瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:白峯寺

白峯寺 近世建築物群

白峯寺には近世の建築物が15棟あります。この内の9つの建物が2017年7月にまとめて重文指定を受けています。特に、先ほど見た頓証寺の5棟は同時期に高松藩主松平頼重によって建てられています。こうして見ると白峯寺の伽藍配置は、17世紀後期には現状の体裁を整えていたことが分かります。
幕末にペリーがやって来た頃の白峯寺を見ておきましょう。

白峯寺 讃岐国名勝図会
白峯寺(讃岐国名勝図会 1853年)
見ていただくと分かるように主要な建物はほとんど変わっていません。言い換えると、白峯寺は200年以上前の姿をそのまま現在に伝える寺院と云うことになります。これが多くの建物が一括して重文化財に指定される決め手にもなりました。ちなみに、この絵図を書いたのが松岡調です。神仏分離の際に金刀比羅宮の責任者となる人物です。後ほど、詳しく見ることにして、ここでは前に進みます。             
 明治維新とともに出された神仏分離令で、その被害を香川県で最も大きな被害を受けたのが白峯寺です。どのような大嵐が白峯寺を襲ったのかを見ていくことにします。

京都の白峯神社
白峯神社(京都今出川)
まずこの写真から見ていくことにします。白峯神社とあります。
いったいどこにある白峯神社なのでしょうか。これは京都の白峯神社です。堀川通りと今出川通りの交叉点附近の一等地に、もと公家の邸宅跡に新しく作られた神社です。ここに明治初年に、白峰山から崇徳院の御霊は明治天皇の命で移されました。そのためこのような碑が建っています。白峯神社のHPの由来には次のように記されています。

幕末、風雲急を告げる中、孝明天皇は、保元の乱(1156)によって悲運の運命を辿られた崇徳天皇の御霊を慰め、かつ未曾有の国難にご加護を祈らうとされ、幕府に御下命になり四国・坂出の「白峰山陵」から京都にお迎えして、これを祀らうとされましたが叶わぬままに崩御されました。明治天皇は父帝の御遺志を継承・心願成就され、社殿を現在地に新造し、奉迎鎮座されました。 

つまり、今は崇徳院の御霊は今はここに移されているということになります。どんな経緯で、白峯山からここにみたまが移されたのでしょうか?
 明治元年(1868)3月に新政府は神仏分離令を出します。その影響を最も早く蒙るのが白峯寺です。

白峯寺 神仏分離2

②4月に明治天皇の名によって、白峯寺の崇徳院の御霊を京都へ移すことが発表されます。その背景には幕末の混乱した情勢があったようです。「崇徳上皇の怨霊が社会不安を引き起こしている」という噂や、新政府への反乱分子が崇徳上皇の怨霊を担ぎ上げて蜂起しようとしている噂が拡がります。③こうして8月26日に、天皇の勅使が30隻余りの船団で坂出港にやってきます。勅使団は、高松藩の警護も含めると400人に及ぶ一行でした。白峯寺にやってきて、頓證寺の御真影と愛用の笙を受け取り、それを神輿に移して、翌日に下山します。これに対して、白峯寺は何も出来ません。事前に儀式に参加したい旨を伝えますが許されませんでした。やってきた勅使が御霊を抜き、御像を移す儀式を、僧侶である白峰寺の住職は見守るしかなかったようです。
 28日に神輿と勅使一行は高松藩主の御用船「飛龍丸」で、京都にむけて出港します。こうして白峯陵は「もぬけの空」となってしまいます。これは白峰寺にとっては精神的に大きなダメージになりました。これが白峯寺への最初の一撃でした。

これに追い打ちをかけたのが明治4年(1871)年の上知(あげち)令です。
上知令というのは、寺院が持っていた寺領を収して国有化することです。大寺院にとっては、これは経済基盤を全て失うことになります。これに対して、奈良の興福寺の僧侶達は春日神社の神官に転職していきます。残された伽藍や仏像は、がらくたのように売り払われ、五重塔も売り晴らされる解体寸前になります。このような状況が伝わると、全国の神仏混淆の僧侶達も不安になって、還俗して神官になるものが続出します。このような中で明治6年、白峯寺の住職も、陵墓墓守に転職します。その背景には白峯寺は、檀家を持たない祈祷系寺院で、今後の寺院将来に不安を感じたのでしょう。自分も住職から皇室の墓守へという決断になったのでしょう。この結果、白峯寺は住職がいなくなってしまいます。当時の新政府の方針は、寺院削減でした。無住職・無檀家の寺院はどんどん取り潰していくというものでした。住職がいなくなった白峰寺はこうして廃寺となってしまいます。
 そして明治8年には、当時の白峯陵の管理者は、陵墓周辺に仏教寺院があるのは環境に宜しくないと、白峯寺の建物群を取り払って更地にするように県に求めています。もし、これが認められていれば現在の白峯寺はなかったことになります。

その3年後の明治11年に、次のような申請書が金刀比羅宮から県に提出されます。
金刀比羅宮の頓證寺摂社化

ここでは②「もぬけの空」になった頓證寺を③金刀比羅宮が管轄下におくべきだと主張しています。この背景には、江戸後期になって京都の安井金毘羅宮などで拡がった「崇徳上皇=天狗=金昆羅権現」説がありました。
 それが金毘羅本社でも、受け入れられるようになったことは以前にお話ししました。そして明治の神仏分離で金毘羅大権現を追放して、何を祭神に迎え入れるかを考えたときに、一部で広がっていた「金毘羅=崇徳上皇」説が採用されることになります。こうして金刀比羅宮の祭神の一人に崇徳上皇が迎え入れられます。そして、崇徳上皇信仰拠点とするために目をつけたのが、廃寺になった白峰寺の頓證寺です。これを金刀比羅宮の摂社として管理下に置こうとします。
これを提言し実行したのが松岡調(みつぐ)だと私は考えています。

松岡調 神仏分離

彼は200石取りの高松藩士の4男として生まれ、才覚を買われて20歳の時に志度神社へ養子に入ります。②若いときには、先ほど見た讃岐国名勝図会の挿絵を担当しています。③そして高松藩の藩校の教授に就任します。④明治維新に神仏分離令が出されると、東讃から高松にかけての担当エリア五郡の「神社取調」の調査を担当しています。この調査は各神社の御神体をチェックし、そこに何が保存され、どんなものが祀られているのかを報告するものでした。そのため各神社の宝物類はすべて頭の中に入れていたようです。その彼が請われて、金刀比羅宮の禰宜職に就任したのです。この調査活動を通じて、彼は頓證寺にどんなお宝があるかも知っていたはずです。その松岡調がさきほどの文書を起草したと私は考えています。
 申請を受けた県や国の担当者は、現地調査も聞き取り調査も行なっていません。机上の書面だけで頓証寺を金刀比羅宮へ引き渡すことを認めてしまいます。この瞬間から頓証寺は白峯神社と呼ばれる事になります。つまり頓証寺という崇徳天皇廟の仏閣がたちまちに神社に「変身」してしまったのです。そして、その中に補完されていた宝物の多くが金刀比羅宮の所有となり、持ち去られます。ある意味では、これは金刀比羅宮の「乗っ取り」といえます。これが明治11年4月13日のことです。
この経緯が、かつての金刀比羅宮白峰寺の説明版には次のように記されていました。
金刀比羅宮白峰寺の説明館版

ここからは次のようなことが分かります。
①頓證寺が金刀比羅宮の境外摂社として、②敷地建物宝物等一切が金刀比羅宮の所有となったこと。
③大正3年になって、白峯神社が現在地に遷座したこと
④現白峯神社の随神は、頓證寺の勅額門にあったものであること

こうして、明治になって白峯寺は住職がいなくなって廃寺になり、その中の頓證寺は金刀比羅宮の管理下に置かれて「白峯寺神社」となったことを押さえておきます。白峰寺は、このままでは姿を消していきそうになります。
 このような白峯寺の危機に対して立ち上がっていったのが地元の人達でした。

頓證寺返還運動

 白峰寺の麓の松山村などの住人たちは、白峯寺復活のために明治8年7月、白峯寺住職選定の願いを阿野郡に提出しています。この時には、当時の国の方針が寺院削減だったので、県は認めません。②しかし、M11年頃になると時流が変化します。明治政府は神仏分離の行き過ぎを修正し、廃寺になった寺院に対する救済策を許可するようになります。そのような動きの中で、新しい住職を迎えることが許可され、牟礼・洲崎寺の橘渓導が住職として、白峰寺に入ります。③橘新住職は、地元の支援者と協議しながら金刀比羅宮への反撃を準備します。その一つが裁判に訴えることでした。明治17年に白峯寺勝利の判決が下るのですが、金刀比羅宮は、これに従いません。
 禰宜の松岡調の抵抗があったようです。ところが日清戦争の時に、金刀比羅宮が朝鮮半島や遼東半島で、政府や軍の許可なく神道布教を行ったことが問題になり、松岡調は1895年に長年勤めた金刀比羅宮禰宜を解任されます。その翌年に、高屋・青海村の住人達は、頓證寺の返還願いを県に提出しています。それが認められるのが2年後の1898(明治31)年になります。そうすると金刀比羅宮は、祭神である崇徳院をまつる宗教施設がなくなってしまいました。そこで、本社と奥社の間に、新たな神社を建立します。これが現在の、金刀比羅宮の白峯神社です。

金刀比羅宮の白峰寺創建

現在のお札には金刀比羅宮白峯神社と書かれています

しかし、金刀比羅宮は総てを返還したのではないようです。
返還したのは仏具など仏教関係のモノが中心で、その他のものは返還に応じません。この結果、金刀比羅宮に移された宝物の多くが頓證寺にはもどっていないのです。その代表が奈与竹(なよたけ)物語の絵巻です。
重文なよたけ物語

 なよ竹物語は、鎌倉後期の後嵯峨院の時代に、春の蹴鞠(けまり)を見物に来ていた人妻を、後嵯峨院に見初めます。その人妻は悩んだ末に院の寵(ちょう)を受け入れ、その果報として少将は中将に出世する。人の妻である女房が帝に見出され、その寵愛を受け入れることで、当の妻はもとより、周囲の人々にまで繁栄をもたらすというストーリーで、鎌倉時代になってできた物語のひとうのパターンです。白峯寺は、後嵯峨院の勅願所でもあったようで、そのような機縁で、絵巻が伝えられたと研究者は考えています。これは、金刀比羅宮蔵のままです。
 白峯寺の地元の青年団では、戦後も引渡を求めていますが金毘羅山の回答は、次の通りです。

白峯寺と金刀比羅宮の言い分


松山青年団の返還申請

 
政府や県の承認にもとづいて頓證寺の占有権を得たのであって、その時期に金刀比羅宮のものとなった宝物の返還の義務はないという立場のようです。
 文化財の保管・展示を考える場合に、国際的な流れとしては、その文化財がもともとあったところに返すのが原則という考え方が国際的な流れとなりつつあります。そのためルーブルや大英博物館に対して、各国からの返還要求が出されています。このような流れの中で、この問題も考える必要があるのではないかと私は思っています。

明治の神仏分離で白峯寺は、次の3つのものを失いました。


白峰寺のダメージ

そして一時的には廃寺となり、残された建物も神域にふさわしくないと取り壊しが建議されたこともありました。それを救ったのが地元の人達でした。その結果、白峯寺には江戸時代の建物が15棟、そのままの姿で残されることになりました。その内の9棟が重文指定、将来の国宝候補となっています。江戸時代の建物がこれだけ一括して残っていること、そしてその伽藍レイアウトがほとんど変わっていないことことは、非常に希有な寺院です。これらは明治の住職や地元の人達の運動によって、後世に伝えられたことに感謝したいと思います。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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中世の白峯寺2

前回は、補陀落渡海信仰をもつ山林修験者によって開かれた白峰寺が修験者の拠点として成長していく姿を追いかけました。今回は、そこに崇徳上皇信仰が「接ぎ木」されていくプロセスを見ていくことにします。
崇徳上皇と後鳥羽上皇

崇徳院は「瀬を早(はや)み 岩にせかるる 
滝川(たきがわ)のわれても末(すゑ)に 逢はむとぞ思ふ」

の歌で有名な歌人です。しかし、政治的には不遇な運命を辿ります。弟の後白河上皇の権力争いに敗れて、讃岐に流され、国府のあった府中(坂出市)周辺で流配生活を送ります。寂しさに耐えられず、崇徳院は弟に向けて恩赦の願いを出しますが受けいれられません。そして、亡くなると弟の後白河天皇は、喪にも服せず、葬儀の指示も出していません。兄の崇徳に対する冷淡さや非情さを感じる対応です。私が小説家なら兄崇徳死亡を告げる讃岐からの報告に対して、後白河に語らせる台詞は「ああ、そうか」だけです。過去の人として、意識の外に追いやっていたようにも思えます。
 今は立派に整備されて想像もつきませんが、埋葬された当時は粗末なものであったようです。その埋葬経過についても確かな史料が残されていません。この辺りも通常の天皇陵墓とはちがうようです。中央からの指示がないので、やもおえず地元の国衙役人たちは自分たちの判断で白峰山に埋葬されたと坂出市史は記します。先ほども述べたように、当時の天皇陵墓としては規格外で粗末なもので「薄葬」であったことを押さえておきます。このような扱いに対して、崇徳上皇はどのように「反撃」したのでしょうか。保元物語には次のように記されています。
天狗になった崇徳上皇

ここには、①崇徳院が「京に返してくれと、長い仏典を自分の血で書写し嘆願したこと ②それが適わないと、大魔王として日本国を滅ぼすと誓い ③生きながら天狗になったことが書かれています。保元物語のこの記述は後世の人達にインパクトを与えて、ここから数多くの物語や作品が生み出されることになります。崇徳院がどんな風に見られていたかを、今に残る史料で見ておきましょう。

崇徳上皇と松山天狗

左が怨霊となって天狗姿で飛び回り、祟りをふります崇徳上皇の姿です。これを受けて作られたのが謡曲「松山天狗」です。この舞台は白峯寺(松山)です。崇徳上皇と親しかった西行法師が廟所を訪ねて来るところから物語は始まります。そこでは、崇徳院は多くの天狗達のボスとして描かれています。その下で、天狗達のとりまとめ役が相模坊という天狗頭です。
 謡曲「松山天狗」の果たした役割は大きく、以後は崇徳上皇=天狗説、相模坊=崇徳上皇に仕える天狗という説が中世には広がります。そして、天狗になるために修行する修験者も数多く現れます。室町幕府の将軍の中にも天狗道信仰に夢中になって、政務を顧みない人物も現れます。当時の「入道」と称した人々の多くは天狗信仰者でした。
 崇徳上皇に仕えた白峯の相模坊を見ておきましょう。

白峯寺の天狗・相模坊
相模坊

右が頓證寺前の相模坊像です。背中に羽根のある天狗として描かれています。左が現在の頓證寺殿権現堂の白峯大権現のお札です。修験者の守護神不動明王のようです。その前には二人の天狗が描かれています。ここにも天狗道の痕跡が見えます。これを別の表現で云うと、崇徳院が天狗集団のボスとなった、逆に言うと「天狗集団が崇徳上皇をかついだ」ということになります。天狗の中には、白峯寺の子院の主人達もいたはずです。これを別の史料で裏付けておきます。

相模坊・金剛坊 天狗経
            ①天狗経です。
これは今では近世に造られた偽書(偽の経典)とされています。ここには当時の全国の有名な大天狗とその拠点ががリストアップされています。京都の愛宕山の天狗をスタートに鞍馬・熊野・吉野・高野山・石鎚山の名前があります。讃岐では
最初の赤いマークが「黒眷属金毘羅坊 
2番目が「白峯相模坊」
3番目が「象頭山金剛坊」
が挙げられています。ここからは白峯山や象頭山は天狗信仰のメッカで、おおくの行者達が修行のために訪れていたことがうかがえます。金毘羅大権現の天狗の姿を見ておきましょう。

金毘羅大権現天狗説
           金毘羅大権現
大権現とはどんな姿だったのか? 「権現は、変化するもの」です。例えば金毘羅大権現は、高松藩に説明するときなど公的には、「クンピーラ(金毘羅)と称し、天部の仏と称しています。それでは、信者にはどう説明していたのでしょうか?
左図の上に「金毘羅大権現」と書かれています。これが金毘羅大権現の姿なのです。その下には天狗達が描かれています。右側には不道明のような姿で金毘羅大権現は描かれています。そして、その周りを囲むのは天狗達です。下には「別当金光院」とあります。金毘羅大権現社の別当金光院のことです。金光院は、このような掛け軸を、金毘羅行者と呼ばれた修験者たちに配布していたのです。まさに彼らは、天狗になるために修行していたのです。そのボスが白峯寺では崇徳上皇だったことになります。そのためか、幕末になると崇徳上皇の権化が金毘羅大権現だという説が、京都を中心に拡がっていたことは以前にお話ししました。それが明治の神仏分離の際の金刀比羅宮により白峯寺乗っ取りの要因のひとつとされます。ここでは、天狗信仰で、白峰山と象頭山はつながっていたことを押さえておきます。
「崇徳上皇=天狗=金毘羅神」という考えは、幕末にはかなり広がっていたようです。
ところが明治以後は、このような説は姿を消して行きます。その背景には、明治政府の進める天皇制国家建設があります。皇国史観で歴代天皇は神聖化されていきます。その中で天皇が天狗になったなどというのは不敬罪ものです。こうして「崇徳上皇=天狗」は、近代以後は語られなくなります。

話をもどして、晩年の後白河上皇には不幸が重なります。

崇徳上皇の怨霊を怖れる後鳥羽上皇

これに対して、この禍が崇徳院の怨霊によるものと考えたブレーンたちは、次のような対策(怨霊封じ)を講じます。

崇徳上皇の怨霊慰安

 「讃岐国にある上皇の墓所を山陵と称させ、まわりに堀をめぐらしてけがれないようにし、御陵を守るための陵戸を設ける」とあります。ここからは、それまでは山陵には堀もなく、管理のための陵戸もなく、「一堂」もなかったことが分かります。崇徳上皇没後に造られた墓は、上皇の墓としての基準を満たすものではなかったことが裏付けられます。⑤の結果、建てられるのが頓證寺です。

それでは、崇徳上皇慰霊のために建立された頓證寺というのは、どんな施設だったのでしょうか。
当時の建物は残っていませんが、初代高松藩主松平頼重によって、再建された建築物群が今に残っています。それを見ていくことにします。

P1150681

初の頓證寺の門前に戻ってきました。今度は門をくぐって中に入っていきます。
頓證寺1
頓證寺正面(白峯寺)
門をくぐると正面に頓證寺が見えてきます。背後の森が崇徳陵になります。もう少し近づいてみましょう。
頓證寺2
頓證寺
頓證寺と呼ばれていますがお寺らしく見えません。まるで神社の拝殿のように私には見えます。この建物の面白い所は、拝殿と本殿の関係です。まず、現在の姿を裏側の陵墓の方から見ておきましょう。

頓證寺の背後
頓證寺と本殿
陵墓方面から①が拝殿です。②が崇徳院の御影を祀っていた本殿です。ここに崇徳院の御影が祀られていましたが、今はありません。普通は、拝殿と本殿だけですが、ここには拝殿のうしろに仏式のお堂が2つあります。ここには何が祭られていたのでしょうか。③は本地堂(十一面観音堂) とも呼ばれています。ここに、先ほど見た十一面観音がありました。建築形式も仏堂スタイルです。権現堂は、先ほど見た天狗達の大ボスである相模坊が祀られていました。これを幕末の絵図で確認しておきます。

頓證寺 金毘羅参詣名所図会
崇徳上皇陵と頓證寺
 一番右側が拝殿です。そこから3本の渡り廊下が延びています。その先の右が観音堂 真ん中が 本殿 左が権現堂です。これは白峯寺の歴史が集約されてレイアウトされていると研究者は考えています。
①観音堂は、熊野行者達のもたらした観音信仰と山林修行
②本殿には崇徳院の御影
③権現堂は天狗の親玉相模坊
まさに、これは白峯寺の歴史です。それらが混淆した形を示しているように私には思えます。それでは、このレイアウトを考えたのはだれでしょうか、それはこの建物群の寄進者である松平頼重ということになります。

鎌倉時代の白峯寺がどのように、見られていたのかを資料で押さえておきます。
牟礼の洲崎寺には南海流浪記という鎌倉時代の讃岐のことを記した資料があります。これを書いたのは、道範という高野山の高僧です。当時の高野山での党派争いの責任を取らされて讃岐に流されて、8年ほど善通寺で生活しています。その時の様子を記録に残しています。ここには8年ぶりに帰国を許された際に、白峯寺に立ち寄ったことが記されています。そして次のように記します。

南海流浪記の白峯寺

 ここからは、13世紀半ばの鎌倉時代には「崇徳上皇廟所としての白峯寺」という認識が人々の間に拡がっていたことが裏付けられます。  
崇徳上皇信仰が混淆してきた中世の白峯寺の性格をまとめておきます。
中世の白峯寺の姿

①もともとは熊野行者たちによって開かれた補陀落=観音信仰の霊地    ②そこに崇徳院の御霊が置かれ、中央の有力者の信仰を得るようになった。
③お堂や寺領が寄進され経済基盤が整えられた
④多くの子院を擁し、そこに念仏聖や熊野行者達が活動拠点とした。

今回はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
坂出市史
  「羽床正明  崇徳上皇御廟とことひら53 H10年」
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  経筒 白峰寺 (2)
白峯寺の六十六部経筒の蓋           
白峯寺の「西寺」から出土したと云われる経筒について、以前に紹介しましたが別の視点から見ておきたいと思います。それは、この経筒を納めたのが六十六部の良識と記されているからです。
まずは、経筒についてもう少し詳しく見ておきます。
①経筒は、全面に鍍金した銅製で、筒身と筒蓋に分かれます。
②筒身は円筒形でし、高さ9,9㎝、身底径4,8㎝ 身口径4,5㎝。
筒身には、縦書き五行で次のような文字が刻まれています。
白峰寺経筒2
①が「釈迦如来」を示す種字「バク」、
②が「奉納一乗真文六十六施内一部」で主文
③が「十羅刹女 」で、奉納経典の守護神
④が三十番神も経典守護神
⑤が「四国讃岐住侶良識」で、奉納代理人(六十六部)
⑥が「檀那下野国 道清」で、奉納者
⑦「享禄五季」、奉納年
⑧「今月今日」(奉納日時が未定なのでこう記す)
この経筒から研究者は、どんな情報を読み取り、考察していくのでしょうか?
銅経筒の全国的な出土傾向をは、11世紀後半~12世紀後半と16世紀前半~中葉に2つのピークがあります。11世紀後半~12世紀後半に銅経筒の出土例が多いのは、末法思想が影響しているものとされます。末法元年と考えられていた永承7年(1052)以後になると、法華経を中心とした仏教典を金属製の経筒に納め、霊地や聖地とされる山頂や社寺境内に経塚が造られるようになります。

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経塚の埋葬例
この時期の経筒は。高さ20~45㎝程度の大型のもので、和鏡、銭貨、刀身、小仏、などの副納品とともに、陶製などの外容器にいれて埋納されています。これが県内では善通寺の香色山山頂の経塚やまんのう町金剛院背後の経塚群から出土しています。

2公式山3
    善通寺市香色山1号経塚(佐伯直一族のもの?)

12世紀をすぎると、経筒埋納は一時衰退していきます。こらが再び活発化するのは16世紀になってからです。その背景には、廻国聖の納経活動の活発化があります。庶民が現世利益や追善供養も含め諸国を廻国し、その先々で経筒埋納を祈願するというスタイルが流行するようになります。経筒は、永正11年(1514)~天正13年(1585)に多く、円筒形の経筒は、16世紀中頃~後半に多いようです。
以上をまとめておきます。
①11世紀末になると末法思想の流行と供にお経を書写し、経筒に埋めて霊地に奉納するようになった。
②この時は、大型の経筒が使われ、鏡や銭・小刀・などが副葬品として経塚に埋められた。
③16世紀に活発化する廻国聖六十六部は、全国をめぐり経筒を埋納するようになったが、使われた経筒は小型化した。
この程度の予備知識を持って、再び白峯寺の経筒を見てみましょう。
 白峯寺所蔵の経筒は、筒身外面の紀年銘から享禄5年(1532)であることが分かります。これは先ほど見た銅経筒の全国的な出上時期の傾向と一致します。また、大きさについては、この時期の経筒は10~12㎝と小型のものが中心ですが、白峯寺経筒も総高10、5㎝で、この範囲です。今度は銘文をひとうひとつ見ておきましょう。
  まず、中央の「奉納一乗真文六十六施内一部」です。
これは諸国六十六ケ国に納める内「施内」のひとつである経典(法華経)「一乗真文」を「奉納」したと研究者は考えています。この時期の経筒の主銘文には、「大乗経王」「大乗法花」「大乗真文」「法華妙典」「法華真文」「妙法典」「一条妙典」「如法経」と、経典の表現がさまざまです。「一条真文」の例はないようですが、埋納された経典の種類は、法華経と研究者は考えています。
 この文の上位には「釈迦如来」を示す種字である「バク」が描かれています。
真言文字バク 釈迦如来
バク 釈迦如来
ここからは奉納者(檀那下野国道清)が釈迦如来を信仰していたことが分かります。この時期の主銘文の種字には「阿弥陀三尊(キリーク、サ、サク)」「釈迦三尊(バク、アン、マン)「釈迦如来(バク)」「観青菩薩(サウ」などありますが、その中でも多いのは「釈迦如来(バク)」のようです。これも全国的な傾向と一致します。

守護神(十羅刹女)
十羅刹女
「十羅刹女」は、仏教の天部における10人の女性の鬼神で、鬼子母神とともに法華経の守護神です。

三十番神
三十番神

「三十番神」は神仏習合の信仰で、毎日交代で国家や国民等を守護する30柱の神々のことです。最澄が比叡山に祀ったのが最初で、鎌倉時代に盛んに信仰され、中世以降は特に日蓮宗・法華宗で重視され、法華経守護の神とされることは以前にお話ししました。このように「十羅刹女」や「三十番神」も法華経の守護神で、この時期の小型経筒の主銘文に、よく登場するようです。

「四国讃岐住侶良識」からは、四国讃岐の僧侶・良識によって経筒が奉納されたことが分かります。
「高野山文書第五巻金剛三昧院文書」には、「良識」ことが次のように記されています。
高野山金剛三味院の住持で、讃岐国に生まれ、弘治2年(1556)に74歳で没した人物。

高野山 金剛三昧院
高野山金剛三昧院
金剛三昧院は、尼将軍北条政子が、夫・源頼朝と息子・実朝の菩提を弔うために建立した将軍家の菩提寺のひとつです。そのため政子によって大日堂・観音堂・東西二基の多宝塔・護摩堂二宇・経蔵・僧堂などの堂宇が整備されていきます。建立経緯から鎌倉幕府と高野山を結ぶ寺院として機能し、高野山の中心的寺院の役割を担ったお寺です。空海の縁から讃岐出身の僧侶をトップに迎ることが多かったようで、良識の前後の住持も、次のように讃岐出身者で占められています。
第30長老良恩(讃州中(那珂)郡垂水郷所生 現丸亀市垂水)
第31長老良識(讃州之人)
第32長老良昌(讃州財田所生 現三豊市財田町)
良識は良恩と同じように、讃岐の長命寺・金蔵(倉)寺を兼帯し、天文14年(1545)に権大僧都になっています。また、「良識」は、讃岐の国分寺本堂の板壁に落書きを残しています。その落書きを書いていた板壁が屋根の野地板に転用されてて残っていました。そこには次のように記されています。
  当国並びに井之原庄天福寺客僧教□良識
  四国中辺路同行二人納中候□□らん
 永正十年七月十三日」
「当国井之原庄」は、讃岐国の井原庄(いのはらのしょう)で、旧香川郡南部(現高松市香南町・香川町)から塩江町一帯のことです。その庄域については、冠尾八幡宮(現冠櫻神社)由緒(近世成立)には、川東・岡・由佐・横井・吉光・池内・西庄からなる由佐郷と、川内原・東谷・西谷からなる安原三カ山を含むとあります。
「天福寺」は、高松市香南町岡にある美応山宝勝院天福寺と考えられます。
岡舘跡・由佐城
高松市香南町岡天福寺

この寺は、神仏分離以前には香南町由佐にある冠櫻神社の別当寺でした。天福寺は本尊薬師如来、真言宗御室派です。天福寺由来記には次のような事が記されています。
①創建時は清性寺といい、行基が草堂を構え、自分で彫った薬師像を祀ったことに始まること、
②のち弘法大師が仏塔・僧房を整えて真言密教の精舎としたこと、
③円珍がさらに止観道場を建てて真言・天台両密教の兼学としたこと
ここでも真言・天台のふたつの流れを含み込む密教教学の場であると同時に、修験者たちの寺であったことがうかがえます。それを裏付けるように、天福寺の境内には、享保8年(1723)と明和7年(1770)の六十六部の廻国供養塔があります。ここからは江戸時代になっても、この寺は廻国行者との関係があったことが分かります。
「客僧」とは、修行や勧進のため旅をしている僧、あるいは他寺や在俗の家に客として滞在している僧のことです。
31歳の「良識」は修行のため廻国し、天福寺に滞在した僧侶と研究者は考えています。つまり、四国霊場第80番札所国分寺の「落書」からは、高松市香南町岡にある天福寺の客僧だった良識が四国遍路を行い、永正10年(1513)7月14日、札所である国分寺に札等を納めた時に「落書」を書いたことが分かります。
経筒の銘文にもどって「旦那下野国道清」を見てみます。
ここからは、この法華経を納めた小型経筒の施主は下野国の道清であることが分かります。良識は、下野国(栃木県)の道清から依頼を受けて、法華経を経筒に納め、諸国の社寺に奉納していたことになります。社寺への奉納には、直接社寺へ法華経を奉納する場合と、自ら塚などを築き法華経を納めた経筒を奉納する場合があったようですあります。白峯寺の経筒の場合は後者で、宝医印塔も同時に造立したと研究者は考えています。ただ、経筒を奉納しただけでなく、埋納施設や印塔も建立しているというのです。これを全国でやっていたとしたら多額の資金と労力が必要になります。下野国の檀那道清は、それだけの資力を持っていた人物だったようです。このように当寺の六十六部は、かつての熊野行者のように有力者の依頼を受けて、全国を代参していたものもいたようです。
 経筒には「享禄五季」「今月今日」と紀年銘があるので、享禄5年(1532)年に奉納されたことが分かります。
廻国聖の場合は、諸国を廻国するので社寺に奉納する時期がいつになるか分かりません。そのために「今月今日」としていたようです。ここからは、良識は、白峯寺にやてきて長期滞在して経典を書写したのではなく、出発前に書写されたものを持参していたことがうかがえます。確かに経筒は10㎝程度の小さいものなので、それも可能かも知れません。

以上のから「良識」が、金剛三味院文書と同一人物だとすれが、次のような経歴が浮かんできます。
永正10年(1513)31歳で四国辺路を行い、国分寺で落書き
享禄 3年(1530)に没した良恩に次いで、金剛三味院第31世長老となり
享禄 5年(1532)50歳で六十六部聖として白峯寺に経筒を奉納し
弘治 2年(1556)74歳で没した
享禄3年(1530)に没した良恩の死後に直ちに長老となったのであれば、長老となった2年後の享禄5年(1532)に日本国内の六十六部に奉納経するために廻国に出たことになります。しかし、金剛三味院の50歳の長老が全国廻国に出るのでしょうか、またが「四国讃岐住侶良識」と名乗っていることも違和感があります。どうして「金剛三味院第31世長老」と名乗らないのでしょうか。これらの疑問点については、今後の検討課題のようです。
経筒外面に刻まれた文字から、この経筒は廻國行者である「良識」によって奉納されたことを見てきました。
私が気になるのは、この経筒を納めた良識につながる法脈です。
先ほど見たように金剛三昧院の住持は、戦国時代には「第30長老良恩 →第31長老良識 →第32長老良昌と続きます。
良識の跡を継いだ良昌を見ておきましょう。
高野山大学図書館蔵の『折負輯』には、次のようにあります。
「第三十二世良昌善房、讃州財田所生、法勲寺嶋田寺兼之、天正八年庚辰四月朔日寂」

ここからは、良昌は、讃岐三野郡の財田の生まれで、法勲寺と島田寺を兼帯していたことが分かります。そして、天正8(1580)年に亡くなっています。
 ちなみに、法勲寺といえば、「綾氏系図」に出てくる古代寺院で、綾氏の氏寺とされます。法勲寺を継承する島田寺も『讃留王神霊記』(島田寺蔵)には綾氏の氏寺と記されています。そして、「大魚退治伝説」は、島田寺僧侶による「創作神話」と考えられています。このふたつの寺は、神櫛王の「大魚退治伝説」の「発信地」なのです。背後には、綾氏一族の勢力があります。
  財田で生まれた良昌が、綾氏の氏寺とされる丸亀市飯山町の法勲寺や島田寺の住持になる。そして、さらに高野山三間維持の住持へと転進する。そこには、どんな「選考基準」や「ネットワーク」があったのかと不思議になります。考えられる事は、次のようなステップです。
①有力者(武将)の一族の子弟が、近くの学問寺に入り出家する。(例 萩原寺・大興寺・金倉寺・金倉寺)
②能力と資力のある若い僧侶は、師匠から推薦されて、讃岐出身者が住持を務める高野山金剛三昧院に留学する。
③そこで教学を学ぶと供に、真言系修験道も身につける。(例 良識の四国辺路や廻国六十六部)
④教学と修法の両道を納め地元讃岐の島田寺などの住持に収まる。
⑤金剛三昧院の「次期長老候補リスト」があり、師弟関係にある弟子として後継者指名を待つ。
こうして、「第30長老良恩 →第31長老良識 →第32長老良昌」という讃岐出身者による住持継承が行われたと私は考えています。
そうだとすると、高野山金剛三昧院の住持になるための必要要件としては、次のような要件が求められることになります。
①有力武将の一族であること 一族の支援が受けられること ある程度の経済力があること 
②地元の学問寺で初期的な手ほどきを受けて、師匠から師匠の推薦を受けて高野山留学を行う事
③高野山留学中に、修業先の住持と師弟関係を結び法脈の中に名前が入ること
④経典研究など山内での修養だけでなく、真言修験者としての山林修行も積むこと
⑤以上を満たして、現住持との信頼を得て、「次期長老候補リスト」に入ること
 こんなところでしょうか。これを史料で裏付けておきます。

下の史料は「良恩授慶祐印信」と呼ばれる真言密教の相伝系譜です。
萩原寺文書 真言法脈
「良恩授慶祐印信」(萩原寺文書)
これは、萩原寺(観音寺市大野原町)の聖教の中にあったもので、「町誌ことひら 史料編282P」に掲載されています。ここで登場する「良恩」とは、「第30長老良恩(讃州中(那珂)郡垂水郷所生 現丸亀市垂水」のことです。良識や良昌の前の金剛三昧院の住持になります。彼の法脈がどのように伝えられてきたかを示すものです。

これを見ると、そのスタートは大日如来や金剛菩薩から始まります。そして①長安の惠果 ②弘法大師 ③真雅(弘法大師弟)と法脈が記されています。この法脈の実際の創始者は④の三品親王になるようです。それを引き継いでいくのが「⑥勝義 ⑦忠義」です。彼らについては、後述しますが讃岐岸上(まんのう町岸上)出身の師弟コンビです。さらに、この法脈は島田寺の⑧良識 ⑨良昌に受け継がれていきます。

「⑥勝義 ⑦忠義」は、高野山の明王院の「歴代先師録」に登場します。
⑥勝義は次のように記されています。
「泉聖房と呼ばれ 高野山明王院と讃岐国岸上の光明寺を兼務し、享徳三年二月二十日入寂」

