瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:白峯寺縁起

澄禅の『四国辺路日記』には、87番長尾寺について、次のように記されています。

長尾寺本堂南向、本尊正観音也、寺ハ観音寺卜云。当国二七観音トテ諸人崇敬ス 国分寺、白峯寺、屋島寺、八栗寺、根香寺、志度寺、当寺ヲ加エテ七ケ所ナリ。

意訳変換しておくと
長尾寺の本堂は南向で、本尊は正観音である。もともとは観音寺と呼ばれていた。讃岐には観音菩薩を本尊とする七つの寺があり七観音として諸人の崇敬を集めている。それは、国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根香寺・志度寺に、長尾寺を加えて七ケ寺になる

書かれている要点を整理すると次のようになります。
①長尾寺本堂は南向きで、本尊が聖観音、
②寺の名前は長尾寺ではなく、もともとは観音寺と呼ばれていたこと
③近世初頭には、国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺・根来寺・志度寺に長尾寺を加えて讃岐七観音として多くの信者を集めていたこと。(仮に「高松の七観音参り」としておきます。)

ここからは次のような事がうかがえます。
①善通寺を中心とする「七ケ所詣り(善通寺・曼荼羅寺・出釈迦寺・弥谷寺・海岸寺・道隆寺・金倉寺)のような辺路ルートがが高松周辺にもあった
②「高松の七観音参り」のメンバー寺院が、近世の四国霊場札所と重なる。
③丸亀平野の「七ヶ所参り」も、高松の七観音参りも、中世に起源を持つ中辺路ルートではなかったのか。
④中世に地域毎に形成されていた中辺路ルートが、近世に四国遍路道になっていったのではないか
 このようなことを考えながら七観音の本尊を見て行くことにします。
まずは、国分寺の観音さまからお参りして行くことにします。
  『さぬき国分寺町誌』(2005年)には、次のように記されています。
P1120249国分寺 千手観音
 讃岐国分寺の本尊千手観音
四国第80番札所国分寺の本尊で、現在の本堂内陣の須弥檀上の厨子内に安置されているが、現在は秘仏となっている。木造彫眼、彩色像である。像高約5mの巨大な像で、いわゆる丈六像(一丈六尺=4.848m)である。平安時代末つまり本堂の建築に先立つ時期の作であると考えられている。
 千手観音はその名のとおり、千の手をもって衆生を済度するとされるが、彫刻で実際に千本の手を表現することはまれで、脇手1手を25手に見立てた四十二臂の像が多い。本像も胸の前で合掌する真手と腹前で宝鉢をもつ2手、錫杖をもつ2手、背面に36手の計40手の脇手を有する、四十二臂の像である。背面の脇手もそれぞれに蓮華・輪宝・数珠などの持物をとる。
 また、十面の頭上面を有する十一面観音でもある。面貌は大きく弧を描く眉や、ややつり上がり気味に開く目、上唇が厚く、引き結んだ口元など力強い威厳をたたえた相を示している。
P1120252国分寺 千手観音

  ―丈六(像高約5m)のいわゆる「丈六」の聖観音立像で、讃岐で一番大きく、平安時代後期の作とされます。鎌倉時代になって、退転していた国分寺は奈良の西大寺律宗の律宗改革宗教運動の中で再興されていきますが、それ以前からあった観音さまになるようです。その大きさといい風格といい、他の寺院の観音さまを圧倒する風格です。この観音さまは、白峰寺や根来寺の観音と「兄弟」だと伝えるのが白峯寺縁起です。次に白峰寺の観音さまの由来を見ておきましょう。

白峯寺 頓證寺殿十一面観音
白峰寺(頓證寺) 十一面観音

『白峯寺縁起」(応永13年:1406)には、次のように記されています。
かの蹄跡千手観音の像殊也。そののち海浜に趣き祈念し給ふ庭、虚空に音ありて、補陀落山より流来れりと示、大師と明神とあひともに山中に引入、十躰の本尊造立し給、四十九院を革創し給、其内に千手像四躰まします。一尊をは根香寺に安置し、一尊をは吉永寺にあむち(安置)し、 一尊をは白牛寺あむち(安置)し、 一尊をは当寺に安置す。今も千手院とて、霊験無双の道場、利生広人の聖容にてましますなり。」

   意訳変換しておくと
「本尊・千手観音像については、次のように言い伝えられている。五色台の海浜で祈念・修行していると、(巨木が流れ着いた)。虚空から「補陀落山から流れ来た」という声が聞こえた。そこで、大師と明神は山中に引入て、その巨木から十躰の本尊を造立した。同時に、49の子院を創始し、その内の4つの寺院に千手観音を分与した。一尊は根香寺に安置し、一尊を吉永寺に(安置)し、 一尊は白牛寺(国分寺)に(安置)し、 一尊は当寺に安置した。こうして、当時は今も千手院とて、霊験無双の道場、利生広人の聖地となっている。

ここからは次のようなことが分かります。
①五色台の海辺に流れ着いた巨木は「補堕落からやってきた」とされること
②その巨木から四つの千手観音が作られたこと。補堕落信仰が根付いていたこと。
③その4観音は、根来寺・吉永寺(よしみずじ:廃寺)・白牛寺(国分寺)・白峰寺に安置されたこと
長谷寺・志度寺と同じような「補陀落流木からの観音造立」伝説を持つ観音信仰の寺であったこと。国分寺と根来寺の本尊と、おなじ巨木から造られたこと。
P1120124 白峰寺 11面観音
          白峰寺 十一面観音

ひとつの巨木から作られた四観音が安置された寺院を見ておきましょう。
①白峯寺は「五色台」の西方、白峯山上に位置する山岳寺院
②吉水寺は近世に無住とりますが、白峯寺と根香寺の間に位置した山岳寺院
③白牛寺は、白牛山と号する国分寺のこと
ここからは、古代の白峯寺・吉水寺・根来寺は、白牛山と号する国分寺背後の五色台の行場に形成された山岳寺院であったと研究者は考えています。
官寺僧侶の山林修行の必要性は早くから国家も認めていました。古代の支配者が密教に求めたものは、「悪霊から身を守ってくれる護摩祈祷」でした。空海の弟真雅は、天皇家や貴族との深いつながりを持つようになりますが、彼の役割は「天皇家の専属祈祷師」として「宮中に24年間待機」することだったことは以前にお話ししました。そこでは「霊験あらたかな法力」が求められたのであり、それは「山林修行」によって得られると考えられました。そのため国家や国府も直営の山林寺院を準備するようになります。それが讃岐では、五色台であり、中寺廃寺(まんのう町)だったようです。
 ちなみに、五色台は国分寺の背後にあり、中世はここが国分寺の官僧の山林修行のホームゲレンデであったと私は考えています。その中辺路修行のルートの中の行場にお堂として開かれたのが、根来寺・吉永寺・白峰寺です。中辺路ルートは、五色山全体をめぐって、さらに北側の海際にも行場はあったようです。白峰寺縁起にも「そののち海浜に趣き祈念し給ふ庭・・」とあるので、海岸で瞑想・祈念し、辺路ルートを「行道」することが繰り返し行われていたことがうかがえます。
白峯寺古図 地名入り
白峰寺古図
そして、五色台全体には49の子院があったというのです。それが白峰寺の絵図などには描かれていることは以前にお話ししました。ここでは、国分寺と根来寺と白峰寺は、同じ巨木から作られた観音さまを本尊としている「兄弟寺」のような関係にあったと中世には説かれていたことを押さえておきます。

白峰寺頓證寺 十一面観音
白峰寺頓證寺殿 十一面観音

次に、中世のこれらの寺院を支えた僧侶達を見ておきましょう。
  13世紀半ばの「白峯寺勤行次第」からは、次のようなことが書かれています。
①浄土教の京都二尊院の湛空上人の名が出てくること
②勤行次第の筆者である薩摩房重親は、吉野(蔵王権現)系の修験者であること
③勤行次第は、修験者の重親が白峯寺の洞林院代(住持)に充てたものであること
 ここからは、次のような事が分かります。
①子院の多くが高野聖などの念仏聖の活動の拠点となっていたこと
②熊野行者の流れをくむ修験者たちが子院の主となっていたこと
③修行に集まってくる廻国修行者を統括する中核寺院が洞林院であったこと
 鎌倉時代後期以降の白峯寺には、真言、天台をはじめ浄土教系や高野系や熊野系、さらには六十六部などの様々の修行者が織り混じって集住していたと坂出市史は記します。その規模は、弥谷寺などと並んで讃岐国内で最大の宗教拠点でもあったようです。

白峯寺 構成メンバーE
 それぞれの子院では、衆徒に対して奉仕的な行を行う行人らが共同生活をしていたと研究者は考えています。白峯寺における行人の実態は、よくわかりません。おそらく山伏や念仏聖として活動し、下僧集団を形成したのでしょう。白峯寺の衆徒の中にも修験に通じ、山岳修行を行っていた人々もいたはずです。彼らにとっては、真言・天台の別はあまり関係なかったかもしれません。つまり、五色台の山中には、比叡山のように山伏たちが籠もる子院がいくつもあり、彼らは僧兵として武装化していたことが考えられます。この武装集団を持っていたからこそ、白峰寺は綾川下流域の綾北平野を寺領として護り抜くと供に、綾川を超えた西庄エリアを新たに寺領化できたのだと私は考えています。それは、同時にこのエリアから、他の宗教勢力を駆逐していく過程でもあったようです。中世半ばから近世初頭に架けて、このエリアでは有力な寺社が姿を消します。それは、金毘羅大権現が現れ、金光院が勢力を伸ばしていく近世初頭の丸亀平野南部の情勢とよく似ています。
根香寺 讃岐国名勝図会
根来寺 讃岐国名勝図会
次に白峰寺の本尊と「兄弟関係」にある根来寺を見ておきます。
『高松の文化財』1992年は、根来寺の本尊・千手観音について次のように記します。

根来寺の千手観音
   本尊は天正年間(西暦1573年~1592年)の兵火にかかり焼失したので、末寺の吉水寺の本尊であった千手観音をお迎えしたという。身の丈163センチの桜材の一木造りで、頭上に十一面をいただく。太く量感豊かで、渋みのあるお顔には古様がみられる。42手をもつ総身漆箔(しっぱく)の像である。裳(も)のひだには、飜波(ほんぱ)式の衣文(えもん)がみられ、渦文(かもん)も処々に刻まれて貞観(じょうかん)彫刻の名残りをとどめている。藤原時代(西暦894年~1185年)初期の特徴をよくあらわしているなかなかの優作である。
 像は干割(ひわ)れを防ぐために、荒彫りした像を前後二材に割って内袴(うちぐ)りをした後、再び矧(は)ぎ合わせる割矧法(わりはぎほう)という造り方である。平安初期の一木造りから藤原時代の寄木造りに発展していく過渡期の造法である。
 「末寺の吉水(よしみず)寺の本尊であった千手観音をお迎えした」とあります。先ほど見た「白峯寺縁起」には、吉水寺の本尊は流れ着いた巨木から作られた観音さま安置された4つの寺院のひとつと記されていた寺院になります。吉水寺は根来寺の末寺であったが、近世には退転していたので、そこから観音さまをお迎えしたと記されています。造立年代をもう一度確認しておきましょう。
根来寺の本尊千手観音「藤原時代(西暦894年~1185年)初期」
国分寺の本尊千手観音 平安時代後期
時代的にも「同一巨木から作られた観音さま」と云えそうです。

根来寺は、もともとは弘法大師開基とされ、白峰寺や国分寺と密接なつながりがあったことは今見てきたとおりです。
しかし、初代高松藩主・松平頼重の保護を受けるようになって、「円珍(智証大師)創建」とする新たな寺伝が作られるようになり、「弘法大師開基」説は放棄されます。そして、白峰寺と同じ漂着木から作られた観音菩薩縁起は、顧みられなくなり、独自の寺伝が作られたことは以前にお話ししました。ここにも、松平頼重の円珍への肩入れの痕跡を見ることができます。
 中世には山林修行者によって、国分寺と白峰寺と根来寺は「中辺路」ルートで結ばれた行場でした。
同時に山林修行者たちは、高野聖の手法に倣って、周辺の人々をこれらの寺への「巡礼」に誘引するようになります。こうして、春の先祖参りの彼岸には、国分寺からスタートして、その背後の白峰寺や根来寺にも、人々が「ミニ巡礼」に訪れるようになります。そんな風に私は考えています。どちらにしても、七観音廻り(巡礼)の成立の背景には、中世以来の高野聖や念仏聖などの山林修行者の存在があったことを押さえておきます。
   四国遍路の成立については、近年の研究者は次のように段階的に形成されてきたと考えるようになっています。
①平安時代に登場する山林修行者の「辺路修行」を原型とし、
②その延長線上に鎌倉・室町時代のプロの修験者たちによる修行としての「四国辺路」が形成され
③江戸時代に八十八カ所の確立されてからアマチュア遍路による「四国遍路」の成立
つまり中世の「辺地修行」から近世の「四国遍路」へという二段階成立説が有力です。②の中世の「四国辺路」は、修行のプロによる修行的要素が強く残る段階です。この時期の「辺路修行を」の五来重は、「大中小行道」の3つに分類します。
①海岸沿いに四国全体を回る「大行道(辺路)」
②近隣の複数の聖地をめぐる「中行道(辺路)」
③堂宇や岩の周りを回る「小行道(辺路)」
その例が前回お話しした室戸岬の金剛頂寺(西寺)と最御崎寺(東寺)との関係です。近世の「遍路」は順路に従って、お札を納めて朱印を頂いて行くだけです。しかし、中世の行者たちは岩に何日も籠もり、西寺と東寺を毎日往復する行を行い、同時に西寺下の行道岩の周りをめぐったり、座禅を行ったりしていました。これが②③になります。それも一日ではなく、満足のいくまで繰り返すのです。それが「験(げん)を積む」ことで「修行」なのです。これをやらないと法力は高まりません。ゲーム的にいうならば、修行ポイントを高めないと「ボスキャラ」は倒せないのです。
どちらにしても中世のプロの行者たちは、ひとつの行場に長い間とどまりました。
そのためには、拠点になる建物も必要になります。こうしてお堂が姿を現し、「空海修行の地」と云われるようになると行者も数多くやって来るようになり、お堂に住み着き定住化する行者(僧)も出てきます。それが寺院へと発展していきます。これらの山林寺院は、行者によって結ばれ、「山林寺院ネットワーク」で結ばれていました。これが「中辺路」へと成長して行くと研究者は考えているようです。
 そこに近世になると庶民が「ミニ巡礼」として、参加するようになります。それが善通寺の「七ケ所巡り」であり、「高松の七観音巡り」であったと私は考えています。今日はここまでです。
高松七観音参りの後半、屋島寺・八栗寺・志度寺・長尾寺については、またの機会にします。
  
