瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:白峯山古図

1 白峰寺古図

かつて、第八十一番札所白峯寺の「白峯山古図」を見ながら、この寺の近世の変貌ぶりを追いかけたことがあります。それを最初に確認しておくと
①中世の白峰寺は「白峯衆徒21ヶ寺」の数多くの伽藍や塔が立ち並んでいた。
②そして、多くの院坊の連合体が白峰寺を形成していた。
③ところが元禄8年(1695)「末寺荒地書上」には、「白峯衆徒21ヶ寺、内18ヶ寺は退転」し、「寺地は山畠となる」と記されている。
④多くの伽藍や塔の姿は近世に初頭に姿を消し、3坊のみが存続した
⑤その中で、元禄以前には本堂の東側にあった洞林院が、現在地に降りてきて白峰寺の本坊となった。
以上からは「白峯衆徒21ヶ寺」は、近世最初に淘汰され、その中で洞林院が本坊として生き残ったということになります。その間に何が起こったのでしょうか。金毘羅さんの金光院のように、各院坊間の権力闘争が、ここでも起こったのでしょうか。

 そんな中で見つけたのが「松岡明子  白峯山古図―札所寺院の境内図 空海の足跡所収」という小文です。これをテキストに「白峰山古図」をもう一度眺めてみることにします。松岡氏は次のように述べています。
「境内図を見る際には、制作年代や作者だけでなく、何がどのように描かれているか(あるいは描かれていないか)を探り、景観年代や制作目的についても,意識しながら読み解くことが必要」

という立場から、この古図と向き合います。そして、次のように指摘します。

「白峰山や稚児ヶ嶽、松山津などの自然景の中に、白峯寺の伽藍と崇徳院御廟などのほか、周辺の寺社や村、参道も含めて描かれている。境内をみると、三重塔や洞林院、楽屋、別所、金堂、大門など今はない建物が数多く描かれる。
 一方で、江戸時代前期に初代高松藩主松平頼重の寄進で再建・建立された阿弥陀堂や客殿の姿はない。同じく頼重が造営した頓證寺殿の特徴的な建物も、「御本社」の名称で今とは異なる社殿が描かれている。」

 建物の名称や外観・配置などが、江戸時代前期のものと一致しないことから、この絵は、さらに時代を遡る中世の景観を描いたものとします。
 この図の箱には、永徳二年(1382)の火災以前のものを描いたものであるという墨書があります。
しかし、画面には、応永21年(1414)に後小松天皇から下された「頓證寺勅額」(重要文化財)を掲げる勅額門が描かれています。歴史的な整合性がなく、少し首を傾げざるえないところもあるようです。それだけに、この絵がいつの時代を描いたものなのかについての判断は慎重にならざるえないようです。つまり「作為」があるのです。

白峯寺古図 地名入り
白峰寺古図
 この絵の作者や描かれた時代については分かりませんが、研究者は次のように指摘します。
①懸崖や海岸線をデフォルメしながら複雑な地形を破綻なくまとめていること
②平板化せず奥行きのある構図や、樹木など細部の描き方、目ののった画絹が使われていること
①からは高い技量をもつ絵師の存在
②からは、制作時期は江戸時代前期と研究者は推察します。つまり、箱書きにあるように中世に書かれた物ではないということです。江戸時代になって、中世の様子を描いているということになります。

画中には人物が一人も描かれていません。
建物と自然景観が丁寧に描かれています。その結果、静かな落ち着きのある雰囲気が漂います。まるで、霊地の威厳を表す社寺曼荼羅のようです。
白峯寺古図 本堂への参道周辺
白峰山古図 拡大図

そういう視点でこの絵を眺めると、白峯寺の周辺には雲井御所、鼓岡、崇徳天皇と記された二か所の社殿(現在の高家神社・青海神社)のほか、松浦や綾川など崇徳院由来の地が全て描かれているのに気付きます。どうやらこの絵の作者が目指したものは、崇徳院ゆかりの霊跡に囲まれ、廟所と一体のとなった聖地としての白峯寺の姿であったようです。それは「白峯寺縁起」に「霊験かきつくしかたき」と記される白峰寺の往古の景観を、江戸時代になって復原的に描いたものと研究者は指摘します。

制作者の意図を、別の視点から探してみましょう。
白峰山一帯を俯瞰するように整然と描いた図は、一見すると記録に基づいて境内の様子を忠実に描いたように思えます。しかし、詳しく見ると、いくつかの作為(主張)があるようです。  例えば、中世の白峯寺には多くの子院があり、戦国期には21か寺あったと伝えられます。

白峯寺 四国遍礼霊場記2

『四国偏礼霊場記』白峰寺(1689年)

元禄2年(1689)に寂本が著した『四国偏礼霊場記』の挿図には、洞林院のほかに円福寺や一乗坊などが描かれ、江戸時代前期にも白峯寺に複数の子院があったことが分かります。

白峯寺古図 本堂と三重塔
白峰寺古図 (本堂周辺部の拡大)