と記されます。忠義も「讚岐國岸上之人で泉行房」と呼ばれたようで、勝義の弟子になるようです。彼も光明院と兼務したことが分かります。泉聖房・泉行房からは、彼らが修験者であったことが分かります。
また「析負輯」の「谷上多聞院代々先師過去帳写」の項には、次のように記されています。
「第十六重義泉慶房 讃岐国人也。香西浦産、文明五年二月廿八日書諸院家記、明王院勝義阿閣梨之資也」

 ここからは多門院の重義は、讃岐の香西浦の出身で、勝義の弟子であったことが分かります。
  以上の史料からは、次のような事が分かります。
①南北朝から室町中期にかけて、高野山明王院の住持を「讃岐国岸上人」である勝義や忠義がつとめていたこと。
②彼らは出身地のまんのう町岸上の光明寺を兼住していたこと
③彼らが修験者でもあったこと
これは、先ほど見た金剛三昧院の住持「第30長老良恩 →第31長老良識 →第32長老良昌」と同じパターンです。先ほどの仮説を裏付ける史料となりそうです。また、別の法脈として次のようなものもあります。

①明王院の勝義・忠義→②金剛三昧院良恩→③萩原寺五代慶祐

ここからは、この時期の高野山で修行・勉学した讃岐人は、幾重もの人的ネットワークで結ばれていたことが分かります。例えば、①の兼帯する光明寺と、②の兼帯する島田寺と③の萩原寺は、この法脈につながる僧侶が多数存在し、人脈的なつながりがあったことが推測できます。さらに、このような高野山ネットワークの中に、善通寺の歴代院主や後の金毘羅大権現金光院の宥雅や宥盛もいたことになります。彼らは「高野山」という釜の飯を一緒に食べた「同胞意識」を強く持ち、師弟関係や受け継いだ法脈で結ばれると同時に、時には反発し合うライバル関係でもあったことが考えられます。そこに多数の高野聖たちが入り込んでくるのです。
 それでは、高野山の今号三昧院や明王院など有力寺院の住持を、讃岐から輩出する背景は、何だったのでしょうか?
その答えも、萩原寺の聖教の中にあります。残された経典に記された奥書は、当時の光明寺ことを、さらに詳しく教えてくれます。
                                 
一、志求佛生三味耶戒云々
奥書貞和二、高野宝憧院細谷博士、勢義廿四、永徳元年六月二日、於讃州岸上光明寺椀市書篤畢、
穴賢々々、可秘々々、                   祐賢之
意訳変換しておくと
一、「志求佛生三味耶戒云々」について
この経典の奥書には次のように記されている。貞和二(1346)年に、高野宝憧院の細谷博士・勢義(24歳)がこれを書写した。永徳元年(1381)6月2日、讃岐岸上の光明寺椀市で、祐賢が書き写し終えた。
 ここからは、高野山宝憧院勢義が写した「志求仏生三昧耶戒云々」が、約40年後に讃岐にもたらされて、祐賢が光明寺で書写したことが記されます。また「光明寺椀市」を「光明寺には修行僧が集まって学校のような雰囲気であった」と研究者は解釈します。以前にお話ししたように、三豊の萩原寺・大興寺や 丸亀平野の善通寺・道隆寺や金蔵寺、そしてまんのう町の尾背寺なども「学問寺」でした。修行の一環として、若い層が書写にとりくんでいたようです。それは、一人だけの孤立した作業でなく、何人もが机を並べて書写する姿が「光明寺椀市」という言葉から見えてきます。
 同時に彼らは学僧という面だけではありませんでした。行者としても山林修行に励むのがあるべき姿とされたのです。後の「文武両道」でいうなれば「右手に筆、左手に錫杖」という感じでしょうか。
 彼らが地元の修行ゲレンデとしたのが、次のような中辺路ルートだと私は考えています。
①三豊の七宝山から善通寺我拝師山まで(観音寺から曼荼羅寺まで)
②弥谷寺と白方海岸寺の行道
③善通寺から大麻山・象頭山の行場を経てまんのう町の尾野瀬寺まで
このような行場ルートに、他国からも多くの山林修行者がやてきて写経と行道を長期に渡って繰り返します。これがプロの宗教者による「中辺路ルート」の形成につながります。それが近世になると、行場での修行を伴わないアマチュアによる札所めぐりに変化していきます。そうなると行場のそばにあったお堂や庵は、里に下りてきて本寺へと変身していきます。これが四国遍路へと成長していくというのが、現在の研究者の見解のようです。

 良識は若い頃には、四国辺路を行い、長老となっていても廻国六十六部として諸国をめぐっていたとするなら、プロの修験者でもあったことになります。そして、良識と師弟関係を結ぶ者、法脈を同じくする者は、同じく山林修行者であった可能性が強いと私は考えています。彼らは「不動明王・愛染明王」など怒れる明王たちを守護神とする修験者でもあり、各地の行場を求めて「辺路」修行を行っていたのです。その代表例が、東さぬき市の与田寺を拠点とした増吽だったのでしょう。まんのう町の光明寺も、丸亀市飯山の島田寺も与田寺のような書写センターや学問寺として機能していたとしましょう。こうした学問寺が数多くあったことが、優秀な真言僧侶を輩出し続けた背景にあったようです。
 それは「古代に大師を何人も輩出したのが讃岐」の伝統を受け継ぐシステムとして機能していたように思えます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

   白峯寺古図 地名入り
  白峯寺古図(江戸時代初期)

  江戸時代になって、白峰寺の洞林院本坊が自分たちの正当性を主張するために、中世の白峰の伽藍を描かせたとされるのが白峰寺古図です。この古図については、以前に「絵解き」を行いました。その中で気になったのが「西院」のあった場所です。今回は、この西院があった場所を考えていきたいと思います。テキストは「片桐 孝浩 白峯寺所蔵の銅製経筒について  調査報告書NO2 2013年」です
白峯寺古図 十三重石塔から本堂
白峯寺古図(拡大部分図)
白峯寺古図には青海村から①下馬碑→②大門→③中門→④十三重塔への参道が描かれています。②大門が現在の白峰展望台がある所で、ここに大門があるということは、ここからが白峯寺の伽藍エリアになるという宣言でもあります。大門から稚児川の谷間に開けた白峯寺へ下って行きます。③中門をくぐると、「金堂」「阿弥陀堂」「頼朝石塔」と描かれた塔頭(子院?)があります。ここには、今は建物はありません。絵図に「頼朝石塔」と描かれている白い2つ石塔が、国の重要文化財に指定されている東西二つ十三重石塔です。西院は、①~④のエリアにあったと考えられてきました。。

西院のあった場所を考える時に、手がかりとなる史料が白峯寺には残されています。以前に紹介した六十六部の埋めた経筒と一緒に出てきた遺物の荷札です。
経筒 白峰寺 (1)
白峯寺出土の六十六部経筒

その荷札には次のように記されています。
十三重塔下出土  骨片、文銭
西寺宝医印塔下出上 経筒」

ここからは次のことが分かります。
①骨片・銭貨が十三重塔下から出土
②経筒が西寺宝医印塔下から出土

まず、①の骨片・銭貨の出土した「十三重塔下出土」は、どこなのでしょうか?
これは簡単に分かります。十三重塔といえば1954年に重要文化財の指定を受けた二基の十三重塔しかありません。荷札に書かれた「十三重塔下出土」の十三重塔は、「白峯寺十三重塔」でしょう。ただどちらの十三重塔から出土したかまでは分かりません。

P1150655
白峯寺の十三重塔
この東西ふたつの塔については、以前に次のようにお話ししました。
①東塔が弘安元年(1278)、櫃石島産の花崗岩で、櫃石島石工集団の手によるもので、頼朝寄進と伝来
②西塔が元亨4年(1324)で、天霧山凝灰岩製で、弥谷寺石工によるもの
 
中央の有力者が櫃石島の石工集団にに発注したものが東塔です。西東は、それから約40年後に、東塔をまねたものを地元の有力者が弥谷寺石工に発注したものと研究者は考えているようです。ふたつの十三重石塔は、造立年代の分かる讃岐では貴重な石造物です。

DSC03848白峰寺十三重塔
白峰寺十三重塔
並んで建つ東西の十三重層塔は、初重軸部の刻銘から、東塔が弘安元年(1128)に、西塔が元亨4年(1324)に造立されたことが分かります。これも重文指定の理由のひとつのようです。十三重層塔は、昭和38年(1963)に解体修理されて、東搭の初重軸部の円穴から砕骨が出土し、基壇内からは砕骨、カワラケ、銭貨などが出土しています。白峯寺に所蔵されていた資料が、この解体修理時に出てきた遺物なのかは分かります。荷札に書かれた内容から骨片・銭貨についても、どちらからの十三重層塔から出土地したもののようです。
それでは経筒は、どこから出土したのでしょうか。
荷札には「西寺宝薩印塔 出土経筒」とあるので出土地が「西寺宝筐印塔下」であることが分かります。それでは、「西寺宝医印塔下」の「西寺」はどこなのでしょうか。それは「宝医印塔」のある場所を探せば分かると云うことです。経筒の出土した「宝策印塔」については、白峯寺住職への開き取りから次のことが分かったようです。
①五色台線(180号)から白峯寺への進入路入口に接してある第3駐車場の入口付近に石組み基壇があること。
②約20年前、第3駐車場整地時に石組み基壇を解体し、隣接地に仮置きした。その解体時に石組み基壇内から、経筒が出土したこと。
③石組の基壇上には、当初宝医印塔があったが、戦後の混乱期に行方不明になったこと
④「西寺」は、白峯寺への進入路の入口から展望台のあるあたりが「西寺」と呼ばれていること
現在、この付近は、県道や白峯寺の駐車場、坂出市の展望台と駐車場となっており、「西寺」に関する痕跡は何もありません。ただ駐車場の中央に、正面「下乗」、裏面「再建 寛政六甲寅年/二月吉日」と刻んだ花崗岩製の下乗石があります。
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白峯寺 展望台駐車場の下乗石
ここからは、白峯寺境内との境界付近に「西寺」があったことが推測できます。しかし、宝医印塔と西寺の関係については、聞き取り調査では分からなかったようです。
白峯寺 西寺跡の範囲

          西寺があったとされる伝承エリア
次に江戸時代に描かれた絵図から「西寺」「宝筐印塔」について、見ておきましょう。
研究者が参考とする絵図は、次の4つです。
①江戸時代初期に描かれたとみられる「白峯山古図」
②元禄2年(1689)の高野山の学僧寂本によって描かれた『四国遍礼霊場記』内の絵図
③弘化4年(1847)に描かれた『金毘羅参詣名所図会』内の絵図
④嘉永6年(1853)に描かれた『讃岐国名勝図会』内の絵図
もう一度「白峯山古図」を見ておきましょう。
白峯寺 西寺 白峯寺古図


②大門は丘陵の頂部に描かれているので、「大門」は現在の県道から白峯寺への進入路付近だったことがうかがえます。聞き取り調査で「西寺」と呼ばれている場所は、展望台駐車場がある付近でした。そうすると「西寺」のあった所は「白峯山古図」では、「大門」の付近であることになります。しかし「白峯山古図」には、大門周辺には大門以外に建物は何も描かれていません。大門周辺に子院や伽藍は、なかったようです。
元禄12年(1689)の寂本『四国遍礼霊場記』内の絵図を見ておきましょう。
白峯寺 四国遍礼霊場記2

ここでは、白峯寺への参道に①「丸亀道」との表記があり、ちょうど丘陵頂部には、②「下乗」石が描かれているだけです。「大門」も「西寺」の表現もありません。ただ、石塔が2基描かれています。これが十三重塔のようです。
弘化4年(1847)に描かれた「金昆羅参詣名所図会」の絵図を見ておきましょう。
丘陵頂部に「大門」は描かれていますが、「西寺」を示す表現はありません。ただし、「大門」の手前には「堪空塔」と書かれた石造物が描かれいます。描かれている形は宝策印塔の形とはちがいますが、これが「大門」周辺で唯一見られる石造物になります。
最後に嘉永6年(1853)に描かれた「讃岐国名勝図会」内の絵図を見ておきましょう。
白峯寺 西院 金毘羅参詣名所図会
讃岐国名勝図会

それまで「大門」として描かれていたのが①「大門跡」となっています。門としての建物の表現はなくなっていて、「西寺」を示す表現もありません。そして、東西の②十三重塔の後ろには「頼朝塚」・「琵琶塚」と注記されています。
  このように江戸時代に描かれた絵図には、「西寺」や「宝医印塔」は描かれていません。現在「西寺」と呼ばれている場所は、展望台や駐車場付近ですが、江戸時代に描かれた絵図では、それを裏付けることはできなようです。
 そこで研究者は視点を変えて「西寺」と呼ばれているので、白峰寺の西側に描かれている伽藍を白峯寺古図で探します。
白峯寺古図 本堂への参道周辺

白峰寺の西に位置し、十三重塔背後の堂宇が「西寺(西の院?)」
そうすると浮かんでくるのが「阿弥陀堂」「金堂」「十三重塔」です。これが「西寺(西の院」当たるのではないかと研究者は推測します。
  承応2年(1653)の澄禅によって書かれた「四国遍路日記」には、次のように記されています。
「寺ノ向二山在、此ヲ西卜伝。鎌倉ノ右大将頼朝卿終焉ノ後十三年ノ弔二当山二石塔伽藍ヲ立ラレタリ。先年焔上シテ今ハ石塔卜伽藍之□ノミ残リ」

  意訳変換しておくと
「白峯寺の向うに山がある。これを「西卜伝」と云う。鎌倉将軍の源頼朝が亡くなった後の13回忌に石塔と伽藍と造立された寺である。先年伽藍は焔上して、今は石塔と伽藍跡だけが残っている。

ここからは石塔が残り、「白峯山古図」に「阿弥陀堂」「金堂」「十三重塔」などが描かれている子院が「西ト伝」で「西寺(西の院」ではないかと研究者は推測します。
以上をまとめておくと、
①現在の下乗碑が建つ展望台駐車場付近には大門があり、その付近に「西寺」があった伝えられる。
②しかし、江戸時代の絵図には、どれも大門付近には建造物は描かれていない。
③そこで、西院は白峯寺古図に描かれいる十三重塔背後の堂宇群であったと研究者は推測する。
④澄禅の「四国遍路日記」には、石塔と伽藍が頼朝13回忌に建立されたこと、それがその後に炎上して十三重塔のみが残ったこと
  そうだとすれば、白峰寺には洞林院に劣らない勢力を持った寺院(子院)がここにあったことになります。それが「西卜伝(西寺)でしょう。その寺は、源頼朝13回忌に石塔(十三重塔)と伽藍が造立されたとも伝わります。それは石塔に刻まれた年号とは一致しないので、そのまま信じることはできません。
 しかし、京都などの有力者が十三重塔を寄進しているのは、洞林院ではなく西寺なのです。洞林院のライバルであったのかもしれません。洞林院が造ったとされる白峯寺古図には、堂舎は描かれていますが寺名は書かれていません。
どちらにしても、現在の東西の十三重塔の背後には、大きな伽藍を持つ西寺があったこと、そしてその伽藍が炎上した後に残ったのが十三重塔だということになります。十三重塔は白峰寺の前払いとして寄贈されたのではなく、西寺の塔として建立されたものであったようです。
白峯寺 西院白峰寺古図
白峯寺西院(西の院)?
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「片桐 孝浩 白峯寺所蔵の銅製経筒について  白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」です

白峯寺 讃岐国名勝図会(1853)
白峯寺 讃岐国名勝図会(1853年)
 白峯寺境内には多くの堂舎が立ち並び、札所寺院として独特の整った景観をみせています。これを幕末の讃岐国名勝図会と比べて見ると子院の一乗坊などは神仏分離で姿を消しましたが、白峯寺の伽藍には大きな変化はないことが分かります。白峯寺の特徴は、境内には崇徳天皇を祀る頓証寺殿があることです。そのため頓證寺と本来の白峯寺の2つのエリアに分けられ、西側に頓証寺殿、その北東の斜面に白峯寺の堂舎が立ち並びます。頓証寺殿は後小松天皇の扁額にもあるように、中世には頓証寺という寺号をもつ別の寺であったことを押さえておきます。

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白峯寺勅額門

今回は紫陽花の花見遊行の白峯寺で考えたことの最終版です。
本坊前を通って護摩堂で西に折れて参道を歩いて行くと、正面に勅額門が見えてきます。そこまでの参道の周囲に植え込まれた紫陽花が見頃でした。花に夢中になって、崇徳陵への入口を見逃してしまうほどです。そして、勅額門の前にやってきました。

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白峯寺勅額門 奧が頓證寺拝殿(頓證寺殿)
門には「第75代 崇徳上皇 白峯寺 頓證寺殿」と掲げられています。ここで疑問に思ったのがどうして「頓證寺殿」なのかということです。推測になりますが、中世には白峯山には、次のふたつの異なる寺院と、数多くの子院が存在していました。
①山林修行の拠点としての白峰寺
②崇徳上皇陵の慰霊管理のための頓證寺
これが次第に白峰寺に合体化されていきます。そのため頓證寺は白峰寺に属する「殿(建物)」と解釈します。
頓證寺の門である勅額門から見ていきます。

頓証寺殿勅額門 三間一戸八脚門、切妻造り、本瓦葺。
延宝8年(1680)建立(寺伝)

頓証寺の入口を飾る大規模な八脚門です。「勅額門」とよばれるのは、室町時代中期に後小松天皇震筆の額が掲げられていたからのようです。
白峯寺 頓證額
寺号額「頓證寺」
その扁額は重要文化財に指定され今は宝物館に保管されていますので、現在のものは複製になるようです。この門には、保元の乱で上皇として戦った源為義・為朝父子像を随身として安置しています。死後の世界では悔い改めて、崇徳上皇を守るという意思表明でしょうか?どちらにしても天皇を祀る「神社」的な色合いの濃い建物と云えそうです。県下の八脚門では国分寺・志度寺等に次いで古く保存もいい状態です。
 勅額門は八脚門としては「工夫のこらされた、特異な形式の門」だと研究者は指摘します。
工夫が凝らされている所を見てみましょう。まず棟通りの中央二本の柱が、両妻や正・背面の柱より高く作ってあります。そのためこの二本の柱と前後の柱とは、海老虹梁で繋ぎます。さらにその下には飛貫が通り、上には柱頂部と桁を繋ぐ虹梁が架かるので二本の柱と正・面の柱は、強固に繁がれることになります。

白峯寺 勅額門2
白峯寺 勅額門1

東通りの柱は虹梁形の頭貫で繋ぎ、台輪を載せ、これらは妻まで到達します。妻では棟通りの柱の上に三物を組激、妻飾の虹梁が載っていますが、上記虹梁形頭貫・台輪は妻の虹梁と組み合って、妻側へその鼻を突出させることになります。
白峯寺勅額門2
白峯寺勅額門東側
妻飾では棟木と行との中間に身舎桁を一本ずつ通しています。が、これは内部には通されておらず、いわば見せかけの構造となっています。正面両脇間の飛貫と頭貫の間には透かし彫りの欄間を入れ、中備は菊花として、随所に付けられた拳鼻や絵様肘木は多様な絵様繰形で飾られます。特に妻の雲紋・波紋を彫る絵様は見ていても楽しいものです。専門家は、勅額門を次のように評価しています。
構造形式の上でも意匠の面でも傑出した特色を持つ極めて質の高い八脚門
 
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この門からは、正面に拝殿が見えてきます。ここから見る拝殿(頓證寺殿)は、お寺の風情ではありません。まさに神社の拝殿のようです。そんな演出をプランナーでもあり、オーナーでもあった松平頼重は、狙っていたのかも知れません。拝殿の背後に崇徳上皇陵があるのですが、それは隠れて全貌は見えません。

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白峯寺頓證寺殿

  いろいろな種類の紫陽花を楽しみながら拝殿までやってきました。改めて見ると、お寺の建物とは違います。まさに神社の「拝殿」です。このお寺の性格が「神仏混淆」色を色濃く帯びていることが改めて分かります。この拝殿について見ておきましょう。

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白峯寺頓證寺殿

頓證寺拝殿 延宝八年(1680 棟札)
拝殿は桁行七間という規模で、正面と背面に三間の軒唐破風付向拝を付けた壮大な建物です。内部は両端から二間目に円柱二本ずつを立てて、それぞれ梁行に虹梁形飛貫で繋ぎ、その上を板壁として、中央三間と両脇二間ずつの空間に区分しています。しかし、建具を入れて仕切っているわけでもないようです。このような構成は、横長の平面の神社拝殿ではよく見られるようです。今は一間おきに3つに分けられて、祀られているのは
中央 崇徳天皇
向かって右側 本地仏(十一面観音)
向かって左側 相模坊(相模大権現の大天狗)
正面の向拝は頭貫木鼻を龍頭として、中備蟇股に透かし彫りの彫刻を入っています。これに対して背面の向拝では絵様・繰形付の木鼻、蟇股も板蟇股で、正面と背面で「格差」があるようです。向拝の繋ぎは海老虹梁を入れ、唐破風の菖蒲桁受けの組物の背後に手挟を入れています。(下の写真①)
白峯寺 頓證寺拝殿3
白峯寺頓證寺殿

本体の中備は正・側面の中央間が蟇股です。それ以外は人字形割束を用いています。桟唐戸の上部の入子板には輪違いや麻の葉等の幾何学模様を彫り込んでいます。装飾金具も各部に丁寧に打たれています。
見てきたように装飾に手が込んでいますが、決して派手にはならず、和様を基調とした端正な形式と意匠でまとめられています。「十七世紀後期の上質な建物で、背後の三殿と併せて、形式も特異な建物として極めて重要」と研究者は評価します。

さて、この拝殿の向こう側は、どうなっているのでしょうか?
つまり拝殿と崇徳陵の間には何があるのかというのが、私の素樸な疑問でした。

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崇徳陵遙拝所への通路
相模坊天狗の横から拝殿の後側に廻ってみます。西行像にお参りして、拝殿横を抜けて後に回り込みます。奧には崇徳陵の石垣とその上の玉垣は見えます。
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白峯寺遙拝所からみた頓證寺殿の背後
しかし、拝殿背後は本殿があるようなのですが、木々が茂っていてよく分かりませんでした。後日、図書館から借りだした「白峯寺調査報告書NO2」の中に、拝殿と附属建物の関係が描かれた次の平面図を見つけることが出来ました。
白峯寺 頓證寺殿拝殿平面図
頓證寺殿拝殿平面図(拝殿と崇徳上皇殿などの三棟は廊下でつながる)
 
 ここからは、拝殿は、背後に並び建つ崇徳上皇殿・本地堂・鎮守社白峯権現堂の三棟に対する拝所であったことが改めて分かります。そして、今は一間おきに背後の三棟に対応するように、密教の壇が設えられています。かつては、拝殿で崇徳天皇・本地仏・相模坊のそれぞれに対して密教の修法が行われていたことがうかがえます。そういえば、前回に見たように善如龍王への雨乞祈祷も、この拝殿で行われていたと史料にあったのを思い出します。次に拝殿奥の3つの建築物を見ていくことにします。

白峯寺 頓證寺 金毘羅参詣名所図会
頓證寺拝殿と三社の関係図(金毘羅参詣名所図会1853年)

崇徳上皇殿 延宝八年(1680 棟札)一間社、隅本入春日造、鋼板葺    
頓証寺拝殿の中央後方約13mの所に立つ隅本入春目造の建物です。春日造としては規模が大きいようです。組物は出組を用いますので、背面の妻飾の虹梁は柱筋よリー手外へ持ち出されることになります。

白峯寺 頓證寺崇徳上皇殿
崇徳上皇殿の妻飾
頭貫木鼻と組物の拳鼻が上下に重なり、頂部にも拳鼻が上下二段に重なります。しかし、全体的には装飾の少ない端正な建物の印象を受けます。この社殿は、近世には崇徳天皇の御影を安置していたようで、頓証寺との寺号もありました。しかし、崇徳上皇殿は建築形式としては神社本殿の形式です。それなら、なぜ神社にせずに「頓證寺」なのでしょうか? その宗教的位置付けはよく分かりません。なお、延宝8年建立の棟札には「崇徳天皇御社」と記されています。

白峯寺 頓證寺殿十一面観音
本地堂の十一面観音堂(崇徳上皇の本地仏)
本地堂(十一面観音堂) (1680 棟札)
 面三間、側面二間、背面二間、宝形造、向拝一間、本瓦葺   
白峯寺拝殿の東より後方5mほどの所に立つ宝形造の仏堂です。
本地堂は十一面観音堂・十一面堂とも呼ばれており、崇徳天皇の本地仏十一面観音を祀る建物で、建築形式も仏堂の形態をとっています。
正面は柱間三間ですが、側・背面は二間なので、二間堂と呼ぶべきと研究者は指摘します。組物は出三斗と簡素ですが、肘本に笹繰を付けられ、壁から外へ出る肘木には拳鼻を載ります。小規模な仏堂ですが。「丁寧で気の利いた意匠」と研究者は評価します。
白峯寺 頓證寺本地堂
頓證寺殿 本地堂向拝見返し
 内部には柱がなく、背面柱筋に寄せて仏壇を設けています。

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頓證寺殿の相模大権現の額

白峯権現堂(鎮守堂)  一間社流造、鋼板葺    延宝八年(1680 棟札)
白峯寺拝殿の左奧後方3mほどの所に立つ流造の社殿です。組物はすべて連三斗、中備は蟇股、妻飾は虹梁大瓶束を用いた簡素な流造で、「特徴がないのが特徴」の社殿のようです。天鼻・拳鼻は、隣の崇徳上皇殿とよく似ています。また、浮彫の絵様を彫りだした懸魚、垂木先端に金具を打つ丁寧な仕事ぶりは、拝殿背後の三棟に共通していると研究者は指摘します。
白峯寺 頓證寺白峰大権現妻飾
白峯寺頓證寺殿 白峰大権現妻飾

怨霊化した崇徳上皇は大天狗となって祟りを振りまいたとされますが、その子分として活躍したの相模坊です。彼は天狗信仰の持ち主の修験者で、後世には白峰大権現として祀られるようになります。
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拝殿前の白峰大権現像
中世の白峰山は天狗信仰で有名でした。これを真似て象頭山金光院も金比羅を天狗信仰の中心地にしようとします。近世初頭の白峰も金比羅も天狗信仰(大権現)の拠点であったことが、このような形で残っているようです。崇徳上皇を祀った社殿とは違って、建築形式も最も一般的な神社本殿の形式を採っています。
以上からは頓證寺拝殿は、背後の崇徳上皇殿・本地堂・鎮守社白峯権現堂の三棟に対する拝所で、三棟で共用できる桁行の長い拝殿を建てたことが分かります。
現在は、三棟と拝殿は廊で結ばれていますが、そこに使われている材料からは近代になってから付け加えられたものと研究者は指摘します。それを19世紀に描かれた3つの絵図で確認してみましょう。

白峯寺 頓勝因拝殿変遷

一番上の寛政十二年(1800)刊行の「四国遍礼名所図会」にはそれらしいものが描かれています。真ん中の弘化四年(1847)刊行の「金毘羅参詣名所図会」や一番下の嘉永六年刊行の「讃岐国名勝図会」には、それらしいものは描かれていません。現在の廊が近代になって作られたことは、ある程度裏付けられるようです。
 どちらにしても、三棟を一間おきに拝殿に接続するプランで拝殿が建てられていることには違いありません。このように神仏を祀る複数の建物を、ひとまとめにするような拝殿はほとんど例がないようです。例としては、円教寺(兵庫県)鎮守の乙天社と若天社の二棟の護法堂の前には、桁行七間の拝殿がありますが頓証寺のような規格性は見られません。護法堂と拝殿との間も大きく開いています。頓証寺は全体の配置が極めて独特なのです。このような今までにないプランを指示できるのは、松平頼重しかいないように私には思えます。

17世紀末に造られた頓證寺拝殿は、どのように使われてきたのでしょうか?
今は一間おきに、背後の三棟に対応するように、密教の壇が設えられています。が、かつては崇徳天皇・本地仏・相模坊のそれぞれに対して、密教の修法が行われていたことがうかがえます。しかし、それだけではなかったことを教えてくれる史料が残っています。慶応四年(1868)八月に勅使が来た際の堂内の荘厳を示す「頓証寺荘厳図」(白峯寺聖教宝蔵80-72)です。

白峯寺 頓證寺荘厳図2
「頓証寺荘厳図」

これを見ると、大壇は中央にのみ置かれ、両脇間の背面に寄せて三宝に載せた御供と御神酒が供えられています。西端の二間分には勅使の座が設えられています。おそらく崇徳上皇御忌日に勅使が参拝したものでしょう。この時には、三壇は置かれていません。
 再建以前の頓証寺本地堂は「六間四面」の建物であったのを四宇に分けたものと延宝七年(1679)本地堂再建棟札に記されています。また承応二年(1653)刊行の「四国遍路目記」にも、その内部について次のように記されています。
其傍二九間四面ノ堂ヲ立テ、中ニハ天皇ノ御影、是ハ御法体ノ時、仁和寺ニテ御震筆二遊シ絵像ナリ、前ニハノ御母義御持尊ノ阿弥陀ノ三尊在り、大壇ノ中央ニハ使者ノ鳶ヲ木像二造テ在、右ハ相模坊自作ノ像在、是ハ頭襟結袈裟スル袴ニテ、有ニハ剣ヲ持、左二念誦フトリ玉フ中々恐キ体也、其前二天皇御守本尊在、中ハ釈迦、左右二大師卜太子ノ像在り、前二相模坊、左右二不動毘沙門也、

意訳変換しておくと
その(白峯陵)傍らに九間四面の堂を建立し、中には崇徳天皇の御影が安置された。これは、御法体の時に仁和寺で御震筆二遊シ絵像である。そこには御母御持尊の阿弥陀三尊があり、大壇中央には使者の鳶木像で造ったものある。右には、相模坊自作の自像がある。その姿は頭襟結袈裟の袴姿で、右手には剣を持ち、左には念誦る姿で、恐しき姿である。その前に天皇御守本尊(十一面観音?)があり、真ん中に釈迦、左右に大師と太子の像がある。前に相模坊、左右二不動毘沙門が置かれている。


ここからは、中世には「崇徳上皇御影 + 阿弥陀三尊 + 鳶の木像 + 相模坊自作の自像 + 十一面観音 + 釈迦・太師・大師 + 不動明王・毘沙門天」などの多くの神仏が置かれていたことが分かります。これが中世の「白峰寺 + 頓證寺」をとりまく宗教的な環境とも云えます。まさに神仏混淆です。ここから拝殿の前身は、崇徳上皇の御影堂というべき建物だったと研究者は考えています。

江戸時代初期になって、中世の白峰寺の姿を描いたとされる「白峯山古図」には、この拝殿はどのように描かれているのでしょうか。
白峯寺古図 本堂への参道周辺

ここには、頓證寺には拝殿や三棟はありません。ただ一棟の「御本社」と勅額門が描かれているだけです。白峯寺古図については、以前にお話したように、絵図の中に描かれている2つの三重塔が発掘調査で確認されていて、その「情報信頼度」が高い絵図です。
ここからは中世には、頓證寺は「御本社」1棟のみで、崇徳上皇の御影堂的な性格であったことが裏付けられます。とすれば、1680年の再建で、頓証寺は大きく「変容」したことになります。つまり、この時に、御影・本地仏・相模坊などが、一堂にあったものを、それぞれを祀る建物と拝殿に分離したのです。この背景には何があったのでしょうか? そこには、近世の国学思想に基づく神仏分離の思想が背景にあったと研究者は考えています。
松平頼重の心の内を覗いて見ると、次のようなものだったと私は考えています。
白峯寺を崇徳上皇慰霊の聖地として復興させよう。そのためにまずは、慰霊施設となる頓證寺を再建させる。その際に、いまの「御本社」の状態は何とかしなければならない。御影とその他のものが一堂に秩序なく、並べられているのは恐れ多いことである。崇徳上皇の御影以外をすべて排除するのは、抵抗が大きく、白峯寺の僧侶たちの同意も得られないだろう。とすれば、崇徳上皇の化身である十一面観音と、相模坊信仰の白峰大権現は別の建物を建てて、そこに祀ろう。そして拝殿は共通にする。限りなく神式であるが運営は、僧侶たちが行う。そんな構想で頓證寺の整備計画を進めさせよう。

「応永十三年(1406)の奥書を持つ「白峯寺縁起」には、次のように記されています。
建長五年(1253)に崇徳上皇の菩提を弔うために二十一日の供僧を定め、二十一口の供僧を定め、「十二時不断の法花の法」を修すこととし、翌六年からは法華会と称した

十六世紀後期に書写された「建長年中当山勤行役定」も「毎年八月法花会法事」と記します。
ここからは、次のようなことが分かります。
①中世には崇徳上皇の菩提は、仏事によって弔われていたこと。
②「法花会法事」を担った供僧二十一人は、中世末期の十六世紀の「八講人数帳」「恒例如法経結番帳」に記された院家数と一致すること。
天皇の菩提を弔う供僧が、そのまま寺院を構成する院家となって近世まで受け継がれる例は、京都鳥羽の安楽寿院にもあるようです。天皇の墓を核とした白峯寺でも、このような寺院組織の形成と継承が行われていたと研究者は推測します。そうだとすると崇徳上皇の墓が設けられる以前からあった白峰寺は、13世紀中期以降は頓証寺の供僧二十一口を構成メンバーとする新たな寺院に転換したとして、研究者は次のように指摘します。
頓証寺の供僧集団が前身寺院(白峯寺)を継承し、近世にいたって、頓証寺の伽藍を再編し、白峯寺も再興した

と見ることもできると研究者は指摘します。そのような変容を経た姿が現在の頓証寺と白峯寺と云うのです。
以上をまとめておきます。
①白峯寺は経済的に藩の庇護を受けていただけではなく、藩お抱えの宮大工集団が派遣されて、堂宇の造営・修理に当たっていたことが棟札からは分かること。
②白峯寺と頓証寺の境内は、17世紀後期に松平頼重によって再興され、さらに19世紀前期までにいくつかの建物が改築され、現在に至ること。
③これらの建築物は、高い技術をもった大工集団の手によるもので、その質は高い。
④とくに頓証寺の堂舎は質的な高さに加えて、従来の中世以来の崇徳上皇を祀る施設を、機能毎に分離して近世的な施設に変容させた独特の建築構成を持っていること。
研究者は④を、建築史的に高く評価します。崇徳上皇殿などの三棟を後方に控える間口七間の拝殿は、松平頼重の宗教政策の中からうまれてきたプランの可能性が高いと私は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  山岸 常人 白峯寺の建造物  調査報告書NO2(2013年) 香川県教育委員会

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白峯寺の重要文化財指定記念行事
久しぶりに白峯寺を訪れて、驚いたのは国の重要文化財に指定されている建物が増えていることです。以前は、十三重石塔だけだったと思うのですが一度にまとめて9つの建物が指定されています。十年ほど前に調査報告書が出されて、その価値が改められて認識された結果のようでです。県民としては誇らしいことです。ということで、今回は重文指定になった白峯寺の堂舎を追いかけてみようと思います。テキストは、「山岸 常人 白峯寺の建造物  調査報告書NO2(2013年) 香川県教育委員会」です。
  まずは、2017年7月に重文指定を受けた建物9棟を確認しておきます。
①本堂(附:厨子)
②大師堂(附:厨子、棟札1枚)
③阿弥陀堂
④行者堂(附:棟札1枚)
⑤薬師堂
⑥頓證寺殿(崇徳上皇殿、本地堂、白峯権現堂、拝殿)(附:棟札7枚)1680年(延宝8年)建立
⑦勅額門
⑧客殿(附:棟札1枚)
⑨御成門(附:棟札3枚)(附指定)勅使門、七棟門
   これらの建物を建築世紀で分類すると次のようになるようです。近世に建てられたものが15棟あります。その建立年代を下表で確認しておきましょう。
白峯寺 建造物建立年代

17世紀 8棟
18世紀 3棟
19世紀 4棟
 これらの建物は、すべて近世か近代に建てられたもので、中世に遡るものはないようです。この中で頓証寺の5棟は同時期に、高松藩主松平頼重によって建てられています。また、阿弥陀堂は境内の最古の建造物であり、装飾が少なく他の堂舎は一線を画する建物とされます。以上から現在の白峯寺の伽藍配置は、17世紀後期には、現状の体裁を整えていたと研究者は考えています。