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

      十返舎一九_00006 六十六部
十返舎一九の四国遍路紀行に登場する六十六部(讃岐国分寺あたり)

   「六十六部」は六部ともいわれ、六十六部廻国聖のことを指します。彼らは日本国内66ケ国の1国1ケ所に滞在し、それぞれ『法華経』を書写奉納する修行者とされます。その縁起としてよく知られているのは、『太平記』巻第五「時政参籠榎嶋事」で、次のように説きます。

 北条時政の前世は、法華経66部を全国66カ国の霊地に奉納した箱根法師で、その善根により再び生を受けた。また、中世後期から近世にかけて、源頼朝、北条時政、梶原景時など、鎌倉幕府成立期の有力者の前世も、六十六部廻国聖だ。つまり我ら六十六部廻国聖は、彼らの末裔に連なる。

 六十六部廻国については、よく分からず謎の多い巡礼者たちです。彼らの姿は、次のように史料に出てきます。
①経典を収めた銅製経筒を埋納して経塚を築く納経聖
②諸国の一宮・国分寺はじめ数多の寺社を巡拝して何冊も納経帳を遺す廻国行者
③鉦を叩いて念仏をあげ、笈仏を拝ませて布施を乞う姿、
④ときに所持する金子ゆえに殺される六部
しかし、四国遍路のようには、私には六十六部の姿をはっきりと思い描くことができません。まず、彼らの納経地がよく分かりませんし、巡礼路と言えるような特定のルートがあったわけでもありません。数年以上の歳月を掛けて日本全土を巡り歩き、諸国のさまぎまな神仏を拝するという行為のみが残っています。それを何のために行っていたのかもはっきりしません。讃岐の場合は、どこが奉納経所であったのかもよく分かりません。
六十六部 十返舎一九 大窪寺
甘酒屋に集まる四国遍路 その中に描かれた六十六部(十返舎一九)

白峯寺縁起 巻末
『白峯寺縁起』巻末(応永13年-1406)
研究者は白峯寺所蔵の『白峯寺縁起』の次の記述に注目します。
ここに衆徒中に信澄阿閣梨といふもの、霊夢の事あり。俗来て告げて云。我六十六ケ国に、六十六部の本尊を安置すへき大願あり。白峯寺本尊をは早造立し申たり。渡奉へしと示して夢党ぬ.・…
意訳変換しておくと
白峯寺の衆徒の中の信澄阿閣梨という僧侶が次のような霊夢を見た。ある人がやって来て「我は六十六ケ国に、六十六体の本尊を安置する大願も持つ。白峯寺本尊は早々に造立したので、これを渡す」と告げて夢は終わった。
ここからは15世紀初頭には、白峯寺が六十六の本尊を祀り、奉納経先であったことがうかがえます。
古代の善通寺NO11 香色山山頂の経塚と末法思想と佐伯氏 : 瀬戸の島から
埋められた経筒の例

さらに、白峯寺には、西寺の宝医印塔から出土した伝えられる経筒があります。
経筒 白峰寺 (1)
白峯寺の経筒(伝西寺跡の宝医印塔から出土)

そこには次のような銘文があります。
    享禄五季
十羅刹女 四国讃州住侶良識
奉納一乗真文六十六施内一部
三十番神 旦那下野国 道清
今月今日
意訳変換しておくと
 享禄五(1532)年
法華経受持の人を護持する十人の女性である十羅刹(じゅうらせつにょ)に真文六十六施内一部を奉納する。 納経者は四国讃州の僧侶良識 檀那は 旦那下野国(栃木県)の道清
今月今日
ここからは、下野の道清から「代参」を依頼された「四国讃州の良識」が讃岐の六十六部の奉納先として白峰寺を選んでいたことが分かります。室町時代後期には、白峯寺が六十六部の本納経所であったことがうかがえます。ここで研究者が注目するのが「四国讃州住侶良識」です。良識について、研究者は次のように指摘します。
①「金剛峯寺諸院家析負輯」から良識という僧は、高野山金剛三味院の住職であること
②戦国期の金剛三昧院の住職をみると良恩―良識―良昌と三代続て讃岐出身の僧侶が務めたていること
③良識は金剛三昧院・第31世で、弘治2年(1556)11月に74歳で没していること
展示・イベントのお知らせ|高松市
讃岐国分寺 復元模型

良識については、讃岐国分寺の本尊の落書の中にも、次のように名前が名前が出てきます。
当国井之原庄天福寺客僧教□良識
四国中辺路同行二人 納中候□□らん
永正十年七月十四日
意訳変換しておくと
讃岐の井之原庄天福寺の客僧良識が、四国中辺路を同行二人で巡礼中に記す。永正十(1513)年七月十四日

ここに登場する良識は、天福寺の客僧で、「四国中辺路」巡礼で讃岐国分寺を参拝しています。良識は次の3つの史料に登場します。
①白峰寺の経筒に出てくる良識
②高野山の金剛三味院の住職・良識
③国分寺に四国中辺路巡礼中に落書きを残した良識
この三者は、同一人物なのでしょうか? 時代的には、問題なく同時代人のようです。しかし、金剛三味院の住職という役職につく人物が、はたして六十六部として、全国を廻国していたのでしょうか。
室町時代後期の讃岐と高野山の関係をみておきましょう。
金毘羅大権現の成立を考える際の根本史料とされるのが金比羅堂の棟札です。ここには、次のように記されています。
 (表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿」
    当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」
    于時元亀四年突酉十一月廿七記之」
 (裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師
    高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
銘を訳すれば、

「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都
宥雅が造営した」

「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」
 この棟札は、かつては「本社再営棟札」と呼ばれ、「金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった」と考えられてきました。しかし、近年研究者は、「この時(元亀四年)、はじめて金毘羅堂が創建された。『本尊鎮座』というのも、はじめて金比羅神が祀られたものである」と考えるようになっています。
 ここには建立者が「金光院権少僧都宥雅」とあり、その時の導師が金剛三味院の良昌であることが分かります。建立者の宥雅は、西長尾城城主長尾氏の弟とも従兄弟ともされます。彼は、長尾一族の支援を受けて、新たに金毘羅神を創り出し、その宗教施設である金比羅堂を建立します。その際に、導師として高野山三昧院の良昌が招かれているのです。このことから宥雅と良昌の間には、何らかの深い結びつきがあったことがうかがえます。そして、先ほど見たように、戦国期の高野山金剛三昧院の住職は、「良恩―良識―良昌」と受け継がれています。良昌は良識の後任になることを押さえておきます。

戦国期の金昆羅金光院の住職を見ると、山伏(修験者)らしき人物が数多く勤めています。
流行神としての金毘羅神が登場する天正の頃の住職は、「宥雅一宥厳一宥盛」と続きます。初代院主とされる宥雅は長尾大隅守の弟か従兄弟とされます。彼は長尾氏が長宗我部元親に減ぼされると摂津の堺に亡命します。金毘羅に無血入城した元親が建立されたばかりの松尾寺を任せるのが、土佐から呼び寄せた宥厳です。宥厳は土佐幡多郡の当山派修験のリーダーで大物修験者でした。その後を継いだのが宥厳を補佐していた金剛坊宥盛です。宥盛は山伏として名高く、金比羅を四国の天狗信仰の拠点に育て上げていきます。その宥盛は、もともとは宥雅の弟子であったというのです。
 こうしてみると、金岡三昧院良昌と深い関係にあった宥雅も実は山伏であったことがうかがえます。
宥盛は、山伏として多くの優れた弟子たちを育てて権勢を誇り、一方では高野山浄菩提院の住職ともなって、金光院と兼帯していたことも分かってきました。このように高野山の寺院の住職を、山伏が勤めていたことになります。
 近世には「山伏寺」というのは、一団格が低い寺と見なされるようになり、山伏と関係していたことを、どこの真言寺院も隠すようになりますが、近世はじめには山伏(修験者)の地位と名誉は、遙かに高かったことを押さえておきます。
 例えば、17世紀前半に善通寺の住職が、金毘羅大権現の金光院院主は善通寺の「末寺」であると山崎藩に申し立てて、末寺化しようとしています。それほど、真言僧侶の中では、金毘羅大権現の僧侶と、善通寺は関係が深いと認識していたことがうかがえます。
 さて、もういちど白峯寺経筒の良識にもどります。
先ほど見た良識が同一人物であったとすれば、次のような彼の軌跡が描けます。
①永正10年(1513)、31歳で四国辺路
②享禄 5年(1532)、50歳で六十六部となり日本廻国
六十六部の中に、高野山を本拠とする者が多くいたことは、先ほど見たとおりです。当時の高野山は学侶方、行人方、聖方などに大きく分かれていましたが、近時の研究では高野山の客僧の存在が注目されるようになっているようです。客僧は学侶・行人・聖のいずれにも属さない身分で、中世末以降は山伏をさすことが多いようです。六十六部として廻国したのは行人方あるいは客僧と研究者は考えています。
 室町時代後期ころの金剛三味院がどのような様子だったのかは分かりません。しかし、戦国時代には山伏と深い関係があったことは、「良識ー良昌ー宥雅ー宥盛」とのつながりでうかがえます。良識が客僧的存在の山伏であり、六十六部や四国辺路の先達をした後、金剛三味院の住職となったというストーリーは無理なく描けます。

 白峯寺に版本の『法華経』(写真34)が残されています。
白峯寺 法華経第8巻
法華経(白峯寺)
その奥書には、次のように記されています。
寛文四年甲辰十二月十日正当
顕考岡田大和元次公五十回忌於是予写法華経六十六部以頌蔵 本邦
六十六箇国珈寓迫遠之果懐而巳
寛文三年癸卯四月日
従五位下神尾備前守藤原元勝入道宗休
  意訳変換しておくと
寛文四(1664)年甲辰十二月十日に、「従五位下神尾備前守 藤原元勝入道宗休」が父の岡田大和元次公の五十回忌のために、法華経を書写し、全国の六十六ヶ国に奉納した。
六十六箇国珈寓迫遠之果懐而巳
寛文三年癸卯四月日
従五位下神尾備前守 藤原元勝入道宗休

ここには、藤原元勝が父岡田元次公の50回忌に、66ヶ国に『法華経』を奉納したこと、讃岐では、白峯寺に奉納されたことが分かります。
奉納者の藤原元勝は岡田元勝といい、家康に仕えた旗本で、次のような経歴の持ち主のようです。
天正17年(1589)に岡田元次の子として生まれその後に神尾姓となり
慶長11年(1606)に、徳川家康に登用され、書院番士になり
寛永元年(1624)に陸奥に赴き
寛永11年(1634)に長崎奉行へ栄転
寛永15年(1638)に江戸幕府の町奉行となり
寛文元年(1661)3月8日に退職。
その後は、宗体と名乗り、寛文7年(1667)に没
奥書からは、彼が退職後の寛文3年(1663)に父の岡田元次公の50回忌に『法華経』を66ヶ国に奉納したことになります。しかし「写法華経六十六部」とありますが、70歳を過ぎた高齢者が10年以上もかかる日本廻国を行ったとは思えません。「柳寓追遠之果懐而巳」をどう読むのかが私にはよく分かりませんが、遠方なので代参者に依頼したと私は解釈します。
 
 宝永~正徳(1704~16)年間に日本廻国した空性法師は、四国88ヶ所のほぼ全てに奉納しています。
この時になると、白峯寺だけでなく四国霊場全てが奉納対象になっていたことが分かります。そして以後の六十六部廻国行者も同じ様に全てに奉納するようになります。その結果、讃岐の霊場の周辺には数多くの六十六部の痕跡が残ることになります。この痕跡が最も濃いのが三豊の雲辺寺→大興寺→観音寺の周辺であることは、以前にお話ししました。

