瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:白峯寺別所

金刀比羅宮を訴えた白峯寺

本日いただいたテーマは、大変重いもので私にこれに応える力量はありません。テーマの周辺部を彷徨することになるのを初めにお断りしておきます。さて、このテーマの舞台となるのが、白峯寺の頓證寺(とんしょうじ)殿です。門の奥に見えるのが頓證寺です。その奥に崇徳上皇の陵墓があります。ここでは、白峯寺の中には、頓證寺という別の寺があったことを押さえておきます。

白峯寺 謎解き

本日のテーマに迫るための「戦略チャート 第1」です。このテーマの謎解きのために、つぎのようなステップを踏んでいきたいと思います。 
①どうして、もともと白峯寺にあったお宝が、今は金刀比羅宮にあるのか。→ 明治の神仏分離の混乱期に 
②どうして白峯寺に沢山の宝物があったのか →
 崇徳上皇をともらう寺院として、天皇など有力者の信仰を集め、寄進物があつまってきたということです。
③どうして、崇徳上皇は白峯山に葬られたのか
 白峯山が山林修行者の霊山であり行場であったからでしょう。
④中世の白峯寺とはどんな寺院だったのでしょうか。
そこで、④→③→②→①のプロセスで見ていくことにします。

白峯寺古図3

まず見ていただくのが白峯寺古図です。これは中世の白峯寺の姿を近世になって描かせたものとされます。右下から見ていくと
① 綾川 ② 雌山・雄山・青海の奥まで海が入り込んでいたこと ③ふもとに高屋明神と紺谷明神が描かれています。このエリアまで白峯寺の勢力の及んでいたと主張しているようです。④海からそそり立つのが白峰山 そこから稚児の瀧が流れおち、断崖の上に展開する伽藍 ⑤崇徳上皇陵 本堂 いくつもの子院 三重塔 白峰山には権現とあります。
 書かれている内容については、洞林院が近世になって中世の栄華を誇張したものとされていました。だから事実を描いたものとは思われていませんでした。その評価大きく変わったのは最近のことです。そのきっかけとなったのは、四国遍路のユネスコ登録のために、各霊場での発掘発掘です。白峯寺でも発掘調査が行われた結果、この絵図に書かれている本堂横と別所から塔跡が出てきたのです。いまでは、ここに書かれている建物群は実際にあったのではないかと研究者は考えています。それを裏付ける資料を見ておきましょう。

白峯寺子房跡

白峯寺の測量調査も行われました。白峯寺境内の実測図 
①駐車場の ②本坊 ③崇徳上皇陵 ④頓證寺 ⑤本堂 
注目して欲しいのは、白い更地部分です。本堂の東側と川沿いにいくつものにならんでいます。これが中世の子院跡だというのです。ここからも中世には21の子院があったという文献史料が裏付けられます。もう少し詳しく白峯寺古図を見ておきましょう。

白峯寺古図 本堂と三重塔
白峰寺古図 拡大 本堂周辺
①白峰山には「権現」とあります。「権現=修験者によって開かれた山」です。ここからはこの地が修験者にとって聖地であり、行場であったことが分かります。

白峯寺 別所5
白峰寺古図拡大 別所
②三重塔が見える所には「別所」とあります。ここは根香寺への遍路道の「四十三丁石」がある所です。現在の白峯寺の奥の院である毘沙門窟への分岐点で、ここに大門があったことになります。別所は、中世に全国を遍歴する修験者や聖などが拠点とした宗教施設です。ここからも数多くの山林修行者が白峯山にはいたことがうかがえます。

次に、中世の白峯寺の性格がうかがえる建物を見ておきましょう。
白峯寺は、中世末期に一時的に荒廃したのを、江戸時代になって初代高松藩主の松平頼重の保護を受けて再建が進められました。藩主の肝いりで建てられた頓證寺などは、当時の藩のお抱え宮大工が腕を振るって建てたものもので、いい仕事をしています。それが認められて、数年前に9棟が一括で重文に指定されました。そのなかで、中世の白峯寺を物語る建物を見ておきます。

白峯寺 阿弥陀堂
白峯寺阿弥陀堂
①本堂北側にある阿弥陀堂です。
宝形造りの小さな建物です。中には阿弥陀三尊、その後ろの壁に高さ16cmの木造阿弥陀如来像が千体並べられているので「千体阿弥陀堂」とも呼ばれていたようです。真言宗と阿弥陀信仰は、現在ではミスマッチのように思えますが、中世には真言宗の高野山自体が念仏聖たちによって阿弥陀信仰のメッカになっていた時期があります。その時期には白峯寺も阿弥陀念仏信仰の拠点として、多くの高野聖たちが活動していたことが、この建物からはうかがえます。「真言系阿弥陀念仏」の信仰施設だったと研究者は考えています。

