瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:白峰寺経筒

まんのう町金剛院が中世の修験者たちによって拓かれた「坊集落」であること、石造十三重塔が鎌倉時代末に、弥谷寺石工によって天霧石によって作成されたことを、前回までに見てきました。今回は、金剛院に残されたもう一つの手がかりである「経塚」について見ていくことにします。テキストは、次の報告書です。
金剛院経塚2018報告書
                   写真は出土した経塚S3

南方に開けた金剛院集落の真ん中にあるのが金華山です。その山に南面した金剛寺が建っています。

イメージ 7
金剛院集落の金華山と金剛寺
位置的にも金華山が霊山として信仰を集め、そこに建てられた寺院であることがうかがえます。この山の頂上には、かつては足の踏み場もないほどの経塚があったようです。経塚とは末法思想の時代がやってくるという危機感から、仏教経典を後世に伝え残すために、書写した経巻を容器に納め地中に埋納した遺跡のことです。見晴らしの良い丘や神社仏閣などの聖地とされる場所に造られます。そのため数多くの経塚が群集して発見されることも少なくありません。その典型例が讃岐では、金剛院になるようです。

金剛寺2 まんのう町

拡大して経塚のある第1テラスと第2テラスの位置を確認します。

金剛院金華山

次に、これまで発掘経緯を見ておきましょう。
金剛院経塚は今から約60年前の1962年9月に草薙金四郎氏によって最初の調査が行われました。その時には2つの経塚を発掘し、次のようなものが出土しています。
陶製経筒外容器7点
鉄製経筒   2点
和鏡     1点

金剛院経筒 1962年発掘
               陶製経筒外容器(まんのう町蔵)

この時には完全に発掘することなく調査を終えています。問題なのは、経筒発見に重きが置かれて、発掘過程がきちんと残されていません。例えば経塚の石組みなどについては何も触れていません。今になってはこの時の発掘地がどこだったのかも分かりません。その後、目で確認できる経塚からは、その都度遺物が抜き取られ本堂に「回収」されたようです。ちなみに経塚には「一番外が須恵器の外容器 → 鉄・銅・陶器などの経筒 → 経典」という順に入れられていますが、地下に埋められた経典は紙なので姿を消してしまいます。経典が中から出てくることはほとんどないようです。

古代の善通寺NO11 香色山山頂の経塚と末法思想と佐伯氏 : 瀬戸の島から
                一般的な経塚の構造と副葬品例 

 金剛院経塚の本格的な調査が始まるのは、仲寺廃寺が発掘によって明らかになった後のことです。
2012(平成23)年度から調査が始まり、次のように試掘を毎年のように繰り返してきました。
2012年度 
第2テラスのトレンチ調査で、柱穴3、土穴1、排水溝1が確認され、山側を切土して谷側に盛土して平坦面を人工的につくったテラスであることを確認
2013年度
石造十三重塔の調査・発掘が行われ、次のような事を確認。
①金剛寺造営の際に、十三重塔周辺の尾根が削られて平坦にされたこと
②両側が石材で縁取られた参道が整備されたこと
③14世紀半ばに参道東側に盛土して、弥谷・天霧山産の十三重塔が運ばれ設置されたこと
④参道と塔の一部は、その後の地上げ埋没しているが当初設置位置から変わっていないこと
合わせてこの年には、第1テラスの測量調査を行い、地上に残された石材群を16グループに分類                 
2015年度
現状記録のために検出状況を調査して、12ケ所で埋蔵物が抜き取られていることを確認
2016年度 
経塚S9の調査を行い、主体部が石室構造で、その下に別の経塚があること、つまり上下二重構造であったことを確認。
金剛院経塚第1テラスS9
 第1テラス 経塚S9(金剛院経塚:まんのう町)

金剛院経塚S9の遺物 
経塚S9(2016年度の発掘)出土の経筒外容器

経塚調査の最後になったのが2017年度で、経塚S3を発掘しています。

金剛院経塚テラスS3
       金剛院経塚・第1テラスの経塚分布と経塚グループS3の位置


金剛院経塚第1テラスS3
             第1テラス 経塚S3(金剛院経塚:まんのう町)
この時は経塚S3の調査を行い、次のような成果を得ています。
①石室に経筒外容器3点が埋葬時のまま出土
②和紙の付着した銅製経筒が出土したこと。これで紙本経の経塚であることが確定。
この時の発掘について報告書は次のように記します。
金剛院経塚出土状況4
経塚S3 平面図
金剛院経塚出土状況2
経塚S3 断面図
金剛院経塚S3発掘状況1
要約しておきます。
①経塚S3の上部石材を取り除くと、平面が円形状(直径1,4m)の石室が見えてきた。
②そこには経筒外容器が破損した土器片が多数散乱していた。
③石室内部からは、土師器の経筒外容器2点(AとB)、瓦質の甕1(C)が出てきた。

金剛院経塚1
     金剛院経塚S3から出土した外容器 土師器質のA・Bと瓦質の甕のC(後方)

この経筒外容器A・B・Cの中からは、何が出てきたのでしょうか。報告書は次のように記します。
金剛院経塚C3出土の外容器
要約しておくと
①外容器Aからは、鉄製外容器が酸化して粉末状になったものと、鉄製外容器の蓋の小片
②外容器Bからも、鉄製外容器の蓋の一部
③外容器Cの甕からは、銅製経筒が押しつぶされた状態で出てきた。その内部には微量の和紙が付着
④最初はAとCしか見えず、Bはその下にあった。つまり石室は2段の階段構造だった
          外容器Cの甕 和紙が付着した銅製経筒が出てきた
発掘すれば、これ以外にもいろいろな経筒がでてくるはずですが、初期の目的を達成して発掘調査は終わりました。ここからは経塚から出てきた遺物は中世鎌倉時代に作られたもので、金華山頂上に連綿と経塚が造られていた事が分かります。金剛院の伝承では、弘法大師が寺院を建立するための聖地を求めて、この地に建立されたとされます。聖地の金華山山頂という限られた狭い空間に、山肌が見えないほどにいくつもの経塚が造られ続けたのです。これをどう考えたらいいのでしょうか?
 比較のために以前にお話しした善通寺香色山の経塚を見ておきましょう。

