以前に、剣山開山について次のようにまとめました
①剣山は近世前半以前には信仰対象の山ではなかったこと
②近世後半になって剣山を開山したのは、木屋平側の龍光寺の修験者であったこと
③これに続いて見ノ越側の円福寺が開かれ、2つの山岳寺院が先達修験者を組織し、多くの信者達の参拝登山が行われるようになったこと
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これについては、龍光寺は史料的にも押さえましたが、円福寺の場合は、それが出来ていませんでした。今回は祖谷側からの剣山開山を進めたとされる円福寺を見ていくことにします。テキストは「東祖谷山村誌583P 山岳信仰」です。
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東祖谷山村誌

『阿波志』は、江戸時
代の剣山について次のように記します。(要約)  
「大剣山 四季の中、春はわずかで消え、夏は長くない。それ故、人は敢て登らない。西は美馬郡菅生名をへだたること四里、南は那賀郡岩倉を、へだたること六里ほど、東は麻植郡茗荷(みょうが)名をへだたること二里、この間人家もなく、登山するものは星をいただいて登り、星をいただいて帰ってくる。茗荷名からの道に渓があり、これを垢離取(こりとり)川と言う。登山者はここで必ず水浴し、下界のけがれをはらう。その上を不動坂という。不動石像が渓中にあって、時には水没してみえない。(中略)
 頂上近くの平坦な所を神将と言う。春には赤や自の草花が咲き乱れる。これを過ぎれば、頂上となり、石があって宝蔵という。西南に二石あり太郎笈、次郎笈と言う。三百歩行くと削って造ったと思われる石があり不動石という。その下に渓谷がある。これらの谷は大小の剣が交わっているかのようである。
この中には、コリトリや不動坂など熊野や大峯の山岳聖地を模した名前が出てきます。また、剣山のことを、別名小篠(こざさ)とよびましたが、これは修験の行場に由来する命名です。さらに、龍光寺の藤の池本坊の祭日は、熊野の那智神社と同じ、7月14・15日です。ここからは、剣山を開山したのが修験者たちで、彼らは熊野や吉野の修験修行場のコピー版を、この地に開こうとしていたことがうかがえます。また「登山するものは星をいただいて登り、星をいただいて帰ってくる。」とありますので、この時点では富士の池や見ノ越に登山宿泊施設は、まだなかったようです。

昇尾頭山からの剣山眺望
剣山と次郎笈 (祖谷山絵巻)

剣山に当時の人々は、どんな姿で登っていたのでしょうか?
文化、文政の頃の永井精古の『阿波国見聞記』には次のような律詩が載せられています。
法螺贅裏艦山人
白布杉清不帯塵
霊秀所鐘斉仰止
侍天雙剣五雲新
剣山 三嶺方向から
剣山と次郎笈(拡大) 祖谷山絵巻

ここからは法螺貝ををふき、白装束に身を包んだ一行が、剣山への山道を登る様が映写されています。これは、山伏を先達とする参拝登山で、『勧進帳』の源義経、弁慶一行の行脚姿に似ていたかもしれません。
異本阿波史には、次のように記されています。

  この山の御神体と崇む。別に社等なし。ここに古えより剣を納む。この巌に立あり。風雨これをおかせどもいささかも錆びず。誠に神宝の霊剣なり。六月七月諸人参詣多し。菅生名より五里、この間に人家なし。夜に出て夜に帰ると言う。その余、木屋平山より参詣の道あり。諸人多くはこれより登る。
 
意訳変換しておくと

  この山(剣山)自体を御神体として崇む。これといった社殿はなどはない。ここに昔、剣を納めたという。また、ここには剣のように立つの巌がある。風雨に侵されても、いささかも錆びない。誠に神宝の霊剣である。六月七月には、多くの人たちが参詣する。その際に、菅生名から五里の間に人家はないので、夜に出て、夜に帰る強行軍だと言う。その他には、木屋平山側から参詣の道があり、多くの人は、こちら側の道を利用する。

大剣石 祖谷山絵図
大剣岩と大剣神社 
P1250752
剣山の大剣岩
ここには、山頂の法蔵岩のことは何も触れられません。出てくるのは大剣岩で、これが御神体だとします、そして社殿はない。宿泊施設もないと記します。見ノ越の円福寺は出てきません。つまり、これが書かれたのは、見ノ越に宿泊施設も兼ねた(剣山)円福寺が出来る以前のことのようです。
夫婦池からの剣山
夫婦池越の剣山 (祖谷山絵巻)
円福寺の寺伝には、次のように記されています。
安徳帝の御遺勅に「朕が帯びていた剣は清浄の高山に納め守護すべし」と宣いになったので、御剣を当山(石立山)に納め、剣山大権現と勧請まします」とあります。ここには、近世になって語られるようになった平家伝説に附会したかたちで、安徳天皇の剣を埋めた霊山=剣山」として記されています。

