瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:白峰寺古図

坂出市の文化財保護協会の神谷神社見学会の後で、お話ししたことをアップしておきます。

中世の神谷神社1

白峯寺にある白峰寺古図です。白峰寺の中世の様子を江戸時代になって、洞林院が描かせたものとされています。そのため栄華が誇張されていて、事実を伝えるものではないと思われてきました。その評価大きく変わったのは最近のことです。発掘調査が行われた結果、三重塔が描かれている本堂横と別所跡から塔跡が出てきたのです。いまでは、ここに書かれている建物群は実際にあったのではないかと研究者は考えるようになっています。中世の神谷明神が置かれた環境を、この絵図から情報が読み取りながら見ていきたいと思います。最初に全体的な絵解きをしておきます。神谷神社がどこにあるか分かりますか?。

中世の白峰寺古図

 雌山・雄山・青海の奥まで海が入り込んでいたこと  海からそそり立つのが白峰山 そこから稚児の瀧が流れ落ちる。断崖の上に展開する伽藍が霊山としてデフォルメされています。①まず注目したいのは、白峯山です。ここには権現とあります。修験者たちが開いた霊山が権現と呼ばれます。②ここに別所があります。奥の院への入口あたりです。別所は、修験者や聖・僧兵たちの拠点となったところです。③ここが崇徳上皇陵です。中世には修験者の天狗信仰と結びつきます。④本堂と別所の間に、洞林院があります。それ以外にも多くの子院が描かれています。中世の白峰寺というのは、このような子院の連合体で運営されていました。④注目したいのは三重塔が3つ描かれています。神谷神社にも三重塔が描かれています。比叡山で云えば山上の大伽藍に対して、麓にいくつもの里の宗教施設をもっていました。中世の神谷明神も、白峰寺勢力を取り巻くサテライト寺院のひとつであったことを押さえておきます。見方を変えて云えば、ここに描かれている範囲が白峰寺の宗教的テリトリーであったとも考えられます。
神谷神社を拡大して見ていくことにします。

白峰寺古図の神谷明神
 
ここに「神谷明神」と書かれています。ここからは白峰寺の大門(現在の展望台)に向けて道が伸びています。神谷明神は白峰寺への入口でもあったことが分かります。
神谷の谷にいくつかの建物が描かれています。
①が一番奥の三重塔です。白峰寺の本堂横・別所にも三重塔は描かれていました。その存在が発掘調査で確かめれています。とすれば、ここにも三重塔があった可能性が高いと研究者は考えています。②が本堂でしょうか。しかし、妻入り社殿のようにも見えます。③が僧坊のようです。どちらにしても、ここからは中世には清瀧寺という神宮寺(別当寺)が神谷明神を管理していたという言い伝えが裏付けられます。ここで注目したいのが④の随身門です。これが随身門なら随身様がここにはいたはずです。
宝物庫には鎌倉時代作とされる随身立像があります。それを見ておきましょう。

P1280498

宝物庫前の随身像の説明版
神谷神社の随身さん

神谷神社の宝物庫の随身立像です。
 鎌倉時代中期の13世紀の作品とされ、全国でも記銘がある中では二番目に古い随身さんです。それを裏付けるかのように、次のような古風な要素を持ちます。
① 床几に坐る形式の随身像が多いが、立っている。
② 両手の肘を張つて手を前に出す姿勢はきわめてめずらしい。様式化される前のタイプ。
③ かたいケヤキ材を用い、頭部を頸のあたりで輪切りにし、襟にみられる棚状の矧ぎ面にのせて寄本造りの形をとっている。
④ これと同じ造りの随身さんが高屋神社にもある。
ここからは、随身さんや仏像などの職人集団が白峰寺の周辺にはいた可能性もうかがえます。また、この随身立像は、先ほどの絵図に描かれていた随身門に納められていたものかもしれません。また鎌倉時代の作とされる木造狛犬1対もあります。こうして見ると本堂が姿を現した13世紀初頭以後に、神谷明神が整備されていったことがうかがえます。この随身様の他にも、別当寺青竜寺の本尊とされる仏さまが伝わっています。