DSC01066
 
 香色山山頂からは4つの経塚が発掘されています。
香色山一号経塚
香色山の経塚と副葬品
 そのうちの一号経塚は四角い立派な石郭を造り、その内部を上下二段に仕切り、下の石郭には平安時代末期(12世紀前半)の経筒が納められていて、上の石郭からはそれより遅い12世紀中頃から後半代の銅鏡や青白磁の皿が出土しました。上と下で時間差があることをどう考えたらいいのでしょうか?
 研究者はつぎのように説明します。
「2段構造の下の石郭に経筒や副納品を埋納した後、子孫のために上部に空間を残し、数十年後にその子孫が新たにその上部石郭に経筒や副納品を埋納した「二世代型の経塚」だ。

上下2段スタイルは全国初でした。先ほど見たように、金剛院経塚S3も2段構造で追葬の可能性があります。作られたのも同時代的です。善通寺と金剛院の間には、何らかの結びつきがうかがえます。
 1号経塚は上下2段構造が珍しいだけでなく、下の石郭から出土した銅製経筒は作りが丁寧で、鉦の精巧さなどから国内屈指の銅板製経筒と高く評価されています。ちなみに上の段は、盗掘されていました。しかし、下の段には盗掘者は気がつかなかったようです。そこで貴重な副葬品が数多く出てきたようです。
香色山1号経筒 副葬品
香色山1号分の埋葬品

 香色山経塚群は、平安時代後期に造られているようです。
作られた場所が香色山山頂という古代以来の「聖域」という点から、ここに経塚を作った人物については、次のような説が一般的です。

「弘法大師の末裔である佐伯一族と真言宗総本山善通寺が関わったものであることは疑いない。」

しかし、以前にお話ししたように空海の子孫である佐伯氏は本貫地を京に移し、善通寺から去っています。この時期まで、佐伯直氏一族が善通寺の経営に関わっていたとは思えません。そうであれば、もう少し早くから「善通寺=空海生誕地」を主張するはずです。
  どちらにしても世の中の混乱を1052年から末世が始まるとされる「末法思想の現実化」として僧侶や貴族は捉えるようになります。彼らが経典を写し、経筒や外容器を求め、副納品を集めて経塚を築くようになります。その心情は、悲しみや怒り、あるいは諦念で満たされていたのかも知れません。もしかしたら仏教教典を弥勒出世の世にまで伝えるという目的よりも、自分たちの支配権を取り戻すことを願う現世利益的祈願の方が強かったのかもしれません。
 私は経塚に経典を埋めた人達は、周辺の有力者と思っていたのですが、そうばかりではないようです。遙か京の有力者や、地方の有力者が「廻国行者(修験者)」に依頼して、作られたものもあるのです。その例を白峰寺(西院)に高野聖・良識が納めた経筒で見ておきましょう。
 白峰寺経筒2
白峰寺(西院)の経筒
何が書いてあるか確認します
①が「釈迦如来」を示す種字「バク」、
②が「奉納一乗真文六十六施内一部」
③が「十羅刹女 」
④が三十番神
⑤が四国讃岐住侶良識」
⑥が「檀那下野国 道清」
⑦「享禄五季」、
⑧「今月今日」(奉納日時が未定なのでこう記す)
これは白峰寺から出てきた経筒で、⑥の「檀那の下野国道清」の依頼を受けて讃岐出身の高野聖(行人)の良識が六十六部として奉納したものでであることが分かります。これは経筒を埋めたのは、地元の人間ではなく他国の檀那の依頼で「廻国の行人(修験者や聖)」が全国の聖地を渡り歩きながら奉納していたことを示すものです。これが六十六部と呼ばれる行人です。

四国遍路形成史 大興寺周辺の六十六部の活動を追いかけて見ると : 瀬戸の島から
 「六十六部」は六部ともいわれ、六十六部廻国聖のことを指します。彼らは日本国内66ケ国の1国1ケ所に滞在し、それぞれ『法華経』を書写奉納する修行者とされます。ここからは、金剛院に経塚を埋めたのも六十六部などの全国廻り、経塚を作り経典を埋めるプロ行者であったことがうかがえます。 
 そのことを金剛院の説明版は、次のように記しています。
金剛院部落の仏縁地名について考える一つの鍵は、金剛寺の裏山の金華山が経塚群であること。経塚は修験道との関係が深く、このことから金剛院の地域も、 平安末期から室町時代にかけて、金剛寺を中心とした修験道の霊域であったとおもわれる。
各地から阿弥陀越を通り、法師越を通って部落に入った修験者の人々がそれぞれの所縁坊に杖をとどめ、金剛寺や妙見社(現在の金山神社)に籠って、 看経や写経に努め、埋経を終わって後から訪れる修験者にことづけを残し次の霊域を目指して旅立っていった。
以上をまとめておきます。

①平安末期になると末法思想の時代がやってくるという危機感から、仏教経典を後世に伝え残すために、書写した経巻を容器に納め地中に埋納した経塚が作られるようになる。
②その場所は、見晴らしの良い丘や神社仏閣などの聖地に密集して作られることが多い。
③その例が金剛院の金華山や善通寺の香色山の山頂の経塚である。
④経塚造営の檀那は地元の有力者に限らず、全国66ヶ国の聖地に経典を埋葬することを願う六十六部や、その檀那も行った。
⑤白峰寺には、下野国の檀那から依頼された行人が収めた経筒が残されていることがそれを物語る。
⑥このような経典を聖地に埋め経塚を造営するという動きが阿弥陀浄土信仰とともに全国に拡がった。
⑦讃岐でその聖地となり、全国からの行人を集めたのが金剛院であった。
⑧こうして金華山山頂には、足の踏み場もないほどの経塚が造営され、経典が埋められた。
⑨全国からやって来る行人の中には、金剛院周辺に定着し周囲を開墾するものも現れ、「坊集落」が姿を見せるようになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 調査報告書 金剛院経塚 まんのう町教育委員会2018年
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四国霊場には、次のようないくつもの信仰が積み重なって、現在があると研究者は考えているようです。
①仏教以前の地主神信仰
②熊野行者がもたらした熊野信仰 + 天台系修験信仰
③六十六部がもたらした法華信仰
④廻国の高野聖がもたらした阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰
 例えば、②と④の熊野信仰と弘法大師信仰を併せ持っていたのが讃岐の与田寺の増吽でした。彼は、熊野行者として熊野詣を何回も行う熊野信仰の持ち主であると同時に、真言僧侶として弘法大師信仰を広めたことは以前にお話ししました。そして、彼らが歩いた「熊野参詣道」に、六十六部や高野聖などは入ってきて、四国辺路道へとつながっていくと研究者は考えているようです。
瀬戸の島から - 2022年06月
讃岐国分寺前を行く六十六部(十返舎一九「金草」の挿絵)
前回は、四国霊場札所に残された落書きから高野聖が、先達として四国辺路を行っていたことを見ました。その中には、讃岐の良識のように、若いときには四国辺路者として、老いては六十六部として白峰寺に経筒を奉納する高野聖(行人)もいました。今回は、六十六部の奉納した経筒銘文を見ていくことにします。  テキストは    「武田和昭  中世の六十六部と四国辺路   四国へんろの歴史62P」です。
まず、永徳四年(1384)相模鶴岡八幡宮金銅納札で、銘文の見方を「学習」しましょう。

