瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:白峯寺古図

金刀比羅宮を訴えた白峯寺

本日いただいたテーマは、大変重いもので私にこれに応える力量はありません。テーマの周辺部を彷徨することになるのを初めにお断りしておきます。さて、このテーマの舞台となるのが、白峯寺の頓證寺(とんしょうじ)殿です。門の奥に見えるのが頓證寺です。その奥に崇徳上皇の陵墓があります。ここでは、白峯寺の中には、頓證寺という別の寺があったことを押さえておきます。

白峯寺 謎解き

本日のテーマに迫るための「戦略チャート 第1」です。このテーマの謎解きのために、つぎのようなステップを踏んでいきたいと思います。 
①どうして、もともと白峯寺にあったお宝が、今は金刀比羅宮にあるのか。→ 明治の神仏分離の混乱期に 
②どうして白峯寺に沢山の宝物があったのか →
 崇徳上皇をともらう寺院として、天皇など有力者の信仰を集め、寄進物があつまってきたということです。
③どうして、崇徳上皇は白峯山に葬られたのか
 白峯山が山林修行者の霊山であり行場であったからでしょう。
④中世の白峯寺とはどんな寺院だったのでしょうか。
そこで、④→③→②→①のプロセスで見ていくことにします。

白峯寺古図3

まず見ていただくのが白峯寺古図です。これは中世の白峯寺の姿を近世になって描かせたものとされます。右下から見ていくと
① 綾川 ② 雌山・雄山・青海の奥まで海が入り込んでいたこと ③ふもとに高屋明神と紺谷明神が描かれています。このエリアまで白峯寺の勢力の及んでいたと主張しているようです。④海からそそり立つのが白峰山 そこから稚児の瀧が流れおち、断崖の上に展開する伽藍 ⑤崇徳上皇陵 本堂 いくつもの子院 三重塔 白峰山には権現とあります。
 書かれている内容については、洞林院が近世になって中世の栄華を誇張したものとされていました。だから事実を描いたものとは思われていませんでした。その評価大きく変わったのは最近のことです。そのきっかけとなったのは、四国遍路のユネスコ登録のために、各霊場での発掘発掘です。白峯寺でも発掘調査が行われた結果、この絵図に書かれている本堂横と別所から塔跡が出てきたのです。いまでは、ここに書かれている建物群は実際にあったのではないかと研究者は考えています。それを裏付ける資料を見ておきましょう。

白峯寺子房跡

白峯寺の測量調査も行われました。白峯寺境内の実測図 
①駐車場の ②本坊 ③崇徳上皇陵 ④頓證寺 ⑤本堂 
注目して欲しいのは、白い更地部分です。本堂の東側と川沿いにいくつものにならんでいます。これが中世の子院跡だというのです。ここからも中世には21の子院があったという文献史料が裏付けられます。もう少し詳しく白峯寺古図を見ておきましょう。

白峯寺古図 本堂と三重塔
白峰寺古図 拡大 本堂周辺
①白峰山には「権現」とあります。「権現=修験者によって開かれた山」です。ここからはこの地が修験者にとって聖地であり、行場であったことが分かります。

白峯寺 別所5
白峰寺古図拡大 別所
②三重塔が見える所には「別所」とあります。ここは根香寺への遍路道の「四十三丁石」がある所です。現在の白峯寺の奥の院である毘沙門窟への分岐点で、ここに大門があったことになります。別所は、中世に全国を遍歴する修験者や聖などが拠点とした宗教施設です。ここからも数多くの山林修行者が白峯山にはいたことがうかがえます。

次に、中世の白峯寺の性格がうかがえる建物を見ておきましょう。
白峯寺は、中世末期に一時的に荒廃したのを、江戸時代になって初代高松藩主の松平頼重の保護を受けて再建が進められました。藩主の肝いりで建てられた頓證寺などは、当時の藩のお抱え宮大工が腕を振るって建てたものもので、いい仕事をしています。それが認められて、数年前に9棟が一括で重文に指定されました。そのなかで、中世の白峯寺を物語る建物を見ておきます。

白峯寺 阿弥陀堂
白峯寺阿弥陀堂
①本堂北側にある阿弥陀堂です。
宝形造りの小さな建物です。中には阿弥陀三尊、その後ろの壁に高さ16cmの木造阿弥陀如来像が千体並べられているので「千体阿弥陀堂」とも呼ばれていたようです。真言宗と阿弥陀信仰は、現在ではミスマッチのように思えますが、中世には真言宗の高野山自体が念仏聖たちによって阿弥陀信仰のメッカになっていた時期があります。その時期には白峯寺も阿弥陀念仏信仰の拠点として、多くの高野聖たちが活動していたことが、この建物からはうかがえます。「真言系阿弥陀念仏」の信仰施設だったと研究者は考えています。

白峯寺行者堂

本堂・阿弥陀堂よリー段下がった斜面に立つ行者堂です。
これも重文指定です。現在は閻魔などの十王が祀られています。
しかし、この建物は「行者堂」という名前からも分かるとおり、もともとは役行者を奉ったものです。役行者は、修験道の創始者とされ、修験者たちの信仰対象でもありました。修験者が活動した拠点には、その守護神である不動明王とともに、役行者がよく奉られています。これも、白峯寺が修験者の霊山であったことをしめしています。
今まで見てきた白峯寺の性格をまとめておきます。

中世の白峯寺の性格

次に白峯寺縁起で、本尊の由来を見ておきましょう。

白峯寺本尊由来2

 ここには次のようなことが記されています。
①五色台の海浜は、祈念・修行(行道)の修験者の行場であった。
②補陀落山から霊木が流れてきたこと。
③その霊木から千手観音を掘って、4つの寺に安置したこと。
④4つの寺院とは、根来寺・吉永寺(廃寺)・白牛寺(国分寺)・白峯寺
この4つのお寺の本尊は同じ霊木が掘りだされものだというのです。共通の信仰理念をもつ宗教集団であったことがうかがえます。それでは、その本尊にお参りさせていただきます。

国分寺・白峰寺・根来寺の本尊
国分寺・白峰寺・根来寺の本尊
①国分寺の観音さまです。讃岐で一番大きな観音さまで約5mのいわゆる「丈六」の千手観音立像で、平安時代後期の作とされます。その大きさといい風格といい、他の寺院の観音さまを圧倒する風格です。奈良の長谷寺の観音さまと似ていると私は思っています。
②次が白峯寺の観音さまです。崇徳上皇の本地仏とされ、頓證寺の観音堂(本地堂)に安置されていました。③次は根来寺です。天正年間(西暦1573年~1592年)の兵火で本尊が焼失したので、末寺の吉水寺の本尊であった千手観音をお迎えしたと伝えられています。吉水寺も同じ霊木から掘りだされた観音さまが安置されたと縁起には書かれていました。
こうしてみると確かに3つの観音さまは、共通点があります。そして五色台周辺の四国霊場は、みな観音さまが本尊で観音信仰で結ばれていたことになります。ところがこれだけでは終わりません。四国霊場の屋島寺を見ておきましょう。

屋島・志度寺の本尊観音
屋島寺と志度寺の本尊
屋島寺も千手観音です。この観音さまは、平安時代前期のものとされ、県内でもとくに優れた平安彫刻とされています。
次の志度寺は、山号を「補陀落山」と称しています。そして、志度寺の本尊も千手観音です。この観音さまの由来を、志度寺縁起7巻には次のように記します。

