瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:白峰寺洞林院

白峯寺法蔵 崇徳上皇 歌切図 
崇徳上皇 (白峯寺蔵)
保元の乱に敗れて讃岐に流された崇徳上皇は、長寛2年(1164)8月、当地で生涯を閉じます。白峯寺の寺域内西北の地に崇徳上皇の山陵が営まれ、これを守護するための廟堂として頓證寺(御影堂・法華堂ともよばれる)が建立されます。この頓證寺の建立が、白峯寺の歴史にとって大きな意味を持つことになるのは以前にお話ししました。

白峰寺伽藍配置
現在の白峰寺の境内配置図(現在の本坊は洞林院)
 ここまでの白峯寺は、同じ五色台にある根来寺と同じように、山林修行者の「中辺路」ルートの拠点としての山岳寺院でした。それは弥谷寺や屋島寺などと性格的には変わらない存在だったと私は考えています。それが崇徳上皇陵が境内に造られることで、大きなセールスポイントを得たことになります。これは中世の善通寺が「弘法大師空海の生誕地」という知名度を活かして「全国区の寺院」に成長して行ったのとよく似ているような気もします。善通寺は空海を、白峯寺は崇徳上皇との縁を深めながら、讃岐のその他の山岳寺院とは「格差」をつけていくことになります。今回は、頓證寺と白峰寺の関係に絞って、見て行くことにします。テキストは     「上野 進 中世における白峯寺の構造  調査報告書2 2013年 香川県教育委員会」
です。

 最初に確認しておきたいことは白峰御陵の附属施設として建立された「崇徳院御廟所」は、厳密に云うと頓證寺だということです。そして、次のように頓證寺と白峯寺は同じ寺ではなく、もともとは別の寺であったということです。
白峯寺=修験者の中辺路ルートの山林寺院
頓證寺=崇徳上皇慰霊施設
二つの寺は、建立時期も、その目的もちがいます。
P1150681
頓證寺殿
頓證寺は何を白峰寺にもたらしたのでしょうか。第1に経済的な基盤である寺領です
 中央政府や都の貴族たちが寄進を行うのは頓證寺であって、もともとは白峰寺ではなかったようです。それが白峰寺と頓證寺が次第に一体化していく中で、頓證寺の寺領管理を白峯寺が行うようになります。

白峰寺明治35年地図
白峰寺の下の郷が松山郷
『白峯寺縁起』によれば、次のような寺領寄進を受けたと記します。
①治承年間(1177~81)に松山郷青海と河内
②文治年間(1185~90)に山本荘
③建長5年(1253)に後嵯峨上皇によって松山郷
しかし、この記述に対して研究者は、いろいろな疑義があると考えていることは以前にお話ししましたのでここでは省略します。本ブログの「四国霊場白峯寺 白峯寺が松山郷を寺領化するプロセス」参照
白峯寺 千手観音二十八部衆図
千手観音二十八部衆像(白峯寺)
 暦応5年(1342)の鐘銘写には「崇徳院御廟所讃州白峯千手院」との銘文があります。
この千手院は千手院堂ともよばれ、後嵯峨上皇の勅願所になったとされます。先に寄進された松山荘は千手院堂の料所であったとも伝えられます。白峯寺の本尊が千手観音であることを思えば、この千手院は白峯寺の本堂のことだと研究者は考えているようです。頓證寺に寄進された松山荘が、この千手院堂の料所となっているのは、頓證寺と松山荘が、どちらも白峯寺の管理下になっていたためでしょう。ここからは、14世紀半ば頃には、廟所としての頓證寺が白峯寺と一体化していたことがうかがえます。ある意味で頓證寺が白峰寺にのみ見込まれていったというイメージでしょうか。こうして「廟所としての白峯寺」というイメージが作り出されていきます。
南海流浪記- Google Books
道範の南海流浪記
 建長元年(1249)に、高野山の党派抗争で讃岐に流されていた道範が8年ぶりに帰国を許されることになります。その際に、白峯寺院主に招かれて白峯寺に立ち寄っています。そして白峯寺を「南海流浪記」に次のように記します。

