつは、讃岐の土着土豪勢力との接近・融合を進めたのが生駒左門に連なる勢力ではなかったかということです。
於夏の実家である山下氏は、この時期に新田開発を活発に行い、分家を増やしています。山下家に代表されるように、土着勢力からリクルートされた家臣達は、新たな開発を行い自分の土地とすることが生駒家では許されていたようです。この「自分開の新田」は、加増の対象となります。 そのために積極的に新田開発を行います。知行に新田(自分開)が含まれる侍は、生駒騒動の際に、讃岐を去ることはなかったと研究者は指摘します。

生駒騒動の残留藩士グラフ
 地元勢力を活用し、新田開発を積極的に行うグループと、それができないグループとの間に政策対立が起きたことは推測できます。それが後の生駒騒動につながっていくひとつの要因と研究者は考えているようです。
 ここでは土豪勢力をとりこみ、新田開発を活発に行ったのが山下家の於夏の血脈でつながる
「生駒左門 ー 生駒河内 ー 生駒将監・帯刀
の生駒一門衆であったことを押さえておきます。これらの派閥からは、生駒騒動の時に藩を出て行く者は、ほとんどいなかったのがグラフからも読み取れます。
次に藩を飛び出して行った重臣達を視てみましょう。
生駒藩屋敷割り図3拡大図

④前野助左衛門組
 屋敷は「屋敷割図」では前野次太夫と記され、中堀南の重臣屋敷群の一角を占めています。前野助左衛門は石崎若狭と共に江戸家老を勤めた人物です。
 前野助左衛門と石崎若狭は、生駒家の譜代ではありません。もともとは豊臣家の家臣で「殺生関白」と呼ばれた秀次の老臣・前野但馬守長泰の一門でした。秀次が秀吉の怒りに触れて自殺した時、長泰も所領を奪われて両人ともにも浪人の身となります。かねてから前野家が生駒家と親しい関係だったので、生駒家を頼って讃岐にやってきたようです。初代親正は、秀長の下で一緒に仕えた前野長泰の子息の前野助左衛門と石崎若狭を息子一正の家臣としてとりたてます。両人とも相当才気があり、勤務ぶりも忠実であったため、一正の気に入られ千石の知行をあてがわれて、さらにその子の正俊付となります。
 両人は正俊の江戸参観には供をして、諸家への使者などを勤めます。豊臣秀次の老臣であった前野家どいえば、豊臣時代にはよく知られた存在で、親しくしていた因縁があるので、どこの藩でも大事にしてくれて、諸藩と関係もそつなく果たします。
ちなみに前野の母は、織田家中で勇猛を馳せた佐々成政の妹です。また、前野の男子の内、一人は、阿波蜂須賀家に仕えています。
生駒家家臣 前野助左衛門
 生駒記などでは、前野助左衛門、石崎・若狭は、悪役を振り当てられていますが、実際のところはそうともいえないようです。例えば、各部隊ユニットを預かる大番組の高禄者たちの中で「分散知行」に徹しているのは前野助左衛門だけです。そこには彼が地方知行制から切米知行制へ切り替えを目指していた姿をうかがうことができます。藩政改革を藩主から託された前野は、国元に石崎と上坂を置き、自分は江戸家老として連携を密にしていきます。また、年寄の森出羽の息子で江戸在府の森出雲を、自らの派閥に引き入れることに成功します。こうして、生駒一門衆への対決姿勢を強めていきます。
 助左衛門亡き後は、息子治太夫が江戸詰家老職を継ぎます。代が変わっても生駒衆門派と前野派の対立は収まらず激化します。そこで、生駒帯刀は、主君高俊を動かして、石崎、前野両人を罷免する動きに出ます。罷免された両者は激怒し、一類の者をはじめ家臣あげて脱藩、離散するという「職場放棄=讃岐脱出」という集団行動にでるのです。
 生駒家では幕閣のとりなしを依頼しますが「武士団の集団職場放棄」というショッキングな行動に対して、さすがに藤堂高次、土井利勝の力量でも幕府を抑えきれません。寛永17年7月、幕府は讃岐生駒藩十七萬千八百石を取りつぶします。関係者への措置は以下の通りです。
①藩主は出羽国(秋田県)由利郡矢島へ移され、堪忍料一万石
②前野治太夫、石崎若狭は切腹。
③上坂勘解由、森出雲守両者は脱藩した家臣と共に死刑
④石崎八郎右衛門、安藤蔵人、岡村又兵衛、小野木十左衛門ら、前野氏に使えた一類の人々も徒党を組んで国を走り出た罪で、いずれも死刑。
⑤生駒帯刀は忠義の心から事を起したとはいえ、家老としての処置を誤ったという理由で出雲国(島根県)松江藩に預けられ、五十人扶持。しかし、仇討ちに遭い万治2(1659)49歳で死去。