ここで疑問に思うのは、本堂(千手院)は生駒藩の支援や院主別名の勧進で慶長9年(1604)に、再建されたばかりだったはずです。また、頓証寺も寛永20年(1643)に再興されていたことが棟札から分かります。ところが、本堂も頓証寺も、あまり時を置かずに再度建て直されています。これは何故なのでしょうか? 私に思いつくことは、次の2つくらいです。
①寛永年間までの再興事業が充分なものではなく、松平頼重は整備計画の一からのやり直しを始めた
②何らかの災害を被ったために、新たな構想に基づく新規の整備事業を始めた
松平頼重の白峯寺整備計画を年表化すると次のようになります。
寛永20年(1643)崇徳上皇慰霊のための頓證寺再興 →延宝8年の再築 
万治 4年(1661)阿弥陀堂建立寄進。その維持料として青海村北代新田免10石寄進。
延宝 7年(1679) 御本地堂を再建立、
延宝 8年(1680)崇徳天皇社・相模坊御社・拝殿の再建立、勅額門建立
元禄 2年(1689) 崇徳院陵の前に、一対の石燈籠を献納
本堂も建立年代を伝える史料はありませんが、頓証寺の堂舎とほぼ同時期の作と研究者は考えているようです。この年表を見ると、「新整備計画」の最初に建立されたのが阿弥陀堂(1661年)になります。あるいは、「新整備計画」の計画前に建立された「中世的な最後の堂宇」の可能性もあります。

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白峯寺阿弥陀堂

まずは、白峯寺で一番古い阿弥陀堂から見ていくことにします。
阿弥陀堂 正面三間、側面二間、宝形造、本瓦葺   万治四年(1661 記録)

白峯寺阿弥陀堂平面図
白峯寺阿弥陀堂平面図

白峯寺本堂の北にあるのが阿弥陀堂で、土壇基石の上に正面3間、側面2間の宝形造りの小さな建物です。中央に阿弥陀三尊、その後ろの壁面に十段の階段が作られ、高さ16cmの木造阿弥陀如来小立像が千体並べられているので、「千体阿弥陀堂」とも呼ばれていたようです。

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白峯寺阿弥陀堂 (柱は円い) 

柱は細めの丸柱で、柱は床下まで丸く造られていること、彫刻の少ない簡素な形式であることから、「中世的な建築技法を踏襲している建物」と研究者は指摘します。つまり、阿弥陀堂建立までの白峯寺の建築物は「中世的」様相が強かったようです。それが阿弥陀堂以後に姿を現す建物は、近世的な様式にモデルチェンジしていきます。そこには施主である松平頼重の意向が強く出ているのかもしれません。この建物以後は、白峯寺の建物は「近世的」なものに様変わりしていくことを押さえておきます。
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白峯寺阿弥陀堂説明版
 ちなみに真言宗と阿弥陀信仰は、現在ではミスマッチのように思えますが、中世においては高野山自体が念仏聖たちによって阿弥陀信仰のメッカになっていました。中世の白峯寺も阿弥陀念仏信仰の拠点として、多くの高野聖たちが活動していたことは、先に見てきたとおりです。その「真言系阿弥陀念仏」の信仰施設だったと考えられます。

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白峯寺の頓證寺拝殿
阿弥陀堂建立後の10年後に、松平頼重が取り組むのが崇徳上皇慰霊のための施設である頓證寺の堂舎群です。
勅額門・拝殿・本地堂・崇徳天皇社・相模坊御社の再建に一気に取りかかります。これについては、次回にお話しします。頓證寺の堂舎群と同時並行的に姿を見せたのが、本堂だと研究者は考えているようです。

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白峯寺本堂

白峯寺本堂を見ておきましょう。
「本堂  桁行三間、梁間三間、入母屋造、向拝一間、本瓦葺     十七世紀後期」

白峯寺 本堂1
白峯寺本堂

白峯寺の中心となる堂字です。規模の大きな三間堂で、柱は太く安定した重厚感のある建物です。組物は出組で拳鼻を付け、中備は蚕股に双斗を置く和様を基調としています。が、向拝の繋ぎには海老虹梁を用います。また、垂木を扇垂木とする点に禅宗様の要素が色濃く表れていると研究者は指摘します。内部は一室で、後方に来迎柱・須弥壇を構え、厨子を置きます。天丼は二重折上天丼で上質に作られています。

白峯寺本堂内厨子
白峯寺本堂内の厨子
 本堂内の厨子は方一間、入母屋造、妻入、正面軒唐破風付、本瓦形木瓦葺で、禅宗様四手先、詰組の組物です各組物には尾垂木が三本使われ、繰形の付いた華やかなもので、扉の入子板には地紋彫りがほどこされています。「極めて質の高い厨子」と研究者は評価します。

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白峯寺本坊御成門
本坊御成門   享保九年(1724 棟札)
桁行一間、梁間二間、切妻造、正・背面軒唐破風付、鋼板葺 
規模の面ではやや小規模ですが特徴的な四脚門です。例えば、控柱の足下の反りを見てください。極端といえるほど反り返っています。ここまでの反りは、あまり例を見ないものだと研究者は指摘します。
 親柱を控柱より高く作り、海老虹梁で繋ぐスタイルは、頓証寺勅額門とも共通します。同系統の大工集団が担当していたことがうかがえます。
 すべての肘本を繰形付とし棟通りに大きな蟇股を置き、三ヶ所の蟇股にすべて仙人の彫刻が彫ってあります。虹梁絵様はよく発達し、十八世紀前期から中期の建築の質の高さをよく示していると研究者は指摘します。独特のスタイルと質の高い技術の御成門は、「小粒ながら境内でもひときわ優れた名作」と研究者は評価します。
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白峯寺行者堂
行者堂 安永八年(1779 棟札)
 正面三間、側面三間、宝形造、向拝一間、本瓦葺  
本堂・阿弥陀堂よリー段下がった斜面に立つ小堂で、役行者と閻魔などの十王を祀ります。

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研究者の講評を見てみましょう。
角柱を用い長押も用いない簡素な形式で、内部も背面に作り付けの仏壇を構え、側面には後補の棚風の仏壇を付けた簡略な構え。
中備蟇股の内部は白峯寺拝殿のそれと同意匠の人字形割束風。
厨子は方一間の入母屋造、妻人、軒唐破風付で尾垂木付の二手先を詰組として、彩色を施す上質なもので17世紀後期の作。
白峯寺 行者堂内の厨子
           白峯寺行者堂内の厨子
つまり、中に収められた厨子と建物が同時代のものではないようです。厨子は「現在の行者堂の前身堂か別の建物の厨子」と研究者は考えています
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白峯寺七棟門 

七棟門  十八世紀後期
一間、高麗門、本瓦葺、両脇袖塀、切妻造、本瓦葺          
白峯寺・頓証寺の惣門の役割を持ちます。太い柱を用い、やはり大い角格子の扉を構えた高麗門で、両脇の塀の二段に低くなります。屋根共々、城を思わせる堅固な構えを見せています。

白峯寺 大師堂2
白峯寺大師堂
大師堂  文化八年(1811 棟札)
正面三間、側面三間、宝形造、向拝一間、本瓦葺、背面軒下張出付、本瓦茸、背面下屋庇付板葺                         

本堂と並んで立つ三間堂で、本堂よリー回り小さく見えます。その狭さを補うためか背面の軒下まで堂内に取こんで、さらに下屋を付けています。頭貫をすべて虹梁形とする点が特徴で、垂木は本堂とちがって平行垂木です。頭貫その他の虹梁絵様や中備蟇股は雲紋が彫られて、いかにも19世紀らしい意匠を備えています。寛政四年の勧進の版木が残されているので、早くから建設が企画されていた事が分かります。
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白峯寺薬師堂
薬師堂(金堂)十九世紀前期
正面三間、側面三間、二重宝形造、本瓦葺           
頓證寺の拝殿の上、行者堂の下に立つ二重屋根の三間堂です。何かしらか細い塔ような印象を私は持ちました。下層は角柱で、組物は出三斗を組んで軒は平行垂木、上層は円柱を用いて尾垂木・拳鼻の付いた出組で扇垂木。ここから「一間裳階付禅宗様仏殿」と研究者は考えています。県下では、この形式は他にないようです。

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白峯寺薬師堂(金堂)
研究者の講評を見ておきましょう。
下層内部の四本の柱は、裳階の三間の中央間より柱間が広いので、裳階柱と内部を繋ぐ海老虹梁は円柱には挿さらない。円柱を繋ぐ虹梁形飛貫に大瓶束を立てて、そこへ海老虹梁を挿す。(第89図)。
上層の組物の尾垂木は拳鼻の変形で、そこ雲紋を彫り、さらにその上に重ねて同様に雲紋を彫った拳鼻を付けられています。そのため組物廻りは相当に賑やかになっている。(第90図)。
 下層内部は、背面に寄せて間ロー間の厨子を造り、厨子と円柱の間も貫・台輪で繁いで屋根もそのまま延ばす。間口三間の入母屋造妻入の厨子は、二段に尾垂木を付けた三手先組物を詰組として、厨子全体を黒と朱で彩色する蒙華なもの。(第91図)
上から89図 90図 91図
白峯寺 薬師堂内部
白峯寺薬師堂の内部

薬師堂については建立年代を示す史料がありませんが、一間裳階付仏殿の形式、柱の配置とそれにともなう架構の妙、壮麗な厨子、上層の豪華な組物など、「多彩な特徴を備えた十九世紀前期の秀作」と研究者は評価しています。

弁天社十九世紀前期  一間社、流見棚造、銅板葺                      
護摩堂の西に立つ一間社流造の小社です。寛政十二年刊行の「四国遍礼名所図会」に、現在地と見られる場所の池の中に小社が描かれています。弘化四年刊の「金昆羅参詣名所図会」にはそれを弁天社と記していますので、江戸時代後期からこの場所にあったことが分かります。今の建物は十九世紀初頭に建て直されたものと研究者は考えています。

本坊勅使門    一間、棟門、切妻造、鋼板葺      19世紀前期
白峯寺の山門である七棟門をくぐって、本坊の西面に開く小さな門です。御成門や頓証寺勅額門と同じように、親柱棟まで到達させる形式で、「細部の意匠も独特な華麗がある上質の建物」と研究者は評価します。
 本坊の客殿は延宝年間に建立されたと伝えられ、隣接する玄関もそれに次いで18世紀前期までに建てられたと研究者は推測します。
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白峯寺山王九社
また大師堂の東の階段を上った一段高い所に立つ山王九社は「九間社流見世棚造」で、鉄板葺の簡素な建物ですが、白峯寺の天台教団との関わりを示す重要な建物と、研究者は指摘します。ただし今の建物は近代に入って建て直されています。

髙松藩の支援を受けながら白峯寺の堂宇が整備されてきたことを見てきました。その成果を、19世紀に書かれた絵図で見ておきましょう。
白峯寺 金毘羅参詣名所図会(1847)3
白峯寺 (金毘羅参詣名所図会(1847年)
ここには白峯寺の洞林院本坊を中心に、白峯寺の東半分が描かれています。茶堂があるのが現在の駐車場。そして稚児川にかかる橋を渡ると、総門の七棟門。その参道の右に大きな敷地を占のが洞林院本坊です。そして参道に面して、御成門と勅使門が並びます。

白峯寺 讃岐国名勝図会(1853)
白峯寺 讃岐国名勝図会(1853年)
讃岐国名勝図会を見ると現在の堂宇配置と基本的には変わらないものになっています。
香川県内の四国八十八ヶ所札所寺院の中には、五間堂の本堂を持つ寺院と三間堂以下の規模の寺院があります。これは中世以来の各寺院の歴史を反映したものなのでしょう。白峯寺境内には五間堂以上の大規模な仏堂はなく、三間堂およびそれに類するものばかりです。境内の三間堂は阿弥陀堂・頓証寺本地堂、本堂・行者堂・薬師堂・大師堂の六棟です。阿弥陀堂は藩主松平氏の本格的な造営支援が始まる以前の古風な仏堂で、境内では異質な存在であることは先の見たとおりです。
 本堂は六棟の中で最大規模で、軒を扇垂木とする点は特異ですが、それ以外は正統的な仏堂です。薬師堂は変わった柱配置と意匠を持った一間裳階付の禅宗様仏殿風の個性豊かな建物です。門は、頓証寺勅額門・御成門。勅使門・七棟門の四棟があって、それぞれ形式を異にしています。それだけでなく、七棟門以外は親柱を棟まで伸ばす点が共通します。勅額門・御成門は、やはり形式・意匠の独自性にあふれた優品で、髙松藩のお抱え宮大工の技量の高さをしめすものです。それが、今回の9件の建築物が一括して重要文化財に指定されることになった背景のようです。
崇徳上皇陵と頓證寺 讃岐国名勝図会拡大
讃岐国名勝図会部分拡大

以上をまとめておきます。
①頓証寺の崇徳上皇殿・本地堂・鎮守社白峯権現堂・拝殿の四棟の建物、勅額門は同時期に―連の工事で建てられた極めて上質の堂舎群であること
②頓證寺の建築物と同時並行的に、本堂も工事が進んでいたこと。
③これらの工事は松平頼重によって進められていたこと
④17世紀後半になると、崇徳上皇600回忌に向けて、境内の整備計画が5代松平頼重によって進められたこと
⑤本坊客殿・御成門も同時期の一連工事によるものであること。
⑥これらの工事には、藩の宮大工たちが継続して投入され、意匠も共通する要素が多いこと
⑦それは、残された棟札に藩の外護が記されており、伽藍全体が高松藩の経済的支援とその配下にある大工たちによるものであること。

重要文化財に指定された建物群は、17世紀後半に髙松藩初代藩主の松平頼重の「白峯寺伽藍整備新プラン」の下に建てられた建物が中心になっていることが分かります。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  山岸 常人 白峯寺の建造物  調査報告書NO2(2013年) 香川県教育委員会
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讃岐は記録を見ると、近世には約5年に1度は千魃が起きています。特に寛永3年(1626)・明和7年(1770)・寛政2年(1790)・文政6年(1823)が大千魃の年であったようです。この干魃に対して、藩専用の雨乞い祈祷寺院として、丸亀藩は善通寺を、多度津藩は弥谷寺を指定していました。それでは、高松藩の雨乞い寺院は、どこだったのでしょうか。

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白峯寺の善(女)龍王社

 白峯寺に紫陽花を見に行きました。

伽藍の中で一番上にある本堂と大師堂にお参りして、ついでに洞林院跡を見ておこうと思って東に伸びる道を辿ろうとすると堀に囲まれて「善如龍王」の小さな社がありました。
2善女龍王 神泉苑g
神泉で雨乞い祈祷を行う空海とそこに現れた子蛇(善如龍王)

善女龍王については、これまでも紹介しました。空海が平安京で、雨乞い祈祷を行った際に祈った水神とされます。姿は、時と共に次のように「進化」します。
当初は  表記は「善龍王」で、姿は「小さな蛇」
高野山で、表記は「善龍王」で、姿は「唐服姿の男子像にしっぽ」
醍醐寺で 表記は「善龍王」で、姿は「女神化」
この変化の背景には、雨乞い祈祷の主導権をめぐる醍醐寺の戦略があったことは、以前にお話ししました。ここでは醍醐寺によって女神化する以前には、龍王は「善如龍王」と表記され男神像として描かれていたことを思い出します。それでは白峯寺の龍王は、どうなのでしょうか。
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白峯寺の雨乞い水神は「善龍王」と書かれていた

社殿には「善如龍王」と書かれています。帰ってから白峰寺に残されている善如龍王の絵図を見てみると次の通りです。
白峯寺 善女龍王2
白峯寺の善如龍王(後に龍のしっぽが見える)
  唐の官僚衣装を身につけた男子像姿です。ここからは次のようなことが分かります。
①白峯寺では水神「善如龍王」に対して雨乞い祈祷が行われていた。
②水神は醍醐寺の「善女龍王」ではなく高野山スタイルの「善如龍王」であること
③これは白峯寺が高野山と直接的に結びつき、人とモノの交流が頻繁に行われいたために高野山の雨乞い方式が伝えられたことによる
善女龍王
女神化した醍醐寺系の善女龍王

2善女龍王の表記1

それでは白峯寺の雨乞祈祷は、どのように行われていたのでしょうか。
「白峯寺大留」・「白峯寺諸願留」の中に、高松藩が干魃に際して白峯寺に雨乞祈祷を行なわせている記事が多く出てきます。それを今回は見ていくことにします。テキストは「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」
5善通寺
善通寺の善龍王社

白峯寺の最初の雨乞いの記事は、宝暦12年(1762)のものです。
崇徳上皇600年回忌の前年で、それに向けて白峰寺の伽藍整備計画が髙松藩藩主松平頼恭によって進められていた頃になります。
雨が降らず「郷中難儀」しているとので、旧暦5月11日に髙松藩の年寄(家老)会議で白峯寺に雨乞祈祷が命じられ、米5俵が支給されています。この雨乞いの通知は、白峯寺から阿野郡北の代官と大政所へ伝えられています。雨乞い中に少しの雨は降りますが、効果はなく雨乞祈祷は27日まで行われます。28日に「能潤申候」と記されているので本格的な降雨があったようです。白峰寺の霊験の強さが実証されたことになります。ちなみに、白峯寺の善如龍王社もこの時期に、境内に姿を見せるようです。

2善女龍王 高野山
高野山の善如龍王 (小さな尻尾が雲の中から見える)

文化3年(1806)には、5月7日に雨乞いが命じられます。
この時には翌日8日から10日朝まで祈祷が行われます。が、効果がありません。そこで髙松城下へ場所を移して、11日に大般若祈祷を勤めて、12日から雨乞祈祷を再開しています。15日になってようやく降りますが、それも「潤沢」ではなかったようです。そこで、白峰寺の法力だけでは不足とされたのでしょうか、22日からは五智院(阿弥陀院?)・地蔵寺・国分寺・聖通寺・金蔵寺・屋島寺・八栗寺・志度寺・虚空蔵院・白峯寺の十か寺が揃って雨乞祈祷を行っています。この十か寺は、各郡に一か寺ずつ置かれていた「五穀成就之御祈祷」に指定されていたお寺でもあるようです。
郡奉行からは、雨が降るまで雨乞い修法を行うように命じられています。エンドレス祈祷の始まりです。ようやく待望の雨が25日に降りますが「潤沢」ではありません。そこで白峯寺は27日に6月朔日までの降雨祈蒔修法を行う事を寺社役所と郷会所へ伝えています。さらに6月朔日には、引き続き修法を行うことにしています。しかし、その後も降雨はありません。6月19日には、再び十か寺へ26日までの雨乞修法を行うことになります。この時の十か寺の合同修法は、五智院へ他の九か寺が集まって実施されています。この時の干魃がいつまで続いたかはわかりません。雨乞いは、エンドレスであったことを押さえておきます。この時には、5月7日から始まって6月26日まで祈祷しても雨が降らずに、その後も続けられたようです。

2年後の文化5年にも6月22日に雨乞執行が命じられ、翌日の23日晩から行われています。この時は、28日晩から大風雨となったため、雨乞執行は期限通りに9日で終わっています。

文化14年の旱魃の時には郡奉行から、雨乞祈祷を行うように命じられています。
22日から白峰寺で祈祷が始まり、開始5日後の27日に降雨があっりました。そのため十か寺の合同雨乞祈祷は行われませんでした。
このように白峯寺は、高松藩の雨乞祈祷担当寺院でもあり、藩からの依頼に応えて雨乞祈祷が行われていたのです。

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白峯寺の善如龍王社

19世紀になると、地域の村々も白峯寺に雨乞い祈祷を依頼するようになります。
文化2(1805)年に、林田村の大政所(庄屋)からの「国家安全、御武運御兵久、五穀豊穣」の祈祷願いがあり、5月から行っています。(「白峯寺大留」7-6)。
文化4(1807)年2月に、祈祷願いが出されたことが「白峯寺大留」に次のように記されています。(報告書312P)
文化第四卯二月御領分中大政所より風雨順行五穀成就御祈蒔修行願来往覆左之通、大政処より来状左之通
一筆啓上仕候、春冷二御座候得共、益御安泰二可被成御神務与珍重之御儀奉存候、然者去秋以来降雨少ク池々水溜無甲斐殊更先日以来風立申候而、場所二より麦栄種子生立悪敷日痛有之様相見江、其上先歳寅卯両年早損打続申次第を百姓共承伝一統不案気之様子二相聞申候、依之五穀成就雨乞御祈蒔御修行被下候様二御願申上度候段、奉伺候処、申出尤二候間、早々御願申上候と之儀二御座候、
近頃乍御苦労御修行被下候様二宜奉願上候、右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
二月             
和泉覚左衛門
奥光作左衛門
三木孫之丞
宮井伝左衛門
富家長二郎
渡部与兵衛
片山佐兵衛
水原半十郎
植松武兵衛
久本熊之進
喜田伝六
寺嶋弥《兵衛》平
漆原隆左衛門
植田与人郎
古木佐右衛門
山崎正蔵
蓮井太郎二郎
富岡小左衛門
口下辰蔵
竹内惣助
白峯寺様
   意訳変換しておくと                                                                 
一筆啓上仕候、春冷の侯ですが、ますます御安泰で神務や儀奉にお勤めのことと存じます。さて作秋以来、降雨が少なく、ため池の水もあまり貯まっていません。また。強い北風で場所によっては麦が痛み、生育がよくありません。このような状態は、10年ほど前の寅卯両年の旱魃のときと似ていると、百姓たちは話しています。百姓の不安を払拭するためにも、五穀成就・雨乞の祈祷をお願いしたいという意見が出され、協議した結果、それはもっともな話であるということになり、早々にお願いする次第です。修行中で苦労だとは思いますが、お聞きあげくださるようお願いします。
右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
 この庄屋たちの連名での願出を受けて、藩の寺社方の許可を得て、2月16日から23日までの間の修行が行われています。雨が降らないから雨乞いを祈願するのではなく、春先に早めに今年の順調な降雨をお願いしているのです。この祈願中は、阿野郡北の村々をはじめ各郡からも参詣が行われています。
 こうして、弥谷寺は雨乞いや五穀豊穣を祈願する寺として、村の有力者たちが足繁く通うようになります。その関係が、近隣の村々の有力者の支持や支援を受けることにつながって行きます。以前にお話しした弥谷寺でも、多度津藩の雨乞祈祷寺院になることで、大庄屋の支持を得て、彼らの墓碑が建てられ、いろいろな奉納物が寄進されるようになりました。白峯寺でも祈祷を通じて、地域の願いを受け止め、「五穀成就」を願う寺として、人々の信仰を集めるようになっていきます。
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白峯寺の善如龍王社

文化7(1810)年には、青海村単独での五穀豊穣・雨乞い祈祷の依頼がありました。

文化七午年十一月十一日、青海政所嘉左衛門殿致登山申様ハ、当秋己来雨天相続、此節麦作所仕付甚指支難渋仕候、依之大小政所評定之上二夜三日之間、五穀成就御祈稿修行頼来候所、折節院主出府仕居申候二付、義観房私用も有之二付致出府、示談仕、当十四日より十六日迄之間、常例之通二五大虚空蔵法修行仕候様、相決し、院主十二日二帰峰仕、十四日より十六日迄五大虚空蔵法修法仕、助呪等諸事例月之通、尤導師意楽二而止風雨之本尊大檀向之右之方江奉掛井修法申印明等相加江行法仕候、且又十五日中国二相当り朝大小政所井組頭共人九人斗致参詣、吸物酒井蕎麦切茶漬等致饗応候、但し役所向届方之義ハ勤方江相尋候処、郡方よりも申出不仕候旨二付、当山よりも役所江ハ届ヶ不仕候、

  意訳変換しておくと
文化七(1810)年11月11日に、青海村の政所嘉左衛門殿が登山してきて次のような依頼をした。この秋は雨天が続き、麦の成長がよくない。そこで、大小政所が集まって評定し、二夜三日間、五穀成就の祈祷修行をお願いすることになったという。
 しかし、院主が出府、義観房も私用で不在であることを告げ、相談した結果、十四日より十六日までの間、通例通りの五大虚空蔵法修行を行う事になった。院主は十二日帰峰し、十四日より十六日迄五大虚空蔵法を修法した。助呪などの諸事例は通例通りで、導師意楽が主催し、本尊大檀に向かって右側に奉掛や修法申印明などが位置して行法した。十五日朝には、大小政所や組頭たち九人が参詣し、吸物酒並びに蕎麦・切茶漬などを饗応した。但し、役所への届出については、藩の勤方に相談したところ、青海村単独の雨乞いなので必要なしとのことであった。そのため当山からは役所へは届けなかった。

ここらは「藩 → 綾郡の大政所 → 青海村の政所」と、依頼者が変化し「民衆化」していること。当初は雨乞い祈願であったものが、二毛作の麦も含めた「五穀豊穣」のための祈願と姿を変えながら「守備範囲」を広げていることがうかがえます。
5善女龍王4jpg
神泉苑の善女龍王朱印
文化10(1813)年の暮れにも、秋から降雨が少なく、溜池の水が減って麦・莱種子の生育がよくないとして、阿野郡北の大政所は「五穀成就雨乞」の祈祷を依頼しています。その翌年の文化11年4月に入っても雨が少なかったらしく、阿野郡北大政所の富家長三郎は白峯寺に出向いて、降雨祈蒔を願い出ています。この祈祷に続いて郡奉行からも引き続き祈祷を続けるよう命じられています。
 周辺の庄屋たちの依頼による祈祷活動を年表化しておきます。
文政3(1830)年「稲作虫指」のため「虫除五穀成就」の祈祷
文政7(1834)年 阿野郡北の大政所単独の祈願依頼。(要約)
青海村の政所嘉左衛間が白峯寺へきて、この秋以来雨天が続き、麦の作付けが困難になっているので、大・小政所が相談して、二夜三日の五穀成就の祈祷をお願いしたい。これに応えて、11月14日から16日に「修行」実施。15日には大・小政所と組頭8・9人が白峯寺へ参詣。
文政12(1839)年6月 阿野郡北の依頼で、「虫除五穀成就」の祈祷
PayPayフリマ|絶版 週刊原寸大日本の仏像12 神護寺 薬師如来と五大虚空蔵菩薩 国宝 薬師如来立像・日光菩薩立像・月光菩薩立像・五大虚空蔵菩薩
五大虚空蔵

最後に、どんな祈祷が行われていたのかを見ておくことにします。

先ほど見た1810年の史料には「通例通りの五大虚空蔵法を修行」
とありました。ここからは「虚空蔵求聞持法」を唱えながら護摩が焚かれたことが考えられます。しかし、これだけではよく分かりません。
文化五(1809)年6月の記録には、次のように記されています。
敷地書状政所へも届け申候、於頓証寺例之通り水天供執行荘厳等。前々之通り衆徒皆参 
初夜申刻ョリ             出座面々
    法印
一導師法印水天供          遊天
一衆徒助呪            義観
一一字ノ金ョリ吉慶讃三段ツ    有光
深賢 加行中

一十四日夜五ツ時少バラバラ雨降ル 真正
一廿七日、早てより終日日曇り五ツ時ホコリジメリニ降ル
一廿六日、香西植松武兵衛参詣〈西瓜大一酒二升/持参)
一廿七日西庄大政所参詣酒二升
一同日高屋政所来ル、初穂一メ
一廿八日晩方より日曇り夜九ツ時分より降出、翌十九日
終日大風雨二而、降雨廿八日栗原理兵衛、尾池彦太夫
二人同道二而参詣、右大風雨故、川越出来[  ]へ廿九日
滞留、翌晦日早て二帰ル
意訳変換しておくと
敷地書状を政所へも届け、頓証寺でいつものように水天供執行の荘厳を行う。 前例通りのメンバーが集まってくる 
初夜は申刻から祈祷が始まった。出座面々
    法印
一導師法印水天供          遊天
一衆徒助呪            義観
一一字ノ金ョリ吉慶讃三段ツ    有光
深賢 加行中

24日 夜五ツ頃 ぱらぱらと小雨が降る 真正
27日 晴天から終日曇りに変わり、五ツ頃から埃を湿らす程度に降ル
26日 香西の植松武兵衛参詣(西瓜大一つ 酒二升持参)
27日 西庄の大政所が参詣(酒二升持参)
 同日 高屋の政所も来る、初穂一〆
28日 晩方から曇り、夜九ツ時分から降り出す
29日 終日大風雨
右雨乞修行之届申
ここからは、祈祷が行われた場所や、白峯寺やその子院の住職が役割が分かります。実施場所については、私は善如龍王社の前で行われていたのかと推測していたのですが、そうではないようです。頓證寺を会場として荘厳したと記されています。頓證寺が白峰の公的な祈りの場であったことがうかがえます。
 面白いのは次の記録です。
26日 香西の植松武兵衛参詣(西瓜大一つ 酒二升持参)
27日 西庄の大政所が参詣(酒二升持参)
里の村々の有力者が、雨乞い祈祷を見守るために参詣しています。その際に、酒2升やスイカを持参しています。雨乞い成就の際には、それなりのお礼が行われます。そして、積もり積もって、土地寄進や灯籠などの寄進につながったようです。
翌年の文化6年も雨不足だったようで、雨乞い祈祷が次のように行われています。(要約)
5月14日晩方から雨乞修行を頓証寺に壇を設け荘厳して、修法水天供を始めた
一導師   院主増明法印
一助呪   義観房   自光房 善能房   深賢房
十四日の朝方にぽろぽろ降り始め、夜分にも少し降った。十五日には恒例の五穀祭りに、大小政所も参詣のためにやってきた。大政所の青海政所へ雨乞修行のことについて申聞させた。十五日の晩方から十六日朝まで大雨となった。そのため十六日朝には檀を撤去し、朝より法楽理趣三味となった。(後略)
ここからは、雨乞い祈祷が頓證寺の境内の中に壇を築いて、荘厳して行われたことが分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」

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白峯寺の善如龍王社(雨乞いの水神)
 白峯寺は真言系修験者と関係が深かったので、雨乞いを始め、数々の祈祷が行われていました。例えば、幕末の文久3(1863)年写の「御上並びに檀那御祈祷帳」の中には、「五穀御祈予壽御札守」を1・5・9月の15日に髙松藩の寺社役所へ差し出していることが記されています。ここからは、白峯寺が髙松藩の公認の下に、領内農業安定のための祈祷を定期的に行っていたことが分かります。

この祈祷帳には、次のような祈祷依頼者名(檀那名)が記されています。
①瀬居島太郎兵衛(塩飽瀬居島)、積浦(庄内半島)30軒、宮浦25軒
②正月15日に「長日護摩切札」と「五穀御札」を阿野郡北の13か村へ11255枚配布
③正月15日に、各村の政所には五穀大札を配布。
④京都諏訪加兵衛・大坂鴻池市兵衛からの祈祷依頼
⑤備前下津丼講組の紀ノ國屋利右衛門をはじめ18人へ、下津井大黒屋三次郎・三好屋祐十郎を介して御守を配布
ここからは地元の阿野郡北との関係だけでなく、瀬戸内海の島々や対岸の下津井などの人々からも信仰を集め、その依頼に応えて祈祷が行われたり、祈祷札を配布していたことが分かります。

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白峯寺大師堂

寛政4(1792)年の「大師堂再建勧進」の版木には、次のように記されています。
「大師堂のミ仮堂のままにして、いまた経営ならされは、もろ人に助力を乞て、今や建立なさん事を希のミ」

意訳変換しておくと
大師堂だけが未だに仮堂のままである。再興計画が進まないので、諸人に助力をお願いして、建立に向けて動き出すことになった。

 ここには、再建計画が進まない大師堂について、「もろ人に助力を乞」うて、勧進僧達が活動を進める決意が述べられています。こうして、太子堂建設に向けての勧進活動が始まったようです。
白峯寺 伽藍詳細図
白峯寺伽藍図
その約10年後の享和3(1803)年8月には、阿野郡北の氏子が次の修復を藩に願いでて許可されています。
①御成御門西手入口の塀重門
②同所の石垣際東西20間、
③同所東打迫より勅額門までの石垣を石の玉垣にすること
③の石垣についてはこれまで「参詣人群集之節者危キ義」となっているのが解消されるし、「他所者等罷候節、見込みも宜相成」ると、危険箇所の改善にもなるし、参拝者の評判もよくなるとして白峯寺も歓迎しています。
19世紀になると、金毘羅大権現では石段や玉垣が整備され、参道が石造化していきます。それを進めたのは、阿波や土佐などの讃岐以外の参拝者の寄進活動でした。それが、白峯寺にも及んできたようです。金毘羅大権現と違うのは、寄進者が地元の信者たちであるということです。
白峯寺に関心持って 重文指定記念事業スタート 散華シールや御姿札を授与 | BUSINESS LIVE

白峯寺の石造物などの整備状況を年表化してみると
文化2年(1805)  西浜の嘉助による官庫宝前の石階の築造
文政12年(1829)「当山講中共」から伽藍本堂南の空地への、高さ一丈ほどの宝塔造立
天保12年(1841) 橋下権蔵・安藤庄兵衛による白峯大権現本社・十王堂の再建
「民間資本」の導入によって伽藍整備が進められているのが分かります。前回見たように白峯寺は江戸時代中期までは、高松藩主である松平家の保護、援助を受けることで伽藍整備が進められました。それが19世紀になると地元の阿野郡北の村々や氏子、当山講中、丸亀講中など民衆の援助によって、白峯寺の運営が維持されるという面も増えてきます。これは、金毘羅大権現や弥谷寺をめぐる状況と共通点が多いようです。
白峯寺 頓證額
頓證寺額
白峯寺には、丸亀城下に白峰講が組織されていました。その働きぶりを見ておきましょう。
宝暦13年(1763)は、崇徳院の六百年回忌にあたっていました。
そのため藩の許可を得て、2月から4月に「開帳」が行われることになっていました。そのため白峯寺の九亀講中が正月に、丸亀と多度津の船着き場へ案内建札を立てます。これに対して金毘羅大権現の関係者からクレームがつきます。金昆羅参詣者たちが白峯寺参詣へ獲られて、参拝者が減るという抗議です。これについて対応したのは、白峰寺ではなく、白峰寺の九亀講中の人たちでした。彼らは丸亀の町年寄へ願い出て、丸亀城下町の善通寺誕生院の旅宿「里坊」から、九亀藩寺社奉行へ立札設置許可を願い出るという手を打ちます。その結果、「開帳建札」は、丸亀藩の許可を得て、次の箇所に設置されることになります。
丸亀城下が新京橋・船入橋・中部(府)の三か所
多度津は米屋七右衛門が持参して立てること
    金毘羅大権現関係者も、丸亀藩の公式許可をえたことに、これ以上口出しはできません。
これについて後日、白峯寺は斡旋仲介を行ってくれた丸亀講中の次の有力者にお礼を持参しています。(「白峯寺大留」7-2)。
丸亀通町大年寄能登屋
松屋町大年寄竜野屋
阿波屋甚蔵
三倉屋茂右衛門
阿波屋伊兵衛
南条町電壁長右衛門
ここからは、丸亀講中のような白峰寺信仰を持つ有力者の応援部隊が形成されて、白峰寺の活動に対して積極的に協力していたことがうかがえます。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」です。

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白峯寺本堂(松平頼重により再建)
白峯寺は近世初頭には生駒家、その後には高松藩の松平頼重の保護を受けて本堂などの再建を行っていったことを前回に見てきました。その後の伽藍整備は、どのように進められたのか、またその資金はどのように捻出したのかを今回は見ておこうと思います。テキストは
「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」です。

白峯寺の財政基盤は、以下の寺領120石です。
①60石は生駒藩初代藩主生駒親正より寄進
②10石は高松藩初代藩主松平頼重より千躰仏堂領として寄付  (青海村の1町2反1畝23歩)
③50石は林田村の海岸での白峯寺の「自分開発」