白峯寺行者堂

本堂・阿弥陀堂よリー段下がった斜面に立つ行者堂です。
これも重文指定です。現在は閻魔などの十王が祀られています。
しかし、この建物は「行者堂」という名前からも分かるとおり、もともとは役行者を奉ったものです。役行者は、修験道の創始者とされ、修験者たちの信仰対象でもありました。修験者が活動した拠点には、その守護神である不動明王とともに、役行者がよく奉られています。これも、白峯寺が修験者の霊山であったことをしめしています。
今まで見てきた白峯寺の性格をまとめておきます。

中世の白峯寺の性格

次に白峯寺縁起で、本尊の由来を見ておきましょう。

白峯寺本尊由来2

 ここには次のようなことが記されています。
①五色台の海浜は、祈念・修行(行道)の修験者の行場であった。
②補陀落山から霊木が流れてきたこと。
③その霊木から千手観音を掘って、4つの寺に安置したこと。
④4つの寺院とは、根来寺・吉永寺(廃寺)・白牛寺(国分寺)・白峯寺
この4つのお寺の本尊は同じ霊木が掘りだされものだというのです。共通の信仰理念をもつ宗教集団であったことがうかがえます。それでは、その本尊にお参りさせていただきます。

国分寺・白峰寺・根来寺の本尊
国分寺・白峰寺・根来寺の本尊
①国分寺の観音さまです。讃岐で一番大きな観音さまで約5mのいわゆる「丈六」の千手観音立像で、平安時代後期の作とされます。その大きさといい風格といい、他の寺院の観音さまを圧倒する風格です。奈良の長谷寺の観音さまと似ていると私は思っています。
②次が白峯寺の観音さまです。崇徳上皇の本地仏とされ、頓證寺の観音堂(本地堂)に安置されていました。③次は根来寺です。天正年間(西暦1573年~1592年)の兵火で本尊が焼失したので、末寺の吉水寺の本尊であった千手観音をお迎えしたと伝えられています。吉水寺も同じ霊木から掘りだされた観音さまが安置されたと縁起には書かれていました。
こうしてみると確かに3つの観音さまは、共通点があります。そして五色台周辺の四国霊場は、みな観音さまが本尊で観音信仰で結ばれていたことになります。ところがこれだけでは終わりません。四国霊場の屋島寺を見ておきましょう。

屋島・志度寺の本尊観音
屋島寺と志度寺の本尊
屋島寺も千手観音です。この観音さまは、平安時代前期のものとされ、県内でもとくに優れた平安彫刻とされています。
次の志度寺は、山号を「補陀落山」と称しています。そして、志度寺の本尊も千手観音です。この観音さまの由来を、志度寺縁起7巻には次のように記します。

近江の国にあった霊木が琵色湖から淀川を下り、瀬戸内を流れ、志度浦に漂着し、・・・・24・5歳の仏師が現れ、霊木から一日の内に十一面観音像を彫りあげた。その時、虚空から「補陀落観音や まします」という大きな声が2度すると、その仏師は忽然と消えた。この仏像を補陀落観音として本尊とし、一間四面の精合を建立したのが志度寺の始まりである。

霊木が志度の浜にたどり着いた場面です。

志度寺縁起
志度寺縁起 霊木の漂着と本堂建立
流れ着いた霊木が観音さまに生まれ変わっている場面です。観音の登場を機に本堂が建立されています。寺の目の前が海で、背後には入江があります。砂州上に建立されたことが分かります。本尊は補陀落観音だと云っていることを押さえておきます。

最後に志度寺の末寺だったとも伝えられる長尾寺を見ておきましょう。近世の初めの澄禅の四国辺路日記には、次のように記します。

四国辺路日記 髙松観音霊場

こうしてみると、現在の坂出・高松地区の四国霊場は、中世には千手観音信仰で結ばれていたことになります。別の言い方をすると、観音信仰を持つ宗教者たちによって開かれ、その後もネットワークでこれらの7つの霊場は結ばれていたということです。それでは、これらの寺を開いたのは、どんな宗教者達なのでしょうか。それを解く鍵は、今見てきた千手観音さまにあります。
 千手観音信仰のメッカが熊野の那智の浜の補陀落山寺です。

補陀落渡海信仰と千手観音.2JPG

 ①補陀落信仰とは観音信仰のひとつです。②観音菩薩の住む浄土が補陀落山で、それは南の海の彼方にあるとされました。③これが日本に伝わると、熊野が「補陀落ー観音信仰」のメッカとなり、そこで熊野信仰と混淆します。こうして熊野行者達によって、各地に伝えられます。そして、足摺岬などで修行し、補陀落渡海するという行者が数多くあらわれます。それでは、補陀落信仰のメッカだった熊野の補陀落山寺のその本尊を見ておきましょう。

