白峯寺 讃岐国名勝図会(1853年)
白峯寺境内には多くの堂舎が立ち並び、札所寺院として独特の整った景観をみせています。これを幕末の讃岐国名勝図会と比べて見ると子院の一乗坊などは神仏分離で姿を消しましたが、白峯寺の伽藍には大きな変化はないことが分かります。白峯寺の特徴は、境内には崇徳天皇を祀る頓証寺殿があることです。そのため頓證寺と本来の白峯寺の2つのエリアに分けられ、西側に頓証寺殿、その北東の斜面に白峯寺の堂舎が立ち並びます。頓証寺殿は後小松天皇の扁額にもあるように、中世には頓証寺という寺号をもつ別の寺であったことを押さえておきます。
白峯寺勅額門
今回は紫陽花の花見遊行の白峯寺で考えたことの最終版です。
本坊前を通って護摩堂で西に折れて参道を歩いて行くと、正面に勅額門が見えてきます。そこまでの参道の周囲に植え込まれた紫陽花が見頃でした。花に夢中になって、崇徳陵への入口を見逃してしまうほどです。そして、勅額門の前にやってきました。
門には「第75代 崇徳上皇 白峯寺 頓證寺殿」と掲げられています。ここで疑問に思ったのがどうして「頓證寺殿」なのかということです。推測になりますが、中世には白峯山には、次のふたつの異なる寺院と、数多くの子院が存在していました。
門には「第75代 崇徳上皇 白峯寺 頓證寺殿」と掲げられています。ここで疑問に思ったのがどうして「頓證寺殿」なのかということです。推測になりますが、中世には白峯山には、次のふたつの異なる寺院と、数多くの子院が存在していました。
①山林修行の拠点としての白峰寺②崇徳上皇陵の慰霊管理のための頓證寺
これが次第に白峰寺に合体化されていきます。そのため頓證寺は白峰寺に属する「殿(建物)」と解釈します。
頓證寺の門である勅額門から見ていきます。
頓証寺殿勅額門 三間一戸八脚門、切妻造り、本瓦葺。
延宝8年(1680)建立(寺伝)
頓証寺の入口を飾る大規模な八脚門です。「勅額門」とよばれるのは、室町時代中期に後小松天皇震筆の額が掲げられていたからのようです。
寺号額「頓證寺」
その扁額は重要文化財に指定され今は宝物館に保管されていますので、現在のものは複製になるようです。この門には、保元の乱で上皇として戦った源為義・為朝父子像を随身として安置しています。死後の世界では悔い改めて、崇徳上皇を守るという意思表明でしょうか?どちらにしても天皇を祀る「神社」的な色合いの濃い建物と云えそうです。県下の八脚門では国分寺・志度寺等に次いで古く保存もいい状態です。 勅額門は八脚門としては「工夫のこらされた、特異な形式の門」だと研究者は指摘します。
工夫が凝らされている所を見てみましょう。まず棟通りの中央二本の柱が、両妻や正・背面の柱より高く作ってあります。そのためこの二本の柱と前後の柱とは、海老虹梁で繋ぎます。さらにその下には飛貫が通り、上には柱頂部と桁を繋ぐ虹梁が架かるので二本の柱と正・面の柱は、強固に繁がれることになります。
白峯寺 勅額門1
東通りの柱は虹梁形の頭貫で繋ぎ、台輪を載せ、これらは妻まで到達します。妻では棟通りの柱の上に三物を組激、妻飾の虹梁が載っていますが、上記虹梁形頭貫・台輪は妻の虹梁と組み合って、妻側へその鼻を突出させることになります。
白峯寺勅額門東側
妻飾では棟木と行との中間に身舎桁を一本ずつ通しています。が、これは内部には通されておらず、いわば見せかけの構造となっています。正面両脇間の飛貫と頭貫の間には透かし彫りの欄間を入れ、中備は菊花として、随所に付けられた拳鼻や絵様肘木は多様な絵様繰形で飾られます。特に妻の雲紋・波紋を彫る絵様は見ていても楽しいものです。専門家は、勅額門を次のように評価しています。