相模鶴岡八幡宮金銅納札
 相模鶴岡八幡宮金銅納札

  ①の中央行を主文として、各項目が左右行に振り分けられています。
真ん中の①「奉納妙典一国六十六部」は奉納内容で、「妙典妙法蓮華経を一国六十六部」奉納すること
②右の「十羅刹女」③左「三十番神」は、法華経の守護神名
④「永徳牢」「卯月日」は奉納年月。
⑤ の「相州鎌倉聖源坊」は左右の「驫丘」「八幡宮」ともに、奉納者の名で「鶴岡八幡宮」は「聖源坊」の所属組織
⑥の「檀那」「守正」は経典奉納の檀那となった人物名
以上をまとめると、永徳4(1384)年4月、守正が檀那として、鎌倉鶴岡八幡宮の聖源坊が「相国六十六部」として、法華経巻を奉納したことをしめす「納経札」のようです。どこに奉納したのかは記されていません。
 研究者が注目するのは①の「奉納妙典一国六十六部」です。「廻国六十六部」でないのです。これは「略式化」されたもので、写経巻六十六部を、「全国廻国」ではなく、一国内の六十六ヶ所の霊場に奉納したと研究者は考えているようです。
 法華経を書写・荘厳して定められた寺社に納めることは、平安時代から始まっています。それが六十六部の法華経巻を書写し、全国を巡歴して奉納する納経スタイルへと発展していきます。そのような流れから考えると、「一国六十六部」は、全国廻国奉納を行うようになる前段階のことかも知れません。
研究者が注目するのは、奉納者の鶴岡八幡宮所属とされる「聖源坊」です。六十六部として、全国を廻国した人物は「…坊」「…房」という名乗りが多いのですが、これは、山伏や修験を示すものです。ここからは、中世の六十六部聖は、その前身を古代の山岳修験者、特に法華経を信仰する聖だったことがうかがえます。
以上のことを次のようにまとめておきます。
この六十六部奉納札は、鶴岡八幡宮に帰属する法華信仰を持つ山岳修行者「聖源坊」によって、檀那「守正」を後援者として行われた、巡礼納経の遺品である。
讃岐の白峰寺(西院)の高野聖・良識が納めた経筒を見ておきましょう。
 白峰寺経筒2
白峰寺(西院)の経筒
先ほどの応用編になります
①が「釈迦如来」を示す種字「バク」、
②が「奉納一乗真文六十六施内一部」
③が「十羅刹女 」
④が三十番神
⑤が四国讃岐住侶良識」
⑥が「檀那下野国 道清」
⑦「享禄五季」、
⑧「今月今日」(奉納日時が未定なのでこう記す)
内容については、以前にお話したので省略します。⑤の良識については、讃岐国分寺に残した落書きから次のようなことが分かっています。
永正10年(1513)31歳で四国辺路を行い、国分寺で落書き
享禄 3年(1530)に、高野山金剛三味院第31世長老となり
享禄 5年(1532)50歳で六十六部聖として白峯寺に経筒を奉納し
弘治 2年(1556)74歳で没した
この2つの例で、経筒の表記方法について「実習」したので、各地の経筒を実際に見ていきましょう。

島根県大田市南八幡宮の鉄塔
大田市南八幡宮の鉄塔
島根県大田市南八幡宮の鉄塔からは、数多くの経筒が発見されています。
ここからは経筒が168、銅板に奉納事由を記した納札が7枚、45個一括の経石、伴出遺物として懸仏、飾金具、鉄製品、泥塔、土器、銭貨が鉄塔に納められていました。大半は経筒で、六十六部関係遺品です。

永正十三天(1516)の経筒Aを見ておきましょう。
野州田野住僧本願天快坊小聖
十羅利女        寿叶円
奉納大乗妙典六十六部之内一部所
三十番神 檀那   秀叶敬白
永正十三天(1516)三月古日 

「奉納大乗妙典六十六部之内一部所」とあります。ここからは大乗妙典(法華経)を経筒に納入して埋納したことが分かります。『法華経』の別名称である経王、一乗妙典などと刻されたものもありますが、奉納経名は、ほとんどが「法華経」です。しかし、『法華経』以外の経典が納められていることがあります。
弘法大師信仰に関わるものとして経筒Bには、次のように記されています。
四所明神 土州之住侶
(パク)奉納理趣経六十六部本願圓意
辺照大師
天文二年(1533)今月日
ここからは次のようなことが分かります。
①奉納されているのは「法華経」ではなく、「理趣経」で真言宗で重要視される経典。
②「辺照大師」は、遍照金剛(南無大師遍照金剛)のことで、弘法大師
③四所明神とは高野四所明神のことで、高野・丹生・厳島・気比の四神で、高野山の鎮守のこと
以上から、「本願園意」は、高野山の大師信仰を持った真言系の六十六部で、土佐の僧侶であったことが分かります。
もうひとつ真言系の経筒Cには、次のように記されています。
□□□□□①幸禅定尼逆修為
十羅刹女 ②高野山住弘賢
奉納大乗一国④六十六部
三十番神 天文十五年(1546)正月吉日

①からは「□幸禅定尼」が願主で、彼女が生前に功を積むための逆修として奉納が行われたこと。
②は実際に、諸国66ケ国を廻行し、法華経を納めた六十六部(奉納者)の名前です。ここには「高野山住弘賢」とあるので、弘賢が高野山に属し人物であったことは間違いありません。願主の依頼を受けて全国を六十六部として「代参」していたことが分かります。
宮城県牡鹿町長渡浜出土の経筒には、次のように記されています。
十羅刹女 ①紀州高野山谷上  敬
(バク)奉納一乗妙典六十六部 沙門②良源行人
三十番神 ③大永八年(1528)八月吉日 白
    ④施主藤原氏貞義
           大野宮房
ここからは④「施主藤原氏貞義・大野宮房」の代参者六十六部として、①「紀州高野山谷上の②良源行人」が全国に法華経を納めていたことが分かります。研究者が注目するのは、「沙門良源行人」の所属の①「紀州高野山谷上」であることです。
新庄村の六十六部廻国碑