補陀落渡海信仰と千手観音

これが補陀落山寺の本尊です。
以上の補陀落・観音信仰の讃岐での広がりを跡づけておきます。
①熊野水軍の瀬戸内海進出とともに、船の安全を願う祈祷師として、瀬戸内海に進出 各地に霊山を開山・行場を開きます。
②その拠点になったのが、児島の新熊野(五流修験)です。児島を拠点に、小豆島や讃岐方面に布教エリアを拡げていきます。
③熊野行者達は、背中の背負子の中に千手観音さまを入れています。そして新しく行場や権現を開き。お堂を建立するとそこには背負ってきた観音さまを本尊としたと伝えられます。
④それが高松周辺の7つの観音霊場に成長し、七観音巡りがおこなわれていたことが見えて来ます。
こうしてみると、白峯寺や志度寺は孤立していたわけではないようです。「補陀落=観音信仰」のネットワークで結ばれていたことになります。それが後世になって高野聖達が「阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰」をもたらします。そして、近世はじめには四国霊場札所へと変身・成長していくと研究者は考えています。
七つの行場で山林修行者は、どんな修業をおこなっていたのでしょうか? 
山林修行者の修行

①修業の「静」が禅定なら、「動」は「廻行・行道」です。神聖なる岩、神聖なる建物、神木の周りを一日中、何十ぺんも回ります。円空は伊吹山の平等岩で行道したと書いています。「行道岩」がなまって現在では「平等岩」と呼ばれるようになったようです。江戸時代には、ここで百日「行道」することが正式の行とされていました。
②行道と木食は併行して行われます。③そのためそのまま死んでいくこともあります。これが入定です。④そして修業が成就したとおもったらいよいよ観音浄土の補陀落めざして漕ぎ出していきます。これが補陀落渡海です。この痕跡が五色台や屋島の先端や志度寺には見られます。五色台の海の行場を見ておきましょう。

五色台 大崎の鼻

ここは五色台の先端の大崎の鼻から見える光景です。目の前に、大槌・小槌の瀬戸が広がります。補陀落渡海をめざす行者達の行場に相応しい所です。ここから見えるのが大槌と小槌島で、この間の瀬戸は古代から知られた場所でした。大槌・小槌は海底世界への入口だというのです。以前にお話しした神櫛王の悪魚退治伝説の舞台もここでした。瀬戸の船乗り達にとっては、ランドマークタワーで名所だったようです。そこに突き出たようにのびるのが大崎の鼻。中世の人々で知らないものはない。ここと白峰山の稚児の瀧を往復するのが小辺路だったのかもしれません。そこに全国から多くの廻国行者や聖達が集まってくる。その一大拠点が白峯山の別院であり、多くの子院であったということになります。これをまとめておくと、古代から中世の白峰寺は、次のような性格を持った霊山だったことになります。

中世の白峯寺2

こういう霊山だったから崇徳院は、白峯山に葬られたとしておきます。ここまでが今日の第一ステップです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
「武田和昭  讃岐の七観音   四国へんろの歴史15P」
「松岡明子  白峯山古図―札所寺院の境内図 空海の足跡所収」
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白峯寺古図 地名入り
白峯寺古図に描かれた三重塔
  白峯寺古図には、次の三つの三重塔が描かれています。
①神谷神社の背後の三重塔
②白峯寺本堂西側の三重塔
③白峰寺本堂の東側の「別所」の三重塔
白峯寺古図 本堂と三重塔
白峯寺本堂西側の三重塔(白峯寺古図)

前回は②の本堂西側の発掘調査の結果、塔の遺構が出てきて、中世には三重塔がここにはあったことが確認されたことを見てきました。それでは、③の別所の三重塔はどうなのでしょうか。まずは、白峯寺古図で「別所」の部分を拡大して見てみましょう。
白峯寺 別所拡大図

「別所」をみると、白峯寺から根香寺に向かう参道沿いで、中門と大門の間にあります。参道沿いに鳥居が描かれていて、鳥居をくぐると次のような建物が並んでいます。
①正面に梁間3間×桁行2間、桁行3間の入母屋造りの瓦葺建物
②向かって右側には梁間2間×桁行2間の入母屋造りの瓦葺
③建物②と直行するように瓦葺の建物
④向かって左側には瓦葺の三重塔
⑤三重塔の前に鐘楼
鳥居が描かれているので、正面にある建物は、神仏混合の堂舎のようです。しかし、塔や鐘楼もあるので白峯寺の一つの子院の可能性があります。
「別所」を「浄土宗辞典」で調べると、次のように記されています。
本寺の地域とは別に、修行のためなどに存在する場所。別院。隠遁者や修行者が草庵などを構えて住む場所で、特に平安後期以降、念仏者が好んで別所に住した。所属する寺院にあわせて「○〇別所」などとして用いられる。例えば南都寺院では東大寺の別所として、重源が定めたとされる播磨別所や高野の新別所など七箇所が、興福寺には小田原別所がある。また京都比叡山の別所には西塔黒谷や大原の別所が存在した。別所は念仏信仰とかかわりが深く、播磨別所には浄土寺が、小田原別所には浄瑠璃寺が存在し、ともに念仏信仰の場であった。また比叡山の別所である黒谷からは法然が、大原からは良忍がでている。
また別所は、聖(ひじり)と呼ばれる行者たちとも関係が深く、彼らの存在は民間への念仏信仰の普及の一助になったと考えられている。平安後期頃から見られる別所を中心とした様々な念仏信仰の形成は、日本における浄土教の発展を考える上で重要なものである。
  ここからは別所は、本寺とは離れて修行者の住む宗教施設で、後には念仏信仰の聖たちの活動拠点となったとあります。白峯寺の別所も「浄土=阿弥陀信仰の念仏聖たちの活動拠点」であった可能性があります。
「白峯山古図」に描かれている「別所」は、どこにあったのでしょうか?
研究者は次のような手順で、位置を確定していきます。
①白峯寺古図の細部の情報読取り
②周辺エリアの詳細測量で、かつて子院や堂宇があった可能性のある平坦地の調査と分布図図作成。
③絵図資料と比較しながら平坦地分布図に、かつて存在した子院や堂宇を落とし込んでいく
白峯寺 境内建物変遷表2
白峯寺境内の平坦地分布図