以上、享禄5年の経筒、神尾元勝の『法華経』奉納などから白峯寺か中世末から六十六部奉納経所であったと研究者は判断します。これは六十六部が四国辺路の成立に関わっていたことを裏付けることになります。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武田 和昭 四国辺路と白峯寺   白峯寺調査報告書2013年141P
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白峯寺法蔵 崇徳上皇 歌切図 
崇徳上皇 (白峯寺蔵)
保元の乱に敗れて讃岐に流された崇徳上皇は、長寛2年(1164)8月、当地で生涯を閉じます。白峯寺の寺域内西北の地に崇徳上皇の山陵が営まれ、これを守護するための廟堂として頓證寺(御影堂・法華堂ともよばれる)が建立されます。この頓證寺の建立が、白峯寺の歴史にとって大きな意味を持つことになるのは以前にお話ししました。

白峰寺伽藍配置
現在の白峰寺の境内配置図(現在の本坊は洞林院)
 ここまでの白峯寺は、同じ五色台にある根来寺と同じように、山林修行者の「中辺路」ルートの拠点としての山岳寺院でした。それは弥谷寺や屋島寺などと性格的には変わらない存在だったと私は考えています。それが崇徳上皇陵が境内に造られることで、大きなセールスポイントを得たことになります。これは中世の善通寺が「弘法大師空海の生誕地」という知名度を活かして「全国区の寺院」に成長して行ったのとよく似ているような気もします。善通寺は空海を、白峯寺は崇徳上皇との縁を深めながら、讃岐のその他の山岳寺院とは「格差」をつけていくことになります。今回は、頓證寺と白峰寺の関係に絞って、見て行くことにします。テキストは     「上野 進 中世における白峯寺の構造  調査報告書2 2013年 香川県教育委員会」
です。

 最初に確認しておきたいことは白峰御陵の附属施設として建立された「崇徳院御廟所」は、厳密に云うと頓證寺だということです。そして、次のように頓證寺と白峯寺は同じ寺ではなく、もともとは別の寺であったということです。
白峯寺=修験者の中辺路ルートの山林寺院
頓證寺=崇徳上皇慰霊施設
二つの寺は、建立時期も、その目的もちがいます。
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頓證寺殿
頓證寺は何を白峰寺にもたらしたのでしょうか。第1に経済的な基盤である寺領です
 中央政府や都の貴族たちが寄進を行うのは頓證寺であって、もともとは白峰寺ではなかったようです。それが白峰寺と頓證寺が次第に一体化していく中で、頓證寺の寺領管理を白峯寺が行うようになります。

白峰寺明治35年地図
白峰寺の下の郷が松山郷
『白峯寺縁起』によれば、次のような寺領寄進を受けたと記します。
①治承年間(1177~81)に松山郷青海と河内
②文治年間(1185~90)に山本荘
③建長5年(1253)に後嵯峨上皇によって松山郷
しかし、この記述に対して研究者は、いろいろな疑義があると考えていることは以前にお話ししましたのでここでは省略します。本ブログの「四国霊場白峯寺 白峯寺が松山郷を寺領化するプロセス」参照
白峯寺 千手観音二十八部衆図
千手観音二十八部衆像(白峯寺)
 暦応5年(1342)の鐘銘写には「崇徳院御廟所讃州白峯千手院」との銘文があります。
この千手院は千手院堂ともよばれ、後嵯峨上皇の勅願所になったとされます。先に寄進された松山荘は千手院堂の料所であったとも伝えられます。白峯寺の本尊が千手観音であることを思えば、この千手院は白峯寺の本堂のことだと研究者は考えているようです。頓證寺に寄進された松山荘が、この千手院堂の料所となっているのは、頓證寺と松山荘が、どちらも白峯寺の管理下になっていたためでしょう。ここからは、14世紀半ば頃には、廟所としての頓證寺が白峯寺と一体化していたことがうかがえます。ある意味で頓證寺が白峰寺にのみ見込まれていったというイメージでしょうか。こうして「廟所としての白峯寺」というイメージが作り出されていきます。
南海流浪記- Google Books
道範の南海流浪記
 建長元年(1249)に、高野山の党派抗争で讃岐に流されていた道範が8年ぶりに帰国を許されることになります。その際に、白峯寺院主に招かれて白峯寺に立ち寄っています。そして白峯寺を「南海流浪記」に次のように記します。

此ノ寺(白峯寺)国中清浄ノ蘭若(寺院)、崇徳院法皇御霊廟

ここからは、13世紀半ばの鎌倉時代にはすでに「廟所としての白峯寺」というセールスポイントが作り出されていたことがうかがえます。建立された頓證寺が寺僧集団をともなっていたかどうかは、史料的には分かりません。しかし、隣接する近い仲です。頓證寺と白峯寺との関係が密接になる中で、しだいに頓證寺の法会等にも白峯寺僧が出仕するようになったことは考えられます。
 
白峯寺 四国名所図会
白峯寺(四国遍礼名所図会)

 これについて山岸常人氏は、次のように指摘します。

白峯寺が13世紀中期以降は、頓証寺の供僧21口を構成員とする新たな寺院に転換したと言えよう。頓証寺の供僧集団が前身寺院(白峯寺)をも継承した

 頓證寺が中央政府によって建立されて以後、白峯寺と頓證寺との一体化が進んだのです。
そして建長4(1252)年の段階では、白峯寺と頓證寺は法会を通じて分かちがたく結びついたと研究者は考えています。しかし、あくまで前面に立つのは頓證寺であって、白峯寺ではなかったようです。「十一日の供僧勅請として、各十一通の御手印の補任を下さる」というのも事実かどうかは分かりません。しかし、そうした主張ができるのは廟所である頓證寺だからこそできることです。こうして21院を、白峰寺の院主が統括するというスタイルで一山は運営されていたと研究者は考えています。
 以上をまとめておくと、
①千手院を中心とする中世の白峯寺は、実質的に頓證寺と一体化し、それによって廟所を名乗るようになった。
②ただし表に出るのは頓證寺の方であったので、頓證寺の供僧集団が白峯寺を吸収し、継承したとみることもできる。
③どちらにしても白峯寺と頓證寺とは、それぞれ別に存在して両者を補完する関係にあった
④それを示すかのように、戦国期の如法経供養は千手院と頓證寺のそれぞれで行われた

こうして 「崇徳上皇の廟所 + 中辺路修行の山岳寺院 + 安定した寺領と経済力」という条件の備わった中世の白峯寺は多くの廻国の聖や行者を集め、活動の舞台を提供する寺になります。僧兵集団も擁していたと考える研究者もいます。このような状況が21もの子院の並立を可能にする背景だったのでしょう。その結果、一山寺院として衆徒や聖などの集団が、念仏阿弥陀信仰や時衆信仰、熊野信仰などなどの布教活動を周辺の郷村で行うようになります。

 白峰寺の頂点は前回見たように院主でした。しかし、子院の中でも洞林院のような有力なものもあらわれています。
洞林院は戦国時代には衰退したこともありますが、慶長期になると秀吉の命で讃岐国守として入部した生駒氏の保護のもとで、別名が白峯寺再興の役割を果たします。別名は、生駒氏の支持を受けて山内での勢力基盤を強化します。その結果、洞林院が山内の中心的な位置を占めるようになります。現在の本坊にあるのは洞林院ということになります。

白峯寺本坊 弘化4年(1847)金毘羅参詣名所圖會:
幕末の絵図 金毘羅参詣名所図会には本坊に洞林院が描かれている。


以上をまとめておきます
①古代の白峯寺は、五色台を行場とする山林修行者の行場のひとつから生まれた。
②律令国家の下で密教が重視されると国分寺背後の五色台に、山林寺院が整備されていく。そのひとつが白峯寺や根香寺であった。
③12世紀後半に崇徳上皇陵が白峰山に作られ、廟所・頓證寺が建立されたことが白峯寺にとっては大きな意味を持つことになる。
④頓證寺に寄進された松山荘は、実質的には白峯寺の管理下にあって経済基盤となった
⑤鎌倉期以降、白峯寺と頓證寺との一体化が進展していく。
⑥中でも鎌倉中期に頓證寺に21の供僧が設置されたことが白峯寺にとって重要な意味をもった。
⑦ここに白峯寺と頓證寺とが法会を通じて分かちがたく結びついた
⑧白峯寺と頓證寺とは、それぞれが補先する関係にあり、その関係は中世を通じて継続した

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「上野 進 中世における白峯寺の構造  調査報告書2 2013年 香川県教育委員会」
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白峯寺の頓證殿
白峰寺の紫陽花が見頃ですよと教えていただいて、花見ついでに境内や奥の院の毘沙門窟を歩いてきました。境内に咲き誇る紫陽花は見事なもので、古い堂宇を引き立てていました。ところで紫陽花の背後の堂宇に近づいて眺めていると、どれもが「重要文化財」と書かれています。白峰寺に重要文化財の建物がこんなにあったのかなと不思議に思っていると、2016年に白峰寺の7つの堂宇が国の重要文化財に一括して指定されていたようです。何も知りませんでした。お恥ずかしい話です。それらの重要文化財の縁側に腰を下ろして、紫陽花を眺めながら白峯寺の報告書を読みました。

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白峯寺の柏葉紫陽花
訪れる人も少なく、ヤブ蚊に悩まされることもなく至高の時間を頂きました。その時に読んだ報告書の内容を、私なりに要約すると次のようになります。

 白峰寺や根香寺がある五色台は、国分寺背後の霊山で、そこは三豊の七宝山のように修験者たちの「中辺路」の行場ルートがありました。海と山と断崖の窟の行場を結んで行者たちは「行道」と「瞑想」を日夜繰り返します。その行場の近くに山林修行者がお堂や庵が姿を現します。行場の一つである稚児の瀧の近くに建てられたお堂が白峯寺の起源だと研究者は考えています。白峰寺は、行場に造られたお堂から発展してきたお寺なのです。これは根香寺も同じです。

今回は中世の白峯寺が、どんな僧侶たちの集団によって構成されていたのかを見ていくことにします。
比較のために以前にお話しした善通寺の僧侶集団のことを見ておきましょう。中世の善通寺には次のような僧侶達がいました。
①二人の学頭
②御影堂の六人の三味僧
③金堂・法華堂に所属する18人の供僧
④三堂の預僧3人・承仕1人
このうち②の三味僧や③の供僧は寺僧で、評議とよばれる寺院の内意志決定機関の構成メンバー(衆中)でした。その下には、堂預や承仕などの下級僧侶もいたようです。善通寺の構成メンバーは約30名前後になります。

白峯寺 構成メンバーE
大寺院の構成メンバー 
寺院の中心層は、学僧や修行僧たちです。
しかし、彼らに仕える堂衆(どうしゅう)・夏衆(げしゅう)・花摘(はなつみ)・久住者(くじゅうさ)などと呼ばれた存在や、堂社や僧坊の雑役に従う承仕(しょうじ)公人(くにん)・堂童子(どうどうじ)、さらにその外側には、仏神を奉じる神人やその堂社に身を寄せる寄人や行人たちが数多くいたようです。特に経済力があり寺勢が強い寺には寄人や行人が集まってきます。また武力装置として僧兵も養うようになっていきます。

   弥谷寺の「中世の構成員」も見ておきましょう。
  鎌倉時代の初めに讃岐に流刑となった道範から弥谷寺の中世の様子が見えてきます。道範は高野山で高位にあった僧侶なので、善通寺が彼を招き入れます。道範は、善通寺で庵を結んで8年ほど留まり、案外自由に各地を巡っています。それが『南海流浪記』に記されています。道範は、高野山で覚鑁(かくはん)がはじめた真言念仏を引き継ぎ、盛んにした人物でもありました。彼は、讃岐にも阿弥陀信仰を伝えた人物でもあるようです。道範が「弥谷上人」からの求めで著した『行法肝葉抄』(宝治2年(1248)の下巻奥書に、次のような記述があります。
宝治二年二月二十一日於善通寺大師御誕生所之草 庵抄記之。是依弥谷ノ上人之勧進。以諸口決之意ヲ楚忽二注之。
書籍不随身之問不能委細者也。若及後哲ノ披覧可再治之。
是偏為蒙順生引摂拭 満七十老眼自右筆而已。      
                阿開梨道範記之
意訳変換しておくと
宝治二(1248)年2月21日、善通寺の弘法大師御誕生所の庵で書き終える。この書は弥谷ノ上人の勧進でできたものである。(弥谷上人からの)依頼を受けて、すぐさまに書き上げたもので、流刑の身で手元に参考書籍などがないために、細部については落ち度があるかもしれない。もし後日に誤りが見つかれば修正したい。是偏為蒙順生引摂拭 満七十老眼自右筆而已。      
                阿開梨道範記之
 ここで研究者が注目するのは「弥谷の上人の勧進によってこの書が著された」と記されている箇所です。普通は、上人とは高僧に対する尊称です。しかし、ここでは、末端の堂社で生活する「寄人」や「行人」たちを「弥谷ノ上人」と記していると研究者は指摘します。また「弥谷寺」ではなく「弥谷」であることにも注意を促します。ここからは、行人とも聖とも呼ばれる「弥谷ノ上人」が拠点とする弥谷は、この時点では行場が中心で、善通寺のような組織形態を整えた「寺」ではなかったと研究者は考えています。また、この時点では、弥谷寺と善通寺は本末関係もありません。善通寺と曼荼羅寺のような一体性もありません。弥谷(寺)は、善通寺の「別所」であり、行場でした。そこに阿弥陀=浄土信仰の「寄人」や「行人」たちがいたのです。
行人層は、寺領によって日々の糧を保障されている上部僧の大衆・衆徒とは違って、自分の生活は自分で賄わなければなりません。
そのため托鉢行を余儀なくされたでしょう。その結果、地域の人々との交流も増え、行基や空也のように、橋を架け、水を引くなどの土木・治水活動にも尽力します。さらに治病にも貢献し、死者の供養にも積極的に関わっていったようです。そうした活動の中で、庶民に中に入り込み、わかりやすい言葉で口称念仏を広めていきます。高野山が時衆念仏で阿弥陀信仰に染まった時期には、高野聖たちによって弥谷寺や白峯寺も阿弥陀信仰の布教拠点となります。それは、現在でも白峰寺境内に阿弥陀堂があることからもうかがえます。

