瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:白峰寺

福江 西庄
坂出市史より

 白峯寺の経済的基盤は、松山荘と西庄にあったことを前回は見てきました。今回は西庄が白峰寺の寺領になるまでを追って見たいと思います。「西庄」という荘園名は、中世には出てきません。出てくるのは「北山本の新荘」で、これがいつの間にか「西庄」と呼ばれるようになりました。
 建長年間に筆写されたという「讃岐国白峯寺勤行次第」(白峯寺所蔵)には、正月修正会という法事興行のための費用料所として「西山本新庄」が充てられています。
 最初からややこしい話になりますが、これは西ノ山本新荘という意味で、より説明的に言うと「西ノ北山本ノ新荘」です。西山本ノ新荘という意味ではありません。この西ノ(北)山本郷内に、新たに設定された荘園が「(北)山本新荘」で、これが京都の崇徳院御影堂に寄進されたもののようです。

西庄の前身である「北の山本の新荘」は、いつ、どこに成立した荘園なのでしょうか?
北山本新荘の荘名は、鎌合時代後期の徳治一(1207)年2月25日の洞院公賢奏事事書に「北山本新庄預所職事」と見えるのが初見のようです。次に建武三(1336)年12月18日の光厳上皇院宣案に、「崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄」と出てきます。これだけ見ると、白峰寺の御影堂の寺領のように思えます。しかし、そうではないようです。崇徳院御影堂は、京都にもあったのです。

白峯寺 御影堂の説明文
京都の崇徳院御影堂と粟田社についての記述

京都の崇徳院御影堂を見ておきましょう。
崇徳上皇が神に祀られたのは、元暦元(1184)年4月15日のことです。吉田経房の日記『吉記』(『史料大成』)同日条は、次のように記します。
崇徳院・宇治左府、仁祠を建て遷宮こと
今日、崇徳上皇・宇治左大臣、霊神に崇めんがため、仁祠を建て、遷宮有り、春日河原をもってその所となす、保元合戦の時、かの御所跡なり、当時、上西門院御領たり、今、申請せられこれを建てらる、津々材木を点じ、造営す、遷官の間儀、尋ね注すべし、院司権大納言兼雅、式部権少輔範季朝臣奉行す、社司僧官等を補せらること、神祗大副卜部兼友宿祢、社司に補せられその事に備う、また僧官を補せらる、
意訳変換しておくと
崇徳院・宇治左府(藤原頼長)の追善のために、仁祠を建て遷宮したことについて
今日、崇徳上皇・藤原頼長の慰霊のために、仁祠(崇徳院御影堂)を建て、遷宮が行われた。場所は春日河原で、保元合戦の時に戦場となった御所跡で、当時の上西門院(鳥羽上皇の第二皇女)の領地にあたるので、用地提供の申請を受けてここに建立された。院司権大納言兼雅、式部権少輔範季朝臣が建立責任者となり、社司僧官等を選任し、神祗大副卜部兼友宿祢が社司に任じられた。また僧官も置かれた。
  ここからは、保元の乱の時に戦場となった春日河原に、崇徳院と藤原頼長の追善のために社殿が建立されたことが分かります。これが京都の崇徳院御影堂です。崇徳院廟と頼長廟が東西に並んで設けられ、粟田に位置したので、「栗田廟」・「粟田宮」と呼ばれるようになります。祠官には神祗官の卜部兼友が選ばれ、僧官については、頼長の升教長の子である延暦寺の玄長が別当に、西行の子慶縁が権別当に補任されたと「源平盛衰記」にはあります。
 つまり、崇徳院御影堂は京都の春日河原にも建立され、その寺領として寄進されたのが「北山本の新荘(西庄)」ということになります。当時は、讃岐には山本荘と同名の荘園が豊田郡(石清水八幡宮領山本荘)にもありました。そこで混同を避けるために、坂出の山本荘は「北山本新荘」と呼ばれるようになったようです。「北山本新荘=山本荘」だと坂出市史は記します。
白峯寺の史料は、西庄がどのように白峰寺の寺領になったと述べているのでしょうか
 『白峯寺縁起」には、次のように記されています。
「北山本の新庄も文治に頼朝大将の寄附にて侍るなり」

つまり、文治年間(1185~90)に源頼朝が北山本新庄を白峰寺に寄進したというのです。これに対して坂出市史は次のように指摘します。
「京都の崇徳院御影堂領として荘園を本所である栗田官に頼朝が返付した事を主張したもので、史実とはやや事情が異なる。しかし、この事実を根拠にして、崇徳院御影堂の肩代わりを担った白峯寺が右の荘園支配の裏付けとすべく、鎌倉時代から寺領であったと宣言しているのである。」

ここからは「白峯寺縁起」が書かれた15世紀初頭には、白峰寺は松山荘を本荘と見なし、綾川対岸に広がる北山本新庄を西(の北山本新)庄、あるいは、松山荘の西(方にある)荘園、すなわち、 西庄と呼ぶようになっていたことがうかがえます。他人の物を、自分のものだと主張するようになっていたということです。

次に北山本新庄の広さとエリアを見ておきましょう
 現在の西庄は「坂出市西庄町」ですが、中世の西庄の荘域は現在の倍以上の広さだったようです。
西庄町

寛永十(1633)年幕府へ提出した「寛永の国絵図」の稿本とみられる「讃岐国絵図」は、3つのものが伝来しています。そのどれもが北山本新庄全域を西庄と記しています。そのエリアは「醍醐・原・天皇・江尻・福江・坂出・古御供所」を白い線で括り、肩書きに西庄と注記しています。
 また、それから30年以上経た寛文九(1669)年になっても西庄(当時の表記は西之荘)内には、福江村以外は分村されておらず西之荘村として一括して扱われています。
 その中に「古御供所」とあるのは、生駒時代に、御供所集落が丸ごと丸亀城下の三浦に強制移住させられ一時廃村化したことを記入しているようです。移住先の丸亀市三浦には、現在も御供所町の地名が残っていて、崇徳天上社(白峰宮、西庄町)への神事奉祀の伝統が続いているようです。これは、御供所が崇徳院御影堂領の北山本新庄内の一部であったことを裏付けます。
次に福江について見てみましょう
坂出の復元海岸線2

『華頂要略』に引かれた「門葉記」の崇徳院御影関する記事には、次のように記されています。
讃岐国北山本ノ新庄福江村年貢五十五貫文内、半分検校尊道親工御知行、半分別当法輪院御恩拝領、塩浜塩五石、当永享十(1438)年よりこれを定、京着、鯛四十喉、

ここには「讃岐国北山本ノ新庄福江村」とあるので、中世には福江は北山本新荘に属していたことが分かります。また、その年貢として塩5石や鯛40を納めています。鯛をどうやって運んだのかは気になりますが、生きたまま運んだのではないでしょう。沙弥島周辺で捕れた鯛の内臓等を取り除いて、地元産の大量の塩で包みそのまま塩焼きにした「鯛の浜焼き」を研究者は考えているようです。塩釜焼きよりも高温の焼き塩で処理した方が、日持ちするようです。ここには福江村の半農半漁的な姿がうかがえます。しかし、福江はそれだけではありませんでした。中世交易湊の姿も見せてくれます。
宝徳元(1449)年の史料には阿野郡北山本新荘の年貢輸送の福江丸に、管領細川勝元から次のような下知状が発給されています
「崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料舟之事」
崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料船福江丸・枝丸等事、毎季拾艘運上すべし云々、海河上諸関その煩い無くこれを勘過すべし、もし違乱の儀あれは厳科に処すべきの由仰せ下さる也、例て下知件の如し
宝徳元年八月十二日
右京人夫源朝臣(細川勝元)
意訳変換しておくと
「崇徳院御影堂領の讃岐国北山本新庄の国料舟について
崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料船の福江丸・枝丸(関連船)について、毎年10回のフリー運用を認めるので、海上や河川の諸関において、この権利を妨げることなく通過させよ。もし違乱することがあれば厳罰に処すことを申し下せ。例て下知件の如し
宝徳元年八月十二日
右京人夫源朝臣(細川勝元)
ここには、北山本新庄国料船の福江丸・枝丸(関連船)が登場します。福江丸と名付けているので、福江を母港とする交易船であることがうかがえます。福江には、瀬戸内海交易に携わる交易集団がいたことが浮かび上がります。北山本新庄の年貢など以外にも様々な物産を畿内に向けてはこんでいたことが想定できます。
坂出市史に載せられた北山本新庄の俯瞰図を見てみましょう
 以前にもお話したように、古代の坂出には大束川が流れ込み、深く湾入した海に注いでいました。その河口付近にあったのが福江です。福江は、瀬戸内交易の拠点であると同時に、大束川による川津方面への川船輸送の入口でもありました。古代綾氏の大束川流域への進出拠点とも考えられています。中世には、大束川は流れを変えて宇多津方面へ流れ出るようになりますが、福江は「北山本新庄=西庄」の湊としての地位を保っていたことは先ほどの史料で見たとおりです。
福江 中世
坂出市史より

 この想像図で笠山の麓に製塩の釜屋と民家があり煙が上がっているのが福江です。福江村の上(北側)に深く入り海が湾入しその奥にも釜屋がある辺りが御供所です。そこから右(東)へ外海に面して続く砂州が続きます。旧大束川の堆積物で造られた砂州です。その上に西から順に西洲賀・中洲賀・東洲賀・鳥洲さらに入り江の対岸が江尻となります。また、沖には右に瀬居島、左に沙弥島があります。これら入り海と砂州、そして沖の二島を結ぶまでの外海すべてが北山本新庄だったと坂出市史は考えるのです。海を荘園のエリアに内包する例は、以前に三豊の柞田荘の立荘作業で見たとおりです。

 現在の坂出市西庄町は、この想像図のさらに東側の地域になりますが、「西庄」と「荘」いう小字地名が残るので「北山本新庄」に含まれていたようです。そして、新庄の中心部は「北山本新庄」の東側(現西庄町)にあったのではないかと坂出市史は推測します。