前回見た伊予の49番浄土寺の本堂内の本尊厨子の落書きには、次のように記されていました。
金剛峯寺(高野山)谷上惣職善空 大永八年五月四国

四国辺路者である善空も、所属は「(紀州高野山)谷上」となっています。高野山の「谷上」には、行人方の寺院がいくつかあったエリアで、ここに四国辺路や六十六部を行う行人(聖・廻国修行者)がいたことは以前にお話ししました。それは「良源行人」という文言からも裏付けられます。
 つまり、高野の聖達の中には、全国から施主の依頼を請ければ、六十六部となって、六十六ケ国に経典を奉納していたことになります。それが終れば、また元の行人に還ったのでしょう。行人は、見た目には修験(山伏)と変わりません。ここでは、高野聖が四国辺路以前から六十六部として、廻国奉納していたことを押さえておきます。

島根県大田市大田出土の経筒Dを見ておきましょう。
一切諸仏 越前国在家入道
(キリーク)奉納浄上三部経六十六部
子□
祈諸会維 天文十八年(1549)今月吉
ここでは越前の在家入道は、浄土三部経(『無量寿経』、『観無景寿経』、『阿弥陀経』)を奉納しています。ここからは、彼が阿弥陀信仰の持ち主であったことがうかがえます。法華経と同じように、浄土三部経を奉納する在家入道もいたようです。

栃木県都賀郡岩船町小野寺出土の経筒には、次のように記されています。
開      合
奉書写阿弥陀経 六巻四十八願文 十二光仏仏発願文 宝号百遍 為善光寺四十八度 参詣供養大乗妙典 百部奉読誦酬此等 功徳合力助成口那 等頓證仏呆無凝者也 本願道祐敬白 
天文五丙(1536)閏十月十五日
意訳変換しておくと
阿弥陀経六巻四十八を写経し、願文十二光仏仏を発願し 宝号百遍を唱えて善光寺に48回参拝した。供養のために大乗妙典百部を奉読誦酬した。功徳を合力し助成したまえ。頓證仏呆無凝者也 本願道祐 敬白 
天文五丙(1536)閏十月十五日
ここからは本願の道祐も、強い阿弥陀信仰の持ち主だったことが分かります。
島根県大田市大田出土の経筒Eには、次のように記されています
十羅刹女  四国土州番之住本願
十穀
(バク)奉納大来妙典六十六部内
三十番神  宣阿弥陀
     光一禅尼
享禄四年(1531)今月吉日

ここからは、宣阿弥陀仏と名前からして浄土系の人物です。また「十穀」とあるので「木食」であったようです。そうだとすれば、木食が六十六部になって奉納していたことになります
以上のように六十六部の中には、高野聖や木食もいたし、真言系や浄土系の人物もいたことを押さえておきます。六十六部は、各国の霊場に奉納する経筒(経典)を通ぶ行者(代参者)という性格をを持っていたようです。
四国遍路形成史 大興寺周辺の六十六部の活動を追いかけて見ると : 瀬戸の島から
六十六部
 六十六部が四国辺路の成立・展開に何らかの関わりがあったとする説が出されています。
岡本桂典氏は「奉納経筒よりみた四国人十八ケ所の成立」(1984)の中で次のように記します。
①全国的に知られる室町時代の六十六部の奉納経筒は168点で、その中で四国に関わるものは12点。
②この中には『法華経』ではなく、真言宗が重視する『理趣経』が奉納され、弘法大師に関係する四所明神(高野山守護神)、辺(遍)照金剛などの言葉が記されている。これらは、四国辺路に関係する六十六部が奉納したものである。
②「本川村越裏門の文明三年(1471)銘の鰐口の「村所八十八カ所」と記されているので、四国八十八ケ所成立は室町時代中期頃まで遡れる。
③49番浄土寺や80番国分寺には「南無大師遍照金剛」という辺路落書がある。これは六十六部の奉納経筒に形式が似ている。
④以上より、四国八十八ケ所の成立には、真言系の廻国聖が関与した。その結果、六十六部の霊場が四国八十八ケ所に転化した。
 この岡本氏の説は、発表以後ほとんど取り上げられることはなかったようです。しかし、六十六部の研究が進むにつれて、再評価する研究者が増えているようです。ただ、問題点は、六十六部というのは、六十六ケ国の各国一ケ所に奉納することが原則です。それでは四国には、霊場が四ケ所しか成立しません。このままでは、四国八十八ケ所という霊場が、どのようにして形成されたかのプロセスは説明できません。そこで研究者が注目するのが、最初に見た永徳四年(1384相模鶴岡八幡宮金銅納札の「奉納妙典一国六十六部相州鎌倉聖源坊」です。ここには「一国六十六部」とあります。
千葉県成田市八代出土の経筒には、次のように記します。
十羅利女 紀州之住快賢上人
(釈迦坐像)奉納経王一国十二部
三十番神 当年今月吉日
ここでは「一国十二部」とあり、さらにこの他にも「一国三部」、「一国六部」などが、数多くあることが分かってきました。

「一国六十六部」は、写経巻六十六部を一国内に縮小して奉納するもので、全国廻国ではなく、一国内の六十六ヶ所の霊場に奉納したと解釈できます。この説に従えば「一国十二部」というのは、国内十二ケ所の霊場(札所)に奉納したということになります。こうした一国六十六部聖などによって、 一国内の霊場が複数化・多数化が進んだ、その結果、四国の霊場(札所)の多数化が形成されていったことが考えられます。しかし、仮説であってそれを裏付ける史料は、まだないようです。
 ただ『字和旧記』の「白花山中山寺」の項には、次のように記します。
「‥・六十六部廻国の時、発起の由、棟札あり、・・・・。右意趣者、奉納壱國六十六部、御経供養者也。・。」

明暦三年(1657)の「蕨国家文書」には、次のように記します。

諸国より四国辺路仕者、弘法大師之掟を以、阿波之国鶴林寺より日記を受け、本堂横堂一国切に札を納申也

同文書の万治2(1659)年には

担又四国辺路と申四国を廻り候節、弘法大師之掟にて、 一国切に札を納申候、土佐之国を仕舞、伊予へ人り、壱番に御庄観自在寺にて札初・・・

  意訳変換しておくと
諸国からの四国辺路者は、弘法大師の定めた掟として、阿波国鶴林寺より日記(納経札?)を受け、本堂や横堂(大師堂?)に一国の札所が終わる旅に札を納める。