大正十一年刊の『麻植郡誌』は「安徳天皇と剣山」の項に、次のような伝承を載せています。
平国盛は安徳帝を奉じて、屋島を逃れ阿波に入り、元暦2(1185)年の大晦日に祖谷に入って阿佐にお泊まりになった。ある時、剣山に登って武運長久を祈り、剣を祀らんとされたが、その時丁度岩が口を開く様に割れたので、そこに御剣を納めた。すると、岩は又口を閉した。この時までこの山を石立山と呼んでいたのであるが、それからは剣山と呼ぶことになった。剣を納めた岩を宝蔵石と呼んでいる。剣山の絶頂は平家の馬場という広い草原になっていて、鈴竹という竹が群生している。椛に竹の葉を横断して、点線状の穴のあいているものがある。これを里人は馬の歯形笹と呼んで、龍の駒が鳴んだものだと珍重するのである。又、 一説には安徳天皇の馬であるとも言う。(一部訂正)」

剣山頂上 祖谷山絵巻
剣山頂の法蔵岩(祖谷山絵巻)
これに続けて馬の歯形笹と呼ぶものは、笹の葉が開かぬ内に虫が食った痕だと云います。そして『異本阿波志』の次の記事を引用します。

「(頂)上は樹木なく一円小笹原なり、晴天には必ず龍馬出てここに遊ぶ、この笹を食うという。毛色赤くして二歳駒程なり、今これを見る人多し。(要約)」
 
晴天の時には、剣の山頂には「龍馬」が現れて、山頂に生えている笹を食む。その馬は二歳の若駒で、これを見た人は多いと云うのです。
 このように「龍竜伝説」に附会する形で、次の時代には「馬の歯形笹」が書かれます。こうして、平家伝説と剣山と山岳崇拝が、ひとつのストーリーとして伝承・伝説化されていきます。

P1250794
剣山頂の法蔵岩
これに対して、元木直洲の『燈下録』(文化9(1812)年)は、「剣山=平家伝説」説を否定して、次のような説を現します。(意訳・要約)
剣山に祀られた剣は、阿波の国霊、大宜都比売神を殺した素蓋鳴命のものだ。木屋平口から剣山に登る途中には、竜光寺の坊と思われる庵があって、そこに住む老人が、更に奥院に参詣することが許されるかどうかを神様に伺って参拝者に示すというのである。
ここには、剣山に埋められた剣は安徳天皇のものではなくて、素蓋鳴命のものだとされています。ここで注目しておきたいのが、前述の『阿波志』にも「敢てこの庵から婦人は更に奥に進まない」と記されていることです。人々の信仰の対象となる山は、日頃から人々の立ち入りを許さない山でもありました。だから、登山には神による許可が必要でした。その入山許可を与えたのが龍光寺だと記します。剣山が円福寺、竜光寺の指導の下に山伏(修験者)にって開かれたことがここからもうかがえます。
 剣山が、先達・山伏たちが信者を連れてくる「集団登山」として、龍光寺と円福寺やが剣山信仰の拠点として栄えてきたことを押さえておきます。
丸笹・見ノ越
夫婦池方面から丸笹・見ノ越方面(祖谷山絵巻)
明治維新の神仏分離で、霊山剣山の地位が動揺した時期がありました。
維新政府の神仏分離令発布と、山伏禁止令が出されたからです。これによって、熊野、那智、大峰などの修験者聖地の威令が衰え、聖護院や醍醐寺の統制力が弱まっていきます。これに対して、円福寺や龍光寺の山伏たちは、逆境を逆手にとっていきます。それまでは、中央の修験本山の許可によった山伏修験者の大先達、先達等の位階の任命権を、自分たちが握ろうとしたのです。そして、円福寺と龍光寺は中央から独立し、拠り所を失った山伏達を再組織して、剣山信仰へと導いたのです。
 円福寺に残る明治15年文書には、次のように記されています。
何某 何房
(赤地金襴紫何  級輪袈裟着用
許可能事
年号月日
真言宗剣山 円福寺主 権少講義何某
右者許容書
これは袈裟着用の許可文(認可状)の形式で、この形式に基づいて、袈裟を発行していたことが分かります。
別に、次のようなものがある。
許可次第
第一   明治十五年六月二百五十枚用意  先達免状渡
第二   同年初テ三十枚用意  近士戒
第三 同右同枚 法名院号許可
第四 同百枚用意 大先達許客証
第五 同二十枚用意 袈裟許可仕也
右五ヶ御許可仕事
別義
何組長或副長申付仕能事
御宝剣御巻物等ハ勤功
之次第二依而被渡仕也
明治十五午年定
ここからは明治15年に、円福寺が上記のような規定をつくり、免状・院号・先達書・袈裟許可書など作成し、先達や信者に与えたことが分かります。つまり、これらの証明書や許可状の発行権を持っていたのです。
剣山円福寺・徳島県三好市東祖谷菅生 | Bodhisvaha
剣山円福寺

円福寺の護摩祈祷や剣神社の祭りには、どんな行事が行われていたのでしょうか?
東祖谷山村誌には、剣神社の最高位の先達であった元老大顧間の森本長一氏の次のような話が載せられています。