近江の国にあった霊木が琵色湖から淀川を下り、瀬戸内を流れ、志度浦に漂着し、・・・・24・5歳の仏師が現れ、霊木から一日の内に十一面観音像を彫りあげた。その時、虚空から「補陀落観音や まします」という大きな声が2度すると、その仏師は忽然と消えた。この仏像を補陀落観音として本尊とし、一間四面の精合を建立したのが志度寺の始まりである。

霊木が志度の浜にたどり着いた場面です。

志度寺縁起
志度寺縁起 霊木の漂着と本堂建立
流れ着いた霊木が観音さまに生まれ変わっている場面です。観音の登場を機に本堂が建立されています。寺の目の前が海で、背後には入江があります。砂州上に建立されたことが分かります。本尊は補陀落観音だと云っていることを押さえておきます。

最後に志度寺の末寺だったとも伝えられる長尾寺を見ておきましょう。近世の初めの澄禅の四国辺路日記には、次のように記します。

四国辺路日記 髙松観音霊場

こうしてみると、現在の坂出・高松地区の四国霊場は、中世には千手観音信仰で結ばれていたことになります。別の言い方をすると、観音信仰を持つ宗教者たちによって開かれ、その後もネットワークでこれらの7つの霊場は結ばれていたということです。それでは、これらの寺を開いたのは、どんな宗教者達なのでしょうか。それを解く鍵は、今見てきた千手観音さまにあります。
 千手観音信仰のメッカが熊野の那智の浜の補陀落山寺です。

補陀落渡海信仰と千手観音.2JPG

 ①補陀落信仰とは観音信仰のひとつです。②観音菩薩の住む浄土が補陀落山で、それは南の海の彼方にあるとされました。③これが日本に伝わると、熊野が「補陀落ー観音信仰」のメッカとなり、そこで熊野信仰と混淆します。こうして熊野行者達によって、各地に伝えられます。そして、足摺岬などで修行し、補陀落渡海するという行者が数多くあらわれます。それでは、補陀落信仰のメッカだった熊野の補陀落山寺のその本尊を見ておきましょう。

補陀落渡海信仰と千手観音

これが補陀落山寺の本尊です。
以上の補陀落・観音信仰の讃岐での広がりを跡づけておきます。
①熊野水軍の瀬戸内海進出とともに、船の安全を願う祈祷師として、瀬戸内海に進出 各地に霊山を開山・行場を開きます。
②その拠点になったのが、児島の新熊野(五流修験)です。児島を拠点に、小豆島や讃岐方面に布教エリアを拡げていきます。
③熊野行者達は、背中の背負子の中に千手観音さまを入れています。そして新しく行場や権現を開き。お堂を建立するとそこには背負ってきた観音さまを本尊としたと伝えられます。
④それが高松周辺の7つの観音霊場に成長し、七観音巡りがおこなわれていたことが見えて来ます。
こうしてみると、白峯寺や志度寺は孤立していたわけではないようです。「補陀落=観音信仰」のネットワークで結ばれていたことになります。それが後世になって高野聖達が「阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰」をもたらします。そして、近世はじめには四国霊場札所へと変身・成長していくと研究者は考えています。
七つの行場で山林修行者は、どんな修業をおこなっていたのでしょうか? 
山林修行者の修行

①修業の「静」が禅定なら、「動」は「廻行・行道」です。神聖なる岩、神聖なる建物、神木の周りを一日中、何十ぺんも回ります。円空は伊吹山の平等岩で行道したと書いています。「行道岩」がなまって現在では「平等岩」と呼ばれるようになったようです。江戸時代には、ここで百日「行道」することが正式の行とされていました。
②行道と木食は併行して行われます。③そのためそのまま死んでいくこともあります。これが入定です。④そして修業が成就したとおもったらいよいよ観音浄土の補陀落めざして漕ぎ出していきます。これが補陀落渡海です。この痕跡が五色台や屋島の先端や志度寺には見られます。五色台の海の行場を見ておきましょう。

五色台 大崎の鼻

ここは五色台の先端の大崎の鼻から見える光景です。目の前に、大槌・小槌の瀬戸が広がります。補陀落渡海をめざす行者達の行場に相応しい所です。ここから見えるのが大槌と小槌島で、この間の瀬戸は古代から知られた場所でした。大槌・小槌は海底世界への入口だというのです。以前にお話しした神櫛王の悪魚退治伝説の舞台もここでした。瀬戸の船乗り達にとっては、ランドマークタワーで名所だったようです。そこに突き出たようにのびるのが大崎の鼻。中世の人々で知らないものはない。ここと白峰山の稚児の瀧を往復するのが小辺路だったのかもしれません。そこに全国から多くの廻国行者や聖達が集まってくる。その一大拠点が白峯山の別院であり、多くの子院であったということになります。これをまとめておくと、古代から中世の白峰寺は、次のような性格を持った霊山だったことになります。

中世の白峯寺2

こういう霊山だったから崇徳院は、白峯山に葬られたとしておきます。ここまでが今日の第一ステップです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
「武田和昭  讃岐の七観音   四国へんろの歴史15P」
「松岡明子  白峯山古図―札所寺院の境内図 空海の足跡所収」
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   白峯寺古図 地名入り
  白峯寺古図(江戸時代初期)

  江戸時代になって、白峰寺の洞林院本坊が自分たちの正当性を主張するために、中世の白峰の伽藍を描かせたとされるのが白峰寺古図です。この古図については、以前に「絵解き」を行いました。その中で気になったのが「西院」のあった場所です。今回は、この西院があった場所を考えていきたいと思います。テキストは「片桐 孝浩 白峯寺所蔵の銅製経筒について  調査報告書NO2 2013年」です
白峯寺古図 十三重石塔から本堂
白峯寺古図(拡大部分図)
白峯寺古図には青海村から①下馬碑→②大門→③中門→④十三重塔への参道が描かれています。②大門が現在の白峰展望台がある所で、ここに大門があるということは、ここからが白峯寺の伽藍エリアになるという宣言でもあります。大門から稚児川の谷間に開けた白峯寺へ下って行きます。③中門をくぐると、「金堂」「阿弥陀堂」「頼朝石塔」と描かれた塔頭(子院?)があります。ここには、今は建物はありません。絵図に「頼朝石塔」と描かれている白い2つ石塔が、国の重要文化財に指定されている東西二つ十三重石塔です。西院は、①~④のエリアにあったと考えられてきました。。

西院のあった場所を考える時に、手がかりとなる史料が白峯寺には残されています。以前に紹介した六十六部の埋めた経筒と一緒に出てきた遺物の荷札です。
経筒 白峰寺 (1)
白峯寺出土の六十六部経筒

その荷札には次のように記されています。
十三重塔下出土  骨片、文銭
西寺宝医印塔下出上 経筒」

ここからは次のことが分かります。
①骨片・銭貨が十三重塔下から出土
②経筒が西寺宝医印塔下から出土

まず、①の骨片・銭貨の出土した「十三重塔下出土」は、どこなのでしょうか?
これは簡単に分かります。十三重塔といえば1954年に重要文化財の指定を受けた二基の十三重塔しかありません。荷札に書かれた「十三重塔下出土」の十三重塔は、「白峯寺十三重塔」でしょう。ただどちらの十三重塔から出土したかまでは分かりません。

P1150655
白峯寺の十三重塔
この東西ふたつの塔については、以前に次のようにお話ししました。
①東塔が弘安元年(1278)、櫃石島産の花崗岩で、櫃石島石工集団の手によるもので、頼朝寄進と伝来
②西塔が元亨4年(1324)で、天霧山凝灰岩製で、弥谷寺石工によるもの
 
