前回は「志呂志神社(近江日高島郡)の祭神は、賀茂別雷神社の祭神別雷神や兄弟又は伯叔父に当られる白日神と同一神」という説を見てきました。今回は、白鬚(髪)神社(滋賀郡小松村大字鵜川)が比良明神と同一祭神を祀っているのではなかという説を見ていきます。テキストは「大和岩雄 秦氏の研究372P    志呂志(しろし)・白髭神社~白神信仰と秦氏~」です。

白鬚神社 琵琶湖 秦氏
            白鬚(髪)神社と鳥居

白鬚神社は、比良山系の北端の断崖が琵琶湖の西岸にせまる高島町鵜川の明神崎の突端に鎮座します。湖中に朱塗りの大鳥居があり、国道161号線をはさんで社殿が建ちます。「白鬚さん」「明神さん」の名で広く親しまれ、「近江の厳島(いつくしま)」とも呼ばれているようです。「白家(髪)」という社名は、弘安2年(1280)前後に書かれた「比良荘堺相論絵図」が初見のようです。

比良荘堺相論絵図 白鬚神社
             比良荘堺相論絵図 (白カミ明神と表記されている)
それ以前は白鬚神社は「比良宮」と呼ばれていたことが次の史料からは分かります。
①平安時代中期の文献を編集した『天満宮託宣記』に「比良宮」
②『最鎮記文』(貞元2年(977)には、「近江国高嶋郡比良郷」
③『三代実録』貞観7年(865)正月十八日条に「近江国の無位の比良神に従四位下を授く」
④社伝にも「天武天皇の御代に比良明神と称した」とあること
⑤保延6年(1140)の『七大寺巡礼私記』古老伝の引用に、比良明神が老翁として現れたとあること。
⑤に描かれた老翁のイメージが、白髪神になるようです。古代は比良明神と呼ばれていたのが、中世になって白鬚神社と呼ばれるようになったことを押さえておきます。

白髪神社 なるこ参り

白髪神社の秋の大祭(9月5日・6日)には、「なる子まいり」という神事が行われます。
数え年で2歳の子どもに神様から名前を授かるのです。子ども連れでお参りし、本名とは別に神様からいただいた名前で3日間その子を呼ぶと、無事に一生幸福の御守護があるといわれています。かつては、北は福井、南は京阪神方面から多くの人が「なる子まいり」に参詣していました。「なる子」は「成る子」です。産屋を「シラ」ということからみても、白(比良)神を祀る白髪神社にふさわしい祭です。
古事記には、この「なる子まいり」の伝承が次のように記されています。

建内宿禰が品陀和気命(応神天皇)を連れて、近江・若狭を経て越前の角鹿に至り、仮宮を造って居たとき、夢の中に伊奢沙和気大神(気比大神)が現れ、神の名を名乗るようにいわれ、名を易えた。

ここでは気比大神と太子が互いに名を交換したとありますが、そうではなくて、太子が気比大神の神名に名を改めたのであり、「なる子まいり」の名替えと同じだと研究者は考えています。白神信仰には「死と再生」観念がテーマとしてありますが、ここではそれが「変身」という形で改名伝承に示されています。
ホムタワケは近江・若狭を巡幸したあと角鹿に仮宮を建てて住んだとあります。仮宮は霜月神楽の「白山」です。死装束をして「白山」に入り、籠りが終わって「白山」から出た人を「神の子」としました。品陀和気命が、仮宮に籠っているときに見た夢の啓示で、気比大神の神名(イササワケ)に改名します。これは白山儀礼と同じ死と再生の儀礼です。「なる子まいり」で別名を名乗ることによって健康に成育し幸福な生涯をおくれるのは、神の子として生まれかわるからです。「成る子」の「成る」は再生の「ナル」と研究者は考えています。このような再生の生命力が、「白神」の霊力であり、神威なのでしょう。
沖縄では、産屋を「シラ」と呼びます。

産屋(そら知らなんだ ふるさと丹後-71-)

