瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:町史ことひら

象頭山金毘羅全図1 新町 阿波町
金毘羅五街道 五街道が集まって一本の参道となる
「四国の道は、こんぴらに続く」と云われるように、五街道が金毘羅門前町で合流し、一本の参道となって本社につながっていました。そのうちの阿波から金比羅への道を「阿波みち」と呼んでいました。その街道の付け根に、お旅所(神事場)があり、街道にはノコ屋、目立て屋、ヤスリ屋、鍛治屋などがひしめていました。今回は、この阿波町について見ていくことにします。
  テキストは「町史ことひら3 民俗編 83P」です。
まず略図で阿波町の位置を確認しておきます。

金毘羅門前町
街道の合流位置は、次の通りでした。
①の髙松街道に、
②の丸亀街道が新町で北から合流
③の阿波街道が鞘橋手前で南から合流
⑤多度津街道が内町で北から合流
④伊予土佐街道が、谷川町で合流。
ここでは、③の阿波街道は鞘橋の東側が起点になっていたことを押さえておきます。それを18世紀初頭に描かれた「金毘羅大祭行列屏風図」で見ておきます。

金毘羅大祭行列屏風図 10
「金毘羅大祭行列屏風図」(金刀比羅宮宝物館)

金毘羅大祭行列屏風図 新町 容量縮小版
            大祭行列屏風図 寺領入口の木戸から鞘橋まで

鞘橋祭礼屏風図鞘橋沐浴図
鞘橋周辺の拡大図 右下が阿波町

この部分からは次のような事が読み取れます。
①池の御領(天領)の榎井村から寺領への入口には木戸が設けられていること
②木戸から鞘橋まで街道沿いに「新町」が形成されていたが、その背後は田んぼであったこと
③新町の丸亀街道の合流点に石造の白い鳥居が建っていること
④鞘橋手前で南からの阿波街道が合流していること
⑤そして街道沿いに阿波町が形成されていること。
DSC01023鞘橋から阿波町
金毘羅門前町 阿波町
この絵図では阿波町が鞘橋を起点に、石淵附近までのびていたことが分かります。神事場が整備されるのは神仏分離の明治維新以後のことです。神事場のたりには雑木林が描かれています。注目したいのは、街並みが戸切れるところに柵のように見える木製の鳥居が描かれていることです。これは、あとで見ることにして幕末の阿波町を、讃岐国名勝図会で見ておきましょう。

大祭絵図 鞘橋・阿波町・金倉川 讃岐国名勝図会
           瀬川神事(後の大祭行列) 金毘羅参詣名所図会
この絵図からは次のような事が読み取れます。
①頭家行列が本社から下りてきて内町から鞘橋を渡ろうとしている
②金倉川の対岸には、神事場に続く阿波町の街並みが続く。
③建物は川にせり出すような2階建ての建物が並ぶ
④鞘橋の上流には小さな板橋も渡されている。
この絵図からは幕末の阿波町は、金倉川沿いに南に伸びて、その沿道が市街化していったことが裏付けられます。 文政五年(1822)に片岡正範が著した「証記」の中に「当地町方の事」には次のように、阿波町が記されています。
阿波町の事 是又昔はとぼとぼにこれ有り、今は繁昌し町並に成り阿波国え越く出口故阿已町と云う事
意訳変換しておくと
阿波町については、昔はぽつぽつとしか家がなかったが、今は繁盛して街並みとなっている。阿波への出口なので阿波町という。

先ほど見た阿波町の入口にあった鳥居を見ておきましょう。
 
3 阿波町鳥居
阿波町の鳥居(現在は学芸館前 もともとは南神苑(神事場)東側に立っていた)

この鳥居は、嘉永元年(1848)に阿波国三好郡講中の人たちによって奉納されています
鳥居の銘文にある講中の村々を挙げてみます。

 東山・昼間・足代(三好町)太刀野・太刀野山・芝生(三野町)・中庄・西庄・西庄山・加茂(三加茂町) 辻・西井川(井川町) 池田・州津・西山(池田町)

