瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:田岡泰

明治23年 七箇村議会開設と増田穣三

 増田穣三に関しての資料は少ない。日記や手紙・私信等は戦争末期の高松大空襲の際に居住していた家屋が焼け、ほとんど残っていない。写真類も少ない。いわゆる「根本資料」がない。そのため周辺部から埋めていき人物を浮かび上がらせるという手法をとらざるえない。そんな中で
「まんのう町役場仲南支所に古い議会録が残っており、その中に明治期の七箇村のものがある」
と教えられた。閲覧を申し出ると、閲覧以外に写真撮影の許可もいただくことができた。この「七箇村村会議事録」を資料として、村会設立当時のまんのう町の情勢や行政課題、それに当時の指導者がどう向き合ったのかを見ていきたい。資料は明治23年から明治34年まで、穣三が村長を務めたいた時期も含めての議事録が(1部欠けている年度もあるが)5冊にわたって綴じ込まれている。

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 議事録は明治23年4月7日に始まる。
この年は前年に大日本帝国憲法が施行され,地方行政においても町村制が実施され、各村々に村議会が開設されることになった年でもある。
 ちなみにこの年は、譲三の華道師匠園田如松斉の七回忌でもあり、その顕彰碑が建てられた年であることは述べた。村会議員に選ばれ、同時に未生流の師範の地位を固めた年でもあった。穣三33歳の時である。まんのう町の議会政治の幕開けと、その「議事事始め風景」を見てみよう。
明治23年4月7日 七箇村村会義のメンバー11人は?
  最初に11人の議員の番号と名前が議長により確認される。
議員番号1番の増田傳吾は、増田本家の当主で穣三の叔父に当たる人物で、村長決定までの仮の議長を務めている。8番の増田喜与三郎と記されているのが穣三である。彼は、30代半ばまではこの名前を使っており、後に穣三と改名する。7番の田岡泰は、増田穣三と同年生まれの幼なじみで、未生流華道の園田如松斉の下に共に通った仲でもある。ちなみに、この中には春日の増田一門につながる議員が3名含まれている。
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  最初に「村会運営細則」が議長の進行で1条ずつ審議され、挙手や起立や拍手による賛意表明ではなくひとりひとりを議長が指名し、賛否表明を求め賛成多数を確認後に決して行くという形で進められる。ちなみに成立した「運営細則」は次のような物であった。
第1条 会議の時間は午前10時に始まり、午後4時に終わる。ただし議長意見を以て伸縮することあるべし。
第2条 議員の席順はあらかじめ抽選にてこれを決めておく。
第3条 議場においては議員の姓名を呼ばず、その議員番号をもちうること。
第4条 議案は議員召集の際にあらかじめ伝えること。ただし場合により本条が適応できないこともある
第5条 議長は書記に提出議案等を朗読させる。
    (途中破損)     
第9条 議論饒舌になり無用の説と認められるときには、議長がこれを制すことが出来る。
第11条会議中は議員相互の私語することは禁止。                                                      (以下破損により読み取り不能)
第13条 議員病気又は事故で欠席する場合は、書面を提出すること。ただ、本条の届書は保証人として最寄りの議員の連名が必要である。
第14条 この細則に違反し、正当な理由なくして欠席又は遅刻する者は議論の上2円以下の過怠金を課することができる。
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村長と助役選挙の結果が知事に次のように報告されている。  

七箇村村長及び助役選挙のため4月7日、七箇村大字七箇において村会議を開き、議長に増田伝蔵、立会人に近石植次郎を選任し、村長選挙を実施した。
投票総数は12票
11点 田岡泰
1点  増田穣三
続いて助役投票を行った。開封の結果は次の通り
8点  矢野熊五郎
4点  増田穣三
以上の投票数の多数を比較し田岡泰を村長当選者、矢野龜五郎を助役当選者と決定した。投票終了後に再度投票用紙等を確認し、選挙事務を終了し閉会とした。選挙の結果を記録し議員の面前でこれを朗読後に、2名の議員によって確認しながら清書をした。
以上 署名押印 議長 増田伝吾 近石桂次郎
  増田穣三(当時は喜与三郎)が次点に挙げられている。

