白鬚神社は、比良山系の北端の断崖が琵琶湖の西岸にせまる高島町鵜川の明神崎の突端に鎮座します。湖中に朱塗りの大鳥居があり、国道161号線をはさんで社殿が建ちます。「白鬚さん」「明神さん」の名で広く親しまれ、「近江の厳島(いつくしま)」とも呼ばれているようです。「白家(髪)」という社名は、弘安2年(1280)前後に書かれた「比良荘堺相論絵図」が初見のようです。
比良荘堺相論絵図 (白カミ明神と表記されている)
それ以前は白鬚神社は「比良宮」と呼ばれていたことが次の史料からは分かります。
①平安時代中期の文献を編集した『天満宮託宣記』に「比良宮」②『最鎮記文』(貞元2年(977)には、「近江国高嶋郡比良郷」③『三代実録』貞観7年(865)正月十八日条に「近江国の無位の比良神に従四位下を授く」④社伝にも「天武天皇の御代に比良明神と称した」とあること⑤保延6年(1140)の『七大寺巡礼私記』古老伝の引用に、比良明神が老翁として現れたとあること。
建内宿禰が品陀和気命(応神天皇)を連れて、近江・若狭を経て越前の角鹿に至り、仮宮を造って居たとき、夢の中に伊奢沙和気大神(気比大神)が現れ、神の名を名乗るようにいわれ、名を易えた。
ここでは気比大神と太子が互いに名を交換したとありますが、そうではなくて、太子が気比大神の神名に名を改めたのであり、「なる子まいり」の名替えと同じだと研究者は考えています。白神信仰には「死と再生」観念がテーマとしてありますが、ここではそれが「変身」という形で改名伝承に示されています。

白山としての仮宮は、神の子として再生するための産屋と考えられます。日本書紀にも、産屋を海辺に作って鵜の羽で葺いた記事が出てきます。白髪神社があるのは「鵜川」で、鵜の羽で葺いた産屋を川辺に建てたことによる地名と研究者は推測します。そう考えれば、白神が鵜川に鎮座することや、「なる子まいり」の意味が見えて来ます。
![白城神社[敦賀市白木・式内社]: 神なび](https://kawasakiya-jirokichi.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/tsuruga_shiraki_jinnjya01.jpg)
どうして産屋に砂を敷くか?それは砂や上の上にワラをおけば、床板の隙間から風が人りこむというような寒い日にあわなくてもすむということがある。その上、砂は地熱をもつ。こうした実際の効用のほかにもう一つの意味がウブスナにはかくされていると私はおもう。
常宮(白木と同じ敦賀半島にある地名、気比神宮の摂社常宮神社がある)で、次のような話を聞いた。海のなぎさのそばに産屋をたて、砂を床にして子どもを産むのを、まるで海亀のようだと地元の人びとは話しあったという。海亀は季節をさだめて海の彼方からやってき、砂に穴を掘って卵を産みつけ、その卵を地熱によって孵化させる。この海亀を連想したということは、もともとなぎさの近くで産屋をたてて子どもを産むという行為が、海亀や鮫などわだつみを本つ国とする海の動物たちの産卵にあやかったのではないかという類推へと私をみちびく。(中略)事実、白木や丹生の定置網には海亀がたまに入ることがあるという。また、この地域では、「砂の上で生まれたので亀の子と一緒」といわれているという。
天皇が山城国に行幸したとき、綺戸辺(かにはたとべ)という美人がいることを聞き、矛を執って祈いをして、「必ずその美人に会いたいので、道の途中で瑞兆が現れてほしい」というと、行宮に至るころに大亀が河の中から出てきた。その亀を大皇が矛で刺したところ、たちまち亀が白石に化したので、天皇は側近の者に、「このものによって推しはかると、かならず霊験があるだろう」といった。そして、後宮に召された綺戸辺は、三尾君の始祖の磐衝別命を生んだという。
ツヌガアラシトが国にいたとき、ある村で自分の牛が行方不明になった。調べてみると、殺されて食われてしまったことがわかったので、その代償に、村で祀っている神がほしいといった。そこで村人は白石を献じた。やがてこの白石が美しい乙女になったので、妻にしたが、いつしかいなくなってしまった。行方をきくと、日本に行ったというので、追って日本へ来たという(この白石は豊国国前郡と難波の比売許曽社の神だとある)。
