瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:白峯寺と松平頼重

白峯寺 讃岐国名勝図会(1853)
白峯寺 讃岐国名勝図会(1853年)
 白峯寺境内には多くの堂舎が立ち並び、札所寺院として独特の整った景観をみせています。これを幕末の讃岐国名勝図会と比べて見ると子院の一乗坊などは神仏分離で姿を消しましたが、白峯寺の伽藍には大きな変化はないことが分かります。白峯寺の特徴は、境内には崇徳天皇を祀る頓証寺殿があることです。そのため頓證寺と本来の白峯寺の2つのエリアに分けられ、西側に頓証寺殿、その北東の斜面に白峯寺の堂舎が立ち並びます。頓証寺殿は後小松天皇の扁額にもあるように、中世には頓証寺という寺号をもつ別の寺であったことを押さえておきます。

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白峯寺勅額門

今回は紫陽花の花見遊行の白峯寺で考えたことの最終版です。
本坊前を通って護摩堂で西に折れて参道を歩いて行くと、正面に勅額門が見えてきます。そこまでの参道の周囲に植え込まれた紫陽花が見頃でした。花に夢中になって、崇徳陵への入口を見逃してしまうほどです。そして、勅額門の前にやってきました。

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白峯寺勅額門 奧が頓證寺拝殿(頓證寺殿)
門には「第75代 崇徳上皇 白峯寺 頓證寺殿」と掲げられています。ここで疑問に思ったのがどうして「頓證寺殿」なのかということです。推測になりますが、中世には白峯山には、次のふたつの異なる寺院と、数多くの子院が存在していました。
①山林修行の拠点としての白峰寺
②崇徳上皇陵の慰霊管理のための頓證寺
これが次第に白峰寺に合体化されていきます。そのため頓證寺は白峰寺に属する「殿(建物)」と解釈します。
頓證寺の門である勅額門から見ていきます。

頓証寺殿勅額門 三間一戸八脚門、切妻造り、本瓦葺。
延宝8年(1680)建立(寺伝)

頓証寺の入口を飾る大規模な八脚門です。「勅額門」とよばれるのは、室町時代中期に後小松天皇震筆の額が掲げられていたからのようです。
白峯寺 頓證額
寺号額「頓證寺」
その扁額は重要文化財に指定され今は宝物館に保管されていますので、現在のものは複製になるようです。この門には、保元の乱で上皇として戦った源為義・為朝父子像を随身として安置しています。死後の世界では悔い改めて、崇徳上皇を守るという意思表明でしょうか?どちらにしても天皇を祀る「神社」的な色合いの濃い建物と云えそうです。県下の八脚門では国分寺・志度寺等に次いで古く保存もいい状態です。
 勅額門は八脚門としては「工夫のこらされた、特異な形式の門」だと研究者は指摘します。
工夫が凝らされている所を見てみましょう。まず棟通りの中央二本の柱が、両妻や正・背面の柱より高く作ってあります。そのためこの二本の柱と前後の柱とは、海老虹梁で繋ぎます。さらにその下には飛貫が通り、上には柱頂部と桁を繋ぐ虹梁が架かるので二本の柱と正・面の柱は、強固に繁がれることになります。

白峯寺 勅額門2
白峯寺 勅額門1

東通りの柱は虹梁形の頭貫で繋ぎ、台輪を載せ、これらは妻まで到達します。妻では棟通りの柱の上に三物を組激、妻飾の虹梁が載っていますが、上記虹梁形頭貫・台輪は妻の虹梁と組み合って、妻側へその鼻を突出させることになります。
白峯寺勅額門2
白峯寺勅額門東側
妻飾では棟木と行との中間に身舎桁を一本ずつ通しています。が、これは内部には通されておらず、いわば見せかけの構造となっています。正面両脇間の飛貫と頭貫の間には透かし彫りの欄間を入れ、中備は菊花として、随所に付けられた拳鼻や絵様肘木は多様な絵様繰形で飾られます。特に妻の雲紋・波紋を彫る絵様は見ていても楽しいものです。専門家は、勅額門を次のように評価しています。
構造形式の上でも意匠の面でも傑出した特色を持つ極めて質の高い八脚門
 