森出雲組 
生駒一族を除くと家臣筆頭の知行(3948石)を誇る組です。
この屋敷は西浜船入(港)に面し、西門守備の要の位置にあります。森氏は生駒家譜代筆頭の家老ですが、生駒氏一門衆の家老、生駒將監、帯刀父子と対立し、生駒騒動では讃岐を退く道を選びます。
 出雲の父は出羽、妻は前野助左衛門(伊豆)の娘です。そのため出雲は、前野次太夫とは義兄弟の関係に有り、ここも血縁関係で結ばれた一族を形成します。
この組には、戦国時代に西讃岐守護代の香川氏の筆頭家老を勤めた河田氏の嫡流である河田八郎左衛門がいます。八郎左衛門も、生駒騒動では土着侍でありながら、生駒家を去る道を選んでいます。。他にも、高屋、林田、福家氏など、東讃岐守護代香西氏の家臣たちも、この組に属していたようです。この組の特徴は、所属の家臣団が、生駒氏一門衆旗下の大番組のように同一氏族に集中していないことです。いろいろな侍衆の寄せ集め的な性格のようです。
   与力は、生駒氏の縁者、大塚采女(500石)で、侍数21人で、平均知行高は267石。
⑥上坂勘解由組 
 屋敷は森出雲の隣にあたり、西浜船入と外堀の間にある西門を守るコーナーストーン的な位置にあります。上坂勘解由は、西讃の豊田郡にて2170石の一括知行地を持っていました。このような知行形態は、他にはないものでこの家の特別な存在がうかがえます。
 勘解由は、寛永四年には、三野四郎左衛門と並んで5000石を給されています。上坂氏の母国は近江で、勘解由は、遠く古代豪族の息長(おきなが)氏の系譜を引く湖北の名門出身と名乗っていました。この一族の持城の一つが琵琶湖東岸の今浜城で、後に秀吉が長浜城と改名し居城にします。 生駒騒動の時には、盟友の石崎、前野の両家老をかばって、譜代筆頭の家老、森出雲と共に生駒家を立ち退きます。上坂氏の娘は、前野次太夫の妻で、両家は婚姻関係で結ばれていました。
 上坂氏一門は、西讃岐の観音寺では、太閤与力の侍です。
与力侍とは、生駒家を監察・管理するために秀吉が配置した役職です。上坂氏の居城は観音寺殿町の高丸城(観音寺古絵図)で 、現在の一心寺周辺とされます。もともとこの城は、戦国時代の天霧城主香川信景の弟景全が、築城した居館で観音寺殿といわれていたようです。それが天正7年(1579)の長宗我部元親の侵攻の際に香川氏は無血開城し、兄弟共に土佐勢に従いました。その後は、秀吉の四国侵攻を受けて、兄弟で元親を頼り土佐に落ち延びました。
 この城は、天正15年生駒氏が讃岐守に封ぜられた時、秀吉によって1万石を割いて大阪の御蔵入の料所にあて、観音寺城が代官所にあてられました。しかし、豊臣氏の滅亡により廃城となったようです。
 家臣団構成は、森出雲組と同じように、いろいろな一族の寄せ集め的な性格です。
生駒藩屋敷割り図拡大図4

石崎若狭組 
江戸家老を勤めた石崎若狭が預かる組です。
屋敷は外堀南側に面して、大手門の守備を念頭に置いた屋敷配置がされているようです。石崎若狭は寛永四年には2500石を給されていて、1000石の前野伊豆(助左衛門)とは、家中での立場が少し違っていたようです。石崎家は、元和六年に断絶した出石の田中吉政の家中から、生駒家に移った武士達のひとつのようです。
与力は下石権左衛門(500石)。侍数19人。
 旗下侍18人の平均知行高は278石で、大番組中、最も高い。
 