青竜寺本尊 阿弥陀如来立像

現在の青龍(立)の本尊「木造阿弥陀如来立像」(県文化)です。
ヒノキの寄木造、像高99cmで、胸部内側に墨書銘があって、「1270(文永7)年に僧長円が両親の極楽往生を願って造立した」とあります。とすると神谷神社本社が建立されて、約半世紀後の造られた阿弥陀仏になります。「讃岐国名勝図会」には、上図のように記します。これによるともともとは、神谷神社(五社明神)の別当寺清龍寺の本尊であったたものが、中世に寺が退転した後、現在地に下りて青竜寺の本尊として迎えられたようです。中世の別当寺の本尊が阿弥陀如来であったというのは興味深いところです。ここからはこの寺が阿弥陀浄土信仰の拠点として、高野聖などの念仏聖たちがいたことがうかがえます。
神谷神社には、中世の舞楽面が2つ伝えられています。

P1280499


神谷神社の舞楽面
神谷神社の舞楽面
 ひとつは抜頭面で、父親をかみ殺した猛獣と格闘し、勝利して喜ぶ様を演じた舞に使用されたものです。もうひとつは還城楽面(げんじょうらく)で、西域の胡人の姿に扮して朱の仮面をつけ、桴(ばち)を持ち、捕らえた蛇を食うさまを模した舞に使われるものです。ちなみに、讃岐で舞踊が奉納されていた記録が残るのは、善通寺と観音寺だけです。これらに比べると、各段に小規模な神谷明神に舞楽面が残されていることをどう考えればいいのでしょうか?
 それを解くヒントは、神谷集落に残る額(楽)屋敷という地名です。楽屋敷は、白峯寺の楽人が住居していたという伝承があります。ここからは神谷集落の舞楽集団は、白峯寺の「楽所」として、白峯寺に舞楽を奉納していたことが考えられます。そうだとすればここからも、神谷明神と白峯寺との関係の深さが見えて来ます。

神谷神社には、香西氏が「法楽連歌会」を神前で開いて奉納した記録があります。

神谷神社の香西氏連歌会

「神谷神社法楽連歌一巻」(神谷神社蔵)は、明応5年(1496)2月22日に神谷神社法楽を目的として巻かれたものです。時代は応仁の乱の後の15世紀末で、この時期の香西氏は、管領細川政元の右腕として栄華の絶頂期にあった頃です。香西氏が率いる讃岐武士達が京都の政治動向を左右していたのです。
作者の香西元資は細川勝元の家臣で、香西氏一族や神谷神社近隣の在地武士とその愛童や神官・僧侶たちに勧進して法楽連歌が行われたようです。連衆として、宗堅、宗高、元家、元親、祐宗、元門、宗清、宗勝、重任、増吉、歳楠丸、増林、増認、貞継、有通、盛興、元資、宗元、宗秀、宗春、元隆、幸聟丸、元治、寅代、師匠丸、石王丸、土用丸、鍋丸、惣代の29名の名が見えます。ここには東讃守護代で、連歌に熱心であった安富元家・元治も参席しています。
 神谷神社神前で開いた連歌会には、香西氏一族だけでなく、守護代の安富氏や有力武士や社僧・神官など29人が参加しています。明智光秀が本能寺の信長を襲う前にも連歌会を開いて、身内の団結と戦勝を願っています。 法楽連歌は、歌の内容如何にかかわらず、神仏に対する祈願を籠め、参加者の統合を保証するものでした。地縁・血縁等で結ばれた領主の連合=国人一揆は、公方や守護の圧力に対抗するために開かれたりもします。 
室町時代には連歌は武士の必須教養とされるようになります。
複数の者が集まって長時間詠むことで、集団の結束を図るのに都合の良い文芸で、コミュニテイ形成のツールでした。円滑な社会秩序の安定には価値観や情報の共有を図ることが不可欠です。連歌会は参加者同士の新たな人間関係を生み出します。連帯感や同じ価値観を共有する集団に属することを認識・確認し合う場でもありました。また、連歌は祈りを込められて詠まれる場合が多く、追悼・追善の連歌や法楽連歌、戦勝祈願の連歌も少なくなく、これらの連歌会への参加は名誉なこととされました。この連歌会を運営するにはプロの連歌師を京から呼ぶ必要がありますた。在京が長かった香西氏や安富氏に招かれて来讃する連歌師・猿楽師等がいたようです。彼らが逗留し活動拠点になったのが白峰寺だったのかもしれません。