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しかし、村長に当選したのは幼なじみの田岡泰であった。

増田穣三の幼なじみの田岡泰について 知事への選挙結果報告書には、田岡泰の自筆履歴書が添えられている。これを見ながらその人となりを見ていこう。
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田岡 泰 七箇村初代村長                                            
安政5年(1858) 9月8日 ~ 大正15年(1926)10月10日  (64歳)
春日、田岡照治郎の長男。梅里と号し、明治元年から明治4年まで三野郡上麻村の森啓吾に従って漢学を学び、
明治5年から明治7年まで高松の黒木茂矩に皇漢学を学んだ。
明治8年から1 年間県立成章学校(後の香川師範学校)に入学して普通学を修め、
明治10年から1年間大阪の藤沢南岳に師事して儒学を修めて帰郷した。(20歳?)
明治12年七箇村黄葉学校の教員兼併区監視
明治13年高篠学校の教員を勤め、
明治18年~明治21年まで那珂、多度併合会議員に選ばれた。
明治22年3月には榎井村養蚕伝習所に入所して養蚕伝習受講。
 明治19年1月居村窮民為救助白米を施与したことにつき賞せられる。賞状は別途の通り
 罰 刑罰なし 以上の通り相違なし。
 香川県那珂郡七箇村大字七箇村 平民 田岡泰
この履歴書に加えて、仲南町誌には以下の内容が加えられている
明治23年4月1 日から明治31年まで七箇村の初代村長に選ばれた。
明治31年4月25日から明治32年3月7日まで県会議員、
明治32年9月30日から明治36年9月29日まで郡会議員を勤めた。この間、七箇村外三カ村連合村会議員にも選ばれた。
明治33年10月には、営業前の西讃電灯の臨時株主総会において、監査役に就任。村長在任中は地方行政に数多くの功績を残されたが、なかでも塩入新道の開通には特に力を入れて現在の県道丸亀三好線(県道4号線)の基をつくった。
後年、広島村長、吉原村長にも選ばれ、これらの功績により勲七等瑞宝章を賜り、晩年は丸亀で余生を楽しまれた。

春日のお寺の墓地で、田岡泰の墓を見つけた。

この墓に漢文で刻まれた碑文も村長就任時の履歴書がベースになっているようだ。この履歴書からは、興味深いことがいくつか分かる。
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まず生まれが安政5年9月であり、増田穣三より1ヶ月遅生まれの幼なじみになる。
同じ春日に、生まれた二人の生き方は、この後、互いに交わりながら人生の糸を紡いでいく。 
田岡泰の墓碑には、穣三の碑文にはなかった次のような教育歴が載せられている。
上麻村(高瀬町)の森啓吾(漢学) → 高松の黒木茂矩(皇漢学) → 香川師範学校(普通学) → 大阪の藤沢南岳(儒学)20歳で帰郷
  彼も幼年期には、馬背峠を越え佐文を抜けて上麻までの道のりを勉学のために通っていたことになる。続いて高松在住でまんのう町出身の黒木茂矩について皇漢学を学び、その上で師範教育を受けている。さらに、当時、数千人の門人を擁した大坂の泊園書院への遊学経験もある。20歳で帰郷後は、七箇村の教員を務め、さらに榎井村私立養蚕伝習所に入り、養蚕技術の指導をめざすなど、隣村財田村の大久保諶之丞を見習ったような経歴もある。
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田岡泰の墓碑

 地域にとっては、近代教育を受けた頼りになる若きリーダーとして地歩を固めていった。明治初年は高等教育が整備されておらず、農村の富裕層の師弟は、いち早く整備された師範学校に進んだ者が多い。卒業後、教員として地域に馴染み、その後に村の指導者に成長・転身していくというパターンである。田岡泰も、その典型と言えよう。
 明治23年大日本帝国憲法施行 → 国会開設 → 県・市町村地方議会の開設  という政治的な流れの中で、初めての村会議員選出が行われる。選出された議員の中に33歳の田岡泰と増田穣三がいる。そして、議員互選により初代七箇村長に選出されたのは、田岡泰であった。
なぜ初代村長は増田穣三でなく田岡泰だったのか。
 当時の増田穣三は「お花の先生」「浄瑠璃の太夫」「書道家」というに風流人としての「粋さ」を身につけた「増田家分家の若旦那」という印象を周囲からもたれていたのではないかと書いた。対して田岡泰は「師範学校出身の先生」「養蚕技術の導入者」として頼りになる村のリーダーというイメージがあったのではないか。行き過ぎた推論かもしれないが、こんな人物評が田岡泰を初代村長に推した背景ではないだろうか。 

 助役に就任するのが矢野龜五郎

 亀五郎は、増田穣三よりも20歳年上で、明治維新後の七箇・塩入村戸長となり、その後22年間村政の舵取り役を務めている。そして、次世代の若きリーダーとして田岡泰・増田穣三を育成し、明治23年に新役場が開かれると、田岡泰を村長に据えて自分は助役に就任。さらに4年後には、助役も退き増田穣三にバトンタッチ。次世代への引継ぎを円滑に行って勇退している。彼も春日出身である。春日の七箇村での優位性指導性と共に人脈の豊富さを感じさせる。春日の若きリーダーによって「村の明治維新」は、姿を整えられていく。
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   なお、亀五郎の養子である晃は、戦後に多度津国民学校校長依願退職後に、増田一良の後を受けて第10代七箇村村長に就いている。

