瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:由佐城

 前回は香西成資の南海治乱記と、阿波の三好記に書かれた記述内容を比較してみました。今回は、前回登場してきた岡城と由佐城について、もう少し詳しく見ていくことにします。テキストは「由佐城跡 香川県中世城館調査分布調査報告2003年206P 香川県教育委員会」です。

香川県中世城館分布調査報告書
香川県城館跡詳細分布調査報告

南海治乱記の阿波平定に関する記述は、大部分は『三好記』の記述を写しています。しかし、(富)岡城については、次のような記述の違いもありました。
三好記では「長曽加部内記亮親泰」は「富岡ノ城」に「被居」
南海治乱記は「牛岐ノ城ニハ香曽我部親泰入城(後略)」
ここに出てくる「(富)岡ノ城」とは、阿波にある城でなく讃岐国香川郡の「岡舘(岡城)」(香南町)のことでした。そして、岡城のすぐそばに由佐城があります。『南海治乱記』著者の香西成資は、そのことに気づいて、「長曽加部内記亮親泰」が「(富)岡ノ城」に「被居」たことを省略したようです。それは、土佐勢力が岡城を占領支配していたとすれば、その目と鼻の先にある由佐氏は、それに従っていたことになります。それはまずいとかんがえたのでしょう。  岡城について、別の史料で見ておきましょう。
岡城が文書に最初に登場するのは、観応2年(1351)の由佐家文書です。
「讃岐国香川郡由佐家文書」左兵衛尉某奉書写122'
安原鳥屋岡要害之事、京都御左右之間、不可有疎略候也、傷城中警固於無沙汰之輩者、載交名起請之詞、可有注進候也、乃執達如件、
観応二卯月十五日                          左兵衛尉 判
由佐弥次郎殿
   意訳変換しておくと
讃岐香川郡安原の鳥屋と岡要害について、京都騒乱中は、敵対勢力に奪われないように防備を固め死守すること。もし警固中に沙汰なく侵入しようとするものがいれば、氏名を糾して、京都に報告すること、乃執達如件、

 ここには「京都御左右」を理由として讃岐国「安原鳥屋岡要害」の警固を、京都の「左兵衛尉」が命じたものです。文書中の「安原鳥屋岡要害」は、反細川顕氏勢力の拠点の一つで、由佐氏にその守備・管理が命じられていたことが分かります。髙松平野における重要軍事施設だったことがうかがえます。「安原鳥屋岡要害」は、安原鳥屋の要害と岡の要害とは別々に、ふたつの要害があったと研究者は考えています。ここでの岡要害(岡城)は、「安原鳥屋」の「要害」とともに観応擾乱下での讃岐守護細川顕氏に対抗する勢力の拠点だったようで、その防備を由佐氏が命じられています。
 14世紀後半になると、讃岐守護細川頼之が宇多津を拠点にして、「岡屋形」は行業、岡蔵人、岡隼人正行康、岡有馬之允、さらには細川讃岐守成之、細川彦九郎義春がいたとされます。また、「城ノ正南二山有、其山上二無常院平等寺テフ香閣有」とも記され、現在の高松空港方面には無常院や平等寺などの寺院もあったようです。ここでは岡屋形が讃岐の守護所としての機能を持っていたことを押さえておきます。

「岡村」付近のことは「由佐長曽我部合戦記」に書かれています。
「由佐長曽我部合戦記」は、阿波の中富川合戦に勝利し、勝瑞城を落城させ阿波平定を成し遂げた長宗我部軍が讃岐へ侵攻した時の由佐氏の戦いの様子を後世になって記したものです。一次資料ではないので年代や人名、合戦経過などについては、そのまま信じることが出来ない部分はあるようです。研究者はその記述内容の中で、合戦が行われた場所に注目します。主な合戦は、由佐城をめぐって攻める長宗我部軍と防御する由佐軍の対決です。由佐城の攻防に先立って、由佐城の南方において合戦があったと次のように記します。