四国辺路が四国を巡礼廻国する時には、弘法大師の定めた掟として、 一国が終わる度に、札を納める。土佐国が終わり、伊予へ入ると、(伊予の)1番である観自在寺にて札を納める・・・
ここからは、土佐や伊予などで国毎に札納めが行われていたことが分かります。このことは元禄9年(1697)の寂本『四国遍礼手鑑』に、国毎に札所番号が1番から記されている名残とも見えます。真念が『四国辺路道指南』で、札所番号が付ける以前は、国毎に始めと終わりがあったことがうかがえます。これは、六十六部が一国毎に霊場の多数化を図ったとする説とも矛盾しません。

1 札所の六十六供養塔
讃岐の霊場に残された六十六部の廻国供養塔の一覧表

 これを補強するのが最初に見た白峯寺の六十六部の奉納経筒です。
これは白峰寺という四国八十八ケ所霊場から初めて出てきた経筒で、讃岐出身の高野聖(行人)の良識が六十六部として奉納したものでした。彼は若いときには「四国中辺路」として、讃岐国分寺に落書きを残していたことは前回に見た通りです。これは「高野山の行人が六十六部として、四国の霊場化を推進した」という説を保証するものと研究者は考えているようです。
038-1観音寺市古川町・古川東墓地DSC08843
六十六部慰霊墓地(観音寺市古川町・古川東墓地)

  以上をまとめておくと
①14世紀から六十六部によって、霊場に法華経を奉納することが行われた。
②発願者がパトロンなり、法華経を写経させ、全国66ヶ国の霊場に納める信仰スタイルであった。
③これを代参者としておこなったのが六十六部といわれる廻国行者であった。
④六十六部を務めた廻国行者には、高野聖もいた。
⑤六十六部には、全国廻国ばかりでなく、一国の霊場六十六ヶ所に奉納するスタイルもあった。
⑥その結果、一国六十六部聖などによって、一国内の霊場が複数化・多数化が進んだ
⑦それが四国辺路にもちこまれると、四国の霊場(札所)の多数化が進み、四国辺路のネットワークが形成されていった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武田和昭  中世の六十六部と四国辺路   四国へんろの歴史62P
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  今は四国霊場の本堂に落書をすれば犯罪です。しかし、戦国時代に退転していた霊場札所の中には、住職もおらず本堂に四国辺路者が上がり込んで一夜を過ごしていたこともあったようです。そして、彼らは納経札を納めるのと同じ感覚で、本堂や厨子に「落書き」を書き付けています。今回は500年前の四国辺路者が残した落書きを見ていくことにします。
テキストは    「武田和昭  辺路者の落書き   四国へんろの歴史59P」

浄土寺
浄土寺
伊予の49番浄土寺の現在の本堂を建立したのは、伊予の河野氏です。
河野通信が源義経の召しに応じて壇ノ浦の合戦に軍船を出して、熊野水軍とともに源氏を勝利に導きました。この時に熊野水軍が500隻ぐらいの船を出しだのに対して、河野水軍はその半分の250隻ほど出したといわれています。その後、河野氏は伊予の北半分の守護になりました。その保護を受けて再興されたようです。

空也上人像と不動明王像の説明板 - 松山市、浄土寺の写真 - トリップアドバイザー

この寺の本尊の釈迦如来はですが秘仏で、本堂の厨子の中に入っています。
浄土寺厨子
浄土寺の厨子

その厨子には、室町時代の辺路者の次のような落書が残されています。
A 1525年(大水5年)「四国中辺路」「遍路」「越前の国一乗の住人ひさの小四郎」
B 1527年(大水7年)「四国中辺路同行五人・南無大師遍照金剛守護・阿州(阿波)名東住人」
C 1531年(享禄4年)「七月二十三日、筆覚円、連蔵、空重、泉重、覚円」
ここからは次のようなことが分かります。
①16世紀前半に、阿波や越前の「辺路同行五人」が「四国辺路」を行っていたこと
②「南無大師遍照金剛(空海のこと)」とあるので、弘法大師信仰をもつ人達であったこと。
以上から16世紀前半には、四国辺路を、弘法大師信仰をもつ宗教者が「辺路」していることを押さえておきます。

浄土寺厨子落書き
浄土寺の落書き(赤外線照射版)
本尊厨子には、この他にも次の落書があります。
D 金剛峯寺(高野山)谷上惣職善空 大永八年五月四国
E 金剛□□満□□□□□□同行六人 大永八年二月九日
F 左恵 同行二人 大永八(1528)年八月
ここからは次のようなことが分かります。
④翌年2月には、金剛峯寺(高野山)山谷上の善空という僧が6人で四国辺路を行っていたこと
⑥同年8月にも左恵が同行二人で四国辺路をしていること。
「本尊厨子に、書写山や高野山からやって来た宗教者が落書きをするとは、なんぞや」と、いうのが現在の私たちの第1印象かも知れません。まあ倫理観は、少し横に置いておいて次を見ていきます。

土佐神社】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
土佐神社(神仏分離前は札所だった)

30番土佐一宮拝殿には、次のような落書きが残されています。
四国辺路の身共只一人、城州之住人藤原富光是也、元亀二年(1571)弐月計七日書也
あらあら御はりやなふなふ何共やどなく、此宮にとまり申候、か(書)きを(置)くもかたみ(形見)となれや筆の跡、我はいづく(何処)の土となるとも、
ここからは次のようなことが分かります。
①単身で四国遍路中だった城州(京都南部)の住人が、宿もなく一宮の拝殿に入り込み一夜を過ごした。
②その時に遺言のつもりで次の歌を書き残した。
この拝殿の壁に書き残した筆の跡が形見になるかもしれない。私は、どこの土となって眠るのか。

同じ年の6月には、次のような落書きが書かれています。
元亀二(1571)年六月五日 全松
高連法師(中略) 六郎兵衛 四郎二郎 忠四郎 藤次郎 四郎二郎 妙才 妙勝 泰法法師  為六親眷属也。 南無阿弥陀仏
 元亀2年(1571)には高連法師と泰法法師とともに先達となって六親眷属の俗人を四国辺路に連れてきています。法師というのは修験者のことなので、彼らが四国辺路の先達役を務めていたことがうかがえます。時は、長宗我部元親が四国制圧に乗り出す少し前の戦国時代です。最後に「南無阿弥陀仏」とあるので、念仏阿弥陀信仰をもつ念仏聖だったことがうかがえます。そうだとすれば、先達の高連法師は、高野の念仏聖かも知れません。

国分寺の千手観音
千手観音立像(国分寺) 
80番讃岐国分寺(高松市)の本尊千手観音のお腹や腰のあたりにも、次のような落書きがあるようです。
同行五人 大永八(1528)年五月廿日
①□□谷上院穏□