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この門からは、正面に拝殿が見えてきます。ここから見る拝殿(頓證寺殿)は、お寺の風情ではありません。まさに神社の拝殿のようです。そんな演出をプランナーでもあり、オーナーでもあった松平頼重は、狙っていたのかも知れません。拝殿の背後に崇徳上皇陵があるのですが、それは隠れて全貌は見えません。

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白峯寺頓證寺殿

  いろいろな種類の紫陽花を楽しみながら拝殿までやってきました。改めて見ると、お寺の建物とは違います。まさに神社の「拝殿」です。このお寺の性格が「神仏混淆」色を色濃く帯びていることが改めて分かります。この拝殿について見ておきましょう。

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白峯寺頓證寺殿

頓證寺拝殿 延宝八年(1680 棟札)
拝殿は桁行七間という規模で、正面と背面に三間の軒唐破風付向拝を付けた壮大な建物です。内部は両端から二間目に円柱二本ずつを立てて、それぞれ梁行に虹梁形飛貫で繋ぎ、その上を板壁として、中央三間と両脇二間ずつの空間に区分しています。しかし、建具を入れて仕切っているわけでもないようです。このような構成は、横長の平面の神社拝殿ではよく見られるようです。今は一間おきに3つに分けられて、祀られているのは
中央 崇徳天皇
向かって右側 本地仏(十一面観音)
向かって左側 相模坊(相模大権現の大天狗)
正面の向拝は頭貫木鼻を龍頭として、中備蟇股に透かし彫りの彫刻を入っています。これに対して背面の向拝では絵様・繰形付の木鼻、蟇股も板蟇股で、正面と背面で「格差」があるようです。向拝の繋ぎは海老虹梁を入れ、唐破風の菖蒲桁受けの組物の背後に手挟を入れています。(下の写真①)
白峯寺 頓證寺拝殿3
白峯寺頓證寺殿

本体の中備は正・側面の中央間が蟇股です。それ以外は人字形割束を用いています。桟唐戸の上部の入子板には輪違いや麻の葉等の幾何学模様を彫り込んでいます。装飾金具も各部に丁寧に打たれています。
見てきたように装飾に手が込んでいますが、決して派手にはならず、和様を基調とした端正な形式と意匠でまとめられています。「十七世紀後期の上質な建物で、背後の三殿と併せて、形式も特異な建物として極めて重要」と研究者は評価します。

さて、この拝殿の向こう側は、どうなっているのでしょうか?
つまり拝殿と崇徳陵の間には何があるのかというのが、私の素樸な疑問でした。

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崇徳陵遙拝所への通路
相模坊天狗の横から拝殿の後側に廻ってみます。西行像にお参りして、拝殿横を抜けて後に回り込みます。奧には崇徳陵の石垣とその上の玉垣は見えます。
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白峯寺遙拝所からみた頓證寺殿の背後
しかし、拝殿背後は本殿があるようなのですが、木々が茂っていてよく分かりませんでした。後日、図書館から借りだした「白峯寺調査報告書NO2」の中に、拝殿と附属建物の関係が描かれた次の平面図を見つけることが出来ました。
白峯寺 頓證寺殿拝殿平面図
頓證寺殿拝殿平面図(拝殿と崇徳上皇殿などの三棟は廊下でつながる)
 
 ここからは、拝殿は、背後に並び建つ崇徳上皇殿・本地堂・鎮守社白峯権現堂の三棟に対する拝所であったことが改めて分かります。そして、今は一間おきに背後の三棟に対応するように、密教の壇が設えられています。かつては、拝殿で崇徳天皇・本地仏・相模坊のそれぞれに対して密教の修法が行われていたことがうかがえます。そういえば、前回に見たように善如龍王への雨乞祈祷も、この拝殿で行われていたと史料にあったのを思い出します。次に拝殿奥の3つの建築物を見ていくことにします。

白峯寺 頓證寺 金毘羅参詣名所図会
頓證寺拝殿と三社の関係図(金毘羅参詣名所図会1853年)

崇徳上皇殿 延宝八年(1680 棟札)一間社、隅本入春日造、鋼板葺    
頓証寺拝殿の中央後方約13mの所に立つ隅本入春目造の建物です。春日造としては規模が大きいようです。組物は出組を用いますので、背面の妻飾の虹梁は柱筋よリー手外へ持ち出されることになります。