寺領120石というのは、高松藩主の墓所法然寺と、城下菩提寺の成願寺の300石に次いで多い数字になるようです。しかし、白峯寺は120石という財政基盤を、無視した「過剰設備投資」を繰り返します。それを、崇徳院六百年回忌を翌年に控えた宝暦12年(1762)の財政状況で見ておきましょう。

崇徳上皇陵と頓證寺 讃岐国名勝図会拡大
讃岐国名勝図会(拡大図)
  白峰寺には、高松藩主第五代頼恭(よりたか)の名前の入った寛延3年(1750)の棟札が多いようです。この時には、賀茂社ほか8社の再建立、御滝蔵王社・華表善女竜王社の再興、十王堂・鐘楼堂の再上葺、諸伽藍の繕、崇徳院社幣殿・御本地堂廊下・相模坊社幣殿・御供所廊下・惣拝殿陵門の再上葺を行っています。さらに宝暦12年(1762)に客殿上門の再葺が行われています。ここからは、600年回忌に向けて、藩主頼恭が事前に各堂宇の修理・整備を計画的に行ってきたことがうかがえます。それでもまだ足りない部分があったようです。白峯寺は、本尊・諸宝物・寺修覆等の費用が不足するためとして、高松藩へ「拝借銀(借金)」を次のように願い出ています。
諸本尊再興残り・ 銀2貫500目
宝物御寄付物等再興 銀6貫目
御成門玄関・客殿玄関境露次門等 銀8貫500目
御成門御上段・ニノ間客殿貼付唐紙等諸造作 銀4貫目
以上、合計銀22貫目が必要経費として挙げられています。そのため銀20貫目の拝借とその返済として毎年25石の「上米」を行うことを藩に申し出ています。高松藩はこれを認めません。しかし、白峯寺は食い下がります。借金額が多くなっていて自力での費用確保できないとして、再度寺社奉行へ願い出ます。その結果、高松藩は銀8貫600目、毎年25石の上米で手を打とうとします。これに対し白峯寺は再再度、銀20貫目の拝借を願い出ています。最終的には拝借は、銀13貫500目、上米は35石で折り合いがついたようです。拝借銀の利子は1か年1割3歩、返済の上米は寺領米の中から35石を代官所へ毎年暮れに納めるということになります。

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白峰寺本堂裏の宝寿瓦
高松藩からの借金返済がどうなっているのかを見ておきましょう。
 崇徳院六百年回忌から約40年後の享和元年(1801)に、返済の上米35石が10石減らされています。高松藩と拝借銀をめぐっての値引き交渉があったようです。この年には、民間から銀札4貫500目を借用した証文写しがあります。藩ばかりではなく、民間の金貸業者からも白峯寺は借金していたことが分かります。証文には拝借人・白峯寺、加判(保証人)高屋村百姓佐一郎とあります。地元の有力者である「高屋村百姓」が白峰寺の保証人を務めていることに研究者は注目します。
 以上から、この頃の白峯寺は、旱魃や水害によって寺領米が思うように入らず、借金が重なり高利返済に追われていて、借入額が銀40貫にもなっていたようです。白峯寺の寺領収入は、先ほど見たように1年間当たり120石です。倹約してその内の60石で寺運営を行い、残りを借銀の返済に廻しています。しかし、これでは借金は減りません。金利払いのために借金を重ねるというという悪循環の中にあったようです。これは丸亀藩の善通寺と共通します。
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白峯寺大師堂
 そのような中で、最後に頼るのは髙松藩です。
高利の借金返済ににあてるため銀40貫目を拝借し、寺領米の中から年60石を返済財源とする財政建て直し案を、高松藩へ願い出ます。これが許されたら「去々年(寛政12)御金蔵二而、拝借仕元銀十貫目」の未納銀をも皆済するといっているので、これより以前にも藩から借り入れていたようです。そして髙松藩は、これを認めます。白峯寺は先にも触れた通り、髙松藩の祈祷寺でした。藩のオフィシャルな面を担う寺院だったので、放置して見放すわけにはいきません。

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頓證寺殿の看板
 ところが早くも2年後の文化元年には、返済に廻した残りの60石では、寺運営ができないので、返済米の半減と利子の減少を願い出ています。財政再建計画は、わずか2年で頓挫したようです。今度は髙松藩も認めません。3年後の文化5年になると、再度60石返納の半減願いが出されます。髙松藩は、妥協案として20石減らして40石の上納にすることを認めています。
崇徳院回忌650年が終わった文化10年11月には、回忌行事に要した諸経費や、本寺の御室御所や京都の公家衆の奉納物に対するお礼の上京などの費用のために、銀40貫目の借金を願い出ています。これは認められますが、拝借銀40貫目から、納め残りの22貫目を差し引いた17貫目を白峯寺へ渡しています。髙松藩もなかなかの対応ぶりです。(以上、「白峯寺諸願留」7-5).
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勅額門
4年後の文政元年には、拝借銀の5年間免除を次のように願い出ています。(「白峯寺大留 51」報告書309P)
口達之覚
拙寺義、古来より西新通町二而旅宿所持仕居申候処、先住時分より追々及大破候二付、修覆之義職人共江積せ候所、年占キ建前二而最早修覆二難相成由二付、建更積せも仕セ候処、余程之入用二相見、其上上打続種々物入多指支候二付、去ル酉年重キ拝借をも相願候所、銀四拾貫目御貸被下、毎歳御定之通、米六拾石ツ、無滞相納居申候二付、尚更普請手当無之、及延引居申候、右旅宿之義者、龍雲院様御入国以来於御城主御祈蒔執行被仰付、正五九月御城下江罷出候節、拙僧ならびに衆僧共多人数止宿仕来候、往占ハ諸役御免地之由二も伝承仕候得共、年古キ義二而書面二相記有之義二も無御座は成義ハ難相別、当時町並二相成居申候処、件之通、及大破居申候、其上時年之風雨二而所々崩れ止宿等も難相成候、
白峯権現之講席等茂難相勤候付、無拠法縁之義等願相勤候程之義二而、甚心配仕、色々相考申候得共、所詮難及自力、乍併前条中上候、先達而之拝借銀上納方二も年二寄指支候仕合、其上御時節柄と申、別段之拝借難相願、ゴ極当惑仕罷有候、依之近頃中上候兼候へ共、右拝借銀上納方何卒五ヶ午之間、御用捨被成下候様、本願度奉存候、左候ヘハ右御用捨米を引当旅宿普請手当仕度奉存候、呉々も御時節柄右様之願中出候段、奉恐入候、
御城内重御祈躊二罷出候義二付、拙僧井衆僧共多人数仮宅等二而ハ、指支候次第茂御座候間、不得止事御歎申上候、此段宜御賢慮被下候様、奉願候、
以上
寅十月     白峯寺
右之通御勘定所江願指出候所、同月下旬願之通相済、尤三ヶ年御用捨被下候、若林義左衛門殿より申来候、
意訳変換しておくと

口達之覚
白峯寺については、古来より髙松城下の西新通町に「旅宿所」を持っていますが、先代の頃から大破したままになっています。そこで、修復について大工職人と協議したところ、「建物自体が耐久年数を超えて、修復は困難」とされました。そのため建替の見積もりを依頼しようとしました。
 しかし、打続く種々の物入のために、4年前に多額の借金を次のような内容でにお願いしたばかりです。銀四拾貫目の借金に対して、毎年米60石を返済すること。
 「旅宿」については、龍雲院(松平頼重)様が讃岐入国以来、御城主から祈祷執行を白峯寺が仰せつかってきました。そのため、正月・五月・九月の三回、拙僧や衆僧などの多人数の僧侶たちが髙松城下に参った際の宿となってきました。(中略)
しかし、先述したとおり長年の風雨で、痛みがひどく宿泊も出来ない状態です。(後略)
ここには髙松城下の西新通町にある白峯寺の旅宿の普請に充てるために、借入金返済の免除を願いでています。白峯寺は初代藩主松平頼重以来、藩主祈蒔執行のため正月・五月・九月に、住職はじめ多数の僧が高松城下へ出かけていきます。そのため旅宿です。これは髙松藩の公式行事でもあるので、無碍にも断れません。髙松藩は拝借銀の免除期間を5年間から3年間に短縮して認めています。
 さらに3年後の文政4年に、大師堂について借金を申し出ます。

太子堂は仮堂でしたが、寛政のはじめに造営が認められて、造営が始まり上棟します。しかし、資金不足で、外回り囲い板、唐戸厨子が出来上がっていません。そこで諸国参詣者の印象も悪いため、大師堂造作と城下旅宿の造作費用にあてるため、さらに拝借銀上納の3か年免除を願い出ます。藩は2か年間免除に値切って認めています。大師堂は天保5年春に完成しますが、西新通町の白峯寺旅宿の修繕は意外と経費がかかり、15貫目の借財となります。そのため、15貫目の拝借を願い出、返済は寺領米の中から行うことにしています。
 白峯寺では「諸初穂賽銭二至迄減少」「御寺内暮方難立行」状態で、寺の財政がゆきずまっていることを藩に訴えています。
藩は銀15貫目の拝借は認め、その内の10貫目は寺領米の中から毎年30石、5貫目は持林の伐取代金から上納することになります。この時高松藩は、郡方より阿野郡北の大政所(大庄屋)渡辺七郎左衛門と本条和太右衛門へ白峯寺の財政状況を問い合わせています。両大政所は、白峯寺の寺領からの収納は60石で、近いうちには借銀も皆済することができると返答しています。これは、白峯寺寄りの見通しの甘い見解です。

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白峯寺薬師堂

 危惧したとおり天保7年には長雨による寺領収納の減少のため、拝借銀10貫目に充てる返済米30石の免除を願っています。また翌年にも免除を申し出ています。(以上、「白峯寺諸願留」7-9)

以上、宝暦から天保にかけての白峯寺の財政状況について見てきました。
ここからは、寺領120石の財政収入を大幅に超える支出があったことが分かります。所謂、収入に見合う寺社経営ではないのです。そのために借金が膨らみ、どうしようもなくなると藩に泣きつくということを繰り返しています。崇徳上皇の百年に一度の回忌行事に備えて伽藍整備は進みますが、多額の借金は積み増しされて行きます。整った堂宇の背後には、「過剰な設備投資」による「火の車の財政状況」があったようです。それを最後で支えていたのが髙松藩であるということになります。髙松藩の祈祷所として公的な性格を持つ白峯寺だからこそできた寺社運営かもしれません。

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 近世後期になると、白峯寺は「崇徳天皇御廟所 讃州白峰寺 政所」と名乗るようになったことは以前にお話ししました。ここには、崇徳天皇御廟所である白峰寺を髙松藩が見放すはずがないという「確信」もあったような気もしてきます。
 これは以前に見た善通寺と丸亀藩の関係とよく似ています。善通寺も寺社経営は財政的には火の車でした。それを丸亀藩からの借金で賄っていました。そして、その多くは返金されることはありませんでした。空海生誕地の善通寺を、丸亀藩が見放せるはずがないという確信が善通寺側にはあったようです。
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参考文献
  「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」
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生駒騒動後の讃岐分割
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近世讃岐の寺院NO1 松平頼重の仏生山法然寺建立計画を探る : 瀬戸の島から
松平頼重

そのような中で水戸藩からやって来た髙松藩初代藩主松平頼重は、独自の宗教政策を次々と打ち出し、「崇徳上皇慰霊の寺」である白峯寺にも手を差し伸べてきます。松平頼重の寺社保護政策を最初に挙げておきます。
①金毘羅大権現の保護と朱印地化 全国的な寺社への育成
②菩提寺法然寺の造営と社格確保 法然寺を頂点とする新たな寺院階層の形成
③金倉寺・長尾寺・根来寺などを、智証大師の天台宗への改宗と保護  真言勢力への牽制
④姻戚関係にある浄土真宗興正寺派の保護
有力な寺社を保護し、配下に置くことが治政安定につながることを知り尽くした上での「選択的寺社保護政策」です。そのような中で、松平頼重が白峯寺にどんな保護支援を与えたのかを年表化して見ておきます。
寛永20年(1643)  頓證寺の再興  崇徳上皇慰霊
万治 4年(1661)  千然阿弥陀堂を建立寄進。
維持料として北条郡(綾郡北部)の青海村の北代新田免10石を寄進。
延宝7年(1679) 御本地堂を再建立、
延宝8年(1680) 子・松平頼常とともに崇徳天皇社・相模坊御社・拝殿を再建立
元禄2年(1689)  崇徳院陵の前に、一対の石燈籠を献納(『松平頼重伝』)。
ここからは、松平頼重が白峯寺に対して継続的支援を行っていたことが分かります。これは金毘羅大権現や根来寺・長尾寺に対する頼重の支援ぶりと共通します。政治的意図を持って、継続的な支援が行われ、時と供に伽藍が整備されていきます。そして周囲の宗教施設に比べると、格段に立派な伽藍が姿を見せるようになるのです。そして次に、長尾寺や根来寺では、そこに安置する仏像群まで奉納しています。ただ寺領を寄進するのではなく、伽藍の完成形を見通した上での支援活動なのです。目に見える形での支援で、庶民の関心を惹きつけることになります。それが庶民の目を惹き、信仰心を集めることにもつながって行きます。これだけの伽藍が整備された寺院は当時はなかったのです。松平頼重の支援を受けた寺院は、一歩先んじた伽藍や堂宇を持ったことになったことを押さえておきます。

白峯寺には、歴代の高松藩藩主の残した棟札が数多く残されています。
その中で、初代の松平頼重に次いで多いのが五代藩主松平頼恭の棟札です。頼恭(よりたか)は、製塩・製糖などの殖産興業に尽力した高松藩中興の藩主とされます。彼は熊本藩主細川重賢と並ぶ博物大名の一人で、1760年代後期頃には、絵師三木文柳に『衆鱗図』(二帖)などの魚の図譜などの編集を平賀源内に命じたことでも有名です。
香川県立ミュージアム 春の特別展 「自然に挑む 江戸の超(スーパー)グラフィック-高松松平家博物図譜-」 |イベント|かがわアートナビ
松平頼恭の残した『衆鱗図』などの図版類
頼恭の名前の入った白峯寺の棟札は、寛延3年(1750)のものが多いようです。この時に、賀茂社ほか8社の再建立、御滝蔵工社・華表善女竜王社の再興、十王堂・鐘楼堂の再上葺、諸伽藍の繕、崇徳院社幣殿・御本地堂廊下・相模坊社幣殿・御供所廊下・惣拝殿陵門の再上葺があります。さらに宝暦12年(1762)に客殿上門の再葺が行われています。宝暦13年は崇徳院回忌600年に当たっていました。それにむけた伽藍整備計画が頼恭の支援の下に進められていたようです。この他にも、高松藩主の名前が棟札には見えるので、高松藩が白峯寺に対して一貫して保護を与えていたことはまちがいないようです。
 松平頼恭は、白峯寺に参詣も行なっています。
 崇徳院六百年回忌が行われる直前の宝暦13年(1763)2月には、それまでの伽藍整備の成果の確認のためでしょうか、白峯寺を参拝しています。この時には、林田村から登山し、崇徳上皇霊宝所・頓証寺・大権現を参拝しています。帰りは国分遍路坂を下って、国分寺へ立ち寄っています。その2年後にも参詣したといい、頼恭は頻繁に白峯寺を訪れたようです。そうしてみると先ほどの頼恭による一連の「白峰修復事業」は、崇徳院六百年回忌に向けた準備であったことが裏付けられます。
 このように白峯寺は高松藩との関係が深く、正月・五月・九月に高松城で高松藩主に対する「御意願成就」「御武運長久」の祈祷も行っています。高松藩の祈祷所として、白峯寺のほかに阿弥陀院(石清尾八幡宮別当)があり、高松城で大般若経の読誦を行っいまします。

 幕末の文久3年(1863)写の「御上丼檀那質祈千壽帳」には、江戸幕府将軍家、水戸藩、高松藩主、その他の大名たちや藩主一族、家臣たちの祈疇を行ったことが記されています。また藩主の厄年や、幕府から命じられた藩主の京都への使者の際にも、「安全之御祈疇」が行われています。
白峯寺境内の西北隅には、崇徳上皇の陵があります。
そのため崇徳院回忌の法要が古くから行われていたようです。その際に奉納された和歌・連歌・俳諧・漢詩などの文芸が白峯寺には、数多く残されています。
 近世に入ってからの崇徳院回忌と白峯寺との関係は、中期まではよく分かりません。六百回忌に際して、宝暦13年(1763)3月に、松平頼恭が崇徳上皇陵に石燈籠2基を寄付することになります。その場所について崇徳院回忌の行事の邪魔にならないようにと、高松藩と白峯寺の間で協議しています。その結果、初代藩主松平頼重が陵外の玉垣内に寄付していた石燈籠を、陵内へ移してその後に新しい石燈籠を立てることにしています。崇徳院回忌の行事の妨げにならないようにとあるので、それまでにも回忌法要が行われていたことがうかがえます。

白峯寺 讃岐国名勝図会(1847年)2
白峯寺(讃岐国名勝図会(1853) 白峰寺西北の崇徳上皇陵

宝暦13年の崇徳院回忌六百年に向けた準備過程を見ておきましょう。
白峯寺は明暦4年(1658)に仁和寺の末寺となっていまします。そのため宝暦13年正月に次のことを仁和寺に願いでています。
①2月26日より本尊・霊宝等の「開帳」
②8月26日の法楽曼供執行
また前年10月には、寺社奉行へ2月26日から4月18日までの50日間の開帳を願い出ています。そして開帳の建札を次の場所に建てることが許可されます。
城下では西通町・常磐橋・塩屋町・田町・土橋の五か所
郷中では鵜足郡宇足津、那珂郡四条村・郡家村、三木郡平木村、寒川郡志度村の各往還
「閉帳」前の2月14日には高松藩主からの奉納物が届けられ、崇徳院の御宝前へ供えられます。

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高屋神社(旧崇徳天皇社 坂出市高屋町)
七百年回忌は、文久3年(1863)8月26日に曼茶羅供執行が行われています。
この時には回忌の3年前の万延元年6月に、同忌が近づいてきたのに高屋村の「氏神」である崇徳天皇社(高家神社)が大破のままであるとして、阿野郡北の西庄村・江尻村・福江村・坂出村の百姓たち17名が、その修覆を各村庄屋へ願い出ています。これが庄屋から大庄屋へ提出されています。修覆内容は崇徳天皇本社屋根葺替(梁行2間、桁行3間、桧皮葺)、拝殿屋根壁損所繕、同宝蔵堂ならびに伽藍土壁繕、同拝殿天丼張替です。これは近隣の百姓たちの崇徳上皇信仰の高まりのあらわれを示すものと云えそうです。
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高屋神社(坂出市高屋町)
 
崇徳院の旧地として、白峯寺が主張していた場所に鼓岡と雲井御所があります。

白峯寺古図 地名入り
白峯寺古図(江戸初期)に記された雲井御所と鼓丘

宝暦13年(1763)に、鼓岡の村方から提出された書付をみて白峯寺は、「御廟所同前之古跡」であるとして、鼓岡村の支配ではなく白峯寺による管理が望ましいとの意見を寺社方へ申し出ています。これから約70年後の天保5年(1834)には「府中鼓岡雲井御所由緒内存」を白峯寺は提出し、その中で「何分時節到来不仕」と再度提出しているので、白峯寺の主張は認められなかったようです。そのために「由緒内存」で、再び「当山支配」とすることを願い出たようです。ここからは江戸中期後に、白峯寺が「崇徳天皇御廟所 政所」としての自覚を高めていることがうかがえます。この結果、雲井御所の地については、免租となって番人を置くことになります。当時の9代藩主松平頼恕は、自ら碑文を書き、「雲井御所碑」を建てています。この時に鼓岡についても、何らかの措置がとられたようです。

2022年 雲井御所跡の口コミ・写真・アクセス|RECOTRIP(レコトリップ)
雲井御所碑(坂出市)
雲井御所
かつての雲井御所石碑と林田邸
後ろは林田氏邸宅、林田氏の本姓は綾氏で、生駒時代は林田村の小地頭、松平頼重の人国の時には、大政所。

 文化3年(1806)に頓証寺の境内が狭いため埋め立て造成計画が出されます。
「別而近年参詣人等多、混雑仕る」として、拝殿の西の御供所裏通りから南の番所にかけての約40間の長さに渡って5,6間の谷筋を埋立てる内容です。研究者が注目するのは、これを提案したのは白峰寺ではないことです。阿野郡北の氏子たちが農業の手隙に、ボランテイアで行いたいと願いでているのです。白峯寺はこれを、「参詣人群衆之節、混雑も不仕」と付帯して、寺社奉行へ取り次いでいます。
 しかし、この時には髙松藩の認めるところとはならなかったようです。そのため翌年には造った後の道の修覆も自力で行うとして、再度願い出ています。この道の修覆については「修覆留」が作成されているので、この時に道が造られたと研究者は考えています。(「白峯寺諸願留」7-5)。
崇徳上皇陵と頓證寺 讃岐国名勝図会拡大
崇徳上皇陵と頓證寺と勅額門(讃岐国名勝図会部分拡大図)

 文政5年(1822)になると、頓証寺の勅額門の外手にある燈籠の前に、石燈籠を二基建立したいと申し出た「施主共」がいるとしてその建立願いがだされます。さらに10年後の天保4年(1833)には、同じく勅額門の外の獅子一対の建立願いが「心願之施主共」から出され、いずれも白峯寺は寺社方へ願い出て許可されています。(「白峯寺諸願留」7-9)。
 19世紀になると、十返舎一九の弥次喜多コンビの参拝記も出版され、金毘羅参拝客が急速に増加します。富裕な参拝者たちは、石段や玉垣、灯籠を奉納し、境内は石造物で埋まっていったことは以前にお話ししました。こんな景観を見たことのない庶民は、石の境内を見たさに金比羅を目指すようになります。そのような石造物寄進の流行が周辺寺院にも及ぶようになります。白峯寺もご多分に漏れず、19世紀になると富裕層が灯籠・狛犬などの石造物を寄進するようになります。
 白峯寺 六十六部の納経帳
 六十六部の納経帳に記された白峯寺の「肩書き」変遷
近世後期になると、白峯寺は納経帳にも自らの呼称を「崇徳天皇御廟所 讃州白峰寺 政所」と記すようになります。
  自らの存立基盤を崇徳院陵とのつながりの中に求めようとする意識が白峰寺内部でも高まったことがうかがえます。もともとの崇徳陵の管理寺院は頓證寺で、白峰寺ではなかったことは以前にお話ししまします。しかし、これも白峰寺と頓證寺の一体化という視点で見れば、なんら不思議なことではないのかも知れません。
 同時に、このような白峰寺の教導の結果、周辺の「氏子」や「施主共」が積極的に頓証寺などの境内整備に参加するようになっていることが分かります。白峯寺への信仰、崇徳上皇信仰が民衆へ浸透していっていることを物語るものと研究者は考えています。
以上をまとめておくと
①髙松藩初代藩主松平頼重は、計画的継続的に白峰寺の伽藍整備を支援した
②5代藩主松平頼恭は、崇徳院六百年回忌を期に、白峯寺境内の伽藍整備を進め、自らその視察も行っている。
③髙松藩の支援を受けて、崇徳上皇回忌ごとに伽藍は整備された。
④そのような中で、白峯寺は自らの存立基盤を「崇徳天皇御廟所 讃州白峰寺 政所」に求めるようになり、中世の故事をもとにさまざまな主張を行うようになる。
⑤周辺の庄屋や有力者も「崇徳天皇御廟所」である白峰寺を支援するようになり、崇徳上皇信仰は拡がりをみせるようになる。
ある意味これは、松平頼重のねらい通りのことだったのかもしれません。頼重の打った齣は、時を置いて大きな効果を持つようになったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」
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白峯寺古図 十三重石塔から本堂
白峰寺古図(江戸初期)には、多くの子院の堂宇が描かれている

 白峯寺関係の文章や絵図を見ていると、中世には多くの子院やあったことがうかがえます。例えば、寛文年中の『御領分中宮由来・同寺々由来』には、「真言宗 北条郡綾松山洞林院 白峯寺」とあり、洞林院を筆頭に古くは120坊があり、その内の21ヶ寺に補任状が出されてたと記します。この21ヶ寺が塔頭寺院だったと研究者は考えています。ところが、寛文年間には「寺中四ケ寺」とあり、4ヶ寺に激減しています。この時期は、中世末に衰退していた洞林院が別名によって復興する時期と重なります。
 数多くあった子院が激減するのは、 弥谷寺も同じでした。
弥谷寺も生駒藩の指示を受けた別名が兼帯して、運営権をにぎります。白峯寺と弥谷寺で子院が激減するのは、別名の「寺院経営」方針と何らかの関係があるのではないかと私は「妄想」しています。しかし、これも裏付史料がありません。そういえば、金毘羅大権現でも、金光院院主宥盛が辣腕を振るい、それまでの子院を排除・撃退し、金光院の優位性を確立していくのもこの時期です。それまでの白峯寺や弥谷寺には、中世の以来のさまざまな宗教者(熊野行者・高野聖・時衆念仏聖・修験者など)が子院の主として活動を展開していました。高野山が「真言原理主義」に建ち帰って、時衆念仏僧を排除したように、地方の有力寺院でも山内の異分子排除が行われたのかもしれません。さて話を元に戻します。
近世になっても存続した白峯寺の末寺を、見ておきましょう。
白峯寺所蔵の慶長9年(1604)から弘化2年(1845)までの江戸時代の棟札に記された子院名を一覧表にしたのが次の表です。
.白峯寺蔵棟札に記された子院
白峯寺の近世子院一覧
この表からは次のような事が分かります。
①慶長9年(1604)には、一乗坊、花厳坊、円福寺、西光寺、円乗坊の5ヶ寺があったこと
②延宝8年(1680)には、一乗坊、円福寺、宝積院、真蔵院、遍照院の5ヶ寺でメンバーが変わっていること
③その後は、この5ケ寺が天明7年(1787)まで確認できること
④その後の棟札には、これらの寺院名が記載されておらず、他の資料から円福寺は文化8年(1811)、真蔵院は文政3年(1820)まで確認できること
⑤現在まで残ったのは遍照院のみであること
これらの子院は、どこにあったのでしょうか?
白峯寺古図以来の各絵図に描かれている建物を一覧表にしたのが下図です。
白峯寺 建物変遷表
白峰境内建物変遷表

さらに、この絵図に記された建物を現在の平坦地に落とし込んでいったのが下図になります。
白峯寺境内建物分布図


ここからは、稚児川の両側には多くの平坦地や石垣が残っていることが分かります。これがかつて存在した21の子院の跡のようです。この中に、一乗坊、円福寺、宝積院、真蔵院などもあったことが分かります。しかし、遍照院はどこを探してもありません。
実は遍照院は、麓の高屋町にあります。

白峯寺 子院遍照院
慈氏山松浦寺遍照院(坂出市高屋町)
  慈氏山松浦寺遍照院は「遍照」という寺名からしても弘法大師(遍照金剛)信仰に深く関わるお寺であることが推測できます。本尊は阿弥陀如来、脇侍は弘法大師と弥勒菩薩です。庭に弘法大師が求聞持法を修したという求聞持石があります。
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遍照院の求聞持石
やや離れた後夜谷という窟は、大師修行の地と伝えられ、その途中に弥陀橋がかかります。これは遍照院から大師が毎日修行のため、窟へ通う時にこの橋まで阿弥陀如来が来迎したと伝えられます。近くには高野四社明神が建立されていて、高野山との深い関係がうかがえます。「弘法大師と阿弥陀如来」が併せて祀られるというのは、今まで見てきたように「真言念仏」の特徴です。ここにも高野聖の痕跡が見えてきます。この寺の建立は「求聞持石銘」に刻まれている年号からする 元禄年間(1688~1704)以前にまで遡れるようです。

遍照院には『遍照院大留草紙』が残されていています。
そこには江戸時代初期の圭翁代から記録が残り、次のようにな記事があります。
神谷村石風呂之場所二古来より風呂守護之弘法大師石像安置之処。御厨子大破二付今年再建立。尤内へ年号筆記シ置志也。下地之厨子ノ裏書ニ曰 元亀二未年七月二七日遍照密院入寺瑞応建立云々.
彼ノ岩屋と申茂大師之御遺跡にして皆当寺二属次具地也。依之往古より当寺之支配にして散物等寺納之事.
意訳変換しておくと
神谷村の石風呂がある場所は、古来より風呂守護のために弘法大師石像が安置されていた。その厨子が大破したので、今年再建した。再建年号を筆記しようと厨子を見ると裏書に、次のように書かれていた 
元亀2(1571)未年7月27日 遍照密院入寺の瑞応が建立した。
この岩屋(石風呂?)と茂大師の御遺跡は当寺に属す者である。往古より当寺の支配する散物である。
ここからは、次のようなことが分かります。
①神谷村には石風呂があったこと
②石風呂の管理権を返照院が持っていて、周辺遺跡などの管理権も主張していたこと
③元亀2年(1571)には、遍照院が存在し、神谷村にまで影響力があったこと
次に遍照院が出てくるのは、以下の文章です
白峯寺より寄附田地之初発
白峯寺法印圭典代当郡林田村之内 
片山寺領地開地之時分当寺之
道心者道休法師日々罷出候而
開地之事此以奥□ヲ白峯寺より
寄進之順□致し貰候而永当
寺江附置候寛文十二子歳六月二十七日
道休法師致命終候可有永々回向等也
右ノ田地二付後代何分之勝手布之とも勿論売沸質物等二
入申問敷事白峯寺より寄進状/左之通所は飛石也
(以下略。/は改行)
意訳変換しておくと
白峯寺法印圭典の時代に、綾郡林田村にあった片山寺開山寺の寺領を、道心者道休法師に白峰寺から永代寄進した。寛文十二年六月二十七日に道休法師が亡くなると、代代回向を行い、この田地は後代に至るまで勝手に売買したり、質入れする事がないように、白峰寺からの寄進状にも書かれていた。なおこの寺領は飛石である。

 ここからは、白峰寺圭典法印の時に道休法師が寺領の提供を受けたこと、その面積は石高は、合わせて2反1畝12歩、石高は2石2斗2升4合であったこと。これを元にして現在の遍照院が建立されたことが分かります。
寺伝には歴代住職について次のようにも書かれています。
開基弘法大師
右開基以来より寛永年中迄之住職等相知不申候
一、中興  白峯寺宥賢弟子 圭翁
右住職並隠居被仰付候年号月日相知申候
寛文元年十月三日二病死仕候
意訳変換しておくと
開基は弘法大師
開基以来、寛永年中迄の住職等については不明である
中興は、白峯寺宥賢弟子の圭翁
圭翁の住職並に隠居した年号月日についても不明
寛文元年十月三日二病死仕候
歴代住職について不明というのは、お寺が存在しなかったとも読み取れます。中興とされますが実際の建立は、寛永年中(1624~44)の圭翁によるものなのでしょう。その後の住職は次の通りです。
一、二代  白峯寺増真弟子 圭算
  右住職並隠居被仰付候年号月日相知申候
  宝永五子年正月五日病死仕候
一、三代  白峯寺圭典弟子 圭澄
  右住職並隠居被仰付候年号月日相知申候
  元文二年七月十六日病死仕候
一、四代  白峯寺等空弟子 證寂
  右住職並隠居被仰付候年号月日相知申候
  明和三戊十一月朔日病死仕候
一、五代  白峯寺離言弟子 大印
  右宝暦四年十二月十三日住職被仰付
  宝暦十四五月十八日大内部引田積善坊へ移転被仰付候
一、六代  白峯寺離言弟子 而真
  右ハ宝暦十四年中五月十八日住職被仰付候明和五年子二  月七日山田郡林村吉国寺江移転被仰不候
一、 七代  香川郡坂田村悉地院親旭弟子□□
  右明和五子年二月七日住職被仰付候
      天明二寅十二月隠居仕候
一、八代  白峯寺剛咋弟子 圭応
  右天明二寅年十二月十三日住職被仰付候
遍照院
右之通御座候以上
寛政四壬子二月
以上は『大留記』に書かれた歴代住職名ですが、よく分からないところが多いようです。
『大留記』には、その他にどんなことが記されているのでしょうか。
宝暦8年(1758)12月の「阿野郡高屋村遍照院由緒」の冒頭に、次のように記します。
当寺由緒之儀従公儀御尋有之候二付去ル貞享元年子年二書出申候控を以此度左之通指出申候
意訳変換しておくと
当寺の由緒については公儀の御尋があって、それに応えるために貞享元(1684)年に、書き出したものである。それをこの度は、左記の通り差し出します。

元々は、貞享元年(1684)に書き出した(書き写された)もののようです。この由緒を要約すると次のようになります。
「遍照院は弘法大師の開基の寺である。大師が42歳の厄歳に当山を訪れた時、大地が震動して大石が出現した。大師はこの石の上で求聞持法を修して、歳厄から遁れた。そこで、末世の人々の災難を除くため自影の像を彫刻して本尊とした。そのためこの石を求聞持石、本尊を厄除大師という。
 また当山は高野大明神が鎮座したところであるので「高野」ともいう。その後、弘法大師は紀州の高野山を開いた。弘法大師を遍照金剛というが、当寺を遍照院、紀州高野山を金剛峯寺と号し、讃岐高野、紀州高野と同名並び立つものとした。
ここから遍照院は弘法大師格別の遺跡、厄除大師安置の霊場で讃岐の高野と呼ばれ、古くから、3月19・20・21日の正御影供には、近隣の信者が多数参詣するようになった」
以上が『遍照院由緒」のあらましです。
本尊の厄除大師は、庶民の信仰を集めたようです。
毎年3月20・21日に「高屋大師市」が開かれ「百姓農具市立」が行われて賑わいました。
 また、宝暦7年(1757)に遍照院が火災となり、本堂を残して多くの堂字が焼失します。そこで、その復興資金を集める為に、高松地蔵寺で宝暦9年3月1日から4月10日まで、1ヶ月少々の期間、厄除け本尊弘法大師の出開帳が行われます。この時期は、善通寺も京都や江戸での出開帳を行い、それが成功裏に終わり、金堂や五重塔再建に大きく寄与した先例があります。遍照院もそれを見習ったのでしょう。この出開帳には、大群集が押しかけ、怪我人がでるほどであったと記します。4月10日の閉帳の時には、数千人の参拝者が涙を流し、別れを惜しんだとも記しています。遍照院本尊の42歳厄除大師の霊験は強く、庶民の信仰を集めていたことがうかがえます。その4年後の宝暦11年に庫裏の再建が行われているので、相当の金額が集まったようです。