ところが、中世の白峰山を描いたというこの絵に注記があるのは洞林院だけです。伽藍の間に見える数多くの屋根が見え、他の子院があるように見えます。しかし、洞林院との間に明らかな「格差」が付けられています。洞林院は戦国時代末期に一時衰退しますが、その後に再興したようです。その際に、同院の由緒を示すための文書などが作成されたと推測されます。そして慶長九年(1604)以降、洞林院が白峯寺において中心的な役割を担って行くようになったことが棟札から読み取れます。

  松岡氏が最初に述べていた
「何がどのように描かれているか(あるいは描かれていないか)を探り、景観年代や制作目的についても意識しながら読み解く」

という視点からすると、この絵は、
①山上にある他の子院を略して洞林院だけを描くことで、
②洞林院の由緒を目に見える形で伝え、寺中における優位性を示そうとする意図のもとに描かれた
ということになりそうです。さらに推察を加えるとすれば、そのような主張をする必要が洞林院にあった時期に制作されたと考えられます。そのような時期とは、いつだったのでしょうか? それは、別の機会にするとして・・先を急ぎます。
白峯寺古図 地名入り
白峰寺古図
もうひとつ注目したい所は、画面左端の北峰に描かれた馬頭院です。
馬頭院については、江戸時代後期の作とされる絵図に「馬頭院跡」と記されています。また、大正15年(1926)に写された「白峯寺開基由来帳」(鎌田共済会郷土博物館蔵)にも「破壊地」として馬頭院を「当寺末寺」とする記述がみえます。しかし、他の史料には載っていない寺院です。ところがこの絵の中には馬頭院は描かれています。馬頭院は、洞林院以外に描かれる唯一の子院です。しかも離れた地であるにも関わらず描き込まれています。そこには何らかの意図や目的があったはずです。それが何なのかは、今は分かりません。「馬頭院跡」という、忘れ去られたこの子院が、この絵図を読み解く手がかりとなる可能性があるのかもしれません。
最後に、四国遍路との関わりからこの絵を見てみましょう。
この古図には遍路が歩いたと思われる道の一部が次のように描かれています。

1 白峰寺古図2$pg
①画面中央下の高屋村から白峯寺に続く道
②本堂前から画面右上へと続く道(史跡「根香寺道」)
③神谷明神の背後に延びる道、
あくまでも白峯寺への参道として描かれたのでしょうが、中世や近世の遍路道の姿を伝える貴重な絵画史料となるようです。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

     
3綾川河口ezu JPG
     
讃岐国府の外港として「林田港」の存在が注目されるようになっていることを以前に伝えました。それなら今まで国府の都とされてきた「松山津」との関係は、どうなのかという点が疑問に残ります。今回は松山津について見ていきます
 松山津は讃岐国府から綾川沿いに南約五㎞の地点にあり「国府の外港」として古代以来の重要な港とみなされてきました。讃岐国十一郡のうち阿野郡に所在する九郷の一つである松山郷のにあったとされるのでこの名前で呼ばれてきました。現地に石碑は建てられていますが、具体的な位置など分からないことが多いようです。

坂出・丸亀の古代海岸線復元
坂出市の古代海岸線


6松山津

史料に出てくる松山津をまずはチェックしましょう。
 菅原道真の「菅家文草」には、讃岐国の迎賓用施設である松山館が津(松山津)のほとりにあったと記し、海や津の情景が詠われています。そこには
「予れ近会、津の客館に、小松を移し種ゑて、遊覧に備へたりき」

との自註があり、別の詩で「小松を分かち種ゑて」と詠んでいますので「官舎」=「松山館」で、その近くに「松山津」があったと考えられてきました。
 保元の乱に敗れ、讃岐国に配流された崇徳上皇の上陸地は?
 上皇の滞在地については諸説ありますが、讃岐国への上陸は松山津からであったことがいずれの史料も記されています。ここからは公人を迎え入れる国府の港としての松山津の役割がうかえます。
6白峰古図
 この「白峯山古図」(資料13)は、永徳二年(1382)以前の白峯寺とその周辺の景観を江戸時代になって描いたものです。
ここには断崖絶壁の上から流れ落ちる稚児の滝と、その上に立ち並ぶ白峰寺の伽藍群や崇徳上皇陵が描かれています。目を下に移してみると、画面右下に綾川が右から左に流れ、中央下に男山・女山に湾入した入海があり、そこに館が描かれています。ここが松山津の有力な候補地となります。
  もう少し詳しくこの絵を見ていくことにしましょう。
①湾入地形に続く緩斜面地からは、上屋敷西遺跡と高屋遺跡が発掘され、塩作りに関連した集落がここにあったことが分かっています。
②雄山東麓にある雄山古墳群は、県下でも導入時期となる横穴式石室墳です。近畿と九州地方の横穴式石室の特徴を融合した石室形態で、この地が古くから瀬戸内海を往来する船が出入りし、人と物が行き来した場所であったことを示しているようです。