白峯寺 頓證寺崇徳上皇殿
崇徳上皇殿の妻飾
頭貫木鼻と組物の拳鼻が上下に重なり、頂部にも拳鼻が上下二段に重なります。しかし、全体的には装飾の少ない端正な建物の印象を受けます。この社殿は、近世には崇徳天皇の御影を安置していたようで、頓証寺との寺号もありました。しかし、崇徳上皇殿は建築形式としては神社本殿の形式です。それなら、なぜ神社にせずに「頓證寺」なのでしょうか? その宗教的位置付けはよく分かりません。なお、延宝8年建立の棟札には「崇徳天皇御社」と記されています。

白峯寺 頓證寺殿十一面観音
本地堂の十一面観音堂(崇徳上皇の本地仏)
本地堂(十一面観音堂) (1680 棟札)
 面三間、側面二間、背面二間、宝形造、向拝一間、本瓦葺   
白峯寺拝殿の東より後方5mほどの所に立つ宝形造の仏堂です。
本地堂は十一面観音堂・十一面堂とも呼ばれており、崇徳天皇の本地仏十一面観音を祀る建物で、建築形式も仏堂の形態をとっています。
正面は柱間三間ですが、側・背面は二間なので、二間堂と呼ぶべきと研究者は指摘します。組物は出三斗と簡素ですが、肘本に笹繰を付けられ、壁から外へ出る肘木には拳鼻を載ります。小規模な仏堂ですが。「丁寧で気の利いた意匠」と研究者は評価します。
白峯寺 頓證寺本地堂
頓證寺殿 本地堂向拝見返し
 内部には柱がなく、背面柱筋に寄せて仏壇を設けています。

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頓證寺殿の相模大権現の額

白峯権現堂(鎮守堂)  一間社流造、鋼板葺    延宝八年(1680 棟札)
白峯寺拝殿の左奧後方3mほどの所に立つ流造の社殿です。組物はすべて連三斗、中備は蟇股、妻飾は虹梁大瓶束を用いた簡素な流造で、「特徴がないのが特徴」の社殿のようです。天鼻・拳鼻は、隣の崇徳上皇殿とよく似ています。また、浮彫の絵様を彫りだした懸魚、垂木先端に金具を打つ丁寧な仕事ぶりは、拝殿背後の三棟に共通していると研究者は指摘します。
白峯寺 頓證寺白峰大権現妻飾
白峯寺頓證寺殿 白峰大権現妻飾

怨霊化した崇徳上皇は大天狗となって祟りを振りまいたとされますが、その子分として活躍したの相模坊です。彼は天狗信仰の持ち主の修験者で、後世には白峰大権現として祀られるようになります。
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拝殿前の白峰大権現像
中世の白峰山は天狗信仰で有名でした。これを真似て象頭山金光院も金比羅を天狗信仰の中心地にしようとします。近世初頭の白峰も金比羅も天狗信仰(大権現)の拠点であったことが、このような形で残っているようです。崇徳上皇を祀った社殿とは違って、建築形式も最も一般的な神社本殿の形式を採っています。
以上からは頓證寺拝殿は、背後の崇徳上皇殿・本地堂・鎮守社白峯権現堂の三棟に対する拝所で、三棟で共用できる桁行の長い拝殿を建てたことが分かります。
現在は、三棟と拝殿は廊で結ばれていますが、そこに使われている材料からは近代になってから付け加えられたものと研究者は指摘します。それを19世紀に描かれた3つの絵図で確認してみましょう。

白峯寺 頓勝因拝殿変遷

一番上の寛政十二年(1800)刊行の「四国遍礼名所図会」にはそれらしいものが描かれています。真ん中の弘化四年(1847)刊行の「金毘羅参詣名所図会」や一番下の嘉永六年刊行の「讃岐国名勝図会」には、それらしいものは描かれていません。現在の廊が近代になって作られたことは、ある程度裏付けられるようです。
 どちらにしても、三棟を一間おきに拝殿に接続するプランで拝殿が建てられていることには違いありません。このように神仏を祀る複数の建物を、ひとまとめにするような拝殿はほとんど例がないようです。例としては、円教寺(兵庫県)鎮守の乙天社と若天社の二棟の護法堂の前には、桁行七間の拝殿がありますが頓証寺のような規格性は見られません。護法堂と拝殿との間も大きく開いています。頓証寺は全体の配置が極めて独特なのです。このような今までにないプランを指示できるのは、松平頼重しかいないように私には思えます。