中央の有力者が櫃石島の石工集団にに発注したものが東塔です。西東は、それから約40年後に、東塔をまねたものを地元の有力者が弥谷寺石工に発注したものと研究者は考えているようです。ふたつの十三重石塔は、造立年代の分かる讃岐では貴重な石造物です。

DSC03848白峰寺十三重塔
白峰寺十三重塔
並んで建つ東西の十三重層塔は、初重軸部の刻銘から、東塔が弘安元年(1278)に、西塔が元亨4年(1324)に造立されたことが分かります。これも重文指定の理由のひとつのようです。十三重層塔は、昭和38年(1963)に解体修理されて、東搭の初重軸部の円穴から砕骨が出土し、基壇内からは砕骨、カワラケ、銭貨などが出土しています。白峯寺に所蔵されていた資料が、この解体修理時に出てきた遺物なのかは分かります。荷札に書かれた内容から骨片・銭貨についても、どちらからの十三重層塔から出土地したもののようです。
それでは経筒は、どこから出土したのでしょうか。
荷札には「西寺宝薩印塔 出土経筒」とあるので出土地が「西寺宝筐印塔下」であることが分かります。それでは、「西寺宝医印塔下」の「西寺」はどこなのでしょうか。それは「宝医印塔」のある場所を探せば分かると云うことです。経筒の出土した「宝策印塔」については、白峯寺住職への開き取りから次のことが分かったようです。
①五色台線(180号)から白峯寺への進入路入口に接してある第3駐車場の入口付近に石組み基壇があること。
②約20年前、第3駐車場整地時に石組み基壇を解体し、隣接地に仮置きした。その解体時に石組み基壇内から、経筒が出土したこと。
③石組の基壇上には、当初宝医印塔があったが、戦後の混乱期に行方不明になったこと
④「西寺」は、白峯寺への進入路の入口から展望台のあるあたりが「西寺」と呼ばれていること
現在、この付近は、県道や白峯寺の駐車場、坂出市の展望台と駐車場となっており、「西寺」に関する痕跡は何もありません。ただ駐車場の中央に、正面「下乗」、裏面「再建 寛政六甲寅年/二月吉日」と刻んだ花崗岩製の下乗石があります。
P1150792
白峯寺 展望台駐車場の下乗石
ここからは、白峯寺境内との境界付近に「西寺」があったことが推測できます。しかし、宝医印塔と西寺の関係については、聞き取り調査では分からなかったようです。
白峯寺 西寺跡の範囲

          西寺があったとされる伝承エリア
次に江戸時代に描かれた絵図から「西寺」「宝筐印塔」について、見ておきましょう。
研究者が参考とする絵図は、次の4つです。
①江戸時代初期に描かれたとみられる「白峯山古図」
②元禄2年(1689)の高野山の学僧寂本によって描かれた『四国遍礼霊場記』内の絵図
③弘化4年(1847)に描かれた『金毘羅参詣名所図会』内の絵図
④嘉永6年(1853)に描かれた『讃岐国名勝図会』内の絵図
もう一度「白峯山古図」を見ておきましょう。
白峯寺 西寺 白峯寺古図


②大門は丘陵の頂部に描かれているので、「大門」は現在の県道から白峯寺への進入路付近だったことがうかがえます。聞き取り調査で「西寺」と呼ばれている場所は、展望台駐車場がある付近でした。そうすると「西寺」のあった所は「白峯山古図」では、「大門」の付近であることになります。しかし「白峯山古図」には、大門周辺には大門以外に建物は何も描かれていません。大門周辺に子院や伽藍は、なかったようです。
元禄12年(1689)の寂本『四国遍礼霊場記』内の絵図を見ておきましょう。
白峯寺 四国遍礼霊場記2

ここでは、白峯寺への参道に①「丸亀道」との表記があり、ちょうど丘陵頂部には、②「下乗」石が描かれているだけです。「大門」も「西寺」の表現もありません。ただ、石塔が2基描かれています。これが十三重塔のようです。
弘化4年(1847)に描かれた「金昆羅参詣名所図会」の絵図を見ておきましょう。
丘陵頂部に「大門」は描かれていますが、「西寺」を示す表現はありません。ただし、「大門」の手前には「堪空塔」と書かれた石造物が描かれいます。描かれている形は宝策印塔の形とはちがいますが、これが「大門」周辺で唯一見られる石造物になります。
最後に嘉永6年(1853)に描かれた「讃岐国名勝図会」内の絵図を見ておきましょう。
白峯寺 西院 金毘羅参詣名所図会
讃岐国名勝図会

それまで「大門」として描かれていたのが①「大門跡」となっています。門としての建物の表現はなくなっていて、「西寺」を示す表現もありません。そして、東西の②十三重塔の後ろには「頼朝塚」・「琵琶塚」と注記されています。
  このように江戸時代に描かれた絵図には、「西寺」や「宝医印塔」は描かれていません。現在「西寺」と呼ばれている場所は、展望台や駐車場付近ですが、江戸時代に描かれた絵図では、それを裏付けることはできなようです。
 そこで研究者は視点を変えて「西寺」と呼ばれているので、白峰寺の西側に描かれている伽藍を白峯寺古図で探します。
白峯寺古図 本堂への参道周辺

白峰寺の西に位置し、十三重塔背後の堂宇が「西寺(西の院?)」
そうすると浮かんでくるのが「阿弥陀堂」「金堂」「十三重塔」です。これが「西寺(西の院」当たるのではないかと研究者は推測します。
  承応2年(1653)の澄禅によって書かれた「四国遍路日記」には、次のように記されています。
「寺ノ向二山在、此ヲ西卜伝。鎌倉ノ右大将頼朝卿終焉ノ後十三年ノ弔二当山二石塔伽藍ヲ立ラレタリ。先年焔上シテ今ハ石塔卜伽藍之□ノミ残リ」

  意訳変換しておくと
「白峯寺の向うに山がある。これを「西卜伝」と云う。鎌倉将軍の源頼朝が亡くなった後の13回忌に石塔と伽藍と造立された寺である。先年伽藍は焔上して、今は石塔と伽藍跡だけが残っている。

ここからは石塔が残り、「白峯山古図」に「阿弥陀堂」「金堂」「十三重塔」などが描かれている子院が「西ト伝」で「西寺(西の院」ではないかと研究者は推測します。
以上をまとめておくと、
①現在の下乗碑が建つ展望台駐車場付近には大門があり、その付近に「西寺」があった伝えられる。
②しかし、江戸時代の絵図には、どれも大門付近には建造物は描かれていない。
③そこで、西院は白峯寺古図に描かれいる十三重塔背後の堂宇群であったと研究者は推測する。
④澄禅の「四国遍路日記」には、石塔と伽藍が頼朝13回忌に建立されたこと、それがその後に炎上して十三重塔のみが残ったこと
  そうだとすれば、白峰寺には洞林院に劣らない勢力を持った寺院(子院)がここにあったことになります。それが「西卜伝(西寺)でしょう。その寺は、源頼朝13回忌に石塔(十三重塔)と伽藍が造立されたとも伝わります。それは石塔に刻まれた年号とは一致しないので、そのまま信じることはできません。
 しかし、京都などの有力者が十三重塔を寄進しているのは、洞林院ではなく西寺なのです。洞林院のライバルであったのかもしれません。洞林院が造ったとされる白峯寺古図には、堂舎は描かれていますが寺名は書かれていません。
どちらにしても、現在の東西の十三重塔の背後には、大きな伽藍を持つ西寺があったこと、そしてその伽藍が炎上した後に残ったのが十三重塔だということになります。十三重塔は白峰寺の前払いとして寄贈されたのではなく、西寺の塔として建立されたものであったようです。
白峯寺 西院白峰寺古図
白峯寺西院(西の院)?
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「片桐 孝浩 白峯寺所蔵の銅製経筒について  白峯寺調査報告書NO2 2013年 香川県教育委員会」です