同行五人 大永八年五月廿日
四州中辺路同行三人
六月廿□日 三位慶□

①の「□□谷上院穏□」は消えかけています。しかし、これは先ほど見た伊予の浄土寺「金剛峯寺谷上惣職善空大永八年五月四国」と同一人物で、金剛峯寺惣職善空のことのようです。どこにでも落書きして、こまった高野山の坊主やと思っていると、善空は辺路したすべての霊場に落書をのこした可能性があると研究者は指摘します。こうなると落書きと云うよりも、納札の意味をもっていた可能性もあると研究者は考えています。
ちなみに伊予浄土寺の落書きが5月4日の日付で、讃岐国分寺が5月20日の日付です。ここからは松山から高松まで16日で辺路していることになります。今とあまり変わらないペースだったことになります。ということは、善空は各札書の奥の院などには足を運んでいないし、行も行っていないことがうかがえます。プロの修験者でない節もあります。 
 讃岐番国分寺には、本尊以外にも落書があります。
落書された本堂の板壁が、後世に屋根の野地板に転用されて残っていました。
①当国井之原庄天福寺客僧教□良識
②四国中辺路同行二人 ③納申候□□らん
④永正十年七月十四日
ここからは次のようなことが分かります。
①からは「当国(讃岐)井之原庄天福寺・客僧教□良識が中辺路の途中で書いたこと。
②良識が四国中辺路を行っていたこと
③「納申候□□らん」からは、板壁などに墨書することで札納めと考えていた節があること
④永正十年(1513)は、札所に残された落書の中では一番古く、これを書いたのが良識であること。

①の「当国井之原庄天福寺客僧良識」についてもう少し詳しく見ていくことにします。
「当国井之原庄」とは讃岐国井原庄(いのはらのしょう)で、高松市香南町・香川町から塩江町一帯のことです。その庄域については、冠尾八幡宮(現冠櫻神社)由緒には、川東・岡・由佐・横井・吉光・池内・西庄からなる由佐郷と、川内原・東谷・西谷からなる安原三カ山を含むとあります。
岡舘跡・由佐城
天福寺は中世の岡舘近くにあった
「天福寺」は、高松市香南町岡の美応山宝勝院天福寺と研究者は考えています。この寺は、神仏分離以前には由佐の冠櫻神社の別当寺でした。

天福寺
天福寺

天福寺由来記には、次のような事が記されています。
①創建時は清性寺といい、行基が草堂を構え、自分で彫った薬師像を祀ったことに始まること、
②のち弘法大師が仏塔・僧房を整えて真言密教の精舎としたこと、
③円珍がさらに止観道場を建てて真言・天台両密教の兼学としたこと
ここでも真言・天台のふたつの流れを含み込む密教教学の場であると同時に、修験者たちの寺であったことがうかがえます。それを裏付けるように、天福寺の境内には、享保8年(1723)と明和7年(1770)の六十六部の廻国供養塔があります。ここからは江戸時代になっても、この寺は廻国行者との関係があったことが分かります。

 次に「天福寺客僧教□良識」の「客僧」とは、どんな存在なのでしょうか。
修行や勧進のため旅をしている僧、あるいは他寺や在俗の家に客として滞在している僧のことのようです。ここからは、31歳の「良識」は修行のための四国中辺路中で、天福寺に客僧として滞在していたと推察できます。
 以前にお話ししましたが、良識はもうひとつ痕跡を讃岐に残しています。
白峰寺の経筒に「四国讃岐住侶良識」とあり、晩年の良識が有力者に依頼され代参六十六部として法華経を納経したことが刻まれています。
経筒 白峰寺 (1)
良識が白峰寺(西院)に奉納した経筒

 中央には、上位に「釈迦如来」を示す種字「バク」、
続けて「奉納一乗真文六十六施内一部」
右側に「十羅刹女 四国讃岐住侶良識
左側に「三十番神」 「檀那下野国 道清」
更に右側外側に「享禄五季」、
更に左側外側に「今月今日」
経筒には「享禄五季」「今月今日」と紀年銘があるので、享禄5年(1532)年に奉納されたことが分かります。ここからは、1513年に四国中辺路を行っていた良識は、その20年後には、代参六十六部として白峰寺に経筒を奉納していたことになります。
 さらに、良識はただの高野聖ではなかったようです。
「高野山文書第五巻金剛三昧院文書」には、「良識」のことが次のように記されています。
高野山金剛三味院の住持で、讃岐国に生まれ、弘治2年(1556)に74歳で没した人物。

金剛三昧院は、尼将軍北条政子が、夫・源頼朝と息子・実朝の菩提を弔うために建立した将軍家の菩提寺のひとつです。そのため政子によって大日堂・観音堂・東西二基の多宝塔・護摩堂二宇・経蔵・僧堂などの堂宇が整備されていきます。建立経緯から鎌倉幕府と高野山を結ぶ寺院として機能し、高野山の中心的寺院の役割を担ったお寺です。空海の縁から讃岐出身の僧侶をトップに迎ることが多かったようで、良識の前後の住持も、次のように讃岐出身者で占められています。
第30長老 良恩(讃州中(那珂)郡垂水郷所生 現丸亀市垂水)
第31長老 良識(讃州之人)
第32長老 良昌(讃州財田所生 現三豊市財田町)
良識は良恩と同じように、讃岐の長命寺・金蔵(倉)寺を兼帯し、天文14年(1545)に権大僧都になっています。「良識」が、金剛三味院文書と同一人物だとすれば、次のような経歴が浮かんできます。
永正10年(1513)31歳で四国辺路を行い、国分寺で落書き
享禄 3年(1530)に、良恩を継いで、金剛三味院第31世長老となり
享禄 5年(1532)50歳で六十六部聖として白峯寺に経筒を奉納し
弘治 2年(1556)74歳で没した
享禄3年(1530)に没した良恩の死後に直ちに長老となったのであれば、長老となった2年後の享禄5年(1532)に日本国内の六十六部に奉納経するために廻国に出たことになります。しかし、金剛三味院の50歳の長老が全国廻国に出るのでしょうか、また「四国讃岐住侶良識」と名乗っていることも違和感があります。どうして「金剛三味院第31世長老」と名乗らないのでしょうか。これらの疑問点については、今後の検討課題のようです。

以上から、良識は若いときに、四国辺路を行って讃岐国分寺に落書きを残し、高野山の長老就任後には、六十六部として白峰寺に経筒を奉納したことを押さえておきます。有力者からの代参を頼まれての四国辺路や六十六部だったのかもしれませんが、彼の中では、「四国辺路・六十六部・高野聖」という活動は、矛盾しない行為であったようです。