此ノ寺(白峯寺)国中清浄ノ蘭若(寺院)、崇徳院法皇御霊廟

ここからは、13世紀半ばの鎌倉時代にはすでに「廟所としての白峯寺」というセールスポイントが作り出されていたことがうかがえます。建立された頓證寺が寺僧集団をともなっていたかどうかは、史料的には分かりません。しかし、隣接する近い仲です。頓證寺と白峯寺との関係が密接になる中で、しだいに頓證寺の法会等にも白峯寺僧が出仕するようになったことは考えられます。
 
白峯寺 四国名所図会
白峯寺(四国遍礼名所図会)

 これについて山岸常人氏は、次のように指摘します。

白峯寺が13世紀中期以降は、頓証寺の供僧21口を構成員とする新たな寺院に転換したと言えよう。頓証寺の供僧集団が前身寺院(白峯寺)をも継承した

 頓證寺が中央政府によって建立されて以後、白峯寺と頓證寺との一体化が進んだのです。
そして建長4(1252)年の段階では、白峯寺と頓證寺は法会を通じて分かちがたく結びついたと研究者は考えています。しかし、あくまで前面に立つのは頓證寺であって、白峯寺ではなかったようです。「十一日の供僧勅請として、各十一通の御手印の補任を下さる」というのも事実かどうかは分かりません。しかし、そうした主張ができるのは廟所である頓證寺だからこそできることです。こうして21院を、白峰寺の院主が統括するというスタイルで一山は運営されていたと研究者は考えています。
 以上をまとめておくと、
①千手院を中心とする中世の白峯寺は、実質的に頓證寺と一体化し、それによって廟所を名乗るようになった。
②ただし表に出るのは頓證寺の方であったので、頓證寺の供僧集団が白峯寺を吸収し、継承したとみることもできる。
③どちらにしても白峯寺と頓證寺とは、それぞれ別に存在して両者を補完する関係にあった
④それを示すかのように、戦国期の如法経供養は千手院と頓證寺のそれぞれで行われた

こうして 「崇徳上皇の廟所 + 中辺路修行の山岳寺院 + 安定した寺領と経済力」という条件の備わった中世の白峯寺は多くの廻国の聖や行者を集め、活動の舞台を提供する寺になります。僧兵集団も擁していたと考える研究者もいます。このような状況が21もの子院の並立を可能にする背景だったのでしょう。その結果、一山寺院として衆徒や聖などの集団が、念仏阿弥陀信仰や時衆信仰、熊野信仰などなどの布教活動を周辺の郷村で行うようになります。

 白峰寺の頂点は前回見たように院主でした。しかし、子院の中でも洞林院のような有力なものもあらわれています。
洞林院は戦国時代には衰退したこともありますが、慶長期になると秀吉の命で讃岐国守として入部した生駒氏の保護のもとで、別名が白峯寺再興の役割を果たします。別名は、生駒氏の支持を受けて山内での勢力基盤を強化します。その結果、洞林院が山内の中心的な位置を占めるようになります。現在の本坊にあるのは洞林院ということになります。

白峯寺本坊 弘化4年(1847)金毘羅参詣名所圖會:
幕末の絵図 金毘羅参詣名所図会には本坊に洞林院が描かれている。


以上をまとめておきます
①古代の白峯寺は、五色台を行場とする山林修行者の行場のひとつから生まれた。
②律令国家の下で密教が重視されると国分寺背後の五色台に、山林寺院が整備されていく。そのひとつが白峯寺や根香寺であった。
③12世紀後半に崇徳上皇陵が白峰山に作られ、廟所・頓證寺が建立されたことが白峯寺にとっては大きな意味を持つことになる。
④頓證寺に寄進された松山荘は、実質的には白峯寺の管理下にあって経済基盤となった
⑤鎌倉期以降、白峯寺と頓證寺との一体化が進展していく。
⑥中でも鎌倉中期に頓證寺に21の供僧が設置されたことが白峯寺にとって重要な意味をもった。
⑦ここに白峯寺と頓證寺とが法会を通じて分かちがたく結びついた
⑧白峯寺と頓證寺とは、それぞれが補先する関係にあり、その関係は中世を通じて継続した