白峯寺古図 地名入り
白峯寺古図に描かれた三重塔
  白峯寺古図には、次の三つの三重塔が描かれています。
①神谷神社の背後の三重塔
②白峯寺本堂西側の三重塔
③白峰寺本堂の東側の「別所」の三重塔
白峯寺古図 本堂と三重塔
白峯寺本堂西側の三重塔(白峯寺古図)

前回は②の本堂西側の発掘調査の結果、塔の遺構が出てきて、中世には三重塔がここにはあったことが確認されたことを見てきました。それでは、③の別所の三重塔はどうなのでしょうか。まずは、白峯寺古図で「別所」の部分を拡大して見てみましょう。
白峯寺 別所拡大図

「別所」をみると、白峯寺から根香寺に向かう参道沿いで、中門と大門の間にあります。参道沿いに鳥居が描かれていて、鳥居をくぐると次のような建物が並んでいます。
①正面に梁間3間×桁行2間、桁行3間の入母屋造りの瓦葺建物
②向かって右側には梁間2間×桁行2間の入母屋造りの瓦葺
③建物②と直行するように瓦葺の建物
④向かって左側には瓦葺の三重塔
⑤三重塔の前に鐘楼
鳥居が描かれているので、正面にある建物は、神仏混合の堂舎のようです。しかし、塔や鐘楼もあるので白峯寺の一つの子院の可能性があります。
「別所」を「浄土宗辞典」で調べると、次のように記されています。
本寺の地域とは別に、修行のためなどに存在する場所。別院。隠遁者や修行者が草庵などを構えて住む場所で、特に平安後期以降、念仏者が好んで別所に住した。所属する寺院にあわせて「○〇別所」などとして用いられる。例えば南都寺院では東大寺の別所として、重源が定めたとされる播磨別所や高野の新別所など七箇所が、興福寺には小田原別所がある。また京都比叡山の別所には西塔黒谷や大原の別所が存在した。別所は念仏信仰とかかわりが深く、播磨別所には浄土寺が、小田原別所には浄瑠璃寺が存在し、ともに念仏信仰の場であった。また比叡山の別所である黒谷からは法然が、大原からは良忍がでている。
また別所は、聖(ひじり)と呼ばれる行者たちとも関係が深く、彼らの存在は民間への念仏信仰の普及の一助になったと考えられている。平安後期頃から見られる別所を中心とした様々な念仏信仰の形成は、日本における浄土教の発展を考える上で重要なものである。
  ここからは別所は、本寺とは離れて修行者の住む宗教施設で、後には念仏信仰の聖たちの活動拠点となったとあります。白峯寺の別所も「浄土=阿弥陀信仰の念仏聖たちの活動拠点」であった可能性があります。
「白峯山古図」に描かれている「別所」は、どこにあったのでしょうか?
研究者は次のような手順で、位置を確定していきます。
①白峯寺古図の細部の情報読取り
②周辺エリアの詳細測量で、かつて子院や堂宇があった可能性のある平坦地の調査と分布図図作成。
③絵図資料と比較しながら平坦地分布図に、かつて存在した子院や堂宇を落とし込んでいく
白峯寺 境内建物変遷表2
白峯寺境内の平坦地分布図

高屋や神谷村方面からの参道にも大門と中門が描かれていたのは前回に見たとおりです。「別所」周辺にも、「大門」と「中門」があります。
白峯寺 別所5
白峯寺古図 別所の中門付近
まず中門を見ると、周辺に白色の五輪塔が11基が群集するように描かれています。この五輪塔群は、現在の白峯寺の歴代住職の墓地とその背後に凝灰岩製の五輪塔が多数建ち並ぶ墓地周辺だと研究者は推測します。
白峯寺近世墓地3
白峯寺歴代住職の墓地
また、中門より手前(西側)には「下乗」と描かれた白色の石造物があります。ここは白峯寺の境内中心部の建物群が途切れる所になります。ここからは、中門は白峯寺の墓地あたりであることが裏付けられます。
白峯寺下乗碑
下乗碑
「大門」について見てみると、「大門」と注記された左下方に「昆沙門嶽」と書かれています。
「昆沙門嶽」は、現在の白峯寺の奥の院です。奥の院毘沙門窟への分岐点に大門はあったことになります。ここは根香寺への遍路道の「四十三丁石」でもあります。
P1150814
白峯寺奥の院毘沙門窟への分岐点

この推察に基づいて、研究者は「中門」と「大門」の間を踏査します。その結果、10m×10m程度の平坦地や20m×15m程度の平坦地が7か所集中している場所を発見します。平坦地の中には、礎石と考えられる石材の散布する地点を2ヶ所見つけます。この場所をトレンチ調査した結果を、次のように報告しています。要約
白峯寺別所三重塔基壇跡
白峯寺別所の三重塔基壇
 別所には、「白峯山古図」(江戸前期)では、三重塔・仏堂を中心に鐘楼・僧坊などが描かれる。発掘結果、三重塔や仏堂と推定される遺構が発見される。三重塔跡は東西6.3m南北6.4mの規模で、仏堂跡は東西3.6m南北5.4mを測る。
○塔跡:仏堂跡西側で3間四方(約6m×6m)の礎石列を確認する。礎石は9個検出し、柱間は約2mを計る。高さ30cmほどの基壇を造成し、一辺は約8.5mである。
○仏堂跡:礎石は2個検出、礎石間は1.8mを計る。建物規模は2×3間と推定される。

白峯寺 別所拡大図

先ほど見たように「白峯山古図」の「別所」には、左に三重塔、右に入母屋造りの瓦葺建物が描かれていました。これは、発掘調査の結果とぴったりと合います。ここからは以下のことが云えます。
①「白峯山古図」に描かれている建物の存在が発掘調査で証明されたこと、
②出土遺物からこれらの建物は、使用瓦から15世紀前半を中心と時期のものであること
白峯寺 別所仏塔出土物
白峯寺別所 仏塔の出土遺物

ここまでで私に理解できたのは、白峯寺の伽藍は中世においては現在よりも遙かに広かったということです。研究者は、白峰寺の伽藍を上図の3つのエリアに分けて考えているようです。

白峯寺 伽藍3分割エリア図
中世白峯寺の3つの伽藍配置図
A地区 現在の白峯寺境内を中心として、稚児川を挟み平坦地が確認できる地区
B地区 A地区の奥に広がる傾斜の緩やかな地区、別所地区
C地区、B地区の奥の古田地区   現自衛隊の野外施設周辺
今まではA地区だけを、私は白峯寺の伽藍と考えていました。しかし、白峯寺古図が教えてくれたことは、「別所」と呼ばれるB地区があったこと、そこには本堂と同じように三重塔を持った宗教施設があり、そこが修験者や念仏阿弥陀聖の活動拠点であったことです。
「解説用の白峯山古図」 (下図拡大図)