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白峯寺阿弥陀堂
 このように地方の有力寺院の場合、学侶(学問僧)・行人・聖などで構成されていたようです。まず学侶(学頭)については、寺院の僧侶身分の中で最も上位に立つ存在で、中心的な位置を占めていました。学業に専念する狭義の学頭がいたようです。しかし、白峰寺や根来寺では、学問僧の影は薄いようです。
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白峯寺薬師堂
白峯寺で多くを占めたとみられるのは「衆徒」です。
『白峯寺縁起』に「衆徒中に信澄阿閣梨といふもの」が登場します。また元禄8年(1695)の「白峯寺末寺荒地書上」には、中世まで活動していたと考えられる「白峯寺山中衆徒十一ケ寺」が書き上げられています。この他、天正14年(1586)の仙石秀久寄進状の宛所は「しろみね衆徒中」となっています。一般には武装する衆徒も多かったようです。当時の情勢からして、白峯寺が僧兵的な集団を抱え込んでいた可能性は充分にあることは以前にもお話ししました。

白峯寺縁起 巻末
白峯寺縁起 巻末部分

13世紀半ばの「白峯寺勤行次第」には、次のようなことが書かれています。
①浄土教の京都二尊院の湛空上人の名が出てくること
②勤行次第の筆者である薩摩房重親は、吉野(蔵王権現)系の修験者であること
③勤行次第は、修験者の重親が白峯寺の洞林院代(住持)に充てたものであること
 ここからは、次のような事が分かります。
①子院の多くが高野聖などの念仏聖の活動の拠点となっていたこと
②熊野行者の流れをくむ修験者たちが子院の主となっていたこと
③修行に集まってくる廻国修行者を統括する中核寺院が洞林院であったこと
 鎌倉時代後期以降の白峯寺には、真言、天台をはじめ浄土教系や高野系や熊野系、さらには六十六部などの様々の修行者が織り混じって集住していたと坂出市史は記します。その規模は、弥谷寺などと並んで讃岐国内で最大の宗教拠点でもあったようです。
 それぞれの子院では、衆徒に対して奉仕的な行を行う行人らが共同生活をしていたと研究者は考えています。
白峯寺における行人の実態は、よくわかりません。おそらく山伏として活動し、下僧集団を形成したと研究者は考えています。たとえば若狭国の有力寺院である中世の明通寺では、寺僧は「顕・密・修験」を兼ねていました。白峯寺における衆徒の中にも修験に通じ、山岳修行を行っていた人々もいたはずで、集団としての区分も曖味であったかもしれません。彼らにとっては、真言・天台の別はあまり関係なかったかもしれません。

白峯寺 境内建物変遷表2
白峰寺境内実測図
上の白峰寺の実測図を見ても、数多くの子院跡があったことがうかがえます。
学侶の代表として、一山全体を統括したのが「院主」です。
先ほど見た高野山の高僧・道範は、讃岐での8年間の滞在記録を「南海流浪記」として残しています。この日記の中で白峰寺が登場する部分は、建長元年(1249)8月に道範が流罪を許されて高野山へ還る途上のことです。そこには、善通寺から白峯寺へ移り、白峯寺院主の静円(備後阿閣梨・護念房)の求めに応じて伝法しています。その後、本堂修理供養の曼茶羅供で大阿闊梨を勤めたことが記されています。
 ここからは次のようなことが分かります。
①静円が院主であったことから、当時の白峯寺が院主を中心に、子院連合で運営されたこと
②院主静円は、高野山の高僧・道範から伝法されているので高野山系の真言僧侶であったこと。
また室町期の応永21年(1414)に後小松上皇が廟所・頓證寺の額を収めていますが、その添書は「院主御坊」宛になています。ここからも中世の白峯寺は、院主を中心とした体制であったことが裏付けられます。比較のために若狭国の明通寺を見てみると、戒薦によって一和尚から五和尚までの位階があり、一和尚が院主に補任されることとなっています。暦応5年(1342)の白峯寺の記録にも「一和尚法印大和尚位頼弁」と見えます。ここからは、戒蕩によって院主が補任されていたことが裏付けられます。
 中央の顕密寺院では三綱や政所などの運営組織がつくられ、寺務を担っていました。しかし、中世の白峯寺の場合は、そうした組織は史料には出てこないようです。若狭国の明通寺の場合などは、年行事が寺僧から選ばれ、一年交代で一山の寺務を行ったのではないかと研究者は考えています。このような運営が白峯寺でも行われていたことが推察できます。なお、江戸時代末期の納経帳には「白峯寺政所」の記述がありますが、これが中世までさかのぼるとは研究者は考えていないようです。

白峯寺古図拡大1
白峯山古図(部分)

聖については「白峯山古図」に、阿弥陀堂や別所が見えているので、聖集団が存在したようです。
発掘調査でも、現在の境内からはやや離れた山の中に別所があったことが分かっています。ここからも白峯寺の周縁部に聖集団がいたことが裏付けられます。

白峯寺 別所
白峰山古図に描かれた別所 
白峯寺には中世の連歌作品が「崇徳院法楽連歌」として残されています。
期間は天文17年(1548)から天正4年(1576)までの約30年間のものです。これについて研究者は、この連歌会は、白峯寺僧らによって運営されていたと指摘しています。この連歌会によく登場する「良宥、宥興、宗盛、宗意、宗繁、増盛、宗伝、宗源、惣代、増鍵、勢均」です。また永禄(1558~70)ころ以降に登場する者には「恰白、宗任、増厳、宗快、増徳、増政、宋有」らがいます。名前を見ると「宥」「宗」「増」などの字が多いことに気がつきます。「これらは多分白峯寺かもしくは近隣の僧侶や神官たちであったのではないか」と研究者は考えています。その裏付けは以下の通りです。
 戦国期の白峯寺については、「宗」のつく人物として永禄10年(1567)の「岡之坊宗林」が『讃岐国名勝図会』の「大鼓筒」の筒内銘で確認できます。ここには「院主宗政」や「再興洞林院代宝積院阿閣梨宋有」の名もあります。このほか慶長9年(1604)の棟札には、一乗坊宥延・花厳坊増琳・円福寺増快・西光寺宗円・円乗坊宥春・南之坊宗伝・宝林坊増円が名を連ねています。「宥」「宗」「増」を通字とした白峯寺僧がいたことが分かります。ここからは戦国期の「崇徳院法楽連歌」は白峯寺の僧やその周辺にいた有力者人たちによって担われ、彼らに支えられて戦国期の白峯寺は綾北平野の文化活動の拠点となっていたと研究者は考えています。

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白峯寺の「別所」の現在位置
 歌人として著名な西行も「本職」は高野聖でした。
讃岐では白峯御陵を訪ねた後は、善通寺の我拝師山の捨身ケ岳で修行を3年行っています。連歌師として活躍する高野聖が多かったことは、いろいろな史料から分かります。この時代の白峰寺周辺には、連歌会に参加する僧侶が何人もいて、彼らが子院の居住者であったことが推察できます。ここからも中世の白峯寺に多数の子院があったことが事実であったことが裏付けられます。さらに、香西氏の一族が定期的に参加する連歌会が行われていた史料もあります。ここからは、香西氏などの有力者を保護者としていたこともうかがえます。

中世には活発な海上交通などを背景として讃岐でも熊野信仰が定着し、熊野参詣者(檀那)も増えます。
文明16(1484)年の熊野那智大社の檀那売券に「福江之玉泉坊」があります。ここからは福江(坂出市)には熊野参詣へ赴く旦那がいたことが分かります。さらに天文22(1553)年の「中国之檀那帳」には、旦那がいた地域として「賀茂 氏部 山本 林田 松山」の「綾北条五郷」があげられています。このように中世後期には、綾北平野の有力者が熊野参詣を行っていたことが分かります。熊野詣では、個人参拝ではなく先達に率いられて行く集団参拝でした。つまり、それを率いていく先達(熊野行者)が周辺部にいたことになります。
 文明5(1473)年には、紀州熊野那智社の御師光勝房が、相伝してきた讃岐国の旦那権・白峯寺先達権を銭18貫文、年季15年で花蔵院へ売り渡している記録があります。ここからは、白峰寺の子院の中には、熊野詣での先達を務める行者がいたことが分かります。熊野行者をはじめ、多くの廻国する聖や行者らが白峯寺を拠点に活動していたことが、ここからも裏付けられます。
 このように中世の白峯寺は、古代に引き続いて山岳仏教系の寺院として展開していたようです。さらに近世になっても行者堂が再建立されています。白峯寺は山岳信仰の拠点として長らく維持されたといえます。
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白峯寺行者堂
 白峰寺の「恒例八講人数帳」及び「恒例如法経結番帳」には、戦国期の白峯寺には次のような21の坊があったと記します。

持善坊・成就坊・成実坊・法花坊。新坊・北之坊(喜多坊)・円乗坊・西之坊・宝蔵寺・一輪坊・花厳坊・洞林院・岡之坊・宝積院・普門坊・一乗坊・明実坊・宝光坊・実語坊・千花坊・谷之坊

これらの子院は、どのように形成されたのでしょうか。
研究は、『白峯寺縁起』(応永13年(1406)の次の部分に注目します。
「建長四年十一月の比、唐本の法華経一部をくりまいらせさせ給、翌年松山郷を寄られ、御菩提のため十二時不断の法花の法を始をかれ二十一口の供僧勅請として、各二十一通の御手印の補任を下さる、(中略)又六年より法華会を行はる」

意訳変換しておくと
「建長4(1252)年11月頃に、唐本の法華経一部が寄贈され、翌年には松山郷が寄進された。これ以後、御菩提のため不断法花の法が開始され、21人の供僧勅請として、各21通の御手印の補任が下された。(中略)又六年からは法華会が行われるようになった。

ここからは、室町時代中期の白峯寺では建長4年(1252)頃から法華経を講説する法会が行われるようになり、それに伴って21の供僧が置かれたとする認識があったことが分かります。例えば京都鳥羽の安楽寿院の場合を見てみると、天皇の菩提を弔う供僧がそのままその寺院を構成する院家となって、近世まで受け継がれています。天皇の墓を核とした寺院では、こうした寺院組織の形成と継承が行われていたようです。
 また、元禄8年(1695)の「白峯寺末寺荒地書上」にも荒廃する以前の状況として「白峯寺山中衆徒廿一ケ寺」が書き上げられています。そこには、18か寺が荒廃した結果、残っているのは3か寺のみと記されます。棟札などから考えると、江戸時代の白峯寺には洞林院・真蔵院(新坊力)・一乗坊・遍照院(北之坊)・円福寺(円乗坊)・宝積院が存続していて、洞林院がその中心的な位置を占めるようになっていたことが分かります。

以上をまとめておきます。
①古代の五色台は霊場で、各地に行場が点在し、それを結ぶ「中辺路」ルートが形成されていた。
②各行場には行者たちが集まり、次第にお堂が姿を見せ、白峯寺の原型が姿を見せるようになる。
③中世白峰寺は、21の子院の連合体であり、そこには行者や聖たちが拠点とした別所や阿弥陀堂もあった。
④彼らは白峯寺を拠点に周辺の郷村への念仏や浄土阿弥陀信仰を広め、有力者の支持を受けるようになった。
⑤16世紀の連歌会史料からは、地域の有力者を集めて拓かれた連歌会を取り仕切っているのは、白峰寺を拠点とする聖たちで、彼らが地域の文化的な担い手であったことがうかがえる。
⑥戦国時代に荒廃した白峯寺の復興を担ったのも、地域の有力者の支持を得ていた聖たちで、彼らは勧進僧としての役割をいかんなく発揮している。
⑦そのような子院の中で、台頭してくるのが洞林院である。
洞林院については次回に見ることにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    「上野 進 中世における白峯寺の構造  調査報告書2 2013年 香川県教育委員会」です
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根香寺第五巻所収画像000018
根香寺
根香寺は、五色台東部の青峰山頂の東側にある天台宗寺院で、山号は青峰山、院号は千手院で、千手観音を本尊とします。山の枯木の根が香ったことから「根香寺」と名付けられたこと、智証大師円珍は、この霊木から本尊を彫ったことが伝えられます。また香気が遠く流れて川の水がかぐわしかったので、「香川」が郡名になったとも云われます。この寺には怪物「牛鬼」の伝説がつたわっていて、弓の名人が牛鬼を退治し、その2本の角を納めた寺としても有名です。

参拝レポート/第八十二番札所 根香寺|四国おへんろ.net ハチハチ編集部
根香寺

 この寺について記した古代の文献史料はないようです。

ただ根香寺が保管する考古資料には7世紀の遺物があるので、境内周辺地から出土したものであるとすれば、根香寺は古代の山岳系の寺院にルーツをもつ可能性もでてくるようです。
 根香寺の手前の第81番札所白峯寺の『白峯寺縁起』(応永13年(1406)には、根香寺の成立に関わることが次のように記されています。
白峯寺は、空海が地を定め、貞観2年(860)に円珍が山の守護神の老翁に会い、十体の仏像を造立し、49院を草創した。そして十体の仏像のうち、 4体の千手観音が白峯寺・根香寺・吉水寺・白牛寺にそれぞれ安置された。