浅田図書組 
知行2500石を有する浅田図書が率いる組。
 この組は、先代の右京の時代に新参家臣として取り立てられますが、大坂の陣で勲功のあった萱生兵部と対立するようになります。家臣団のほとんどは兵部に与しますが、右京は藩政の後見役である藤堂高虎の支援を取り付けて反対派に打ち勝ちます。浅田右京は、讃岐武士である三野四郎左衛門や、高虎から讃岐に派遣された西嶋八兵衛・疋田右近とともに、惣奉行(国家老に相当)を務めるようになります。この党争の中で、讃岐の小領主の流れをひく有力家臣が数人没落しました。代わって藤堂高虎の讃岐支配に同調した家臣が取り立てられることになったようです。
 しかし、この屋敷割図が作成された頃は、奉行を勤めた浅田右京は失脚し、図書が後を継いでいますが、家中の重要ポストには就けてなかったようです。
宮部右馬之丞組 
知行1998石を有する宮部右馬之丞が率いる組で大番組中、最も小さな組です。与力は、佐橋四郎右衛門(400石)。侍数は14人である。
 屋敷の割当は、郭内屋敷三軒、西浜屋敷六軒。
 旗下侍13人の平均知行高は、232石。

生駒藩の屋敷割図から生駒騒動に関わる重臣達を見てきました。
講談的な「勧善懲悪」的な生駒騒動物語には、その背景に
①土地問題をめぐる政策対立
②藩主への権力集中に反発する生駒衆一門の反発
③幕府・藤堂藩の介入
などがあったことがうかがえます

参考文献 合田學著 「生駒家家臣団覚書 大番組」

           
生駒氏による高松城築城の「通説」ストーリーは?
1587年(天正15)、豊臣秀吉の命により、播磨赤穂6万石の領主・生駒親正が讃岐国主に任じられます。親正は、まず引田城に入り、次いで宇多津の聖通寺山城(平山城)に移り、翌1588年(天正16)に香東郡野原の地に高松城と城下を築いた(『南海通記』)。引田城の後、聖通寺山城・亀山(後の丸亀城)・由良山(現在の高松市由良町)と城の候補地を考えたが、結局高松築城に至ったとする説(『生駒記』など)が従来語られてきたストーリーのようです。
 それでは生駒氏の高松城は、いつ完成したのでしょうか?
南海通記は、着工2年後の1590年には完成したとしますが、お城が完成したことに触れている史料はありません。ここから高松城については
①誰が縄張り(計画)に関与したか、
②いつまで普請(建設工事)が続き、いつ完成したか、
の2点が不明なままのようです。
 また、生駒時代の高松城を描いた絵図は、1627年(寛永4)に幕府隠密が高松城を見分して記した「高松城図」(「讃岐伊予土佐阿波探索書」所収)以後のものしか知られていません。そのため完成当初の高松城・城下町がどのような景観だったかについても、よく分かっていないというのが実情のようです。
 文献史料がない中で、近年の発掘調査からいろいろなことが分かってきました。
例えば天守台の解体修理に伴う発掘調査からは大規模な積み直しの痕跡が見られず、生駒時代の建設当初のままであることが分かってきました。建設年代はについては
「天守台内部に盛られた盛土層、石垣の裏側に詰められた栗石層から出土した土器・陶磁器は、肥前系陶器を一定量含んでおり、全体として高松城編年の様相(1600 ~ 10年代)の特徴をもっている」