南ハ久武右近ヲ大将ニテ千人百余騎、天福寺ノ境内二込入テ陣ヲトル、衆徒大二騒テ、如何セント詮議半ナル中、若大衆七八十人、鑓、長刀ノ鞘ヲ迦シ、(中略)、土佐勢是ヲ聞テ、悪キ法師ノ腕達カナ、イテ物見セント、大将ノ許モナキニ、衆徒ヲ中ニヲツトリ籠テ、息ヲツカセス揉タリケル、(中略)、塔中六十二坊一宇モ残ラス焼失セリ、(中略)、僧俗共二煙二咽テ道路二厳倒シ、或ハ炎中二転臥テ焚死スル者数ヲ不知、(後略)、

意訳変換しておくと
由佐城の南は、久武右近を大将にして千人百余騎が、天福寺の境内に陣取る。衆徒は慌ててどうしようかと対応策を協議していると、若大衆の数十人が、鑓、長刀の鞘を抜いて、(中略)、土佐勢はこれを聞いて、悪法師の腕達を物見しようと、大将の許しも得ずに、衆徒が籠城する所に、息も尽かせないほどの波状攻撃を仕掛けた。(中略)、その結果、塔中六十二坊が残らずに焼失した。(中略)、僧侶や俗人も煙に巻かれて、道路に倒れ、あるいは炎に巻き込まれ転臥して焚死する者が数えきれないほど出た、(後略)、

由佐城の「南」、岡屋敷の西側に、「天福寺」があります。そこを拠点にしてに長宗我部軍側と、「天福寺」「衆徒」との間に合戦があったというのです。
岡舘跡・由佐城
由佐城と天福寺

天福寺は、舌状に北側の髙松平野に伸びた丘陵部の頂部にあり、平野部から山岳部に入っていく道筋を東に見下ろす戦略的な意味をもつ場所にあります。そのすぐ北に由佐城はあります。また「岡要害(岡舘)」にも近い位置です。天正10年秋に長宗我部内記亮親康が兄の元親から占領を命じられた「岡城」は、この「岡要害」のことだったと研究者は考えていることは以前にお話ししました。
香川県中世城館跡調査報告書(209P)には「3630-06岡館跡(岡屋形跡)」に、次のように記されています。(要約)
この高台は従来は行業城跡とも考えられていました。しかし、測量調査の結果から岡氏の居館(行業城)とするには大きすぎます。守護所とするにぴったりの規模です。「キタダイ」「ヒガシキタダイ」の小地名や現地踏査結果からこの高台を、今では岡館跡と専門家は判断しています。そうすると従来の「宇多津=讃岐守護所」説の捉えなおしが必要になってきます。

由佐城跡に建つ歴史民俗郷土館(高松市香南町)

次に岡舘のすぐ北側にあった由佐城跡を見ていくことにします。
歴史民俗郷土館が建ている場所が「お城」と呼ばれる由佐城跡の一部になるようです。館内には土塁跡が一部保存されています。

由佐城土塁断面
由佐城跡土塁断面図
郷土館を建てる際の調査では、建物下の北部分で幅3m。深さ1、5mの東西向きの堀2本が並んだものや、柱穴やごみ穴などが出てきています。堀は江戸時代初期に埋められていことが分かりました。調査報告書は、つぎのように「まとめ」ています。
由佐城報告書まとめ
由佐城調査報告書のまとめ
由佐城跡を含む付近には「中屋」というやや広範囲の地名があり、「西門」や堀の存在も伝えられています。郷土館の東には「中屋敷」の屋号もあり、いくつかの居館があった可能性もあります。由佐氏は、益戸氏が建武期に讃岐国香川郡において所領を給されたことによってはじまるとされます。
江戸時代になって由佐氏一族によって作成された系図(由佐家文書)には、次のように記されています。

「益戸下野守藤原顕助」は代々「常州益戸」に居していたが、元弘・建武期に足利尊氏に属して鎌倉幕府および新田氏との戦いに従い、京都で討死する。顕助の子・益戸弥次郎秀助は、父・顕助への賞として足利氏から讃岐国香川郡において所領を給される。秀助は、細川氏とともに讃岐国に入り、由佐に居して苗字を由佐と改めた。