連歌会を行うのは、自分が保護し、伽藍を整備した寺社が選ばれます。そういう意味からすると、神谷神社が香西氏の勢力下にあり、保護を受けていたことがうかがえます。また神谷明神は、讃岐武士団の団結を誓う場として機能していたことになります。それだけの規模設備があったのでしょう。香西氏は、一族や有力国衆を神谷神社の法楽連歌会に結集して、政治的・宗教的な人的ネットワークをより強固なものにしていたことを押さえておきます。

もうひとつ、神谷神社に残る中世的要素を見ておきましょう。鎌倉時代後期の層塔です。
神谷神社の層塔
           神谷神社の層塔と白峰寺十三重石塔
玄武岩ではなく凝灰岩の層塔なので、天霧産と思われます。これも別当寺の青竜寺に寄進されたのものでしょう。白峰寺十三石塔とよく似ています。もともとは十三重の塔だったのかも知れません。層塔を布教拡大のモニュメントとして使ったのが奈良の西大寺です。西大寺は天皇より各国の国分寺の再興を命じられ、瀬戸内海で活発な活動を展開します。讃岐国分寺再興や白峰寺に十三重塔が姿を現すのと同じ時期になります。これは律宗勢力伸張の痕跡とされます。そのような動きの中で、建立されたのがこの層塔ではないかと私は考えています。石造物にも、白峰寺のサテライト的な性格が見られることをここでは押さえておきます。
以上、中世の神谷明神を取り巻く環境をまとめておくと次の通りです。

中世の神谷明神と別当青竜寺

次回は近世の神谷神社について見ていきたいと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史   坂出市史 中世編 神谷神社の立地と沿革  206P
関連記事


 白峯寺古図は寺伝では、江戸初期に南北朝末年の永徳二(1283)年に焼亡した白峯寺を回顧して、往時の寺観を描いたものとされています。以前にはこの古図で白峯寺伽藍内を見ました。今回は白峯寺の周辺部や荘園を見ていくことにします。テキストは「坂出市史 中世」です。

白峯寺古図 周辺天皇社
白峯山古図
『白峯山古図』には、③稚児ケ瀧の上に①白峯陵や白峰寺の数多くの堂舎が描かれています。本社の右に勅使門があり、そこを出て白峯寺へ向かう道の脇に②御影堂(崇徳院讃岐国御影堂:後の頓証寺)があります。中世には、ここにいくつかの荘園が寄進されます。
 今回注目したいのは、周辺にある天皇社です。
A 稚児ヶ滝の滝壺の左に崇徳天皇(社)があります。これが現在の⑧青海神社です。
B 白峰寺の大門から尾根筋の参道を下りきった場所に、もう一つの崇徳天皇(社)が見えます。これが現在の⑩高家神社です。
これらの二社は、現在も鳥居に「崇徳天皇」の扁額が掲げられています。
高屋神社 崇徳上皇
高屋神社の崇徳天皇扁額