 白峯寺は「五色台」の西方の白峰山上にある山岳寺院です。
吉水寺は近世に無住となりますが、白峯寺と根香寺の間にあった山岳寺院です。白牛寺は、国分寺とされています。ここからは根香寺はこれらの寺と結ばれた「五色台」の山岳寺院だったこと、そして山林修行の場として修験者たちが集まってくる行場のひとつであったことがうかがえます。そういう目で見ると、三豊の五剣山や善通寺の五岳が修験者の「中辺路」ルートで、各行場を結ぶ拠点として観音寺や本山寺、あるいは弥谷寺や曼荼羅寺、善通寺があったように、五色台のこれらの4つの山林寺院も「中辺路」ルートで結ばれていたとも考えられます。そこへ熊野行者や高野聖たちの廻国修験者が修行のために海からやって来るようになります。彼らが行場にお堂を構え、山林寺院へと成長して行ったというストーリーが描けます。根香寺の成立については、空海と円珍(智証大師)という讃岐のふたりの大師が関わっていたことになります。
   今回は、根香寺の創建を初めとする歴史について見ていこうと思います。テキストは「上野進 根香寺の歴史 根香寺調査報告書2012年 香川県教育委員会発行」です。         
円珍の根香寺創建関与説については、次のふたつの説があるようです。
A空海が草創し、後に円珍が再興した「空海創建=円珍中興」説
B円珍のみを開基とする「円珍単独開基」説
Aの「空海創建=円珍中興説」は、讃岐最初の地誌とされる『玉藻集』(延宝5年(1677)に、次のように記されています。

「この地は弘法大師開き給ひて、千手現音を作り、一堂を作り安置し、後智証大師遊息し、台密兼備の寺となり」

この説をとるのが次の史料です
①遍路案内記の『四国偏礼霊場記』
②明和5年(1768)の序文がある『三代物語』
③弘化4年(1847)の『金毘羅参詣名所図会』

智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
円珍坐図(金倉寺)
一方、Bの「円珍単独開基説」は、延享3年(1746)に作成された根香寺の縁起『青峰山根香寺記』で次のように記されています。

「(根香寺)開基は円珍で、青峰を訪れた円珍が老翁に導かれ、蓮華谷に金堂を造立して本尊を安置したのが当寺の始まりで、「中比」は専ら「密乗」を修し、寛文4年(1664)に天台宗に復した」

 この円珍単独開基説は江戸時代前期までさかのぼり、寛文9年に各郡の大政所が提出した『御料分中宮由来・司寺々由来』には根香寺が「貞観年中(859~877)智証大師の造立」されたと記されます。ここで研究者が注目するのは、これに続く次の記述です。

「往古は天台宗、中古は真言、只今は天台に帰服」

ここからは、古代・中世の根香寺には真言・天台両勢力が並存し、 しだいに真言宗が優位を占めていったことがうかがえます。それは、寺院を拠点とした修験者の勢力関係を背景としたものだったのかもしれません。そして、真言系修験者が優位を占めるようになったことがA空海単独開基説を生む背景となったと研究者は考えています。

長尾寺 円珍坐像
円珍坐像(長尾寺)

 正平12年(1357)の「讃州根香寺両界曼荼羅供養願文」には、根香寺の花蔵院と根香寺が「両大師聖跡」と記されています。
つまり、次のふたつの聖跡があったことが分かります。
花蔵院が弘法大師空海の聖跡
根香寺が智証大師円珍の聖跡
ここからは根香寺の開基を「両大師」とする説も中世からあったことがうかがえます。
根香寺 伽藍配置
根香寺境内伽藍図

中世の根香寺については分からないことが多いようです。
根香寺本堂裏(北方向)の発掘調査からは、2基の塚跡が並んで出てきました。これらは12世紀後半のものとされ、墳墓と供養塚と研究者は考えているようです。ここに眠っているが地域の有力者だったとすると、鎌倉時代初期の根香寺の保護者の墓とも考えられます。
寛文9年(1669)の『御料分中宮由来。同寺々由来』には、次のように記されています。
「往古は七堂伽藍をもち、寺中九十九坊を数えた」

近世の縁起『根香寺略縁起』には、次のように記します。
「往古は南の後夜谷、中の蓮華谷、北の毘沙門谷の三谷に分けられ、後夜谷の東南に楼門、北峰に護世堂がそれぞれあった」

 延享3年(1746)の縁起『青峰山根香寺記』には、具体的な子院名として、千手院・道蓮房。円覚房・如法房・燈明房・薬師房があげられています。ここからは、中世の根香寺では千手院を中心として、山内にいくつかの子院があったことが考えられます。
 このうち薬師房は、現在根香寺の末寺である薬師寺(高松市鬼無町是竹)のようで、近代には根香寺の隠居所となっていました。中世の根香寺には真言・天台両勢力があったことは、先に見たとおりですが、真言系・天台系など複数の子院が並存していた可能性もあります。
 さらに『根香寺略縁起』・『青峰山根香寺記』では「当寺東北の平賀の大門は、当山の惣門の跡」と記します。寺域が広大で、中古までは千石千貫の寺産があったと主張しています。また『青峰山根香寺記』では寺領として、香川郡河辺郷(高松市川部町)を挙げます。河辺郷は香東川をややさかのぼったところにあり、根香寺とは距離があります。根香寺が散在する寺領をもっていたのかもしれませんが、詳しいことは分かりません。
 近世の寺社縁起の作成動機の一つは、「寺領」の確保でした。
そのために「往古は広大な寺領や境内を持ち、大きな伽藍を擁していた」とするのが縁起作成の作法です。そのためこれらの記述を、研究者がそのまま鵜呑みにすることはありません。

智弁大師(円珍) 根来寺
智証大師像(根香寺本堂)
「根香寺」の名称の初見資料は、智証大師像(根香寺本堂)の底銘に記されていました。ここに元徳3年(1331)の年紀があることが近年の調査で分かっています。
根香寺 智証大師底書
「智証大師像」の底銘 鎌倉時代の年号が見えます。内容は以下の通り 
    讃州 根香寺
   奉造之 智澄大師御影一林
   大願主 阿闇梨道忍
   佛 師 上野法橋政覚
   彩 色 大輔法橋隆心
   元徳三年 八月十八日

この智証大師像は、阿閣梨道忍が根香寺に奉献したものです。智証とゆかりの寺とされていたから智証大師像を奉納したのでしょう。ここからも根香寺が円珍と関わりがあった寺院とする考えが鎌倉時代末期にあったことが裏付けられます。

根香寺 不動明王立像(根香寺五大堂安置)
        不動明王立像(根香寺五大堂安置)

五大明王像の中の不動明王立像(根香寺五大堂安置)は像内墨書があり、弘安9年(1286)に造立されたことも近年の調査で分かっています。伝来仏として後世に、他の寺から運び込まれた可能性もありますが、年代の分かる貴重な資料です。
 南北朝時代の根香寺については、先ほど見た正平12年(1357)に「女大施主」が両界曼荼羅を根香寺に寄進し、供養が行われたことを示す史料があります。寄進者の「女大施主」はよく分からない人物ですが、有力者の在家信者なのでしょう。ここからは、根香寺が周辺地域の人々の信仰を集めていたことがうかがえます。
 古代寺院は、有力豪族の氏寺として創建されました。
そのため古代寺院は地域の古代豪族が衰退し、姿を消すと保護者を失い、寺院も退転していきます。中世寺院が存続していくためには、地域の有力者の支持と支援が必要でした。そのための手法が修験道の呪いや護符配布であり、祖先供養であったようです。
 「讃州根香寺両界曼荼羅供養願文」には、当山には花蔵院と根香寺のふたつの院房があると記します。
花蔵院は発光地大士が建立し、「五大念怒霊像」の効験はすでに年を経ているとします。それに対して、根香寺は智証大師円珍が草創し、「千手慈悲之尊容」の利益は日々新なものだと記します。そして「両大師聖跡」を並べているとします。この発光地大士とは弘法大師空海のことをさしているようです。弘法大師の効験は古くて効かない、円珍の方が効力があると云っているのです。その上で「両大師聖跡」を並べています。ここからも花蔵院の開基が弘法大師空海、根香寺の開基が智証大師円珍と考えていたことが分かります。花蔵院については他に関連記事がなく、根香寺との関係もよく分からないようですが、南北朝時代は両者を中心に一山が形成されていたようです。
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北野経王堂一切経(大報恩寺蔵)
室町時代の根香寺の動向を伝える史料も少ないようです。
数少ない一つが、応永19年(1412)に書写された北野経王堂一切経(大報恩寺蔵)です。
この一切経は、北野天満天神法楽のため東讃岐の虚空蔵院(与田寺)覚蔵坊増範が願主となり、諸国の僧俗200人あまりの助力を得て北野経王堂で勧進書写されたものです。そこには多くの讃岐の僧侶とともに「讃州香西郡根香寺住呂(侶)長宗」の名が見えます。ここからは根香寺の僧が、増範の書写事業に参加していたことが分かります。
また、寛正3年(1462)7月、将軍足利義政に対して、根香寺勧進帳への御判について披露があります。
これは讃岐守護細川持賢が望み申したためとされます。根香寺には、天人が藉糸(蓮の繊維からとる糸)で織ったと伝える奇異の浄土曼荼羅が所蔵され、 これを義政にも見せています。当初、勧進帳に御判を与えることについては、先例がないとして認められなかったようです。それが細川持賢の申し出で、御判が与えられることになったと伝えられます。8月に浄土曼荼羅は持賢から義政へ献上され、翌4年4月に義政から太刀と馬が下されることとなり、持賢がその礼を述べています。
 このように根香寺が勧進を実施しようとして、それを守護細川氏で支えています。つまり守護の細川家の保護を受ける寺になっていたようです。

戦国時代の根香寺も同時代史料はありません。
江戸時代の『根香寺略縁起』には元弘・建武擾乱に衰微し、天正前後の兵乱に破壊されたと記します。元弘・建武の頃に被害をうけたのかは確認できませんが、天正13年(1585)3月20日に焼失したことが『三代物語』や『讃岐国名勝図会』も記されています。天正年間(1573~92)の衰退は、諸史料に書かれ一致します。長宗我部元親の侵攻によるものなのか、それ以前の阿波三好によつものなのかは分かりませんが、断続的にこの時期は戦乱が続きますので、根香寺もこの時期に兵火にかかった可能性はあります。
 『青峰山根香寺記』では永正(1504~21)以来、南海賊が大蜂起したもあります。海からの海賊たちの襲来を記録するの讃岐の史料ではこれだけのようです。しかし、『三代物語』には、この海賊襲来も「永正以来」でなく「天正年間」となっています。
 天正年間の火災によって本尊・諸仏像などをことごとく焼失したとするのは『三代物語』や『金毘羅参拝名所図会』で、再興の際に、吉水寺から霊仏・霊宝を移して旧観に復したと記します。他方、「青峰山根香寺記』や『讃岐国名勝図会』では本尊千手観音像・不動明王像・毘沙門天像は焼け残ったと記します。
13.03.17 勝賀城【香西氏の居城】その1 | ぬるま湯に浸かった状態
香西氏の勝賀場

根香寺は、有力な戦国武将である香西氏の居城・勝賀城ともほど近い位置にあります。

この香西氏と天正の火災にまつわる伝承も残されています。『三代物語』や『南海通記』(23)には、天正13年5月10日、香西氏が西長尾城に赴く際、勝賀城にあった香西家の証文・家宝等を根香寺の仏殿に入れて去り、それを盗賊が奪おうとして仏殿に火をかけ、香西家累代の証文はもちろん本尊霊宝も焼失したと記します。
讃岐82番札所,根香寺本堂の写真素材 [FYI04863798] | ストックフォトのamanaimages PLUS
 
 根香寺本堂裏(北西方向)には、凝灰岩製の地蔵菩薩坐像があり、次のように記されています。

「弘治丙□二年宗春 禅門  □日」

ここからは、この地蔵さんが弘治2年(1556)に宗春によって寄進されたことが分かります。『讃岐国名勝図会』に、次のように記されている地蔵と同じもののようです。
古墳三基
本堂後の山にあり、土人、はらいたみの地蔵といふ、
一基は弘治二年禅門宗春とあり

宗春がどんな人物なのかは分かりませんが、年紀が入った資料として貴重です。
 根香寺本堂裏(北方向)の発掘調査では、12世紀後半の2基の塚跡が並んで出てきたことは、先述したとおりです。ここには15世紀後半から16世紀の五輪塔が設置されています。この時期の根香寺では、石仏や石塔を用いた宗教活動が行われていたことがうかがえます。これらは以前に見た弥谷寺で、石造物の寄進がおこなされていたこととつながるものを感じます。弥谷寺に隣接する天霧城を居城とする香川氏が五輪塔を造立し続けているのと重なります。
生駒一正 - Wikipedia
生駒一正 
天正15年(1587)、生駒親正は、豊臣秀吉から讚岐国15万石を与えられて国守として入部します。
これが讃岐の戦国時代の終了で、近世の始まりになると研究者は考えています。根香寺の復興が始まるのもこの時期で、生駒親正の子である一正は、慶長年間(1596~1615)に根香寺の堂字を再建して良田を寄進したと伝えられます。寺領高は18石余です。生駒一正のもとで、根香寺も以前に見た弥谷寺も復興の道を歩み始めます。これは、阿波や土佐に比べると、復興のスタートが早かったようです。