高屋や神谷村方面からの参道にも大門と中門が描かれていたのは前回に見たとおりです。「別所」周辺にも、「大門」と「中門」があります。
白峯寺 別所5
白峯寺古図 別所の中門付近
まず中門を見ると、周辺に白色の五輪塔が11基が群集するように描かれています。この五輪塔群は、現在の白峯寺の歴代住職の墓地とその背後に凝灰岩製の五輪塔が多数建ち並ぶ墓地周辺だと研究者は推測します。
白峯寺近世墓地3
白峯寺歴代住職の墓地
また、中門より手前(西側)には「下乗」と描かれた白色の石造物があります。ここは白峯寺の境内中心部の建物群が途切れる所になります。ここからは、中門は白峯寺の墓地あたりであることが裏付けられます。
白峯寺下乗碑
下乗碑
「大門」について見てみると、「大門」と注記された左下方に「昆沙門嶽」と書かれています。
「昆沙門嶽」は、現在の白峯寺の奥の院です。奥の院毘沙門窟への分岐点に大門はあったことになります。ここは根香寺への遍路道の「四十三丁石」でもあります。
P1150814
白峯寺奥の院毘沙門窟への分岐点

この推察に基づいて、研究者は「中門」と「大門」の間を踏査します。その結果、10m×10m程度の平坦地や20m×15m程度の平坦地が7か所集中している場所を発見します。平坦地の中には、礎石と考えられる石材の散布する地点を2ヶ所見つけます。この場所をトレンチ調査した結果を、次のように報告しています。要約
白峯寺別所三重塔基壇跡
白峯寺別所の三重塔基壇
 別所には、「白峯山古図」(江戸前期)では、三重塔・仏堂を中心に鐘楼・僧坊などが描かれる。発掘結果、三重塔や仏堂と推定される遺構が発見される。三重塔跡は東西6.3m南北6.4mの規模で、仏堂跡は東西3.6m南北5.4mを測る。
○塔跡:仏堂跡西側で3間四方(約6m×6m)の礎石列を確認する。礎石は9個検出し、柱間は約2mを計る。高さ30cmほどの基壇を造成し、一辺は約8.5mである。
○仏堂跡:礎石は2個検出、礎石間は1.8mを計る。建物規模は2×3間と推定される。

白峯寺 別所拡大図

先ほど見たように「白峯山古図」の「別所」には、左に三重塔、右に入母屋造りの瓦葺建物が描かれていました。これは、発掘調査の結果とぴったりと合います。ここからは以下のことが云えます。
①「白峯山古図」に描かれている建物の存在が発掘調査で証明されたこと、
②出土遺物からこれらの建物は、使用瓦から15世紀前半を中心と時期のものであること
白峯寺 別所仏塔出土物
白峯寺別所 仏塔の出土遺物

ここまでで私に理解できたのは、白峯寺の伽藍は中世においては現在よりも遙かに広かったということです。研究者は、白峰寺の伽藍を上図の3つのエリアに分けて考えているようです。

白峯寺 伽藍3分割エリア図
中世白峯寺の3つの伽藍配置図
A地区 現在の白峯寺境内を中心として、稚児川を挟み平坦地が確認できる地区
B地区 A地区の奥に広がる傾斜の緩やかな地区、別所地区
C地区、B地区の奥の古田地区   現自衛隊の野外施設周辺
今まではA地区だけを、私は白峯寺の伽藍と考えていました。しかし、白峯寺古図が教えてくれたことは、「別所」と呼ばれるB地区があったこと、そこには本堂と同じように三重塔を持った宗教施設があり、そこが修験者や念仏阿弥陀聖の活動拠点であったことです。
「解説用の白峯山古図」 (下図拡大図)

 また、発掘調査した次の3ヶ所からは、白峯寺古図に書かれていたとおりのものが出てきたことになります。
①本堂西側16世紀の三重塔跡
②本堂東側16世紀の洞林院跡
③別所の三重塔
 ここからは、白峯寺古図に書かれた絵図情報が極めて正確なことが改めて実証されたことになります。絵図上に書かれた大門や中門なども実在した可能性が高くなりました。