と指摘しています。つまり、入国した1588年(天正16)から10 ~20年ほど立ってから天守台は建設されたようです。
 織豊政権の城郭では、本丸や天守の建設が先に進められる例が(安土城・大坂城・肥前名護屋城・岡山城)が多いので、高松城全体の本格的な建設は関ヶ原の戦い以後の慶長期(1596 ~ 1615年)に行われた可能性が出てきたようです。
1) 上級家臣が屋敷を構える外曲輪では、
ここからは屋敷内や街路にゴミ穴(土坑)が掘られて土器・陶磁器・木器が廃棄されていました。ゴミ穴を年代毎に見てみると外曲輪での日常的なゴミ処理が、1588 ~ 1600年頃には極めて少なく、生活感の希薄な状況であると指摘されています。また屋敷地の区画施設(溝や塀)にも1588 ~ 1600年まで遡るものは、現在までの発掘ではありません。
しかも1630 ~ 40年代までは、それぞれの屋敷地に個別に区画溝が巡らされていて、中世的な屋敷の景観が読み取れるといいます。「高松城下図屏風」に描かれたような、塀(板塀・土塀)や長屋門をもつ区画施設は、1640 ~ 50年代になってようやく現れるようです。つまり、私たちが見なれた「高松城下図屏」と生駒時代のお城や街並みは大きく違うようです。特に家臣団屋敷の景観も相当大きく変化したことがうかがえます。
岡山城と高松城に瓦を供給した「瓦工場」
16世紀末葉~17世紀初頭における高松城跡出土瓦を、時代ごとに分類すると次のようになります。
Ⅰ期 1588 ~ 90年代前半(天正16 ~文禄期)頃。
在地系の瓦主体。まだ瓦の量自体が少なく、中世的で丁寧な製作技法が見られる。
Ⅱ-1期   1590年代後半(慶長1~5年)頃。
在地系の系譜(瓦工集団)で集中的な生産に伴う粗雑化が進む。姫路系の直接的な影響の可能性をもつ系譜も出現する。
Ⅱ-2期   1600年代前半(慶長5~ 10年)頃。
岡山城跡と同笵・同文関係にある軒平瓦の系譜(三葉文系)が普遍化し、瓦の量が急増する。胎土・焼成ともに、近世的な特徴をもつようになる。
Ⅲ期  1600年代後半~ 10年代(慶長11 ~元和6)頃。それ以降も含むか。岡山城跡との同笵・同文関係は継続。
ここでも城・城下の建設の進展を窺わせる瓦の大量供給は、Ⅱ-2期~Ⅲ期(慶長期)になってからのようです。そして大量に出てくるのは、岡山城との同笵・同文瓦の瓦なのです。
これをどう考えたらいいのでしょうか?
 同時進行で建設されていた高松城と岡山城に瓦を供給した「瓦工場」がどこかにあったようです。
「高松での大量供給段階でも岡山城の大規模な普請は継続していることから、現状では岡山からの搬入の可能性の方に妥当性がある。」
と研究者は考えているようです。
  岡山では1590年代(文禄・慶長初期)に瓦の大量生産・供給の最初のピークがあります。一方高松への大量供給はこれに遅れていますので、岡山城での普請が先行すると考えられます。
 岡山城主・宇喜多秀家は信長政権下での中国攻め以来、秀吉と深い関わりがあり、1585年(天正13)には秀吉の養子として元服しています。その後は豊臣政権の中で重用され、文禄の役では総大将を務め、五大老に名を連ねます。岡山城建設の最初のピークは、豊臣政権における秀家の台頭と軌を一にしているようです。
 阿波の蜂須賀氏に対して、どこに城を築くかについては秀吉からの指示があったといいます。天下を握ったばかりの秀吉は、西国の最前線は備讃瀬戸あたりで、この地域での政治的中心地の建設にあたり
「まず岡山城、次に高松城を造る」
という意向があったことは充分に考えられます。その岡山城建設に必要な瓦工場も宇喜多家の管理下に建設操業を始めます。そして、関ヶ原の戦い以後に遅れて高松城築城を開始した生駒家へも瓦を提供することになったという筋書きが描けそうです。
築城に当たっての寺院への対応は?
  西浜で真行寺に隣接して境内があった無量寿院は、戦国期には野原中黒(高松城中心部周辺)に存在したことが「さぬきの道者一円日記」(1565年、永禄8)から分かり、発掘調査により西ノ丸がその旧境内地と特定されました。出土瓦などから
「少なくとも17世紀以降に無量寿院が[西浜へ]移転したものと考えておきたい」
と報告書は記します。