白山としての仮宮は、神の子として再生するための産屋と考えられます。日本書紀にも、産屋を海辺に作って鵜の羽で葺いた記事が出てきます。白髪神社があるのは「鵜川」で、鵜の羽で葺いた産屋を川辺に建てたことによる地名と研究者は推測します。そう考えれば、白神が鵜川に鎮座することや、「なる子まいり」の意味が見えて来ます。
  敦賀半島の西北端の敦賀市白木浦の式内社の白城神社の産屋を見ておきましょう。

白城神社[敦賀市白木・式内社]: 神なび

この神社は、かつては鵜羽明神と呼ばれたようです。「鵜羽」は「鵜川」よりもはっきりと産屋の存在を示します。白木では、お産のたびに産屋を焼いて建て直したようです。
  谷川健一は、この習俗を記・紀の火中出生諄に結びつけ、次のように記します。
  どうして産屋に砂を敷くか?それは砂や上の上にワラをおけば、床板の隙間から風が人りこむというような寒い日にあわなくてもすむということがある。その上、砂は地熱をもつ。こうした実際の効用のほかにもう一つの意味がウブスナにはかくされていると私はおもう。
 常宮(白木と同じ敦賀半島にある地名、気比神宮の摂社常宮神社がある)で、次のような話を聞いた。海のなぎさのそばに産屋をたて、砂を床にして子どもを産むのを、まるで海亀のようだと地元の人びとは話しあったという。海亀は季節をさだめて海の彼方からやってき、砂に穴を掘って卵を産みつけ、その卵を地熱によって孵化させる。この海亀を連想したということは、もともとなぎさの近くで産屋をたてて子どもを産むという行為が、海亀や鮫などわだつみを本つ国とする海の動物たちの産卵にあやかったのではないかという類推へと私をみちびく。(中略)
 事実、白木や丹生の定置網には海亀がたまに入ることがあるという。また、この地域では、「砂の上で生まれたので亀の子と一緒」といわれているという。
研究者はこの記述と『日本書紀』の垂仁天皇34年3月2日条の、次の三尾君の始祖伝承を重ね合わせます。
天皇が山城国に行幸したとき、綺戸辺(かにはたとべ)という美人がいることを聞き、矛を執って祈いをして、「必ずその美人に会いたいので、道の途中で瑞兆が現れてほしい」というと、行宮に至るころに大亀が河の中から出てきた。その亀を大皇が矛で刺したところ、たちまち亀が白石に化したので、天皇は側近の者に、「このものによって推しはかると、かならず霊験があるだろう」といった。そして、後宮に召された綺戸辺は、三尾君の始祖の磐衝別命を生んだという。

 大亀が河にいるはずはないから、もともとは海浜の伝承だったのかもしれません。亀が白石になったというのは、亀が海辺に卵を残していたのでしょう。それが亀が矛で刺されて白石に化したという変身・転生説話になったようです。ここにも白神信仰のモチーフである「死と再生」が見られます。

大原の産屋

これは、次の垂仁紀の二年条の大加羅国の王子都怒我阿羅斯等の白石の話と共通します。

ツヌガアラシトが国にいたとき、ある村で自分の牛が行方不明になった。調べてみると、殺されて食われてしまったことがわかったので、その代償に、村で祀っている神がほしいといった。そこで村人は白石を献じた。やがてこの白石が美しい乙女になったので、妻にしたが、いつしかいなくなってしまった。行方をきくと、日本に行ったというので、追って日本へ来たという(この白石は豊国国前郡と難波の比売許曽社の神だとある)。

美人と白石と求婚のモチーフは、どちらの話にも共通しています。たぶん、白石が美人になった話が変型して、三尾君の始祖伝承になったと研究者は考えています。両者の内容を要約すると
①亀が白石になって、白石が美女に変じる転生・変身説話で、白石は卵のイメージ
②三尾君は越前・加賀・能登ともかかわり、ツヌガアラシトは越前・敦賀にかかわること
③越前の気比浦にアラシトは着いたとあること
④気比神宮の摂社の角鹿神社は、ツヌガアラシトを祀っていること
白日神に関わる白石伝承が日本海側の越前から近江に拡がっていたことがうかがえます。