構造形式の上でも意匠の面でも傑出した特色を持つ極めて質の高い八脚門
この門からは、正面に拝殿が見えてきます。ここから見る拝殿(頓證寺殿)は、お寺の風情ではありません。まさに神社の拝殿のようです。そんな演出をプランナーでもあり、オーナーでもあった松平頼重は、狙っていたのかも知れません。拝殿の背後に崇徳上皇陵があるのですが、それは隠れて全貌は見えません。
白峯寺頓證寺殿
いろいろな種類の紫陽花を楽しみながら拝殿までやってきました。改めて見ると、お寺の建物とは違います。まさに神社の「拝殿」です。このお寺の性格が「神仏混淆」色を色濃く帯びていることが改めて分かります。この拝殿について見ておきましょう。
白峯寺頓證寺殿
頓證寺拝殿 延宝八年(1680 棟札)
拝殿は桁行七間という規模で、正面と背面に三間の軒唐破風付向拝を付けた壮大な建物です。内部は両端から二間目に円柱二本ずつを立てて、それぞれ梁行に虹梁形飛貫で繋ぎ、その上を板壁として、中央三間と両脇二間ずつの空間に区分しています。しかし、建具を入れて仕切っているわけでもないようです。このような構成は、横長の平面の神社拝殿ではよく見られるようです。今は一間おきに3つに分けられて、祀られているのは
中央 崇徳天皇向かって右側 本地仏(十一面観音)向かって左側 相模坊(相模大権現の大天狗)
正面の向拝は頭貫木鼻を龍頭として、中備蟇股に透かし彫りの彫刻を入っています。これに対して背面の向拝では絵様・繰形付の木鼻、蟇股も板蟇股で、正面と背面で「格差」があるようです。向拝の繋ぎは海老虹梁を入れ、唐破風の菖蒲桁受けの組物の背後に手挟を入れています。(下の写真①)
白峯寺頓證寺殿
本体の中備は正・側面の中央間が蟇股です。それ以外は人字形割束を用いています。桟唐戸の上部の入子板には輪違いや麻の葉等の幾何学模様を彫り込んでいます。装飾金具も各部に丁寧に打たれています。
見てきたように装飾に手が込んでいますが、決して派手にはならず、和様を基調とした端正な形式と意匠でまとめられています。「十七世紀後期の上質な建物で、背後の三殿と併せて、形式も特異な建物として極めて重要」と研究者は評価します。
さて、この拝殿の向こう側は、どうなっているのでしょうか?
崇徳陵遙拝所への通路
相模坊天狗の横から拝殿の後側に廻ってみます。西行像にお参りして、拝殿横を抜けて後に回り込みます。奧には崇徳陵の石垣とその上の玉垣は見えます。白峯寺遙拝所からみた頓證寺殿の背後
しかし、拝殿背後は本殿があるようなのですが、木々が茂っていてよく分かりませんでした。後日、図書館から借りだした「白峯寺調査報告書NO2」の中に、拝殿と附属建物の関係が描かれた次の平面図を見つけることが出来ました。頓證寺殿拝殿平面図(拝殿と崇徳上皇殿などの三棟は廊下でつながる)
ここからは、拝殿は、背後に並び建つ崇徳上皇殿・本地堂・鎮守社白峯権現堂の三棟に対する拝所であったことが改めて分かります。そして、今は一間おきに背後の三棟に対応するように、密教の壇が設えられています。かつては、拝殿で崇徳天皇・本地仏・相模坊のそれぞれに対して密教の修法が行われていたことがうかがえます。そういえば、前回に見たように善如龍王への雨乞祈祷も、この拝殿で行われていたと史料にあったのを思い出します。次に拝殿奥の3つの建築物を見ていくことにします。
崇徳上皇殿 延宝八年(1680 棟札)一間社、隅本入春日造、鋼板葺
崇徳上皇殿の妻飾
頭貫木鼻と組物の拳鼻が上下に重なり、頂部にも拳鼻が上下二段に重なります。しかし、全体的には装飾の少ない端正な建物の印象を受けます。この社殿は、近世には崇徳天皇の御影を安置していたようで、頓証寺との寺号もありました。しかし、崇徳上皇殿は建築形式としては神社本殿の形式です。それなら、なぜ神社にせずに「頓證寺」なのでしょうか? その宗教的位置付けはよく分かりません。なお、延宝8年建立の棟札には「崇徳天皇御社」と記されています。