以上、戦国時代の四国辺路に残された落書きを見てきました。
ここからは次のようなことがうかがえます。
①16世紀は本尊や厨子などに、落書きが書けるような甘い管理状態下にあったこと。それほど札所が退転していたこと。
②高野山や書写山などに拠点を置く聖や修験者が四国辺路を行っていたこと。
③その中には、先達として俗人を誘引し、集団で四国辺路を行っているものもいたこと。
④辺路者の中には、納札替わりに落書きを残したと考えられる節もあること。
⑤国分寺に落書きを残した天福寺(高松市香南町)客僧の良識は、高野聖として四国辺路を行い、後には六十六部として、白峰寺に経筒を奉納している。高野聖にとって、六十六部と四国辺路の垣根は低かったことがうかがえる。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
             「武田和昭  辺路者の落書き   四国へんろの歴史59P」

      十返舎一九_00006 六十六部
十返舎一九の四国遍路紀行に登場する六十六部(讃岐国分寺あたり)

   「六十六部」は六部ともいわれ、六十六部廻国聖のことを指します。彼らは日本国内66ケ国の1国1ケ所に滞在し、それぞれ『法華経』を書写奉納する修行者とされます。その縁起としてよく知られているのは、『太平記』巻第五「時政参籠榎嶋事」で、次のように説きます。

 北条時政の前世は、法華経66部を全国66カ国の霊地に奉納した箱根法師で、その善根により再び生を受けた。また、中世後期から近世にかけて、源頼朝、北条時政、梶原景時など、鎌倉幕府成立期の有力者の前世も、六十六部廻国聖だ。つまり我ら六十六部廻国聖は、彼らの末裔に連なる。

 六十六部廻国については、よく分からず謎の多い巡礼者たちです。彼らの姿は、次のように史料に出てきます。
①経典を収めた銅製経筒を埋納して経塚を築く納経聖
②諸国の一宮・国分寺はじめ数多の寺社を巡拝して何冊も納経帳を遺す廻国行者
③鉦を叩いて念仏をあげ、笈仏を拝ませて布施を乞う姿、
④ときに所持する金子ゆえに殺される六部
しかし、四国遍路のようには、私には六十六部の姿をはっきりと思い描くことができません。まず、彼らの納経地がよく分かりませんし、巡礼路と言えるような特定のルートがあったわけでもありません。数年以上の歳月を掛けて日本全土を巡り歩き、諸国のさまぎまな神仏を拝するという行為のみが残っています。それを何のために行っていたのかもはっきりしません。讃岐の場合は、どこが奉納経所であったのかもよく分かりません。
六十六部 十返舎一九 大窪寺
甘酒屋に集まる四国遍路 その中に描かれた六十六部(十返舎一九)

白峯寺縁起 巻末
『白峯寺縁起』巻末(応永13年-1406)
研究者は白峯寺所蔵の『白峯寺縁起』の次の記述に注目します。
ここに衆徒中に信澄阿閣梨といふもの、霊夢の事あり。俗来て告げて云。我六十六ケ国に、六十六部の本尊を安置すへき大願あり。白峯寺本尊をは早造立し申たり。渡奉へしと示して夢党ぬ.・…
意訳変換しておくと
白峯寺の衆徒の中の信澄阿閣梨という僧侶が次のような霊夢を見た。ある人がやって来て「我は六十六ケ国に、六十六体の本尊を安置する大願も持つ。白峯寺本尊は早々に造立したので、これを渡す」と告げて夢は終わった。
ここからは15世紀初頭には、白峯寺が六十六の本尊を祀り、奉納経先であったことがうかがえます。
古代の善通寺NO11 香色山山頂の経塚と末法思想と佐伯氏 : 瀬戸の島から
埋められた経筒の例

さらに、白峯寺には、西寺の宝医印塔から出土した伝えられる経筒があります。
経筒 白峰寺 (1)
白峯寺の経筒(伝西寺跡の宝医印塔から出土)

そこには次のような銘文があります。
    享禄五季
十羅刹女 四国讃州住侶良識
奉納一乗真文六十六施内一部
三十番神 旦那下野国 道清
今月今日
意訳変換しておくと
 享禄五(1532)年
法華経受持の人を護持する十人の女性である十羅刹(じゅうらせつにょ)に真文六十六施内一部を奉納する。 納経者は四国讃州の僧侶良識 檀那は 旦那下野国(栃木県)の道清
今月今日
ここからは、下野の道清から「代参」を依頼された「四国讃州の良識」が讃岐の六十六部の奉納先として白峰寺を選んでいたことが分かります。室町時代後期には、白峯寺が六十六部の本納経所であったことがうかがえます。ここで研究者が注目するのが「四国讃州住侶良識」です。良識について、研究者は次のように指摘します。
①「金剛峯寺諸院家析負輯」から良識という僧は、高野山金剛三味院の住職であること
②戦国期の金剛三昧院の住職をみると良恩―良識―良昌と三代続て讃岐出身の僧侶が務めたていること
③良識は金剛三昧院・第31世で、弘治2年(1556)11月に74歳で没していること
展示・イベントのお知らせ|高松市
讃岐国分寺 復元模型

良識については、讃岐国分寺の本尊の落書の中にも、次のように名前が名前が出てきます。
当国井之原庄天福寺客僧教□良識
四国中辺路同行二人 納中候□□らん
永正十年七月十四日
意訳変換しておくと
讃岐の井之原庄天福寺の客僧良識が、四国中辺路を同行二人で巡礼中に記す。永正十(1513)年七月十四日

ここに登場する良識は、天福寺の客僧で、「四国中辺路」巡礼で讃岐国分寺を参拝しています。良識は次の3つの史料に登場します。
①白峰寺の経筒に出てくる良識
②高野山の金剛三味院の住職・良識
③国分寺に四国中辺路巡礼中に落書きを残した良識
この三者は、同一人物なのでしょうか? 時代的には、問題なく同時代人のようです。しかし、金剛三味院の住職という役職につく人物が、はたして六十六部として、全国を廻国していたのでしょうか。
室町時代後期の讃岐と高野山の関係をみておきましょう。
金毘羅大権現の成立を考える際の根本史料とされるのが金比羅堂の棟札です。ここには、次のように記されています。
 (表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿」
    当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」
    于時元亀四年突酉十一月廿七記之」
 (裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師
    高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
銘を訳すれば、