こうして見てくるとホムタワケ(応神天皇)の改名伝承は、白髪神社の「なる子まいり」と重なります。
「なる子まいり」の神事は、転生・変身の「シラ」神事です。改名が健康・招福を約束するように、亀が白石に変ずるのも祥瑞です。これらの伝承が「白」のつく神社にあります。ここには朝鮮半島からの渡来人にかかわっていることになります。加羅・新羅の卵生伝承と亀旨峯降臨神話と、亀が白石に変じた話は、日本海を越えてもたらされた神話だと研究者は考えています。

鵜羽明神と呼ばれる白城神社の祭神について、『特選神名牒』は次のように記します。

「白城は新羅とて新羅の神なるべし。新撰姓氏録に、新良貴。彦波激武鵬鵜草葺不合尊男稲飯命之後也。是出於新良国。即為国主。稲飯命出於新羅国王之祖也、とみえ、神社頚録に今鵜羽明神と称すとあるを思ふに、新羅の天日矛の後裔此国に留り、其遠祖鵜葺不合尊又は稲飯命を白城神と祭れるならん、地名の白城も新羅人の住ゐより起れる名なるべし」

意訳変換しておくと
白城は新羅で、新羅の神であろう。新撰姓氏録に、「新良貴は新羅の国王で、稲飯命は新羅国王の祖先である」と書かれている。神社頚録には鵜羽明神とあるを見ると、新羅の天日矛の子孫がこの国に留って、遠祖である鵜葺不合尊や稲飯命を白城神として祀ったのではなかろうか。地名の白城も新羅人が住んでいたことに由来するのであろう。

『大日本史』には次のように記します。
「今在・白木浦・称白木明神又鵜羽明神、蓋祀二新良貴氏祖稲飯命ことあり

稲飯命
稲飯命について、紀記は次のように記します。
『日本書紀』は、「剣を抜きて海に入りて、鋤持神となる」
『古事記』は、「批の国として、海原に入り坐しき」

『日本書紀』では、稲飯命は神武東征に従いますが熊野に進んで行くときに暴風に遭います。「我が先祖は天神、母は海神であるのに、どうして我を陸に苦しめ、また海に苦しめるのか」と言って剣を抜いて海に入って行き、「鋤持(さいもち)の神」になったとします。「鋤持神」については、『古事記』の神話「山幸彦と海幸彦」でも「佐比持神(さいもちのかみ)」が登場します。これらは鰐(わに)の別称とされます。『古事記』の神話では、山幸彦は海神宮から葦原中国に送ってくれたワニに小刀をつけて帰したと記します。ここからは「さい」とは刀剣を指し、鰐の歯の鋭い様に由来すると研究者は考えています。『日本書紀』神代上では「韓鋤(からさい)」、推古天皇20年条では「句禮能摩差比(クレイノウマサヒ)」などが登場するので、朝鮮半島から伝来した利剣を表すともされます。また『新撰姓氏録』は、稲飯命は新羅王の祖であるとする異伝があります。
『古事記』には稲飯命の事績は何も書かれて折らず、稲飯命は妣国(母の国)である海原へ入り坐(ま)したとのみ記されています。
 高句麗の建国神話で、建国の祖・高朱蒙が次のように尋ねます

「私は天孫(太陽の子)で河伯の外孫である。今日逃走してきたが、追手がいよいよ迫っている、どうすれば渡れるか?」と言うと、魚やが浮かんで橋を作り、朱蒙らは川を渡ることができた

この高句麗の建国神話と、山幸彦の話は重なりあうところがあります。

それでは「批の国」は、どこなのでしょうか。

『古事記』は須佐之男命についても、「批の国根の堅州国」へ行ったと記します。『日本書紀』は「根国」と書き一書の四に、「新羅に天降り、五十猛命と船で出雲へ来た」と記します。ここからは、根国を新羅とみていることが分かります。日本海沿岸の人々にとって、批(はは)の国・根の国は日本海の彼方にあり、その地が新羅と考えられていたようです。そのような中で、秦氏は朝鮮半島の神々をこの国に伝え、信仰し、さまざまな神社を建立したことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
「大和岩雄 秦氏の研究372P    志呂志(しろし)・白髪神社~白神信仰と秦氏~」