   「高松城下図屏風」等には、外堀に面した片原町に愛行院の境内が描かれています。愛行院は、中世野原から継続する華下天満宮(中黒天満宮)の別当寺で、城下における山伏の統括を行う役割が与えられていました。中世の境内の位置は分かりませんが、絵図にある境内地の周辺にあったと考えられ、城下に組み込まれた形になったようです。
丸亀町の性格は?
大手筋の丸亀町は1610年(慶長15)に生駒藩3代当主正俊の時に、丸亀城下町の商人を移住させて成立したと伝えられます(『南海通記』巻廿下)。城下の中心市街地に立地する丸亀町は城内にあり「高松城下図屏風」での町家の描写からも最も格式の高い町人地であったことが分かります。つまり、丸亀町は城下の整備・拡大に伴い新たに新設された、いわば後発的な中心市街地という性格をもつようです。
城下町の発展
  「高松城下図屏風」は1640 ~ 50年代の景観を描いていると言われます。この屏風からは、南側の寺町を超えて城下が拡大している様子がうかがわれます。寺町の外側(南側)には水路が描かれていますが、その一部は馬場として埋め立てられています。本来は外堀に匹敵する幅をもっていたようです。この水路の内側(北側)に寺町が連続していて、町人地の南大手筋ではこの水路より内側が丸亀町、外側が南新町となっています。ここからも各町の成立年代が違うことが読み取れます。
  こうした水路の存在は何を示すのでしょうか?
  研究者は「城下全体を囲む堀=惣構が存在した」と考えているようようです。その完成は、丸亀町成立の1610年(慶長15)から「讃岐探索書」で「南ニ四筋アリ」(水路以北の範囲に相当)と記された1627年(寛永4)の間で、おそらくは元和の一国一城令(1615年)までに求められるようです。
生駒藩の知行地と自立した家臣団
 「生駒家廃乱記附録」には、4代高俊の治世(1630年代)のこととして
「壱岐守殿御家中大形[方]在郷、時々用事之有る節高松へ罷り出候に付、屋敷小分之由」
とあります。また「小神野夜話」には
「御家中も先代[生駒氏治世]は何も地方にて知行取居申候故屋敷は少ならでは無之」
ともあります。つまり、家臣に対して知行地を与える地方知行が行われていたため、家臣たちは知行地に留まり(在郷)、用事のある時だけ高松へ出仕していた、というのです。これは先ほどで述べた「家臣団屋敷で築城当初の生活の痕跡が希薄
と併せて考えると、いろいろなことが想像できます。知行地制は時代に逆行する制度でした。それが生駒氏では行われていたとようです。同時に、周辺の開発・開拓も知行主が主体となって行っていた様子が窺えます。それは新たに召し抱えられた在地制の強い家臣団であり、彼らが積極的な開発主体であった気配があります。彼らにすれば、知行制が行われる限り高松城下町に屋敷を置き生活する必要はないわけです。この辺りが旧来の家臣団との藩政上の対立を生みだし「生駒騒動」へとつながったのではないかと私は考えています。
 どちらにしても、生駒藩時代の城下町は家臣団が「常駐」していた痕跡はあまりないようです。
発掘調査からの高松城の建設過程を確認しておきましょう
①1588 ~ 1600年頃(第1段階)
小規模で散発的な建設が進められ、領主生駒氏の居館も「仮屋形」にとどまった
②1600年代頃(第2段階)
天守台の建設が始まり順次城郭中心部の建設・整備が進んだ
③1610年代前半(第3段階)、
③新たな中心市街地としての丸亀町の建設が惣構推定ライン外堀0 500m行われ、寺町の形成がほぼ完了し、城下全体を囲む惣構が建設された
④1620 ~ 30年代(第4段階)、
家臣団の屋敷地がほぼ完成形に近付く
 第1段階では、素掘りの区画溝を主体とした領主居館と家臣団・町人地の屋敷割が、部分的に行われていたと見られる。中世から続く寺社は、小さな位置変更程度で存続が認められたようです。(見性寺・愛行院等)。
 第2段階では、外堀より内側での城郭の建設や武家地の屋敷割が全面的に行われました。天守台を含む本丸や二ノ丸・三ノ丸・桜馬場・西ノ丸などが整備され、外堀とこれに沿った土塁も作られます。ただし家臣の屋敷割は、素掘り溝で作られています。この段階で、生駒氏居館は三ノ丸にあり、桜の馬場の対面所とともに領主権力の政庁としての役割を担っていたようです。
城下町の膨張が進んだ段階で高松城に入ったのが松平頼重でした(1642年:寛永19)。
頼重は入部直後から城下に多くの町触を出して都市法の整備にかかります。その背景には、初期高松城下町の成長に伴い、高松という都市を新たな形で把握するという政治的な意志が見られます。