近世讃岐の寺院NO1 松平頼重の仏生山法然寺建立計画を探る : 瀬戸の島から
松平頼重
 寛永17年(1640)の生駒騒動によって生駒高俊が讚岐を没収された後、東讃岐12万石を与えられたのが松平氏です。
高松藩初代の松平頼重は、いくつかの宗教戦略をもっていました。そのひとつが真言王国の讃岐に天台宗の寺院を復活させるという政策です。いざという時に真言勢力へのくさびとしての役割を期待していたのかも知れません。その代表寺院が根香寺と長尾寺になります。長尾寺については以前にお話ししたので省略します。
 根香寺に対しては承応2年(1653)に本堂を再興し、天台宗に改宗させて聖護院門跡の末寺としています。そして根香寺の境内整備を進めます。延宝年間(1673~81)、頼重は住持龍海に命じて新たに金堂・護摩堂・祖師堂及び僧房・眠蔵・資具をつくらせています。さらに延宝4年(1676)には、千手観音堂の再建を行い、寺領加増を行い30石にしています。その上に頼重は、大師袈裟や什物等の修理も行って、四大明王像を造像して、不動明王像とあわせて五大尊としたと伝えられてきました。しかし、近年の解体修理で四大明王は頼重の隠居屋敷のプライベートな祈念堂に安置されたもので、彼の死後に根来寺に移されたことが分かっています。

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松平頼重が京の仏師に作らせた四大明王(根香寺)

 頼重は、正月・5月・9月に国家鎮護のために五大尊護摩法を修するように命じたとされます。研究者が注目するのは、この祈祷が「殿様御安全之御祈祷」として、以後も継続して行われたことです。こうして根香寺は、高松藩における有力な祈祷寺院に位置づけられていきます。

P1120199根来寺 千手観音
千手観音(根香寺)

 根香寺では、髙松藩によって命じられた五大尊護摩法が年に3回行われたほかにも、33年に1度、本尊千手観音が開帳されます。こうして根香寺は松平藩の保護を受けながら、庶民の信仰も集めるようになります。これは頼重が金毘羅大権現を保護し、境内整備を重ねて、庶民を引き寄せ、庶民化していくのと同じやり方です。
 承応2年に澄禅が記した『四国遍路日記』には、長尾寺を参詣した際の記事として次のように記します。

「当国二七観音トテ諸人崇敬ス、国分寺・白峰寺・屋島寺・八栗寺。根香寺。志度寺、当寺ヲ加エテ七ケ所ナリ」

 ここからは、根香寺が高松周辺の七観音の一つとして庶民にも崇敬されていたことが分かります。このように高松藩主をはじめ、庶民の信仰を集めた根香寺でしたが、享保3年(1718)に罹災し、護摩堂・客殿・玄関・眠蔵・庫裏を焼失します。
その際に縁起や山図なども失ったと云います。その後の根香寺では、堂宇再建が大きな課題となります。焼失から約20年後の元文2年(1737)の正月18日から9月17日まで、住持俊海は高松の蓮花寺で本尊千手観音の出開帳を実施しています。これは復興資金の調達を目的としたものと考えられます。その時のことが次のように記します。
「当寺観音堂護摩堂其外及大破難捨置御座候、然共自カニ而者修覆茂難仕候」

意訳変換しておくと
「当寺の観音堂や護摩堂など其外の堂宇も大破しているが、捨置れたままである。しかし、自カで修復することは困難である

ここからは大火から20年経っても復興途上にあったことが分かります。根香寺復興は順調には進まなかったようです。

当時の住持俊海は、寺の縁起『根香寺略縁起』も著しています。その時期はよく分かりません。が、俊海の住職期間は享保17年~寛保元年(1741)ですので、この期間のことと思われます。おそらく享保3年の火災で縁起が失われたので、新たな縁起作成をおこなったと研究者は推測します。
髙松での出開帳から3年後の元文5年は、智証大師850回忌に当たります。この年には、智証大師の誕生地である金倉寺でも法会が行われ、根香寺も参加しています。同年に実施された智証大師像の修復も、智証大師850回忌の関連行事として行われたことが考えられます。さらに云えば先の出開帳や縁起作成なども、この回忌にあわせて住持俊海が取り組んでいた一連の記念行事だった可能性を研究者は指摘します。
  俊海から代替わりした住持受潤は、延享3年(1746)に、新たな縁起作成と寺内整備に着手します。
こうして出来上がるのが同年5月に完成した『青峰山根香寺記』です。この縁起は、円珍と地主神の市瀬明神が出会って、根香寺が草創されたというストーリー性をもった縁起で、それまでの『根香寺略縁起』とはひと味違うものに仕上がっています。復興資金の勧進活動のためには、人々の関心をひく物語性のある縁起が求められていたのかも知れません。このあたりは善通寺本堂の勧進活動に見習ったようにも思えます。

根香寺古図左 地名入り
青峰山根香寺記を絵図化した根香寺古図

 一方、同年8月には五代藩主松平頼恭と住持受潤のもとで、鎮守社(「山王新羅護法三所」)が建造されます。
寛延4年(1751)には、大政所を願主として二王尊像がつくられますが、この費用は郡中からの寄附25両、先住の良遍と笠居村小政所からの寄附10両でまかなわれています。根香寺が地域の有力者の支援を受ける寺に成長していたことが分かります。これは、以前に見た弥谷寺でも同じことでした。多度津藩の祈祷所となることで、弥谷寺は地域の大庄屋や庄屋、村役人などのイヴェント集会所となり、彼らの支援を受けるようになり、いつしか菩提寺的な役割を引き受けるようになります。そして、祖先供養の墓標を弥谷寺に建てるようになります。それは、地域の有力者が弥谷寺の保護・支援者となるプロセスでもありました。地域有力者の支援を受けるようになるための前提には、藩のお墨付きが必要だったようです。

根香寺 緒堂変遷表
根香寺境内緒堂変遷表

 宝暦4年(1754)には五大尊堂と智証大師堂が再建され、千手観音堂の修復も行われています。
恵峰さんと巡ろう 四国おへんろ|瀬戸マーレ vol.50
五大尊堂の明王たち(根香寺)
諸堂の修飾は頼恭が領内の人別銭によってつくらせたと云います。このように頼恭の保護のもとで寺内整備が大きな進展をみせたようです。
 その後は、同8年に、住持玄詮のもとで本尊千手観音宝前の「石雁」が造営されます。「石雁」が何をさすのか分からないようですが、大型の石造構造物と推測され、この造営はかなりの大規模事業で、郡内の多くの人々の協力があったようです。こうして、根香寺は地域の人々の寺として、人々の流す汗で整備が行われていくようになります。
以後のイヴェントや行事を見ておくことにします。
明和4年(1767)2月1日から4月28日まで、30年毎の本尊千手観音の開帳が行われます。この時には、領分へ仏飩袋を配り、それによって得られた寄銀で建物・屋根等の修復も行われています。寛政8年(1796)には、住持玄章のもとで、五大尊堂・智証大師堂の修復が行われます。諸堂の修飾については、松平頼起が領内の人別銭で造らせたと伝えられます。頼起は同4年に没しているので、生前に諸堂の修復が命じられていたことになります。

 近代の根香寺
江戸時代に興隆した讃岐寺院の多くは、明治初年の廃仏毀釈の動きの中で寺領没収など経済的な打撃をうけることになります。特に白峰寺の被害は大きかったことは以前にお話ししました。根香寺も、その例にもれなかったようですが、史料的にはまだよく分からないようです。
近代根香寺の興隆に努めた人物として『下笠居村史』に紹介されているのが青峯良覚です。
良覚は明治33年に薬師寺から転住し、昭和19年に総本山塔頭光浄院へ転住するまで約40年近く根香寺住職をつとめています。その間の業績は以下の通りです。
大正14年(1925)に、当山中興開山にあたる龍海の200回忌を記念して水かけ地蔵を安置
昭和6年(1931)に「当山開基一千百年」を記念して役行者立像を安置
昭和19年(1944)に総本山園城寺執事長兼会計部長、
昭和23年に園城寺宗管長を歴任
昭和29年に帰住
『下笠居村史』によれば、戦後の農地改革や国営開墾などがあった混乱期に根香寺復興に努力したのもこの良覚であったといいます。彼を中心として近代の根香寺は維持されたと評価しています。
戦後の根香寺において、研究者が注目するのが本尊千手観音像と、安置場所である本堂をめぐる動きです。
昭和30年(1955)に、本尊千手観音像が重要文化財に指定されます。加えて昭和41年からは本堂の解体修理が行われ、4年後の45年に改修を終えます。この本堂の改修は、本尊千手観音像の30年毎の開帳にあわせたもので、一段上の敷地を造成して回廊を巡らせ、その敷地中央上部に本堂を移築するという大規模なものになりました。それが現在の伽藍配置につながることになります。また大師堂の改修も行われ、同じく昭和45年に本堂とともに改修を終えます。本堂安置の本尊千手観音像の開帳は、平成15年(2003)に実施されています。

最後に根香寺と遍路の関係について見ておきましょう。
根香寺に遍路関係資料が出てくるのは、江戸時代中期になってからのようです。宝暦12年(1762)9月の棟札があり、ここには常接待堂と茶料田4反余が寄付されたことが記されています。勧進者は根香寺住持玄詮、施主は香西村の吉田屋嘉平衛です。天保4年(1833)の『青峰山根香寺由緒等書上控』には「茶接待所」と記されています。弘化4年(1847)の『金毘羅参詣名所図会』には、「茶堂(石階の半途にあり)」と記されます。ここからは宝暦12年以来、継続して根香寺の接待堂で遍路接待が行われていたことがうかがえます。

根香寺 讃岐国名勝図会
金毘羅参詣名所図会の根香寺 仁王門前に茶屋・境内中程に茶堂

 19世紀になると大坂からの金毘羅詣客が急増します。
金毘羅信仰の隆盛を背景に、金比羅金光院は境内整備を進めます。それが西日本一の大建築物「金堂(現旭社)」の建立です。計画から約30年間の工事期間を経て、19世紀半ばに金堂は姿を見せ始めます。金堂整備と同時に進められたのが石段や玉垣・石畳の整備です。これらは周辺の参拝客の寄進で行われます。このやり方は周辺寺院でも取り入れられていきます。
文政13年(1830)につくられた根香寺の玉垣にも、寄進した多くの人々の名が刻まれています。
その中には、根香寺周辺地域の人々はもとより、志度・小豆島・倉敷・大坂などの海を越えた遠方の支援によって玉垣が造立されたことが分かります。研究者が注目するのは、この玉垣の造立に次のような接待講も参加していることです。
「香西釣西本町摂待講中」
「木沢村摂待講中」
「生島摂待講中」
これらの遍路接待を行う講集団が先頭に立って玉垣を造立したようです。香西、木沢、生島は根香寺周辺の村です。それぞれの地域において講を組織した人々が、根香寺のために遍路接待に奉仕していたことが分かります。
閑古鳥旅行社 - 四国八十八箇所霊場歩き遍路
根香寺への遍路道
第81番札所白峯寺から第82番札所根香寺までの遍路道は、今でもその雰囲気が良く残っています。
しかし、江戸時代には遍路を悩ませる難所として知られていたようです。『金毘羅参詣名所図会』には、次のように記します。
「白峯寺と根香寺をつなく道は、50余町にわたって山道で、南に位置する新居村を除けば他に人家がなく、足弱の遍路はここに悩むことが少なくない」

 実際に、根香寺の墓地には遍路墓もあって、行き倒れた遍路者も少なくなかったようです。そこで天保9年、この区間の間に笠居村香西郷などの「信心同士の輩」が吉水茶堂や草屋を建てて往き暮れた者を泊めたと云います。これも根香寺の遍路への接待のひとつでしょう。
 『青峰山根香寺由緒等書上控』には「休所」の記載があります。
この「休所」は参詣人や遍路を対象として申方向・丑方向・亥方向にそれぞれあったもので、次のように記します。
「右ハ山上之義殊人家遠ニ而参詣人井四国辺路等休息所無之、大二難渋仕候間、前々ヨリ有来申候所及破壊二、当時取除置御座候

かつては参詣人や遍路のためにあったようですが、天保4年以前に壊れて取り除かれたようです。
この他には、根香寺境内に天保9年の接待講碑があります。
「永代寒中摂待」とあるので、高松や香西の講員が永代にわたって冬期に接待をおこなうことを宣言したものです。供養導師は西光寺の法印良諦で、香西に所在する真言宗寺院の西光寺が関わっています。先に見た吉水茶堂の完成と同じ年にあたるので、この時期には香西の人々がさかんに接待の活動をおこなっていたことがうかがえます。