由佐城についての基本的な史料は次の3つです。
①「由佐氏由緒臨本」の由佐弥二郎秀助の説明
②「由佐城之図」
③近世の由佐家文書

①「由佐氏由緒臨本」には、由佐城について次のように記されています。(要約)
由佐氏の居城は「沼之城」とも称した。城の「東ハ大川」、「西ハ深沼」であり、「大川」は「水常不絶川端二大柳有数本」、「深沼」は「今田地」となっている。外郭の四方廻りは「十六丁余」ある。その築地の内には「三丸」を構えている。本丸は少し高くなっていて「上城」と称し、東の川端には少し下って「下城」と称すところがある。西には「安倍晴明屋敷」と称される部分がある。そして、「外郭丼内城廻り惣堀」である。外郭には「南門」があり、そこには「冠木門」があった。また「南門」の前には「二之堀」と称される「大堀」があった。外郭には「西門」もあり、「乾」(北西)には「角櫓」があった。

由佐城2
由佐城跡周辺地図
「本城」の北には「小山」が築かれていた。「小山」は「矢籠」とも称されていた。「北川端筋F」は「蒻手日」と称され、「ゴトクロ」ともいう。「東丸」すなわち「下城」は「慶長比」に流出したとする。
  安原の「鳥屋之城」を「根城」としていた。
鳥屋域から東へ「三町」のところは「安原海道端」にあたり、そこには「木戸門」が構えられていた。鳥屋城の麓には「城ケ原」「籠屋」と称するところがある。「里城」から「本道」である「安原海道」を通ると遠くなるために、「岡奥谷」を越える「通路」がもうけられていた。

②「由佐城之図」は「由佐氏由緒臨本」などを後世に図化したものと研究者は考えています。由佐城絵図
由佐城絵図
居城の東端部分のこととして次のように記します。
「昔奥山繁茂水常不絶、城辺固メ仕、此東側柳ヲ植、固岸靡満水由処、近頃皆切払大水西へ切込、次第西流出云」(以下略)

意訳変換しておくと
①「昔は奥山のように木々が繁茂して、水害が絶えなかった。城辺を固めるために、東側に柳を植え、岸を固めて水由とした。近頃、柳を総て切払ったところ大水が西へ流れ込んで、西流が起きた。

②居城の西は「沼」と記し、「天正乱後為田地云(天正の乱後は、水田化されたと伝えられる」
③居城全体は「此総外郭十六町、亘四町、土居八町、総堀幅五間深サー間余、土居執モ竹林生茂」。
④外郭南辺には「株木南門」とあり、「此所迫手口門跡故南門卜云、則今邑之小名トス、此故二順道帳二如右記」
⑤外郭内の西北付近は「此辺元之浦卜云、当郷御検地竿始」とあり、検地測量がここからスタートしたので「元の浦」と呼ばれる。
⑥内の城の堀の北辺には小山を描き、「此の築山諺二櫓卜云、元禄コロ迄流レ残り少シアリ、真立三間、東西十余間」
⑦この小山の西側に五輪塔を描いて「由佐左京進墓」と記す。「由佐左京進」は天正期の由佐秀盛のことと研究者は考えています。
⑧ 砦城については、居城の西方に古川右岸に南から「天福寺」「追上原」「西砦城」「八幡」「コゴン堂」と記す。
⑨このうちの「西岩城」については次のように記します。
「御所原也、又一名天神岡卜云、観応中南朝岡た近、阿州大西、讃羽床、伴安原居陣窺中讃、由佐秀助対鳥屋城日夜合戦、羽床氏襲里城故此時構砦」
⑩居城の東の川を挟んで、東側には山並みを描いて「油山」「揚手回」「京見峰」などと記す。
⑪「油山」北端付近には「東砦城也、城丸卜云」と記す。

③文化14年(1817)11月に、由佐義澄は「騒動一件」への対応のために自分の持高の畝をしたためた絵図を指出しています。
由佐城跡畝高図
由佐義澄持高畝絵図(1817年)
絵図は「由佐邑穐破免願騒動一件」(由佐家文書)に収められています。これを見ると、次のようなことが書き込まれています。
①「屋敷」という記入があり
②屋敷の南・西・北に「ホリ」がある。堀に囲まれた方形区画が、本丸跡
③「屋敷」西側の「上々田五畝九歩」と「上畑六畝歩」および「元ウラ」という記載のある細長い区画は、堀跡?
④「屋敷」南の「七畝地」区画も堀跡?