最後に地図で別所を確認しておきます。
白峯寺 別所3

本坊から現在の四国の道「根香寺道」をたどって登っていきます。この参道沿いの両側にも平坦地が並び、かつての子院跡があったようです。摩尼輪塔と下乗石の上の窪みが池之宮になります。反対側が白峰寺の墓地で、この辺りに中門があったことになります。
白峯寺 別所周辺地図
白峯寺別所への道

笠塔婆/下乗碑を経て、左に白峯山墓地、右に池之宮跡の凹地を過ぎると、やがて「別所」への分岐(⊥字分岐)があり、ここには石仏が見守っています。
白峯寺遍路道 別所分岐点
白峯寺別所へのT字路
石仏背後の平坦地の右奥が別所跡になるようです。しかし、発掘調査後に埋め戻されたようで、仏堂や塔跡などを示すものは何もありません。どの平坦地が塔跡なのかも分かりません。ただこの辺りに、三重塔をともなう寺院があり、行場である毘沙門窟と、五色台の岬先端の海の行場を結ぶ「行道」を繰り返していたのかもしれません。また、後にはここを拠点に高野聖たちが阿弥陀・念仏信仰を里の郷村に布教していたのかも知れません。どちらにしても多くの行者や聖たちのいた別所は、いまは礎石らしい石がぽつんぼつんと散在するのみです。
白峯寺へんろ道石仏
白峯寺別所跡を見守る石仏たち
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「平成23年度白峯寺別所の調査 白峯寺調査報告書2012年 香川県教育委員会」


P1150700
白峯寺の頓證殿
白峰寺の紫陽花が見頃ですよと教えていただいて、花見ついでに境内や奥の院の毘沙門窟を歩いてきました。境内に咲き誇る紫陽花は見事なもので、古い堂宇を引き立てていました。ところで紫陽花の背後の堂宇に近づいて眺めていると、どれもが「重要文化財」と書かれています。白峰寺に重要文化財の建物がこんなにあったのかなと不思議に思っていると、2016年に白峰寺の7つの堂宇が国の重要文化財に一括して指定されていたようです。何も知りませんでした。お恥ずかしい話です。それらの重要文化財の縁側に腰を下ろして、紫陽花を眺めながら白峯寺の報告書を読みました。

P1150677
白峯寺の柏葉紫陽花
訪れる人も少なく、ヤブ蚊に悩まされることもなく至高の時間を頂きました。その時に読んだ報告書の内容を、私なりに要約すると次のようになります。

 白峰寺や根香寺がある五色台は、国分寺背後の霊山で、そこは三豊の七宝山のように修験者たちの「中辺路」の行場ルートがありました。海と山と断崖の窟の行場を結んで行者たちは「行道」と「瞑想」を日夜繰り返します。その行場の近くに山林修行者がお堂や庵が姿を現します。行場の一つである稚児の瀧の近くに建てられたお堂が白峯寺の起源だと研究者は考えています。白峰寺は、行場に造られたお堂から発展してきたお寺なのです。これは根香寺も同じです。

今回は中世の白峯寺が、どんな僧侶たちの集団によって構成されていたのかを見ていくことにします。
比較のために以前にお話しした善通寺の僧侶集団のことを見ておきましょう。中世の善通寺には次のような僧侶達がいました。
①二人の学頭
②御影堂の六人の三味僧
③金堂・法華堂に所属する18人の供僧
④三堂の預僧3人・承仕1人
このうち②の三味僧や③の供僧は寺僧で、評議とよばれる寺院の内意志決定機関の構成メンバー(衆中)でした。その下には、堂預や承仕などの下級僧侶もいたようです。善通寺の構成メンバーは約30名前後になります。

白峯寺 構成メンバーE
大寺院の構成メンバー 
寺院の中心層は、学僧や修行僧たちです。
しかし、彼らに仕える堂衆(どうしゅう)・夏衆(げしゅう)・花摘(はなつみ)・久住者(くじゅうさ)などと呼ばれた存在や、堂社や僧坊の雑役に従う承仕(しょうじ)公人(くにん)・堂童子(どうどうじ)、さらにその外側には、仏神を奉じる神人やその堂社に身を寄せる寄人や行人たちが数多くいたようです。特に経済力があり寺勢が強い寺には寄人や行人が集まってきます。また武力装置として僧兵も養うようになっていきます。