  以上をまとめておくと
①根香寺創建については、「空海創建=円珍(智証大師)中興」説と「円珍単独創建説」にふたつがある。
②根来寺は五色台という行場に形成された山林寺院のひとつであり、白峰寺や国分寺と「中辺路」ルートで結ばれていた。
③そこには熊野行者や高野聖、時衆念仏聖など廻国の修験者たちが滞在し、活動の拠点となっていた。
④そのため宗教的には熊野信仰 + 浄土=阿弥陀信仰 + 時衆念仏信仰 + 弘法大師信仰などが混じり合う混沌とした世界を形成していた。
⑤中世末から近世初頭にかけては、高野聖たちによって高野山信仰や弘法大師信仰が強くなり、根香寺は真言化を強めた。 
⑥それに対して髙松藩初代藩所の松平頼重は、政策的な理由から根香寺を真言宗から天台宗に改宗させ、保護化した。
⑦天台改宗後に作られた縁起には「円珍単独創建説」が強く打ち出されるようになった。
⑧髙松藩の祈祷寺として整備され、保護を受けるようになった根香寺は、地域の有力視の支持を受けるようになり、庶民の支持も集めるようになった。
⑨四国遍路が活発化する江戸後半期になると、周辺の民衆は根香寺のサポーターとして遍路接待を活発に行うようになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献    「上野進 根香寺の歴史 根香寺調査報告書2012年 香川県教育委員会発行」
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 白峯寺古図は寺伝では、江戸初期に南北朝末年の永徳二(1283)年に焼亡した白峯寺を回顧して、往時の寺観を描いたものとされています。以前にはこの古図で白峯寺伽藍内を見ました。今回は白峯寺の周辺部や荘園を見ていくことにします。テキストは「坂出市史 中世」です。

白峯寺古図 周辺天皇社
白峯山古図
『白峯山古図』には、③稚児ケ瀧の上に①白峯陵や白峰寺の数多くの堂舎が描かれています。本社の右に勅使門があり、そこを出て白峯寺へ向かう道の脇に②御影堂(崇徳院讃岐国御影堂:後の頓証寺)があります。中世には、ここにいくつかの荘園が寄進されます。
 今回注目したいのは、周辺にある天皇社です。
A 稚児ヶ滝の滝壺の左に崇徳天皇(社)があります。これが現在の⑧青海神社です。
B 白峰寺の大門から尾根筋の参道を下りきった場所に、もう一つの崇徳天皇(社)が見えます。これが現在の⑩高家神社です。
これらの二社は、現在も鳥居に「崇徳天皇」の扁額が掲げられています。
高屋神社 崇徳上皇
高屋神社の崇徳天皇扁額

B 尾根筋参道の右には深い谷筋の奥に、神谷明神(神谷神社)が三重塔と共に描かれています。この神社の神殿は国宝ですが、中世は神仏混交で明神を称していたことが分かります。そして、白峯寺山中の子院のひとつであったことがうかがえます。
C 絵図の前面を流れるのが現在の綾川で、その上流に鼓岡があります。ここも、白峯寺が寺領であると主張していた所で、讃岐国府のほとりに当たる場所です。青海・高屋神社の崇徳天皇社と神谷明神、鼓岡は、「白峯寺縁起」に書かれている白峯寺寺領とされる場所です。鼓丘は、明治以降に崇徳院霊場として政治的に整備され、今は鼓丘神社が鎮座していることは以前にお話ししました。
坂出市史には、白峰寺古図と白峰寺縁起に記された白峯寺の寺領荘園群が次のように挙げています。
『白峯寺縁起』に、次の3つの荘園
① 今の青海・河内は治承に御寄進
② 北山本の新庄も文治に頼朝大将の寄附
③ 後嵯峨院(中略)翌(建長五)年松山郷を寄進
「讃岐国白峯寺勤行次第」に5つの荘園
④ 千手院料所松山庄一円
⑤ 千手院供僧分田松山庄内
⑥ 正月修正(会)七日勤行料所西山本新庄
⑦ 毎日大般若(経)一部転読(誦)料所当国新居郷
⑧ 願成就院明実坊修正(会)正月人(勤行)料所松山庄内ヨリ      
これは、そのまま信じることはできませんが、15世紀初頭には白峯寺はこのような寺領の領有意識を持っていたことは分かります。それをもう少し具体的に見てみると・・・・
①の青海(村)、④の松山庄一円、⑤の松山庄内、③の松山庄内、それに③の松山郷を合わせると松山郷全体が白峯寺の寺領荘園になっていたことになります。
①の河内を「阿野郡河内郷」とすると、ここには鼓岡と国府がありました。そこが白峯寺の寺領だったというのは無理があります。国府の諸施設のあった領域以外の土地を、寺領と云っているのでしょうか。このあたりはよく分かりません。
⑦の新居郷は、古代の綾氏の流れをくみ、在庁官人として成長し、鎌倉時代以降鎌倉御家人として栄えた讃岐藤原氏の一族新居氏の本拠です。五色台山上にある平地部分のことと研究者は考えているようです。

福江 西庄

②と⑥は、前回お話ししたように北山本新庄(後の西庄)で、当初は京都の崇徳院御影堂に寄進されていた荘園です。それを白峯寺は押領して寺領とします。
もともと、これらの寺領は『玉葉』建久二(1191)年間閏十二月条にあるように、後鳥羽上皇が崇徳院慰霊のために建立した仏堂である「崇徳院讃岐国御影堂領」に寄進されたことがスタートになります。
 寛文九(1669)年の高松藩の寺社書上「御領分中寺々由来」には、白峯寺の項に「建長年中、高屋村・神谷村為寺領御寄付」とあるので、松山郷内青海・高屋・神谷の「三ヶ庄」は崇徳院讃岐国御影堂領松山荘として存続していたようです。三ヶ庄の名称は、寛永十(1832)年に作成された「讃岐国絵図」にもあり、現在も綾川を取水源にした三ヶ庄用水に名を残しています。

白峯寺古図拡大1
白峯寺古図拡大図 中世には様々な堂舎が立ち並んでいた

  白峰山は、古代から信仰の山で、次のような複合的な性格を持っていました。
①五色山自体が霊山として信仰対象
②五流修験による熊野行者の行場
③高野聖による修験や念仏信仰の行場で拠点霊山
④六十六部などの廻国聖の拠点
⑤四国辺路修行の行場
ここに、天狗になった崇徳上皇の怨霊を追善するための山陵が築かれます。白峯陵(宮内庁治定名称では「しらみねのみささぎ」)は、唯一玉体埋葬の確実な山陵です。
白峰寺7
白峯寺(讃岐国名勝図会) 
そして朝廷により崇徳院御影堂(後の頓証寺)などの堂舎が整備されていきます。ある意味、天皇陵というもうひとつの信仰対象を白峯寺は得たことになります。しかも、この天皇陵は特別でした。天狗と化し、怨霊となった崇徳上皇を追善(封印?)する場所でもあるのです。菅原道真の天満宮伝説とおなじく、怨念は強力であればあるほど、善神化した場合の御利益も大きいと信じられていました。こうして白峯寺は「崇徳上皇を追善する寺」という顔も持ち、多くの信者を惹きつけることになります。中央からの信仰も強く、朝廷や帰属からも様々な奉納品が寄せられるようになります。同時に、寺領化した松山庄や西庄などの人々も、地元に天皇社を勧進し祀るようになります。それを親しみを込めて「てんのうさん」と呼びました。その「本宮」の白峰山や白峯寺も、いつしか「てんのうさん」と呼ばれ信仰対象になっていきます。

讃岐阿野北郡郡図8坂出と沙弥島
讃岐綾北郡郡図(明治) この範囲がかつての西庄にあたる

 坂出市の御供所は、前回お話ししたように北山本新庄(西庄)の一部でした。
ここには崇徳上事の讃岐配流に随ってきたという七人の「侍人」伝承があります。また、今も白峰宮(西庄町)には、2ヵ所の御供所(坂出市、丸亀市)から祭礼奉仕の慣習が続いているようです。

坂出市西庄
 坂出市には、今見てきたように中世に起源を持つ三社(高家神社・青海神社・白峰宮)があります。これらは崇徳上皇を祀っています。さらに川津町には江戸時代創建の崇徳天皇社があるので、四社の崇徳天皇社が鎮座することになります。これも白峯寺の寺領化と崇徳上皇への信仰心が結びついたものなのかもしれません。
白峯寺大門 第五巻所収画像000004
白峯寺大門に続く道
まとめておくと
①白峯山上に崇徳院陵が整備され、その追善の寺となった白峯寺には荘園が寄進され寺領が拡大していった
②各荘園には白峯陵から天皇社が勧進され、「てんのうさん」と呼ばれて信仰対象となった。
③そのため白峯寺の寺領であった坂出市域には、いくつも「てんのうさん」が今でも分布している
白峰寺 児ヶ獄 第五巻所収画像000009
稚児の滝の下の青海神社もかつては天皇社

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史 中世編
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 P1150760
崇徳上皇白峰陵墓
前回は白峰寺の発展の原動力が崇徳上皇陵が造られ、その慰霊地とされたことに求められることを見てきました。今回は、白峯寺の発展を経済的な側面から見ていくことにします。近代以前においては、寺社の経済基盤は寺領にありました。これは中世西欧の教会や修道院とも同じです。そのため寺社が大きくなればなるほど、封建領主の側面を持つことになります。白峯寺の場合は、どのように寺領を拡大していったのでしょうか。それを今回も、新しく出された坂出市史中世編をテキストに見ていきたいと思います。 
白峯寺は、松山荘と西庄のふたつの寺領を、経済基盤にしていました。
この寺領は崇徳上皇の追善のために建立された崇徳院讃岐国御影堂(後の頓証寺)に附属するもので、後には「神聖不可侵」なものと主張するようになります。そのような主張に至る過程を、まずは松山荘で追ってみます。

白峰寺明治35年地図
明治35年国土地理院地形図 松山村周辺
松山郷は、坂出市神谷町・高屋町・青海町・大屋富町・王越町辺り一帯とされます。
それがのちには青海町・高屋町の旧海岸地域、さらに崇徳院御陵のある白峰寺一帯を指すようになります。また、崇徳上皇を詠った歌枕として使用されるようになり「白峯=松山」と近世には認識されていたようです。
松山荘の荘名は、藤原経俊の日記『経俊卿記』の正嘉元(1257)年4月27日条に「賀茂社司等中す、松山庄替地の事」と見えるのが初見のようです。
ついで、同年7月22日条には「賀茂社と白峯寺相論す、松山庄事」とあり、松山荘をめぐりって、京都の賀茂社と白峯寺との間で訴訟があったことが分かります。4月27日条によると、讃岐国衛の在庁官人が松山荘の見作(実際の耕作地)と不作(休耕地ないし耕作放棄地)について賀茂社の主張を確認し、所当六石を白峯寺より賀茂社へ返付するよう決裁しています。ここからは、松山荘内に賀茂社の社領(鳴部荘の一部?)が含まれていたことがうかがえます。つまり、この時点では松山郷=松山荘ではなく、松山郷には他領が含まれていたことが分かります。どちらにしても、崇徳上皇が葬られて約70年後の13世紀半ばには、白峯寺は松山荘を実質的に管理し、周辺部の賀茂神社の社領にも「侵入」していたことがうかがえます。しかし、松山荘の立荘の経緯については、不明なことが多いようです。。
白峯寺の「公式見解」は、応永十三(1406)年成立の「白峯寺縁起」には、次のように記されています。
安元二年七月二十九日、讃岐院と申しゝを改めて、崇徳院とぞ、追号申されける、その外あるいは社壇をつくりいよいよ崇敬し、あるいは庄園をよせて御菩提をとぶらう、今の青海・河内は治承に御寄進、北山本の新庄も文治に頼朝大将の寄附にてはべるなり、治承・元暦の乱逆も、かの院の御怨念とぞきこえし、

意訳変換しておくと
安元二(1177)年7月29日、讃岐院(崇徳上皇)の号を改めて、崇徳院して追号し、その外にも社壇を造って追善し、荘園を寄進して菩提をともなった。今の青海(松山)・河内は治承年間に寄進されたもので、北山本の新庄も文治年間に頼朝大将によって寄進されたものである。治承・元暦の乱逆も、崇徳上皇の御怨念と世間は言う、
 ここからは白峯寺縁起が寺領の寄進について、次のように主張していることが分かります。
①「青海・河内」が治承年間(1177~81)に後白河上皇より寄進
②「北山本新荘(西庄から現在の坂出市街)」が文治年間(1185)に源頼朝より寄進
  ここには2つの偽造・作為があります。ひとつは青海とともに寄進されたという「河内」です。
河内とは、どこのことでしょうか?
「白峯寺縁起」に
「国符(国府)甲知(河内)郷、鼓岳の御堂」