④由佐城跡と冠尾(櫻)八幡宮は、近接していて密接な関係がうかがえます。冠尾(櫻)八幡宮の由緒を記した文書には、次のように記されています。
天正度長宗我部宮内少輔秦元親催大軍西讃悉切従由佐城責寄時、先祖代々墳墓有冠山ノ後墓守居住」
「此時八幡社地并二墓所士兵ノ冒ス事ヲ歎キ墓所西側南北数十間堀切土手等ヲ築ク此跡近年次第二開拓今少シ残ス」
意訳変換しておくと
   天正年間に長宗我部元親大軍が西讃をことごとく切り従えて由佐城に攻め寄せてきたときに、由佐氏の先祖代々の墳墓は、冠尾(櫻)八幡宮の後ろの山に葬られていた。」「この時に侵入してきた土佐軍の兵士の中には、八幡社や墓所を荒らした。これを歎いて墓所西側に南北数十間の堀切土手を築いた。この堀切跡は、近年に次第に開拓されて、今は痕跡を残すにすぎない。」

ここには南海通記の記述の影響からか、土佐軍は西讃制圧後に西から髙松平野に侵入し、由佐城にあらわれたと記します。しかし、由佐城に姿を見せたのは、阿波制圧後の長宗我部元親の本隊で、それを率いたのは元親の弟だったことは、前回に見てきた通りです。また長宗我部元親の天正期に、冠尾八幡宮の西側に長さ数十間の堀切と土手がもうけられたとします。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

南海治乱記と南海通記
南海治乱記と南海通記
南海治乱記が天正10・11年の長宗我部元親の讃岐侵攻記事を、どんな資料に基づいて書いたのかを見ていくことにします。テキストは「野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年448P」です。
  
南海通記と長元物語比較
南海治乱記と長元物語の記述比較1
 『南海治乱記』のN1部分は、長宗我部元親による阿波平定後の各武将の配置を述べています。この部分は土佐の資料『長元物語』のT1部分を写したもののようです。内容・表現がほぼ一致します。しかし、詳しく見るとT1の7番目の項目「一、ニウ殿、東條殿、(後略)」は省略、『治乱記』の「一ノ宮南城ノ城ヘハ谷忠兵衛入城也」の箇所は『治乱記』編者が他の資料によって付け加えたことを研究者は指摘します。

天正10年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録
『治乱記』のN2部分は、『三好記』のM1部分を写しています。
ただ、『治乱記』N1の記述と重なるM1の「一ノ宮ノ城」の箇所は、省略しています。また、Mlの「大西白地ノ城」「富岡ノ城」「海部輌ノ城」の3箇所は、意図的に省いているようです。
 三好記Mlでは「海部輌ノ城ニハ、田中市之助政吉ヲ置ル」
 南海通記N1の「海部ノ城ハ香曽我部親泰根城也」
と配置された武将名が異なります。
三好記Mlでは「長曽加部内記亮親泰」は「富岡ノ城」に「被居」
南海治乱記N1は「牛岐ノ城ニハ香曽我部親泰入城(後略)」
と記します。前回、お話ししたように「富岡ノ城」とは、阿波にある城でなく讃岐国香川郡の「岡舘(岡城)」(香南町)のことでした。そして、岡城のすぐそばに由佐城があります。
岡舘跡・由佐城
岡舘跡と由佐城
『治乱記』著者の香西成資は、そのことに気づいて、「長曽加部内記亮親泰」が「(富)岡ノ城」に「被居」たことを省略したようです。それは、土佐勢力が岡城を占領支配していたとすれば、その目と鼻の先にある由佐氏は、この時期にはそれに従っていたことになります。それはまずいとかんがえたのでしょう。土佐軍に抵抗し、和議をむすんだと由佐氏の家書は記します。これに配慮したのかもしれません。

南海通記と長元物語比較3

『治乱記』N3部分は、『三好記』M2部分を写したものですが、かなり簡略化しています。
新開道善と一宮成助とを長宗我部元親が討ったことについて、土佐資料『元親記』は「然所に道前と一の宮城主は、其後心替仕に付腹を切せらる」と簡単に記しています。『治乱記』では阿波国寄りの『三好記』の記述を採っています。