B 尾根筋参道の右には深い谷筋の奥に、神谷明神(神谷神社)が三重塔と共に描かれています。この神社の神殿は国宝ですが、中世は神仏混交で明神を称していたことが分かります。そして、白峯寺山中の子院のひとつであったことがうかがえます。
C 絵図の前面を流れるのが現在の綾川で、その上流に鼓岡があります。ここも、白峯寺が寺領であると主張していた所で、讃岐国府のほとりに当たる場所です。青海・高屋神社の崇徳天皇社と神谷明神、鼓岡は、「白峯寺縁起」に書かれている白峯寺寺領とされる場所です。鼓丘は、明治以降に崇徳院霊場として政治的に整備され、今は鼓丘神社が鎮座していることは以前にお話ししました。
坂出市史には、白峰寺古図と白峰寺縁起に記された白峯寺の寺領荘園群が次のように挙げています。
『白峯寺縁起』に、次の3つの荘園
① 今の青海・河内は治承に御寄進
② 北山本の新庄も文治に頼朝大将の寄附
③ 後嵯峨院(中略)翌(建長五)年松山郷を寄進
「讃岐国白峯寺勤行次第」に5つの荘園
④ 千手院料所松山庄一円
⑤ 千手院供僧分田松山庄内
⑥ 正月修正(会)七日勤行料所西山本新庄
⑦ 毎日大般若(経)一部転読(誦)料所当国新居郷
⑧ 願成就院明実坊修正(会)正月人(勤行)料所松山庄内ヨリ      
これは、そのまま信じることはできませんが、15世紀初頭には白峯寺はこのような寺領の領有意識を持っていたことは分かります。それをもう少し具体的に見てみると・・・・
①の青海(村)、④の松山庄一円、⑤の松山庄内、③の松山庄内、それに③の松山郷を合わせると松山郷全体が白峯寺の寺領荘園になっていたことになります。
①の河内を「阿野郡河内郷」とすると、ここには鼓岡と国府がありました。そこが白峯寺の寺領だったというのは無理があります。国府の諸施設のあった領域以外の土地を、寺領と云っているのでしょうか。このあたりはよく分かりません。
⑦の新居郷は、古代の綾氏の流れをくみ、在庁官人として成長し、鎌倉時代以降鎌倉御家人として栄えた讃岐藤原氏の一族新居氏の本拠です。五色台山上にある平地部分のことと研究者は考えているようです。

福江 西庄

②と⑥は、前回お話ししたように北山本新庄(後の西庄)で、当初は京都の崇徳院御影堂に寄進されていた荘園です。それを白峯寺は押領して寺領とします。
もともと、これらの寺領は『玉葉』建久二(1191)年間閏十二月条にあるように、後鳥羽上皇が崇徳院慰霊のために建立した仏堂である「崇徳院讃岐国御影堂領」に寄進されたことがスタートになります。
 寛文九(1669)年の高松藩の寺社書上「御領分中寺々由来」には、白峯寺の項に「建長年中、高屋村・神谷村為寺領御寄付」とあるので、松山郷内青海・高屋・神谷の「三ヶ庄」は崇徳院讃岐国御影堂領松山荘として存続していたようです。三ヶ庄の名称は、寛永十(1832)年に作成された「讃岐国絵図」にもあり、現在も綾川を取水源にした三ヶ庄用水に名を残しています。

白峯寺古図拡大1
白峯寺古図拡大図 中世には様々な堂舎が立ち並んでいた

  白峰山は、古代から信仰の山で、次のような複合的な性格を持っていました。
①五色山自体が霊山として信仰対象
②五流修験による熊野行者の行場
③高野聖による修験や念仏信仰の行場で拠点霊山
④六十六部などの廻国聖の拠点
⑤四国辺路修行の行場
ここに、天狗になった崇徳上皇の怨霊を追善するための山陵が築かれます。白峯陵(宮内庁治定名称では「しらみねのみささぎ」)は、唯一玉体埋葬の確実な山陵です。
白峰寺7
白峯寺(讃岐国名勝図会) 
そして朝廷により崇徳院御影堂(後の頓証寺)などの堂舎が整備されていきます。ある意味、天皇陵というもうひとつの信仰対象を白峯寺は得たことになります。しかも、この天皇陵は特別でした。天狗と化し、怨霊となった崇徳上皇を追善(封印?)する場所でもあるのです。菅原道真の天満宮伝説とおなじく、怨念は強力であればあるほど、善神化した場合の御利益も大きいと信じられていました。こうして白峯寺は「崇徳上皇を追善する寺」という顔も持ち、多くの信者を惹きつけることになります。中央からの信仰も強く、朝廷や帰属からも様々な奉納品が寄せられるようになります。同時に、寺領化した松山庄や西庄などの人々も、地元に天皇社を勧進し祀るようになります。それを親しみを込めて「てんのうさん」と呼びました。その「本宮」の白峰山や白峯寺も、いつしか「てんのうさん」と呼ばれ信仰対象になっていきます。