 文献史料+考古学的データ+現地踏査=「松山津は、雄山・雌山の東麓一帯に比定」することができると研究者は考えているようです。そして「菅家文草」に記された松山館は、津の最奥部付近に面した緩斜面地にあった可能性が高いとします。そして、国府とのアクセスは、津の最奥部から国府に延びる直線的な陸路があったのかもしれません。それは国宝の神谷神社の前を通ることになります。
以上からは「松山津=国府の外港」という従来の説は揺らがないようにおもえるのですが・・・
ところが、松山津の機能は「松山館」に象徴されるような公的人物往来に限定されるのではないかと考古学者たちは考えるようになっています。その根拠を見ていきましょう。

3綾川河口復元地図
  物資の移動港は綾川河口の林田津
 国府の港として、物資の移動を担った港は林田郷に所在する綾川河口にあったことが分かってきました。図4のように古代~中世前半の綾川河口はいくつもの河道がまるで龍の頭のようにうねり、その間に中洲があったことが分かります。その中でも安定した中洲には居住可能な微高地があり、ここを中継地として川運で国府と繋がっていたと研究者は考えているようです。
 以前にも紹介しましたが川筋には西梶・東梶という地名が残り、そこからは当時としては入手が困難な青磁碗などもが出土しています。「梶」地名は船の輸送に携わる梶取からきていると云われ、青磁碗出土地が旧河道に面していることもこれを裏付けます。

3綾川河口図3
 また、江戸時代の検地帳には綾川右岸の「東梶乙」には「蔵ノ元」「蔵元」、「城ノ角」には「蔵佐古」「城屋敷」・「蔵前苫屋敷」などの古地名が残っています。東梶乙の「蔵ノ元」・「蔵元」は、綾川の右岸(東岸)堤防から100mほど東の一になります。このあたりから「城ノ角」の林田小学校付近にかけては、南北に細長い微高地があります。その上に「蔵ノ元」・「蔵元」の地名があるのは、水運に便利な綾川から近い場所に物資管理用の倉庫が立ち並んでいたことをうかがわせます。
 また、総社神社・総倉神社・八坂神社といった複数の神社も旧河道に面し、物資流通への拠点的な役割を果たしていたことがうかがわれます。特に總倉神社の鎮座する所は、讃岐国の国府と綾川で結ばれ海陸の利便性が良かったために、税として徴収された雑穀等を貯蔵する官営倉庫が建てられたので總倉と号し、この神社をその鎮守神としたと伝えられます。「香川県神社誌より(要旨)」
5讃岐国府と国分寺と条里制
 このように、綾川河口の林田郷の微髙地には、蔵が建ち並び、瀬戸内海を交易する船の船頭達が住むエリアが想定できます。ここから綾川を通じて舟運で国府と繋がり、大量の人や物資の流通を担う国府の港としての機能が、この周辺にはあったと研究者は考えているようです。そして、この一帯にあった港湾機能を郷名にちなんで、林田津と呼んでいます。
古代の最新鋭工場の十瓶山窯跡群と林田港
 瀬戸内海の海底から引き揚げられた陶磁器の中に、十瓶山周辺で作られた須恵器があります。
 十瓶山は綾川の上流で、古代には須恵器窯と瓦窯跡からなる県内最大の窯跡群で、いまでいうなら最新鋭の工場群があった所です。ここで作られた製品(須恵器)はどのようにして、都に運ばれたのでしょうか? それは綾川水運によって林田津まで運ばれ、そこから瀬戸内海航路にのせて搬出されたようです。いまでは綾川を川船が行き来することなど想像も出来ませんが、上流のダムなや堰がなかった時代は川船は驚くほど奥地まで入ってきています。丸亀平野では白方から弘田川をさかのぼって善通寺までは、入ってきたことが分かっています。大束川でも川津から法勲寺辺りまでは行けたようです。
 こうして、須恵器をはじめとした調・庸などの多くは綾川の水運によって、国府からその河口部の林田津を経て、運び出されたと考えられます。
讃岐国府の外港   松山津は人 林田津は物 
 讃岐国府の港は、次のように機能分化していたというのです。
政府の要人などの人的移動は松山津・松山館
物資移動は林田津
そして、二つの港が複合した港が讃岐国府の外港ということになるようです。 
国府の港は、中世後半以降の史料ではみられなくなります。
それは、国府の機能が衰退するにつれて港湾機能が低下したということもあるでしょう。藤原純友の讃岐国府焼き討ちの際に、略奪放火にあったかもしれません。しかし、近年の環境考古学岳は、古代末の地球規模の寒冷化現象の影響が大きかったことを教えてくれます。寒冷化は、海面低下をもたらし河川の水位を低下させ、度重なる洪水を誘発し、その結果綾川河口は急速に陸地化していったようです。この二つの要因により、13世紀以降は国府の外港としての綾川河口の港湾機能は、急速に衰退していくことになります。
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