美人と白石と求婚のモチーフは、どちらの話にも共通しています。たぶん、白石が美人になった話が変型して、三尾君の始祖伝承になったと研究者は考えています。両者の内容を要約すると
こうして見てくるとホムタワケ(応神天皇)の改名伝承は、白髪神社の「なる子まいり」と重なります。
「なる子まいり」の神事は、転生・変身の「シラ」神事です。改名が健康・招福を約束するように、亀が白石に変ずるのも祥瑞です。これらの伝承が「白」のつく神社にあります。ここには朝鮮半島からの渡来人にかかわっていることになります。加羅・新羅の卵生伝承と亀旨峯降臨神話と、亀が白石に変じた話は、日本海を越えてもたらされた神話だと研究者は考えています。
「白城は新羅とて新羅の神なるべし。新撰姓氏録に、新良貴。彦波激武鵬鵜草葺不合尊男稲飯命之後也。是出於新良国。即為国主。稲飯命出於新羅国王之祖也、とみえ、神社頚録に今鵜羽明神と称すとあるを思ふに、新羅の天日矛の後裔此国に留り、其遠祖鵜葺不合尊又は稲飯命を白城神と祭れるならん、地名の白城も新羅人の住ゐより起れる名なるべし」
意訳変換しておくと
「白城は新羅で、新羅の神であろう。新撰姓氏録に、「新良貴は新羅の国王で、稲飯命は新羅国王の祖先である」と書かれている。神社頚録には鵜羽明神とあるを見ると、新羅の天日矛の子孫がこの国に留って、遠祖である鵜葺不合尊や稲飯命を白城神として祀ったのではなかろうか。地名の白城も新羅人が住んでいたことに由来するのであろう。
「今在・白木浦・称白木明神又鵜羽明神、蓋祀二新良貴氏祖稲飯命ことあり
『日本書紀』は、「剣を抜きて海に入りて、鋤持神となる」『古事記』は、「批の国として、海原に入り坐しき」
『日本書紀』では、稲飯命は神武東征に従いますが熊野に進んで行くときに暴風に遭います。「我が先祖は天神、母は海神であるのに、どうして我を陸に苦しめ、また海に苦しめるのか」と言って剣を抜いて海に入って行き、「鋤持(さいもち)の神」になったとします。「鋤持神」については、『古事記』の神話「山幸彦と海幸彦」でも「佐比持神(さいもちのかみ)」が登場します。これらは鰐(わに)の別称とされます。『古事記』の神話では、山幸彦は海神宮から葦原中国に送ってくれたワニに小刀をつけて帰したと記します。ここからは「さい」とは刀剣を指し、鰐の歯の鋭い様に由来すると研究者は考えています。『日本書紀』神代上では「韓鋤(からさい)」、推古天皇20年条では「句禮能摩差比(クレイノウマサヒ)」などが登場するので、朝鮮半島から伝来した利剣を表すともされます。また『新撰姓氏録』は、稲飯命は新羅王の祖であるとする異伝があります。
『古事記』には稲飯命の事績は何も書かれて折らず、稲飯命は妣国(母の国)である海原へ入り坐(ま)したとのみ記されています。
高句麗の建国神話で、建国の祖・高朱蒙が次のように尋ねます
「私は天孫(太陽の子)で河伯の外孫である。今日逃走してきたが、追手がいよいよ迫っている、どうすれば渡れるか?」と言うと、魚や鼈が浮かんで橋を作り、朱蒙らは川を渡ることができた
この高句麗の建国神話と、山幸彦の話は重なりあうところがあります。
それでは「批の国」は、どこなのでしょうか。
『古事記』は須佐之男命についても、「批の国根の堅州国」へ行ったと記します。『日本書紀』は「根国」と書き一書の四に、「新羅に天降り、五十猛命と船で出雲へ来た」と記します。ここからは、根国を新羅とみていることが分かります。日本海沿岸の人々にとって、批(はは)の国・根の国は日本海の彼方にあり、その地が新羅と考えられていたようです。そのような中で、秦氏は朝鮮半島の神々をこの国に伝え、信仰し、さまざまな神社を建立したことになります。
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「大和岩雄 秦氏の研究372P 志呂志(しろし)・白髪神社~白神信仰と秦氏~」