  文化8(1825)年にも、遍照院から次のような開帳願いが出されています。「白峯寺所願留193」(白峯寺蔵)
口上
一当寺之義者、大師四拾弐歳御厄年彫刻之本尊、則弘仁年中四拾弐歳二御建立被成候寺二而由緒も御座候而、毎歳高屋大師市と申伝、百姓農具市立有之、二月廿日より廿一日迄本寺白峯寺井同末等於拙寺正御影供法会執行仕候、依之市立二付、右御公儀より御役人中も参来申候、然ル処当寺本堂三間半四面瓦葺二而御座候処、年久敷相成候二付、是迄時々修覆加へ候得共、最早及大破修覆難及助力、旦家も百軒斗御座候所、甚貧家之者二而自分渡世も難渋仕候二付、中々寺之修覆等馴手便も無御座、当君仕候間、本尊厄除之大師来申二月廿五日より二月廿五日迄開帳仕度奉願候、左候得者参詣人之散物フ以修覆相加へ申度奉存候、右願之通、被仰付被下候得者、御町口々郷中二而尤寒川郡志度村、香川郡仏生山、鵜足郡宇足津村、寺門前江建札仕度被存候、
右願之通、相済候様、宜奉願候以上、
文化八年         阿野郡北高屋村
十月            遍照院判
      白峯寺
右之通末寺遍照院願申出候間、右願之通相済候様、宜奉願候以上、
横倉与次右衛門殿
河合平之丞殿
意訳変換しておくと
口上
遍照院は、大師42歳の御厄年の時に自ら彫られた大師像を本尊とし、建立された寺院で、由緒もあります。毎年、高屋大師市が開かれ、百姓たちの農具市で賑わいを見せます。二月二十日から二十一日には、本寺の白峯寺や子院が列席して、当寺で正御影供法会が行われ、この時に市も開かれ。髙松藩からの御役人たちも参来します。
 当寺の三間半四面瓦葺の本堂は、建立から月日がたち、修繕を重ね維持してきました。しかし、大破寸前の状態となり。もはやこれ以上は修繕も困難になってきました。新たに建立したいのですが、檀家も百軒あまりの貧家ばかりで、渡世も難渋している状況です。そのため寺の修復までにはなかなか手がまわりません。そこで、当寺の本尊である厄除大師を2月25日から3月25日までご開帳することをお願い申し上げます。そして、参詣人の寄進・奉納を修覆費用に充ててたいと思います。この願いが許されるのであれば、髙松城下や郷中の寒川郡志度村、香川郡仏生山、鵜足郡宇足津村、寺門前に建札を掲げたいと思います。以上のこと、許可していただけるように申し出ます。奉願候以上、
ここには、本堂大破のための修覆が必要であるが、遍照院の檀家は百軒ほどと少なく、しかも「貧家」で費用を確保できないこと。その資金集めのために本尊厄除大師の開帳を行う事を願いでています。
 本堂の建て替えなどの多額の資金が必要となったときに、「厄除大師」などの庶民的な人気のある本尊を持つお寺では、「ご開帳による資金集め」という方法が行われていたことが分かります。同時に、開帳行事は各寺院の判断で勝手に行えるものではなく、藩の許可が必要だったようです。
 遍照院は、幕末の文久2年(1862)にも庫裏修覆のために、本尊弘法大師と霊室等の開帳を3月10日から4月10日まで行うことを願いでています。(「御用口記」)。
 このように厄除大師は「集客力」のある本尊で、遍照院の勧進活動にも大きく寄与しています。庶民の支持を得ていたとも言えそうです。同時に、開帳は開催通知の立看板を建てるだけで、人々が集まってくるものではありません。そこで集客のためのプロモートを行っていたのが山伏たちだったと私は考えています。山伏(修験者)たちのネットワークを利用することで、このような開帳行事も成功に導くことができたのです。そういう意味では、ご開帳を成功に導くために修験者たちのネットワークを持っていることが必要だったと、私は考えています。
幕末に遍照院の弟子が次のような四国巡拝の届出願いを、藩に提出しています。(「白峰寺大留」報告書310P)
文化十三子年  口上
一      高屋村末寺遍照院弟子 空間
右者宿願御座候而四国順拝二罷出候、尤十七日出立仕候間、此段御届申候、以上
二月十六日    白峯寺
寺社御役所
郷御役所 銘々
意訳変換しておくと
文化十三(1813)年  口上
一      高屋村の(白峯寺)末寺遍照院の弟子 空間
右者が宿願であった四国順拝を行うことになりました。つきましては、17日に出立することを御届申しあげます。
以上
二月十六日    白峯寺
寺社御役所
郷御役所 銘々
ここからは遍照院の弟子 空間が四国遍路を行っていることが分かります。帰国報告が4月9日に出されています。約2ヶ月弱の遍路の旅であったことが分かります。
 また、天保6年には遍照院主が四国遍路を50日ほどで行った帰国報告書が白峰寺から藩の寺社奉行に提出されています。この巡礼は、弟子や院主は、先達として参加していたことも考えられます。そうすると、遍照院は行場としての痕跡を残し、そこでは真言系修験者が院主などを務めていたことがうかがえます。ここにも修験道ネットワークの中に返照院があったことが推測できます。


DSC04253
       遍照院の虚空蔵石から眺めた白峰山方面
 遍照院は高野山と関係が深いようです。
高野山から直接、光明曼茶羅が届けられ、その前で諸人に説法したり、高野山の持明院の使僧が訪れて一宿したりして、「人とモノ」の交流が行われています。また灯篭の建立に高野山無量光院が世話人になるなど、江戸時代中~後期には高野山との交流が盛んであったことが分かります。もちろん白峯寺との関係も深く、歴代の住職の多くは白峯寺住職の弟子です。そして年中行事には、相互に行き来が行われています。ある意味では、白峯寺に忠実な子院であったことがうかがえます。これも弥谷寺と高野山、そして近世以後にその本山となる善通寺の関係とよく似ています。

DSC04255
       磐座「求聞持石」に座する弘法大師
巨石信仰の聖地が、行者たちの行場となります。そして、稚児の瀧や奥の院の毘沙門窟の行場を結んで「行道」が行われるようになっていきます。ここに立つと五色台自体が霊山で、その山中の行場が「中辺路」ルートとして結ばれていたこと。そこに、さまざまな宗教者がやってきて「修行」を行ったことが感覚的に分かるような気がします。その拠点が白峰寺や根香寺で、そのサテライト行場がこの「磐座」だったのでしょう。そこに、後世になってやってきた弘法大師信仰を持つ高野聖たちが、磐座の上に弘法大師像を建てたという風に私には思えます。
以上、白峯寺の子院のひとつである遍照院の歴史を眺めてみました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武田 和昭 四国辺路と白峯寺   調査報告書2013年 141P



納経帳の歴史について、以前に次のようにまとめました。
①近世初期の「四国辺路」の記録には納経帳は出てこないこと。
②納経帳を早くから残しているのは六十六部であること。
③四国遍路は、六十六部の影響を受けて、18世紀の後半から納経帳を持ち始めたこと。
④その背景には、納経しなくても納経印がもらえるようになったことと、納経帳自体が「ありがたいもの」とされるようになったことがある。
六十六部 納経帳最御崎寺
明和6年(1769)に浄円坊という六十六部廻国聖が残した納経帳
土佐室戸の最御崎寺の本尊や正式名称・山号などが記される

 世の中が落ち着いて天下泰平の元禄時代になると、多くの六十六部が現れます。彼らは大量の納経帳を残していますが、そこからは次のような活動状況が分かります。
①納経帳に記されている寺社数は200~700
②一国当たり3~10ヶ寺を廻り
③巡礼期間は3年~10年
④四国霊場は、ほとんどすべてを廻っている
金泉寺・大麻比古神社の納経
                明和6年(1769)に六十六部廻国聖が残した納経帳
書かれている内容は次の通りです。
右が金泉寺
「奉納大乘妙典/本尊釈迦如来/阿州龜光山/金泉寺/行者丈」、日付は「九月八日」
左が大麻比古神社
「奉納/阿波一国一宮/大麻彦神別當/霊山寺/行者丈」、
日付は「丑ノ九月八日」
中央の宝印は「弌乘院」 左下は「竺和山」
六十六たちは、どんな経典を納めていたのでしょうか?
納経帳には、奉納した経名、本尊名、寺院名などが墨書や印判で記されています。納経帳に記された奉納経名を見てみると、18世紀初期ころまでは、大乗妙典(法華経)と普門品(法華経第二十五「観音経」)を、巡礼先に応じて使い分けていたようです。具体的には、有力な社寺には大乗妙典を、それ以外の寺社には普門品を奉納していました。ところが、 1730年代後半ころからは、奉納経典として大乗妙典だけが記載され、普門品は姿を消していきます。さらに1760年代以降になると、奉納経名も記載されなくなります。
長崎街道49~大乗妙典六十六部塔とお地蔵様と | 長崎ディープ ブログ

この変化は、何を意味するのでしょうか。
「実際には経典を奉納しなくなった」と研究者は考えているようです。法華経は八巻からなる大冊です。本版印刷のものであっても、数百におよぶ寺社にこれをすべて奉納するのは簡単なことではありません。納経する寺社数が100以下だった時期ならともかく、巡礼する寺社数が700近くに増えると、それも難しくなっていったはずです。そこで納経帳に奉納経典を大乗妙典と記しますが、実際には奉納しなくなります。そして、時間が経つと奉納経典も記載しなくなるという経緯をたどるようです。
   六十六部の残した納経帳から白峯寺に関する部分を研究者が一覧表にしたのが下図です
白峯寺 六十六部の納経帳
白峯寺に関する六十六部納経帳の記述内容一覧
期間は、正徳元年(1711)から明治15年までの納経帳です。。
最初の正徳元年の納経帳には、洞林院が出てきます。洞林院は、近世始めに生駒家の支持を受けて、白峰寺一山の支配権を握った院房です。院主別名のもとで、勧進方式で伽藍の整備を進めて、白峰寺を復興します。「洞林院者本尊千手観音也」とあるので、洞林院の本尊は千手観音であったであったことが分かります。

白峯寺 十一面観音
白峯寺の十一面観音菩薩

次に宝暦3年(1753)の納経帳には、「崇徳院陵廟所 綾松山白峰寺役人」と記されています。
崇徳院陵とのつながりが強調されています。ちなみに、もともとの崇徳陵の管理寺院は頓證寺で、白峰寺ではなかったことは以前にお話ししました。白峰寺が、そのお株を横取りしているように見えます。
約30年後の天明2年(1782)には「千手院宝前」として「千手院」という寺名が登場します。
これは一山の本尊である千手観音をさすようです。以後は版木押しの「本堂千手院」という名称が数多く見られます。そして、江戸時代を通して、「崇徳天皇御廟所 讃州白峰寺 政所」を強調して、それをセールスポイントにしていたような印象を受けます。
明治を向かえると、版木で押された内容は次のように目まぐるしく変化していきます。
明治7年までは 「奉納経 本堂千手院宝前 崇徳天皇御廟所 讃州白峯寺 政所」
明治9年 「崇徳帝御陵所」
明治10年 「奉納経 四国第八十一番霊場 本尊千手観音大悲殿 讃州白峯寺執事」
明治15年 「奉納経 本尊千手大悲閣 讃岐国白峯寺」
このように頻繁に納経印の内容が変化します。これは以前にお話しした明治維新の神仏分離・廃仏毀釈に伴う、白峯寺の混乱を反映しているようです。
明治元年には、崇徳上皇の御霊が京都に新設された新御陵に移されます。その結果、「崇徳天皇御廟所 政所」とは名のれなくなり、「御陵所」にせざるえなくなります。
明治6年には、白峯寺住職が還俗して崇徳帝山陵陵掌となり、寺が無住となります。そのため急遽洲崎寺から橘渓道を招いて住職につきます。明治11年には、頓證寺が事比羅宮(金刀比羅官)によって摂社化されて、建物や所属の物品が事比羅宮に移管されてしまいます。この時に多くの宝物品が事比羅宮に移されたます。この時期の出来事については『神仏分離資料』に詳しく記されていて、以前にも紹介しました。
以上、六十六部が残した納経帳で白峰神社について書かれた部分を歴史順に見てきました。ここからは、江戸時代の白峯寺が 「崇徳天皇御廟所 政所」を寺のセールスポイントしていたことが分かります。それだけに、明治の神仏分離で「御廟所→御陵」となり、寺から完全に分離されたことは大きな打撃であったことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

白峯寺 六字名号
白峯寺には、空海筆と書かれた南無阿弥陀仏の六字名号版木があります。この版木は縦110.6㎝、横30.5㎝、厚さ3.4㎝で、表に南無阿弥陀仏、裏面に不動明王と弘法大師が陽刻された室町時代末期のものです。研究者が注目するのは、南無阿弥陀仏の弥と陀の脇に「空海」と渦巻文(空海の御手判)が刻まれていることです。これは空海筆の六字名号であることを表していると研究者は指摘します。
 空海と「南無阿弥陀仏」の六字名号の組み合わせは、現代の私たちからすればミスマッチのようにも思えます。しかし、「空海筆 + 南無阿弥陀仏」の組み合わせの名号は、各地で見つかっているようです。今回は空海が書いたとされる六寺名号を見ていくことにします。
テキストは「武田 和昭 四国辺路と白峯寺   調査報告書2013年 141P」です。
六字名号 観自在寺の船板名号
観自在寺蔵の船板名号
まず最初に、観自在寺蔵(愛媛県)の船板名号版木を見ておきましょう。
観自在寺(真言宗)の船板名号で、身光、頭光をバックにして、南無阿弥陀仏が陽刻され、向かって左下に「空海」と御手判があります。伝来はよく分かりませんが、現在でも  病気平癒など霊験あらたかな船板名号として、信仰の対象となっているようです。印刷されたものが、参拝記念として販売されたりもしています。
   「船板名号」という呼び方は耳慣れない言葉です。これについては「空海=海岸寺生誕説」を説く説経『苅萱』「高野巻」に、次のような記事があります。
  空海が入唐に際し、筑紫の国宇佐八幡に参詣した時のこと.
二十七と、申すに、入唐せんとおぼしめし、筑紫の国宇佐八幡にこもり、御神体を拝まんとあれば、十五、六なる美人女人と拝まるる。空海御覧じて、それは愚僧が心を試さんかとて、「ただ御神体」とこそある。重ねて第六天の魔王と拝まるる。「それは魔王の姿なり。ただ御神体」と御意あれば、社壇の内が震動雷電つかまつり、火炎が燃えて、内より六字の名号が拝まるる。空海は「これこそ御神体よ」とて、船の船泄に彫り付けたまふによって、船板の名号と申すなり。
意訳変換しておくと
空海二十七歳の時に、入唐の安全祈願のために、筑紫の宇佐八幡にこもり、御神体を拝もうとしたところ、十五、六の美人女人が現れた。それを見て空海は「それは私の心を試そうとするものか」と思い、「ただ御神体」と、重ねて第六天の魔王を拝んだ。すると『それは魔王の姿なり。ただ御神体」との御意があり、社壇の内が激しく揺れ、天からは雷電が降り、火炎が立って、その内から六字の名号が現れた。空海は「これこそ御神体よ」として、舟の船杜に「南無阿弥陀」の六字名号を彫り付け出港していった。これが船板の名号の由来である。

ここからは空海が留学僧として唐に渡る時に、宇佐八幡に航海安全を祈願し参拝した時に「南無阿弥陀仏」の六字名号が降されます。空海はこれを御神体として船に彫りつけたことから「船板名号」と呼ばれるようになったというのです。船形の名号は「船板名号」と呼ばれ、弘法大師と深く関わるもののようです。

IMG_0015
弥谷寺の船板名号碑
弥谷寺の山門上の参道にも、船板名号碑が立っているのは、以前にお話ししました。空海筆銘六字名号は、弘法大師信仰と念仏信仰が混じり合ったもので真言宗寺院に残されていることが多いようです。別の見方をすると、説経「苅萱』「高野巻」を流布した聖たちの布教勢力下にあったお寺とも云えます。

曳覆五輪塔 
曳覆五輪塔

次に西明寺蔵(京都府)・曳覆曼茶羅版木を見てみます。
「曳覆」とは、死者の身体に曳いたり、覆い被せるもので、人の減罪の功徳を得て、極楽往生を約束する五輪塔や真言・陀羅尼などが書かれています。死者と供に葬られるので、実物が残っているものはないのですが、それを摺った版木は各地に残っています。

六字名号 曳覆曼荼羅 京都の西明寺 
曳覆曼荼羅 西明寺の六字名号版木
西明寺(真言宗)の版木は南無阿弥陀仏とともに「承和三年二月十五日書之空海」とあります。この年号は、この六字名号を空海が承和元年(834)3月15日に書いたことを示すものです。空海が高野山奥院に入定したのは承和2年です。その前年が承和元年です。この年が選ばれているのは、空海の筆によるものであることを強調する意味があると研究者は指摘します。

次に九州福岡の善導寺(浄土宗)の絹本墨書を見ておきましょう。
善導寺は浄土宗の開祖、法然上人の弟子鎮西派の祖・聖光上人による開山で、九州における浄土宗の重要な寺院です。ここには数多くの六字名号の掛軸が残されています。その中に空海筆六字名号があります。この掛軸には、次のような墨書があります。
俵背貼紙墨書
弘法大師真筆名号 慶長□年之一乱紛失然豊後国之住人羽矢安右衛門入道宗忍不見得重寄進於当寺畢
慶長十二丁未暦卯月吉日二十一世住持伝誉(花押)
空海御真筆也 一国陸(六)十六部 普賢坊快誉上人
永禄六癸亥年六月日
(巻留墨書)
  六字宝号弘法大師真蹟
(箱蓋表墨書)
弘法大師真蹟 弥陀宝号 善導寺什

ここには、この六字名号が空海の真筆であること、それが慶長年間に一時行方が分からなくなったが、豊後の国の入道が見つけて寄進したことなどが書かれています。その顛末を永禄6年(1563)に記したのが六十六部普賢坊快誉上人だと記します。快誉上人については、よく分かりません。が「誉」の係字を持つことから浄上系の僧でしょう。なお善導寺には別に船板名号もあります。
六字名号 天福寺
天福寺の船板名号
最後に香川県 天福寺の版木船板名号を見ておきましょう。
天福寺は香南町の真言宗のお寺で、創建は平安時代に遡るとされます。天福寺には、4幅の六字名号の掛軸があります。そのひとつは火炎付きの身光頭光をバックにした六字名号で、向かって左に「空海」と御手判があります。その上部には円形の中にキリーク(阿弥陀如来の種子)、下部にはア(大日如来の種子)があり、『観無量寿経』の偶がみられ、西明寺の版木によく似ています。なお同様のものが高野山不動院にもあるようです。空海御手番のある六字名号が真言宗と浄土宗のお寺に限られてあるのことを押さえておきます。
次に研究者は、六字名号と空海との関係を見ていきます。
空海と六寺名号の関係について『一遍上人聖絵』には、次のように記されています。
日域には弘法大師まさに竜華下生の春をまち給ふ。又六字の名号を印板にとどめ、五濁常没の本尊としたまえり、是によりて、かの三地薩坦の垂述の地をとぶらひ、九品浄土、同生の縁をむすばん為、はるかに分入りたまひけるにこそ、
意訳変換しておくと
弘法大師は竜華下生の春つ間に、六字名号を印板に彫りとどめ、本尊とした。これによって、三地薩坦の垂述の地を供来い、九品浄土との縁を結ぶために、修行地に分入っていった。

ここからは、弘法大師空海が六字名号を板に彫り付け本尊としたと、一遍は考えていたことが分かります。一遍は時衆の開祖で、高野山との関係は極めて濃厚です。文永11年(1274)に、高野山から熊野に上り、証誠殿で百日参籠し、その時に熊野権現の神勅を受けたと云われます。ここからは、空海と六字名号との関係が見えてきます。そしてそれを媒介しているのが、時衆の一遍ということになります。

六字名号 空海筆
六字名号に書かれた空海のサイン

 また先ほど見た、室町時代末期~江戸時代初期の作と考えられる『苅萱』「高野巻」に書かれた「船板名号」も空海と六字名号との関係を説くものです。説経『苅萱』「高野巻」は、高野聖との関係が濃厚であることは以前にお話ししました。従って、この時期に作られた六字名号には高野聖が関わっていたと研究者は推測します。
 空海筆六字名号が時衆の念仏聖によって生み出された背景には、当時の高野聖たちがほとんどが時衆念仏僧化していたことがあります。
それでは、空海筆六字名号が真言宗だけでなく、浄土宗の寺院にも残されているのはどうしてなのでしょうか。

仏生山法然寺
仏生山法然寺(高松市)
 その謎を解く鍵が高松市の法然寺にあるようです。
法然寺は寛文10年(1670)に、初代高松藩主の松平頼重によって再興された浄土宗のお寺です。研究者が注目するのは、再興された年の正月25日に制定された『仏生山法然寺条目』の中の次の條です。
一、道心者十二人結衆相定有之間、於来迎堂、常念仏長時不闘仁可致執行、丼仏前之常燈・常香永代不可致退転事。附。結衆十二人之内、天台宗二人、真言宗二人、仏心宗二人、其外者可為浄土宗。不寄自宗他宗、平等仁為廻向値遇也。道心者共役儀非番之側者、方丈之用等可相違事。
意訳変換しておくと
来迎堂で行われる常念仏に参加する十二人の結衆は、仏前の燈や香永を絶やさないこと。また、結衆十二人のメンバー構成は、天台宗二人、真言宗二人、仏心宗二人、残りの名は浄土宗とすること。自宗他宗によらずに、平等に廻向待遇すること。

ここには、来迎堂での常念仏に参加する結衆には、天台、真言、仏心(禅)の各宗派2人と浄土宗6人の合せて12人が平等に参加することが決められています。このことから、この時代には天台、真言、禅宗に属する者も念仏を唱えていて、浄土宗の寺院に出入りすることができたことが分かります。どの宗派も「南無阿弥陀仏」を唱えていた時代なのです。
 また『讃岐国名勝図会』の法然寺の項目には、弥勒堂の弥勒菩薩は弘法大師作とあります。さらに宝物の中にも「弘法大師鉄印(南蛮鉄を以て造るの印文、竜虎二字図、次に出す)」とあり、次の図が掲載されています。
弘法大師鉄印 法然寺
弘法大師鉄印 (法然寺)

これは先ほど見てきた観自在寺、天福寺、筑後・善導寺などの六字名号の空海の文字の下に書かれている文様とよく似ています。なお天福寺には先ほど見た六字名号掛軸とは別の掛軸があり、その裏書きには次のように記されています。
讃州香川郡山佐郷天福寺什物 弥陀六字尊号者弘法大師真筆以母儀阿刀氏落髪所繍立之也
寛文四年十一月十一日源頼重(花押)
意訳変換しておくと
讃州香川郡山佐郷の天福寺の宝物 南無阿弥陀仏の六字尊号は、弘法大師真筆で母君の阿刀氏が落髪した地にあったものである。
寛文四年十一月十一日 髙松藩初代藩主(松平)頼重(花押)
これについて寺伝では、かつては法然寺の所蔵であったが、松平頼重により天福寺に寄進されたと伝えます。ここにも空海と六字名号、そして浄上宗の法然寺との関係が示されています。以上のように浄土宗寺院の中にも、空海の痕跡が見えてきます。

(3)一遍の念仏「六字名号」は救いの喜びの挨拶_b0221219_18335975.jpg
一遍と六字名号

これを、どのように考えればいいのでしょうか。
『一遍聖絵』や説経『苅萱』「高野の巻」などからは、空海筆六字名号が時衆の中で生まれ、展開してきたことを押さえました。それが時衆系高野聖などによって、各地に広がりを見せたと研究者は考えています。しかし、江戸時代初期の慶長11年(1606)に幕府の命令で、時衆聖の真言宗への帰入が強制的に実施されます。ただ、このような真言宗への帰入は16世紀からすでに始まっていたようです。高野聖が真言宗へ帰入した時に、空海筆六字名号も真言宗寺院へ持ち込まれたことが考えられます。
 一方、浄土宗寺院についてはよく分かりませんが、時衆の衰退とともに、念仏聖として浄土宗寺院に吸収、包含された時に、持ち込まれた可能性がありますが、これもよく分かりません。今後の検討課題になるようです。
弥谷寺 時衆の六字名号の書体
時衆の六字名号の書体一覧
どうして白峯寺に空海筆六字名号版木が残されていたのでしょうか?
版木を制作することは、六字名号が数多く必要とされたからでしょう。その「需要」は、どこからくるものだったのでしょうか。念仏を流布することが目的だったかもしれませんが、一遍が配った念仏札は小さなものです。しかし白峯寺のは縦約1mもあます。掛け幅装にすれば、礼拝の対象ともなります。これに関わったのは念仏信仰を持った僧であったことは間違いないでしょう。
 四国辺路の成立・展開は、弘法大師信仰と念仏阿弥陀信仰との絡み合い中から生まれたと研究者は考えています。白峯寺においても、この版木があるということは、戦国時代から江戸時代初期には、念仏信仰を持った僧が白峯寺に数多くいたことになります。それは、以前に見た弥谷寺と同じです。

六字名号 一遍
 六字名号( 一遍)

 研究者は、念仏僧が、この版木を白峯寺復興のための勧進用として「販売」したのではないかという仮説を出します。
それに関わった人物が「阿閣梨洞林院別名」とします。別名は、慶長9年(1604)に千手院を再興した勧進僧で、修験者でもあった可能性があります。別名が弥谷寺も兼帯していたことが海岸寺の元和6年(1620)の棟札から分かります。これは、白峰寺での勧進活動の成功を受けて、生駒藩が弥谷寺の再興のために命じた人事とも考えられます。江戸時代初期の弥谷寺や海岸寺は念仏信仰が盛んなお寺であったことは以前にお話ししました。
 また、白峯寺版木の不動明王と同じ版木の不動明王が弥谷寺にもあります。このことから江戸時代初期には、白峯寺と弥谷寺が深い関係を持っていたことが裏付けられます。別名によって、二つのお寺は運営管理されていたことが、このような共通性をもたらしたのかもしれません。ただ、この阿閣梨別名については、念仏信仰だけの僧ではなく、多面的な信仰を持ち合わせた真言宗の僧と研究者は考えています。
念仏賦算」と「踊り念仏」に込められた願いのかぎり 「捨てる」という霊性について(10) : 家田足穂のエキサイト・ブログ
一遍の配布札

以上をまとめておくと
①空海自筆とされる南無阿弥陀仏と書かれた六寺名号の版木が四国霊場の観自在寺、石手寺、太山寺に残っている。
②これは「弘法大師伝説 + 阿弥陀念仏信仰」の共存を示すものである。
③これを生み出したのは一遍の時衆念仏僧たちで、それを広げたのは時衆念仏化していた高野聖たちであった。
④戦国時代から近世初期にかけて、高野山では「真言復帰原理主義運動」が高まり、念仏僧が排除されるようになった。
⑤真言宗籍に復帰した念仏僧達は、いままでの阿弥陀信仰の流布スタイルを拠点とする札所寺院でも展開した。
⑥また、大型の版木で六寺名号を摺って、寄進活動などにも活用するようになった。
以上のように、四国辺路の形成に念仏信仰(時衆念仏僧や高野聖)などが関わっていたことが具体的に見えてきます。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

      十返舎一九_00006 六十六部
十返舎一九の四国遍路紀行に登場する六十六部(讃岐国分寺あたり)

   「六十六部」は六部ともいわれ、六十六部廻国聖のことを指します。彼らは日本国内66ケ国の1国1ケ所に滞在し、それぞれ『法華経』を書写奉納する修行者とされます。その縁起としてよく知られているのは、『太平記』巻第五「時政参籠榎嶋事」で、次のように説きます。

 北条時政の前世は、法華経66部を全国66カ国の霊地に奉納した箱根法師で、その善根により再び生を受けた。また、中世後期から近世にかけて、源頼朝、北条時政、梶原景時など、鎌倉幕府成立期の有力者の前世も、六十六部廻国聖だ。つまり我ら六十六部廻国聖は、彼らの末裔に連なる。

 六十六部廻国については、よく分からず謎の多い巡礼者たちです。彼らの姿は、次のように史料に出てきます。
①経典を収めた銅製経筒を埋納して経塚を築く納経聖
②諸国の一宮・国分寺はじめ数多の寺社を巡拝して何冊も納経帳を遺す廻国行者
③鉦を叩いて念仏をあげ、笈仏を拝ませて布施を乞う姿、
④ときに所持する金子ゆえに殺される六部
しかし、四国遍路のようには、私には六十六部の姿をはっきりと思い描くことができません。まず、彼らの納経地がよく分かりませんし、巡礼路と言えるような特定のルートがあったわけでもありません。数年以上の歳月を掛けて日本全土を巡り歩き、諸国のさまぎまな神仏を拝するという行為のみが残っています。それを何のために行っていたのかもはっきりしません。讃岐の場合は、どこが奉納経所であったのかもよく分かりません。
六十六部 十返舎一九 大窪寺
甘酒屋に集まる四国遍路 その中に描かれた六十六部(十返舎一九)

白峯寺縁起 巻末
『白峯寺縁起』巻末(応永13年-1406)
研究者は白峯寺所蔵の『白峯寺縁起』の次の記述に注目します。
ここに衆徒中に信澄阿閣梨といふもの、霊夢の事あり。俗来て告げて云。我六十六ケ国に、六十六部の本尊を安置すへき大願あり。白峯寺本尊をは早造立し申たり。渡奉へしと示して夢党ぬ.・…
意訳変換しておくと
白峯寺の衆徒の中の信澄阿閣梨という僧侶が次のような霊夢を見た。ある人がやって来て「我は六十六ケ国に、六十六体の本尊を安置する大願も持つ。白峯寺本尊は早々に造立したので、これを渡す」と告げて夢は終わった。
ここからは15世紀初頭には、白峯寺が六十六の本尊を祀り、奉納経先であったことがうかがえます。
古代の善通寺NO11 香色山山頂の経塚と末法思想と佐伯氏 : 瀬戸の島から
埋められた経筒の例

さらに、白峯寺には、西寺の宝医印塔から出土した伝えられる経筒があります。
経筒 白峰寺 (1)
白峯寺の経筒(伝西寺跡の宝医印塔から出土)

そこには次のような銘文があります。
    享禄五季
十羅刹女 四国讃州住侶良識
奉納一乗真文六十六施内一部
三十番神 旦那下野国 道清
今月今日
意訳変換しておくと
 享禄五(1532)年
法華経受持の人を護持する十人の女性である十羅刹(じゅうらせつにょ)に真文六十六施内一部を奉納する。 納経者は四国讃州の僧侶良識 檀那は 旦那下野国(栃木県)の道清
今月今日
ここからは、下野の道清から「代参」を依頼された「四国讃州の良識」が讃岐の六十六部の奉納先として白峰寺を選んでいたことが分かります。室町時代後期には、白峯寺が六十六部の本納経所であったことがうかがえます。ここで研究者が注目するのが「四国讃州住侶良識」です。良識について、研究者は次のように指摘します。
①「金剛峯寺諸院家析負輯」から良識という僧は、高野山金剛三味院の住職であること
②戦国期の金剛三昧院の住職をみると良恩―良識―良昌と三代続て讃岐出身の僧侶が務めたていること
③良識は金剛三昧院・第31世で、弘治2年(1556)11月に74歳で没していること
展示・イベントのお知らせ|高松市
讃岐国分寺 復元模型

良識については、讃岐国分寺の本尊の落書の中にも、次のように名前が名前が出てきます。
当国井之原庄天福寺客僧教□良識
四国中辺路同行二人 納中候□□らん
永正十年七月十四日
意訳変換しておくと
讃岐の井之原庄天福寺の客僧良識が、四国中辺路を同行二人で巡礼中に記す。永正十(1513)年七月十四日

ここに登場する良識は、天福寺の客僧で、「四国中辺路」巡礼で讃岐国分寺を参拝しています。良識は次の3つの史料に登場します。
①白峰寺の経筒に出てくる良識
②高野山の金剛三味院の住職・良識
③国分寺に四国中辺路巡礼中に落書きを残した良識
この三者は、同一人物なのでしょうか? 時代的には、問題なく同時代人のようです。しかし、金剛三味院の住職という役職につく人物が、はたして六十六部として、全国を廻国していたのでしょうか。
室町時代後期の讃岐と高野山の関係をみておきましょう。
金毘羅大権現の成立を考える際の根本史料とされるのが金比羅堂の棟札です。ここには、次のように記されています。
 (表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿」
    当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」
    于時元亀四年突酉十一月廿七記之」
 (裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師
    高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
銘を訳すれば、

「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都
宥雅が造営した」

「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」
 この棟札は、かつては「本社再営棟札」と呼ばれ、「金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった」と考えられてきました。しかし、近年研究者は、「この時(元亀四年)、はじめて金毘羅堂が創建された。『本尊鎮座』というのも、はじめて金比羅神が祀られたものである」と考えるようになっています。
 ここには建立者が「金光院権少僧都宥雅」とあり、その時の導師が金剛三味院の良昌であることが分かります。建立者の宥雅は、西長尾城城主長尾氏の弟とも従兄弟ともされます。彼は、長尾一族の支援を受けて、新たに金毘羅神を創り出し、その宗教施設である金比羅堂を建立します。その際に、導師として高野山三昧院の良昌が招かれているのです。このことから宥雅と良昌の間には、何らかの深い結びつきがあったことがうかがえます。そして、先ほど見たように、戦国期の高野山金剛三昧院の住職は、「良恩―良識―良昌」と受け継がれています。良昌は良識の後任になることを押さえておきます。

戦国期の金昆羅金光院の住職を見ると、山伏(修験者)らしき人物が数多く勤めています。
流行神としての金毘羅神が登場する天正の頃の住職は、「宥雅一宥厳一宥盛」と続きます。初代院主とされる宥雅は長尾大隅守の弟か従兄弟とされます。彼は長尾氏が長宗我部元親に減ぼされると摂津の堺に亡命します。金毘羅に無血入城した元親が建立されたばかりの松尾寺を任せるのが、土佐から呼び寄せた宥厳です。宥厳は土佐幡多郡の当山派修験のリーダーで大物修験者でした。その後を継いだのが宥厳を補佐していた金剛坊宥盛です。宥盛は山伏として名高く、金比羅を四国の天狗信仰の拠点に育て上げていきます。その宥盛は、もともとは宥雅の弟子であったというのです。
 こうしてみると、金岡三昧院良昌と深い関係にあった宥雅も実は山伏であったことがうかがえます。
宥盛は、山伏として多くの優れた弟子たちを育てて権勢を誇り、一方では高野山浄菩提院の住職ともなって、金光院と兼帯していたことも分かってきました。このように高野山の寺院の住職を、山伏が勤めていたことになります。
 近世には「山伏寺」というのは、一団格が低い寺と見なされるようになり、山伏と関係していたことを、どこの真言寺院も隠すようになりますが、近世はじめには山伏(修験者)の地位と名誉は、遙かに高かったことを押さえておきます。
 例えば、17世紀前半に善通寺の住職が、金毘羅大権現の金光院院主は善通寺の「末寺」であると山崎藩に申し立てて、末寺化しようとしています。それほど、真言僧侶の中では、金毘羅大権現の僧侶と、善通寺は関係が深いと認識していたことがうかがえます。
 さて、もういちど白峯寺経筒の良識にもどります。
先ほど見た良識が同一人物であったとすれば、次のような彼の軌跡が描けます。
①永正10年(1513)、31歳で四国辺路
②享禄 5年(1532)、50歳で六十六部となり日本廻国
六十六部の中に、高野山を本拠とする者が多くいたことは、先ほど見たとおりです。当時の高野山は学侶方、行人方、聖方などに大きく分かれていましたが、近時の研究では高野山の客僧の存在が注目されるようになっているようです。客僧は学侶・行人・聖のいずれにも属さない身分で、中世末以降は山伏をさすことが多いようです。六十六部として廻国したのは行人方あるいは客僧と研究者は考えています。
 室町時代後期ころの金剛三味院がどのような様子だったのかは分かりません。しかし、戦国時代には山伏と深い関係があったことは、「良識ー良昌ー宥雅ー宥盛」とのつながりでうかがえます。良識が客僧的存在の山伏であり、六十六部や四国辺路の先達をした後、金剛三味院の住職となったというストーリーは無理なく描けます。

 白峯寺に版本の『法華経』(写真34)が残されています。
白峯寺 法華経第8巻
法華経(白峯寺)
その奥書には、次のように記されています。
寛文四年甲辰十二月十日正当
顕考岡田大和元次公五十回忌於是予写法華経六十六部以頌蔵 本邦
六十六箇国珈寓迫遠之果懐而巳
寛文三年癸卯四月日
従五位下神尾備前守藤原元勝入道宗休
  意訳変換しておくと
寛文四(1664)年甲辰十二月十日に、「従五位下神尾備前守 藤原元勝入道宗休」が父の岡田大和元次公の五十回忌のために、法華経を書写し、全国の六十六ヶ国に奉納した。
六十六箇国珈寓迫遠之果懐而巳
寛文三年癸卯四月日
従五位下神尾備前守 藤原元勝入道宗休