17世紀末に造られた頓證寺拝殿は、どのように使われてきたのでしょうか?
今は一間おきに、背後の三棟に対応するように、密教の壇が設えられています。が、かつては崇徳天皇・本地仏・相模坊のそれぞれに対して、密教の修法が行われていたことがうかがえます。しかし、それだけではなかったことを教えてくれる史料が残っています。慶応四年(1868)八月に勅使が来た際の堂内の荘厳を示す「頓証寺荘厳図」(白峯寺聖教宝蔵80-72)です。

白峯寺 頓證寺荘厳図2
「頓証寺荘厳図」

これを見ると、大壇は中央にのみ置かれ、両脇間の背面に寄せて三宝に載せた御供と御神酒が供えられています。西端の二間分には勅使の座が設えられています。おそらく崇徳上皇御忌日に勅使が参拝したものでしょう。この時には、三壇は置かれていません。
 再建以前の頓証寺本地堂は「六間四面」の建物であったのを四宇に分けたものと延宝七年(1679)本地堂再建棟札に記されています。また承応二年(1653)刊行の「四国遍路目記」にも、その内部について次のように記されています。
其傍二九間四面ノ堂ヲ立テ、中ニハ天皇ノ御影、是ハ御法体ノ時、仁和寺ニテ御震筆二遊シ絵像ナリ、前ニハノ御母義御持尊ノ阿弥陀ノ三尊在り、大壇ノ中央ニハ使者ノ鳶ヲ木像二造テ在、右ハ相模坊自作ノ像在、是ハ頭襟結袈裟スル袴ニテ、有ニハ剣ヲ持、左二念誦フトリ玉フ中々恐キ体也、其前二天皇御守本尊在、中ハ釈迦、左右二大師卜太子ノ像在り、前二相模坊、左右二不動毘沙門也、

意訳変換しておくと
その(白峯陵)傍らに九間四面の堂を建立し、中には崇徳天皇の御影が安置された。これは、御法体の時に仁和寺で御震筆二遊シ絵像である。そこには御母御持尊の阿弥陀三尊があり、大壇中央には使者の鳶木像で造ったものある。右には、相模坊自作の自像がある。その姿は頭襟結袈裟の袴姿で、右手には剣を持ち、左には念誦る姿で、恐しき姿である。その前に天皇御守本尊(十一面観音?)があり、真ん中に釈迦、左右に大師と太子の像がある。前に相模坊、左右二不動毘沙門が置かれている。


ここからは、中世には「崇徳上皇御影 + 阿弥陀三尊 + 鳶の木像 + 相模坊自作の自像 + 十一面観音 + 釈迦・太師・大師 + 不動明王・毘沙門天」などの多くの神仏が置かれていたことが分かります。これが中世の「白峰寺 + 頓證寺」をとりまく宗教的な環境とも云えます。まさに神仏混淆です。ここから拝殿の前身は、崇徳上皇の御影堂というべき建物だったと研究者は考えています。

江戸時代初期になって、中世の白峰寺の姿を描いたとされる「白峯山古図」には、この拝殿はどのように描かれているのでしょうか。
白峯寺古図 本堂への参道周辺

ここには、頓證寺には拝殿や三棟はありません。ただ一棟の「御本社」と勅額門が描かれているだけです。白峯寺古図については、以前にお話したように、絵図の中に描かれている2つの三重塔が発掘調査で確認されていて、その「情報信頼度」が高い絵図です。
ここからは中世には、頓證寺は「御本社」1棟のみで、崇徳上皇の御影堂的な性格であったことが裏付けられます。とすれば、1680年の再建で、頓証寺は大きく「変容」したことになります。つまり、この時に、御影・本地仏・相模坊などが、一堂にあったものを、それぞれを祀る建物と拝殿に分離したのです。この背景には何があったのでしょうか? そこには、近世の国学思想に基づく神仏分離の思想が背景にあったと研究者は考えています。
松平頼重の心の内を覗いて見ると、次のようなものだったと私は考えています。
白峯寺を崇徳上皇慰霊の聖地として復興させよう。そのためにまずは、慰霊施設となる頓證寺を再建させる。その際に、いまの「御本社」の状態は何とかしなければならない。御影とその他のものが一堂に秩序なく、並べられているのは恐れ多いことである。崇徳上皇の御影以外をすべて排除するのは、抵抗が大きく、白峯寺の僧侶たちの同意も得られないだろう。とすれば、崇徳上皇の化身である十一面観音と、相模坊信仰の白峰大権現は別の建物を建てて、そこに祀ろう。そして拝殿は共通にする。限りなく神式であるが運営は、僧侶たちが行う。そんな構想で頓證寺の整備計画を進めさせよう。