 また、発掘調査した次の3ヶ所からは、白峯寺古図に書かれていたとおりのものが出てきたことになります。
①本堂西側16世紀の三重塔跡
②本堂東側16世紀の洞林院跡
③別所の三重塔
 ここからは、白峯寺古図に書かれた絵図情報が極めて正確なことが改めて実証されたことになります。絵図上に書かれた大門や中門なども実在した可能性が高くなりました。

最後に地図で別所を確認しておきます。
白峯寺 別所3

本坊から現在の四国の道「根香寺道」をたどって登っていきます。この参道沿いの両側にも平坦地が並び、かつての子院跡があったようです。摩尼輪塔と下乗石の上の窪みが池之宮になります。反対側が白峰寺の墓地で、この辺りに中門があったことになります。
白峯寺 別所周辺地図
白峯寺別所への道

笠塔婆/下乗碑を経て、左に白峯山墓地、右に池之宮跡の凹地を過ぎると、やがて「別所」への分岐(⊥字分岐)があり、ここには石仏が見守っています。
白峯寺遍路道 別所分岐点
白峯寺別所へのT字路
石仏背後の平坦地の右奥が別所跡になるようです。しかし、発掘調査後に埋め戻されたようで、仏堂や塔跡などを示すものは何もありません。どの平坦地が塔跡なのかも分かりません。ただこの辺りに、三重塔をともなう寺院があり、行場である毘沙門窟と、五色台の岬先端の海の行場を結ぶ「行道」を繰り返していたのかもしれません。また、後にはここを拠点に高野聖たちが阿弥陀・念仏信仰を里の郷村に布教していたのかも知れません。どちらにしても多くの行者や聖たちのいた別所は、いまは礎石らしい石がぽつんぼつんと散在するのみです。
白峯寺へんろ道石仏
白峯寺別所跡を見守る石仏たち
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「平成23年度白峯寺別所の調査 白峯寺調査報告書2012年 香川県教育委員会」

白峯寺には、江戸時代初期に描かれた「白峯山古図」があります。
この古図にについては、白峰寺の本坊洞林院の正当性を主張するために江戸時代になって中世の白峯寺景観を描いたものであることは、以前にお話ししました。しかし、具体的に何が描かれているかについては、詳しくは触れていませんでした。そんな中で「絵解き」をやって欲しいとのリクエストを受けたのでやってみようと思います。テキストは「片桐孝宏浩 白峯寺の空間構成 白峯寺調査報告書2012年 香川県教育委員会」です。

白峯寺古図は、縦92㎝、横127㎝の紙本著色で、白峯寺周辺の建物や周辺寺社の名称が注記されます。まずはそこに描かれている範囲を押さえておきます。

白峯寺古図 地名入り
白峯寺古図
A 山麓の高屋村にある「崇徳天皇」(現高屋神社)
B 神谷村にある「神谷明神」 背後に三重塔
C 綾川沿いにある「雲井御所」
D 綾川の上流にあり崇徳上皇の御所があったと伝えのある「鼓岡」
E 青海集落の北側の峯の馬頭院(現来峯神社)
   白峯寺を中央にして、白峯寺と崇徳上皇に関係の深い場所が描かれています。ここで気になるのは、Eの馬頭院です。この子院がどうして描き込まれているのかは研究者にとっても疑問のようです。理由がわからなのです。これにはここでは、深入りしないで前に進みます。
 もうひとつの疑問は、山上の伽藍景観です。
本堂の左(西)と、すこし離れた右(東)にふたつの塔が見えます。西の塔は現在の阿弥陀堂の後ろ辺りだと検討がつきますが、東の塔については、いったいどこにあったのか検討もつきません。また、現在は本坊となって境内の入口にある洞林院が、本堂の東側の石垣の上に描かれています。これだけを押さえて、先に進みます。

白峯寺古図 十三重石塔から本堂
白峯寺古図(拡大部)

それでは、「崇徳天王」(現高屋神社)から参道を古図に従って登っていきます。
高屋村から尾根の稜線上にやや蛇行しながら参詣道が延びて①下乗と記した白い五輪塔石碑があります。これは現在の県道五色台線からの白峯寺への入口広場にある「下乗碑」とは別物のようです。現在のものは五輪塔ではありませんし、江戸時代初期のものではありません。

P1150792
現在の下乗碑(白峰展望台)
 ②の大門が現在の白峰展望台がある所で、「西の坊跡」とされているようです。ここに大門があるということは、ここからが白峯寺の伽藍エリアになるという宣言でもあります。ここから稚児川の谷間に開けた白峯寺中央部へ下って行きます。中門をくぐると、「金堂」「阿弥陀堂」「頼朝石塔」と描かれた塔頭があります。ここには、今は建物はありません。絵図に「頼朝石塔」と描かれている白い石塔が、国の重要文化財に指定されている東西二つの十三重石塔です。

P1150655
白峰寺の十三重石塔(重文)
ふたつの石塔は、次の通りです。

東塔が花崗岩製、弘安元年(1278)で近畿から運ばれたもので頼朝寄進と伝えられています。
西塔が凝灰岩製で、元亨4年(1324)で、天霧山の弥谷寺で採石された石が使用されています。
中央の有力者が近畿の石工に発注したものが東塔で、それから約40年後に、東塔をまねたものを地元の有力者が弥谷寺の石工に発注したものと研究者は考えているようです。ふたつの十三重石塔は、鎌倉時代に建立された讃岐では非常に貴重な石造物です。
  ここには「阿弥陀堂」とあるので、高野聖や念仏聖などの聖集団が阿弥陀信仰を広げる拠点だったことがうかがえます。ここが退転した後に、現在の本堂の西に移ってきたのかもしれません。

さらに進むと、白くしぶきをあげて流れる稚児川が、稚児の瀧となって流れ落ちています。
実際には稚児川は谷間の小川で、大雨が降らないと稚児の瀧が現れることはありません。幻の瀧です。しかし、ここが古代からの山林修行者にとっては、行場であり、聖地でした。白峯寺の源は、この瀧にあったと当時の人たちも認識していたことがうかがえます。瀧を印象づけるために、デフォルメされています。

白峯寺古図 本堂への参道周辺
 稚児川にはアーチ状の木橋(?)が掛っていています。
橋を渡りると頓證寺の勅額門の前に出ます。ここから階段を登って経蔵、御影堂を経て、本堂の前に出ます。これは現在の参道とは違っています。現在は稚児川を渡る橋は、駐車場前の本坊の前に架かっていて、そこから国の重文に指定された七棟門をくぐって本坊(洞林院)前から境内に入ります。つまり境内への入口(橋)の変更があったようです。

白峯寺絵図 四国遍礼名所図会
白峯寺 四国遍礼名所図会(1800年)

『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))の絵図を見てみると、門(七棟門)から護摩堂に突き当たり、左折し、直進すると勅額門に、この勅額門の手前を右折し、石段を真っ直ぐ登って本堂に至ります。その途中の石段には、現在薬師堂があるところに「経蔵」、行者堂に「御影堂」が描かれています。

白峯寺 建物変遷表
白峯寺 境内建物位置変遷表

 上図を見ると、本堂の位置は、近世のどの絵図も現在とかわりないようです。

白峯寺古図 本堂と三重塔

本堂周辺で気になるのは、左側(西)に隣接して建つように描かれている三重塔です。
 調査対象地は背後には「経塚」と呼ばれている二段集成で、円形に構築された石組があります。その前の平坦地には「白峯山古図」では、三重塔が描かれていますが、四国遍礼霊場記(1689)年にはありません。
白峯寺絵図 四国遍礼霊場記2
四国遍礼霊場記(1689) ここには東西の三重塔は描かれていない。