讃岐阿野北郡郡図8坂出と沙弥島
讃岐綾北郡郡図(明治) この範囲がかつての西庄にあたる

 坂出市の御供所は、前回お話ししたように北山本新庄(西庄)の一部でした。
ここには崇徳上事の讃岐配流に随ってきたという七人の「侍人」伝承があります。また、今も白峰宮(西庄町)には、2ヵ所の御供所(坂出市、丸亀市)から祭礼奉仕の慣習が続いているようです。

坂出市西庄
 坂出市には、今見てきたように中世に起源を持つ三社(高家神社・青海神社・白峰宮)があります。これらは崇徳上皇を祀っています。さらに川津町には江戸時代創建の崇徳天皇社があるので、四社の崇徳天皇社が鎮座することになります。これも白峯寺の寺領化と崇徳上皇への信仰心が結びついたものなのかもしれません。
白峯寺大門 第五巻所収画像000004
白峯寺大門に続く道
まとめておくと
①白峯山上に崇徳院陵が整備され、その追善の寺となった白峯寺には荘園が寄進され寺領が拡大していった
②各荘園には白峯陵から天皇社が勧進され、「てんのうさん」と呼ばれて信仰対象となった。
③そのため白峯寺の寺領であった坂出市域には、いくつも「てんのうさん」が今でも分布している
白峰寺 児ヶ獄 第五巻所収画像000009
稚児の滝の下の青海神社もかつては天皇社

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史 中世編
関連記事



  
白峯寺 白峯寺古図(地名入り)
白峰寺古図 中世の白峰寺周辺 江戸時代になって描かれたもの 
「どこの霊場かわかるな?」
と聞かれて、この図絵を初めて見せられ時に、私は戸惑いました。ヒントをあげるわ、讃岐の霊場や」と云われて、ますます分からなくなりました。
まず、青い水面が海とすれば、直立した岩壁の上に伽藍があります。そして、その伽藍から瀧が直接に海に落ち込んでいるようにもみえます。さらに、丸い聖なる甘南備山の下にいくつもの建築物が並び、山上には2つの塔も見えます。海と岩壁と山上の伽藍と云えば屋島寺かな、とも思いましたが、山上のドーム型の山の姿が屋島ではありません。
 瀧があるので・・・これが稚児の瀧なら・・??白峰寺・・?
「よう分かったな。これが中世の白峰寺の姿や
しかし、すんなりと受けいれることができませんでした。私の中にある白峰の姿とは、遠く離れているからです。ひとつひとつ疑問を挙げていきながら、師匠に教わったことを記していきます。
Q1稚児の瀧の下にあるのが青海神社とすれば、青海の部落はこの時代には海の中にあったということになり不自然でしょう?
A1昔の絵図に、デフォルメはつきもの。手前の半島の先端が高屋の雌・雄山でその向こうが松山の津と見てみ。湾が深くまで入り込んでいるのが「青海」や。これが近世に開拓されて青海村が生まれる。
Q2 そしたら、手前の青い帯は綾川ですか。白峰の下の谷にも塔が見えますが、こんな所にお寺があったんですか?
A2 これは神谷神社や。神も仏も一緒やった時代には、神社に神宮寺がくついて、その塔があっても別に変ではないからな。それと、白峰寺の中の一部のように描かれているので、神谷神社は中世には白峰寺と強い関係があったとは考えられるわな。
Q3 山上に建物がたくさん見えます。三重塔も左右にふたつありますが、こんなに多くの建物が中世にはあったんですか?
A3 あったと主張するために描かれたのかもしれんわなあ。しかし、考古学的な調査からも白峰寺にはいくつもの院坊があったことがわかる。
      