南海治乱記と元親記比較
南海治乱記と元親記の比較

 『南海治乱記』の巻十二「土州自阿州発向讃州記」のN4部分は、土佐の『元親記』のS2部分を写したものと研究者は推測します。
S2部分の「そよ越」とあったところは、「曽江谷越(清水峠)」と改められています。「治乱記」N5部分は、『元親記』S1部分を写したものので、十河城の防備施設などに新しく説明を付け加えています。また従軍者名に土佐側資料になかった讃岐の「香西伊賀守」「羽床伊豆守」「長尾大隅守」「新名内膳」「香西加藤兵衛、其弟植松帯刀」の名前を加えています。さらに「大将ニハ長曽我部親政」とします。
『治乱記』のN6部分も、N4部分と同じく『元親記』のS2部分を写したものでしょう。「屋島」での元親の行動や「屋島」自体の説明などを付け加えています。

南海治乱記と元親記比較.4JPG
『治乱記』のN7部分は、『元親記』S3では元親は急ぎ「帰陣有し」と簡単に記します。
ところが南海治乱記では讃岐国内の「春日の海ノ中道」「香河郡」「西長尾城」を経て「大西ノ城二還ル也」とします。この箇所は、『治乱記』の著者による追加です。しかし、先に見てきたように天正十年の長宗我部元親本軍の讃岐香川郡侵攻ルートは、阿波の岩倉城(脇町) → 清水峠 → 十河城でした。帰路もこのルートをとったとするのが自然です。ここにもなんらかの作為があるような気配がします。
元親記
元親記
以上をまとめておきます。
①香西成資は南海治乱記を書くに当たって、先行する阿波や土佐の編纂歴史書を手元に置いて参考にしていた。
②長宗我部元親の阿波制圧や、その後の武将配置などは先行する資料に基本的に忠実である。
③しかし、岡城や由佐城・十河城に関する箇所になると、由佐氏や十河氏に対する配慮があり、加筆や意図的な省略が行われている。
④長宗我部元親の讃岐での行動については、多くの加筆が行われている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献

前回は天正10(1582)年の長宗我部元親本隊の阿波占領後の讃岐香川郡への侵攻ルートについて、つぎのようにまとめました。

①天正10年8月に阿波国の中富川合戦に勝利し、勝瑞城を落とした。
②論功行賞として三好氏の勢力下にあった重要地点に土佐側の城将を配した。
③その後、三好義堅(十河存保)が落ちのびた讃岐の十河城を攻める作戦に移った。
④元親は、弟の香宗我部親泰を美馬郡岩倉城(脇町)から、安原を経てを「岡城(岡舘・香南町岡)」に向かわせた。
⑤元親自身は岩倉城を落としてから讃岐山脈に入り「そよ越」を経て讃岐国の十河表に至った。
⑥弟の親泰は「岡城」を攻め落とし
⑦さらに「岡城」の下手にある由佐城を攻めて土佐側に従属させた
⑧由佐氏は土佐側の一員として三好氏側の山田郡三谷、坂本を攻めさせた。
今回は、⑦⑧に出てくる由佐氏について見ておくことにします。テキストは、「野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年442P」です。 
最初に由佐氏の由来について見ておきましょう。
由佐氏は南北朝時代の初め頃に、関東から来讃したと伝えられます。
そして、香川郡井原郷を勢力範囲とします。由佐氏の史料的初見は、貞和 4 年(1348)、由佐弥次郎秀助が讃岐守護細川顕氏から与えられた感状です。観応2 年(1351)10 月 2 日には、「一族幷井原荘内名主荘官等」を率いて「安原鳥屋之城」から所々の敵陣を追い払うよう命じられています。ここからは、由佐弥次郎は由佐氏一族の代表と見なされていたことが分かります。この「安原城中」での軍忠に対して、細川顕氏奉行人の生稲秀氏から兵糧料所として「井原荘内鮎滝領家職」が預けられています。この領家職は、以後の由佐氏の代官職確保や所領拡大の契機となります。
 由佐氏は、観応の擾乱後も永享 4 年(1432)に由佐四郎右衛門尉が摂津鷹取城で忠節を行い、応仁の乱では近衛室町合戦に由佐次郎右衛門尉が参加しています。細川京兆家の内衆には数えらいませんが、守護代の指揮下で活動し、讃岐以外でも合戦に参加できる実力を持った国人領主だったようです。
 由佐氏は、寛正元年(1460)には郷内の冠尾神社(元冠纓神社)の管理権を守護細川勝元から命じられています。
こうして神社を媒介として領民の掌握を図り、領域支配を強化していきます。