こうして見ると三好・三野・三加茂・井川・池田など三好郡の吉野川の両岸に分布する村々の人達の寄進で建立されたことが分かります。昼間村から講元引請人と世話人四人を出しているので、このエリアの人達が中心になって寄進奉納が行われたことがうかがえます。昼間には「金毘羅さんの奥社」を自称する箸蔵寺があって、箸蔵の修験者たちが金比羅周辺でも活動していたので、そんな関係もあったのかも知れません。ここでは、昼間村を中心とした勧進活動が行われ阿波町の入口に鳥居が建立されたことを押さえておきます。
 どうして阿讃山脈の向こう側の三好の人達が金毘羅門前町に鳥居を寄進したのでしょうか
金毘羅ほどの賑わいのある町は、吉野川沿いにはありませんでした。金比羅は品物も豊富で、金毘羅さんの阿波街道の入口には「阿波町」が形成され、阿波出身の商人達がいろいろな店を出していました。贔屓の店が、ここにあったのです。また。山仕事に必要な道具を扱う鍛冶屋、鋸屋など職人の町でもありました。ここには阿波の人たちによって鳥居が奉納され、大勢の阿波の人達が金毘羅参詣を兼ねて訪れました。東山では明治の中頃まで、年末になると金毘羅の阿波町へ正月の買い物にいき、めざしや塩鮭、昆布、下駄などを天秤棒にぶらさげて、日の明るい内に帰ってきたと伝えられます。
阿波の人達によって寄進された石畳と玉垣・灯籠・鳥居などの寄進を歴史順に並べると次のようになります。
①文政三年(1820) 阿波藩主の灯籠寄進
②天保十五年(1844)  「阿州藍師中」による玉垣奉納
③嘉永元年(1848) 阿波街道起点の石鳥居 吉野川上流の村々から奉納
④安政七年(1860)  石燈龍奉納 麻植郡の山川町・川島町の村人77人の合力
⑤文久二年(1862)  阿波敷石講中による桜馬場敷石奉納スタート   池田・辻中心
4 玉垣桜馬場21
⑤の文久二年(1862)阿波敷石講中による桜馬場の玉垣 「阿州穴吹」と見える
ここからは、阿波の蜂須賀家の殿様 → 藍富豪 → 一般商人 → 周辺の村々の富裕層へという寄進層の変遷が見えます。殿様が灯籠を奉納したらしいという話が伝わり、実際に金毘羅参拝にきた人たちの話に上り、財政的に裕福になった藍富豪たちが石垣講を作って奉納。すると、われもわれもと吉野川上流の三好郡の池田・辻の町商人たちが敷石講を作って寄進。それは、奉納者のエリアを広げて祖谷や馬路方面まで及んだことは以前にお話ししました。

DSC01447阿波町 阿波街道
琴平町阿波町 
「町史ことひら3 民俗編 83P」には阿波町の賑わいを次のように記します。

阿波町界隈には、ノコ屋九軒、ノコ目立て屋四軒、ヤスリ屋四軒のほか、農鍛冶屋、ヤリ屋、下駄屋布団屋、小間物屋、麦わら帽子屋豆腐屋、肥料屋、箱製造、表具屋、染め物屋、能屋、提灯屋八百屋、古物屋、酒屋、たばこ屋質屋果物屋、風呂屋、床屋、建材店、桶屋、精米店、佛壇屋、運送屋、魚屋、うどん屋等々が建ち並んでいた。徳島県からの参拝客だけでなく、ほかの街道を通った人達も、何でもそろっている阿波町に立ち寄った。

 ノコは山林用に使う大物から小物まで多彩。こんぴら参詣のついでに目立てノコを持参して、お参りする前に阿波町に立ち寄り、帰りに仕上がったノコをもらって帰った。日数のかかる目立てノコは、近所の人がこんぴら参りをするとき、持って帰ってくれた。その代わり、以前預けた人のノコを持ち帰ることもあった。