京都の崇徳院御影堂の荘園・北山本新庄が、どのようにして白峯寺の寺領になったのでしょうか?
「文治年中、号山本庄、後年分二、号本庄・新庄、本庄は八幡知行、新庄は御影堂領」

意訳変換しておくと
「文治年間(1185~1190)年には北山本新庄と呼ばれていたものを、後年に本庄と新庄の2つに分けた。本庄は(岩清水)八幡神社の知行で、新庄は(白峰)御影堂領となった。

「後年に二分し」たとあるのは、「山本郷内にある山本庄を後年に二分割し」たということです。そして、新荘は(白峰)御影堂領になったというのです。ここからは、北山本新庄の京都から白峰寺への「所有権転換」があったことがうかがえます。しかし、それがいつかは分かりません。
 
白峯寺の隆盛と地主化への道
   白峯寺の権威と名声を高めたの、もうひとつの原動力となったのが、崇徳院法楽関係文芸作品群の崇徳院御影堂(頓証寺)への奉納であることを坂出市史は指摘します。その最初の奉納物は、今は明治の廃仏毀釈の時に金刀比羅宮に移った「崇徳院御影堂同詠二首和歌」だったようです。成立年は分かりませんが、崇徳院二百年遠忌(貞治四(1365)年)の時に、細川頼之の勧進によるもの(『白峯寺調査報告書』香川県2013年)とされています。
 これに続くのが「頓証寺法楽一日千首短冊帖」(金刀比羅宮蔵)で、応永11(1414)年4月17日に讃岐守護細川満元邸で催された和歌会の作品集です。この催しは、崇徳院遠忌250年(応永20(1413年)のことです。
頓証寺額
後小松天皇からの「頓証寺」銘の額(複製)

その翌年の12月には後小松天皇から「頓証寺」銘の額が白峰寺に届けられます。崇徳院法楽文芸作品群にしろ頓証寺額にしても、すべて白峯寺宛に届けられ、社僧等によって崇徳院の霊前に奉納されています。こうした慣行の積み重ねで、頓証寺をトップとする白峯寺の地位は格段に上昇していったようです。これは、江戸時代も続けられます。
以上から北山本新庄が白峯寺に「押領」されていく過程を想像力も交えながら小説風に記してみます。
北山本新荘の本家である京都の崇徳院御影堂は、応仁の乱以降の戦乱で荒廃します。その結果、地方の荘園を維持管理する組織や施設すらも消滅してしまい、荘主のいた京都からは何の音沙汰もなくなります。その隙を狙う在地の武士団(悪党)たちの狼藉・圧迫に歯止めがきかなくなっていきます。その先頭にいたのが白峰寺の門徒勢力です。彼らが崇徳院墓寺という金看板をバックに絶大な支配力を行使していきます。後光厳天皇綸旨案に崇徳院御影堂領北山本新庄の押領を行う「林田入道井高継以下の輩」とは、実は白峯寺と手を組んだ地元の武士団であったのかもしれません。
 白峯寺は、崇徳院山陵の墓寺の地位を確保し、次に山陵に附属して建立された崇徳院御影堂を山内に取り込んで発展していくようになります。崇徳上皇の慰霊・追善の寺という「錦の御旗」を掲げて、周辺の荘園に対する「狼藉・押領」を繰り返すようになっていったのではないでしょうか。そう考えると、「ミニ延暦寺化」した地方の有力寺院は暴力装置としての僧兵集団を持つようになるが常です。それは善通寺でも出現した板ことを見ました。院坊がいくつも並ぶ白峰寺には、僧兵もいたと私は考えています。そして白峰寺は、地元の武士団を配下に入れて、有力な軍事集団を構成していたとしておきます。そのためこの周辺には、有力寺院が白峯寺以外には見られなくなります。それは近世の象頭山金毘羅大権現が、周辺の寺社を取り潰した上に成長して行った姿と重なります。

相模坊
白峰の相模坊権現
 白峰寺の社僧達は天狗たちだったことも金毘羅大権現とよく似ています。
崇徳上皇は「天狗となって恨みをはらさん」と、言い放って亡くなります。崇徳上皇が葬られた白峰寺は、その後は相模坊に代表されるように天狗たちの住処となります。天狗とは修験=山伏たちです。白峯寺は松山荘と西庄という経済基盤を手に入れて、白峰山上には数多くの院房が建ち並ぶミニ高野山の様相を呈するようになります。つまり白峰寺は象頭山と同じ、天狗道の聖地でもあったのです。

白峯 解説文入り拡大図
白峯寺古図 中世の白峯寺には多くの堂舎が見える 

以上をまとめておくと
①北山本新庄(西庄)のエリアは、現在の西庄町よりもはるかに広いもので、綾川から聖通寺山に至るエリアであった。
②北山本新庄(西庄)は、後白河上皇が京都に建立した崇徳院御影堂に寄進されたもので「海の荘園でもあり、長い海岸線を持っていた。
③御供所や福江は、海の特産品の集積地であり加工場でもあり、出荷湊でもあった。
④福江は国料船福江丸の母港で、交易港でもあった。
⑤中世後半になると、京都の寺社の荘園は悪党の狼藉・押領に苦しめられるようになる。北山本新庄もその例に漏れず、次第に白峯寺に「押領」され乗っ取られていった。
⑥白峯寺は北山本新庄を西庄と呼ぶようになり、松山荘とならぶ経済基盤となっていった。
⑦このような経済力を背景に、白峰山上にはミニ高野山のように堂舎が立ち並ぶようになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史 中世編

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崇徳上皇白峰陵墓
前回は白峰寺の発展の原動力が崇徳上皇陵が造られ、その慰霊地とされたことに求められることを見てきました。今回は、白峯寺の発展を経済的な側面から見ていくことにします。近代以前においては、寺社の経済基盤は寺領にありました。これは中世西欧の教会や修道院とも同じです。そのため寺社が大きくなればなるほど、封建領主の側面を持つことになります。白峯寺の場合は、どのように寺領を拡大していったのでしょうか。それを今回も、新しく出された坂出市史中世編をテキストに見ていきたいと思います。 
白峯寺は、松山荘と西庄のふたつの寺領を、経済基盤にしていました。
この寺領は崇徳上皇の追善のために建立された崇徳院讃岐国御影堂(後の頓証寺)に附属するもので、後には「神聖不可侵」なものと主張するようになります。そのような主張に至る過程を、まずは松山荘で追ってみます。

白峰寺明治35年地図
明治35年国土地理院地形図 松山村周辺
松山郷は、坂出市神谷町・高屋町・青海町・大屋富町・王越町辺り一帯とされます。
それがのちには青海町・高屋町の旧海岸地域、さらに崇徳院御陵のある白峰寺一帯を指すようになります。また、崇徳上皇を詠った歌枕として使用されるようになり「白峯=松山」と近世には認識されていたようです。
松山荘の荘名は、藤原経俊の日記『経俊卿記』の正嘉元(1257)年4月27日条に「賀茂社司等中す、松山庄替地の事」と見えるのが初見のようです。
ついで、同年7月22日条には「賀茂社と白峯寺相論す、松山庄事」とあり、松山荘をめぐりって、京都の賀茂社と白峯寺との間で訴訟があったことが分かります。4月27日条によると、讃岐国衛の在庁官人が松山荘の見作(実際の耕作地)と不作(休耕地ないし耕作放棄地)について賀茂社の主張を確認し、所当六石を白峯寺より賀茂社へ返付するよう決裁しています。ここからは、松山荘内に賀茂社の社領(鳴部荘の一部?)が含まれていたことがうかがえます。つまり、この時点では松山郷=松山荘ではなく、松山郷には他領が含まれていたことが分かります。どちらにしても、崇徳上皇が葬られて約70年後の13世紀半ばには、白峯寺は松山荘を実質的に管理し、周辺部の賀茂神社の社領にも「侵入」していたことがうかがえます。しかし、松山荘の立荘の経緯については、不明なことが多いようです。。
白峯寺の「公式見解」は、応永十三(1406)年成立の「白峯寺縁起」には、次のように記されています。
安元二年七月二十九日、讃岐院と申しゝを改めて、崇徳院とぞ、追号申されける、その外あるいは社壇をつくりいよいよ崇敬し、あるいは庄園をよせて御菩提をとぶらう、今の青海・河内は治承に御寄進、北山本の新庄も文治に頼朝大将の寄附にてはべるなり、治承・元暦の乱逆も、かの院の御怨念とぞきこえし、

意訳変換しておくと
安元二(1177)年7月29日、讃岐院(崇徳上皇)の号を改めて、崇徳院して追号し、その外にも社壇を造って追善し、荘園を寄進して菩提をともなった。今の青海(松山)・河内は治承年間に寄進されたもので、北山本の新庄も文治年間に頼朝大将によって寄進されたものである。治承・元暦の乱逆も、崇徳上皇の御怨念と世間は言う、
 ここからは白峯寺縁起が寺領の寄進について、次のように主張していることが分かります。
①「青海・河内」が治承年間(1177~81)に後白河上皇より寄進
②「北山本新荘(西庄から現在の坂出市街)」が文治年間(1185)に源頼朝より寄進
  ここには2つの偽造・作為があります。ひとつは青海とともに寄進されたという「河内」です。
河内とは、どこのことでしょうか?
「白峯寺縁起」に
「国符(国府)甲知(河内)郷、鼓岳の御堂」