由佐家文書|高松市
由佐家文書
 由佐家文書は由佐家に残されている文書で、その中に阿波国の三好氏からのものが1点、土佐国の長宗我部元親からのものが2点あります。この3点の文書を見ていくことにします。

①阿波国三好義堅からの「三好義堅知行宛行状」
就今度忠節安原之内型内原(河内原)一職、同所之内西谷分并讃州之内市原知行分申附候、但市原分之内請米汁石之儀二相退候也、右所へ申附上者弥奉公肝要候、尚東村備後守□□候、謹言、
八月十九日                             義堅(花押)
油座(由佐)平右衛門尉殿
意訳変換しておくと
今度の忠節の論功行賞として①安原の河内原と②同所の西谷分と、③讃州市原の知行を与える。、但し、市原分の内の請米汁石については相退候也、右所へ申附上者弥奉公肝要候、尚東村備後守□□候、謹言、

ここでは、三好義堅(十河存保)が由佐平右衛門に3ヶ所の知行地を与えています。それは①安原の河内原と②同所の西谷分と、③讃州内市原」の知行です。この表現の仕方に研究者は注目します。つまり、市原だけが讃岐内なのです。これは最初に出てくる「安原之内」は「讃州之内」ではないという認識があったことになります。15世紀までは、安原は讃岐国に属していました。ところが阿波細川家や三好家が讃岐東方に力を伸ばすにつれて、阿波勢力の讃岐進出の入口であった塩江から「安原」は、阿波国の一部であると捉えられるようになっていったと研究者は推測します。それがこの表記に現れているというのです。

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差出人の「義堅」は、十河存保のことです。
存保は三好之康(義賢)の二男で、三好家から讃岐国の十河家に入って「鬼十河」と後世に称された十河一存の養子になっていた人物です。
戦え!官兵衛くん。 番外編04 三好氏家系図
十河存保は、三好実休(義賢)の実子です。十河一存の養子に
後に阿波国の「太守」であった兄の長治が亡くなって、存保が阿波の勝瑞城に入ります。存保は、天正6年(1578)正月に勝瑞に入ますが、一宮成助らに攻められて天正8年(1580)正月から翌年にかけては、十河城へ逃げてきています。その後、天正9年から翌年の8月までは再び勝瑞城に居城しています。
 存保の父・之康は、「阿波国のやかた細川讃岐守持隆」を討って勝瑞城に居城し「義賢(よしかた)を称していました。「義賢」と「義堅」はともに「ヨシカタ」で音が通じます。十河一存は阿波国勝瑞城に入ってから「義堅」を名のったようです。そうだとすると、この文書は、天正6年から10年までの間のものになります。そして、この時期には、由佐氏は阿波の三好氏に従っていたことが分かります。また、十河氏と緊密な関係にあったこともうかがえます。
 文書の終わりの「東村備後守」は、この発給文書を持参して、文書の真意を伝えた人物のようです。
「東村備後守」は、『三好家成立之事』に次の2回登場します。
①中富川合戦で存保が討死になりそうになったときに、それを諫めて勝瑞へ引き取らせた「家臣」として
②『三好記』では同じときに「理ヲ尽シテ」諫めた「老功ノ兵」「家臣」として
天正11年(1583)3月に、「東村備後守政定」は「三木新左衛門尉通倫」と連署をなし、主人たる十河存保の命を施行しています。