 阿波町のノコ製造は、江戸末期ごろから始まり、明治末期からは、谷口清太郎、山下長松浅田(庚申堂)の三人が「こんぴらノコ」の基礎を作った。材料のハガネは山陰の東郷や安木から仕入れ、フイゴと「トッテンカン」の荒打ち作業、仕上げ作業を経参詣客用の土産ノコを作った。
 
ヤリ屋は「ぼう屋とか」、ロクロを回すので「ロクロ屋」とも呼ばれる。

 江戸時代、槍の柄を作っていたので「ヤリ屋」と呼ぶ。ヤリ屋の仕事は、真樫で鍬の柄(え)を作ることだった。両方の掌にすっぽりと収まる柄は、真ん中にいくほど、細くなるように仕上げる。材料の真樫は、満濃町、仲南町・綾南町のヤリ屋仲間と一緒に、徳島県の半田や高知県の大辺りまで木を見に出かけて手に入れる。いい木があると伐ってもらい、柄が取れるように、クサビを打ち込み、カケヤを使って「フロワリ」する。あとは、フロワリした材を束ねて運び出す。原木のまま運ぶより、その方が作業がはかどる。フロワリした材は、二年以上仕事場で干す。しっかり乾燥した材は、狂いが少ない。一本作るのに、すべて手作業である。(中略)阿波町のヤリ屋の手仕事は、五色台の瀬戸内海民俗資料館に収蔵されている。

以上をまとめておきます。
①金毘羅門前の鞘橋から神事場にいたる街道沿いに阿波町が形成された。
②この町筋は、ノコやヤリ屋などの職人や阿波からやってきた人達が商売をしていた
③阿波三好の人達は、徳島城下町よりも金比羅の方が便利であったので、何かの折には阿波町の贔屓の店を利用した。
④そのため阿波町の鳥居は、三好郡の有力者の寄進によって建立されている。
⑤阿波街道を経ての人とモノの流れの起点となっていたのが阿波町であった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「町史ことひら3 民俗編 83P」 
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田野々の庚申塔
 阿波のソラの集落を廻っていると、お堂と庚申信仰の痕跡によく出会います。

庚申信仰=山伏形成説

山伏たちによって庚申信仰がソラの集落に拡げられ、そこをテリトリーとしていたことがうかがえます。ところが、私の住む金毘羅周辺には、庚申信仰はあまりみられません。どうしてなのか疑問に思っていましたが金光院日帳を見ていると疑問が解けてきました。今回は金光院と庚申信仰の関係を見ていくことにします。テキストは「町史ことひら3 民俗編274P」です。