とあります。つまり、国府のあった府中や鼓丘周辺を指しているようです。しかし、ここは国府があった場所で、そこが白峰寺に寄進されたというのは無理があるようです。これは「北山本の新庄も文治に頼朝大将の寄附にてはべるなり」と同じように後世の仮託・作為だと坂出市史は指摘します。河内郷に白峰寺の寺領や荘園が存在したことはありません。
もうひとつは「北山本の新庄(西庄)」です。
これは、後に説明しますが後白河上皇が京都に建立した「崇徳院御影堂」に寄進した荘園です。後白河上皇は、讃岐以外に京都にも「崇徳院御影堂」を建立していたのです。その寺領として寄進されたのが「北山本の新庄(西庄)」です。それを15世紀初頭の「白峯寺縁起」が書かれた時代には、白峯寺が「押領」し、寺領に取り込んでいたのです。それを正当化しようとしていると坂出市史は指摘します。ちなみに「北山本の新庄(西庄)」のエリアは、西は御供所町から福江町を経て綾川までの広大なエリアを有する「海の荘園」だったと坂出市史は指摘します。
白峰寺の荘園 松山荘と西庄
白峯寺の荘園 松山荘と西庄(坂出市史より)
本題の青海(松山郷)にもどります。
①の「青海(松山)・河内」が崇徳院の御陵に寄進されたという主張の根拠を、確認しておきましょう。九条兼実の日記『玉葉」の建久二(1191)年閏12月22日には、次のように記されています。
讃岐院(崇徳上皇)と宇治左府(藤原頼長)について、明日発表する内容について、今日すでにその書を見たが内容は次の通りであった。
讃岐院(崇徳上皇)について
①白峰の御墓所を詔勅で山陵として、その周辺の堀を整備して周辺からの穢れを防ぐ。
御陵を守るための陵戸(50戸)を設ける。
③陰陽師と僧侶を現地に派遣して鎮魂させる。
④崇徳上皇の国忌を定めること。
⑤讃岐国白峰墓所に、一堂を建て法華三昧を行うこと
いま関係があるのは②と⑤です。⑤には崇徳上皇陵の追善のために、後白河上皇が「一堂(崇徳院御影堂)」を建立したとあります。しかし、寺領の寄進については何も触れていません。②には「御陵を守るための陵戸」の設置が記されます。しかし、これは寺領寄進とは別のものです。陵戸とは山陵を守るために設けられた集落です。中国の唐王朝では、長安郊外の皇帝陵墓周辺に有力者が移住させられ、陵墓の管理維持の代わりに、多くの特権を得ていました。これに類するものです。土地の面からすれば料所にあたり、青海(松山郷)に設置されたというのです。戸数50戸でした。松山郷全体を指すものではありません。しかし、白峯寺はこれを拡大解釈し、松山郷自体が白峰寺に寄進された荘園で寺領だと主張するようになります。
松山津周辺
古代松山郷の海岸線復元図
古代の海岸線復元図を見ると、雄山・雌山辺りまでは海で、現在の雌山の西側にある惣社神社あたりに、林田湊があったと考古学者たちは考えていているようです。また青海方面にも入江が深く入り込んでいたようです。その奥に松山津があったことになります。
坂出古代条里制
綾川流域の条里制遺構
そのため古代条里制跡は、松山郷の北部には見られません。中世になって海岸線が後退したあとの青海の湿原を、白峯寺は開拓領主として開発していったことが考えられます。

白峯寺古図
白峯寺古図
それを裏付けるかのように、白峯寺古図には稚児の滝の下の青海にはには深く海が入り込んでいるように描かれています。

「白峯寺縁起」は、その後の寄進について、次のように記します。
①後嵯峨院が、白峯寺千手堂を勅願所として、建長四(1252)年11月に法華経一部を本納
②その翌年には松山郷を寄附して、不断法華経供養の料所とした
ここには歴代の院や天皇が堂宇や寺領を寄進したと記します。こうして、松山郷における寺領面積は拡大したというのです。
「建長年中(1249~56)当山勤行役」との貼紙のある「白峯寺勤行次第」には、次のように記されています。
讃岐国白峯寺勤行次第 山号綾松山なり、後嵯峨院御勅願所 千手院と号す、土御門院御願、千手院堂料所松山庄一円ならびに勤行次第、十二不断行法毎日夜番供僧、同供僧二十一口、人別三升供毎日分、分田松山庄内にこれあり
意訳変換しておくと
讃岐国の白峯寺の勤行次第は次の通りである 
山号は、綾松山、後嵯峨院が御勅願所に指定して千手院と号すようになった。
土御門院によって、千手院堂料所として松山庄一円が寄進された。勤行次第は、十二不断行法が毎日夜番で供僧によって奉納されている、供僧二十一人、人別三升供毎日分、分田が松山庄内にある
ここには、白峯寺が後嵯峨院や土御門院の勅願所などに指定され、その勤行が21人の僧侶によって行われていること、そのための分田が松山荘内にが確保されているとあります。21人の僧侶というのは、当時のあったとされる別坊の数と一致します。
このように松山荘は、松山郷青海の料所の寄進をスタートに、その後は後嵯峨院による料所として、郷全体の寄付を受けて立荘されたと白峯寺は主張します。その成否は別にして、13世紀半ばには松山郷全体が白峰寺の寺領として直接管理下に置かれるようになったのは事実のようです。
この時期に白峯寺を訪れているのが高野山のエリート僧侶である道範です。
道範は、建長元(1249)年7月、高野山での路線対立をめぐる抗争責任を取らされ讃岐にながされてきます。8年後に罪を許され帰国する際に白峰寺を訪れたことが「南海流浪記」には記されています。

南海流浪記 - Google Books

 道範は、白峰寺院主備後阿闇梨静円の希望で、同寺の本堂修造曼茶羅供の法要に立ち合い、入壇伝法を行うために立ち寄ったのです。このとき道範は、白峯寺を
「此寺国中清浄蘭若(寺院)、崇徳院法皇御霊廟也」

と評しています。つまり、讃岐国中で最も清く、また崇徳上皇の霊廟地だとしているのです。ここからは鎌倉末期の白峰寺は、讃岐にある天皇陵を守護する「墓寺」として「清浄」の地位を確立していたことが分かります。その背景には、松山郷全体を寺領とするなどの経済的基盤の確立があったようです。
坂出・宇多津の古代海岸線

  以上をまとめておきます。
①兄崇徳上皇の怨霊を怖れた弟後白河上皇は、追善のために白峰陵を整備し、附属の一堂を建立した。これが「崇徳院御影堂」である。
②「崇徳院御影堂」に寄進されたのが青海(松山郷の一部)で、これが松山荘の始まりであると白峯寺は主張する。
③白峯寺は、青海を拠点に13世紀半ばまでには、松山郷全体を寺領化していき、その支配下に置いた。
④この頃に白峯寺を訪ねた道範は、白峯寺を「此寺国中清浄蘭若(寺院)、崇徳院法皇御霊廟也」記している。

こうして古代の山岳寺院としてスタートした白峯寺は、崇徳上皇の御霊を向かえることで「上皇追善の寺」という性格を付け加え、松山郷を寺領化することに成功します。この経済基盤が、ますます廻国の修験者たちを惹きつけ、多くの子院が山中に乱立する様相を呈するようになるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。



崇徳上皇 | 日本の歴史 解説音声つき

崇徳と後白河の兄弟間の権力闘争は、江戸時代までは読み物や歌舞伎などでも赤裸々に語られていました。しかし、明治以後の皇国史観の下では、二人の間の確執を取り上げることは不敬罪に問われる可能性もあり、タブー化します。戦後も郷土史家間には、この流れに抗う動きがなく、両者の間のことをきちんと史料を裏付けて各町村史誌に記す動きがなかなか出てきませんでした。そんな中で、昨年末に出された坂出市史通史中世は、この点に問題意識を持って取り組んだ内容となっています。坂出市史をテキストにして、崇徳上皇没後の後白河上皇の対応と慰霊について見てみましょう。それは、ある意味で白峰寺の歴史に迫ることにもつながると思うからです。

崇徳上皇と保元の乱

崇徳上皇は、保元元( 1156)年、保元の乱の敗北で讃岐へ配流となります。このとき崇徳上皇は罪人として扱われたことは、後白河天皇が発した宣命(石清水八幡官蔵)からも明らかです。長寛二(1164)年に、崇徳上皇が亡くなったときにも「後白河太上皇無服暇之儀」とあり、後白河上皇は喪服にも服していません。兄崇徳に対する冷淡さや非情さを感じる対応です。私が小説家なら兄崇徳死亡を告げる讃岐からの報告に対して、後白河に語らせる台詞は「ああ、そうか」だけです。もう過去の人として、意識の外に追いやっていたと私は考えています。
 讃岐の郷土史関係の書籍は、この点を無視して没後の崇徳上皇が、朝廷の指示に基づいて丁重に白峰に葬られたとするものが多いようです。しかし、私はこれには疑問を持ちます。後白河天皇の兄追放後の措置や、没後直後の対応を見ると御陵造営を指示したとは思えないのです。

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崇徳上皇白峰陵

崇徳上皇の陵墓は、五色台山塊の白峰山(松山)に造営されます。
今は立派に整備されて想像もつきませんが、埋葬された当時は粗末なものであったようです。その埋葬経過についても確かな史料が残されていません。この辺りも通常の天皇陵墓とはちがうようです。国衛(留守所)役人の手で葬られたとされます。しかし、後白羽上皇や朝廷からの指示がない、というよりも中央から無視されたのです。そのために、やもおえず地元の国衙役人たちは自分たちの判断で、山岳宗教の拠点であった白峰寺に埋葬されたと坂出市史は記します。

白峯本堂、崇徳天皇御廟第五巻所収画像000008
白峯寺

 保元の乱後に崇徳上皇に従って、共に讃岐に下った兵衛佐は、上皇が亡くなり役目を終えて京都へ帰還することになります。その時に彼女が詠んだ歌が『玉葉和歌集』に、載せられています。
崇徳院につき奉りて讃岐国に侍りけるを、
かくれさせ給いにければ都に帰りのばりけるの後、
人のとむらいて侍りける返事に申しつかわしける

君なくて かえる波路に しをれこし 袖の雫を 思いやらなむ
と、その心情を歌つています。ここからせめて遺灰なりとも持ち帰りたかったようですが、それもかなわなかったことがうかがえます。ここでは崇徳上皇の白峰への埋葬は、後白河上皇の意向を受けて「薄葬」であったことを押さえておきます。
白峯寺法蔵 崇徳上皇 歌切図 
崇徳上皇 白峰寺蔵