「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都
宥雅が造営した」

「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」
 この棟札は、かつては「本社再営棟札」と呼ばれ、「金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった」と考えられてきました。しかし、近年研究者は、「この時(元亀四年)、はじめて金毘羅堂が創建された。『本尊鎮座』というのも、はじめて金比羅神が祀られたものである」と考えるようになっています。
 ここには建立者が「金光院権少僧都宥雅」とあり、その時の導師が金剛三味院の良昌であることが分かります。建立者の宥雅は、西長尾城城主長尾氏の弟とも従兄弟ともされます。彼は、長尾一族の支援を受けて、新たに金毘羅神を創り出し、その宗教施設である金比羅堂を建立します。その際に、導師として高野山三昧院の良昌が招かれているのです。このことから宥雅と良昌の間には、何らかの深い結びつきがあったことがうかがえます。そして、先ほど見たように、戦国期の高野山金剛三昧院の住職は、「良恩―良識―良昌」と受け継がれています。良昌は良識の後任になることを押さえておきます。

戦国期の金昆羅金光院の住職を見ると、山伏(修験者)らしき人物が数多く勤めています。
流行神としての金毘羅神が登場する天正の頃の住職は、「宥雅一宥厳一宥盛」と続きます。初代院主とされる宥雅は長尾大隅守の弟か従兄弟とされます。彼は長尾氏が長宗我部元親に減ぼされると摂津の堺に亡命します。金毘羅に無血入城した元親が建立されたばかりの松尾寺を任せるのが、土佐から呼び寄せた宥厳です。宥厳は土佐幡多郡の当山派修験のリーダーで大物修験者でした。その後を継いだのが宥厳を補佐していた金剛坊宥盛です。宥盛は山伏として名高く、金比羅を四国の天狗信仰の拠点に育て上げていきます。その宥盛は、もともとは宥雅の弟子であったというのです。
 こうしてみると、金岡三昧院良昌と深い関係にあった宥雅も実は山伏であったことがうかがえます。
宥盛は、山伏として多くの優れた弟子たちを育てて権勢を誇り、一方では高野山浄菩提院の住職ともなって、金光院と兼帯していたことも分かってきました。このように高野山の寺院の住職を、山伏が勤めていたことになります。
 近世には「山伏寺」というのは、一団格が低い寺と見なされるようになり、山伏と関係していたことを、どこの真言寺院も隠すようになりますが、近世はじめには山伏(修験者)の地位と名誉は、遙かに高かったことを押さえておきます。
 例えば、17世紀前半に善通寺の住職が、金毘羅大権現の金光院院主は善通寺の「末寺」であると山崎藩に申し立てて、末寺化しようとしています。それほど、真言僧侶の中では、金毘羅大権現の僧侶と、善通寺は関係が深いと認識していたことがうかがえます。
 さて、もういちど白峯寺経筒の良識にもどります。
先ほど見た良識が同一人物であったとすれば、次のような彼の軌跡が描けます。
①永正10年(1513)、31歳で四国辺路
②享禄 5年(1532)、50歳で六十六部となり日本廻国
六十六部の中に、高野山を本拠とする者が多くいたことは、先ほど見たとおりです。当時の高野山は学侶方、行人方、聖方などに大きく分かれていましたが、近時の研究では高野山の客僧の存在が注目されるようになっているようです。客僧は学侶・行人・聖のいずれにも属さない身分で、中世末以降は山伏をさすことが多いようです。六十六部として廻国したのは行人方あるいは客僧と研究者は考えています。
 室町時代後期ころの金剛三味院がどのような様子だったのかは分かりません。しかし、戦国時代には山伏と深い関係があったことは、「良識ー良昌ー宥雅ー宥盛」とのつながりでうかがえます。良識が客僧的存在の山伏であり、六十六部や四国辺路の先達をした後、金剛三味院の住職となったというストーリーは無理なく描けます。

 白峯寺に版本の『法華経』(写真34)が残されています。
白峯寺 法華経第8巻
法華経(白峯寺)
その奥書には、次のように記されています。
寛文四年甲辰十二月十日正当
顕考岡田大和元次公五十回忌於是予写法華経六十六部以頌蔵 本邦
六十六箇国珈寓迫遠之果懐而巳
寛文三年癸卯四月日
従五位下神尾備前守藤原元勝入道宗休
  意訳変換しておくと
寛文四(1664)年甲辰十二月十日に、「従五位下神尾備前守 藤原元勝入道宗休」が父の岡田大和元次公の五十回忌のために、法華経を書写し、全国の六十六ヶ国に奉納した。
六十六箇国珈寓迫遠之果懐而巳
寛文三年癸卯四月日
従五位下神尾備前守 藤原元勝入道宗休

ここには、藤原元勝が父岡田元次公の50回忌に、66ヶ国に『法華経』を奉納したこと、讃岐では、白峯寺に奉納されたことが分かります。
奉納者の藤原元勝は岡田元勝といい、家康に仕えた旗本で、次のような経歴の持ち主のようです。
天正17年(1589)に岡田元次の子として生まれその後に神尾姓となり
慶長11年(1606)に、徳川家康に登用され、書院番士になり
寛永元年(1624)に陸奥に赴き
寛永11年(1634)に長崎奉行へ栄転
寛永15年(1638)に江戸幕府の町奉行となり
寛文元年(1661)3月8日に退職。
その後は、宗体と名乗り、寛文7年(1667)に没
奥書からは、彼が退職後の寛文3年(1663)に父の岡田元次公の50回忌に『法華経』を66ヶ国に奉納したことになります。しかし「写法華経六十六部」とありますが、70歳を過ぎた高齢者が10年以上もかかる日本廻国を行ったとは思えません。「柳寓追遠之果懐而巳」をどう読むのかが私にはよく分かりませんが、遠方なので代参者に依頼したと私は解釈します。
 
 宝永~正徳(1704~16)年間に日本廻国した空性法師は、四国88ヶ所のほぼ全てに奉納しています。
この時になると、白峯寺だけでなく四国霊場全てが奉納対象になっていたことが分かります。そして以後の六十六部廻国行者も同じ様に全てに奉納するようになります。その結果、讃岐の霊場の周辺には数多くの六十六部の痕跡が残ることになります。この痕跡が最も濃いのが三豊の雲辺寺→大興寺→観音寺の周辺であることは、以前にお話ししました。

以上、享禄5年の経筒、神尾元勝の『法華経』奉納などから白峯寺か中世末から六十六部奉納経所であったと研究者は判断します。これは六十六部が四国辺路の成立に関わっていたことを裏付けることになります。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武田 和昭 四国辺路と白峯寺   白峯寺調査報告書2013年141P
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