「応永十三年(1406)の奥書を持つ「白峯寺縁起」には、次のように記されています。
建長五年(1253)に崇徳上皇の菩提を弔うために二十一日の供僧を定め、二十一口の供僧を定め、「十二時不断の法花の法」を修すこととし、翌六年からは法華会と称した

十六世紀後期に書写された「建長年中当山勤行役定」も「毎年八月法花会法事」と記します。
ここからは、次のようなことが分かります。
①中世には崇徳上皇の菩提は、仏事によって弔われていたこと。
②「法花会法事」を担った供僧二十一人は、中世末期の十六世紀の「八講人数帳」「恒例如法経結番帳」に記された院家数と一致すること。
天皇の菩提を弔う供僧が、そのまま寺院を構成する院家となって近世まで受け継がれる例は、京都鳥羽の安楽寿院にもあるようです。天皇の墓を核とした白峯寺でも、このような寺院組織の形成と継承が行われていたと研究者は推測します。そうだとすると崇徳上皇の墓が設けられる以前からあった白峰寺は、13世紀中期以降は頓証寺の供僧二十一口を構成メンバーとする新たな寺院に転換したとして、研究者は次のように指摘します。
頓証寺の供僧集団が前身寺院(白峯寺)を継承し、近世にいたって、頓証寺の伽藍を再編し、白峯寺も再興した

と見ることもできると研究者は指摘します。そのような変容を経た姿が現在の頓証寺と白峯寺と云うのです。
以上をまとめておきます。
①白峯寺は経済的に藩の庇護を受けていただけではなく、藩お抱えの宮大工集団が派遣されて、堂宇の造営・修理に当たっていたことが棟札からは分かること。
②白峯寺と頓証寺の境内は、17世紀後期に松平頼重によって再興され、さらに19世紀前期までにいくつかの建物が改築され、現在に至ること。
③これらの建築物は、高い技術をもった大工集団の手によるもので、その質は高い。
④とくに頓証寺の堂舎は質的な高さに加えて、従来の中世以来の崇徳上皇を祀る施設を、機能毎に分離して近世的な施設に変容させた独特の建築構成を持っていること。
研究者は④を、建築史的に高く評価します。崇徳上皇殿などの三棟を後方に控える間口七間の拝殿は、松平頼重の宗教政策の中からうまれてきたプランの可能性が高いと私は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  山岸 常人 白峯寺の建造物  調査報告書NO2(2013年) 香川県教育委員会


斉藤一博 on Twitter: "丸亀藩は現在の香川県丸亀市に置かれた藩。生駒氏が高松を治めその西部であったが、1641年に山崎家治が5万3,000石で入る。1658年に京極高和が播磨龍野より6万石で入る。1780年代から団扇の生産が盛んになり、1794年に藩校正明館が創立された  ...
生駒騒動後の讃岐分割
生駒藩がお家騒動で、幕府から所領を没収されたのが寛永17(1640)年のことです。その後の讃岐は、東の高松松平藩(12万石)と西の丸亀山崎藩(のちに京極藩)に分けられます。このうち白峯寺のある綾郡は、高松藩領に属することになります。白峯寺の西北にあった崇徳上皇陵の廟堂・頓證寺は、当時は荒廃していたようです。白峰寺自体が本堂などの伽藍の復興に精一杯で、崇徳上皇陵や頓証寺にかまっている余裕がなかったのかもしれません。