郡衙の在庁官人は、どうして白峰に埋葬することにしたのでしょうか?
白峰山には、白峰寺が崇徳院陵墓が造られる前からありました。近年行われた文化財調査によると、白峰寺の十一面観音菩薩立像は平安時代中期、不動明王坐像は平安時代後期の作とされています。つまり、これだけを見ても白峯寺(あるいはその前身となる寺院)が、崇徳上皇が流されてくる平安時代末期には存在したことが分かります。
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白峰寺奥の院への道(奥の院の断崖の上の灯籠)
白峰寺の複数同木説と山岳寺院としての性格 
応永14(1406)年の年紀をもつ『白峯寺縁起』には、弘法大師空海が寺の建設をこの地を定め、智証大師円珍が山の守護神の老翁に会い、10体の仏像を造立し、49院を開いたと記します。空海は真言宗の開祖、また円珍は天台宗寺門派の祖で、どちらも讃岐出身です。これら10体の仏像のうち、四体の千手観音が白峯寺・根香寺・吉水寺・白牛寺にそれぞれ安置されたと記します。ここには円珍が同木から複数の仏像をつくり、関連寺院に安置したとする複数同木説が掲げられています。現在の白峯寺は真言宗に属しますが、中世の白峯寺は真言一辺倒でなく天台の要素も濃厚であったようです。「白峯寺縁起」に「空海の開基、円珍の再興」の寺院と記されているのも中世の真言と天台の混淆・共存関係を示す物かも知れません。

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白峰寺奥の院毘沙門窟
五色台にある他の寺院を見ておきましょう 
 白峰寺と同じ木から彫られた仏像が安置されたという根香寺は、五色台の青峰の山頂東側にある山岳寺院です。吉水寺は近世に無住となり退転しましたが白峯寺と根香寺との間にあった山岳寺院です。残りの白牛寺は、「白牛山と号する国分寺」のことと研究者は考えているようです。この4つの寺院は山岳寺院のネットワークで結ばれていました。

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白峯寺奥の院に下りていく石段
 密教の隆盛と共に山岳修行が僧侶の必須項目になると、国家や国衙も僧侶の山林修行のゲレンデを整えていきます。それが那珂郡の霊山大川山をゲレンデとする中寺廃寺であり、五色台をゲレンデとする「白峯寺・根香寺・吉水寺・白牛寺(国分寺)」でした。4つの寺は、五色台の小辺路ルートの拠点として整えられたようです。そういう意味では、白峯寺をはじめとする五色台の山岳寺院は、国分寺や国府と創建当初から関係を持っていたのかもしれません。

白峰大権現

五色台には、熊野行者など修験者(山伏)の活動がうかがえます。
稚児の滝とその上の霊場、そして奥の院から岬の突端の行場などは、修験=山伏たちの修行ゲレンデだったようです。そして、根来寺との間では、何度も往復辺路する小辺路修行が行われていました。つまり、五色山そのものが霊山で、修験者にとっては聖地だったのでしょう。それが古代の山岳寺院としての白峰寺の姿だったと私は考えています。

白峯 解説文入り拡大図
白峰寺古図
崇徳上皇の陵墓管理のことを考えると、国分寺の奥の院的な存在である白峰寺に委託するのがいいと国府の在庁官人たちは判断したのかも知れません。こうして白峰山に崇徳上皇は葬られます。先ほども述べたように、当時の天皇陵墓としては規格外で粗末なものだったようです。

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崇徳上皇の怨霊が怖れられるようになるのは、崇徳没後13年後の安元2(1176)年になってからのようです。
三条実房の口記『愚味記』(陽明叢書)の安元三(1177)年五月九日条には、次のように記されています。
讃岐院(崇徳上皇)・宇治左府(藤原頼長)こと、沙汰あるべきこと、相府(藤原経宗)示し給いていわく、讃岐院ならびに宇治左府こと、沙汰あるべしと云々、これ近日天下悪事、かの人等の所為の由疑いあり、よってかのことを鎮められんがためなり、無極人事なり、
  意訳変換しておくと
讃岐院(崇徳上皇)・宇治左府(藤原頼長)ことについて、
相府(左大臣藤原経宗)は、最近の「天下悪事」は、崇徳上皇と藤原頼長の崇りによるもので、それを鎮めることが極めて重要なことであると実房に語った。
左大臣が保元の乱で敗れた崇徳上皇と藤原頼長のタタリを怖れ、その対策を最重要課題であると認識していたことが分かります。3日後の5月13日条には、上皇と頼長の怨霊対応について後白河院より蔵人頭藤原光能を通じての諮問が次のように記されています。
讃岐院・宇治左府間こと、
相府示し給いていわく、讃岐院ならびに左府間等こと、昨日、光能をもつて仰せ造わさるなり、頼業・師尚勘文下し給うなり、また去年用意のため、かの両人ならびに永範卿・師直等に仰せ、勘がえ儲けせしむるなり、
意訳変換しておくと
相府(左大臣藤原経宗)は、讃岐院(崇徳上皇)・宇治左府(藤原頼長)について、昨日光能から報告があった。これについては昨年に清原頼業・中原師直らに勘文(調査報告)の作成を命じておいたものである。

 ここからは文中に前年の安元2(1176)年に太政官の事務官である外記の清原頼業・中原師直らに勘文(調査報告)の作成を命じていたことが分かります。讃岐での現地調査などを経て、報告書が提出されたようです。怨霊を後白河院が意識しはじめたのも、この報告書の提出を命じた前年のことであったようです。同時に、朝廷は讃岐において崇徳上皇がどのように葬られていたかについて、なにも知らなかったことが分かります。崇徳上皇没後の扱いについては、後白河上皇の無関心に対応して、朝廷はノータッチだったことが裏付けられます。

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西行
鳥羽院時代に北面の武士で、崇徳上皇とは近い関係にあったのが西行です。
彼は23歳で出家し、久安4(1148)年頃に高野山に入り聖となり、仁安3(1168)年に中四国へ辺路修行のための途上に、白峰のやってきます。旧主であり、共に歌会で興じた崇徳院の墓所松山(白峰陵)を訪れ、その霊を慰めるためです。『山家集』には、当時の白峰陵墓の粗末さや荒廃ぶりが描かれています
後白河法皇 (@kSucBeGdxqvRINP) | Twitter
後白河上皇

後白河上皇が兄の崇徳上皇の慰霊について、関心を持つようになったのはどうしてなのでしょうか
安元2(1176)年には、後白河院周辺の人物が相次いで亡くなります。
6月13日 鳥羽上皇の娘で、二条天皇の中官となった高松院妹子が30歳で没、
7月 8日 後白河院の女御で高倉天皇の生母建春門院平慈子が35歳で没
7月17日 後白河の孫六条院が13歳で没
8月19日 藤原忠通の養女で、近衛天皇の中宮となった九条院呈子が46歳で没
この状況について『帝王編年記』(『新訂増補国史大系』)は次のように記します。
「三ケ月の中、院号四人崩御、希代のことなり」

近親者の相次ぐ死は崇徳上皇と頼長の怨霊に対する恐怖を後白河院に生じさせます。それを決定付けたのが翌年治承元(1177)年の京都大火による大内裏の焼亡でした。これらを崇徳上皇と藤原頼長の怨霊のしわざと、後白河上皇は恐れるようになります。

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山田雄司氏は『崇徳院怨霊の研究』の中で、両人の怨霊が取りざたされることになった最大の要因は、大極殿が京都大火により焼失してしまったことにあるとします。そして、怨霊を最も意識するようになったのが後白河院であったと指摘します。

『愚味記』治承元(1177)年五月十三・十七両国条には、その対応策が次のように記されています。
(五月十三日)讃岐院(崇徳上皇)・宇治左府(藤原頼長)間こと、(前略) 昨日下し給うの勘文等、 一々見合いの由仰せ義あり、在知の旨は讃岐院においては、成勝寺国忌を置かれ、八講を行せらる。また讃岐御在所において同じく追善を修すべきか、また左府においては、贈官位あるべきか、しかれば太政大臣は、その子師長すでに任じ候、よって正一位・准三宮を贈る、(中略)惣じてかの両人のため、もつとも追善を修せらるべきか、
意訳変換しておくと
 (前略)昨日提出された調査報告にもとづいて対応策が次のように協議された。
讃岐院(崇徳上皇)については、成勝寺に国忌を置き、法華八講を行うことで、歴代天皇と同じように崇徳上皇の菩提を慰霊すること。また讃岐でも御在所(上皇墓所)においても同じように追善を行う事。また左府(藤原頼長)については、官位を改めて贈り、子師長には正一位・准三宮を贈る、(中略) 両人のための追善を行う事。
追善を行う事で怨霊を鎮める方針が確認されています。
具体的な対応策は4日後の5月17日に次のように示されました。
讃岐院ならびに宇治左府こと、明日奏せしむべしと云々、今日すでに書を請け候、院五ヶ事、左府四ケ事と云、(中略)
讃岐院事
一 かの御墓所をもつて勅し山陵と称し、その辺堀埋し汚穢せしめざれ。また民烟一両を割分し、御陵を守らしむること
一 陰陽師を遣わし、山陵を鎮めしめ、同じく僧侶を遣わし経を転ぜしむること
一 国忌を置かるること
一 讃岐国御墓所辺、一堂を建て三昧を修すること
  宇治左府事については略
漢家の法、あるいは社櫻を立て、祭祀をおこなうの例有り、もしくはその告有り、かの例に随うべきかと云々、戸主の腋ならびに評定の詞等、その状多くして忘却す、よってこれを記さず尋ね申すべきなり、多くは外記勘文に付け先例を注出せらるなり、院御事は崇道天王の例多くこれを載す、
意訳変換しておくと
讃岐院(崇徳上皇)と宇治左府(藤原頼長)について、明日発表する内容について、今日すでにその書を見たが内容は次の通りであった。
讃岐院(崇徳上皇)について
① 白峰の御墓所を詔勅で山陵として、その周辺の堀を整備して周辺からの穢れを防ぐ。御陵を守るための陵戸(専属墓守)を設ける。
②陰陽師と僧侶を現地(讃岐)に派遣して鎮魂させる。
③ 崇徳上皇の国忌を定めること。
④ 讃岐国白峰墓所に、一堂を建て法華三昧を行うこと
ここには、崇徳上皇と藤原頼長への具体的な朝廷の対応が挙げられています。4番目の国忌とは天皇や先帝、母等の命日を、政務を止めて仏事を行うこととした日のようです。朝廷では、この日に寺院において追善供養を行い、日程が重なる神事は延期されていました。 後鳥羽上皇から無視されていた崇徳上皇の霊を、以後は普通に扱おうとする内容です。