 以上の状況を踏まえ、改めて『南海通記』の記事(2)に立ち戻ると、
『南海通記』が記す生駒氏入部後、直後の1588年から高松城の築城に取りかかったというのは否定的に考えざる得ません。それは、朝鮮出兵という大規模な軍事遠征下という背景や、考古学的な発掘調査の示すことでもあります。高松城の具体的な縄張りが実現するのは第2段階であり、生駒親正の最晩年(関ヶ原合戦時に出家し、3年後に死去)になります。高松築城に関与したのは2代目の一正であると見た方がいいようです。
 ところで生駒藩では、関ヶ原の戦い直前の時期に、高松城と丸亀城と引田城を同時に建設しています。
丸亀城は1597年(慶長2)に建設に着手し、1602年(慶長7)に竣工したとされます。また引田城は、最近の調査により高松城・丸亀城と同じく総石垣の平山城であることが分かってきました。出土した軒平瓦の特徴から、慶長期に集中的な建設が行われていたようです。このことからこの時期になって、生駒氏は讃岐に対する領国支配の覚悟が固まったと見えます。信長・秀吉の時代は手柄を挙げ出世すると、領国移封も頻繁に行われていましたから讃岐が「終の棲家」とも思えなかったのかもしれません。

 参考文献 佐藤 竜馬  高松城はいつ造られたか

1高松城寛永16年

生駒時代の高松城のようすを、上の図1から説明すると
城の中央に天守閣があり、その西側に本丸、本丸の北側にニノ丸があり、ニノ丸の東側には三ノ丸があります。ここからは中濠と内濠に囲まれて西ノ丸と三ノ丸があるということが分かります。西ノ丸の下の方の一帯は、現在の「桜の馬場」になります。
 外濠は西の方には「西浜舟入」、東の方には[京浜舟入]と記されています。ここが前回にもお話しした船場になります。軍港としての役割もあったのではないかと私は考えています。
 この船場から南の方に下がって東西に走っているのが外濠です。この中濠と外濠に囲まれたところが、侍屋敷になります。その侍屋敷の南の中央辺りに、今の「三越」は位置しているようです。
 城への門は、中濠の南にかかっている橋が城への出入口で、大手門になります。外濠のあったところは、今では片原町から兵庫町、そして西の突き当たりが広場として残っています。
 城下町は、外濠から南の方に広がっていて、この地図にも当時の地名が書き込まれていますが、今の高松の商店街に残っている町名と殆ど同じです。例えば、片原町・兵庫町・丸亀町・塩屋町・新町・百聞町・通町・大工町・鍛冶屋町などです。当時のメーンストリートは、丸亀町から南新町へと南に進み、後に田町が発展して藤塚へと延びていくことになるようです。
1高松城 生駒時代屋敷割り図
生駒時代屋敷割図
                   
生駒騒動と生駒氏の改易
 秀吉によって讃岐一国を与えられた生駒氏によって、讃岐の近世は始まります。生駒氏は引田 → 聖通寺山と拠点を移し、高松に本格的なお城が築かれ、その南に城下町が形成されていくことになります。生駒氏は約五〇年間にわたって領主として支配し、讃岐に落ち着きを取り戻す善政を行ったと評価されています。
 ところが寛永十四年七月に国家老生駒帯刀が、生駒藩江戸家老前野助左衛門らを幕府に訴えたことから、「生駒騒動」が始まります。そして、寛永十七年五月に、「生駒藩内の家中立ち退き」が幕府で問題になります。生駒藩の家来が、国家老派と江戸家老派の二つに分かれ、江戸家老派に与した藩士が、讃岐からも江戸藩邸からも集団脱走して、大坂に集結するという大事件が起こりました。なぜ、そのようなことになったのか、ということについてはよくわかっていないようです。当然、家臣たちが藩邸を脱走すれば、藩が潰れるということは分かっているはずなのに、なぜ家臣たちが立退いたのか?当然、職場放棄し「脱走」した彼らも後に処分されます、この事件の原因については、諸説あって今後の課題のようです。

Ikoma_Takatoshi
生駒高俊
 この事件は、幕府の老中たちによって裁かれて、藩主の責任だということで、讃岐を取り上げられてしまいます。そして生駒高俊は、温暖な讃岐から秋田県の雪深い矢島へ移されてしまいます。矢島は、冬は2メートルも雪の積もる鳥海山の麓で、冬はスキーで賑わう小じんまりした町です。