近世讃岐の寺院NO1 松平頼重の仏生山法然寺建立計画を探る : 瀬戸の島から
松平頼重

そのような中で水戸藩からやって来た髙松藩初代藩主松平頼重は、独自の宗教政策を次々と打ち出し、「崇徳上皇慰霊の寺」である白峯寺にも手を差し伸べてきます。松平頼重の寺社保護政策を最初に挙げておきます。
①金毘羅大権現の保護と朱印地化 全国的な寺社への育成
②菩提寺法然寺の造営と社格確保 法然寺を頂点とする新たな寺院階層の形成
③金倉寺・長尾寺・根来寺などを、智証大師の天台宗への改宗と保護  真言勢力への牽制
④姻戚関係にある浄土真宗興正寺派の保護
有力な寺社を保護し、配下に置くことが治政安定につながることを知り尽くした上での「選択的寺社保護政策」です。そのような中で、松平頼重が白峯寺にどんな保護支援を与えたのかを年表化して見ておきます。
寛永20年(1643)  頓證寺の再興  崇徳上皇慰霊
万治 4年(1661)  千然阿弥陀堂を建立寄進。
維持料として北条郡(綾郡北部)の青海村の北代新田免10石を寄進。
延宝7年(1679) 御本地堂を再建立、
延宝8年(1680) 子・松平頼常とともに崇徳天皇社・相模坊御社・拝殿を再建立
元禄2年(1689)  崇徳院陵の前に、一対の石燈籠を献納(『松平頼重伝』)。
ここからは、松平頼重が白峯寺に対して継続的支援を行っていたことが分かります。これは金毘羅大権現や根来寺・長尾寺に対する頼重の支援ぶりと共通します。政治的意図を持って、継続的な支援が行われ、時と供に伽藍が整備されていきます。そして周囲の宗教施設に比べると、格段に立派な伽藍が姿を見せるようになるのです。そして次に、長尾寺や根来寺では、そこに安置する仏像群まで奉納しています。ただ寺領を寄進するのではなく、伽藍の完成形を見通した上での支援活動なのです。目に見える形での支援で、庶民の関心を惹きつけることになります。それが庶民の目を惹き、信仰心を集めることにもつながって行きます。これだけの伽藍が整備された寺院は当時はなかったのです。松平頼重の支援を受けた寺院は、一歩先んじた伽藍や堂宇を持ったことになったことを押さえておきます。

白峯寺には、歴代の高松藩藩主の残した棟札が数多く残されています。
その中で、初代の松平頼重に次いで多いのが五代藩主松平頼恭の棟札です。頼恭(よりたか)は、製塩・製糖などの殖産興業に尽力した高松藩中興の藩主とされます。彼は熊本藩主細川重賢と並ぶ博物大名の一人で、1760年代後期頃には、絵師三木文柳に『衆鱗図』(二帖)などの魚の図譜などの編集を平賀源内に命じたことでも有名です。
香川県立ミュージアム 春の特別展 「自然に挑む 江戸の超(スーパー)グラフィック-高松松平家博物図譜-」 |イベント|かがわアートナビ
松平頼恭の残した『衆鱗図』などの図版類
頼恭の名前の入った白峯寺の棟札は、寛延3年(1750)のものが多いようです。この時に、賀茂社ほか8社の再建立、御滝蔵工社・華表善女竜王社の再興、十王堂・鐘楼堂の再上葺、諸伽藍の繕、崇徳院社幣殿・御本地堂廊下・相模坊社幣殿・御供所廊下・惣拝殿陵門の再上葺があります。さらに宝暦12年(1762)に客殿上門の再葺が行われています。宝暦13年は崇徳院回忌600年に当たっていました。それにむけた伽藍整備計画が頼恭の支援の下に進められていたようです。この他にも、高松藩主の名前が棟札には見えるので、高松藩が白峯寺に対して一貫して保護を与えていたことはまちがいないようです。
 松平頼恭は、白峯寺に参詣も行なっています。
 崇徳院六百年回忌が行われる直前の宝暦13年(1763)2月には、それまでの伽藍整備の成果の確認のためでしょうか、白峯寺を参拝しています。この時には、林田村から登山し、崇徳上皇霊宝所・頓証寺・大権現を参拝しています。帰りは国分遍路坂を下って、国分寺へ立ち寄っています。その2年後にも参詣したといい、頼恭は頻繁に白峯寺を訪れたようです。そうしてみると先ほどの頼恭による一連の「白峰修復事業」は、崇徳院六百年回忌に向けた準備であったことが裏付けられます。
 このように白峯寺は高松藩との関係が深く、正月・五月・九月に高松城で高松藩主に対する「御意願成就」「御武運長久」の祈祷も行っています。高松藩の祈祷所として、白峯寺のほかに阿弥陀院(石清尾八幡宮別当)があり、高松城で大般若経の読誦を行っいまします。