崇徳上皇白峰陵

ここで注目したいのが、崇徳院の墓所についての対応です。
1番目の項目に「讃岐国にある上皇の墓所を山陵と称させ、まわりに堀をめぐらしてけがれないようにし、御陵を守るための陵戸を設ける」とあります。ここからは、それまでは山陵には堀もなく、管理のための陵戸もなく、「一堂」もなかったことが分かります。崇徳上皇没後に造られた山陵は、現地の国司や在庁官人によって設計・築造されたもので、上皇の墓としての基準を満たすものではなかったことが裏付けられます。

崇徳上皇白峰陵3

治承元(1177)年に決定された山陵・廟所の建立計画は、朝延内で論議されたままで立ち消えになってしまします。それは、平清盛による後白河法皇の幽閉というクーデターのためです。これによって後白河院政は停止され、崇徳院怨霊対策も頓挫してしまいます。崇徳上皇怨霊対策が再度動き出し始めるのは、養和元(1181)年2月に、清盛が亡くなり源平合戦で平氏が都落ちした後のことになります。

先に決まっていた白峰山陵に附属の「一堂」を建設する計画は、14年後の建久三(1191)年になって再び動き始めます。
このころから後白河上皇は原因不明の病気に苦しめられるようになります。これも崇徳上皇の怨霊のしわざと考えたのでしょうか、停止されていた堂の建設計画が実現に向けて進み始めます。『玉葉』建久3年12月28の記事には「崇徳院讃岐国御影堂領に官符を給うべし」とあるので完成した仏堂は、「崇徳院讃岐国御影堂」と名付けられたことが分かります。
白峯寺古図 本堂への参道周辺
白峯山古図
 白峰寺蔵『白峯山古図』にも崇徳院陵の脇に「御影堂」が記されています。この御影堂には官符が給され維持経営されることになります。そして、京都春日河原に建立された崇徳院廟は、後に粟田官と名付けられると共に、白峰と同じ名前の崇徳院御影堂が付随して建てられます。後白河法皇は、建久3年3月13日に亡くなっています。
白峰寺に朝廷の手によって初めて建立されたお堂は、決して大きなものではありませんでした。
ところが「崇徳院讃岐国御影堂」と名付けられたお堂の威光は、年を経るに従って輝きを増していくのです。そらが崇徳院の御陵を供養・管理しているのは白峯寺であるという存在証明になります。また、歴代天皇の亡骸を埋納した墓所の内、畿内以外では唯一の地方にある御陵を守護する寺でもありました。「白峰寺=特別な寺=権威ある寺」という意識を、人々に広げていくことになります。これが白峰寺の中世における発展の基礎になったと研究者は考えているようです。
相模坊
白峰寺の天狗 相模坊
 しかし、それだけではありません。白峰は天狗の山として、天狗信仰の中心地でもあったのです。もし、崇徳上皇の怨霊が現れなければ、白峰の中世の繁栄があったかどうかは分かりません。崇徳上皇の怨霊が天狗化することで、天狗=山伏(修験者)となり、白峰寺は隆盛を向かえることになったのかもしれません。そうだとすると、それを企画したプランナーがいたことになります。

以上をまとめておくと
①白峰寺は、古代の山岳寺院として出発した。
②それは五色台を行場とする国分寺や根来寺などの山岳寺院のネットワークの拠点の一つとして整備された。
③古代の山岳寺院を担ったのは、密教系の修験者以外にも、熊野行者・高野聖・六十六などの廻国行者であった。白峰山は、彼らの活動拠点であった。
④崇徳上皇没後に、讃岐国府の在庁官人たちは山陵を白峰山に造ることにした。
⑤この山陵は、歴代天皇のものに比べると規格外に粗末な物で、これには後白河上皇や朝廷は関与しなかった。
⑥しかし、都で崇徳上皇の怨霊さわぎがおこると、対応策として追善慰霊が決定された。
⑦それが陵墓の整備・墓守設置・一堂建設などであった。
⑧こうして白峰寺は「崇徳院讃岐国御影堂」を持つ追善の寺として認識されるようになる。
⑨寄進された周辺荘園を寺領化し、経済的な基盤を整えた白峰寺は大寺院へと成長して行く。
⑩その担い手は、修験者たちであった。
白峯寺 讃岐国名勝図会(1853)
白峰寺 讃岐国名勝図会(1853年)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

1 白峰寺古図

かつて、第八十一番札所白峯寺の「白峯山古図」を見ながら、この寺の近世の変貌ぶりを追いかけたことがあります。それを最初に確認しておくと
①中世の白峰寺は「白峯衆徒21ヶ寺」の数多くの伽藍や塔が立ち並んでいた。
②そして、多くの院坊の連合体が白峰寺を形成していた。
③ところが元禄8年(1695)「末寺荒地書上」には、「白峯衆徒21ヶ寺、内18ヶ寺は退転」し、「寺地は山畠となる」と記されている。
④多くの伽藍や塔の姿は近世に初頭に姿を消し、3坊のみが存続した
⑤その中で、元禄以前には本堂の東側にあった洞林院が、現在地に降りてきて白峰寺の本坊となった。
以上からは「白峯衆徒21ヶ寺」は、近世最初に淘汰され、その中で洞林院が本坊として生き残ったということになります。その間に何が起こったのでしょうか。金毘羅さんの金光院のように、各院坊間の権力闘争が、ここでも起こったのでしょうか。

 そんな中で見つけたのが「松岡明子  白峯山古図―札所寺院の境内図 空海の足跡所収」という小文です。これをテキストに「白峰山古図」をもう一度眺めてみることにします。松岡氏は次のように述べています。
「境内図を見る際には、制作年代や作者だけでなく、何がどのように描かれているか(あるいは描かれていないか)を探り、景観年代や制作目的についても,意識しながら読み解くことが必要」

という立場から、この古図と向き合います。そして、次のように指摘します。

「白峰山や稚児ヶ嶽、松山津などの自然景の中に、白峯寺の伽藍と崇徳院御廟などのほか、周辺の寺社や村、参道も含めて描かれている。境内をみると、三重塔や洞林院、楽屋、別所、金堂、大門など今はない建物が数多く描かれる。
 一方で、江戸時代前期に初代高松藩主松平頼重の寄進で再建・建立された阿弥陀堂や客殿の姿はない。同じく頼重が造営した頓證寺殿の特徴的な建物も、「御本社」の名称で今とは異なる社殿が描かれている。」

 建物の名称や外観・配置などが、江戸時代前期のものと一致しないことから、この絵は、さらに時代を遡る中世の景観を描いたものとします。
 この図の箱には、永徳二年(1382)の火災以前のものを描いたものであるという墨書があります。
しかし、画面には、応永21年(1414)に後小松天皇から下された「頓證寺勅額」(重要文化財)を掲げる勅額門が描かれています。歴史的な整合性がなく、少し首を傾げざるえないところもあるようです。それだけに、この絵がいつの時代を描いたものなのかについての判断は慎重にならざるえないようです。つまり「作為」があるのです。

白峯寺古図 地名入り
白峰寺古図
 この絵の作者や描かれた時代については分かりませんが、研究者は次のように指摘します。
①懸崖や海岸線をデフォルメしながら複雑な地形を破綻なくまとめていること
②平板化せず奥行きのある構図や、樹木など細部の描き方、目ののった画絹が使われていること
①からは高い技量をもつ絵師の存在
②からは、制作時期は江戸時代前期と研究者は推察します。つまり、箱書きにあるように中世に書かれた物ではないということです。江戸時代になって、中世の様子を描いているということになります。

画中には人物が一人も描かれていません。
建物と自然景観が丁寧に描かれています。その結果、静かな落ち着きのある雰囲気が漂います。まるで、霊地の威厳を表す社寺曼荼羅のようです。
白峯寺古図 本堂への参道周辺
白峰山古図 拡大図

そういう視点でこの絵を眺めると、白峯寺の周辺には雲井御所、鼓岡、崇徳天皇と記された二か所の社殿(現在の高家神社・青海神社)のほか、松浦や綾川など崇徳院由来の地が全て描かれているのに気付きます。どうやらこの絵の作者が目指したものは、崇徳院ゆかりの霊跡に囲まれ、廟所と一体のとなった聖地としての白峯寺の姿であったようです。それは「白峯寺縁起」に「霊験かきつくしかたき」と記される白峰寺の往古の景観を、江戸時代になって復原的に描いたものと研究者は指摘します。

制作者の意図を、別の視点から探してみましょう。
白峰山一帯を俯瞰するように整然と描いた図は、一見すると記録に基づいて境内の様子を忠実に描いたように思えます。しかし、詳しく見ると、いくつかの作為(主張)があるようです。  例えば、中世の白峯寺には多くの子院があり、戦国期には21か寺あったと伝えられます。

白峯寺 四国遍礼霊場記2

『四国偏礼霊場記』白峰寺(1689年)

元禄2年(1689)に寂本が著した『四国偏礼霊場記』の挿図には、洞林院のほかに円福寺や一乗坊などが描かれ、江戸時代前期にも白峯寺に複数の子院があったことが分かります。

白峯寺古図 本堂と三重塔
白峰寺古図 (本堂周辺部の拡大)