この他に由佐家には、次のような長宗我部元親の感状が2通残されています。
由平□(籠?)三谷二構共□打破、敵数多被討取之由、近比之御機遣共候、尤書状を以可申候得共迎、使者可差越候間、先相心得可申候、弥々敵表之事差切被尽粉骨候之様二各相談肝要候、猶重而可申候、謹言
(天正十年)                   (長宗我部)元親判
十月十八日                 
小三郎殿
      「由佐長宗我部合戦記」(『香川叢書』)所収。
  意訳変換しておくと
先頃の三谷城(高松市三谷町)の攻城戦では、敵を数多く討取り、近来まれに見る活躍であった。よってその活躍ぶりの確認書状を遣わす。追って正式な使者を立てて恩賞を遣わすので心得るように。これからも合戦中には粉骨して務めることが肝要であると心得て、邁進すること。謹言

  感状とは、合戦の司令官が発給するものです。この場合は、長宗我部元親が直接に小三郎に発給しています。ここからは小三郎が、長宗我部元親の家臣として従っていたことが分かります。なおこの小三郎は、側近として元親近くに従い、長宗我部側と由佐氏を仲介し、由佐氏の軍役を保証する役を負う人物です。ここから小三郎が、もともとは由佐家出身で人質として長宗我部家に仕えた人物と研究者は推測します。
 この10月18日の感状からは、由佐氏が山田郡三谷城(高松市三谷町)攻めで勲功をあげていたこと、さらに土佐軍の軍事活動がわかります。つまり、この時点では由佐氏は、それまでの三好氏から長宗我部元親に鞍替えしていたことが分かります。長宗我部元親は、岡城(岡舘:香南町)攻撃のために弟を派遣したことは、前回にお話ししました。岡城と由佐城は目と鼻の先です。

岡舘跡・由佐城
岡城と由佐城
それまで使えてきた三好義堅(十河存保)が本城を落とされ、十河城に落ちのびてきています。十河城を囲むように土佐勢が西からと南から押し寄せてきます。由佐氏のとった行動は、その後の行動からうかがえます。
1ヶ月後に、由佐小三郎は、長宗我部元親から二枚目の感状を得ています。
長宗我部元親書状(折紙)
於坂本河原敵あまた討捕之、殊更貴辺分捕由、労武勇無是非候、近刻十河表可為出勢之条、猶以馳走肝要候、於趣者、同小三(小三郎)可申候、恐々謹言
    (長宗我部)元親(花押)
(天正十年)十一月十二日
油平(由佐)右 御宿所
  意訳変換しておくと
 この度の坂本河原での合戦では、敵をあまた討捕えた。その武勇ぶりはめざましいものであった。間近に迫った十河表(十河城)での攻城戦にも、引き続いて活躍することを期待する。恐々謹言

11月18日に、坂本川原(高松市十川東町坂本)で激戦があった際の軍功への感状です。戦いの後に引き上げた宿所に届けられています。この2つの感状からは高松市南部の十河城周辺で、戦闘が繰り返されていたことがうかがえます。

 先ほど見た「三好義堅知行宛行状」では、由佐氏は阿波の三好氏に従っていました。その由佐氏が、三好氏の勢力範囲である山田郡の三谷と坂本を攻めています。由佐氏の山田郡での「武勇」は長宗我部元親によって賞されています。この由佐氏の行動は元親からの命令によるもので、それを由佐氏が果たしたことに対する承認の感状と研究者は判断します。
 元親が「十河表」へ「出勢」したのは、天正10年8月の中富川合戦以後のことでした。
この時に元親は、弟の香宗我部親泰を「岡城」に配しています。「岡城」は、現在の高松空港の北側にあった岡舘跡です。そのすぐ近くに由佐城はありました。この時点で、由佐氏は土佐軍に下り、その配下に入ったようです。とすると、由佐氏に長宗我部元親から感状が出されたのは、ともに天正10年のことになります。由佐氏は、それまで仕えていた三好義堅が落ちのびた十河城の攻城戦にも、土佐軍に従って従軍したのでしょう。
 讃岐側の江戸時代になって書かれた南海通記などの軍記ものには、讃岐に侵攻してきた土佐軍に対して、讃岐の武士団が激しく抵抗した後に降ったと書かれることが多いようです。しかし、土佐側の資料に東讃の武将達が抵抗した痕跡は見えてきません。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
      「野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年442P」

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