参考文献 仲南町史
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 塩入街道 東山越開通まで七箇村(現まんのう町)を中心に

 前回は丸亀三好線(現県道4号)の建設過程を、徳島の昼間村を中心に見てきました。今回は、香川側の動きを見ていきます。
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 丸亀三好線の建設について、仲南町誌で確認してみます 
この道は七箇村経由金毘羅参詣阿波街道とも呼ばれている。阿波の三加茂・昼間・足代方面から阿讃国境の樫の休場越又は東山越をして塩入村で合流し、一本松を経て七箇村に入り堀切峠を越え岸上村・五条村を通り琴平村の阿波町に至る金毘羅参りの街道であった。
 藩政時代阿波藩は鎖国の国といわれたが生活必需品の塩だけは、この道を通って阿波に入っていた。明治時代に入って、交易の自由化にともないたばこなどの阿波の特産物が盛んに讃岐に入るようになり、また仮耕牛の行き来も盛んになった。そのため明治28年(1895)ごろから漸次道路改修が行われ、現在の県道丸亀三好線の基をなした。
 阿讃国境附近の道路改修は当時としては東山越の方が便利と考えてか、この道を県道として改良したので、樫の休場越はしだいに寂れてしまった。また、堀切峠は明治三三年(一九〇〇)に改修されるまでは現在の県道より五~六mも高い所を通っていた。  (以上 仲南町誌942P)

 丸亀三好線(香川県では塩入街道)の開通までを年表にしてみた。

1890(M23)年 猪ノ鼻越の四国新道の部分開通
         初代七箇村村長に田岡泰(33歳)就任。
9・25 香川県が里道改修補助費取扱規定を定め工費の三分の一を補助決定。町村道改修に県の公費補助が認められ、里道改修促進され、工事申請が増加。
1892 昼間村長田村熊蔵が香川県分の新道改修を七ケ村長田岡泰に依頼。両県から工事を進め東山峠で結びつけることに合意。
1894 四国新道開通式挙行 四県知事が出席して琴平町で行う。
1895 七箇村 東山越里道改修始まる(四国新道への対抗策?)
1899 4月26日 田岡泰が七箇村長退任、
    増田穣三が第二代村長に就任(41歳)増田穣三が「琴平・榎井・神野・七箇一町三村道路改修組合長と為る」
1900 堀切峠の改修終わる
1901 塩入越及び真野里道改修落成式を大井神社境内で挙行
1902 徳島県が4ヶ年継続事業として男山から東山峠への新道     建設への補助金交付決定
1906 東山峠で結合。(後の県道丸亀~三好線)開通
   香川県七箇村と徳島県昼間町を車馬による交通が可能に
   増田穣三 七箇村長退任 第3代 近石伝四郎村長就任

1890年に猪ノ鼻越の「四国新道」が部分開通しています

これが、財田村にもたらした経済効果は大きかったようです。
七箇村の初代村長に就任した田岡泰は、これをどう見たののでしょうか。新道を作り、人とモノが動くようになれば、その沿線にお金が落ちるようになり、経済的な発展をもたらす。ということを目にしたことでしょう。これを見て七箇村も「塩入街道」の新道化(=グレードアップ化)に取り組むことの必要性を痛感したのではないでしょうかか。
新道建設に向けて、2つの追風が吹きます。
①里道改修に県からの補助が受けれるようになったこと。
②徳島県の昼間村長から「新道建設」に向けて「共同戦線」を結ぶことの提案があったこと。
これを受けて田岡泰は1895年に、まずは塩入・琴平間の改修に取りかかります。しかし、予算確保が進まず工事着手に至りません。

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1899年、田岡泰が村長退任し、替わって助役の増田穣三が第2代村長に就任します。

新道建設は、幼なじみの増田穣三にバトンタッチされることになります。穣三は、七箇村だけでは荷が重すぎるのをで、沿線沿いの琴平・榎井・神野七箇の一町三村と道路改修組合を結成します。そして、その組合長に就任し、予算確保に奔走します。
ちなみに、当時は村長は村会議員の互選、そして県会議員も兼務可という「複選制」でした。もし、増田穣三が名刺を持っていたらそこには、香川県議会議員 七箇村長 七箇村議の3つの肩書きが並んでいたはずです。村長がその地域の利益代表として、県会議員として県議会等で道路建設等の補助金確保に奔走する姿が見られるようにななったのがこの時期からのことのようです。
 資金のめどがつき、堀切峠の切通工事が竣工するのが1901年秋のことでした。これを、当時の新聞は次のように伝えています。