金毘羅天領と寺領
満濃池水掛村々之図(1870年)の拡大図 黄色が天領 赤が金毘羅寺領 桃色が高松藩領

 金光院住職は、金比羅社領330石の小さいながらも領主で「お山の大将」でした。

そのため領主として禁令やお触れを出しています。禁令が出されると云うことは「禁止すべきようなことが当時は行われていた」ということです。そういう目で見ていきます。
①元禄二年(1689)十一月  髙松藩より境内での殺生禁止、山林竹木切るべからざるの制札下さる。
②元禄七年(1694)十月 宿貸し・遊女博奕停止のこと触す。
③正徳四年(1714)六月二十日 庚申待無用申し渡される。
④享保六年(1721)十一月八日 近在に辻芝居があるので、住民に見物無用申し渡す。
⑤享保十八年(1733)八月二十日 町方裏借屋は法度に仰せ付けられる。
⑥享保二十年(1735)一月十九日 町方で綱引のとき口論があり、以後綱引停止。
⑦寛保三年(1743)六月二十二日 (金倉川)川筋にて殺生禁の札を建てる。
⑧延享四年(1747)五月二日  内町虎屋兵次郎、入口玄関の普請分不相応につき閉門八日、破風玄関式台取り除き閉門御免。
⑨寛延三年(1750)六月二十三日  苗田村の相撲見物無用申渡す。
⑩寛延四年(1751)九月二十四日 年中の月待日待・庚申待は夜食切に仕舞うよう申し渡す。
⑪宝暦二年(1752)二月九日  愛宕町の平兵衛、南の山にて小松を伐採したので追放。
⑫宝暦三年(1753)二月 曜日婚礼の折り、石打ちする者があり組頭とも閉門。
⑬宝暦五年(1755)七月二十九日 昼の葬礼また川より西にて火葬のこと無用申し渡す。
 十一月二十八日 醤油仕込みの節、老女呼び上げること無用。
⑮宝暦九年(1759)七月十三日 笛田村の相撲見無用。
⑯          七月二十四日 桜藤三郎、屋敷の木を切ったので閉門
十二月十七日 町方借者に念を入れるよう申し渡す。
⑱宝暦十一年(1761)十月晦日  榎井村のあやつり芝居見物無用。
⑲明和二年(1765)五月十七日  神前近辺で薪をこしらえること御法度。
  六月十八日 五條村の相撲芝居見物無用。
⑳安永三年(1774)五月十八日 奉公人のうち、貸屋者の請状を出さない者があるので、総体に申し渡される。
㉑ 天明五年(1785)十月   奉公人の宿貸しするのは風儀上良くないので無用申し渡す。
 十一月  会式中に奉公人で宿貸した者があり、閉門申し付ける。
㉓寛政四年(1792)八月  高松様御逝去の忌中のところ、謡をうたった者があり遠慮申し付ける。
㉔天保元年(1830)五月二十一日  社領の者に、一向宗法談聞のこと差し止める。
 九月十六日、   十二日夜に石打徒党の者に閉門申し付ける。
㉖天保五年(1834)五月十四日 五日の夜、鞘橋の下で殺生した内町屋太兵衛の清之助、同嶋屋金蔵伜十太、金山寺町弥三郎作俊吉、取調べのうえ入牢申し付けた。このほど格別を以て御免になり、それぞれの親へ預けるよう仰付られる。
       十一月二十九日  神前の灯籠を盗んだ甚兵衛件磯吉を召し捕え、裸乱髪に橋の下にさらし、五日目に追払い申し付ける。
㉘天保六年(1835)六月十九日 前町にて御守札に寄せの小絵図を売る者があるのを指し止める。
㉙天保七年(1836)五月十一日  出来屋善左衛門外二名、十二景図を土産に紛らわしく仕立てて売り出した咎により戸閉め申し付ける。
㉚弘化三年(1846)三月二十五日  榎井村口の諸殺生・山林竹木のお札新たに出来、古き分は西口峠(牛屋口)へ廻す。
 六月二十三日  石渕の神事場へ殺生禁断の制札を立てる。

まず庚申講について、見ておきましょう。

庚申待2

③の正徳四年(1714)の「庚申待無用申し渡される。」が、最初のお触れです。18世紀初頭に金毘羅周辺でも庚申信仰が広まってきたことがうかがえます。それに対し「庚申待無用」を金光院は通達しています。しかし、人々の信仰熱は押さえられません。約40年後の⑩寛延四年(1751)九月二十四日 年中の月待日待・庚申待は夜食切に仕舞うよう申し渡す。」と再度の通達が出されています。
 補足すると次のようになります。

「夜遅くまで会合しても、決まり通り法中は法衣を着し修法などして、在家も真言を唱えて殊勝に待つのであれば祈疇にもなることであるが、そうではなく深夜まで遊興がましいことばかりするのでは無益であるだけでなく悪業をも増すことになって全く良くないので、法事のあとは夜食切りで解散するように心懸けること」