 幕末の文久3年(1863)写の「御上丼檀那質祈千壽帳」には、江戸幕府将軍家、水戸藩、高松藩主、その他の大名たちや藩主一族、家臣たちの祈疇を行ったことが記されています。また藩主の厄年や、幕府から命じられた藩主の京都への使者の際にも、「安全之御祈疇」が行われています。
白峯寺境内の西北隅には、崇徳上皇の陵があります。
そのため崇徳院回忌の法要が古くから行われていたようです。その際に奉納された和歌・連歌・俳諧・漢詩などの文芸が白峯寺には、数多く残されています。
 近世に入ってからの崇徳院回忌と白峯寺との関係は、中期まではよく分かりません。六百回忌に際して、宝暦13年(1763)3月に、松平頼恭が崇徳上皇陵に石燈籠2基を寄付することになります。その場所について崇徳院回忌の行事の邪魔にならないようにと、高松藩と白峯寺の間で協議しています。その結果、初代藩主松平頼重が陵外の玉垣内に寄付していた石燈籠を、陵内へ移してその後に新しい石燈籠を立てることにしています。崇徳院回忌の行事の妨げにならないようにとあるので、それまでにも回忌法要が行われていたことがうかがえます。

白峯寺 讃岐国名勝図会(1847年)2
白峯寺(讃岐国名勝図会(1853) 白峰寺西北の崇徳上皇陵

宝暦13年の崇徳院回忌六百年に向けた準備過程を見ておきましょう。
白峯寺は明暦4年(1658)に仁和寺の末寺となっていまします。そのため宝暦13年正月に次のことを仁和寺に願いでています。
①2月26日より本尊・霊宝等の「開帳」
②8月26日の法楽曼供執行
また前年10月には、寺社奉行へ2月26日から4月18日までの50日間の開帳を願い出ています。そして開帳の建札を次の場所に建てることが許可されます。
城下では西通町・常磐橋・塩屋町・田町・土橋の五か所
郷中では鵜足郡宇足津、那珂郡四条村・郡家村、三木郡平木村、寒川郡志度村の各往還
「閉帳」前の2月14日には高松藩主からの奉納物が届けられ、崇徳院の御宝前へ供えられます。

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高屋神社(旧崇徳天皇社 坂出市高屋町)
七百年回忌は、文久3年(1863)8月26日に曼茶羅供執行が行われています。
この時には回忌の3年前の万延元年6月に、同忌が近づいてきたのに高屋村の「氏神」である崇徳天皇社(高家神社)が大破のままであるとして、阿野郡北の西庄村・江尻村・福江村・坂出村の百姓たち17名が、その修覆を各村庄屋へ願い出ています。これが庄屋から大庄屋へ提出されています。修覆内容は崇徳天皇本社屋根葺替(梁行2間、桁行3間、桧皮葺)、拝殿屋根壁損所繕、同宝蔵堂ならびに伽藍土壁繕、同拝殿天丼張替です。これは近隣の百姓たちの崇徳上皇信仰の高まりのあらわれを示すものと云えそうです。
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高屋神社(坂出市高屋町)
 
崇徳院の旧地として、白峯寺が主張していた場所に鼓岡と雲井御所があります。

白峯寺古図 地名入り
白峯寺古図(江戸初期)に記された雲井御所と鼓丘

宝暦13年(1763)に、鼓岡の村方から提出された書付をみて白峯寺は、「御廟所同前之古跡」であるとして、鼓岡村の支配ではなく白峯寺による管理が望ましいとの意見を寺社方へ申し出ています。これから約70年後の天保5年(1834)には「府中鼓岡雲井御所由緒内存」を白峯寺は提出し、その中で「何分時節到来不仕」と再度提出しているので、白峯寺の主張は認められなかったようです。そのために「由緒内存」で、再び「当山支配」とすることを願い出たようです。ここからは江戸中期後に、白峯寺が「崇徳天皇御廟所 政所」としての自覚を高めていることがうかがえます。この結果、雲井御所の地については、免租となって番人を置くことになります。当時の9代藩主松平頼恕は、自ら碑文を書き、「雲井御所碑」を建てています。この時に鼓岡についても、何らかの措置がとられたようです。