本地堂の十一面観音堂(崇徳上皇の本地仏)
本地堂(十一面観音堂) (1680 棟札)
面三間、側面二間、背面二間、宝形造、向拝一間、本瓦葺
面三間、側面二間、背面二間、宝形造、向拝一間、本瓦葺
白峯寺拝殿の東より後方5mほどの所に立つ宝形造の仏堂です。
本地堂は十一面観音堂・十一面堂とも呼ばれており、崇徳天皇の本地仏十一面観音を祀る建物で、建築形式も仏堂の形態をとっています。
正面は柱間三間ですが、側・背面は二間なので、二間堂と呼ぶべきと研究者は指摘します。組物は出三斗と簡素ですが、肘本に笹繰を付けられ、壁から外へ出る肘木には拳鼻を載ります。小規模な仏堂ですが。「丁寧で気の利いた意匠」と研究者は評価します。
本地堂は十一面観音堂・十一面堂とも呼ばれており、崇徳天皇の本地仏十一面観音を祀る建物で、建築形式も仏堂の形態をとっています。
正面は柱間三間ですが、側・背面は二間なので、二間堂と呼ぶべきと研究者は指摘します。組物は出三斗と簡素ですが、肘本に笹繰を付けられ、壁から外へ出る肘木には拳鼻を載ります。小規模な仏堂ですが。「丁寧で気の利いた意匠」と研究者は評価します。
頓證寺殿 本地堂向拝見返し
頓證寺殿の相模大権現の額
白峯権現堂(鎮守堂) 一間社流造、鋼板葺 延宝八年(1680 棟札)
白峯寺拝殿の左奧後方3mほどの所に立つ流造の社殿です。組物はすべて連三斗、中備は蟇股、妻飾は虹梁大瓶束を用いた簡素な流造で、「特徴がないのが特徴」の社殿のようです。天鼻・拳鼻は、隣の崇徳上皇殿とよく似ています。また、浮彫の絵様を彫りだした懸魚、垂木先端に金具を打つ丁寧な仕事ぶりは、拝殿背後の三棟に共通していると研究者は指摘します。
白峯寺頓證寺殿 白峰大権現妻飾
怨霊化した崇徳上皇は大天狗となって祟りを振りまいたとされますが、その子分として活躍したの相模坊です。彼は天狗信仰の持ち主の修験者で、後世には白峰大権現として祀られるようになります。
拝殿前の白峰大権現像
中世の白峰山は天狗信仰で有名でした。これを真似て象頭山金光院も金比羅を天狗信仰の中心地にしようとします。近世初頭の白峰も金比羅も天狗信仰(大権現)の拠点であったことが、このような形で残っているようです。崇徳上皇を祀った社殿とは違って、建築形式も最も一般的な神社本殿の形式を採っています。以上からは頓證寺拝殿は、背後の崇徳上皇殿・本地堂・鎮守社白峯権現堂の三棟に対する拝所で、三棟で共用できる桁行の長い拝殿を建てたことが分かります。
一番上の寛政十二年(1800)刊行の「四国遍礼名所図会」にはそれらしいものが描かれています。真ん中の弘化四年(1847)刊行の「金毘羅参詣名所図会」や一番下の嘉永六年刊行の「讃岐国名勝図会」には、それらしいものは描かれていません。現在の廊が近代になって作られたことは、ある程度裏付けられるようです。
どちらにしても、三棟を一間おきに拝殿に接続するプランで拝殿が建てられていることには違いありません。このように神仏を祀る複数の建物を、ひとまとめにするような拝殿はほとんど例がないようです。例としては、円教寺(兵庫県)鎮守の乙天社と若天社の二棟の護法堂の前には、桁行七間の拝殿がありますが頓証寺のような規格性は見られません。護法堂と拝殿との間も大きく開いています。頓証寺は全体の配置が極めて独特なのです。このような今までにないプランを指示できるのは、松平頼重しかいないように私には思えます。
17世紀末に造られた頓證寺拝殿は、どのように使われてきたのでしょうか?