ここには、藤原元勝が父岡田元次公の50回忌に、66ヶ国に『法華経』を奉納したこと、讃岐では、白峯寺に奉納されたことが分かります。
奉納者の藤原元勝は岡田元勝といい、家康に仕えた旗本で、次のような経歴の持ち主のようです。
天正17年(1589)に岡田元次の子として生まれその後に神尾姓となり
慶長11年(1606)に、徳川家康に登用され、書院番士になり
寛永元年(1624)に陸奥に赴き
寛永11年(1634)に長崎奉行へ栄転
寛永15年(1638)に江戸幕府の町奉行となり
寛文元年(1661)3月8日に退職。
その後は、宗体と名乗り、寛文7年(1667)に没
奥書からは、彼が退職後の寛文3年(1663)に父の岡田元次公の50回忌に『法華経』を66ヶ国に奉納したことになります。しかし「写法華経六十六部」とありますが、70歳を過ぎた高齢者が10年以上もかかる日本廻国を行ったとは思えません。「柳寓追遠之果懐而巳」をどう読むのかが私にはよく分かりませんが、遠方なので代参者に依頼したと私は解釈します。
 
 宝永~正徳(1704~16)年間に日本廻国した空性法師は、四国88ヶ所のほぼ全てに奉納しています。
この時になると、白峯寺だけでなく四国霊場全てが奉納対象になっていたことが分かります。そして以後の六十六部廻国行者も同じ様に全てに奉納するようになります。その結果、讃岐の霊場の周辺には数多くの六十六部の痕跡が残ることになります。この痕跡が最も濃いのが三豊の雲辺寺→大興寺→観音寺の周辺であることは、以前にお話ししました。

以上、享禄5年の経筒、神尾元勝の『法華経』奉納などから白峯寺か中世末から六十六部奉納経所であったと研究者は判断します。これは六十六部が四国辺路の成立に関わっていたことを裏付けることになります。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武田 和昭 四国辺路と白峯寺   白峯寺調査報告書2013年141P
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讃岐の中世石造物については、前回に次のように要約しました。

中世讃岐の石造物変遷
①第一段階に、火山系凝灰岩で造られた石造物が現れ、
②第二段階に、白峰寺や宇多津の「スポット限定」で関西系石工によって造られた花崗岩製石造物が登場し
③最後に、弥谷寺の石工による天霧石製の石造物が登場すること
④天霧石製石造物は、関西系の作品を模倣し、技術革新を行い、急速に市場を拡大したこと
⑤その結果、中世末には白峯寺の石造物のほとんどを天霧系のものが占めるようになり、火山産や花崗岩産は姿を消したこと
今回は、14世紀後半に白峯寺にもたらされた花崗岩製石造物が、どこで誰によって造られたかを見ていくことにします。テキストは「松田 朝由 白峯寺の中世石造物     白峯寺調査報告書N02 2013年版 香川県教育委員会27P」です。

花崗岩は、凝灰岩よりも堅いので、加工のためには先進技術が必要でした。花崗岩製石造物の先進地が近江、京、大和にあることは多くの研究者が指摘しています。その背景には、東大寺復興事業の際に、中国から先端技術を持った宋人石工の来日と定着があったようです。その後に、近江、京、大和の石造物文化が瀬戸内海地域に影響を与えるようになります。このような流れの中で、白峰寺周辺の花崗岩石造物も、関西で造られものが持ち込まれたとされてきました。しかし、問題なのは、白峰寺のものと同じ石材で造られた石造物が関西からは出てこないことです。
白峯寺 讃岐石造物分布図
          中世讃岐の石造物分布図

中世の讃岐の花崗岩製石造物が残っているのは、白峯寺を中心に国分寺地域から宇多津にかけてのエリアに限定されることが上図からは分かります。

研究者が注目するのは、それらの石造物の岩質が類似していることです。白色で粒径0,3~0,4mの細粒の長石・石英と0,1mの雲母が見られます。石材が同じと言うことは、生産地が同じだと云うことになります。しかし、この花崗岩の産地は、讃岐にはないようです。そこで考えられるのが他地域から運び込まれたことです。第一候補は関西ですが、関西にもこの岩質の製品はありません。讃岐と同じ材質の花崗岩の採石地は、備中西部の岡山県浅口市と香川県坂出市櫃石島にあります。備中西部は石造物のスタイルや形が讃岐とは大きく違うようです。

白峯寺 櫃石島の磐座
櫃石島の磐座・櫃岩 すぐ上を瀬戸大橋がまたぐ

 最後に残された櫃石島には、島の名前の由来とされる櫃岩が、島の頂きにあります。
古代から磐座(いわくら)として、沖ゆく船の航海の安全などを祈る信仰対象となった石のようです。この石が花崗岩露頭になるようです。分析の結果、櫃石島の花崗岩が、白峰寺にもたらされた石造物の材質と同じ事が分かりました。
 また、櫃石島には、瀬戸大橋建築の際に発掘調査されて石造物群(がんど遺跡)があります。この石造物群は五輪塔が中心ですが、研究者が注目するのは、かつて五重塔であったといわれる層塔基礎が残されていることです。この層塔基礎について報告書には、幅70㎝、高さ36㎝で側面3面に格狭間があり、作られた時期は鎌倉時代後期のもので、白峯寺十三重塔との類似性を指摘しています。確かに格狭間文様は幅広く肩の張ったモチーフで白峯寺花崗岩製十三重のものと似ています。この層塔基礎は、櫃石島と白峯寺を結ぶ重要な遺物と研究者は考えています。
櫃石島周辺の島嶼部の花崗岩製石造物の分布状態を、研究者は次のように概観しています。
石造物群のある本島、広島、手島、真鍋島には、讃岐の凝灰岩製のものはありますが、花崗岩製の石造物はありません。女木島、豊島は、中世石造物がありますが数も少なく、石材は凝灰岩、石灰岩です。与島は花崗岩製が少数見られますが、岩質が異なります。露頭地の岩質も櫃石島と大きくちがうので「中世段階に与島産は想定し難い」と研究者は考えています。小豆島は花崗岩製のものはありますが、時期が室町時代以降のもので、岩質も異なります。南北朝時代以前のものでは長勝寺に1338年の宝筐印塔がありますが石材は安山岩です。
 以上、露頭地と石造物の岩質、層塔格狭間にみる共通性から讃岐の花崗岩製の多くは櫃石島産のものが使用されている可能性が極めてつよいと研究者は指摘します。

白峯寺 境内の層塔
白峯寺の花崗岩製石造物
それでは櫃石島で花崗岩製石造物を制作した石工たちは、どこからやってきたのでしょうか。
 讃岐の花崗岩製石造物は、白峯寺と宇多津の寺院周辺にしかありません。ここからは櫃石島の石工集団が、特定の寺院に石造物を提供するために新たに編成された集団であったと研究者は推測します。その契機になったのが、京都の有力者による白峯寺への造塔・造寺事業だとします。白峰寺は崇徳上皇慰霊の寺として、京都でも知名度を高めていました。そして中央の有力者や寄進を数多く受けるようになります。その一つの動きが、白峰寺への造塔事業です。そのために花崗岩の露頭があった櫃石島に、関西地域からさまざまな系統の石工が呼び寄せられて石工集団が形成されたというのです。その結果、それまでの讃岐の独自色とは、まったく異なるスタイルの花崗岩製石造物が、この時期に白峰寺周辺に現れると研究者は考えています。このように関西地域に系統をもつ石工集団が櫃石島に定住し、白峯寺への造塔事業が始まるというのが新たな説です。
ただ、13世紀に始まる白峯寺の造塔事業は、白峰寺だけのことではなかったようです。1240年前後になると、次のような中世最古の紀年銘石造物が広域的に現れてくるようです。
滋賀県水尾神社層塔(1241年)
滋賀県安養寺跡五重塔(1246年)
京都府宝積寺十三重塔(1241年)
京都府金輪寺五重塔(1240年)
奈良県大蔵寺十二重塔(1240年)
岡山県藤戸寺五重塔(1243年)
福岡県坂東寺五重塔(1232年)
熊本県明導寺十二重塔(1230年)
鹿児島県沢家三重塔(1239年)

藤戸寺(ふじとじ)石造五重塔
岡山県藤戸寺五重塔(1243年)

以上を見ると、層塔が多いことに気がつきます。近畿だけでなく岡山や九州の有力寺院でも層塔が建てられ始めたことがわかります。いわば「層塔建立ムーブメント」の始まりです。このような流れの中で、花崗岩生産地の塩飽櫃石島に関西から石工たちが呼び寄せられ、瀬戸内海周辺の寺院に層塔提供のための生産が始まったというシナリオになるようです。白峯寺の層塔もこのような西日本各地の層塔造塔の動きに連動していることを押さえておきます。

それでは、この「櫃石石造物工房」を設立したのは、誰なのでしょうか? 考えられる候補を挙げておきましょう。
①瀬戸内海への進出著しい西大寺律宗のネットワークの寺院へ提供のため
②児島五流修験 
ここでは、これ以上はこの問題については触れずに、先を急ぎます。

櫃石島産の花崗岩製石造物は、白峯寺にどのような順番で設置されたのか?白峰寺の花崗岩製の石造物の初期の作品は、まず崇徳陵周辺に設置されます。
①崇徳陵両サイドには、それぞれ材質の違う火山石製と花崗岩製の五重塔が設置されます。

P1150775
崇徳陵五重塔(花崗岩製)
 この内の花崗岩製の五重塔は、縦長の塔身・軸部、傾斜の強い屋根を持ち、岡山県藤戸寺五重塔(1243年)や滋賀県安養寺跡五重塔(1246年)(写真157)と、よく似ているので、同じ頃の製作と研究者は考えています。また、作風としては近江石工の影響が見られるようです。
P1150695
白峯寺頓證寺殿の石灯籠(1267年)
②続いて文永4年(1267)になると、崇徳陵東隣の頓証寺に花崗岩製灯籠が造塔されます。この灯籠は、年紀が入っている最初のものになります。火袋に対して笠部幅の狭いのがこの灯籠の特徴で、大和系石工の影響が見られます。
 前回に、弥谷寺石工たちがこの灯籠を真似て、凝灰岩の天霧石でコピー作品を作った作品が大水上神社(三豊市高瀬町)の灯籠であることを紹介しました。弥谷寺の石工たちにから見ても模倣したくなる作品だったのでしょう。

P1150659
白峯寺十三重塔(東塔・花崗岩製1278年)

 頓証寺灯籠から12年後の弘安元年(1278)に、花崗岩製十三重塔(東塔)が造塔されます。
この塔は基壇に乗る総高は5,9mにもなります。それ以前の白峯寺石造物に比べると、格段の技術的進歩が見られます。
白峯寺十三重塔(東塔)の特徴を確認しておきます。
①金剛界四仏種子を刻む方形の塔身、低い軸部、傾斜の緩やかな屋根が特徴で、これらは大和に類例があること。
②奈良県般若寺・大蔵寺十三重塔はホゾがありませんが、白峯寺十三重塔も解体工事によって同じようにホゾ・ホゾ孔のないことが確認されてこと。
外見からは見えない制作過程まで共通するということは、白峯寺十三重塔が外観だけ大和の石塔を模倣したのではないことを教えてくれます。そこには制作した石工集団が技術的系統でつながっていたことが分かります。また、白峯寺十三重塔は檀上積基壇上にありますが、檀上積基壇は大和の石造物地域圏の特徴とされます。これも先ほど見た櫃石島に残る層塔の基礎と共通する点が多く、白峯寺十三重塔(東塔)が櫃石島産であることを裏付けるものです。

この塔に類似したものを探すと、次のような石造物になるようです。
奈良県般若寺十三重塔(1253年)
京都府天神社十三重塔(1277年)
京都府法泉寺十三重塔(1278年)
奈良市 般若寺十三重石塔 - 愛しきものたち
奈良県般若寺十三重塔(1253年)

これらは大和石工の手によるものとされています。瀬戸内海エリアで大型の十三重塔が登場するのは白峯寺が最初だったようです。

また白峰寺の花崗岩製石造物は、材質は同じでも作品が作られた時期によって作風が違います。
①崇徳陵前の花崗岩製五重塔は近江石工系
②白峯寺一三重塔(東塔)は大和石工系
ここからは、櫃石島の作業所に関西から集められた石工たちが集団でやって来たのではなく、各地域から「一本釣り」的に連れてこられたのではないかという推測ができます。そのために、同じ櫃石島で作られた石造物なのに、いろいろな作風が見られるというのです。このような現象は、他の作業所でも見られるようです。
P1150664
      白峯寺十三重塔(東塔・花崗岩製1278年)
以上をまとめておきます。

櫃石島の石工集団と白峰寺

①白峯寺周辺の花崗岩製石造物の石材は、櫃石島の石が使われていること、
②白峯寺十三重塔基礎の格狭間は、大和にはない特徴であることや頓証寺灯籠、白峯寺周辺の薬師院宝塔、国分寺宝塔などには個性的な形態が見られ、関西地域の石工の一時的な出張製作ではないこと
③櫃石島に、関西からの何系統かの石工たちが連れてこられて、島に定着して製作を担当したこと
④白峯寺の層塔は、初期作品は近江色がつよく、次第に大和色が強くなること。
⑤その後は他地域の要素も混じり合って展開していので、櫃石島の石工集団は近江、京、大和の石工の融合による新たな編成集団だったこと
④櫃石島に新たな石造物工房を立ち上げたのは、律宗西大寺や児島五流修験のような宗教団体が考えられる。そのため傘下の寺院や関係寺院だけに、作品を提供したのかもしれない。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   松田 朝由 白峯寺の中世石造物     白峯寺調査報告書N02 2013年版 香川県教育委員会27P
関連記事

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       白峯寺の十三重石塔(手前が西塔)                                 
白峯寺には特徴のある中世石造物が多いのですが、その中で一番目を引くのが国の重文に指定されているふたつの十三重塔です。
東塔が花崗岩製、弘安元年(1278)で近畿産(?)
西塔が凝灰岩製、元亨4年(1324)で、天霧山の弥谷寺の石工集団による作成。
中央の有力者が近畿の石工に発注したものが東塔で、それから約40年後に、東塔をまねたものを地元の有力者が弥谷寺の石工に発注したものと従来はされてきました。ここからは、東塔が建てられて40年間で、それを模倣しながらも同じスタイルの十三重石塔を、弥谷寺の石工たちは作れる技術と能力を持つレベルにまで達していたことがうかがえます。その急速な「成長」には、どんな背景があったのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。テキストは「松田 朝由 白峯寺の中世石造物     白峯寺調査報告書N02 2013年版 香川県教育委員会27P」です

DSC03848白峰寺十三重塔
白峰寺十三塔の東西の塔比較

東西ふたつの十三重石塔が白峯寺に姿を見せた14世紀前半の讃岐の石造物分布図を見ておきましょう。
白峯寺 讃岐石造物分布図

 天霧産と火山産の石造物と、花崗岩製石造物の分布
上図の中世讃岐の石造物分布図からは次のようなことが分かります。
①火山系凝灰岩で造られた石造物が東讃に分布していること
②弥谷寺を拠点とする天霧系凝灰岩製のものが西讃を中心に分布すること
③白峯寺や宇多津周辺には、讃岐には少ない花崗岩製の石塔(層塔)が集中して見られる「限定スポット」であること。
 この現象を研究者は、次のように説明します。
①白峯寺で最初の造塔は、火山石製・国分寺石製であり、そのモデルは京都府安楽寿院石仏と京都府鞍馬寺宝塔に求められること。
②鎌倉時代中期以前については、観音寺市神恵院宝塔や善通寺先師墓宝塔のように天霧系地域圏に火山石製が分布する。つまり、この時期には天霧系は生産開始されていなかった段階。
 以上から研究者は「鎌倉時代中期以前の讃岐は、火山系の世界であった。天霧系は、後になって登場する」と指摘します。

白峯寺 火山石製五輪塔
白峯寺の初期の火山製五輪塔と伝頓證寺宝塔

それでは関西系の石造物は、いつから白峯寺に登場するのでしょうか?
 白峯寺の最初の造塔は、火山系(国分寺石)石工集団が担当しています。火山石系の地元林田(坂出市)の石工集団は、平安時代には活動を開始していていて、白峯寺の初期段階の石造物整備計画の中心を担っていたと研究者は考えています。
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白峯陵前の層塔(花崗岩製)
例えば、崇徳陵前2基の層塔は、それぞれ花崗岩製と火山石製です。
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白峯陵前の層塔(火山系凝灰岩製)
これはふたつの石工集団が、分け合っての共同作業とも云えます。つまり、火山系の後に登場するのが花崗岩製の関西石工のようです。

  このように、もともと白峰寺のあるエリアは火山石の流通エリアであったところです。そこに、関西系の花崗岩製石造物が姿を現すようになります。
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白峰寺十三重石塔(西塔・弥谷寺天霧石製)

そして14世紀になると天霧石製が白峯寺に登場するようになります。天霧石製の最初の層塔が
東塔の西隣に建てられた十三重塔(1324年)と下乗石(1321年)です。十三重塔は、隣の花崗岩製東塔の模倣です。
白峯寺石造物の製造元変遷
白峯寺石造物の製造元変遷

白峯寺 下乗石(坂出側
白峯寺下乗石(坂出側) 天霧石製で弥谷寺の石工によって制作

下乗石は大和の奈良県談山神社下乗石の模倣と研究者は指摘します。
その他の塔
奈良県談山神社下乗石

弥谷寺を拠点とする天霧系石工集団は、関西系の花崗岩製石造物を模倣しながら14世紀には作風を確立し、その上に自らの個性を加えていったようです。それが十三重石塔(西塔)には集約されているようです。
 生産開始が遅れた天霧石製石造物が急速に販路を伸ばし、白峰方面に進出できたのはなぜでしょうか。
その背景には、13世紀後半から始まる瀬戸内海全域での造塔活動の始まりがあったようです。その流れの中で白峯寺でも層塔が数多く建てられるようになります。その技術を持っていた関西系の花崗岩製や天霧製へも発注がもたらされるようになったと研究者は考えています。
讃岐を2分する天霧系、火山系石造物の境界線は、時期によって次のように変化します。
①13・14世紀の鎌倉・南北朝時代は、坂出・宇多津地域
②15・16世紀の室町時代は、高松東部(山田郡と三木郡の境界付近)
ここからは、天霧系が、火山系の市場を奪って、東に拡大していることがうかがえます。つまり15世紀以降になると、天霧石製の発展と火山石製の衰退が見られるのです。
 天霧石製は14世紀までは、讃岐以外のエリアには、製品を提供することはほとんどありませんでした。ところが15世紀以降になると海運ルートを使って四国・瀬戸内海地方の広域に流通圏を拡大するようになります。 その背景には何があったのでしょうか?
  三豊市高瀬町の二宮川の源流に立つ式内社の大水上神社の境内の真ん中に康永4年(1345)の記銘を持つ灯籠が立っています。

大水上神社 灯籠
大水上(二宮)神社の灯籠(三豊市高瀬町・天霧石製)
幅の狭い笠部は、白峯寺頓証寺の灯籠とよく似ています。しかし、材質は花崗岩ではなく天霧石です。この灯籠は、弥谷寺の石工が頓證寺灯籠を模倣して作成し、地元の式内社の大水上神社に納めたものと研究者は考えています。
白峯寺 頓證寺灯籠 大水上神社類似
白峯寺頓證寺殿の灯籠 大水上神社のものとよく似ている

このように弥谷寺の石工集団は花崗岩製の模倣(=関西石工の模倣)を行います。それは、層塔、宝医印塔、石仏、宝塔など数多くのもので確認されています。これは弥谷寺石工の白峯寺への造塔活動への参加がきっかけでもたらされた「技術移転」とも云えます。

 天霧石製石造物が伊予や安芸などへの瀬戸内海での広域流通が始まるのは、鎌倉時代後期の14世紀紀前後になってからです。
これは白峯寺で塔が作られるようになるのと、瀬戸内海での広域流通の開始が、同じ時期だったことになります。これを「中世讃岐の石造物流通体制の確立」と呼ぶなら、白峯寺の造塔事業がそのきっかけであったことになります。

 白峯寺の麓の坂出市加茂町・神谷町・林田町・江尻町は、五夜ヶ岳の凝灰岩(=国分寺石)で、宝塔、石憧、石仏などが鎌倉・南北朝時代には多く造られていました。ところが、天霧石製の石造物が白峯寺に姿を見せるようになると、同時期に国分寺石製のシェアに進出し始めます。そして、室町時代になると、白峯以東の地域でも多くの天霧石の石造物が流通するようになります。そして、逆に国分寺石製の石工たちも天霧石製に類似した石造物を製作するようになります。

そして14世紀になると白峯寺の石造物のほとんどは、天霧石製のものになります。天霧石製が市場を制覇したようです。
つまり、関西系の花崗岩製から弥谷寺の石工集団に発注が移動したのです。このため関西系花崗岩製石造物は、白峯寺から姿を消します。
 その一方で衰退していくのが火山系です。14世紀までは紀伊、備前、安芸、伊予までも流通エリアにしていた火山石製は、15世紀以降になると阿波以外ではほとんど見られなくなります。生産・流通体制の変化によって流通圏が急激に縮小しています。これは天霧系に市場を奪われていった結果と推測できます。
白峯寺 讃岐石造物分布図

もういちど天霧系と火山系が讃岐の石造物流通圏を2分しているのを見ておきましょう。
そして今度は、その境界線を探してみます。両流通圏の境界付近に白峯寺があります。これは偶然ではないと研究者は考えています。それほど中世讃岐の石造物の流通圏形成に、白峯寺の造塔事業が与えたインパクトは大きかった証拠と捉えています。

ここまでをまとめておきます。
①もともとは火山系凝灰岩の石造物が讃岐全体で優勢であった
②13世紀後半の層塔建立の流行で、白峯寺にも京都の有力者が石造物を寄進することが増え、関西系花崗岩の層塔が造塔されるようになった。
③これに天霧系も参入し、その流通ルートを白峯寺エリアまで拡大した
④新興勢力の天霧系は、関西系の石造物のスタイルや技術をコピーして自分のものとして急成長をとげた。
⑤そして芸予の瀬戸内海西域方面まで市場エリアを拡大し、関西系や火山系を圧倒するようになった。

ここに関西系の花崗岩製石造物が白峰寺や宇多津などの限られたスポットにだけ残されている背景があるようです。さらに、中世の弥谷寺の隆盛は、このような石工集団の活発な活動によっても支えられていたことがうかがえます。修験者集団と石工集団は、密接な関係にあることを押さえておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  「松田 朝由 白峯寺の中世石造物     白峯寺調査報告書N02 2013年版 香川県教育委員会27P。」

白峯寺古図 地名入り
白峯寺古図に描かれた三重塔
  白峯寺古図には、次の三つの三重塔が描かれています。
①神谷神社の背後の三重塔
②白峯寺本堂西側の三重塔
③白峰寺本堂の東側の「別所」の三重塔
白峯寺古図 本堂と三重塔
白峯寺本堂西側の三重塔(白峯寺古図)

前回は②の本堂西側の発掘調査の結果、塔の遺構が出てきて、中世には三重塔がここにはあったことが確認されたことを見てきました。それでは、③の別所の三重塔はどうなのでしょうか。まずは、白峯寺古図で「別所」の部分を拡大して見てみましょう。
白峯寺 別所拡大図

「別所」をみると、白峯寺から根香寺に向かう参道沿いで、中門と大門の間にあります。参道沿いに鳥居が描かれていて、鳥居をくぐると次のような建物が並んでいます。
①正面に梁間3間×桁行2間、桁行3間の入母屋造りの瓦葺建物
②向かって右側には梁間2間×桁行2間の入母屋造りの瓦葺
③建物②と直行するように瓦葺の建物
④向かって左側には瓦葺の三重塔
⑤三重塔の前に鐘楼
鳥居が描かれているので、正面にある建物は、神仏混合の堂舎のようです。しかし、塔や鐘楼もあるので白峯寺の一つの子院の可能性があります。
「別所」を「浄土宗辞典」で調べると、次のように記されています。
本寺の地域とは別に、修行のためなどに存在する場所。別院。隠遁者や修行者が草庵などを構えて住む場所で、特に平安後期以降、念仏者が好んで別所に住した。所属する寺院にあわせて「○〇別所」などとして用いられる。例えば南都寺院では東大寺の別所として、重源が定めたとされる播磨別所や高野の新別所など七箇所が、興福寺には小田原別所がある。また京都比叡山の別所には西塔黒谷や大原の別所が存在した。別所は念仏信仰とかかわりが深く、播磨別所には浄土寺が、小田原別所には浄瑠璃寺が存在し、ともに念仏信仰の場であった。また比叡山の別所である黒谷からは法然が、大原からは良忍がでている。
また別所は、聖(ひじり)と呼ばれる行者たちとも関係が深く、彼らの存在は民間への念仏信仰の普及の一助になったと考えられている。平安後期頃から見られる別所を中心とした様々な念仏信仰の形成は、日本における浄土教の発展を考える上で重要なものである。
  ここからは別所は、本寺とは離れて修行者の住む宗教施設で、後には念仏信仰の聖たちの活動拠点となったとあります。白峯寺の別所も「浄土=阿弥陀信仰の念仏聖たちの活動拠点」であった可能性があります。
「白峯山古図」に描かれている「別所」は、どこにあったのでしょうか?
研究者は次のような手順で、位置を確定していきます。
①白峯寺古図の細部の情報読取り
②周辺エリアの詳細測量で、かつて子院や堂宇があった可能性のある平坦地の調査と分布図図作成。
③絵図資料と比較しながら平坦地分布図に、かつて存在した子院や堂宇を落とし込んでいく
白峯寺 境内建物変遷表2
白峯寺境内の平坦地分布図

高屋や神谷村方面からの参道にも大門と中門が描かれていたのは前回に見たとおりです。「別所」周辺にも、「大門」と「中門」があります。
白峯寺 別所5
白峯寺古図 別所の中門付近
まず中門を見ると、周辺に白色の五輪塔が11基が群集するように描かれています。この五輪塔群は、現在の白峯寺の歴代住職の墓地とその背後に凝灰岩製の五輪塔が多数建ち並ぶ墓地周辺だと研究者は推測します。
白峯寺近世墓地3
白峯寺歴代住職の墓地
また、中門より手前(西側)には「下乗」と描かれた白色の石造物があります。ここは白峯寺の境内中心部の建物群が途切れる所になります。ここからは、中門は白峯寺の墓地あたりであることが裏付けられます。
白峯寺下乗碑
下乗碑
「大門」について見てみると、「大門」と注記された左下方に「昆沙門嶽」と書かれています。
「昆沙門嶽」は、現在の白峯寺の奥の院です。奥の院毘沙門窟への分岐点に大門はあったことになります。ここは根香寺への遍路道の「四十三丁石」でもあります。
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白峯寺奥の院毘沙門窟への分岐点

この推察に基づいて、研究者は「中門」と「大門」の間を踏査します。その結果、10m×10m程度の平坦地や20m×15m程度の平坦地が7か所集中している場所を発見します。平坦地の中には、礎石と考えられる石材の散布する地点を2ヶ所見つけます。この場所をトレンチ調査した結果を、次のように報告しています。要約
白峯寺別所三重塔基壇跡
白峯寺別所の三重塔基壇
 別所には、「白峯山古図」(江戸前期)では、三重塔・仏堂を中心に鐘楼・僧坊などが描かれる。発掘結果、三重塔や仏堂と推定される遺構が発見される。三重塔跡は東西6.3m南北6.4mの規模で、仏堂跡は東西3.6m南北5.4mを測る。
○塔跡:仏堂跡西側で3間四方(約6m×6m)の礎石列を確認する。礎石は9個検出し、柱間は約2mを計る。高さ30cmほどの基壇を造成し、一辺は約8.5mである。
○仏堂跡:礎石は2個検出、礎石間は1.8mを計る。建物規模は2×3間と推定される。

白峯寺 別所拡大図

先ほど見たように「白峯山古図」の「別所」には、左に三重塔、右に入母屋造りの瓦葺建物が描かれていました。これは、発掘調査の結果とぴったりと合います。ここからは以下のことが云えます。
①「白峯山古図」に描かれている建物の存在が発掘調査で証明されたこと、
②出土遺物からこれらの建物は、使用瓦から15世紀前半を中心と時期のものであること
白峯寺 別所仏塔出土物
白峯寺別所 仏塔の出土遺物

ここまでで私に理解できたのは、白峯寺の伽藍は中世においては現在よりも遙かに広かったということです。研究者は、白峰寺の伽藍を上図の3つのエリアに分けて考えているようです。

白峯寺 伽藍3分割エリア図
中世白峯寺の3つの伽藍配置図
A地区 現在の白峯寺境内を中心として、稚児川を挟み平坦地が確認できる地区
B地区 A地区の奥に広がる傾斜の緩やかな地区、別所地区
C地区、B地区の奥の古田地区   現自衛隊の野外施設周辺
今まではA地区だけを、私は白峯寺の伽藍と考えていました。しかし、白峯寺古図が教えてくれたことは、「別所」と呼ばれるB地区があったこと、そこには本堂と同じように三重塔を持った宗教施設があり、そこが修験者や念仏阿弥陀聖の活動拠点であったことです。
「解説用の白峯山古図」 (下図拡大図)

 また、発掘調査した次の3ヶ所からは、白峯寺古図に書かれていたとおりのものが出てきたことになります。
①本堂西側16世紀の三重塔跡
②本堂東側16世紀の洞林院跡
③別所の三重塔
 ここからは、白峯寺古図に書かれた絵図情報が極めて正確なことが改めて実証されたことになります。絵図上に書かれた大門や中門なども実在した可能性が高くなりました。

最後に地図で別所を確認しておきます。
白峯寺 別所3

本坊から現在の四国の道「根香寺道」をたどって登っていきます。この参道沿いの両側にも平坦地が並び、かつての子院跡があったようです。摩尼輪塔と下乗石の上の窪みが池之宮になります。反対側が白峰寺の墓地で、この辺りに中門があったことになります。
白峯寺 別所周辺地図
白峯寺別所への道

笠塔婆/下乗碑を経て、左に白峯山墓地、右に池之宮跡の凹地を過ぎると、やがて「別所」への分岐(⊥字分岐)があり、ここには石仏が見守っています。
白峯寺遍路道 別所分岐点
白峯寺別所へのT字路
石仏背後の平坦地の右奥が別所跡になるようです。しかし、発掘調査後に埋め戻されたようで、仏堂や塔跡などを示すものは何もありません。どの平坦地が塔跡なのかも分かりません。ただこの辺りに、三重塔をともなう寺院があり、行場である毘沙門窟と、五色台の岬先端の海の行場を結ぶ「行道」を繰り返していたのかもしれません。また、後にはここを拠点に高野聖たちが阿弥陀・念仏信仰を里の郷村に布教していたのかも知れません。どちらにしても多くの行者や聖たちのいた別所は、いまは礎石らしい石がぽつんぼつんと散在するのみです。
白峯寺へんろ道石仏
白峯寺別所跡を見守る石仏たち
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「平成23年度白峯寺別所の調査 白峯寺調査報告書2012年 香川県教育委員会」

白峯寺には、江戸時代初期に描かれた「白峯山古図」があります。
この古図にについては、白峰寺の本坊洞林院の正当性を主張するために江戸時代になって中世の白峯寺景観を描いたものであることは、以前にお話ししました。しかし、具体的に何が描かれているかについては、詳しくは触れていませんでした。そんな中で「絵解き」をやって欲しいとのリクエストを受けたのでやってみようと思います。テキストは「片桐孝宏浩 白峯寺の空間構成 白峯寺調査報告書2012年 香川県教育委員会」です。

白峯寺古図は、縦92㎝、横127㎝の紙本著色で、白峯寺周辺の建物や周辺寺社の名称が注記されます。まずはそこに描かれている範囲を押さえておきます。

白峯寺古図 地名入り
白峯寺古図
A 山麓の高屋村にある「崇徳天皇」(現高屋神社)
B 神谷村にある「神谷明神」 背後に三重塔
C 綾川沿いにある「雲井御所」
D 綾川の上流にあり崇徳上皇の御所があったと伝えのある「鼓岡」
E 青海集落の北側の峯の馬頭院(現来峯神社)
   白峯寺を中央にして、白峯寺と崇徳上皇に関係の深い場所が描かれています。ここで気になるのは、Eの馬頭院です。この子院がどうして描き込まれているのかは研究者にとっても疑問のようです。理由がわからなのです。これにはここでは、深入りしないで前に進みます。
 もうひとつの疑問は、山上の伽藍景観です。
本堂の左(西)と、すこし離れた右(東)にふたつの塔が見えます。西の塔は現在の阿弥陀堂の後ろ辺りだと検討がつきますが、東の塔については、いったいどこにあったのか検討もつきません。また、現在は本坊となって境内の入口にある洞林院が、本堂の東側の石垣の上に描かれています。これだけを押さえて、先に進みます。

白峯寺古図 十三重石塔から本堂
白峯寺古図(拡大部)

それでは、「崇徳天王」(現高屋神社)から参道を古図に従って登っていきます。
高屋村から尾根の稜線上にやや蛇行しながら参詣道が延びて①下乗と記した白い五輪塔石碑があります。これは現在の県道五色台線からの白峯寺への入口広場にある「下乗碑」とは別物のようです。現在のものは五輪塔ではありませんし、江戸時代初期のものではありません。

P1150792
現在の下乗碑(白峰展望台)
 ②の大門が現在の白峰展望台がある所で、「西の坊跡」とされているようです。ここに大門があるということは、ここからが白峯寺の伽藍エリアになるという宣言でもあります。ここから稚児川の谷間に開けた白峯寺中央部へ下って行きます。中門をくぐると、「金堂」「阿弥陀堂」「頼朝石塔」と描かれた塔頭があります。ここには、今は建物はありません。絵図に「頼朝石塔」と描かれている白い石塔が、国の重要文化財に指定されている東西二つの十三重石塔です。

P1150655
白峰寺の十三重石塔(重文)
ふたつの石塔は、次の通りです。

東塔が花崗岩製、弘安元年(1278)で近畿から運ばれたもので頼朝寄進と伝えられています。
西塔が凝灰岩製で、元亨4年(1324)で、天霧山の弥谷寺で採石された石が使用されています。
中央の有力者が近畿の石工に発注したものが東塔で、それから約40年後に、東塔をまねたものを地元の有力者が弥谷寺の石工に発注したものと研究者は考えているようです。ふたつの十三重石塔は、鎌倉時代に建立された讃岐では非常に貴重な石造物です。
  ここには「阿弥陀堂」とあるので、高野聖や念仏聖などの聖集団が阿弥陀信仰を広げる拠点だったことがうかがえます。ここが退転した後に、現在の本堂の西に移ってきたのかもしれません。

さらに進むと、白くしぶきをあげて流れる稚児川が、稚児の瀧となって流れ落ちています。
実際には稚児川は谷間の小川で、大雨が降らないと稚児の瀧が現れることはありません。幻の瀧です。しかし、ここが古代からの山林修行者にとっては、行場であり、聖地でした。白峯寺の源は、この瀧にあったと当時の人たちも認識していたことがうかがえます。瀧を印象づけるために、デフォルメされています。

白峯寺古図 本堂への参道周辺
 稚児川にはアーチ状の木橋(?)が掛っていています。
橋を渡りると頓證寺の勅額門の前に出ます。ここから階段を登って経蔵、御影堂を経て、本堂の前に出ます。これは現在の参道とは違っています。現在は稚児川を渡る橋は、駐車場前の本坊の前に架かっていて、そこから国の重文に指定された七棟門をくぐって本坊(洞林院)前から境内に入ります。つまり境内への入口(橋)の変更があったようです。

白峯寺絵図 四国遍礼名所図会
白峯寺 四国遍礼名所図会(1800年)

『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))の絵図を見てみると、門(七棟門)から護摩堂に突き当たり、左折し、直進すると勅額門に、この勅額門の手前を右折し、石段を真っ直ぐ登って本堂に至ります。その途中の石段には、現在薬師堂があるところに「経蔵」、行者堂に「御影堂」が描かれています。