とあります。つまり、国府のあった府中や鼓丘周辺を指しているようです。しかし、ここは国府があった場所で、そこが白峰寺に寄進されたというのは無理があるようです。これは「北山本の新庄も文治に頼朝大将の寄附にてはべるなり」と同じように後世の仮託・作為だと坂出市史は指摘します。河内郷に白峰寺の寺領や荘園が存在したことはありません。
もうひとつは「北山本の新庄(西庄)」です。
これは、後に説明しますが後白河上皇が京都に建立した「崇徳院御影堂」に寄進した荘園です。後白河上皇は、讃岐以外に京都にも「崇徳院御影堂」を建立していたのです。その寺領として寄進されたのが「北山本の新庄(西庄)」です。それを15世紀初頭の「白峯寺縁起」が書かれた時代には、白峯寺が「押領」し、寺領に取り込んでいたのです。それを正当化しようとしていると坂出市史は指摘します。ちなみに「北山本の新庄(西庄)」のエリアは、西は御供所町から福江町を経て綾川までの広大なエリアを有する「海の荘園」だったと坂出市史は指摘します。
白峰寺の荘園 松山荘と西庄
白峯寺の荘園 松山荘と西庄(坂出市史より)
本題の青海(松山郷)にもどります。
①の「青海(松山)・河内」が崇徳院の御陵に寄進されたという主張の根拠を、確認しておきましょう。九条兼実の日記『玉葉」の建久二(1191)年閏12月22日には、次のように記されています。
讃岐院(崇徳上皇)と宇治左府(藤原頼長)について、明日発表する内容について、今日すでにその書を見たが内容は次の通りであった。
讃岐院(崇徳上皇)について
①白峰の御墓所を詔勅で山陵として、その周辺の堀を整備して周辺からの穢れを防ぐ。
御陵を守るための陵戸(50戸)を設ける。
③陰陽師と僧侶を現地に派遣して鎮魂させる。
④崇徳上皇の国忌を定めること。
⑤讃岐国白峰墓所に、一堂を建て法華三昧を行うこと
いま関係があるのは②と⑤です。⑤には崇徳上皇陵の追善のために、後白河上皇が「一堂(崇徳院御影堂)」を建立したとあります。しかし、寺領の寄進については何も触れていません。②には「御陵を守るための陵戸」の設置が記されます。しかし、これは寺領寄進とは別のものです。陵戸とは山陵を守るために設けられた集落です。中国の唐王朝では、長安郊外の皇帝陵墓周辺に有力者が移住させられ、陵墓の管理維持の代わりに、多くの特権を得ていました。これに類するものです。土地の面からすれば料所にあたり、青海(松山郷)に設置されたというのです。戸数50戸でした。松山郷全体を指すものではありません。しかし、白峯寺はこれを拡大解釈し、松山郷自体が白峰寺に寄進された荘園で寺領だと主張するようになります。
松山津周辺
古代松山郷の海岸線復元図
古代の海岸線復元図を見ると、雄山・雌山辺りまでは海で、現在の雌山の西側にある惣社神社あたりに、林田湊があったと考古学者たちは考えていているようです。また青海方面にも入江が深く入り込んでいたようです。その奥に松山津があったことになります。
坂出古代条里制
綾川流域の条里制遺構
そのため古代条里制跡は、松山郷の北部には見られません。中世になって海岸線が後退したあとの青海の湿原を、白峯寺は開拓領主として開発していったことが考えられます。

白峯寺古図
白峯寺古図
それを裏付けるかのように、白峯寺古図には稚児の滝の下の青海にはには深く海が入り込んでいるように描かれています。

「白峯寺縁起」は、その後の寄進について、次のように記します。
①後嵯峨院が、白峯寺千手堂を勅願所として、建長四(1252)年11月に法華経一部を本納
②その翌年には松山郷を寄附して、不断法華経供養の料所とした
ここには歴代の院や天皇が堂宇や寺領を寄進したと記します。こうして、松山郷における寺領面積は拡大したというのです。
「建長年中(1249~56)当山勤行役」との貼紙のある「白峯寺勤行次第」には、次のように記されています。
讃岐国白峯寺勤行次第 山号綾松山なり、後嵯峨院御勅願所 千手院と号す、土御門院御願、千手院堂料所松山庄一円ならびに勤行次第、十二不断行法毎日夜番供僧、同供僧二十一口、人別三升供毎日分、分田松山庄内にこれあり
意訳変換しておくと
讃岐国の白峯寺の勤行次第は次の通りである 
山号は、綾松山、後嵯峨院が御勅願所に指定して千手院と号すようになった。
土御門院によって、千手院堂料所として松山庄一円が寄進された。勤行次第は、十二不断行法が毎日夜番で供僧によって奉納されている、供僧二十一人、人別三升供毎日分、分田が松山庄内にある
ここには、白峯寺が後嵯峨院や土御門院の勅願所などに指定され、その勤行が21人の僧侶によって行われていること、そのための分田が松山荘内にが確保されているとあります。21人の僧侶というのは、当時のあったとされる別坊の数と一致します。
このように松山荘は、松山郷青海の料所の寄進をスタートに、その後は後嵯峨院による料所として、郷全体の寄付を受けて立荘されたと白峯寺は主張します。その成否は別にして、13世紀半ばには松山郷全体が白峰寺の寺領として直接管理下に置かれるようになったのは事実のようです。
この時期に白峯寺を訪れているのが高野山のエリート僧侶である道範です。
道範は、建長元(1249)年7月、高野山での路線対立をめぐる抗争責任を取らされ讃岐にながされてきます。8年後に罪を許され帰国する際に白峰寺を訪れたことが「南海流浪記」には記されています。

南海流浪記 - Google Books

 道範は、白峰寺院主備後阿闇梨静円の希望で、同寺の本堂修造曼茶羅供の法要に立ち合い、入壇伝法を行うために立ち寄ったのです。このとき道範は、白峯寺を
「此寺国中清浄蘭若(寺院)、崇徳院法皇御霊廟也」

と評しています。つまり、讃岐国中で最も清く、また崇徳上皇の霊廟地だとしているのです。ここからは鎌倉末期の白峰寺は、讃岐にある天皇陵を守護する「墓寺」として「清浄」の地位を確立していたことが分かります。その背景には、松山郷全体を寺領とするなどの経済的基盤の確立があったようです。
坂出・宇多津の古代海岸線

  以上をまとめておきます。
①兄崇徳上皇の怨霊を怖れた弟後白河上皇は、追善のために白峰陵を整備し、附属の一堂を建立した。これが「崇徳院御影堂」である。
②「崇徳院御影堂」に寄進されたのが青海(松山郷の一部)で、これが松山荘の始まりであると白峯寺は主張する。
③白峯寺は、青海を拠点に13世紀半ばまでには、松山郷全体を寺領化していき、その支配下に置いた。
④この頃に白峯寺を訪ねた道範は、白峯寺を「此寺国中清浄蘭若(寺院)、崇徳院法皇御霊廟也」記している。

こうして古代の山岳寺院としてスタートした白峯寺は、崇徳上皇の御霊を向かえることで「上皇追善の寺」という性格を付け加え、松山郷を寺領化することに成功します。この経済基盤が、ますます廻国の修験者たちを惹きつけ、多くの子院が山中に乱立する様相を呈するようになるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。



1 白峰寺古図

かつて、第八十一番札所白峯寺の「白峯山古図」を見ながら、この寺の近世の変貌ぶりを追いかけたことがあります。それを最初に確認しておくと
①中世の白峰寺は「白峯衆徒21ヶ寺」の数多くの伽藍や塔が立ち並んでいた。
②そして、多くの院坊の連合体が白峰寺を形成していた。
③ところが元禄8年(1695)「末寺荒地書上」には、「白峯衆徒21ヶ寺、内18ヶ寺は退転」し、「寺地は山畠となる」と記されている。
④多くの伽藍や塔の姿は近世に初頭に姿を消し、3坊のみが存続した
⑤その中で、元禄以前には本堂の東側にあった洞林院が、現在地に降りてきて白峰寺の本坊となった。
以上からは「白峯衆徒21ヶ寺」は、近世最初に淘汰され、その中で洞林院が本坊として生き残ったということになります。その間に何が起こったのでしょうか。金毘羅さんの金光院のように、各院坊間の権力闘争が、ここでも起こったのでしょうか。

 そんな中で見つけたのが「松岡明子  白峯山古図―札所寺院の境内図 空海の足跡所収」という小文です。これをテキストに「白峰山古図」をもう一度眺めてみることにします。松岡氏は次のように述べています。
「境内図を見る際には、制作年代や作者だけでなく、何がどのように描かれているか(あるいは描かれていないか)を探り、景観年代や制作目的についても,意識しながら読み解くことが必要」

という立場から、この古図と向き合います。そして、次のように指摘します。

「白峰山や稚児ヶ嶽、松山津などの自然景の中に、白峯寺の伽藍と崇徳院御廟などのほか、周辺の寺社や村、参道も含めて描かれている。境内をみると、三重塔や洞林院、楽屋、別所、金堂、大門など今はない建物が数多く描かれる。
 一方で、江戸時代前期に初代高松藩主松平頼重の寄進で再建・建立された阿弥陀堂や客殿の姿はない。同じく頼重が造営した頓證寺殿の特徴的な建物も、「御本社」の名称で今とは異なる社殿が描かれている。」

 建物の名称や外観・配置などが、江戸時代前期のものと一致しないことから、この絵は、さらに時代を遡る中世の景観を描いたものとします。
 この図の箱には、永徳二年(1382)の火災以前のものを描いたものであるという墨書があります。
しかし、画面には、応永21年(1414)に後小松天皇から下された「頓證寺勅額」(重要文化財)を掲げる勅額門が描かれています。歴史的な整合性がなく、少し首を傾げざるえないところもあるようです。それだけに、この絵がいつの時代を描いたものなのかについての判断は慎重にならざるえないようです。つまり「作為」があるのです。

白峯寺古図 地名入り
白峰寺古図
 この絵の作者や描かれた時代については分かりませんが、研究者は次のように指摘します。
①懸崖や海岸線をデフォルメしながら複雑な地形を破綻なくまとめていること
②平板化せず奥行きのある構図や、樹木など細部の描き方、目ののった画絹が使われていること
①からは高い技量をもつ絵師の存在
②からは、制作時期は江戸時代前期と研究者は推察します。つまり、箱書きにあるように中世に書かれた物ではないということです。江戸時代になって、中世の様子を描いているということになります。

画中には人物が一人も描かれていません。
建物と自然景観が丁寧に描かれています。その結果、静かな落ち着きのある雰囲気が漂います。まるで、霊地の威厳を表す社寺曼荼羅のようです。
白峯寺古図 本堂への参道周辺
白峰山古図 拡大図

そういう視点でこの絵を眺めると、白峯寺の周辺には雲井御所、鼓岡、崇徳天皇と記された二か所の社殿(現在の高家神社・青海神社)のほか、松浦や綾川など崇徳院由来の地が全て描かれているのに気付きます。どうやらこの絵の作者が目指したものは、崇徳院ゆかりの霊跡に囲まれ、廟所と一体のとなった聖地としての白峯寺の姿であったようです。それは「白峯寺縁起」に「霊験かきつくしかたき」と記される白峰寺の往古の景観を、江戸時代になって復原的に描いたものと研究者は指摘します。

制作者の意図を、別の視点から探してみましょう。
白峰山一帯を俯瞰するように整然と描いた図は、一見すると記録に基づいて境内の様子を忠実に描いたように思えます。しかし、詳しく見ると、いくつかの作為(主張)があるようです。  例えば、中世の白峯寺には多くの子院があり、戦国期には21か寺あったと伝えられます。

白峯寺 四国遍礼霊場記2

『四国偏礼霊場記』白峰寺(1689年)

元禄2年(1689)に寂本が著した『四国偏礼霊場記』の挿図には、洞林院のほかに円福寺や一乗坊などが描かれ、江戸時代前期にも白峯寺に複数の子院があったことが分かります。

白峯寺古図 本堂と三重塔
白峰寺古図 (本堂周辺部の拡大)

ところが、中世の白峰山を描いたというこの絵に注記があるのは洞林院だけです。伽藍の間に見える数多くの屋根が見え、他の子院があるように見えます。しかし、洞林院との間に明らかな「格差」が付けられています。洞林院は戦国時代末期に一時衰退しますが、その後に再興したようです。その際に、同院の由緒を示すための文書などが作成されたと推測されます。そして慶長九年(1604)以降、洞林院が白峯寺において中心的な役割を担って行くようになったことが棟札から読み取れます。

  松岡氏が最初に述べていた
「何がどのように描かれているか(あるいは描かれていないか)を探り、景観年代や制作目的についても意識しながら読み解く」

という視点からすると、この絵は、
①山上にある他の子院を略して洞林院だけを描くことで、
②洞林院の由緒を目に見える形で伝え、寺中における優位性を示そうとする意図のもとに描かれた
ということになりそうです。さらに推察を加えるとすれば、そのような主張をする必要が洞林院にあった時期に制作されたと考えられます。そのような時期とは、いつだったのでしょうか? それは、別の機会にするとして・・先を急ぎます。
白峯寺古図 地名入り
白峰寺古図
もうひとつ注目したい所は、画面左端の北峰に描かれた馬頭院です。
馬頭院については、江戸時代後期の作とされる絵図に「馬頭院跡」と記されています。また、大正15年(1926)に写された「白峯寺開基由来帳」(鎌田共済会郷土博物館蔵)にも「破壊地」として馬頭院を「当寺末寺」とする記述がみえます。しかし、他の史料には載っていない寺院です。ところがこの絵の中には馬頭院は描かれています。馬頭院は、洞林院以外に描かれる唯一の子院です。しかも離れた地であるにも関わらず描き込まれています。そこには何らかの意図や目的があったはずです。それが何なのかは、今は分かりません。「馬頭院跡」という、忘れ去られたこの子院が、この絵図を読み解く手がかりとなる可能性があるのかもしれません。
最後に、四国遍路との関わりからこの絵を見てみましょう。
この古図には遍路が歩いたと思われる道の一部が次のように描かれています。

1 白峰寺古図2$pg
①画面中央下の高屋村から白峯寺に続く道
②本堂前から画面右上へと続く道(史跡「根香寺道」)
③神谷明神の背後に延びる道、
あくまでも白峯寺への参道として描かれたのでしょうが、中世や近世の遍路道の姿を伝える貴重な絵画史料となるようです。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

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