   弥谷寺の「中世の構成員」も見ておきましょう。
  鎌倉時代の初めに讃岐に流刑となった道範から弥谷寺の中世の様子が見えてきます。道範は高野山で高位にあった僧侶なので、善通寺が彼を招き入れます。道範は、善通寺で庵を結んで8年ほど留まり、案外自由に各地を巡っています。それが『南海流浪記』に記されています。道範は、高野山で覚鑁(かくはん)がはじめた真言念仏を引き継ぎ、盛んにした人物でもありました。彼は、讃岐にも阿弥陀信仰を伝えた人物でもあるようです。道範が「弥谷上人」からの求めで著した『行法肝葉抄』(宝治2年(1248)の下巻奥書に、次のような記述があります。
宝治二年二月二十一日於善通寺大師御誕生所之草 庵抄記之。是依弥谷ノ上人之勧進。以諸口決之意ヲ楚忽二注之。
書籍不随身之問不能委細者也。若及後哲ノ披覧可再治之。
是偏為蒙順生引摂拭 満七十老眼自右筆而已。      
                阿開梨道範記之
意訳変換しておくと
宝治二(1248)年2月21日、善通寺の弘法大師御誕生所の庵で書き終える。この書は弥谷ノ上人の勧進でできたものである。(弥谷上人からの)依頼を受けて、すぐさまに書き上げたもので、流刑の身で手元に参考書籍などがないために、細部については落ち度があるかもしれない。もし後日に誤りが見つかれば修正したい。是偏為蒙順生引摂拭 満七十老眼自右筆而已。      
                阿開梨道範記之
 ここで研究者が注目するのは「弥谷の上人の勧進によってこの書が著された」と記されている箇所です。普通は、上人とは高僧に対する尊称です。しかし、ここでは、末端の堂社で生活する「寄人」や「行人」たちを「弥谷ノ上人」と記していると研究者は指摘します。また「弥谷寺」ではなく「弥谷」であることにも注意を促します。ここからは、行人とも聖とも呼ばれる「弥谷ノ上人」が拠点とする弥谷は、この時点では行場が中心で、善通寺のような組織形態を整えた「寺」ではなかったと研究者は考えています。また、この時点では、弥谷寺と善通寺は本末関係もありません。善通寺と曼荼羅寺のような一体性もありません。弥谷(寺)は、善通寺の「別所」であり、行場でした。そこに阿弥陀=浄土信仰の「寄人」や「行人」たちがいたのです。
行人層は、寺領によって日々の糧を保障されている上部僧の大衆・衆徒とは違って、自分の生活は自分で賄わなければなりません。
そのため托鉢行を余儀なくされたでしょう。その結果、地域の人々との交流も増え、行基や空也のように、橋を架け、水を引くなどの土木・治水活動にも尽力します。さらに治病にも貢献し、死者の供養にも積極的に関わっていったようです。そうした活動の中で、庶民に中に入り込み、わかりやすい言葉で口称念仏を広めていきます。高野山が時衆念仏で阿弥陀信仰に染まった時期には、高野聖たちによって弥谷寺や白峯寺も阿弥陀信仰の布教拠点となります。それは、現在でも白峰寺境内に阿弥陀堂があることからもうかがえます。

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白峯寺阿弥陀堂
 このように地方の有力寺院の場合、学侶(学問僧)・行人・聖などで構成されていたようです。まず学侶(学頭)については、寺院の僧侶身分の中で最も上位に立つ存在で、中心的な位置を占めていました。学業に専念する狭義の学頭がいたようです。しかし、白峰寺や根来寺では、学問僧の影は薄いようです。
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白峯寺薬師堂
白峯寺で多くを占めたとみられるのは「衆徒」です。
『白峯寺縁起』に「衆徒中に信澄阿閣梨といふもの」が登場します。また元禄8年(1695)の「白峯寺末寺荒地書上」には、中世まで活動していたと考えられる「白峯寺山中衆徒十一ケ寺」が書き上げられています。この他、天正14年(1586)の仙石秀久寄進状の宛所は「しろみね衆徒中」となっています。一般には武装する衆徒も多かったようです。当時の情勢からして、白峯寺が僧兵的な集団を抱え込んでいた可能性は充分にあることは以前にもお話ししました。

白峯寺縁起 巻末
白峯寺縁起 巻末部分

13世紀半ばの「白峯寺勤行次第」には、次のようなことが書かれています。
①浄土教の京都二尊院の湛空上人の名が出てくること
②勤行次第の筆者である薩摩房重親は、吉野(蔵王権現)系の修験者であること
③勤行次第は、修験者の重親が白峯寺の洞林院代(住持)に充てたものであること
 ここからは、次のような事が分かります。
①子院の多くが高野聖などの念仏聖の活動の拠点となっていたこと
②熊野行者の流れをくむ修験者たちが子院の主となっていたこと
③修行に集まってくる廻国修行者を統括する中核寺院が洞林院であったこと
 鎌倉時代後期以降の白峯寺には、真言、天台をはじめ浄土教系や高野系や熊野系、さらには六十六部などの様々の修行者が織り混じって集住していたと坂出市史は記します。その規模は、弥谷寺などと並んで讃岐国内で最大の宗教拠点でもあったようです。
 それぞれの子院では、衆徒に対して奉仕的な行を行う行人らが共同生活をしていたと研究者は考えています。
白峯寺における行人の実態は、よくわかりません。おそらく山伏として活動し、下僧集団を形成したと研究者は考えています。たとえば若狭国の有力寺院である中世の明通寺では、寺僧は「顕・密・修験」を兼ねていました。白峯寺における衆徒の中にも修験に通じ、山岳修行を行っていた人々もいたはずで、集団としての区分も曖味であったかもしれません。彼らにとっては、真言・天台の別はあまり関係なかったかもしれません。