今は一間おきに、背後の三棟に対応するように、密教の壇が設えられています。が、かつては崇徳天皇・本地仏・相模坊のそれぞれに対して、密教の修法が行われていたことがうかがえます。しかし、それだけではなかったことを教えてくれる史料が残っています。慶応四年(1868)八月に勅使が来た際の堂内の荘厳を示す「頓証寺荘厳図」(白峯寺聖教宝蔵80-72)です。
「頓証寺荘厳図」
これを見ると、大壇は中央にのみ置かれ、両脇間の背面に寄せて三宝に載せた御供と御神酒が供えられています。西端の二間分には勅使の座が設えられています。おそらく崇徳上皇御忌日に勅使が参拝したものでしょう。この時には、三壇は置かれていません。
再建以前の頓証寺本地堂は「六間四面」の建物であったのを四宇に分けたものと延宝七年(1679)本地堂再建棟札に記されています。また承応二年(1653)刊行の「四国遍路目記」にも、その内部について次のように記されています。
其傍二九間四面ノ堂ヲ立テ、中ニハ天皇ノ御影、是ハ御法体ノ時、仁和寺ニテ御震筆二遊シ絵像ナリ、前ニハノ御母義御持尊ノ阿弥陀ノ三尊在り、大壇ノ中央ニハ使者ノ鳶ヲ木像二造テ在、右ハ相模坊自作ノ像在、是ハ頭襟結袈裟スル袴ニテ、有ニハ剣ヲ持、左二念誦フトリ玉フ中々恐キ体也、其前二天皇御守本尊在、中ハ釈迦、左右二大師卜太子ノ像在り、前二相模坊、左右二不動毘沙門也、
意訳変換しておくと
その(白峯陵)傍らに九間四面の堂を建立し、中には崇徳天皇の御影が安置された。これは、御法体の時に仁和寺で御震筆二遊シ絵像である。そこには御母御持尊の阿弥陀三尊があり、大壇中央には使者の鳶木像で造ったものある。右には、相模坊自作の自像がある。その姿は頭襟結袈裟の袴姿で、右手には剣を持ち、左には念誦る姿で、恐しき姿である。その前に天皇御守本尊(十一面観音?)があり、真ん中に釈迦、左右に大師と太子の像がある。前に相模坊、左右二不動毘沙門が置かれている。
ここからは、中世には「崇徳上皇御影 + 阿弥陀三尊 + 鳶の木像 + 相模坊自作の自像 + 十一面観音 + 釈迦・太師・大師 + 不動明王・毘沙門天」などの多くの神仏が置かれていたことが分かります。これが中世の「白峰寺 + 頓證寺」をとりまく宗教的な環境とも云えます。まさに神仏混淆です。ここから拝殿の前身は、崇徳上皇の御影堂というべき建物だったと研究者は考えています。
江戸時代初期になって、中世の白峰寺の姿を描いたとされる「白峯山古図」には、この拝殿はどのように描かれているのでしょうか。
ここには、頓證寺には拝殿や三棟はありません。ただ一棟の「御本社」と勅額門が描かれているだけです。白峯寺古図については、以前にお話したように、絵図の中に描かれている2つの三重塔が発掘調査で確認されていて、その「情報信頼度」が高い絵図です。
ここからは中世には、頓證寺は「御本社」1棟のみで、崇徳上皇の御影堂的な性格であったことが裏付けられます。とすれば、1680年の再建で、頓証寺は大きく「変容」したことになります。つまり、この時に、御影・本地仏・相模坊などが、一堂にあったものを、それぞれを祀る建物と拝殿に分離したのです。この背景には何があったのでしょうか? そこには、近世の国学思想に基づく神仏分離の思想が背景にあったと研究者は考えています。