 
白峯寺境内建物分布図
  白峰寺境内測量図 多くの子院跡があったことが分かる          

見放された私は、絵図をもう一度見ながら山上の部分にズームインしてみます。

白峯寺古図 本堂への参道周辺
        白峰寺古図(山上拡大図)

右下の中門を入るとここに白峰寺の金堂があります。境内の中に白い十三重の石塔が二つ並んで建っているようです。これが重文の東西2つの十三重塔でしょうか。その背後には、建物が何棟も見えます。この付近にも子院があったようです。さらに進むと谷川が流れています。これが稚児川です。この川はここからすぐ下で滝となって断崖を落ちていきます。それが稚児の滝で、周辺は昔から修験者の行場でした。その周辺に修験者がたちがお堂を開き、いくつもの寺院へと成長したことがうかがえます。

 稚児川にかかるアーチ状の木橋を渡ると左手に「御本社」と記された寺院があります。これが崇徳上皇陵(白峯陵・保元の乱で配流)を守るための廟堂として中世に建立された頓証寺のようです。こう見ると橋の位置は現在とは違っています。参道を真っ直ぐに登っていくと本堂です。そして、その左奥に三重塔。右手には三王七社が祀られています。まさに神仏混淆のお山です。そして、背後の白峰山には権現が祀られています。ここでは、この山が崇徳上皇慰霊の聖地であると同時に、修験道の聖地であったことを押さえておきます。白峰大権現のことを少し見ておきます。

相模坊
「相模坊(さがんぼう:白峰大権現)」 

白峰山には
「相模坊(さがんぼう)」という天狗が住んでいるという伝承があります。
上田秋成は、この天狗を崇徳院に仕えるものとして雨月物語に登場させています。崇徳院の霊を慰め鎮守するため讃岐の地へやって来て“白峯相模坊”となったというのです。

白峯寺 雨月物語
 雨月物語の中の白峯相模坊

日本の各地には色々な天狗伝承が伝わっていますが、その中でも白峯相模坊は有名で、
相模大山の伯耆坊(神奈川)
飯縄山飯綱の三郎(長野)
比良山次郎坊(滋賀)
愛宕山太郎坊(京都)
鞍馬山僧正坊(京都)
大峰山前鬼坊(奈良)
英彦山豊前坊(福岡)
とともに、日本八大天狗の一に数えられていました。天狗=修験者ですから、この地が修験者たち聖地で、数多くの山伏が周辺の辺路ルートで修行を行っていたのでしょう。

白峰大権現
白峰寺頓証寺の白峰大権現のお札
 
 いまは山の神は相模坊という天狗だといって、相模坊天狗をまつっています。
これが奥の院でしょう。相模坊という天狗は、山の神様でもあります。それと恨みを抱いて魔縁になった崇徳上皇とが、いつしか一つになったようです。謡曲でも相模坊と崇徳上皇を別にしたり一緒にしたりしています。山伏達はこんな「創作物語」が大好きです。天狗の話になると、脇道に話がそれてしまいます。もとの道に戻りましょう。

白峯寺古図 本堂と三重塔
                白峰寺古図(拡大図) 白峰大権現と本堂
本堂からは右に路が続いています。これは、かつては根香寺へと続く遍路道でもあったようです。そして、本坊の洞林院は中世には、本堂の東側にあったことが分かります。