白峯寺 境内建物変遷表2
白峰寺境内実測図
上の白峰寺の実測図を見ても、数多くの子院跡があったことがうかがえます。
学侶の代表として、一山全体を統括したのが「院主」です。
先ほど見た高野山の高僧・道範は、讃岐での8年間の滞在記録を「南海流浪記」として残しています。この日記の中で白峰寺が登場する部分は、建長元年(1249)8月に道範が流罪を許されて高野山へ還る途上のことです。そこには、善通寺から白峯寺へ移り、白峯寺院主の静円(備後阿閣梨・護念房)の求めに応じて伝法しています。その後、本堂修理供養の曼茶羅供で大阿闊梨を勤めたことが記されています。
 ここからは次のようなことが分かります。
①静円が院主であったことから、当時の白峯寺が院主を中心に、子院連合で運営されたこと
②院主静円は、高野山の高僧・道範から伝法されているので高野山系の真言僧侶であったこと。
また室町期の応永21年(1414)に後小松上皇が廟所・頓證寺の額を収めていますが、その添書は「院主御坊」宛になています。ここからも中世の白峯寺は、院主を中心とした体制であったことが裏付けられます。比較のために若狭国の明通寺を見てみると、戒薦によって一和尚から五和尚までの位階があり、一和尚が院主に補任されることとなっています。暦応5年(1342)の白峯寺の記録にも「一和尚法印大和尚位頼弁」と見えます。ここからは、戒蕩によって院主が補任されていたことが裏付けられます。
 中央の顕密寺院では三綱や政所などの運営組織がつくられ、寺務を担っていました。しかし、中世の白峯寺の場合は、そうした組織は史料には出てこないようです。若狭国の明通寺の場合などは、年行事が寺僧から選ばれ、一年交代で一山の寺務を行ったのではないかと研究者は考えています。このような運営が白峯寺でも行われていたことが推察できます。なお、江戸時代末期の納経帳には「白峯寺政所」の記述がありますが、これが中世までさかのぼるとは研究者は考えていないようです。

白峯寺古図拡大1
白峯山古図(部分)

聖については「白峯山古図」に、阿弥陀堂や別所が見えているので、聖集団が存在したようです。
発掘調査でも、現在の境内からはやや離れた山の中に別所があったことが分かっています。ここからも白峯寺の周縁部に聖集団がいたことが裏付けられます。

白峯寺 別所
白峰山古図に描かれた別所 
白峯寺には中世の連歌作品が「崇徳院法楽連歌」として残されています。
期間は天文17年(1548)から天正4年(1576)までの約30年間のものです。これについて研究者は、この連歌会は、白峯寺僧らによって運営されていたと指摘しています。この連歌会によく登場する「良宥、宥興、宗盛、宗意、宗繁、増盛、宗伝、宗源、惣代、増鍵、勢均」です。また永禄(1558~70)ころ以降に登場する者には「恰白、宗任、増厳、宗快、増徳、増政、宋有」らがいます。名前を見ると「宥」「宗」「増」などの字が多いことに気がつきます。「これらは多分白峯寺かもしくは近隣の僧侶や神官たちであったのではないか」と研究者は考えています。その裏付けは以下の通りです。
 戦国期の白峯寺については、「宗」のつく人物として永禄10年(1567)の「岡之坊宗林」が『讃岐国名勝図会』の「大鼓筒」の筒内銘で確認できます。ここには「院主宗政」や「再興洞林院代宝積院阿閣梨宋有」の名もあります。このほか慶長9年(1604)の棟札には、一乗坊宥延・花厳坊増琳・円福寺増快・西光寺宗円・円乗坊宥春・南之坊宗伝・宝林坊増円が名を連ねています。「宥」「宗」「増」を通字とした白峯寺僧がいたことが分かります。ここからは戦国期の「崇徳院法楽連歌」は白峯寺の僧やその周辺にいた有力者人たちによって担われ、彼らに支えられて戦国期の白峯寺は綾北平野の文化活動の拠点となっていたと研究者は考えています。

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白峯寺の「別所」の現在位置
 歌人として著名な西行も「本職」は高野聖でした。
讃岐では白峯御陵を訪ねた後は、善通寺の我拝師山の捨身ケ岳で修行を3年行っています。連歌師として活躍する高野聖が多かったことは、いろいろな史料から分かります。この時代の白峰寺周辺には、連歌会に参加する僧侶が何人もいて、彼らが子院の居住者であったことが推察できます。ここからも中世の白峯寺に多数の子院があったことが事実であったことが裏付けられます。さらに、香西氏の一族が定期的に参加する連歌会が行われていた史料もあります。ここからは、香西氏などの有力者を保護者としていたこともうかがえます。