松平頼重の心の内を覗いて見ると、次のようなものだったと私は考えています。
白峯寺を崇徳上皇慰霊の聖地として復興させよう。そのためにまずは、慰霊施設となる頓證寺を再建させる。その際に、いまの「御本社」の状態は何とかしなければならない。御影とその他のものが一堂に秩序なく、並べられているのは恐れ多いことである。崇徳上皇の御影以外をすべて排除するのは、抵抗が大きく、白峯寺の僧侶たちの同意も得られないだろう。とすれば、崇徳上皇の化身である十一面観音と、相模坊信仰の白峰大権現は別の建物を建てて、そこに祀ろう。そして拝殿は共通にする。限りなく神式であるが運営は、僧侶たちが行う。そんな構想で頓證寺の整備計画を進めさせよう。
「応永十三年(1406)の奥書を持つ「白峯寺縁起」には、次のように記されています。
建長五年(1253)に崇徳上皇の菩提を弔うために二十一日の供僧を定め、二十一口の供僧を定め、「十二時不断の法花の法」を修すこととし、翌六年からは法華会と称した
十六世紀後期に書写された「建長年中当山勤行役定」も「毎年八月法花会法事」と記します。
ここからは、次のようなことが分かります。
①中世には崇徳上皇の菩提は、仏事によって弔われていたこと。②「法花会法事」を担った供僧二十一人は、中世末期の十六世紀の「八講人数帳」「恒例如法経結番帳」に記された院家数と一致すること。
天皇の菩提を弔う供僧が、そのまま寺院を構成する院家となって近世まで受け継がれる例は、京都鳥羽の安楽寿院にもあるようです。天皇の墓を核とした白峯寺でも、このような寺院組織の形成と継承が行われていたと研究者は推測します。そうだとすると崇徳上皇の墓が設けられる以前からあった白峰寺は、13世紀中期以降は頓証寺の供僧二十一口を構成メンバーとする新たな寺院に転換したとして、研究者は次のように指摘します。
頓証寺の供僧集団が前身寺院(白峯寺)を継承し、近世にいたって、頓証寺の伽藍を再編し、白峯寺も再興した
と見ることもできると研究者は指摘します。そのような変容を経た姿が現在の頓証寺と白峯寺と云うのです。
以上をまとめておきます。
①白峯寺は経済的に藩の庇護を受けていただけではなく、藩お抱えの宮大工集団が派遣されて、堂宇の造営・修理に当たっていたことが棟札からは分かること。
②白峯寺と頓証寺の境内は、17世紀後期に松平頼重によって再興され、さらに19世紀前期までにいくつかの建物が改築され、現在に至ること。
③これらの建築物は、高い技術をもった大工集団の手によるもので、その質は高い。
④とくに頓証寺の堂舎は質的な高さに加えて、従来の中世以来の崇徳上皇を祀る施設を、機能毎に分離して近世的な施設に変容させた独特の建築構成を持っていること。
研究者は④を、建築史的に高く評価します。崇徳上皇殿などの三棟を後方に控える間口七間の拝殿は、松平頼重の宗教政策の中からうまれてきたプランの可能性が高いと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
山岸 常人 白峯寺の建造物 調査報告書NO2(2013年) 香川県教育委員会