円福寺の境内には、一坪ばかり石を築いた小高い所があり、この上を護摩の建火場として、僧侶がこれに向って経文を唱える。周囲には先達を始め、多数の参詣人が白装束で立っている。護摩の焚木には、その者の住所、名前、千支、性別が記されてあり、桧でできているが、それにシキミの葉を添えて、僧侶が住所、名前等を唱えながら火中へ投ずるのである。護摩を焚く間、先達の免状としてある木札すなわち絵符をその先につけた杖は、一まとめにして背後の小祠に祀ってある。絵符は杖につけやすいように下駄状の歯が着いており、歯には中央に穴があいているので、それに杖を差しこんで紐で結びつけるのである。

剣山円福寺の護摩
円福寺の護摩法要
 戦前は護摩焚きの灰をかためて、不動尊を造ったり、古い先達の像をつくって御守としたことがあったそうだ。現在でも御神石の下から湧く御神水を水筒などに入れてもちかえる人も多い。御神水は何年おいてもくさらない水で、これを飲むと無病息災、病気の人も不思議と回復するという。これを神棚に祀ったりもする。
円福寺の祭日は旧六月十四、五日だが、剣神社は七月一日に「お山開祭」、七月十七日に「剣山大祭」を行う。大祭には神輿が出る。円福寺の信者には香川・岡山など他県の人も多いそうだが、剣神社の信者もそうで、戦前には香川から獅子舞もやってきたそうだ。
剣山年間行事

 剣神社の先達組織は、お山先達・小先達・中先達・大先達・特選大範長・名誉大範長・元老大顧問の七階級からなっている。先達は約千人程で、岡山、香川、愛媛、高知、徳島などの各県に拡がっている。講中には例えば、森本長一氏の場合、森本会という組織をつくっておられる。先達が信者を募集してバスなどで剣神社に参詣するのである。森本会には二人の女性の先達がいるそうだが、神社全体では十人内外の女性先達がいる。行場で女性が修行することを許されたのは昭和七年からである。
要点を整理しておくと
①円福寺の境内で護摩祈祷が行われ、周囲に先達や多数の参詣人が白装束で参加した。
②護摩の焚木(檜)に、参加者の住所、名前、千支、性別が記して、僧侶が住所、名前等を唱えながら火中へ投ずる
③護摩を焚く間、先達免状の木札(絵符をその先につけた杖)は、一まとめにして背後の小祠に祀ってある。(先達の叙任式を兼ねていた)
④戦前は護摩焚きの灰をかためて、不動尊を造ったり、古い先達の像をつくって御守とした
⑤現在でも御神石の下から湧く御神水を水筒などに入れてもちかえる人も多い。
⑥円福寺の祭日は旧六月十四、五日だが、剣神社は七月一日に「お山開祭」、七月十七日に「剣山大祭」を行う。大祭には神輿が出る。
⑦円福寺の信者には香川・岡山など他県の人も多く、戦前には香川から獅子舞もやってきた。
⑧剣神社の先達組織は、お山先達・小先達・中先達・大先達・特選大範長・名誉大範長・元老大顧問の七階級からなっている。
⑨先達は約千人程で、岡山、香川、愛媛、高知、徳島などの各県に拡がっている。
⑩先達が信者を募集してバスなどで剣神社に参詣する。
⑪十人内外の女性先達がいるが、行場で女性が修行することを許されたのは昭和七年からである。

剣山の行場

最後に剣山の主な行場を、次のように挙げています。
鎖の行場
鉄の鎖が滝にそって降されており、それを握って滝を下る修行をする。
不動の岩屋                          
洞穴の中に不動尊を祀ってあるが、その不動尊に水が落ちている。夏でも一般の人なら十分間と中に入っておれない冷たさだという。
鶴の舞
鶴が翼を広げ、胸を張った姿の様に岩が張りだしており、そこを廻るのである。
千筋の手水鉢
水が流れて岩が縦に割れ、たくさんの筋状になっている。それを降りるのである。
引臼舞
引臼状をした岩を廻るのである。
蟻の塔渡り
足場の岩が刻みこんであり、そこに左右の足を突込んで廻る。もし左右の足の位置を間違えれば出発点にもどってやりなおすしかないという。
以上をまとめておきます。
①江戸時代後半になって、木屋平の龍光寺の修験者たちによって剣山は開山され、富士の池を通じて、多くの参拝登山者が先達たちに率いられてやって来るようになった。
②祖谷側では菅生の円福寺が見ノ越を拠点に大剣神社を神体とする石鎚信仰を広めた。
③龍光寺と円福寺は、信者テリトリーを分割して、共存共栄関係にあった。
④明治の神仏分離や山伏禁止令の中でも、両寺は教勢を失わずに信者達を集め続けた。
⑤こうして見ノ越の円福寺は、本家の菅生・円福寺を凌駕するに至った

こうして、見ノ越の円福寺は明治の神仏分離以後も剣山の見ノ越側の拠点として繁栄を続けることになります。ところで、江戸時代後半になって見ノ越に現れた円福寺は、もともとはどこにあったお寺なのでしょうか。それを次回は見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献