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堀切峠から南方の阿讃の山脈を見上げる 
里道塩入線開通までわずか
  明治33年(1900)11月17日『香川新報』
 仲多度郡琴平、榎井両地を起点とし神野七箇両村を経て徳島県三好郡昼間村に至り撫養街道に接続の入里道延長約八里の改修は去る29年2月を以て起工せし。右延長里程中本県に属する里程は四里十六丁にして此の中山間工事と称すへき里程 約二里あり。加ふるに国境に於て四十尺余の切下けあり 神野七箇の村界にても数十尺の開繋ケ所ありて総工費は六万余円の予算にて着手せしものなるか。爾来工事継続し山間部の残工事は来る26日頃を以て終了すへく 又神野村五条より琴平阿波町と東の方榎井村宇旗岡に至り県道に接続すへき間の工事は、目下専ら施工中にて来月中旬頃迄には竣了の予定なり。右両所竣功せは開通に至る事なるか此の里道改修に當りては専ら盡力させしは増田、田岡の諸氏にて沿道村民の寄附又少からさりしなり。
総工費は香川側が6万円余り、徳島側22334円 合計で約8万円。大久保諶之丞発案の四国新道全体の額からすれば1/7程度です。しかし、工事区間から考えれば、決して見劣りがするものではありません。最後に「開通に至る事なるか此の里道改修に當りては専ら盡力させしは増田、田岡の諸氏」と田岡泰前村長と増田穣三町長に賛辞の声を送っています。
 さらに「沿道村民の寄附又少からさりしなり」と結んでいる。
「寄付」という形で地元負担金を負担したのは、どんな人たちだったのでしょうか。『香川新報』に、「木杯と賞状」と見出しのついた次のような記事があります。
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 塩入越里道改修費への寄付一覧 明治33年11月10日
仲多度郡塩入越里道改修費中へ左記名下の金額寄付せし兼により今回木杯1個又は賞状を下付さる。
仲多度郡七箇村 馬場和次郎(75円) 
十郷村 大西貞次郎(40円) 
七箇村 石川広次(40円) 
葛原宇三郎(30円) 
山本喜之次(30円) 
葛原倉蔵(25円)
増田伝次(25円) 
山崎岩次(21円50銭) 
大西三蔵(20円) 
近石歌次(12円) 
山内万藏(12円) 
東淵才次(11円10銭) 
近石藤太(11円)、川原岩次(同) 
近石米次(10円80銭)
増田慶次(12円40銭) 
以下10円 
近石直七 久保弥平、森藤和多次、原田時次、大東又八 横田綾次、垂水村浄楽寺(各10円)其他同郡榎井村 中条亀三(9円)、外69名へは賞状。
 こうして1901年(明治34年)6月9日に 「七箇村塩入越及び真野里道」(丸亀三好線)の落成式が神野村の大井神社境内で行われます。
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 この席に「道路改修組合長」を勤めていた増田穣三は、どんな思いで出席していたのだろうか。11年前に田岡泰村長が昼間村長が約束した「新道を東山峠で結合しよう」という約束を果たしたことになります。
 この香川県側の動きを受けて、徳島県も動き出します。
補助金交付を決定し、1902年から男山~東山峠への区間が「四カ年継続事業」として認定されます。そして4年後の1906年に昼間と東山峠区間が完成します。こうして車馬が通行できる新道が七箇村と昼間村を結ぶことになります。猪ノ鼻峠を越える四国新道の開通から16年後のことでした。沿線の人たちは、新たな時代の始まりと思ったのではないでしょうか。
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財田上ノ村戸長 大久保諶之丞に学ぶ村の経営学

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明治23年4月 七箇村で23歳の田岡泰が戸長、増田穣三が村会議員としてスタートした頃、時代がこの地域の指導者に求めていたものは、何だったのだろう。前例のない時代を地図もコンパスも持たずに村の指導者として歩み出す幼なじみのふたり。
この時代、隣村の財田には新しいタイプの指導者が登場し、その言動が注目を引くようになっていた。大久保諶之丞である。明治初年の村のリーダーが直面した課題や障害、それにどう取り組んだのか、諶之丞を参考に考えてみよう。そして、春日の田岡泰や増田穣三にとって、10歳年上にあたる諶之丞の言動はどのように見えていたのだろう探ってみよう。
  まずは、大久保諶之丞の年譜確認から
嘉永2年(1849) 財田村奥屋谷の素封家に生まれる
           幼年より陽明学を学ぶ。弟はは尽誠学舎創設者の彦三郎。
慶應2年(1866) 父森冶の後妻の娘タメと結婚。(17歳) 
明治3年(1870) 満濃池の改修工事に参加し土木技術習得
 明治5年(1872)    財田村役場に勤務(村長代行的役割)(23歳)
 