これは「深夜まで遊興がましいこと」を行う庚申待ちが流行してきたので、それにブレーキをかけるものです。しかし、「禁止」ではありません。一晩中寝ずに庚申待ちをするのは止めよと、後退した内容です。
庚申待ち2
庚申待ちの様子を描いた絵図 床の間に庚申さまが掛けられているが拝んでいるのはひとりだけ。あとはどんちゃん騒ぎの様子。
 以上をまとめておきます。
①金毘羅門前町では18世紀初頭には庚申信仰が流行神として拡がってくるようになった。
②これに対して金光院は「庚申講無用」とするが、広がりを押さえることは出来なかった。
③そこで18世紀半ばには、「庚申待は夜食切に仕舞え」と再度通達している。
④この背景には、庶民の中での庚申講の盛行があり、頭から禁止できないほどになっていたことが考えられる。
⑤しかし、金毘羅周辺には庚申碑は見られないので、庶民は金光院の意を汲んで石碑を建てることは
控えていたのかもしれない。

①⑦に見られるように社領内では、早くから殺生と竹木伐採が禁止されていました。
⑯では「桜藤三郎、屋敷の木を切ったので閉門」とあり、自分の家の中の木を切ることも許可が無ければできなかったようです。
には「神前近辺で薪をこしらえる(採取)こと御法度」とあり、本社周辺では薪拾いも禁止されています。㉖には、「鞘橋の下で殺生した三人に取調べのうえ入牢申し付けた。」とあります。
㉚の弘化三年(1846)になると、(髙松街道の入口の)「榎井村口に殺生・山林竹木のお札新たに出来、古き分は西口峠(牛屋口)へ廻す。」とあり、㉛には、「石渕の神事場へ殺生禁断の制札を立てる。」とあります。ここからは幕末には、榎井村口、石渕、佐文の牛屋口(西口峠)など、社領と隣村の境には領内での殺生禁止と木竹伐採禁止の立札が建てられていたことが分かります。鞘橋のかかる金倉川には社家による大祓や、僧侶の流れ勧進が行われていました。また参詣者が垢離をとる所でもありました。

鞘橋 金毘羅大祭行列図屏風
鞘橋の下の金倉川は垢離取り場でもあった(金毘羅大祭行列屏風 18世紀初頭)
金倉川は神聖な川であり、そこで殺生を行うことは禁止されていたことを押さえておきます。

金毘羅周辺の村々で行われる行事には、金比羅領民は参加すべからずというのが金光院の基本方針だったようです。
④享保六年(1721)十一月八日  近在に辻芝居があるので、住民に見物無用申し渡す。
⑨寛延三年(1750)六月二十三日  苗田村の相撲見物無用中渡す。
⑱宝暦十一年(1761)十月晦日  榎井村のあやつり芝居見物無用。
  六月十八日 五條村の相撲芝居見物無用。 
以上からは近在の村で芝居・相撲などがあっても、領内の者には「見物無用(行ってはならぬ)」という氏姓です。これは領内の芝居の繁栄を考えたためなのでしょうか? 私にはよく分かりません。

 金毘羅は門前町として繁盛するにつれて、周辺からの人口流入が強まり、都市化が進みます。
そのため流入者が増えて住宅需要が増大します。流入者は借屋を探すのですが、治安にも関係するので勝手に貸すことは禁止されて、借人諸状のこともやかましく言われていたようです。
⑤享保十八年(1733)八月二十日 町方裏借屋は法度に仰せ付けられる。
⑳安永三年(1774)五月十八日 奉公人のうち、貸屋者の請状を出さない者があるので、総体に申し渡される。
㉑ 天明五年(1785)十月 奉公人が参詣人に宿貸しするのは風儀上良くないので無用。
十一月 会式中に奉公人で宿貸した者があり、閉門申し付ける。

逆にいうと18世紀後半頃から参拝客の増加や、周辺農民の流入による住宅不足が深刻化していたことがうかがえます。金毘羅の都市化は、18世紀後半になって拍車がかかったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
]
参考文献 「町史ことひら3 民俗編274P」
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