中世の白峰寺がなぜ、これほどの伽藍を形成できたのでしょうか? 
1191年(建久2)に崇徳上皇陵の祟りをおそれて慰霊のために御影堂が建立されます。以後、白峰寺は御影堂(=頓証寺)を新たな信仰の場として、そこに寄せられた近在の所領を経済基盤として、中世的な転換を行っていきます。それを中世から近世の寄進関係を一覧表にすると・・
・建永2年(1207) 法然上人松山巡る 
・治承年間(1177-1180)高倉天皇 青梅・河内村を寺領として寄進
・寿永3年(1184) 後白河法皇 青梅・河内の庄を寄進
・元歴2年(1185) 源頼朝 備中妹尾郷を寄進
・文治2年(1186) 後鳥羽院 丹波国粟村庄、豊前福岡庄を寄進、
         源頼朝讃岐国北山本庄を寄進
・文地4年(1188)  後鳥羽院 崇徳院25回忌を奉修 
                       頼朝:備前福岡庄を寄進
・建久2年(1191)  後白河法皇 頓証寺の建立
・寛喜3年(1231)  土御門院 法華経を奉納
・建長4年(1252)  後嵯峨院 法華経を奉納 松山郷を寄進
・建長6年(1254)  後嵯峨院 西山本新庄(阿野郡山本郷)、津郷、寄進 
・康元元年(1265) 後嵯峨院 北山本新庄(阿野郡山本郷)を寄進
・文永4年(1267)  頓証寺灯篭を建立
・應永21年(1414)  後小松帝 御真筆「頓証寺」の扁額を勅納
・長禄3年(1459)  後花園院 崇徳院御領神役を定める
・天正15年(1587)  生駒雅楽頭近規 白峯寺へ寺領50石寄進
・慶長4年(1599)  生駒近規 本堂再建
・寛永8年(1631)  生駒高俊 白峯寺の真宝目録を作成
・寛永12年(1643)  松平頼重 頓証寺殿を復興
・万治4年(1661)  松平頼重 阿弥陀堂に供養料
・寛文3年(1663)  崇徳天皇500回忌 
・延宝8年(1680)  松平頼重 頓証寺殿、勅額門の再建、
・元禄2年(1689)  松平頼重 石灯籠2基を頓証寺殿に奉献
・宝暦13年(1763)  崇徳天皇600回忌
・安永8年(1779)  松平頼真 白峯寺行者堂を再建
・文化8年(1811)  松平頼儀 大師堂を再建
・文久3年(1863)  崇徳天皇700回忌 
・慶應2年(1865)  松平頼聰 石灯篭2基御廟前に奉献
また、土地関係の寄進は次のようになります
1177年 高倉天皇、西山本郷、福江、御供所を寄進 
1190  源頼朝 稲税を収める
      土御門天皇勅額書と以降毎年下向使の儀
1244  後嵯峨天皇、荘園(西庄)寄進
天正年間  生駒正親 四石五斗年を西庄村と摩尼珠院に寄進。
  京から神官、僧侶を招請し学問、文学、芸能、医薬を施行
初代高松藩主の松平頼重「当山は、旧地といい、かつ、天皇御鎮座所なれば敬い住職たるべし」として京都から中興寺宥詮阿闍梨を召く。
1642  松平頼重、摩尼珠院へ四石五斗寄進
1701  松平頼常、摩尼珠院へ四石五斗寄進
1865  孝明天皇、御撫物を供え
 菅原道真と同じように、崇徳上皇は、早いうちから怨霊と化したことが京都の貴族たちの間で信じられていました。西行の来讃もその霊を鎮めることが目的の一つと言われます。このため御影堂=頓証寺の建設と整備は、京都の貴族たちの肝入りで行われます。その結果、京都の影響を受けてた石造物や舞台道具が白峰寺周辺には残っています。このお寺の伽藍や寄進物には「都貴族による崇徳慰霊」という成立事情が反映されているようです。

  
白峯寺 四国遍礼霊場記2

元禄2年(1689)四国遍礼霊場記の白峰寺
この絵図は、四国遍礼霊場記に描かれた白峯寺です。高松松平藩の保護下に、山内には多くの脇坊があり、諸堂が立ち並び、近世はじめの伽藍と変わりないように見えます。しかし、二つの三重塔は見当たりません。そして「塔跡」と記されています。近世初頭にあった三重塔はこの時にはなくなっていたようです。崇徳上皇をまつる「頓証寺」は周りに玉垣(?)がめぐらされて神社化しているようです。
 幕末にはどうなるのでしょうか? 四国遍礼名所図会(1800年)から見ていくことにします