村内の子弟を山梨県に派遣し、養蚕業の技術を地元に根付かる。
明治6年(1873) 「西讃竹槍騒動」で自分の家を襲われ焼失
           同年戸長(村長)に任命される
 明治11年(1878)猪ノ鼻峠から阿波に続く「新がけ」道を完成、
    すべて地元負担で建設。これが「四国新道」構想の端緒。
明治12年(1879)三野豊田郡役所の勧業係となり、谷道開発・修繕に従事。コレラの全国的な流行に対し、医師の養成計画「育医講」を作り、奨学金給付。育英資金は村民120名の講から拠出。
明治17年(1884) 四国新道期成同盟を結成。
明治18年(1885) 吉野川からの導水を提唱、請願書提出
明治19年(1886) 金刀比羅宮神事場にて四国新道開削起工式。
明治20年(1887) 讃岐鉄道の請願委員の一人として書名。
明治21年(1888) 愛媛県会議員就任(40歳)
明治22年(1889) 讃岐鉄道開通式で、「瀬戸大橋」構想発表。
明治23年(1890) 讃岐阿波新道完成。
明治24年(1891) 県庁議会場で討議中、倒れ込み高松病院へ。
            2月14日尿毒症を併発し死亡。
 政治家としての活動期間は僅か3年です。。

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 晩年、四国新道建設のための工事費工面のために注ぎ込んだ私財は、当時の金額で6500円。そのため父祖よりの蓄えと、田畑、山林のほとんどが人手に渡っていたと云います。残された家族は三度の食事にも窮したとも伝えらます。
年譜から見えてくること
1 大久保諶之丞は、田岡泰や増田穣三よりも一回り年長。明治維新を19歳で迎えている。
2 幕末の志士と同じく陽明学を学び「学問・思想と行動の結合」という行動主義を身につけている。
3 23歳の時に「西讃竹槍一揆」の一揆集団に、地主層と見なされ自分の家を焼き討ちされている。この事件の彼に与えた影響は大きかったのではないか。
4 その影響からか村経営の指導的な立場に立つと、農民の生活を豊かにするためにの改善策を、真剣に考える。そして養蚕業の移植・北海道移民・講組織による医師養成等、いろいろなアイデアを実行して行く行動力と使命感がうかがえる。
5 その際に、四国新道起工式でプロモートした「鍬踊り」のようにユーモアや面白さも持ち合わせており、使命感が強いだけの堅いイメージではない。それが人々を結びつけていく武器となったようだ。
6 また四国新道建設推進のために、高知まで出向き、初見の高知知事の協力をとりつけるなど要人の懐に飛び込んで、味方につけていく「人たらし」の力も持っていた。
7 しかし、県会議員、在職年数わずか3年。議会での質問中の殉死である。
 諶之丞が議場で壮絶な死を遂げたのが明治24年(1891)。地元の財田に遺骸が帰ってくるのを、村民達は完成したばかりの四国新道沿いに出て、涙を流しながら出迎えたと伝えられる。これを、村会議員2年目の増田穣三は、どのような思いを抱きながら見守ったのであろうか。
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 どちらにしても、田岡泰や増田穣三は大久保諶之丞の影響を少なからず受けている。また受けざる得なかった。二人の碑文の業績には「東山道改修に尽力」という言葉が刻まれている。大久保諶之丞が四国新道と「殉死」したように、道路改修は以後の指導者の大きな課題であり「夢」となっていく。