1Matsudaira_Yorishige
松平頼重
 松平頼重による高松藩の基礎作り
 生駒氏が去った後、寛永十九年二月に松平頼重が高松藩主となります。この時に、讃岐は西の丸亀藩五万石余と高松藩11万石の二つに分けられます。ほぼ土器川から東の方の高松藩の政治体制・領内支配体制を作り上げていくのが松平頼重です。
 ちなみに、この人は水戸黄門のお兄さんになります。本来ならこの人が、水戸藩主になるべき人でした。一説には、頼重が生まれたときには、父の水戸藩主徳川頼房は、お兄さんたちに子供がなかったということで、頼重を世継として幕府に届けるのをためらった。そして、頼重を家臣に育てさせたと伝えられます。
 その六年後に弟の光圀が生まれました。その時には、お兄さんたちにも子供が生まれていたということで、頼房は光圀を世継として幕府に届けたといいます。こんな不遇な回り合わせにあった頼重は、やがてそのことが幕府に知れ、将軍徳川家光の耳にも入り、寛永十五年に下館藩(しもだて栃木県)の五万石の大名となります。そして四年後に高松城に入ることになります。このように高松藩は水戸家の分家的な存在で、幕府に非常に近く家門(親藩)という立場にある藩だったようです。
 城下上水道と溜池
 頼重が高松藩に入ってからの業績は、最後につけた年表にあるように、先ず城下に上水道を敷きます。上水道としては、全国的にみてそう古いものではありません。ただ、地下水を飲料水として使用したのは、全国初ということで注目されています。井戸としては次の三つが使われました。
「大井戸」現在でも瓦町の近くに大井戸というのが、規模を小さくして復元されて残っています。物が投げ込まれたりしていますが高松市の史跡です。
「亀井戸」亀井の井戸と呼ばれていたものです。五番丁の交差点の少し東の小さな路地があり、それを左に入ると亀井の井戸の跡があります。現在埋まっていますが、発掘調査をすればきっとその跡が出てくると思います。
「今井戸」ビルの谷間にほんとうに小さな祠が残っていて、鍛冶屋町付近の中央寄りの所で、普通に歩いていると見過ごしてしまうような路地の奥に、「水神社」の祠があります。この3つの井戸から、高松城下に飲料水としての井戸水を引いています。
 翌年の正保二年は、大旱魅で新らしく溜池を406を築いたといいます。しかし、一度に築いたものではなく、恐らく頼重の時代に築いたものが406で、この時にそれをまとめて記したものと研究者は考えているようです。どちらにしても生駒氏時代に西島八兵衛が溜池を築いたと同じように、頼重の時代に入っても溜池の築造が続いていたことがうかがわれます。
 高松城石垣の修築と検地
 正保三年には、高松城石垣の修築に着手しています。
この時期の高松城の様子を幕府が派遣した隠密が記録した「讃岐探索書」が残っています。
その中に、石垣が崩れているとか、土塀が壊れたりしていると書かれていて、当時の高松城は相当いたんでいたようです。生駒藩は、「生駒騒動」のごたごたで城の手入れも充分できていなかったのかもしれません。年表の寛文五年に、城下周辺から検地を始め、寛文十一年に終わるとあります。
 領主にとって検地は領地経営の根本に関わる重要事業です。
頼重も六年間かかって領内の検地をやり終えています。高松藩では、これ以後検地は行われていません。この検地によって、高松藩における年貢取り立てのための農民支配体制が、ほぼ出来上がったと考えることができます。
1高松城 松平頼重普請HPTIMAGE
いよいよ寛文十一年九月に高松城普請が始まります。
この工事の結果、できた高松城が図2です。
 普請前の生駒時代の違いについて、見ておきましょう
 一つは、生駒時代は東側の中濠は侍屋敷に沿っているだけでした。ところが普請後は、中濠が途中で東に分かれ下横町にぶつかってから北に進んでいます。この結果、中堀まで船が入ってこられる構造になっています。
 二つ目は、普請前は海に面した北の方は「捨石」と記されているように、石を捨てただけの簡単な石垣だったようです。ところが、普請後には、しっかりとした石垣もでき、爪か彫とか対手御門が新しくできています。
 三つ目として、普請前の城内への入り口である大手門が、普請後には橋がとりはらわれていて、右の方のが鼓櫓の横の濠の上に橋がかかっています。現在も、ここにある旭橋から城内に入ります。そして四つ目は北の方の一部に海を取り込んで北ノ丸を新しく造成し、さらに、東の方では侍屋敷と町屋を二つに分割して、新しく濠を設けて東ノ丸をつくり、もともとは城外であったところを城内に取り込んでいます。
 高松城普請は単なる城の修理ではなく、城の拡大であったということです。これ以後の高松城の姿は明治維新まで変わらなかったようです。
 
DSC02528

この城下の屏風は、高松城だけでなく城下町の様子まで描かれています。そのため城の様子や城下町の様子がとてもよくわかります。人々がどんなものを運んでいるのか、どんなものを着ているのかなど、細かく描かれています。そういう意味で、この屏風は当時の人たちの風俗などが、よく分かる大変貴重な資料と評価が高いようです。