白峯寺 建物変遷表
白峯寺 境内建物位置変遷表

 上図を見ると、本堂の位置は、近世のどの絵図も現在とかわりないようです。

白峯寺古図 本堂と三重塔

本堂周辺で気になるのは、左側(西)に隣接して建つように描かれている三重塔です。
 調査対象地は背後には「経塚」と呼ばれている二段集成で、円形に構築された石組があります。その前の平坦地には「白峯山古図」では、三重塔が描かれていますが、四国遍礼霊場記(1689)年にはありません。
白峯寺絵図 四国遍礼霊場記2
四国遍礼霊場記(1689) ここには東西の三重塔は描かれていない。

『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800)にも、三重塔はなく、そこには大師堂が描かれています。そのためここに三重塔があったのか、大師堂があったのかを確認するために調査が行われました。調査結果は次の通りです。(要約)
 トレンチ調査からは、整地土で成形された一辺約11mの基壇状の平坦面が出てきた。ほとんど礎石は残っていないものの礎石抜き取り穴から3×3間(5,4×5,5m)の礎石建物跡があったことが確認できまる。また礎石・礎石抜き取り穴列の内側にも礎石があったこともわかり、総柱建物の可能性がある。出土遺物は、瓦当面に巴文を持つ九瓦、凸面に縄日、凹面に布目を持つ平瓦などの古代末の瓦も出土しているが、ほとんどは近世以降の瓦・陶磁器である。

siramine21):三重塔跡・西外側基壇
三重塔跡周辺  
以上から、3間×3間の建物であったこと、内側にも礎石を持っていることから、塔の可能性が高いと研究者は考えています。そうすると「白峯山古図」に書かれたように、ここには三重塔が建っていたことになります。白峰山古図に書かれていることが正確で、信頼が出来ることになります。この古図が中世のことを伝えている貴重な絵図であると評価は高まりました。
  本堂周辺で今と大きく違うもう一つの点は、本堂東側に描かれ、洞林院と注記された建物です。

白峯寺古図 本堂と三重塔
白峯寺古図に描かれた洞林院

「洞林院」跡も地形測量の結果、南北約72m、東西約17mの長方形の平坦地(約335㎡)と、そこにつながる幅約2mの小路が確認されました。これを「白峯山古図」と比較すると平坦地西側で確認できる高さ約5m前後の石垣や本堂・山王七社との位置関係から「白峯山古図」に描かれている「洞林院」と一致します。また、その東側と西側でも幅5mほどの細長い平坦地が見つかっています。これが洞林院の石垣下に描かれている本堂から洞林院下→下乗石→中門→大門に延びる参道のようです。ここでも確認のためのトレンチ調査が10年ほど前に行われ、報告書には次のように記されています。(要約)
①礎石や柱穴を確認しできたがレンチ調査のため、建物の大きさについては分からない。
②時期については、整地土から焼土・炭とともに16世紀後半の土師器小皿・土師質上鍋、備前焼すり鉢、中国産の輸入白磁などがでてきたので、16世紀後半以降に整地されたこと
③これら土器類とともに、焼土・炭・被熱を受けた壁土が出土していること
④遺構には、礎石と素掘りの柱穴があるので、礎石建物と掘立建物の2棟あったこと
その規模確定や「白峯山古図」に描かれている「洞林院」であると確定する資料は出ていないようですが、その可能性は高いと研究者は考えています。
  ⑤の焼土痕跡は、このエリアが16世紀後半に火災にあい、建物が焼失したことを窺わせるものです。洞林院が戦国末期の兵火を受けたことがうかがえます。中世に大きな力を持つようになった洞林院は、一時的に退転し、近世になって院主別名のもとで復興したとされますが、それを裏付ける内容です。
白峯寺 境内建物変遷表2
白峰寺境内の子院や堂宇跡
    以上をまとめておきます
①白峯寺古図は、中世白峰寺の景観を江戸時代初期になって描かれた絵図だとされる。
②描かれた内容については、現在の本坊となっている洞林院の由緒や正当性を視覚的に感じさせる内容であり、その視点に立ったデフォルメがされていると研究者は考えている。
③描かれた空間は広く、神谷神社や鼓ヶ丘など、崇徳上皇と関係のある寺社が周辺部には描かれている。
④中央部には白峰寺が描かれているが、高屋神社や神谷神社からの参道には大門・中門が見え、ここからが寺域だとするとかなり広大なエリアになる。
⑤現在の国重文で二基の十三重石塔周辺には、阿弥陀堂や金堂が描かれ、ここにも高野聖などの念仏僧が拠点としてたことがうかがえる。
⑥現在の白峯寺伽藍への入口は、本坊(洞林院)前であるが、この古図では勅額門前に橋がかかって、真っ直ぐに本堂に石段が続いている。江戸時代になって、洞林院が現在地に下りてきた際に参道付け替えられたようだ。
⑦白峯寺古図に本堂西側に描かれた三重塔は、発掘調査の結果、実在が確認された。
⑧本堂東側に描かれた洞林院も発掘調査の結果、16世紀後半の遺物や火災跡が見つかり、ここが洞林院跡である可能性が高くなった。
以上のように白峯寺古図は、江戸時代初期に書かれたものではあるが、中世の白峯寺伽藍をある程度性格に描いた絵図資料であると云える。

次回は、本堂から東に伸びる根香寺道沿いにある「別所」の三重塔について見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
   参考文献
   「片桐孝宏浩 白峯寺の空間構成 白峯寺調査報告書2012年 香川県教育委員会」
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白峯寺法蔵 崇徳上皇 歌切図 
崇徳上皇 (白峯寺蔵)
保元の乱に敗れて讃岐に流された崇徳上皇は、長寛2年(1164)8月、当地で生涯を閉じます。白峯寺の寺域内西北の地に崇徳上皇の山陵が営まれ、これを守護するための廟堂として頓證寺(御影堂・法華堂ともよばれる)が建立されます。この頓證寺の建立が、白峯寺の歴史にとって大きな意味を持つことになるのは以前にお話ししました。

白峰寺伽藍配置
現在の白峰寺の境内配置図(現在の本坊は洞林院)
 ここまでの白峯寺は、同じ五色台にある根来寺と同じように、山林修行者の「中辺路」ルートの拠点としての山岳寺院でした。それは弥谷寺や屋島寺などと性格的には変わらない存在だったと私は考えています。それが崇徳上皇陵が境内に造られることで、大きなセールスポイントを得たことになります。これは中世の善通寺が「弘法大師空海の生誕地」という知名度を活かして「全国区の寺院」に成長して行ったのとよく似ているような気もします。善通寺は空海を、白峯寺は崇徳上皇との縁を深めながら、讃岐のその他の山岳寺院とは「格差」をつけていくことになります。今回は、頓證寺と白峰寺の関係に絞って、見て行くことにします。テキストは     「上野 進 中世における白峯寺の構造  調査報告書2 2013年 香川県教育委員会」
です。

 最初に確認しておきたいことは白峰御陵の附属施設として建立された「崇徳院御廟所」は、厳密に云うと頓證寺だということです。そして、次のように頓證寺と白峯寺は同じ寺ではなく、もともとは別の寺であったということです。
白峯寺=修験者の中辺路ルートの山林寺院
頓證寺=崇徳上皇慰霊施設
二つの寺は、建立時期も、その目的もちがいます。
P1150681
頓證寺殿
頓證寺は何を白峰寺にもたらしたのでしょうか。第1に経済的な基盤である寺領です
 中央政府や都の貴族たちが寄進を行うのは頓證寺であって、もともとは白峰寺ではなかったようです。それが白峰寺と頓證寺が次第に一体化していく中で、頓證寺の寺領管理を白峯寺が行うようになります。

白峰寺明治35年地図
白峰寺の下の郷が松山郷
『白峯寺縁起』によれば、次のような寺領寄進を受けたと記します。
①治承年間(1177~81)に松山郷青海と河内
②文治年間(1185~90)に山本荘
③建長5年(1253)に後嵯峨上皇によって松山郷
しかし、この記述に対して研究者は、いろいろな疑義があると考えていることは以前にお話ししましたのでここでは省略します。本ブログの「四国霊場白峯寺 白峯寺が松山郷を寺領化するプロセス」参照
白峯寺 千手観音二十八部衆図
千手観音二十八部衆像(白峯寺)
 暦応5年(1342)の鐘銘写には「崇徳院御廟所讃州白峯千手院」との銘文があります。
この千手院は千手院堂ともよばれ、後嵯峨上皇の勅願所になったとされます。先に寄進された松山荘は千手院堂の料所であったとも伝えられます。白峯寺の本尊が千手観音であることを思えば、この千手院は白峯寺の本堂のことだと研究者は考えているようです。頓證寺に寄進された松山荘が、この千手院堂の料所となっているのは、頓證寺と松山荘が、どちらも白峯寺の管理下になっていたためでしょう。ここからは、14世紀半ば頃には、廟所としての頓證寺が白峯寺と一体化していたことがうかがえます。ある意味で頓證寺が白峰寺にのみ見込まれていったというイメージでしょうか。こうして「廟所としての白峯寺」というイメージが作り出されていきます。
南海流浪記- Google Books
道範の南海流浪記
 建長元年(1249)に、高野山の党派抗争で讃岐に流されていた道範が8年ぶりに帰国を許されることになります。その際に、白峯寺院主に招かれて白峯寺に立ち寄っています。そして白峯寺を「南海流浪記」に次のように記します。

此ノ寺(白峯寺)国中清浄ノ蘭若(寺院)、崇徳院法皇御霊廟

ここからは、13世紀半ばの鎌倉時代にはすでに「廟所としての白峯寺」というセールスポイントが作り出されていたことがうかがえます。建立された頓證寺が寺僧集団をともなっていたかどうかは、史料的には分かりません。しかし、隣接する近い仲です。頓證寺と白峯寺との関係が密接になる中で、しだいに頓證寺の法会等にも白峯寺僧が出仕するようになったことは考えられます。
 
白峯寺 四国名所図会
白峯寺(四国遍礼名所図会)

 これについて山岸常人氏は、次のように指摘します。

白峯寺が13世紀中期以降は、頓証寺の供僧21口を構成員とする新たな寺院に転換したと言えよう。頓証寺の供僧集団が前身寺院(白峯寺)をも継承した

 頓證寺が中央政府によって建立されて以後、白峯寺と頓證寺との一体化が進んだのです。
そして建長4(1252)年の段階では、白峯寺と頓證寺は法会を通じて分かちがたく結びついたと研究者は考えています。しかし、あくまで前面に立つのは頓證寺であって、白峯寺ではなかったようです。「十一日の供僧勅請として、各十一通の御手印の補任を下さる」というのも事実かどうかは分かりません。しかし、そうした主張ができるのは廟所である頓證寺だからこそできることです。こうして21院を、白峰寺の院主が統括するというスタイルで一山は運営されていたと研究者は考えています。
 以上をまとめておくと、
①千手院を中心とする中世の白峯寺は、実質的に頓證寺と一体化し、それによって廟所を名乗るようになった。
②ただし表に出るのは頓證寺の方であったので、頓證寺の供僧集団が白峯寺を吸収し、継承したとみることもできる。
③どちらにしても白峯寺と頓證寺とは、それぞれ別に存在して両者を補完する関係にあった
④それを示すかのように、戦国期の如法経供養は千手院と頓證寺のそれぞれで行われた

こうして 「崇徳上皇の廟所 + 中辺路修行の山岳寺院 + 安定した寺領と経済力」という条件の備わった中世の白峯寺は多くの廻国の聖や行者を集め、活動の舞台を提供する寺になります。僧兵集団も擁していたと考える研究者もいます。このような状況が21もの子院の並立を可能にする背景だったのでしょう。その結果、一山寺院として衆徒や聖などの集団が、念仏阿弥陀信仰や時衆信仰、熊野信仰などなどの布教活動を周辺の郷村で行うようになります。

 白峰寺の頂点は前回見たように院主でした。しかし、子院の中でも洞林院のような有力なものもあらわれています。
洞林院は戦国時代には衰退したこともありますが、慶長期になると秀吉の命で讃岐国守として入部した生駒氏の保護のもとで、別名が白峯寺再興の役割を果たします。別名は、生駒氏の支持を受けて山内での勢力基盤を強化します。その結果、洞林院が山内の中心的な位置を占めるようになります。現在の本坊にあるのは洞林院ということになります。

白峯寺本坊 弘化4年(1847)金毘羅参詣名所圖會:
幕末の絵図 金毘羅参詣名所図会には本坊に洞林院が描かれている。


以上をまとめておきます
①古代の白峯寺は、五色台を行場とする山林修行者の行場のひとつから生まれた。
②律令国家の下で密教が重視されると国分寺背後の五色台に、山林寺院が整備されていく。そのひとつが白峯寺や根香寺であった。
③12世紀後半に崇徳上皇陵が白峰山に作られ、廟所・頓證寺が建立されたことが白峯寺にとっては大きな意味を持つことになる。
④頓證寺に寄進された松山荘は、実質的には白峯寺の管理下にあって経済基盤となった
⑤鎌倉期以降、白峯寺と頓證寺との一体化が進展していく。
⑥中でも鎌倉中期に頓證寺に21の供僧が設置されたことが白峯寺にとって重要な意味をもった。
⑦ここに白峯寺と頓證寺とが法会を通じて分かちがたく結びついた
⑧白峯寺と頓證寺とは、それぞれが補先する関係にあり、その関係は中世を通じて継続した

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「上野 進 中世における白峯寺の構造  調査報告書2 2013年 香川県教育委員会」
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白峯寺古図 地名入り
江戸時代になって中世の白峯寺の姿を描いた「白峯山古図」

前回は、中世の白峯寺には行人(行者)たちが拠点とする多数の子院があったことを見てきました。白峰寺の「恒例八講人数帳」及び「恒例如法経結番帳」には、戦国期の白峯寺には次の21の坊があったと記します。
持善坊・成就坊・成実坊・法花坊。新坊・北之坊(喜多坊)・円乗坊・西之坊・宝蔵寺・一輪坊・花厳坊・洞林院・岡之坊・宝積院・普門坊・一乗坊・明実坊・宝光坊・実語坊・千花坊・谷之坊

この子院の中で、台頭してくるのが洞林院です。
洞林院が台頭してきたのは、どんな背景があったのでしょうか。
今回はそれを見て行きたいと思います。テキストは、「上野 進 中世における白峯寺の構造  調査報告書2 2013年 香川県教育委員会」です。

白峯寺古図 本堂への参道周辺
白峰寺古図拡大版(部分)
洞林院が最初に史料に登場するのは『親長卿記』の文明4年(1472)の記事で、次のように記されています。
○六月廿日条
(前略)白峯寺文書紛失、可申請 勅裁之由奏聞、勅許、
○六月十二日条
(前略)白峯寺住僧、洞林院僧都、同中 勅裁、有御不審事子細今日奏聞也、於洞林院分者雖不被成、
白峯寺同事歎之由有仰、之(申ヵ)子細了、
○六月廿三日条
(前略)洞林院中 勅裁事、典白峯寺院領各別之旨中之、然者可被成 勅裁云々、同仰元長令書遣之、
意訳変換しておくと
○六月廿日条 (前略)白峯寺が文書を紛失し、その再発行を申請し、勅裁を得た
○六月十二日条
 白峯寺住僧からの文書再発行申請にについて、洞林院僧都から「この土地には洞林院分寺領が含まれている」との異議があり、その子細が提出された。
○六月廿三日条
(前略)洞林院の申し出を受けて、白峯寺院領と洞林院領とはそれぞれ別に扱われることになった。同仰元長令書遣之、

ここからは次のようなことが分かります。
①当時の洞林院には、僧官を有した「洞林院僧都」がいたこと、
②洞林院には院領があり、これについて「洞林院僧都」が自ら主張するだけの実力をもっていたこと
③洞林院は、15世紀後半の室町時代の白峯寺における有力な子院であったこと
戦国期以降、洞林院は文書にも登場するようになりますが、それらの文書は後世の写しで、慎重に検討しなければならないと坂出市史は指摘します。
例えば白峯寺に古来より大切に伝存してきた古文書の中に「白峯寺崇徳院政所下文」永正11(1515)年があります。
この下文の発給者は、洞林院代の宗円です。彼は洞林院の住持で、白峰寺の院家代表の立場にもありました。後に洞林院は、白峰寺の院号とされ、綾松山洞林院白峯寺と公称されるようになります。下文の内容を要約すると次のようになります。
①白峯寺が永正11(1515)年に崇徳院という院号を使用して、白峰寺の寺僧に少僧都職を与えていること
②具体的には白峯寺のトツプの洞林院代宗円が、同じ白峯寺の僧権律師秀和に少僧都という僧官の職位を与えたこと。
③しかも「国宜承知敢勿違失」と讃岐国中に号令をかけていること。
 ①律令体制下では僧正・僧都・律師などの僧官は、朝廷(玄蕃寮)に任命権がありました。中央政府が任命していたのです。それが鎌倉時代には、売官も行われるなど権威も通俗化していく中で、仏教各宗派の勢力維持・拡張のために各宗派が独自に僧位を任命するようなります。②ここでは洞林院代宗円が、白峯寺の僧権律師秀和に少僧都の僧位を与えています。ここからは、白峰寺よりも洞林院の方が高い立場にあることを伝える内容です。
一方、白峰寺も「白峯寺崇徳院政所」という名で身内の僧侶を少僧都職に任じています。
崇徳院という院号は、あくまで崇徳という天皇一人に追贈された院号であって、崇徳院政所という家政機関が存在したことはありえません。それを重々承知した上で発給したものと研究者は考えています。分かっていてありもしない機関名を名乗っているということです。ここに当時の白峰寺の権勢の強さや高圧ぶりを感じます。こうなると、白峰寺と洞林院の関係は分からなくなります。
 応永19(1413)年の北野社一切経書写に参画した増吽は、当時「讃州崇徳院住僧」と自らの肩書きを記しています。これは崇徳院御影堂のことで、白峰寺全体の住持ではないようです。
 この他にも「白峯寺崇徳院政所下文」は様式や内容からみて疑問が残る文書だと研究者は考えています。後世に洞林院や白峯寺の権威を高めるためにつくられた偽書だと云うのです。この文書の内容は、白峰寺ではなく洞林院が頓證寺の寺務を掌握していたと主張しています。白峰寺よりも洞林院の方が優位な立場にあったという結論に導く意図が見え隠れします。

白峯寺 別所
白峰寺古図 本堂の東側稜線上には多くの子院が描かれている

「建長年中当山勤行役定」(建長年中(1249~56)は、白峯寺の勤行等について後世にまとめたものです。
その末尾に「再興洞林院代 阿閣梨宋有」とあります。「再興洞林院」とあるので、ここからは洞林院が一度退転した後に再興されていたことが分かります。この文書は年紀がないので、洞林院がいつ再興されたかは分かりません。

白峯寺 讃岐国名勝図会(1853)

讃岐国名勝図会の白峰寺
それを埋めてくれるのが『讃岐国名勝図会』です。この図会の「頓證寺」の項には、宝物の「大鼓筒」の書上げとして、次のように記されています。

大鼓筒(往古鼓楼大鼓と云ふ、筒内銘あり、「讃州白峯寺千手院常什物也、永禄十年丁卯卯月十四日、作岡之坊宗林、書料当寺院主宗政弟子生年丹五歳、再興洞林院代宝積院阿閣梨宋有、天正八庚辰年三月十八日、敬白、筆者薩摩国住重親」)

意訳変換しておくと
(頓證寺の宝物に大鼓筒(往古鼓楼大鼓)があり、その筒内には次のような銘がある。
「これは讃岐の白峯寺千手院の宝物である。永禄十(1567)年4月14日、岡之坊宗林が作り、書は当寺の院主宗政の弟子生年が担当した。洞林院を再興した宝積院阿閣梨宋有、天正8(1580)年3月18日、敬白、筆者薩摩国住重親」)

ここからは、次のようなことが分かります。
①「再興洞林院代 阿閣梨宋有」が宝積院の宋有のことであること
②天正8年(1580)以前には、洞林院が再興されていたこと
以上からは、洞林院は戦国末期において衰退した時期があり、16世紀後半の戦国時代に再興されたことが分かります。洞林院を再興するにあたって、由緒となる史料が作成・整理されたのでしょう。その一つが「白峯寺崇徳院政所下文」ではないかと研究者は考えています。

白峯寺古図 別所拡大図
白峰寺古図 別所拡大図
以上を裏付けるものとして、研究者は次の史料を挙げます。
①戦国期における白峯寺の記録「恒例八講人数帳」が、天正6年を最後に記事が見えなくなること、
②白峯寺の記録「恒例如法経結番帳」も、天正8年を最後に記事が見えなくなること
これは、両記録は天正8年をさほど下らない時期に、洞林院の再興にあわせて作成されたためと研究者は考えています。
③慶長9年(1604)の棟札には、次のように記されていること。

再興千手院一宇並御厨子大願主洞林院大阿閣梨別名尊師」

ここには本堂・千手院の再興願主が洞林院になっています。
白峰寺院主に代わって、洞林院が台頭していたことがうかがえます。これ以降、諸堂棟札の多くに洞林院の名が見えるようになります。寺院運営において洞林院が中心的な役割を担ったことが推察できます。
慶長9年まで姿を消していた千手院の再興を担ったと考えられるのが、棟札にみえる洞林院の「大阿闍梨別名」です。別名について慶長6年4月6日と13日の文書に次のように記されています。
【史料1】生駒一正寄進状32
白峯之為寺領、山林竹木青海村五拾石、一色二進帶可有者也、
慶六 卯月六                  (花押)
別名
〔史料1】は生駒一正が白峯寺へ青海村の50石を寺領として寄進し、山林竹木の進退を認めたことを別名坊に伝えたものです。 花押だけで一正の署名はありません。ここからは、生駒一正の保護を別名が受けていることが分かります。
次からの【史料2】【史料3】【史料4】は、東京大学史料編纂所架蔵の影写本からのもので、これまでに紹介されていなかった史料で、坂出市史が初めて紹介するもののようです。
【史料2】佐藤掃部助書状鮨
已上
白峯寺院主被仰付候上、御知行方同寺物何も如先々御居住在之候、此旨、我等より申入候へとの御詑候、為後日如件、
慶六  卯月六日       佐藤掃部 (花押)                       
  白峯寺院主 別名尊師 尊床下
意訳翻訳しておくと
白峯寺に次のことを仰せつける。すでに寄進した御知行方(寺領)や寺の運営管理権についてもこれまで通り認めるとの沙汰が(生駒一正様より)あったので、私(佐藤掃部助)から連絡する。
【史料2】をみると、末尾宛先に「白峯寺院主別名尊師」とあります。ここからは別名が白峯寺院主であったことが分かります。そして生駒一正は、寺領の寄進と同時に、これまで通り別名を院主として認め、寺領の知行や寺物の管理を行うよう、有力家臣である佐藤掃部助を通じて命じています。
史料3 佐藤掃部助書状34
己上
しろミね山中はやし卜大門卜申内、谷中竹木一切令停止候以来少も伐取候者きゝ立次第可成御成敗候、近日殿様御判可給候へ共、御上洛之事候間、御下向次第御判可給候、猶寺中坊主中以上二可被申候、恐々謹言
慶六 卯月十三日             掃部 (花押)
本四大夫殿
太郎右衛門殿
次郎左衛門殿
助兵衛殿
意訳変換しておくと
己上
白峰山中の大門内側の谷中の竹木については、一切の伐採禁止を命じていがこれを守らずに伐採するものがいる。今後は、見つけ次第に成敗する。(生駒一正)殿様が御判断することではあるが、今は、上洛中で不在であるので、帰国次第に判断を仰ぐ次第である。なお白峰の寺中の坊主たちにも以下のことは連絡済みである。、恐々謹言
慶六                佐藤掃部(花押)
卯月十三日                     
本四大夫殿
太郎右衛門殿
次郎左衛門殿
助兵衛殿
【史料3】からわかることは
①先ほども出てきた生駒藩の重臣佐藤掃部助が白峯山中の林中の「大門」から内の「谷中」での、竹木の刈り取りの停止を再度確認し、順守することを命じている。
②あて先は周辺の村の有力者4名になっている。
③「(白峰)寺中坊主中以上二可被申候」とあり、白峰寺や洞林院の名前は出てこない。
④寺中坊主中とは、白峰全体の子院を指しているように思えること
この文書が出された背景を推測すると次のようになります。
従来から白峰寺山中や大門の内側に里の村々の人々が入り込んで、木材や下草の伐採や採取を行っていた。それに対して、白峰寺の方から宗教的な聖地であるので禁足地としてほしいという要望が生駒藩に出さた。それを受けて生駒藩は出入禁止令を出すが、村人はそれを守ろうとしない。そこで再度、白峰寺から厳禁令を出してほしい請願があった。それを受けて、禁足地へ入るものは成敗するという厳禁令が村々の指導者に出された。

【史料4】佐藤掃部助書状,35
己上
御寺五拾石之百姓郡役外二何二も一切公事仕間敷候、少も仕候者、其百姓曲事二可仕者也、
慶六                         掃部助
卯十三日                       (花押)
しろミね寺
百姓中
意訳変換しておくと
己上
白峰寺の50石の寺領内の百姓については、郡役以外には一切の公事を負担させないので、百姓の一切の紛争を禁止する、
慶六                         掃部助
卯十三日                       (花押)
白峰寺
百姓中

ここでは、白峯寺領の百姓に特権を与えるとともに、一切の紛争の禁上を命じています。
この他にも、年未詳の文書ながら、宛先を別名とするものが2通あります。この中で研究者が注目するのは[三左馬書状]の宛先が「松之別名様」となっていることです。「松之」とは、元禄8年(1695)の白峯寺末寺荒地書上に出てくる「松之坊」のことのようです。そうだとすると別名は、もともとは松之坊を拠点に活動していた僧侶で、その後に洞林院に移ったことがうかがえます。または、松之坊が、洞林院を継承した子院だった可能性もあります。
 以上のような文書からは、次のようなことが分かります。
①慶長6年に生駒一正が白峯寺の別名に対して寺領の寄進など保護を加えていたこと
②この時期の白峯寺では本堂・千手院の再興といった大きな課題に直面していたこと
③一正の有力家臣・佐藤掃部助が白峯寺院主の洞林院別名とともにその再興を図ろうとしたこと
④洞林院の別名は、院主の正当性を一正に保障されることにより、さらに強固にしたこと
その後の慶長9(1604)年に、佐藤掃部助と洞林院別名の手によって千手院の再興が実現します。このことを記す棟札には周辺地域の人々の名前も見え、多くの人々の勧進奉加があったことがうかがえます。さらに3年後の慶長12年には観音堂造立のため、讃岐11の郡から計53石の勧進を行うことが白峯寺に伝えられています。研究者が注目するのは、この段階で生駒藩の主導による勧進・造営体制へと変化していることです。それが可能となったのは、生駒氏が院主洞林院を直接的に掌握していたことが背景にあると研究者は考えています。そのキーマンが別名だったようです。別名は生駒氏の支援を受けながら地域有力者も巻き込み、白峯寺の観音堂造立の勧進を成功させます。これは民衆に生駒氏をあらたな公権力として、印象づけるには格好のモニュメントにもなります。生駒藩は治世安定を目に見える形で示すために、有力寺社を保護支援して堂宇の再興を行っていました。白峰寺だけではなかったのです。金毘羅大権現も弥谷寺も伽藍整備が行われていました。このような中で白峯寺の観音堂勧進に見せた勧進手腕を見て、生駒藩は別名に弥谷寺を兼帯させたと私は考えています。
 こうして生駒藩からの強い信頼を得て、観音堂(本堂)復興を成し遂げた別名の山内での力は大きくなります。同時に、洞林院は他の子院を圧倒するようになります。洞林院の復興とその後の成長は別名の力に依るところが多いとしておきます。

元禄2年(1689)に、寂本が著した『四国偏礼霊場記』の挿図を見てみましょう。
白峯寺絵図 四国遍礼霊場記2
白峰寺 四国遍礼霊場記(1689年)
上図の左ページの建物配置は、太子堂が現在地に移動した以外には大きな変化はないようです。右ページからは次のようなことが分かります。
①現在の本坊には円福寺があり、洞林院は本堂の東側にあったこと。
②洞林院のほかに円福寺や一乗坊などが描かれ、江戸時代前期にも白峯寺に複数の子院があったこと


次に江戸時代になって中世の白峯寺境内を描いたとされる「白峰寺古図」を見てみましょう。
白峯寺 白峯寺古図(地名入り)
白峰寺古図
中世の白峰山を描いたというこの絵に描かれるのは洞林院だけです。伽藍の間には数多くの屋根が見え、他の子院があるように見えます。しかし、洞林院との間に明らかに「格差」が付けられています。研究者は次のように述べています。
「何がどのように描かれているか(あるいは描かれていないか)を探り、景観年代や制作目的についても意識しながら読み解く」

という視点からすると、この絵の作成意図には、次のようなねらいがあったと研究者は指摘します。
①山上にある他の子院を略して洞林院だけを描くことで、
②洞林院の由緒を目に見える形で伝え、寺中における優位性を示そうとする意図のもとに描かれた
さらに推察を加えるとすれば、そのような主張が必要であった時期に制作されたと考えられます。そのような時期とは、いつだったのでしょうか? 
  洞林院は戦国時代末期に一時衰退しますが、その後に再興したことは見えてきたとおりです。その際に、洞林院の由緒を示すための文書や絵図が作成されたようです。白峯寺古図には、復興された洞林院の「由緒」を見る人に視覚的にイメージさせる力があります。制作意図もその辺にありそうです。

白峯寺本坊 弘化4年(1847)金毘羅参詣名所圖會:

金毘羅参詣名所図会(1847年)道林寺(洞林院)が白峰寺本坊として現在地に描かれている。その奧には明治まであった子院がいくつか見える

以上をまとめておきます。
①中世に21あった子院の内で、洞林院は15世紀後半には白峰寺に肩を並べる大きな存在となっていた。
②しかし、その後の戦乱の中で洞林院は一時的に退転した
③それが復興されるのが16世紀末のことである。
④洞林院院主別名は、生駒藩の支援を受け白峯寺観音堂(本堂)の再建勧進を行い、藩主の信頼を得た
⑤別名は、弥谷寺の兼帯をまかされ、その復興勧進活動にも関わることなる。
⑥藩主生駒一正の信頼を得た別名の山内での権勢は高まり、同時に洞林院の力も大きくなった。
⑦以後近世は、洞林院を中心に白峯寺は運営されていくことになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。」
参考文献
  上野 進 中世における白峯寺の構造  調査報告書2 2013年 香川県教育委員会
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P1150700
白峯寺の頓證殿
白峰寺の紫陽花が見頃ですよと教えていただいて、花見ついでに境内や奥の院の毘沙門窟を歩いてきました。境内に咲き誇る紫陽花は見事なもので、古い堂宇を引き立てていました。ところで紫陽花の背後の堂宇に近づいて眺めていると、どれもが「重要文化財」と書かれています。白峰寺に重要文化財の建物がこんなにあったのかなと不思議に思っていると、2016年に白峰寺の7つの堂宇が国の重要文化財に一括して指定されていたようです。何も知りませんでした。お恥ずかしい話です。それらの重要文化財の縁側に腰を下ろして、紫陽花を眺めながら白峯寺の報告書を読みました。

P1150677
白峯寺の柏葉紫陽花
訪れる人も少なく、ヤブ蚊に悩まされることもなく至高の時間を頂きました。その時に読んだ報告書の内容を、私なりに要約すると次のようになります。

 白峰寺や根香寺がある五色台は、国分寺背後の霊山で、そこは三豊の七宝山のように修験者たちの「中辺路」の行場ルートがありました。海と山と断崖の窟の行場を結んで行者たちは「行道」と「瞑想」を日夜繰り返します。その行場の近くに山林修行者がお堂や庵が姿を現します。行場の一つである稚児の瀧の近くに建てられたお堂が白峯寺の起源だと研究者は考えています。白峰寺は、行場に造られたお堂から発展してきたお寺なのです。これは根香寺も同じです。

今回は中世の白峯寺が、どんな僧侶たちの集団によって構成されていたのかを見ていくことにします。
比較のために以前にお話しした善通寺の僧侶集団のことを見ておきましょう。中世の善通寺には次のような僧侶達がいました。
①二人の学頭
②御影堂の六人の三味僧
③金堂・法華堂に所属する18人の供僧
④三堂の預僧3人・承仕1人
このうち②の三味僧や③の供僧は寺僧で、評議とよばれる寺院の内意志決定機関の構成メンバー(衆中)でした。その下には、堂預や承仕などの下級僧侶もいたようです。善通寺の構成メンバーは約30名前後になります。

白峯寺 構成メンバーE
大寺院の構成メンバー 
寺院の中心層は、学僧や修行僧たちです。
しかし、彼らに仕える堂衆(どうしゅう)・夏衆(げしゅう)・花摘(はなつみ)・久住者(くじゅうさ)などと呼ばれた存在や、堂社や僧坊の雑役に従う承仕(しょうじ)公人(くにん)・堂童子(どうどうじ)、さらにその外側には、仏神を奉じる神人やその堂社に身を寄せる寄人や行人たちが数多くいたようです。特に経済力があり寺勢が強い寺には寄人や行人が集まってきます。また武力装置として僧兵も養うようになっていきます。

   弥谷寺の「中世の構成員」も見ておきましょう。
  鎌倉時代の初めに讃岐に流刑となった道範から弥谷寺の中世の様子が見えてきます。道範は高野山で高位にあった僧侶なので、善通寺が彼を招き入れます。道範は、善通寺で庵を結んで8年ほど留まり、案外自由に各地を巡っています。それが『南海流浪記』に記されています。道範は、高野山で覚鑁(かくはん)がはじめた真言念仏を引き継ぎ、盛んにした人物でもありました。彼は、讃岐にも阿弥陀信仰を伝えた人物でもあるようです。道範が「弥谷上人」からの求めで著した『行法肝葉抄』(宝治2年(1248)の下巻奥書に、次のような記述があります。
宝治二年二月二十一日於善通寺大師御誕生所之草 庵抄記之。是依弥谷ノ上人之勧進。以諸口決之意ヲ楚忽二注之。
書籍不随身之問不能委細者也。若及後哲ノ披覧可再治之。
是偏為蒙順生引摂拭 満七十老眼自右筆而已。      
                阿開梨道範記之
意訳変換しておくと
宝治二(1248)年2月21日、善通寺の弘法大師御誕生所の庵で書き終える。この書は弥谷ノ上人の勧進でできたものである。(弥谷上人からの)依頼を受けて、すぐさまに書き上げたもので、流刑の身で手元に参考書籍などがないために、細部については落ち度があるかもしれない。もし後日に誤りが見つかれば修正したい。是偏為蒙順生引摂拭 満七十老眼自右筆而已。      
                阿開梨道範記之
 ここで研究者が注目するのは「弥谷の上人の勧進によってこの書が著された」と記されている箇所です。普通は、上人とは高僧に対する尊称です。しかし、ここでは、末端の堂社で生活する「寄人」や「行人」たちを「弥谷ノ上人」と記していると研究者は指摘します。また「弥谷寺」ではなく「弥谷」であることにも注意を促します。ここからは、行人とも聖とも呼ばれる「弥谷ノ上人」が拠点とする弥谷は、この時点では行場が中心で、善通寺のような組織形態を整えた「寺」ではなかったと研究者は考えています。また、この時点では、弥谷寺と善通寺は本末関係もありません。善通寺と曼荼羅寺のような一体性もありません。弥谷(寺)は、善通寺の「別所」であり、行場でした。そこに阿弥陀=浄土信仰の「寄人」や「行人」たちがいたのです。
行人層は、寺領によって日々の糧を保障されている上部僧の大衆・衆徒とは違って、自分の生活は自分で賄わなければなりません。
そのため托鉢行を余儀なくされたでしょう。その結果、地域の人々との交流も増え、行基や空也のように、橋を架け、水を引くなどの土木・治水活動にも尽力します。さらに治病にも貢献し、死者の供養にも積極的に関わっていったようです。そうした活動の中で、庶民に中に入り込み、わかりやすい言葉で口称念仏を広めていきます。高野山が時衆念仏で阿弥陀信仰に染まった時期には、高野聖たちによって弥谷寺や白峯寺も阿弥陀信仰の布教拠点となります。それは、現在でも白峰寺境内に阿弥陀堂があることからもうかがえます。