田岡泰について

春日出身の国会議員 増田穣三をめぐって「町誌の森」歩きが続く。
その森の中で田岡泰という人物に出会った。仲南町誌(1320P)に増田穣三に続いて、次のように紹介されている。
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田岡 泰の墓(春光寺 まんのう町春日)
田岡 泰 七箇村初代村長
安政五年(一八五八)九月八日
大正一五年(一九二六)一〇月一〇日  (64歳)
春日、田岡照治郎の長男。梅里と号し、   
明治元年から明治四年まで三野郡上麻村の森啓吾に漢学を学び、
明治五年から明治七年まで高松の黒木茂矩に皇漢学を学んだ。
明治八年 県立成章学校(後の香川師範学校)に入学
明治10年から一年間大阪の藤沢南岳に師事して帰郷。(20歳?)
明治一二年七箇村黄葉学校の教員兼併区監視、
明治一三年高篠学校の教員を勤め、
明治一八年から明治21年まで那珂、多度、併合会議員に選ばれた。
明治二二年三月には榎井村私立養蚕伝習所に入所して養蚕伝習受講
明治二三年四月一日から明治三一年まで七箇村の初代村長に選出。
明治三一年四月二五目から明治三二年三月七日まで県会議員、
明治三二年九月三〇日から明治三六年九月二九日まで郡会議員。
この間七箇村外三カ村連合村会議員にも選ばれた。
明治三十三年十月二十一日 西讃電灯の臨時株主総会において、監査役に就任。
村長在任中は地方行政に数多くの功績を残されたが、なかでも塩入新道の開通には特に力を入れて現在の県道丸亀三好線(一〇九号線)の基をつくった。後年、広島村長、吉原村長にも選ばれ、これらの功績により勲七等瑞宝章を賜り、晩年は丸亀で余生を楽しまれた。
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                  田岡泰の墓標
 春日のお寺の墓地で田岡泰の墓を偶然に見つけた。この墓に漢文で刻まれた碑文を意訳したのが上記記述になるようだ。
ここからは、興味深いことがいくつか分かる
 まず生まれが安政5年9月であり、増田穣三より1ヶ月遅く生まれた幼なじみであるという点である。同じ春日に、同じ富農の家に生まれた二人の生き方は、互いに交わり七箇村で糸を紡いでいくように進んでいく。この墓碑には、穣三の碑文にはなかった教育歴が載せられている。
①上麻村(高瀬町)の森啓吾(漢学) 
②高松の黒木茂矩(皇漢学)
③香川師範学校(普通学)
④大阪の藤沢南岳(儒学)20歳で帰郷
  和漢の学をベースに師範教育も受けている。さらに、当時、数千人の門人を擁した大坂の泊園書院への遊学経験もある。20歳で帰郷後は、七箇村の教員を務め、さらに榎井村私立養蚕伝習所に入り、養蚕技術の指導をめざすなど、地域にとっては近代教育を受けた若きリーダーとして地歩を固めていったようである。
 明治初年は高等教育が整備されておらず、農村の富裕層の師弟は、いち早く整備された師範学校に進んだ者が多い。卒業後、教員として地域に馴染み、その後に村の指導者に成長・転身していくというパターンである。田岡泰も、その典型と言えよう。

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                  田岡泰の墓標
 明治23年大日本帝国憲法施行 → 国会開設 → 県・市町村地方議会の開設  という政治的な流れの中で,初めての村会議員選出が行われると田岡泰も増田穣三も選出されている。そして議員の互選により初代七箇村長に選出されたのは、田岡泰であった。
   増田穣三ともに32歳のことである。若きリーダーの登場である。彼らによって「村にやってきた明治維新」は、姿を整えられていくことになる。

増田穣三がどんな教育を受けたのかを見てみましょう。

 穣三の生まれは安政元年(1855年)。
安政の大獄間際で幕末に向けて時代が激流化していく時期だ。金比羅山のお膝元である天領榎井では、日柳燕石が博徒の親分としてブイブイ言わせ、後には高杉晋作などの尊皇の志士たちが琴平の地を活発に行き交う時期に当たる。

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三舟の父 日柳燕石

 こんな時に幼年期を過ごした穣三が師事した人物については「日柳三舟 中村三蕉 黒木啓吾等に従うて和漢の学を修め」と3名挙げられている。
まず師事したのは、琴平の日柳三舟 (くさなぎ さんしゅう)
 三舟は天領榎井(現琴平町)の日柳燕石の長男で、穣三より19歳年上にあたる。幕末、父燕石は、倉敷代官所の追手から高杉晋作を逃がした罪で4年間の獄中生活を高松で送っていた。明治維新になると新政府により出獄を許され、官軍の書記官的な役割で従軍し、鳥羽伏見の戦いに参加し、その後越後の柏崎で病死する。その期間、三舟は父を投獄者に持つ身として、医院を閉めて榎井で塾を開いたようだ。そこへ幼い日の穣三が通っていたことになる。

 父燕石の死後、三舟は伝手を頼って大阪に出て行く。その後、栄達の道を歩み大阪府学務課長を務め、大阪師範学校長に就任。さらに盲唖学校愛育社を創設し、国定教科書の原型を作るなど教育面で活躍する。