『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800)にも、三重塔はなく、そこには大師堂が描かれています。そのためここに三重塔があったのか、大師堂があったのかを確認するために調査が行われました。調査結果は次の通りです。(要約)
 トレンチ調査からは、整地土で成形された一辺約11mの基壇状の平坦面が出てきた。ほとんど礎石は残っていないものの礎石抜き取り穴から3×3間(5,4×5,5m)の礎石建物跡があったことが確認できまる。また礎石・礎石抜き取り穴列の内側にも礎石があったこともわかり、総柱建物の可能性がある。出土遺物は、瓦当面に巴文を持つ九瓦、凸面に縄日、凹面に布目を持つ平瓦などの古代末の瓦も出土しているが、ほとんどは近世以降の瓦・陶磁器である。

siramine21):三重塔跡・西外側基壇
三重塔跡周辺  
以上から、3間×3間の建物であったこと、内側にも礎石を持っていることから、塔の可能性が高いと研究者は考えています。そうすると「白峯山古図」に書かれたように、ここには三重塔が建っていたことになります。白峰山古図に書かれていることが正確で、信頼が出来ることになります。この古図が中世のことを伝えている貴重な絵図であると評価は高まりました。
  本堂周辺で今と大きく違うもう一つの点は、本堂東側に描かれ、洞林院と注記された建物です。

白峯寺古図 本堂と三重塔
白峯寺古図に描かれた洞林院

「洞林院」跡も地形測量の結果、南北約72m、東西約17mの長方形の平坦地(約335㎡)と、そこにつながる幅約2mの小路が確認されました。これを「白峯山古図」と比較すると平坦地西側で確認できる高さ約5m前後の石垣や本堂・山王七社との位置関係から「白峯山古図」に描かれている「洞林院」と一致します。また、その東側と西側でも幅5mほどの細長い平坦地が見つかっています。これが洞林院の石垣下に描かれている本堂から洞林院下→下乗石→中門→大門に延びる参道のようです。ここでも確認のためのトレンチ調査が10年ほど前に行われ、報告書には次のように記されています。(要約)
①礎石や柱穴を確認しできたがレンチ調査のため、建物の大きさについては分からない。
②時期については、整地土から焼土・炭とともに16世紀後半の土師器小皿・土師質上鍋、備前焼すり鉢、中国産の輸入白磁などがでてきたので、16世紀後半以降に整地されたこと
③これら土器類とともに、焼土・炭・被熱を受けた壁土が出土していること
④遺構には、礎石と素掘りの柱穴があるので、礎石建物と掘立建物の2棟あったこと
その規模確定や「白峯山古図」に描かれている「洞林院」であると確定する資料は出ていないようですが、その可能性は高いと研究者は考えています。
  ⑤の焼土痕跡は、このエリアが16世紀後半に火災にあい、建物が焼失したことを窺わせるものです。洞林院が戦国末期の兵火を受けたことがうかがえます。中世に大きな力を持つようになった洞林院は、一時的に退転し、近世になって院主別名のもとで復興したとされますが、それを裏付ける内容です。
白峯寺 境内建物変遷表2
白峰寺境内の子院や堂宇跡
    以上をまとめておきます
①白峯寺古図は、中世白峰寺の景観を江戸時代初期になって描かれた絵図だとされる。
②描かれた内容については、現在の本坊となっている洞林院の由緒や正当性を視覚的に感じさせる内容であり、その視点に立ったデフォルメがされていると研究者は考えている。
③描かれた空間は広く、神谷神社や鼓ヶ丘など、崇徳上皇と関係のある寺社が周辺部には描かれている。
④中央部には白峰寺が描かれているが、高屋神社や神谷神社からの参道には大門・中門が見え、ここからが寺域だとするとかなり広大なエリアになる。
⑤現在の国重文で二基の十三重石塔周辺には、阿弥陀堂や金堂が描かれ、ここにも高野聖などの念仏僧が拠点としてたことがうかがえる。
⑥現在の白峯寺伽藍への入口は、本坊(洞林院)前であるが、この古図では勅額門前に橋がかかって、真っ直ぐに本堂に石段が続いている。江戸時代になって、洞林院が現在地に下りてきた際に参道付け替えられたようだ。
⑦白峯寺古図に本堂西側に描かれた三重塔は、発掘調査の結果、実在が確認された。
⑧本堂東側に描かれた洞林院も発掘調査の結果、16世紀後半の遺物や火災跡が見つかり、ここが洞林院跡である可能性が高くなった。
以上のように白峯寺古図は、江戸時代初期に書かれたものではあるが、中世の白峯寺伽藍をある程度性格に描いた絵図資料であると云える。

次回は、本堂から東に伸びる根香寺道沿いにある「別所」の三重塔について見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
   参考文献
   「片桐孝宏浩 白峯寺の空間構成 白峯寺調査報告書2012年 香川県教育委員会」
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DSC04291

 神谷神社があるのは、阿野郡松山郷五ヵ村のひとつであった旧神谷村です。白峰山西麓の谷筋にあり、山裾の集落から小川沿いに東に延びる参道を登っていくと境内が現れます。社殿の後には、影向石と呼ばれている巨石が磐座として祀られて、古代の信仰対象だったことがうかがえます。この磐座に対する信仰が、この神社の起源なのでしょう。
  今回は、神谷神社について見ていくことにします。テキストは坂出市史 中世編 神谷神社の立地と沿革  206P」です

神谷神社 由緒書

 神谷神社の祭神は伊弊諾尊・伊弊再尊の子で火の神とされる火結命(ほむすびのみこと)で、その孫でやはり火の神とされる奥津彦命・奥津姫命を併せ祀ります。相殿には、春日四神(経津主神、武甕槌神、天児屋根命、姫大神)が祀られています。磐座信仰+火結命(ほむすびのみこと)+春日四神と合祀されるようになって、五社神社と地元では呼ばれてきたようです。

 神谷神社の創始は分かりません。社伝によると
「神谷の渓谷にあった深い渕から自然に湧き出るような一人の僧が現われ渕の傍にあった大岩の上に祭壇を設け・・たのが神谷大明神の創始と謂われているという。
その後、弘仁3年(812)空海の叔父・阿刀大足が、春日四柱を相殿に勧請して再興したという。・・・・
なんだかよく分からない話です。
 阿刀大足は、以前にお話したように、摂津に基盤を持つ阿刀氏で、空海の母の兄弟になります。真魚(空海幼名)からすると叔父で、空海の「英才教育担当者」とされる学識豊かな知識人であり中央官人ですが、讃岐への来歴はありません。「阿刀大足勧進」という伝承自体が「弘法大師空海伝説」とも云えます。あくまで伝説で、すぐには信じられません。
神谷神社が正史で確認できるのは、三代実録の次の叙位記録になるようです。
①貞観七(865)年に従五位上、
②貞親十七(875)年に正五位下
また、延喜式にも讃岐式内社24社の中の1社として、阿野郡の3社のひとつとして、城山神社、鴨神社と並んで名前があります。ここからは、9世紀後半までは、有力豪族の保護を受けて国庁の管理下にも置かれた神社があったことがうかがえます。