ところが、中世の白峰山を描いたというこの絵に注記があるのは洞林院だけです。伽藍の間に見える数多くの屋根が見え、他の子院があるように見えます。しかし、洞林院との間に明らかな「格差」が付けられています。洞林院は戦国時代末期に一時衰退しますが、その後に再興したようです。その際に、同院の由緒を示すための文書などが作成されたと推測されます。そして慶長九年(1604)以降、洞林院が白峯寺において中心的な役割を担って行くようになったことが棟札から読み取れます。

  松岡氏が最初に述べていた
「何がどのように描かれているか(あるいは描かれていないか)を探り、景観年代や制作目的についても意識しながら読み解く」

という視点からすると、この絵は、
①山上にある他の子院を略して洞林院だけを描くことで、
②洞林院の由緒を目に見える形で伝え、寺中における優位性を示そうとする意図のもとに描かれた
ということになりそうです。さらに推察を加えるとすれば、そのような主張をする必要が洞林院にあった時期に制作されたと考えられます。そのような時期とは、いつだったのでしょうか? それは、別の機会にするとして・・先を急ぎます。
白峯寺古図 地名入り
白峰寺古図
もうひとつ注目したい所は、画面左端の北峰に描かれた馬頭院です。
馬頭院については、江戸時代後期の作とされる絵図に「馬頭院跡」と記されています。また、大正15年(1926)に写された「白峯寺開基由来帳」(鎌田共済会郷土博物館蔵)にも「破壊地」として馬頭院を「当寺末寺」とする記述がみえます。しかし、他の史料には載っていない寺院です。ところがこの絵の中には馬頭院は描かれています。馬頭院は、洞林院以外に描かれる唯一の子院です。しかも離れた地であるにも関わらず描き込まれています。そこには何らかの意図や目的があったはずです。それが何なのかは、今は分かりません。「馬頭院跡」という、忘れ去られたこの子院が、この絵図を読み解く手がかりとなる可能性があるのかもしれません。
最後に、四国遍路との関わりからこの絵を見てみましょう。
この古図には遍路が歩いたと思われる道の一部が次のように描かれています。

1 白峰寺古図2$pg
①画面中央下の高屋村から白峯寺に続く道
②本堂前から画面右上へと続く道(史跡「根香寺道」)
③神谷明神の背後に延びる道、
あくまでも白峯寺への参道として描かれたのでしょうが、中世や近世の遍路道の姿を伝える貴重な絵画史料となるようです。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

      
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白峯寺の境内には、崇徳院白峯御陵の御霊を廟として祀るために、後白河法王によって頓証寺が建立されていました。ここには、古くから皇室や武家が崇徳上皇の霊を慰めるため夥しい数の什器・宝物類が、寄進されてきました。永徳2年(1382)火災によって、大半は焼亡しましたが、それでもなお多くの宝物が幕末には残っていました。これは神仏習合の下では、白峯寺により守られてきました。それらの寺宝が、その神仏分離の嵐の中で、どのようになって行くのでしょうか?

siramine19讃岐國名勝図会:明治維新直前の景観
維新直前の白峰寺(讃岐国名勝図絵)
最初に白峰寺をめぐる年表を見ておきましょう
明治2年 明治天皇の命で、崇徳上皇霊を新に創建した京都白峯神宮に遷祀。
明治6年 白峯寺住職恵日が復飾し御陵陵掌に転じ、寺は無住化。
明治8年 白峯陵掌友安十郎、白峯寺堂宇の取払いを建議。
明治11年 寺は白峯神社と改称、金刀比羅宮の摂社となる。
明治31年 仏寺に復する。頓証寺は白峯寺に返還される。
崇徳上皇陵

  明治元年(1868)三月に新政府によって出された神仏分離令については、讃岐の神仏混淆の各寺院は、何が起きているのか分からず、当初は模様眺めであったようです。金毘羅大権現社のように、別当自らが京都にのぼって打開策を探ると云うのは特異な行動でした。模様眺めの白峰寺にとって寝耳に水のような知らせが届きます。
新政府の神祇科は、御陵を宮内省の管轄に移し、御霊を京都へ移すというのです。

崇徳上皇
崇徳上皇
 京都の今出川通りの西に廟を造営して、崇徳上皇の御霊はここに祀るというのです。これは、白峰陵の御霊を京都の新しい神社に移すということです。
   崇徳上皇の御霊代(みたましろ)である御真影と愛用の笙(しょう)を頓証寺から受け取るために京都から勅使がやってきて「奉還」されることになります。しかし、白峰寺は何も出来ません。やってきた勅使が御霊を抜き、御像を移す儀式を、僧侶である白峰寺の住職は見守るしかなかったようです。事前に遷還に奉仕したいと願いも許されませんでした。こうして勅使を載せた御用船が、坂出港から京に向かって出航したのは、明治元年8月28日のことでした。

京都の崇徳天皇廟
           京都の崇徳天皇廳 

約七百年余にわたって崇拝の対象となっていた崇徳上皇の御霊がなくなるということは、白峰寺にとっては精神的に大きなダメージになりました。
  さらに追い打ちをかけるように明治4年には寺領上知令が出されます。
これにより境内以外の寺領は国家に没収されることになります。これは、中世以来の朱印地を全て失う事でした。この間に、脇坊の僧侶の中には寺を廃寺として、寺院の土地、建物を私有化する者も現れます。財政基盤をなくし、白峰寺の将来を考えたのか当時の白峯寺住職・恵日は、明治6年10月に還俗して、隣の崇徳天皇白峯御陵の陵掌に転身します。僧侶から神職になったのです。このため白峰寺は住職がいない無住寺院となります。明治5年の太政官布告234号で「無檀家・無住寺院は廃寺」の通達が出ていましたので、主をなくした白峰寺は廃寺となってしまいます。

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頓証寺

  四国巡礼の札所がこんなありさまになったのを、なげき立ち上がったのは講中、信徒たちです。彼らは明治8年7月、白峯寺住職選定の願いを阿野郡大区長片山高義あてに出します。これに対して大区長はすぐに名東県令(当時は愛媛と合併)古賀定雄に取りつなぎます。当時は、廃寺になった各地の札所からの復興要望が出されていたようです。また、中央政府も神仏分離の行き過ぎを修正し、廃寺になった寺院に対する救済策がとられるようになっていたために直ちに聞き届けられます。その結果、明治11年には牟礼・洲崎寺の橘渓導が住職として、無住となっていた白峰寺に入ります。
 神霊奉還後の頓証寺を見ておきましょう。
中央に崇徳上皇宸筆とされる「南無阿弥陀仏」の六字名号を御霊代として安置されていました。これは、流石に京都からやってきた勅使も持って行かなかったようです。

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       頓証寺の中央に奉られる崇徳天皇

頓証寺には、中央に崇徳天皇、向かって右側に十一面観世音菩薩、右側に山ノ神相模坊(天狗)を祀っが祀られていました。この姿は神社ではなく、仏舎であったことを物語っています。御陵は宮内省に属して、白峯寺の管轄を離れ、陵掌の守るところとなっていました。が、頓証寺は寺号であったので、白峯寺の一部として依然その管轄下にあったのです。

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左に(白峰)相模大権現(白峰の天狗)
ところが、第三の災難が白峰寺にふりかかってきます。
明治11年、金刀比羅宮の禰宜松岡調から頓証寺を神社して、金刀比羅宮の摂社とするが願い出られたのです。これに対して、県や国の担当者は、白峯寺への現地調査も聞き取りも行わずに、机上で頓証寺を金刀比羅宮へ引き渡すことを認めてしまいます。この時から頓証寺は白峯神社と呼ばれる事になります。つまり頓証寺という崇徳天皇廟の仏閣がたちまちに神社に「変身」してしまったのです。ある意味では、これは金刀比羅宮の「乗っ取り」といえます。

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頓証寺の相模(白峰)大権現(天狗)
こうして頓証寺は金刀比羅宮の摂社とされ、白峯寺から「所有権」が金刀比羅宮に移ってしまいました。
これが明治11年4月13日のことです。この時に白峯寺の宝物は、上下二棟の倉庫に納められていました。上の倉には准勅封として帝に関する宝物を納め、さらに下の倉には白峯寺に関するものが納められていました。上の倉は、頓証寺を摂社化した金刀比羅宮が引き継ぐことになります。そして、残りが寺側の所有となったのです。これは、現代風に云えば「資産乗っ取り」と云えます。

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崇徳上皇白峰御陵
  なぜこのようなことを県や国担当者は許したのでしょうか。
担当者が事情に通じてなくて、軽はずみに判断したためとも云われます。しかし、私にはそれをすんなりと信じる事は出来ません。なぜなら、この時期の金刀比羅宮の禰宜職は松岡調なのです。彼が讃岐の神仏分離の立役者であったことは、以前触れましたので省きます。松岡貢と白峰寺の接点としては次の点があげられます。
①松岡調が若いころの1850年代に「讃岐国名勝図絵」の挿絵を担当し、白峰寺も描いていること。
②明治の神仏分離の際には、「神社取調」調査の担当者として、白峰寺を担当していること
以上から、白峰寺と頓
頓寺の事情と頓証寺が保管する「宝物」は周知していたはずです。そして当時の彼は讃岐神道界のリーダー的な存在として発言権を高めていました。同時の彼が禰宜を務める金刀比羅宮は、香川の神道界の中心的な立場にもありました。彼の手回しで「頓証寺の白峯神社化と摂社化が進められ、宝物は金刀比羅宮のものとするという手順」案が作成されたと私は考えています。そして、当局への根回しも行われていたのではないでしょうか。

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白峯御陵への階段
 当時の松岡調の提言は、おそらく次のようなものだったでしょう。

崇徳上皇は讃岐の地に移られてから親しく琴平の宮に参籠されおり、ここには「古籠所」・「御所の屋」という上皇ゆかりの旧跡も残っている。そのようないきさつから、琴平の宮では古くから上皇の御霊をひそかにお祀りしてきた。頓証寺に祀られていた上皇の御霊が京都に還った以上、頓証寺は抜け殻になってしまったのだから琴平の宮が上皇を祀る讃岐の中心でなければならない、