 三舟については、増田本家の総領で穣三の従兄弟に当たる増田一良が次のような回顧文を残している。 

従兄弟の増田穣三氏が若い頃に、呉服商を営んでおり、わが妹の婚衣の呉服仕込みのために京都に同行したことがある。その際の帰路、穣三氏が幼年期に師事した大阪の日柳三船先生を訪問するのに同行した。三船先生は那珂郡榎井村の出身で維新の勤王家として知られた日柳燕石先生の長男である。当時は、大阪府参事官を勤め大阪に在住であった。
 いろいろな話をしている内に、先生がかつて吾家に立ち寄ったことがあることが分かった。吾屋敷にそびえる巨木の榎に話が及び、記念に「古翠軒」という家の号を書き下された。今、わが家の居室に掲げられている大きな額がそれである。
 この回顧資料からは増田家本家には榎木の巨木が邸内にそびえ立ち、周辺からの目印になっていたこと。それが戦後の昭和38年に、風もないのに倒れたことが記されている。続いて、妹の婚礼衣装の買付の京都からの帰路に、大阪参事官を務めていた日柳三舟に会いに行き歓待を受け、自宅の榎の巨木にちなんで「古翠軒」という家の号を揮毫してもらったことが回顧されている。
 この回顧分から増田穣三が日柳三舟に師事していたことが裏付けられる。
穣三は幼い足で、春日から堀切峠を抜けて神野村を通って榎井にある三舟の下へ8キロの道のりを通っていたのだ。この道は10年後には、山下谷次が琴平神宮の明道黌で学ぶために通った道でもある。そして、この「通学路」は、後に穣三が村長として「里道改修」に取組み、現在の県道「丸亀ー三好線」に格上げされ、東山峠から阿波へとつながる県道に「昇格」していく。それは、まだまだ先のことである。

次に師事したのが丸亀の中村三蕉である 

 1817年(文化14年)生まれで明治維新を50歳前後で迎えた丸亀藩士である。上京し昌平校で学び、藩主の侍講、藩校正明館教授を勤めるなど丸亀藩で学問上の指導的な位置にあった人物である。維新後は小・中学校でも教壇に立ち、明治27年8月27日に78歳で死去している。増田穣三は、琴平の日柳三舟に学んだ後に丸亀まで通い、中村三蕉の下でさらに漢学・儒学・漢詩創作などの素養を深めたのだろう。

三人目が高松の黒木啓吾である。

  この人物については、現在のところ資料が見当たらない。推察としては、まんのう町吉野の大宮神社の社家である黒木家につながる人物ではないかと思う。黒木家は江戸時代から続く漢学者の家系で、幕末期の日柳燕石らに学んだ黒木茂矩が高松藩藩校・講道館学寮教授、教部省の神道教導職、金刀比羅宮の禰宜(ねぎ)を務めるなど、この時期の讃岐の国学神学をリードした人物である。明治初期の廃物運動の中讃地区での中心人物でもある。増田穣三の幼なじみで初代の七箇村村長となる田岡泰や財田の大久保諶之丞の弟彦三郎も高松在住の黒本茂矩のもとで学んだとある。しかし、黒木啓吾について不明で今後の課題である。

増田穣三が学んだ「学問」とは、どんなものだったのか?

 明治維新の前と後を考える場合、政治的には「維新」と言う不連続面に光を当てて語られることが多い。しかし、農村部では生活・文化様式や価値観においては、江戸時代とあまり変化はない。「明治維新」が目に見える形で地方にまでやってくるのは、鉄道が敷かれ蒸気機関車が琴平まで通い出したり、旧丸亀中学本館のような西洋風の公共建築物が姿を見せるもっと後のことだ。農村部では、着ているものも、食べるものも、家も変わりなく江戸と明治初期は続いており、連続面の方が多い。
 例えば、増田一良の母親の出里である羽床の宮武家は、反骨のジャーナリスト宮武外骨を世に送り出している。その外骨が明治初期に東京遊学の際に、大地主である父親が求めたのは「将来の地主層としてのつきあいに必要な漢詩・儒学・華道・茶道を身につけて帰ってくること」であったという。英語を学び洋学を身につけよという発想は、いまだない。また、この時代はには学制も整備されておらず、帝国大学もなく教育による「立身出世」という社会システムも未整備だった。田舎においては江戸時代の価値観からまだ大きく変化はしていない。
 そのため地主達の師弟教育は、従来通りの「和漢の学」が中心だった。穣三も漢学・儒学に加えて漢詩、書道、華道という農村部の名望家にとって必須教養とされるものを学んだのは自然なことだった。

 若き日の増田穣三が最も惹かれたのは何だったのか。

 穣三の顕彰碑には、次のような部分がある。
「如松斉丹波法橋の門を叩いて立花挿花の菖奥を究め、終に斯流の家元を継承し夥多の門下生を出すに至れり」という部分だ。
  華道に打ち込み、家元を継承し多くの門下生を持ったという。つまり、若き日の彼は、政治家としてよりも華道の師匠として、人生を出発させたようだ。その経緯を見ていきたい。  