中世には活発な海上交通などを背景として讃岐でも熊野信仰が定着し、熊野参詣者(檀那)も増えます。
文明16(1484)年の熊野那智大社の檀那売券に「福江之玉泉坊」があります。ここからは福江(坂出市)には熊野参詣へ赴く旦那がいたことが分かります。さらに天文22(1553)年の「中国之檀那帳」には、旦那がいた地域として「賀茂 氏部 山本 林田 松山」の「綾北条五郷」があげられています。このように中世後期には、綾北平野の有力者が熊野参詣を行っていたことが分かります。熊野詣では、個人参拝ではなく先達に率いられて行く集団参拝でした。つまり、それを率いていく先達(熊野行者)が周辺部にいたことになります。
 文明5(1473)年には、紀州熊野那智社の御師光勝房が、相伝してきた讃岐国の旦那権・白峯寺先達権を銭18貫文、年季15年で花蔵院へ売り渡している記録があります。ここからは、白峰寺の子院の中には、熊野詣での先達を務める行者がいたことが分かります。熊野行者をはじめ、多くの廻国する聖や行者らが白峯寺を拠点に活動していたことが、ここからも裏付けられます。
 このように中世の白峯寺は、古代に引き続いて山岳仏教系の寺院として展開していたようです。さらに近世になっても行者堂が再建立されています。白峯寺は山岳信仰の拠点として長らく維持されたといえます。
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白峯寺行者堂
 白峰寺の「恒例八講人数帳」及び「恒例如法経結番帳」には、戦国期の白峯寺には次のような21の坊があったと記します。

持善坊・成就坊・成実坊・法花坊。新坊・北之坊(喜多坊)・円乗坊・西之坊・宝蔵寺・一輪坊・花厳坊・洞林院・岡之坊・宝積院・普門坊・一乗坊・明実坊・宝光坊・実語坊・千花坊・谷之坊

これらの子院は、どのように形成されたのでしょうか。
研究は、『白峯寺縁起』(応永13年(1406)の次の部分に注目します。
「建長四年十一月の比、唐本の法華経一部をくりまいらせさせ給、翌年松山郷を寄られ、御菩提のため十二時不断の法花の法を始をかれ二十一口の供僧勅請として、各二十一通の御手印の補任を下さる、(中略)又六年より法華会を行はる」

意訳変換しておくと
「建長4(1252)年11月頃に、唐本の法華経一部が寄贈され、翌年には松山郷が寄進された。これ以後、御菩提のため不断法花の法が開始され、21人の供僧勅請として、各21通の御手印の補任が下された。(中略)又六年からは法華会が行われるようになった。

ここからは、室町時代中期の白峯寺では建長4年(1252)頃から法華経を講説する法会が行われるようになり、それに伴って21の供僧が置かれたとする認識があったことが分かります。例えば京都鳥羽の安楽寿院の場合を見てみると、天皇の菩提を弔う供僧がそのままその寺院を構成する院家となって、近世まで受け継がれています。天皇の墓を核とした寺院では、こうした寺院組織の形成と継承が行われていたようです。
 また、元禄8年(1695)の「白峯寺末寺荒地書上」にも荒廃する以前の状況として「白峯寺山中衆徒廿一ケ寺」が書き上げられています。そこには、18か寺が荒廃した結果、残っているのは3か寺のみと記されます。棟札などから考えると、江戸時代の白峯寺には洞林院・真蔵院(新坊力)・一乗坊・遍照院(北之坊)・円福寺(円乗坊)・宝積院が存続していて、洞林院がその中心的な位置を占めるようになっていたことが分かります。

以上をまとめておきます。
①古代の五色台は霊場で、各地に行場が点在し、それを結ぶ「中辺路」ルートが形成されていた。
②各行場には行者たちが集まり、次第にお堂が姿を見せ、白峯寺の原型が姿を見せるようになる。
③中世白峰寺は、21の子院の連合体であり、そこには行者や聖たちが拠点とした別所や阿弥陀堂もあった。
④彼らは白峯寺を拠点に周辺の郷村への念仏や浄土阿弥陀信仰を広め、有力者の支持を受けるようになった。
⑤16世紀の連歌会史料からは、地域の有力者を集めて拓かれた連歌会を取り仕切っているのは、白峰寺を拠点とする聖たちで、彼らが地域の文化的な担い手であったことがうかがえる。
⑥戦国時代に荒廃した白峯寺の復興を担ったのも、地域の有力者の支持を得ていた聖たちで、彼らは勧進僧としての役割をいかんなく発揮している。
⑦そのような子院の中で、台頭してくるのが洞林院である。
洞林院については次回に見ることにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「上野 進 中世における白峯寺の構造  調査報告書2 2013年 香川県教育委員会」です
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