というようなものだったのではないでしょうか。
この結果、頓証寺が長年にわたって皇室や武家から寄進を受けてきた什器・宝物類が金刀比羅宮に移されることになったのです。同時に金刀比羅宮では崇徳上皇が祭神として祀られるようになります。

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白峰御陵

廃仏毀釈の嵐が弱まると、白峯寺の渓導住職や信徒らは、頓証寺の復興計画を立てます。
そして、白峰神社(旧頓証寺)の返還を金刀比羅宮に求めるようになります。こうして、金刀比羅宮への反撃が始まったのです。しかし、協議では解決できないと見るや、金刀比羅宮を訴訟します。その言い分は、次の通りです。

白峯寺と頓証寺は、金刀比羅宮と歴史的に何の関係もない。にもかかわらず、金刀比羅宮が頓証寺を自社の末社として古くから頓証寺に伝わる宝物まで占有管理しているのはおかしい、


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白峰御陵

 明治17年に裁判所は、白峯寺勝訴の判断を下します。
その後も、いろいろなやりとりが金刀比羅宮との間で行われますが、明治28年に松岡調が大陸における布教事件で失脚して後の明治31年9月に、県の命令で、白峯神社は白峰寺に返還されることになります。こうして金刀比羅宮から境内・建物の返還を受け、頓証寺として元の仏堂にもどすことができたのです。
 このため金刀比羅宮には祭神とした崇徳上皇を祀る神社がなくなってしまいました。そこで、本社から奥社への参道沿いの現在地に「白峯神社」が「創建」されたようです。

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「崇徳上皇陵」ではなく「白峰陵」

 しかし、20年ぶりに金刀比羅宮から頓証寺は変換されましたが、問題は残りました。金刀比羅宮は、摂社とした頓証寺から多くの宝物を持ち去っていました。その宝物の変換を白峰寺は要求します
白峯寺の言い分は、
歴史的経緯からいってすべて頓証寺に返還するのが当然だということです。

一方の金刀比羅宮の言い分は、
明治11年から20年間頓証寺が白峯神社として金刀比羅宮の末社であったことは政府の命令に基づき行われたことであって、すべての宝物を返還する理由は無い

ということのようです。
 結局、この問題は最終決着がつきませんでした。その結果、頓証寺から金刀比羅宮に移された宝物の多くが金比羅宮に残されたのです。その代表例が下の重要文化財の絵巻物「なよ竹物語」です。

images (1)

 昭和40年にもこの問題がぶり返し、地元の青年団から金刀比羅宮に対して、宝物返還の嘆願が出されています。どちらの言い分が正しいかどうかは別として、歴史的な経緯は後世に正しく伝えていく必要があるというのが歴史家の考えのようです。

なよ竹物語
 
 最後に明治の神仏分離政策が白峰寺に与えたダメージは
1 天皇家によって崇徳上皇の御霊を京都へ移され
2 明治政府によって土地財産を奪われ
3 その結果、お寺は一時的にせよ廃寺となり
4 さらに金刀比羅宮によって頓証寺の摂社化と、その宝物の「横取り」された。
5 その復活・復興に30年を要したということになるようです。

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白峯寺 白峯寺古図(地名入り)
白峰寺古図 中世の白峰寺周辺 江戸時代になって描かれたもの 
「どこの霊場かわかるな?」
と聞かれて、この図絵を初めて見せられ時に、私は戸惑いました。ヒントをあげるわ、讃岐の霊場や」と云われて、ますます分からなくなりました。
まず、青い水面が海とすれば、直立した岩壁の上に伽藍があります。そして、その伽藍から瀧が直接に海に落ち込んでいるようにもみえます。さらに、丸い聖なる甘南備山の下にいくつもの建築物が並び、山上には2つの塔も見えます。海と岩壁と山上の伽藍と云えば屋島寺かな、とも思いましたが、山上のドーム型の山の姿が屋島ではありません。
 瀧があるので・・・これが稚児の瀧なら・・??白峰寺・・?
「よう分かったな。これが中世の白峰寺の姿や
しかし、すんなりと受けいれることができませんでした。私の中にある白峰の姿とは、遠く離れているからです。ひとつひとつ疑問を挙げていきながら、師匠に教わったことを記していきます。
Q1稚児の瀧の下にあるのが青海神社とすれば、青海の部落はこの時代には海の中にあったということになり不自然でしょう?
A1昔の絵図に、デフォルメはつきもの。手前の半島の先端が高屋の雌・雄山でその向こうが松山の津と見てみ。湾が深くまで入り込んでいるのが「青海」や。これが近世に開拓されて青海村が生まれる。
Q2 そしたら、手前の青い帯は綾川ですか。白峰の下の谷にも塔が見えますが、こんな所にお寺があったんですか?
A2 これは神谷神社や。神も仏も一緒やった時代には、神社に神宮寺がくついて、その塔があっても別に変ではないからな。それと、白峰寺の中の一部のように描かれているので、神谷神社は中世には白峰寺と強い関係があったとは考えられるわな。
Q3 山上に建物がたくさん見えます。三重塔も左右にふたつありますが、こんなに多くの建物が中世にはあったんですか?
A3 あったと主張するために描かれたのかもしれんわなあ。しかし、考古学的な調査からも白峰寺にはいくつもの院坊があったことがわかる。
      
 
白峯寺境内建物分布図
  白峰寺境内測量図 多くの子院跡があったことが分かる          

見放された私は、絵図をもう一度見ながら山上の部分にズームインしてみます。

白峯寺古図 本堂への参道周辺
        白峰寺古図(山上拡大図)

右下の中門を入るとここに白峰寺の金堂があります。境内の中に白い十三重の石塔が二つ並んで建っているようです。これが重文の東西2つの十三重塔でしょうか。その背後には、建物が何棟も見えます。この付近にも子院があったようです。さらに進むと谷川が流れています。これが稚児川です。この川はここからすぐ下で滝となって断崖を落ちていきます。それが稚児の滝で、周辺は昔から修験者の行場でした。その周辺に修験者がたちがお堂を開き、いくつもの寺院へと成長したことがうかがえます。

 稚児川にかかるアーチ状の木橋を渡ると左手に「御本社」と記された寺院があります。これが崇徳上皇陵(白峯陵・保元の乱で配流)を守るための廟堂として中世に建立された頓証寺のようです。こう見ると橋の位置は現在とは違っています。参道を真っ直ぐに登っていくと本堂です。そして、その左奥に三重塔。右手には三王七社が祀られています。まさに神仏混淆のお山です。そして、背後の白峰山には権現が祀られています。ここでは、この山が崇徳上皇慰霊の聖地であると同時に、修験道の聖地であったことを押さえておきます。白峰大権現のことを少し見ておきます。

相模坊
「相模坊(さがんぼう:白峰大権現)」 

白峰山には
「相模坊(さがんぼう)」という天狗が住んでいるという伝承があります。
上田秋成は、この天狗を崇徳院に仕えるものとして雨月物語に登場させています。崇徳院の霊を慰め鎮守するため讃岐の地へやって来て“白峯相模坊”となったというのです。

白峯寺 雨月物語
 雨月物語の中の白峯相模坊

日本の各地には色々な天狗伝承が伝わっていますが、その中でも白峯相模坊は有名で、
相模大山の伯耆坊(神奈川)
飯縄山飯綱の三郎(長野)
比良山次郎坊(滋賀)
愛宕山太郎坊(京都)
鞍馬山僧正坊(京都)
大峰山前鬼坊(奈良)
英彦山豊前坊(福岡)
とともに、日本八大天狗の一に数えられていました。天狗=修験者ですから、この地が修験者たち聖地で、数多くの山伏が周辺の辺路ルートで修行を行っていたのでしょう。

白峰大権現
白峰寺頓証寺の白峰大権現のお札
 
 いまは山の神は相模坊という天狗だといって、相模坊天狗をまつっています。
これが奥の院でしょう。相模坊という天狗は、山の神様でもあります。それと恨みを抱いて魔縁になった崇徳上皇とが、いつしか一つになったようです。謡曲でも相模坊と崇徳上皇を別にしたり一緒にしたりしています。山伏達はこんな「創作物語」が大好きです。天狗の話になると、脇道に話がそれてしまいます。もとの道に戻りましょう。

白峯寺古図 本堂と三重塔
                白峰寺古図(拡大図) 白峰大権現と本堂
本堂からは右に路が続いています。これは、かつては根香寺へと続く遍路道でもあったようです。そして、本坊の洞林院は中世には、本堂の東側にあったことが分かります。