白峯寺絵図 四国遍礼名所図会
白峰寺(四国遍礼名所図会 1800年)
この図会から読み取れることを、あげておくと
①稚児川に架かっている橋は、洞林院(本坊)の西側に移されている
②本堂への参拝ルートは 「洞林院 → 頓証寺 → 本堂」となっている。
③現在は本堂の東側にある太師堂は姿がない。 

幕末の弘化4年(1847)に出された金毘羅参詣名所圖會には、次の三枚の白峰寺関係の絵図が載せられています。
 
siramine16 金毘羅参詣名所圖會1(白峯山大門)
絵図④ 白峯山大門(金毘羅参詣名所圖會)
1枚目には、白峰寺の大門に至る2つの遍路道が記されています。
①左側 高屋村の天王社(高屋神社)
②右側 神谷村の神谷神社から大門に至る遍路道が描かれてます。
 今は②のルートは忘れ去られていますが、このルートがあったことを押さえておきます。

白峯寺 金毘羅参詣名所図会(1847)3
本坊洞林院
2枚目です。先ほどの白峰寺古図では、本堂の東側にあった洞林院が、現在地に降りてきて本坊となっている姿が描かれます。洞林院が中世末から近世初頭に、山上での主導権を握り「本坊」と呼ばれるようになったことがわかります。
siramine18 金毘羅参詣名所圖會3(白峯本堂・崇徳天皇御廟)
          図⑥ 白峯本堂・崇徳天皇御廟 
そして3枚目です。左下に崇徳上皇陵領が描かれ、その下に「上皇本社(頓証寺)」が神社として鎮座しています。参道は、上に向かって真っ直ぐと伸びていて、白峰寺の本堂が迎えてくれます。その東側に並ぶのは大子堂のようです。霊場としての伽藍整備も整っているようですが、近世初頭に見えた多くの伽藍や塔の姿はありません。その姿は大きく変わっています。元禄8年(1695)「末寺荒地書上」には、白峯衆徒21ヶ寺で、内18ヶ寺は退転し、寺地は山畠となると記されています。この間に白峰寺では、大きな変動があったようです。

白峯寺 讃岐国名勝図会(1853)

白峰寺(讃岐國名勝図会)
  そしてこれが「讃岐國名勝図会」に描かれた明治維新直前の白峰寺の姿です。
最初に見た江戸初期の絵図と見比べてみると、印象が大きく違います。現在の姿に近いのです。それは山上の本堂から東に、お堂や塔が伸びていたのがなくなり、根香寺へつながる遍路道も消えています。本堂に御参りすると再び同じ参道を帰って来ないと根香寺には行けなくなっています。
 改めて江戸時代初期の伽藍配置と参道を見てみましょう。
siramine16_11

ピンクのルートが江戸初期の遍路道です。一番左の本堂前からスタートします。このルート沿いには、金堂の洞林寺を始め、多くの坊や諸堂が立ち並んでいたことが分かります。しかし、今は自然に帰りその跡も分からない所が増えました。このピンクの道は、行場であった奥の院を抜けて、根香寺につながっていました。それが、幕末には現在の緑ルートになっていたようです。

siramine44 白峯山境内実測図
白峰寺に明治の神仏分離の風は、どのように吹いたのでしょうか。
讃岐の寺院の中でもっとも「影響=被害」を受けたのは、白峰寺だと云われます。
白峯寺の境内の頓証寺は、後白河法皇が崇徳上皇の霊を祀るため平安末期に建立したものです。これは神仏混淆の下では白峯寺の僧侶たちによって管理されてきました。そして、古くから皇室や武家が崇徳上皇の霊を慰めるため夥しい数の什器・宝物類が、ここに寄進されてきたことは先述した通りです。永徳2年(1382)火災によって、大半は焼亡しましたが、それでもなお多くの宝物が幕末には残っていました。それらの寺宝が、その神仏分離の嵐の中で、どのようになって行くのかを次回は見ていきたいと思います。
siramine16_23

関連記事


このページのトップヘ