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「上野 進 中世における白峯寺の構造  調査報告書2 2013年 香川県教育委員会」
関連記事

1 白峰寺古図

かつて、第八十一番札所白峯寺の「白峯山古図」を見ながら、この寺の近世の変貌ぶりを追いかけたことがあります。それを最初に確認しておくと
①中世の白峰寺は「白峯衆徒21ヶ寺」の数多くの伽藍や塔が立ち並んでいた。
②そして、多くの院坊の連合体が白峰寺を形成していた。
③ところが元禄8年(1695)「末寺荒地書上」には、「白峯衆徒21ヶ寺、内18ヶ寺は退転」し、「寺地は山畠となる」と記されている。
④多くの伽藍や塔の姿は近世に初頭に姿を消し、3坊のみが存続した
⑤その中で、元禄以前には本堂の東側にあった洞林院が、現在地に降りてきて白峰寺の本坊となった。
以上からは「白峯衆徒21ヶ寺」は、近世最初に淘汰され、その中で洞林院が本坊として生き残ったということになります。その間に何が起こったのでしょうか。金毘羅さんの金光院のように、各院坊間の権力闘争が、ここでも起こったのでしょうか。

 そんな中で見つけたのが「松岡明子  白峯山古図―札所寺院の境内図 空海の足跡所収」という小文です。これをテキストに「白峰山古図」をもう一度眺めてみることにします。松岡氏は次のように述べています。
「境内図を見る際には、制作年代や作者だけでなく、何がどのように描かれているか(あるいは描かれていないか)を探り、景観年代や制作目的についても,意識しながら読み解くことが必要」

という立場から、この古図と向き合います。そして、次のように指摘します。

「白峰山や稚児ヶ嶽、松山津などの自然景の中に、白峯寺の伽藍と崇徳院御廟などのほか、周辺の寺社や村、参道も含めて描かれている。境内をみると、三重塔や洞林院、楽屋、別所、金堂、大門など今はない建物が数多く描かれる。
 一方で、江戸時代前期に初代高松藩主松平頼重の寄進で再建・建立された阿弥陀堂や客殿の姿はない。同じく頼重が造営した頓證寺殿の特徴的な建物も、「御本社」の名称で今とは異なる社殿が描かれている。」

 建物の名称や外観・配置などが、江戸時代前期のものと一致しないことから、この絵は、さらに時代を遡る中世の景観を描いたものとします。
 この図の箱には、永徳二年(1382)の火災以前のものを描いたものであるという墨書があります。
しかし、画面には、応永21年(1414)に後小松天皇から下された「頓證寺勅額」(重要文化財)を掲げる勅額門が描かれています。歴史的な整合性がなく、少し首を傾げざるえないところもあるようです。それだけに、この絵がいつの時代を描いたものなのかについての判断は慎重にならざるえないようです。つまり「作為」があるのです。

白峯寺古図 地名入り
白峰寺古図
 この絵の作者や描かれた時代については分かりませんが、研究者は次のように指摘します。
①懸崖や海岸線をデフォルメしながら複雑な地形を破綻なくまとめていること
②平板化せず奥行きのある構図や、樹木など細部の描き方、目ののった画絹が使われていること
①からは高い技量をもつ絵師の存在
②からは、制作時期は江戸時代前期と研究者は推察します。つまり、箱書きにあるように中世に書かれた物ではないということです。江戸時代になって、中世の様子を描いているということになります。

画中には人物が一人も描かれていません。
建物と自然景観が丁寧に描かれています。その結果、静かな落ち着きのある雰囲気が漂います。まるで、霊地の威厳を表す社寺曼荼羅のようです。
白峯寺古図 本堂への参道周辺
白峰山古図 拡大図