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白峯寺阿弥陀堂
 このように地方の有力寺院の場合、学侶(学問僧)・行人・聖などで構成されていたようです。まず学侶(学頭)については、寺院の僧侶身分の中で最も上位に立つ存在で、中心的な位置を占めていました。学業に専念する狭義の学頭がいたようです。しかし、白峰寺や根来寺では、学問僧の影は薄いようです。
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白峯寺薬師堂
白峯寺で多くを占めたとみられるのは「衆徒」です。
『白峯寺縁起』に「衆徒中に信澄阿閣梨といふもの」が登場します。また元禄8年(1695)の「白峯寺末寺荒地書上」には、中世まで活動していたと考えられる「白峯寺山中衆徒十一ケ寺」が書き上げられています。この他、天正14年(1586)の仙石秀久寄進状の宛所は「しろみね衆徒中」となっています。一般には武装する衆徒も多かったようです。当時の情勢からして、白峯寺が僧兵的な集団を抱え込んでいた可能性は充分にあることは以前にもお話ししました。

白峯寺縁起 巻末
白峯寺縁起 巻末部分

13世紀半ばの「白峯寺勤行次第」には、次のようなことが書かれています。
①浄土教の京都二尊院の湛空上人の名が出てくること
②勤行次第の筆者である薩摩房重親は、吉野(蔵王権現)系の修験者であること
③勤行次第は、修験者の重親が白峯寺の洞林院代(住持)に充てたものであること
 ここからは、次のような事が分かります。
①子院の多くが高野聖などの念仏聖の活動の拠点となっていたこと
②熊野行者の流れをくむ修験者たちが子院の主となっていたこと
③修行に集まってくる廻国修行者を統括する中核寺院が洞林院であったこと
 鎌倉時代後期以降の白峯寺には、真言、天台をはじめ浄土教系や高野系や熊野系、さらには六十六部などの様々の修行者が織り混じって集住していたと坂出市史は記します。その規模は、弥谷寺などと並んで讃岐国内で最大の宗教拠点でもあったようです。
 それぞれの子院では、衆徒に対して奉仕的な行を行う行人らが共同生活をしていたと研究者は考えています。
白峯寺における行人の実態は、よくわかりません。おそらく山伏として活動し、下僧集団を形成したと研究者は考えています。たとえば若狭国の有力寺院である中世の明通寺では、寺僧は「顕・密・修験」を兼ねていました。白峯寺における衆徒の中にも修験に通じ、山岳修行を行っていた人々もいたはずで、集団としての区分も曖味であったかもしれません。彼らにとっては、真言・天台の別はあまり関係なかったかもしれません。

白峯寺 境内建物変遷表2
白峰寺境内実測図
上の白峰寺の実測図を見ても、数多くの子院跡があったことがうかがえます。
学侶の代表として、一山全体を統括したのが「院主」です。
先ほど見た高野山の高僧・道範は、讃岐での8年間の滞在記録を「南海流浪記」として残しています。この日記の中で白峰寺が登場する部分は、建長元年(1249)8月に道範が流罪を許されて高野山へ還る途上のことです。そこには、善通寺から白峯寺へ移り、白峯寺院主の静円(備後阿閣梨・護念房)の求めに応じて伝法しています。その後、本堂修理供養の曼茶羅供で大阿闊梨を勤めたことが記されています。
 ここからは次のようなことが分かります。
①静円が院主であったことから、当時の白峯寺が院主を中心に、子院連合で運営されたこと
②院主静円は、高野山の高僧・道範から伝法されているので高野山系の真言僧侶であったこと。
また室町期の応永21年(1414)に後小松上皇が廟所・頓證寺の額を収めていますが、その添書は「院主御坊」宛になています。ここからも中世の白峯寺は、院主を中心とした体制であったことが裏付けられます。比較のために若狭国の明通寺を見てみると、戒薦によって一和尚から五和尚までの位階があり、一和尚が院主に補任されることとなっています。暦応5年(1342)の白峯寺の記録にも「一和尚法印大和尚位頼弁」と見えます。ここからは、戒蕩によって院主が補任されていたことが裏付けられます。
 中央の顕密寺院では三綱や政所などの運営組織がつくられ、寺務を担っていました。しかし、中世の白峯寺の場合は、そうした組織は史料には出てこないようです。若狭国の明通寺の場合などは、年行事が寺僧から選ばれ、一年交代で一山の寺務を行ったのではないかと研究者は考えています。このような運営が白峯寺でも行われていたことが推察できます。なお、江戸時代末期の納経帳には「白峯寺政所」の記述がありますが、これが中世までさかのぼるとは研究者は考えていないようです。

白峯寺古図拡大1
白峯山古図(部分)

聖については「白峯山古図」に、阿弥陀堂や別所が見えているので、聖集団が存在したようです。
発掘調査でも、現在の境内からはやや離れた山の中に別所があったことが分かっています。ここからも白峯寺の周縁部に聖集団がいたことが裏付けられます。

白峯寺 別所
白峰山古図に描かれた別所 
白峯寺には中世の連歌作品が「崇徳院法楽連歌」として残されています。
期間は天文17年(1548)から天正4年(1576)までの約30年間のものです。これについて研究者は、この連歌会は、白峯寺僧らによって運営されていたと指摘しています。この連歌会によく登場する「良宥、宥興、宗盛、宗意、宗繁、増盛、宗伝、宗源、惣代、増鍵、勢均」です。また永禄(1558~70)ころ以降に登場する者には「恰白、宗任、増厳、宗快、増徳、増政、宋有」らがいます。名前を見ると「宥」「宗」「増」などの字が多いことに気がつきます。「これらは多分白峯寺かもしくは近隣の僧侶や神官たちであったのではないか」と研究者は考えています。その裏付けは以下の通りです。
 戦国期の白峯寺については、「宗」のつく人物として永禄10年(1567)の「岡之坊宗林」が『讃岐国名勝図会』の「大鼓筒」の筒内銘で確認できます。ここには「院主宗政」や「再興洞林院代宝積院阿閣梨宋有」の名もあります。このほか慶長9年(1604)の棟札には、一乗坊宥延・花厳坊増琳・円福寺増快・西光寺宗円・円乗坊宥春・南之坊宗伝・宝林坊増円が名を連ねています。「宥」「宗」「増」を通字とした白峯寺僧がいたことが分かります。ここからは戦国期の「崇徳院法楽連歌」は白峯寺の僧やその周辺にいた有力者人たちによって担われ、彼らに支えられて戦国期の白峯寺は綾北平野の文化活動の拠点となっていたと研究者は考えています。

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白峯寺の「別所」の現在位置
 歌人として著名な西行も「本職」は高野聖でした。
讃岐では白峯御陵を訪ねた後は、善通寺の我拝師山の捨身ケ岳で修行を3年行っています。連歌師として活躍する高野聖が多かったことは、いろいろな史料から分かります。この時代の白峰寺周辺には、連歌会に参加する僧侶が何人もいて、彼らが子院の居住者であったことが推察できます。ここからも中世の白峯寺に多数の子院があったことが事実であったことが裏付けられます。さらに、香西氏の一族が定期的に参加する連歌会が行われていた史料もあります。ここからは、香西氏などの有力者を保護者としていたこともうかがえます。

中世には活発な海上交通などを背景として讃岐でも熊野信仰が定着し、熊野参詣者(檀那)も増えます。
文明16(1484)年の熊野那智大社の檀那売券に「福江之玉泉坊」があります。ここからは福江(坂出市)には熊野参詣へ赴く旦那がいたことが分かります。さらに天文22(1553)年の「中国之檀那帳」には、旦那がいた地域として「賀茂 氏部 山本 林田 松山」の「綾北条五郷」があげられています。このように中世後期には、綾北平野の有力者が熊野参詣を行っていたことが分かります。熊野詣では、個人参拝ではなく先達に率いられて行く集団参拝でした。つまり、それを率いていく先達(熊野行者)が周辺部にいたことになります。
 文明5(1473)年には、紀州熊野那智社の御師光勝房が、相伝してきた讃岐国の旦那権・白峯寺先達権を銭18貫文、年季15年で花蔵院へ売り渡している記録があります。ここからは、白峰寺の子院の中には、熊野詣での先達を務める行者がいたことが分かります。熊野行者をはじめ、多くの廻国する聖や行者らが白峯寺を拠点に活動していたことが、ここからも裏付けられます。
 このように中世の白峯寺は、古代に引き続いて山岳仏教系の寺院として展開していたようです。さらに近世になっても行者堂が再建立されています。白峯寺は山岳信仰の拠点として長らく維持されたといえます。
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白峯寺行者堂
 白峰寺の「恒例八講人数帳」及び「恒例如法経結番帳」には、戦国期の白峯寺には次のような21の坊があったと記します。

持善坊・成就坊・成実坊・法花坊。新坊・北之坊(喜多坊)・円乗坊・西之坊・宝蔵寺・一輪坊・花厳坊・洞林院・岡之坊・宝積院・普門坊・一乗坊・明実坊・宝光坊・実語坊・千花坊・谷之坊

これらの子院は、どのように形成されたのでしょうか。
研究は、『白峯寺縁起』(応永13年(1406)の次の部分に注目します。
「建長四年十一月の比、唐本の法華経一部をくりまいらせさせ給、翌年松山郷を寄られ、御菩提のため十二時不断の法花の法を始をかれ二十一口の供僧勅請として、各二十一通の御手印の補任を下さる、(中略)又六年より法華会を行はる」

意訳変換しておくと
「建長4(1252)年11月頃に、唐本の法華経一部が寄贈され、翌年には松山郷が寄進された。これ以後、御菩提のため不断法花の法が開始され、21人の供僧勅請として、各21通の御手印の補任が下された。(中略)又六年からは法華会が行われるようになった。

ここからは、室町時代中期の白峯寺では建長4年(1252)頃から法華経を講説する法会が行われるようになり、それに伴って21の供僧が置かれたとする認識があったことが分かります。例えば京都鳥羽の安楽寿院の場合を見てみると、天皇の菩提を弔う供僧がそのままその寺院を構成する院家となって、近世まで受け継がれています。天皇の墓を核とした寺院では、こうした寺院組織の形成と継承が行われていたようです。
 また、元禄8年(1695)の「白峯寺末寺荒地書上」にも荒廃する以前の状況として「白峯寺山中衆徒廿一ケ寺」が書き上げられています。そこには、18か寺が荒廃した結果、残っているのは3か寺のみと記されます。棟札などから考えると、江戸時代の白峯寺には洞林院・真蔵院(新坊力)・一乗坊・遍照院(北之坊)・円福寺(円乗坊)・宝積院が存続していて、洞林院がその中心的な位置を占めるようになっていたことが分かります。

以上をまとめておきます。
①古代の五色台は霊場で、各地に行場が点在し、それを結ぶ「中辺路」ルートが形成されていた。
②各行場には行者たちが集まり、次第にお堂が姿を見せ、白峯寺の原型が姿を見せるようになる。
③中世白峰寺は、21の子院の連合体であり、そこには行者や聖たちが拠点とした別所や阿弥陀堂もあった。
④彼らは白峯寺を拠点に周辺の郷村への念仏や浄土阿弥陀信仰を広め、有力者の支持を受けるようになった。
⑤16世紀の連歌会史料からは、地域の有力者を集めて拓かれた連歌会を取り仕切っているのは、白峰寺を拠点とする聖たちで、彼らが地域の文化的な担い手であったことがうかがえる。
⑥戦国時代に荒廃した白峯寺の復興を担ったのも、地域の有力者の支持を得ていた聖たちで、彼らは勧進僧としての役割をいかんなく発揮している。
⑦そのような子院の中で、台頭してくるのが洞林院である。
洞林院については次回に見ることにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「上野 進 中世における白峯寺の構造  調査報告書2 2013年 香川県教育委員会」です
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 神谷神社があるのは、阿野郡松山郷五ヵ村のひとつであった旧神谷村です。白峰山西麓の谷筋にあり、山裾の集落から小川沿いに東に延びる参道を登っていくと境内が現れます。社殿の後には、影向石と呼ばれている巨石が磐座として祀られて、古代の信仰対象だったことがうかがえます。この磐座に対する信仰が、この神社の起源なのでしょう。
  今回は、神谷神社について見ていくことにします。テキストは坂出市史 中世編 神谷神社の立地と沿革  206P」です

神谷神社 由緒書

 神谷神社の祭神は伊弊諾尊・伊弊再尊の子で火の神とされる火結命(ほむすびのみこと)で、その孫でやはり火の神とされる奥津彦命・奥津姫命を併せ祀ります。相殿には、春日四神(経津主神、武甕槌神、天児屋根命、姫大神)が祀られています。磐座信仰+火結命(ほむすびのみこと)+春日四神と合祀されるようになって、五社神社と地元では呼ばれてきたようです。

 神谷神社の創始は分かりません。社伝によると
「神谷の渓谷にあった深い渕から自然に湧き出るような一人の僧が現われ渕の傍にあった大岩の上に祭壇を設け・・たのが神谷大明神の創始と謂われているという。
その後、弘仁3年(812)空海の叔父・阿刀大足が、春日四柱を相殿に勧請して再興したという。・・・・
なんだかよく分からない話です。
 阿刀大足は、以前にお話したように、摂津に基盤を持つ阿刀氏で、空海の母の兄弟になります。真魚(空海幼名)からすると叔父で、空海の「英才教育担当者」とされる学識豊かな知識人であり中央官人ですが、讃岐への来歴はありません。「阿刀大足勧進」という伝承自体が「弘法大師空海伝説」とも云えます。あくまで伝説で、すぐには信じられません。
神谷神社が正史で確認できるのは、三代実録の次の叙位記録になるようです。
①貞観七(865)年に従五位上、
②貞親十七(875)年に正五位下
また、延喜式にも讃岐式内社24社の中の1社として、阿野郡の3社のひとつとして、城山神社、鴨神社と並んで名前があります。ここからは、9世紀後半までは、有力豪族の保護を受けて国庁の管理下にも置かれた神社があったことがうかがえます。

実は「阿刀大足勧進」を証明する史料があるとされてきました。それを見てみましょう。
神谷神社棟札1460年

神谷神社に残る棟札の中で一番古い年紀を持つ棟札(写)を見てみましょう。表が寛正元(1460)年で、「奉再興神谷大明神御社一宇」とあります。これに問題はありません。問題なのは裏の「弘仁三(812)年 河埜氏勧請」という一行です。 阿刀ではなく「河埜氏」とあることは押さえておきます。阿刀氏も河野氏と同じく物部氏を祖先とする同族なので、このように記されたと近世の史書はしてきました。
 この棟札の裏書については「江戸時代になって作成されたもの」と研究者は考えているようです。つまり、「弘仁三年に阿刀大足による勧請」を伝えるために、江戸時代になって書かれた(写された)ものなのです。しかし、「写」であっても表の「奉再興神谷大明神御社一宇」や、寛正元(1460)年の修理棟札は、信じることができるようです。
天文九(1540)年の棟札は二枚あります。
神谷神社 修理棟札1540年
地域の氏子等の奉加によって本殿の屋根葺き替えを行ったときのものです。松元氏が神官の筆頭者になっています。松元氏は神官であると同時に、有力な国人勢力であったようで、幕末の讃岐国名勝図会にも神谷神社のすぐそばに大きな屋敷が描かれています。

神谷神社棟札2枚目

永禄11(1568)年の棟札も二枚あります。本殿屋根の葺き替えで、前回から28年経っているので、30年おきに葺き替えが行われていたようです。この時には鍛冶宗次の名が見え、屋根の構造的な部分に手が入れられたことがうかがえます。さらに脇之坊増有とあるので、本坊以外にも社僧が居たことが分かります。

その後の神谷神社の沿革を伝える史料はありません。しかし、鎌倉時代のものとされる遺品が隣接する宝物館に保管されていますので見ておきましょう。
神谷神社随身像
①阿吽一対の木造随身立像(重要文化財)

坂出市史は、この随身立像を次のように紹介しています
像高 阿形像125、2㎝  吽形像 125、6㎝
建保七(1219)年建立の国宝指定の本殿と同じ頃、鎌倉時代中期の13世紀に制作されたとされる。両手の肘を張つて手を前に出す姿勢はきわめてめずらしい。制作紀年銘のある随身立像では最古の、岡山県津山市高野神社の一対(応保一年銘)に次いで古い。
 後世の床几に坐る形式の随身像にくらべると古制を示している。両像とも、かたいケヤキ材を用い、頭部を頸のあたりで輪切りにし、襟にみられる棚状の矧ぎ面にのせて寄本造りの形をとっている。これが高家神社のものと同じ技法である。技巧的には阿形像の方が複雑に仕上げられている

「白峯寺古図」に見えるとおり、神谷神社は、神谷明神として多くの付属建造物が描かれています。 本殿とおもえる妻入り社殿の後には、立派な三重塔が見えます。その前方には、平入りの社僧の坊舎と随身門が描かれています。この随身立像は、ここに描かれている随身門に納められていたのかもしれません。
神谷神社の面

②舞楽面二面(市指定有形文化財)
③大般若波羅密多経(市指定有形文化財)
数多くあった宝物も、元禄十一(1698)年に著された「神谷五社縁起」(『綾・松山市』所載)には中世の兵乱により多くが散逸していた様子が記されています。

神谷神社の境内には、江戸時代後半の年号が刻まれた次のような石造物があります
①天保9(1838)年 手水石
②弘化三(1846)年  石階耳石上に立つ親柱に
③嘉永2(1849)年 二の鳥居
④元治元(1864)年 狛犬と燈籠
⑤慶応4(1868)年  百度石
⑥明治28(1895)  玉垣設置
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①天保9(1838)年 手水石
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③嘉永2(1849)年 二の鳥居
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④元治元(1864)年 狛犬と燈籠
これらの石造物が設置されたのは19世紀のことです。江戸時代の後半になって境内は整備され、現在の原型ができたことが分かります。
このような整備が進む中で、明治37(1904)年8月に本殿が特別保護建造物に指定されます。

この時期に整備された神谷明神と別当寺の清瀧寺の様子を描いた絵図が讃岐国名勝図会に載せられています。
神谷神社 讃岐国名勝図会

神谷川沿の突き当たりの谷に鎮座する神谷神社の姿が右手に見えます。一番奥が国宝の本殿です。社人を務める松本氏の屋敷も描かれています。神谷神社と同時に、神宮寺である青竜寺も大きな構えを見せています。青竜寺の以前には、清瀧寺という大きな神宮寺があったようです。これは後で見ることにして、国宝に指定されている本殿を見ておくことにします。

神谷神社本殿3
神谷神社本殿
大正の大改修の際に発見された棟本の墨書銘に、次のように記されています。
正一位神谷大明神御費殿
建保七年歳次己如二月十日丁未月始之
惣官散位刑部宿祢正長
ここからは、承久元(1219・建保七)年に、本殿が建立されたことが分かります。
また先ほどの棟札からは、本殿の葺替えが以下のように行われたことが分かります。
①寛正元(1460)年の棟札(写)
②天文9(1540)年
③永禄11(1556)年
④万治3(1660)年
⑤宝暦9(1759)年
 棟札の年紀からは、約20年ごとに葺替が行われていたことがうかがえます。そして、日露戦争が始まった明治37(1904)年8月には、古社寺保存法に定める特別保護建造物に指定されています。その時の指定理由には、次のように記されています。
「再建年代明カナラサレトモ、其形式ヨリ判スレハ鎌倉初期二属スル者ノ如シ、即我国現存神社中最古キ者ノ一ナリ」
この指定を受けて約百年前の大正6(1917)年から翌年にかけて、総事業費491、5万円で解体修理が行われます。この大正修理の際に、今まで見てきた棟木銘と棟札が発見されて建立年代やその後の修理の沿革が明らかとなりました。
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この大正の大修理では、できりだけ建築当初の姿にもどす方針が打ち出されて、次のような現状変更が行われています。
①向拝柱を旧位貰に戻すこと、
②向拝打越垂本を復原すること
③発見された断片から垂本は全て反り付きとすること
④縁回り諸材の寸法と位置を復原すること、
⑤箱棟鋼板被覆を取り去り渋墨塗りに復原すること
(大正八年二月「現状変更説明」による)
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それ以後の沿革は以下の通りです。
昭和22(1947)戦後の文化財保護法(昭和22年制定)で重要文化財指定
昭和27(1952)屋根葺替
昭和30(1955)2月「現存の三間社流造の最古に属する例」として国宝指定
神谷神社本殿2

神谷神社本殿は、「流造神社本殿の最古に属する例」として早くから知られてきたようです。
流造は、伊勢神宮正殿に代表される桁行一間・梁間二間の身舎(もや)に切妻造の屋根を架けた平入の本殿から発展した古い形式と考えられるようです。機能的には正面の本階や拝所を覆うので、どこが正面か分からなくなるおそれがある建物です。そのために建物の正面性を主張するための工夫が凝らされることになります。その工夫が身舎の前に庇を設けて切妻屋根の前流れを前方に延長させる方法です。
 神谷神社 宇治上神社本殿(平安後期)
京都府宇治市の宇治上神社本殿(平安後期)
神谷神社の流造本殿は、京都府宇治市の宇治上神社本殿(平安後期)に次いで古いものだとされています。宇治上神社本殿は、一間社流造の内殿3棟を一連の覆屋に納め、左右の一棟は片側面と背面及び屋根を覆屋と共用しています。これは変則的な形式です。これに対して、流造の規範的な形式は正面の柱間を三間とする三間社で、神谷神社本殿は流造本殿の本流の姿を良く留めているようです。

神谷神社本殿1
神谷神社本殿
①縁を正側三面とし脇障子を備えた正面性の強い構えとして流造の規範的な形式ができあがってていること、
②全体として古代建築に比べて木柄が細いものとなっているものの装飾的要素はまだ少ないこと
③反りの強い破風や庇各部材の面の大きさなどに鎌倉時代初期の趣を伝えていること
④正面は中央間のみを扉口とし脇間を板壁とする閉鎖性の強い構えであること
⑤内部は一室で、頭貫を用いずに柱上に直接舟肘木と桁を載せる古いスタイルをとっている
⑥基壇に礎石建て、庇に組物を使って、妻梁に虹梁型を用いるという仏教的な影響を受けている
以上から「古いスタイルをとりながらも仏教の影響を受けた中世的な新たな展開」の建物と評しています。
 神谷神社本殿 讃岐国名勝図会
讃岐国名勝図会に描かれた神谷神社本殿

最後に、神谷神社の性格について考えておきましょう
神谷神社を考える際に避けては通れないのが、この谷の上にある白峯寺の存在です。白峯寺は、国分寺背後の山岳仏教の修験道(山伏)の行場として開かれ、五色山全体が修行の山でした。その行場に開かれたのが白峰寺や根来寺です。これらの行場は、小辺路ルートとして結ばれ、それが後の四国遍路の「へんろ道」として残ります。
白峯寺古図 周辺天皇社
白峯寺古図

 白峯寺古図を見ると、⑤神谷神社の谷から白峯寺への参拝道が見えます。これも修験者が開いた「小辺路」です。つまり、神谷神社は、白峰寺の行場のひとつとして開かれたと私は考えています。
中世の白峯寺は以前にお話したように「山岳信仰 + 熊野信仰 + 崇徳上皇信仰 + 天狗信仰 + 念仏行者 + 弘法大師信仰熊野」などの修験者や行者・高野聖・六十六部などの聖地で、多くの行者がやってきて住み着いていました。そのような白峰寺の中にひとつのサテライトが神谷神社であったと私は考えています。
 ちなみに神谷神社も明治の神仏分離までは、「神谷大明神」で、神仏混淆の宗教施設で管理は別当寺の清瀧寺の社僧がおこなっていました。
神谷神社 讃岐国名勝図会3
白峯寺古図拡大 神谷神社の背後の三重塔
『白峯山古図』には神谷神社の背後に三重塔が垣間見えます。これは清瀧寺のもので、この塔からも相当大きな寺院だったことがうかがえます。中世の神谷神社が神仏混淆で清瀧寺の社僧の管理下にあったことを押さえておきます。

白峯寺大門 青海天皇社 神谷神社
右下が神谷神社、左下が高屋神社 上が白峯寺大門

神谷集落には額(楽)屋敷という地名が残ります。 ここには、白峯寺の楽人が住居していたという伝承があります。
讃岐の古代の地方楽所としては、善通寺が「国楽所」を担ってきたようです。その後、観音寺などの有力寺社でも、舞楽はじめ舞曲芸能が盛行するに従い設置されます。白峯寺でも「楽所」が、寺領の松山荘内にある神谷周辺に置かれていた可能性があるようです。そうだとすればここからも、神谷明神と白峯寺との関係の深さがうかがえます。

神谷大明神石塔(石造多層塔残欠)
神谷神社の凝灰岩製層塔
 神谷神社の斎庭北東隅には鎌倉時代後期の一対の凝灰岩製層塔があります。
この塔は、もともとは神宮寺であった清瀧寺のものと伝えられます。清瀧寺がいつの頃に姿を消したのかは分かりません。さきほど見たように白峯寺古図には、神谷神社の奥に三重塔が描かれています。これが清瀧寺だったようです。清瀧寺の退転後に現在地に清龍(立)寺が創建されます。

神谷神社 青竜寺 讃岐国名勝図会
青竜(立)寺(讃岐国名勝図会)
青竜寺には阿弥陀如来立像(県指定有形文化財)が安置されています。この胸部内面に文永七(1270)年の墨書銘を記されています。『綾北問尋抄』(宝暦五(1755)年刊)に「五社(=神谷神社)の本地仏(中略)安阿弥(=快慶)の作とも云」と記します。ここからは、この仏がもとは神谷明神の本地仏で、清瀧寺の本尊であったと研究者は考えているようです。
神谷神社 清立寺本尊
青立寺の阿弥陀如来立像(県有形文化財)像高 101㎝
 
胸部内側に造像墨書銘「奉造立志者、為慈父悲母往生極楽也、文永七年巳九月七日僧長円敬白」とあるので、鎌倉時代中期文永七(1270))年の制作であることが分かります。
坂出市史は、この阿弥陀さまを、次のように紹介します。
ヒノキ材の寄木造りである。香川県下ではこの期の阿弥陀像は多数あるが、造像年の明確なのは数体である。なお、梶原景紹著『讃岐国名勝図会』に「阿弥陀堂、本尊(古仏、五社明神の本地なり)当庵は、往古五社明神の別当清滝寺といえる寺跡なり、退転の年月末詳、今清立寺はこの寺を再興せしならん」
とあり、本像が、神谷神社の本地仏であったという。先述の『白峯山古図』には、直接、阿弥陀堂は確認できないものの、神谷明神の鳥居の左側に神谷村の集落が描かれており、その中に清滝寺阿弥陀堂と思しき立派な堂合らしき建物が見える。

 かつての清瀧寺については、よく分からないようです。
しかし、清瀧寺の後に出来た清立(滝)寺については、天霧城の香川氏の家臣の亡命先だったという次のような話が伝えられます。天正年間(1573~)、天霧城主香川信景が豊臣秀吉の四国攻めにより敗れ、長宗我部元親の養子親和と共に土佐に亡命します。その落城時に、家臣何某(香川山城守?)が剃髪し、この地に逃げてきて、清瀧寺を再興し堂宇を建てたのが青立寺、後の清立(滝)寺だと云うのです。

尻切れトンボになりますが、以上をまとめておきます
①神谷神社は磐座信仰に始まり、国分寺ー白峰寺ー根来寺の山岳信仰の行場として、「小辺路」修行の行場ネットワークのひとつであった。
②中世の神谷神社は、神仏混淆下にあり清瀧寺の社僧が別当として管理運営に当たっていた。
③清瀧寺は、白峯寺とは「楽所」や「連歌」、人事交流などで密接な関係にあり、三重塔を有する規模の寺社でもあった。
④鎌倉時代の棟木から神谷神社本堂は鎌倉時代の流れ作りのもっとも古い形式を残す本堂であることが分かり国宝に指定されている。
⑤本堂は中止後半以後、氏子達によって屋根の葺き替えが行われ、管理されてきたことが残された棟札からは分かる。
⑥清瀧寺の退転後は、青竜寺が代わって別当寺となったが社人松元氏の力も台頭し、以前のような支配力を発揮することはなかった。
⑦幕末から明治に境内整備が進み、現在のレイアウトがほぼ完成した。
神谷神社における神仏分離については、文献や史料がなく今の私には分かりません。あしからず。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献   坂出市史 中世編 神谷神社の立地と沿革  206P」
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 白峯寺古図は寺伝では、江戸初期に南北朝末年の永徳二(1283)年に焼亡した白峯寺を回顧して、往時の寺観を描いたものとされています。以前にはこの古図で白峯寺伽藍内を見ました。今回は白峯寺の周辺部や荘園を見ていくことにします。テキストは「坂出市史 中世」です。

白峯寺古図 周辺天皇社
白峯山古図
『白峯山古図』には、③稚児ケ瀧の上に①白峯陵や白峰寺の数多くの堂舎が描かれています。本社の右に勅使門があり、そこを出て白峯寺へ向かう道の脇に②御影堂(崇徳院讃岐国御影堂:後の頓証寺)があります。中世には、ここにいくつかの荘園が寄進されます。
 今回注目したいのは、周辺にある天皇社です。
A 稚児ヶ滝の滝壺の左に崇徳天皇(社)があります。これが現在の⑧青海神社です。
B 白峰寺の大門から尾根筋の参道を下りきった場所に、もう一つの崇徳天皇(社)が見えます。これが現在の⑩高家神社です。
これらの二社は、現在も鳥居に「崇徳天皇」の扁額が掲げられています。
高屋神社 崇徳上皇
高屋神社の崇徳天皇扁額

B 尾根筋参道の右には深い谷筋の奥に、神谷明神(神谷神社)が三重塔と共に描かれています。この神社の神殿は国宝ですが、中世は神仏混交で明神を称していたことが分かります。そして、白峯寺山中の子院のひとつであったことがうかがえます。
C 絵図の前面を流れるのが現在の綾川で、その上流に鼓岡があります。ここも、白峯寺が寺領であると主張していた所で、讃岐国府のほとりに当たる場所です。青海・高屋神社の崇徳天皇社と神谷明神、鼓岡は、「白峯寺縁起」に書かれている白峯寺寺領とされる場所です。鼓丘は、明治以降に崇徳院霊場として政治的に整備され、今は鼓丘神社が鎮座していることは以前にお話ししました。
坂出市史には、白峰寺古図と白峰寺縁起に記された白峯寺の寺領荘園群が次のように挙げています。
『白峯寺縁起』に、次の3つの荘園
① 今の青海・河内は治承に御寄進
② 北山本の新庄も文治に頼朝大将の寄附
③ 後嵯峨院(中略)翌(建長五)年松山郷を寄進
「讃岐国白峯寺勤行次第」に5つの荘園
④ 千手院料所松山庄一円
⑤ 千手院供僧分田松山庄内
⑥ 正月修正(会)七日勤行料所西山本新庄
⑦ 毎日大般若(経)一部転読(誦)料所当国新居郷
⑧ 願成就院明実坊修正(会)正月人(勤行)料所松山庄内ヨリ      
これは、そのまま信じることはできませんが、15世紀初頭には白峯寺はこのような寺領の領有意識を持っていたことは分かります。それをもう少し具体的に見てみると・・・・
①の青海(村)、④の松山庄一円、⑤の松山庄内、③の松山庄内、それに③の松山郷を合わせると松山郷全体が白峯寺の寺領荘園になっていたことになります。
①の河内を「阿野郡河内郷」とすると、ここには鼓岡と国府がありました。そこが白峯寺の寺領だったというのは無理があります。国府の諸施設のあった領域以外の土地を、寺領と云っているのでしょうか。このあたりはよく分かりません。
⑦の新居郷は、古代の綾氏の流れをくみ、在庁官人として成長し、鎌倉時代以降鎌倉御家人として栄えた讃岐藤原氏の一族新居氏の本拠です。五色台山上にある平地部分のことと研究者は考えているようです。

福江 西庄

②と⑥は、前回お話ししたように北山本新庄(後の西庄)で、当初は京都の崇徳院御影堂に寄進されていた荘園です。それを白峯寺は押領して寺領とします。
もともと、これらの寺領は『玉葉』建久二(1191)年間閏十二月条にあるように、後鳥羽上皇が崇徳院慰霊のために建立した仏堂である「崇徳院讃岐国御影堂領」に寄進されたことがスタートになります。
 寛文九(1669)年の高松藩の寺社書上「御領分中寺々由来」には、白峯寺の項に「建長年中、高屋村・神谷村為寺領御寄付」とあるので、松山郷内青海・高屋・神谷の「三ヶ庄」は崇徳院讃岐国御影堂領松山荘として存続していたようです。三ヶ庄の名称は、寛永十(1832)年に作成された「讃岐国絵図」にもあり、現在も綾川を取水源にした三ヶ庄用水に名を残しています。

白峯寺古図拡大1
白峯寺古図拡大図 中世には様々な堂舎が立ち並んでいた

  白峰山は、古代から信仰の山で、次のような複合的な性格を持っていました。
①五色山自体が霊山として信仰対象
②五流修験による熊野行者の行場
③高野聖による修験や念仏信仰の行場で拠点霊山
④六十六部などの廻国聖の拠点
⑤四国辺路修行の行場
ここに、天狗になった崇徳上皇の怨霊を追善するための山陵が築かれます。白峯陵(宮内庁治定名称では「しらみねのみささぎ」)は、唯一玉体埋葬の確実な山陵です。
白峰寺7
白峯寺(讃岐国名勝図会) 
そして朝廷により崇徳院御影堂(後の頓証寺)などの堂舎が整備されていきます。ある意味、天皇陵というもうひとつの信仰対象を白峯寺は得たことになります。しかも、この天皇陵は特別でした。天狗と化し、怨霊となった崇徳上皇を追善(封印?)する場所でもあるのです。菅原道真の天満宮伝説とおなじく、怨念は強力であればあるほど、善神化した場合の御利益も大きいと信じられていました。こうして白峯寺は「崇徳上皇を追善する寺」という顔も持ち、多くの信者を惹きつけることになります。中央からの信仰も強く、朝廷や帰属からも様々な奉納品が寄せられるようになります。同時に、寺領化した松山庄や西庄などの人々も、地元に天皇社を勧進し祀るようになります。それを親しみを込めて「てんのうさん」と呼びました。その「本宮」の白峰山や白峯寺も、いつしか「てんのうさん」と呼ばれ信仰対象になっていきます。

讃岐阿野北郡郡図8坂出と沙弥島
讃岐綾北郡郡図(明治) この範囲がかつての西庄にあたる

 坂出市の御供所は、前回お話ししたように北山本新庄(西庄)の一部でした。
ここには崇徳上事の讃岐配流に随ってきたという七人の「侍人」伝承があります。また、今も白峰宮(西庄町)には、2ヵ所の御供所(坂出市、丸亀市)から祭礼奉仕の慣習が続いているようです。

坂出市西庄
 坂出市には、今見てきたように中世に起源を持つ三社(高家神社・青海神社・白峰宮)があります。これらは崇徳上皇を祀っています。さらに川津町には江戸時代創建の崇徳天皇社があるので、四社の崇徳天皇社が鎮座することになります。これも白峯寺の寺領化と崇徳上皇への信仰心が結びついたものなのかもしれません。
白峯寺大門 第五巻所収画像000004
白峯寺大門に続く道
まとめておくと
①白峯山上に崇徳院陵が整備され、その追善の寺となった白峯寺には荘園が寄進され寺領が拡大していった
②各荘園には白峯陵から天皇社が勧進され、「てんのうさん」と呼ばれて信仰対象となった。
③そのため白峯寺の寺領であった坂出市域には、いくつも「てんのうさん」が今でも分布している
白峰寺 児ヶ獄 第五巻所収画像000009
稚児の滝の下の青海神社もかつては天皇社

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史 中世編
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