実は「阿刀大足勧進」を証明する史料があるとされてきました。それを見てみましょう。
神谷神社棟札1460年

神谷神社に残る棟札の中で一番古い年紀を持つ棟札(写)を見てみましょう。表が寛正元(1460)年で、「奉再興神谷大明神御社一宇」とあります。これに問題はありません。問題なのは裏の「弘仁三(812)年 河埜氏勧請」という一行です。 阿刀ではなく「河埜氏」とあることは押さえておきます。阿刀氏も河野氏と同じく物部氏を祖先とする同族なので、このように記されたと近世の史書はしてきました。
 この棟札の裏書については「江戸時代になって作成されたもの」と研究者は考えているようです。つまり、「弘仁三年に阿刀大足による勧請」を伝えるために、江戸時代になって書かれた(写された)ものなのです。しかし、「写」であっても表の「奉再興神谷大明神御社一宇」や、寛正元(1460)年の修理棟札は、信じることができるようです。
天文九(1540)年の棟札は二枚あります。
神谷神社 修理棟札1540年
地域の氏子等の奉加によって本殿の屋根葺き替えを行ったときのものです。松元氏が神官の筆頭者になっています。松元氏は神官であると同時に、有力な国人勢力であったようで、幕末の讃岐国名勝図会にも神谷神社のすぐそばに大きな屋敷が描かれています。

神谷神社棟札2枚目

永禄11(1568)年の棟札も二枚あります。本殿屋根の葺き替えで、前回から28年経っているので、30年おきに葺き替えが行われていたようです。この時には鍛冶宗次の名が見え、屋根の構造的な部分に手が入れられたことがうかがえます。さらに脇之坊増有とあるので、本坊以外にも社僧が居たことが分かります。

その後の神谷神社の沿革を伝える史料はありません。しかし、鎌倉時代のものとされる遺品が隣接する宝物館に保管されていますので見ておきましょう。
神谷神社随身像
①阿吽一対の木造随身立像(重要文化財)

坂出市史は、この随身立像を次のように紹介しています
像高 阿形像125、2㎝  吽形像 125、6㎝
建保七(1219)年建立の国宝指定の本殿と同じ頃、鎌倉時代中期の13世紀に制作されたとされる。両手の肘を張つて手を前に出す姿勢はきわめてめずらしい。制作紀年銘のある随身立像では最古の、岡山県津山市高野神社の一対(応保一年銘)に次いで古い。
 後世の床几に坐る形式の随身像にくらべると古制を示している。両像とも、かたいケヤキ材を用い、頭部を頸のあたりで輪切りにし、襟にみられる棚状の矧ぎ面にのせて寄本造りの形をとっている。これが高家神社のものと同じ技法である。技巧的には阿形像の方が複雑に仕上げられている

「白峯寺古図」に見えるとおり、神谷神社は、神谷明神として多くの付属建造物が描かれています。 本殿とおもえる妻入り社殿の後には、立派な三重塔が見えます。その前方には、平入りの社僧の坊舎と随身門が描かれています。この随身立像は、ここに描かれている随身門に納められていたのかもしれません。
神谷神社の面

②舞楽面二面(市指定有形文化財)
③大般若波羅密多経(市指定有形文化財)
数多くあった宝物も、元禄十一(1698)年に著された「神谷五社縁起」(『綾・松山』所載)には中世の兵乱により多くが散逸していた様子が記されています。

神谷神社の境内には、江戸時代後半の年号が刻まれた次のような石造物があります
①天保9(1838)年 手水石
②弘化三(1846)年  石階耳石上に立つ親柱に
③嘉永2(1849)年 二の鳥居
④元治元(1864)年 狛犬と燈籠
⑤慶応4(1868)年  百度石
⑥明治28(1895)  玉垣設置
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①天保9(1838)年 手水石
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③嘉永2(1849)年 二の鳥居
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④元治元(1864)年 狛犬と燈籠
これらの石造物が設置されたのは19世紀のことです。江戸時代の後半になって境内は整備され、現在の原型ができたことが分かります。
このような整備が進む中で、明治37(1904)年8月に本殿が特別保護建造物に指定されます。

この時期に整備された神谷明神と別当寺の清瀧寺の様子を描いた絵図が讃岐国名勝図会に載せられています。
神谷神社 讃岐国名勝図会

神谷川沿の突き当たりの谷に鎮座する神谷神社の姿が右手に見えます。一番奥が国宝の本殿です。社人を務める松本氏の屋敷も描かれています。神谷神社と同時に、神宮寺である青竜寺も大きな構えを見せています。青竜寺の以前には、清瀧寺という大きな神宮寺があったようです。これは後で見ることにして、国宝に指定されている本殿を見ておくことにします。

神谷神社本殿3
神谷神社本殿
大正の大改修の際に発見された棟本の墨書銘に、次のように記されています。
正一位神谷大明神御費殿
建保七年歳次己如二月十日丁未月始之
惣官散位刑部宿祢正長
ここからは、承久元(1219・建保七)年に、本殿が建立されたことが分かります。
また先ほどの棟札からは、本殿の葺替えが以下のように行われたことが分かります。
①寛正元(1460)年の棟札(写)
②天文9(1540)年
③永禄11(1556)年
④万治3(1660)年
⑤宝暦9(1759)年
 棟札の年紀からは、約20年ごとに葺替が行われていたことがうかがえます。そして、日露戦争が始まった明治37(1904)年8月には、古社寺保存法に定める特別保護建造物に指定されています。その時の指定理由には、次のように記されています。
「再建年代明カナラサレトモ、其形式ヨリ判スレハ鎌倉初期二属スル者ノ如シ、即我国現存神社中最古キ者ノ一ナリ」
この指定を受けて約百年前の大正6(1917)年から翌年にかけて、総事業費491、5万円で解体修理が行われます。この大正修理の際に、今まで見てきた棟木銘と棟札が発見されて建立年代やその後の修理の沿革が明らかとなりました。
kamitani19

この大正の大修理では、できりだけ建築当初の姿にもどす方針が打ち出されて、次のような現状変更が行われています。
①向拝柱を旧位貰に戻すこと、
②向拝打越垂本を復原すること
③発見された断片から垂本は全て反り付きとすること
④縁回り諸材の寸法と位置を復原すること、
⑤箱棟鋼板被覆を取り去り渋墨塗りに復原すること
(大正八年二月「現状変更説明」による)
kamitani25

それ以後の沿革は以下の通りです。
昭和22(1947)戦後の文化財保護法(昭和22年制定)で重要文化財指定
昭和27(1952)屋根葺替
昭和30(1955)2月「現存の三間社流造の最古に属する例」として国宝指定
神谷神社本殿2

神谷神社本殿は、「流造神社本殿の最古に属する例」として早くから知られてきたようです。
流造は、伊勢神宮正殿に代表される桁行一間・梁間二間の身舎(もや)に切妻造の屋根を架けた平入の本殿から発展した古い形式と考えられるようです。機能的には正面の本階や拝所を覆うので、どこが正面か分からなくなるおそれがある建物です。そのために建物の正面性を主張するための工夫が凝らされることになります。その工夫が身舎の前に庇を設けて切妻屋根の前流れを前方に延長させる方法です。

 神谷神社 宇治上神社本殿(平安後期)
京都府宇治市の宇治上神社本殿(平安後期)
神谷神社の流造本殿は、京都府宇治市の宇治上神社本殿(平安後期)に次いで古いものだとされています。宇治上神社本殿は、一間社流造の内殿3棟を一連の覆屋に納め、左右の一棟は片側面と背面及び屋根を覆屋と共用しています。これは変則的な形式です。これに対して、流造の規範的な形式は正面の柱間を三間とする三間社で、神谷神社本殿は流造本殿の本流の姿を良く留めているようです。