そういう視点でこの絵を眺めると、白峯寺の周辺には雲井御所、鼓岡、崇徳天皇と記された二か所の社殿(現在の高家神社・青海神社)のほか、松浦や綾川など崇徳院由来の地が全て描かれているのに気付きます。どうやらこの絵の作者が目指したものは、崇徳院ゆかりの霊跡に囲まれ、廟所と一体のとなった聖地としての白峯寺の姿であったようです。それは「白峯寺縁起」に「霊験かきつくしかたき」と記される白峰寺の往古の景観を、江戸時代になって復原的に描いたものと研究者は指摘します。

制作者の意図を、別の視点から探してみましょう。
白峰山一帯を俯瞰するように整然と描いた図は、一見すると記録に基づいて境内の様子を忠実に描いたように思えます。しかし、詳しく見ると、いくつかの作為(主張)があるようです。  例えば、中世の白峯寺には多くの子院があり、戦国期には21か寺あったと伝えられます。

白峯寺 四国遍礼霊場記2

『四国偏礼霊場記』白峰寺(1689年)

元禄2年(1689)に寂本が著した『四国偏礼霊場記』の挿図には、洞林院のほかに円福寺や一乗坊などが描かれ、江戸時代前期にも白峯寺に複数の子院があったことが分かります。

白峯寺古図 本堂と三重塔
白峰寺古図 (本堂周辺部の拡大)

ところが、中世の白峰山を描いたというこの絵に注記があるのは洞林院だけです。伽藍の間に見える数多くの屋根が見え、他の子院があるように見えます。しかし、洞林院との間に明らかな「格差」が付けられています。洞林院は戦国時代末期に一時衰退しますが、その後に再興したようです。その際に、同院の由緒を示すための文書などが作成されたと推測されます。そして慶長九年(1604)以降、洞林院が白峯寺において中心的な役割を担って行くようになったことが棟札から読み取れます。

  松岡氏が最初に述べていた
「何がどのように描かれているか(あるいは描かれていないか)を探り、景観年代や制作目的についても意識しながら読み解く」

という視点からすると、この絵は、
①山上にある他の子院を略して洞林院だけを描くことで、
②洞林院の由緒を目に見える形で伝え、寺中における優位性を示そうとする意図のもとに描かれた
ということになりそうです。さらに推察を加えるとすれば、そのような主張をする必要が洞林院にあった時期に制作されたと考えられます。そのような時期とは、いつだったのでしょうか? それは、別の機会にするとして・・先を急ぎます。
白峯寺古図 地名入り
白峰寺古図
もうひとつ注目したい所は、画面左端の北峰に描かれた馬頭院です。
馬頭院については、江戸時代後期の作とされる絵図に「馬頭院跡」と記されています。また、大正15年(1926)に写された「白峯寺開基由来帳」(鎌田共済会郷土博物館蔵)にも「破壊地」として馬頭院を「当寺末寺」とする記述がみえます。しかし、他の史料には載っていない寺院です。ところがこの絵の中には馬頭院は描かれています。馬頭院は、洞林院以外に描かれる唯一の子院です。しかも離れた地であるにも関わらず描き込まれています。そこには何らかの意図や目的があったはずです。それが何なのかは、今は分かりません。「馬頭院跡」という、忘れ去られたこの子院が、この絵図を読み解く手がかりとなる可能性があるのかもしれません。
最後に、四国遍路との関わりからこの絵を見てみましょう。
この古図には遍路が歩いたと思われる道の一部が次のように描かれています。

1 白峰寺古図2$pg
①画面中央下の高屋村から白峯寺に続く道
②本堂前から画面右上へと続く道(史跡「根香寺道」)
③神谷明神の背後に延びる道、
あくまでも白峯寺への参道として描かれたのでしょうが、中世や近世の遍路道の姿を伝える貴重な絵画史料となるようです。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

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