中世の白峰寺がなぜ、これほどの伽藍を形成できたのでしょうか? 
1191年(建久2)に崇徳上皇陵の祟りをおそれて慰霊のために御影堂が建立されます。以後、白峰寺は御影堂(=頓証寺)を新たな信仰の場として、そこに寄せられた近在の所領を経済基盤として、中世的な転換を行っていきます。それを中世から近世の寄進関係を一覧表にすると・・
・建永2年(1207) 法然上人松山巡る 
・治承年間(1177-1180)高倉天皇 青梅・河内村を寺領として寄進
・寿永3年(1184) 後白河法皇 青梅・河内の庄を寄進
・元歴2年(1185) 源頼朝 備中妹尾郷を寄進
・文治2年(1186) 後鳥羽院 丹波国粟村庄、豊前福岡庄を寄進、
         源頼朝讃岐国北山本庄を寄進
・文地4年(1188)  後鳥羽院 崇徳院25回忌を奉修 
                       頼朝:備前福岡庄を寄進
・建久2年(1191)  後白河法皇 頓証寺の建立
・寛喜3年(1231)  土御門院 法華経を奉納
・建長4年(1252)  後嵯峨院 法華経を奉納 松山郷を寄進
・建長6年(1254)  後嵯峨院 西山本新庄(阿野郡山本郷)、津郷、寄進 
・康元元年(1265) 後嵯峨院 北山本新庄(阿野郡山本郷)を寄進
・文永4年(1267)  頓証寺灯篭を建立
・應永21年(1414)  後小松帝 御真筆「頓証寺」の扁額を勅納
・長禄3年(1459)  後花園院 崇徳院御領神役を定める
・天正15年(1587)  生駒雅楽頭近規 白峯寺へ寺領50石寄進
・慶長4年(1599)  生駒近規 本堂再建
・寛永8年(1631)  生駒高俊 白峯寺の真宝目録を作成
・寛永12年(1643)  松平頼重 頓証寺殿を復興
・万治4年(1661)  松平頼重 阿弥陀堂に供養料
・寛文3年(1663)  崇徳天皇500回忌 
・延宝8年(1680)  松平頼重 頓証寺殿、勅額門の再建、
・元禄2年(1689)  松平頼重 石灯籠2基を頓証寺殿に奉献
・宝暦13年(1763)  崇徳天皇600回忌
・安永8年(1779)  松平頼真 白峯寺行者堂を再建
・文化8年(1811)  松平頼儀 大師堂を再建
・文久3年(1863)  崇徳天皇700回忌 
・慶應2年(1865)  松平頼聰 石灯篭2基御廟前に奉献
また、土地関係の寄進は次のようになります
1177年 高倉天皇、西山本郷、福江、御供所を寄進 
1190  源頼朝 稲税を収める
      土御門天皇勅額書と以降毎年下向使の儀
1244  後嵯峨天皇、荘園(西庄)寄進
天正年間  生駒正親 四石五斗年を西庄村と摩尼珠院に寄進。
  京から神官、僧侶を招請し学問、文学、芸能、医薬を施行
初代高松藩主の松平頼重「当山は、旧地といい、かつ、天皇御鎮座所なれば敬い住職たるべし」として京都から中興寺宥詮阿闍梨を召く。
1642  松平頼重、摩尼珠院へ四石五斗寄進
1701  松平頼常、摩尼珠院へ四石五斗寄進
1865  孝明天皇、御撫物を供え
 菅原道真と同じように、崇徳上皇は、早いうちから怨霊と化したことが京都の貴族たちの間で信じられていました。西行の来讃もその霊を鎮めることが目的の一つと言われます。このため御影堂=頓証寺の建設と整備は、京都の貴族たちの肝入りで行われます。その結果、京都の影響を受けてた石造物や舞台道具が白峰寺周辺には残っています。このお寺の伽藍や寄進物には「都貴族による崇徳慰霊」という成立事情が反映されているようです。

  
白峯寺 四国遍礼霊場記2

元禄2年(1689)四国遍礼霊場記の白峰寺
この絵図は、四国遍礼霊場記に描かれた白峯寺です。高松松平藩の保護下に、山内には多くの脇坊があり、諸堂が立ち並び、近世はじめの伽藍と変わりないように見えます。しかし、二つの三重塔は見当たりません。そして「塔跡」と記されています。近世初頭にあった三重塔はこの時にはなくなっていたようです。崇徳上皇をまつる「頓証寺」は周りに玉垣(?)がめぐらされて神社化しているようです。
 幕末にはどうなるのでしょうか? 四国遍礼名所図会(1800年)から見ていくことにします

白峯寺絵図 四国遍礼名所図会
白峰寺(四国遍礼名所図会 1800年)
この図会から読み取れることを、あげておくと
①稚児川に架かっている橋は、洞林院(本坊)の西側に移されている
②本堂への参拝ルートは 「洞林院 → 頓証寺 → 本堂」となっている。
③現在は本堂の東側にある太師堂は姿がない。 

幕末の弘化4年(1847)に出された金毘羅参詣名所圖會には、次の三枚の白峰寺関係の絵図が載せられています。
 
siramine16 金毘羅参詣名所圖會1(白峯山大門)
絵図④ 白峯山大門(金毘羅参詣名所圖會)
1枚目には、白峰寺の大門に至る2つの遍路道が記されています。
①左側 高屋村の天王社(高屋神社)
②右側 神谷村の神谷神社から大門に至る遍路道が描かれてます。
 今は②のルートは忘れ去られていますが、このルートがあったことを押さえておきます。

白峯寺 金毘羅参詣名所図会(1847)3
本坊洞林院
2枚目です。先ほどの白峰寺古図では、本堂の東側にあった洞林院が、現在地に降りてきて本坊となっている姿が描かれます。洞林院が中世末から近世初頭に、山上での主導権を握り「本坊」と呼ばれるようになったことがわかります。
siramine18 金毘羅参詣名所圖會3(白峯本堂・崇徳天皇御廟)
          図⑥ 白峯本堂・崇徳天皇御廟 
そして3枚目です。左下に崇徳上皇陵領が描かれ、その下に「上皇本社(頓証寺)」が神社として鎮座しています。参道は、上に向かって真っ直ぐと伸びていて、白峰寺の本堂が迎えてくれます。その東側に並ぶのは大子堂のようです。霊場としての伽藍整備も整っているようですが、近世初頭に見えた多くの伽藍や塔の姿はありません。その姿は大きく変わっています。元禄8年(1695)「末寺荒地書上」には、白峯衆徒21ヶ寺で、内18ヶ寺は退転し、寺地は山畠となると記されています。この間に白峰寺では、大きな変動があったようです。

白峯寺 讃岐国名勝図会(1853)

白峰寺(讃岐國名勝図会)
  そしてこれが「讃岐國名勝図会」に描かれた明治維新直前の白峰寺の姿です。
最初に見た江戸初期の絵図と見比べてみると、印象が大きく違います。現在の姿に近いのです。それは山上の本堂から東に、お堂や塔が伸びていたのがなくなり、根香寺へつながる遍路道も消えています。本堂に御参りすると再び同じ参道を帰って来ないと根香寺には行けなくなっています。
 改めて江戸時代初期の伽藍配置と参道を見てみましょう。
siramine16_11

ピンクのルートが江戸初期の遍路道です。一番左の本堂前からスタートします。このルート沿いには、金堂の洞林寺を始め、多くの坊や諸堂が立ち並んでいたことが分かります。しかし、今は自然に帰りその跡も分からない所が増えました。このピンクの道は、行場であった奥の院を抜けて、根香寺につながっていました。それが、幕末には現在の緑ルートになっていたようです。

siramine44 白峯山境内実測図
白峰寺に明治の神仏分離の風は、どのように吹いたのでしょうか。
讃岐の寺院の中でもっとも「影響=被害」を受けたのは、白峰寺だと云われます。
白峯寺の境内の頓証寺は、後白河法皇が崇徳上皇の霊を祀るため平安末期に建立したものです。これは神仏混淆の下では白峯寺の僧侶たちによって管理されてきました。そして、古くから皇室や武家が崇徳上皇の霊を慰めるため夥しい数の什器・宝物類が、ここに寄進されてきたことは先述した通りです。永徳2年(1382)火災によって、大半は焼亡しましたが、それでもなお多くの宝物が幕末には残っていました。それらの寺宝が、その神仏分離の嵐の中で、どのようになって行くのかを次回は見ていきたいと思います。
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 白峰寺は、智証大師の旧跡だとされています。

 智証大師は弘法大師の甥ですが、天台の密教を始めました。
弘法大師と同じような業績、あるいは思想をもっていた人ですから、辺路修行もしたとおもわれます。讃岐には智証大師の旧跡だという伝承をもった寺として、金倉寺、道隆寺、白峯寺、根香寺があります。一応、弘法大師を立てていても、実際には智証大師がすべてやったという縁起になっています。

 白峯寺は谷を寺地にしています。
山門は非常に高いところにあって階段を下りてから本堂のあるところに上がっていきますから、水の信仰がありました。そこで、大和の室生寺あるいは高野山と同じように弘法大師が如意宝珠を埋めたので、水が湧きだすようになったという伝承が生まれます。白峯寺も弘法大師が宝珠を埋めたということをまずうたっています。

 が、のちに智証大師がこの山の山上の瑞光を見た、山の神に導かれてこの山に寺を開いたと伝えています。したがって、山の上で光が輝いたこと、あるいは火を焚いて海岸から見えるようにしたことがわかります。
 白峯寺には、もう一つ、瀬戸内海の海上に光を放つ流木があったので、それを引き上げて千手観音を刻んで本尊としたという話があります。流木を上げたという伝承の場所が、白峯寺の海の辺路のほうの霊場です。そこが奥の院といわれています。

 いまは山の神は相模坊という天狗だといって、相模坊天狗をまつっています。それが奥の院であることは明らかです。
 相模坊という天狗は山の神様です。
それと恨みを抱いて魔縁になった崇徳上皇とが一つになりました。
謡曲でも相模坊と崇徳上皇を別にしたり一緒にしたりしています。
1191年(建久2)に崇徳上皇陵の傍らに建てられた御影堂が建立されます。
以後、白峰寺は御影堂を新たな信仰の場として、そこに寄せられた近在の所領を経済基盤として、中世的な転換を行っていきます。
 崇徳上皇は、没後の早いうちから怨霊と化したことが京都の貴族たちの間で信じられていました。西行の来讃もその霊を鎮めることが目的の一つと言われます。このため御影堂=頓証寺の建設と整備は、京都の貴族たちの肝入りで行われます。
その結果、京都の影響を受けているものが白峰寺の周辺には次のように残ります。
①白峯寺境内と周辺に13世紀の花崗岩製で畿内的な形をした石塔が集中すること。
②白峯寺・青海神社・神谷神社などの高屋・松山郷に13~14世紀の畿内的な舞楽面や木鉾・鼓などの舞台道具が残っていること
①石塔は、西大寺に所属していた伊派の石工が地方で活動を始めるのよりも早い時期の作品です。そこには真言律宗の勧進とは異なる頓証寺=京都貴族による崇徳慰霊という成立事情が反映されていると見てよいでしょう。

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