1 高松城p51g

その後の高松城はどうなったかのでしょうか
図2の東ノ丸の米蔵丸のところには、現在は県民ホール(レグザム)が建っています。それから米蔵丸の半分から下の作事丸にかけて、県立ミュージアムがあり、その南には城内中学校がありました。城の中にいろいろな建物が建つことは、高松城は国史跡であり、文化財保護の立場から考えると、問題だという意見もあるようです。
 また、本丸の石垣のすぐ横の内濠の部分が築港駅のホームになっています。さらに西ノ丸の一部が中央通りにかかり、生駒時代の大手門の跡の近くの西の中濠が埋め立てられて現在電車が走っています。東ノ丸の東側の濠は、フェリー通りになっています。
1 高松城54pg
 明治以後、高松は港町として発展してきましたが、この城の辺りが港町として発展していくさいにお城の敷地が切り取られていった歴史があります。21世紀になって、この国にも心の余裕ができたようで、文化的な面にも目を向けていこうという時代になってきました。昔のままの高松城を復元するのは無理でも、少しでも昔の姿に、戻そうとする動きが出てきています。
1 高松城p1g

 昔の高松城は、海に接して石垣のある海城で、瀬戸内海からは海辺に石垣の見えるすばらしい城だったと思います。今では、石垣の北を埋め立てて道路になって、石垣が海に洗われる姿を見ることはできません。しかし、行政は石垣と道路の間の建物を撤去して散歩道をつくり、石垣の北を少し掘って海水を入れて濠のようにして、昔の高松城の姿に少しでも近づけようとしているようです。岡山行きのフェリーが廃止になった跡の利用にも期待したいと思っています。
1 高松城 教科書.明治34年 - 新日本古地図学会
参考文献
  木原 高松城と松平頼重
(『高松市教育文化研究所研究紀要』四五号。1994年)
          「高松城と松平頼重」関係年表
天正12年(1582)6月 本能寺の変
天正12年(1584)6月頃長宗我部元親、讃岐十河城を攻略する
天正13年(1585)春 長宗我部元親、四国を平定する。
   4月 豊臣秀吉、長宗我部元親攻撃を決定する。
   7月 豊臣秀吉、四国攻撃軍と長宗我部軍との和議を命令
   8月 千石秀久、豊臣秀吉より讃岐国を与えられる。
天正14年(1586)12月 豊臣秀吉、千石秀久より讃岐国を没収
天正15年(1587)8月生駒親正、豊臣秀吉より讃岐国を与えられる。
天正16年(1588) 春 生駒親正、高松城築城に着手
慶長2年(1597)春 生駒親正、丸亀城を築く。        
     生駒藩、この頃から同7年頃にかけて領内検地実施
慶長5年(1600)9月  関ヶ原の戦い。
慶長6年(160U 5月 生駒一正、徳川家康から讃岐国を安堵
慶長19年(1614)10月 大坂の陣始まる。
寛永4年(1627)8月  幕府隠密、讃岐を探索する。
寛永8年(1631)2月  西島八兵衛、満濃池を築造する。
寛永14年(1637)7月  生駒帯刀、幕府老中土井利勝らへ訴状衛出・生駒騒動の始まり)
寛永17年(1640)7月 生駒高悛、「生駒騒動」で讃岐国没収 
            羽国矢島1万石に移封。 
寛永18年(1641)9月山崎家治、西讃岐5万石余を与えられ丸亀城に拠る 
寛永19年(1642)2月  松平頼重、東讃岐12万石を与えられ高松城に拠る
正保 元年(1644) 高松城下に上水道を敷設する。
正保2年(1645) 讃岐大干ばつ
正保3年(1646)6月  高松城石垣の修築に着手する。
明暦3年(1657)3月  丸亀藩山崎家断絶する。       
万治元年(1658)2月  京極高和が山崎家領を継ぐ  i
万治3年(1660)この年丸亀藩、幕府より丸亀城普請を許される       
寛文5年(1665)この年 高松藩、城下周辺より検地を始め11年に完了する。これを「亥ノ内検地」という
寛文9年(1669)5月 高松城天守閣の上棟式が行われる。
翌年8年 造営が成る。
寛文10年(1670)丸亀藩、延宝にかけて検地を行う。
寛文11年(1671)9月  高松城普請が始まる。この年家臣知行米を「四つ成」渡しとする。
延宝元年(1673)2月高松藩主松平頼重、病により隠退する。
延宝2年(1674)9月 米蔵丸・作事丸(東ノ丸)が完成する。
延宝4年(1676)3月 月見櫓の棟上げが行われる。北ノ丸完成か
延宝5年(1677)5月 艮櫓が完成する。
元禄8年(1695)4月  松平頼重、死去

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