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雲井御所碑(坂出市)
雲井御所
かつての雲井御所石碑と林田邸
後ろは林田氏邸宅、林田氏の本姓は綾氏で、生駒時代は林田村の小地頭、松平頼重の人国の時には、大政所。

 文化3年(1806)に頓証寺の境内が狭いため埋め立て造成計画が出されます。
「別而近年参詣人等多、混雑仕る」として、拝殿の西の御供所裏通りから南の番所にかけての約40間の長さに渡って5,6間の谷筋を埋立てる内容です。研究者が注目するのは、これを提案したのは白峰寺ではないことです。阿野郡北の氏子たちが農業の手隙に、ボランテイアで行いたいと願いでているのです。白峯寺はこれを、「参詣人群衆之節、混雑も不仕」と付帯して、寺社奉行へ取り次いでいます。
 しかし、この時には髙松藩の認めるところとはならなかったようです。そのため翌年には造った後の道の修覆も自力で行うとして、再度願い出ています。この道の修覆については「修覆留」が作成されているので、この時に道が造られたと研究者は考えています。(「白峯寺諸願留」7-5)。
崇徳上皇陵と頓證寺 讃岐国名勝図会拡大
崇徳上皇陵と頓證寺と勅額門(讃岐国名勝図会部分拡大図)

 文政5年(1822)になると、頓証寺の勅額門の外手にある燈籠の前に、石燈籠を二基建立したいと申し出た「施主共」がいるとしてその建立願いがだされます。さらに10年後の天保4年(1833)には、同じく勅額門の外の獅子一対の建立願いが「心願之施主共」から出され、いずれも白峯寺は寺社方へ願い出て許可されています。(「白峯寺諸願留」7-9)。
 19世紀になると、十返舎一九の弥次喜多コンビの参拝記も出版され、金毘羅参拝客が急速に増加します。富裕な参拝者たちは、石段や玉垣、灯籠を奉納し、境内は石造物で埋まっていったことは以前にお話ししました。こんな景観を見たことのない庶民は、石の境内を見たさに金比羅を目指すようになります。そのような石造物寄進の流行が周辺寺院にも及ぶようになります。白峯寺もご多分に漏れず、19世紀になると富裕層が灯籠・狛犬などの石造物を寄進するようになります。
 白峯寺 六十六部の納経帳
 六十六部の納経帳に記された白峯寺の「肩書き」変遷
近世後期になると、白峯寺は納経帳にも自らの呼称を「崇徳天皇御廟所 讃州白峰寺 政所」と記すようになります。
  自らの存立基盤を崇徳院陵とのつながりの中に求めようとする意識が白峰寺内部でも高まったことがうかがえます。もともとの崇徳陵の管理寺院は頓證寺で、白峰寺ではなかったことは以前にお話ししまします。しかし、これも白峰寺と頓證寺の一体化という視点で見れば、なんら不思議なことではないのかも知れません。
 同時に、このような白峰寺の教導の結果、周辺の「氏子」や「施主共」が積極的に頓証寺などの境内整備に参加するようになっていることが分かります。白峯寺への信仰、崇徳上皇信仰が民衆へ浸透していっていることを物語るものと研究者は考えています。
以上をまとめておくと
①髙松藩初代藩主松平頼重は、計画的継続的に白峰寺の伽藍整備を支援した
②5代藩主松平頼恭は、崇徳院六百年回忌を期に、白峯寺境内の伽藍整備を進め、自らその視察も行っている。
③髙松藩の支援を受けて、崇徳上皇回忌ごとに伽藍は整備された。
④そのような中で、白峯寺は自らの存立基盤を「崇徳天皇御廟所 讃州白峰寺 政所」に求めるようになり、中世の故事をもとにさまざまな主張を行うようになる。
⑤周辺の庄屋や有力者も「崇徳天皇御廟所」である白峰寺を支援するようになり、崇徳上皇信仰は拡がりをみせるようになる。
ある意味これは、松平頼重のねらい通りのことだったのかもしれません。頼重の打った齣は、時を置いて大きな効果を持つようになったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    「木原 溥幸 近世の白峯寺と地域社会 白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」
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