未生流華道の師 園田如松斉について 

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まんのう町宮田の西光寺(法然堂)の園田如松斉の石碑
 増田穣三の華道の師匠に当たる園田如松斉の碑文が宮田の西光寺(法然堂)に残っていると聞いて行ってみた。琴平から国道32号を南に2㎞程南下すると樅ノ木峠への傾斜がきつくなる。その国道から200㍍ほど西側に西光寺はある。法然が流刑となった際に、この地までやって来たとされ地元では法然堂と呼ばれている。

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園田如松斉の顕彰碑(まんのう町宮田 法然堂)
 その境内の本堂の前に園田如松斉の顕彰碑は建てられていた。碑文内容は仲南町誌に掲載されている。意訳すると次のようになる。 
如松斉は丹波の国、園田市左衛門の二男である。
悟譽蓬山和尚と称し、浄土宗西山派の僧侶で文久2年宮田の西光寺の第17世住職となり堂塔の修繕などを行いその功績著しかった。
 明治4年2月10日、生間の豊島家の持庵に移住して本尊薬師如来の奉祭にあたった。生花を好み未生流の師範として遠近から集り来る者が多く、自庵で教授するばかりか各地方に招かれて出張指導した。その結果、広く那珂郡南部一帯に普及発展して門弟は六百余名に達した。
明治16年2月17日死去、享年76歳。
春日の増田秋峰(穣三)は、その高弟で皆伝を許された。
明治23年4月増田穣三らによって、西光寺境内にこの碑が建てられた。
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 碑文裏側には、建立発起人の名前が並んでいるが、その先頭にあるのは増田秋峰(穣三)である。その次には、穣三の幼なじみの田岡泰の名がある。3番目は佐文の法照寺5代住職三好霊順である。
  この碑文が建てられたのは明治22年、如松斉没後7回忌の年に当たる。この年、初めて七箇村会が開かれ、増田穣三も田岡泰も議員に共に33歳で選出される。そして、議員互選で村長に選ばれたのは田岡泰であった。 

この碑文の発起人の筆頭に増田穣三の名前があると言うことは、どういうことを意味するのか。

それは、年若い穣三が如松斉亡き後の門下を束ね指導し、その実績を背景に名実共に後継者となっていたことが推察される。

未生流(みしょう)華道とは、どんな流派だったのか。

  未生流は、文化文政時代に未生齋一甫(通称:山村山碩(さんせき)によって創流され、大坂を中心に幕末から明治にかけて広がった華道の新しい流だという。
 その目指すものは、陰陽五行説・老荘思想・仏教の宗教的観念を根本的思想おき、挿花を通じ自己の悟りを開くという精神的に極めて高い境地を目指した。また、直角二等辺三角形に役枝を配する明快な花形に込められた理論と哲学は、新しく「華道」と呼ぶにふさわしい道を開こうとするもので、明治という新しい時代にマッチした教えだと受けいれられた。

未生流を、中讃地域に最初に持ち込んだのが如松斉だった。

そういう意味では如松斉は、西讃地域の華道の新潮流の先頭にいた人物と言えよう。その流れの中に若き増田穣三は飛び込んでいき、若き後継者に成長していく。幼年期に身につけた儒学・漢学・漢詩の素養を花を活けるという手段で一つの世界を表現し、作り上げていくという作為がピッタリと来たのかもしれない。

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未生流(みしょう)華道の作品

なぜ園田如松斉の後を、若い穣三が継ぐことになったのか?

仲南町誌(584P)には、晩年の如松斉が穣三に対して、強い思い入れを持っていたことを伝える次のような記述がある。
「園田如松斉は病伏中も若き高弟増田穣三に対して、腹の上に花台を置いて指導し皆伝を許可。」とあり、
 死を目前にその腹の上に花台を置いて、臨終の際まで指導を行い経験の少ない穣三に皆伝を許可したと伝えられる。
 穣三顕彰碑文には「(園田如松斉の)家元を継承し、夥多の門下生を出すに至れり」と刻まれている。後継者候補として、彼よりも年上で経験豊富な人物は何人もいたと思われるが穣三が選ばれたのはどうしてか? それは、若き穣三の中に、多くの門下生をまとめ上げ、指導していく寛容力や人間的な魅力があると如松斉は見抜いたのではないか。
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秋峰とは増田穣三の号 佐文の尾﨑伝次に出された免状 

 いずれにせよ27歳で後継者となった穣三は一門を束ね、指導していく責務を果たしていく。それが新たな人間関係を結んだり接待術・交流・交渉力などを養うことにつながり、後の政治家としての素養ともなる。
  この時期の周囲の穣三に対してのイメージは、「増田家分家の若旦那」「未生流華道の先生」「歌舞伎芝居の浄瑠璃太夫」という所ではなかったか。
 

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