神谷神社本殿1
神谷神社本殿
①縁を正側三面とし脇障子を備えた正面性の強い構えとして流造の規範的な形式ができあがってていること、
②全体として古代建築に比べて木柄が細いものとなっているものの装飾的要素はまだ少ないこと
③反りの強い破風や庇各部材の面の大きさなどに鎌倉時代初期の趣を伝えていること
④正面は中央間のみを扉口とし脇間を板壁とする閉鎖性の強い構えであること
⑤内部は一室で、頭貫を用いずに柱上に直接舟肘木と桁を載せる古いスタイルをとっている
⑥基壇に礎石建て、庇に組物を使って、妻梁に虹梁型を用いるという仏教的な影響を受けている
以上から「古いスタイルをとりながらも仏教の影響を受けた中世的な新たな展開」の建物と評しています。
 神谷神社本殿 讃岐国名勝図会
讃岐国名勝図会に描かれた神谷神社本殿

最後に、神谷神社の性格について考えておきましょう
神谷神社を考える際に避けては通れないのが、この谷の上にある白峯寺の存在です。白峯寺は、国分寺背後の山岳仏教の修験道(山伏)の行場として開かれ、五色山全体が修行の山でした。その行場に開かれたのが白峰寺や根来寺です。これらの行場は、小辺路ルートとして結ばれ、それが後の四国遍路の「へんろ道」として残ります。
白峯寺古図 周辺天皇社
白峯寺古図

 白峯寺古図を見ると、⑤神谷神社の谷から白峯寺への参拝道が見えます。これも修験者が開いた「小辺路」です。つまり、神谷神社は、白峰寺の行場のひとつとして開かれたと私は考えています。
中世の白峯寺は以前にお話したように「山岳信仰 + 熊野信仰 + 崇徳上皇信仰 + 天狗信仰 + 念仏行者 + 弘法大師信仰熊野」などの修験者や行者・高野聖・六十六部などの聖地で、多くの行者がやってきて住み着いていました。そのような白峰寺の中にひとつのサテライトが神谷神社であったと私は考えています。
 ちなみに神谷神社も明治の神仏分離までは、「神谷大明神」で、神仏混淆の宗教施設で管理は別当寺の清瀧寺の社僧がおこなっていました。
神谷神社 讃岐国名勝図会3
白峯寺古図拡大 神谷神社の背後の三重塔
『白峯山古図』には神谷神社の背後に三重塔が垣間見えます。これは清瀧寺のもので、この塔からも相当大きな寺院だったことがうかがえます。中世の神谷神社が神仏混淆で清瀧寺の社僧の管理下にあったことを押さえておきます。

白峯寺大門 青海天皇社 神谷神社
右下が神谷神社、左下が高屋神社 上が白峯寺大門

神谷集落には額(楽)屋敷という地名が残ります。 ここには、白峯寺の楽人が住居していたという伝承があります。
讃岐の古代の地方楽所としては、善通寺が「国楽所」を担ってきたようです。その後、観音寺などの有力寺社でも、舞楽はじめ舞曲芸能が盛行するに従い設置されます。白峯寺でも「楽所」が、寺領の松山荘内にある神谷周辺に置かれていた可能性があるようです。そうだとすればここからも、神谷明神と白峯寺との関係の深さがうかがえます。

神谷大明神石塔(石造多層塔残欠)
神谷神社の凝灰岩製層塔
 神谷神社の斎庭北東隅には鎌倉時代後期の一対の凝灰岩製層塔があります。
この塔は、もともとは神宮寺であった清瀧寺のものと伝えられます。清瀧寺がいつの頃に姿を消したのかは分かりません。さきほど見たように白峯寺古図には、神谷神社の奥に三重塔が描かれています。これが清瀧寺だったようです。清瀧寺の退転後に現在地に清龍(立)寺が創建されます。

神谷神社 青竜寺 讃岐国名勝図会
青竜(立)寺(讃岐国名勝図会)
青竜寺には阿弥陀如来立像(県指定有形文化財)が安置されています。この胸部内面に文永七(1270)年の墨書銘を記されています。『綾北問尋抄』(宝暦五(1755)年刊)に「五社(=神谷神社)の本地仏(中略)安阿弥(=快慶)の作とも云」と記します。ここからは、この仏がもとは神谷明神の本地仏で、清瀧寺の本尊であったと研究者は考えているようです。
神谷神社 清立寺本尊
青立寺の阿弥陀如来立像(県有形文化財)像高 101㎝
 
胸部内側に造像墨書銘「奉造立志者、為慈父悲母往生極楽也、文永七年巳九月七日僧長円敬白」とあるので、鎌倉時代中期文永七(1270))年の制作であることが分かります。
坂出市史は、この阿弥陀さまを、次のように紹介します。
ヒノキ材の寄木造りである。香川県下ではこの期の阿弥陀像は多数あるが、造像年の明確なのは数体である。なお、梶原景紹著『讃岐国名勝図会』に「阿弥陀堂、本尊(古仏、五社明神の本地なり)当庵は、往古五社明神の別当清滝寺といえる寺跡なり、退転の年月末詳、今清立寺はこの寺を再興せしならん」
とあり、本像が、神谷神社の本地仏であったという。先述の『白峯山古図』には、直接、阿弥陀堂は確認できないものの、神谷明神の鳥居の左側に神谷村の集落が描かれており、その中に清滝寺阿弥陀堂と思しき立派な堂合らしき建物が見える。

 かつての清瀧寺については、よく分からないようです。
しかし、清瀧寺の後に出来た清立(滝)寺については、天霧城の香川氏の家臣の亡命先だったという次のような話が伝えられます。天正年間(1573~)、天霧城主香川信景が豊臣秀吉の四国攻めにより敗れ、長宗我部元親の養子親和と共に土佐に亡命します。その落城時に、家臣何某(香川山城守?)が剃髪し、この地に逃げてきて、清瀧寺を再興し堂宇を建てたのが青立寺、後の清立(滝)寺だと云うのです。

尻切れトンボになりますが、以上をまとめておきます
①神谷神社は磐座信仰に始まり、国分寺ー白峰寺ー根来寺の山岳信仰の行場として、「小辺路」修行の行場ネットワークのひとつであった。
②中世の神谷神社は、神仏混淆下にあり清瀧寺の社僧が別当として管理運営に当たっていた。
③清瀧寺は、白峯寺とは「楽所」や「連歌」、人事交流などで密接な関係にあり、三重塔を有する規模の寺社でもあった。
④鎌倉時代の棟木から神谷神社本堂は鎌倉時代の流れ作りのもっとも古い形式を残す本堂であることが分かり国宝に指定されている。
⑤本堂は中止後半以後、氏子達によって屋根の葺き替えが行われ、管理されてきたことが残された棟札からは分かる。
⑥清瀧寺の退転後は、青竜寺が代わって別当寺となったが社人松元氏の力も台頭し、以前のような支配力を発揮することはなかった。
⑦幕末から明治に境内整備が進み、現在のレイアウトがほぼ完成した。
神谷神社における神仏分離については、文献や史料がなく今の私には分かりません。あしからず。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献   坂出市史 中世編 神谷神社の立地と沿革  206P」
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