崇徳と後白河の兄弟間の権力闘争は、江戸時代までは読み物や歌舞伎などでも赤裸々に語られていました。しかし、明治以後の皇国史観の下では、二人の間の確執を取り上げることは不敬罪に問われる可能性もあり、タブー化します。戦後も郷土史家間には、この流れに抗う動きがなく、両者の間のことをきちんと史料を裏付けて各町村史誌に記す動きがなかなか出てきませんでした。そんな中で、昨年末に出された坂出市史通史中世は、この点に問題意識を持って取り組んだ内容となっています。坂出市史をテキストにして、崇徳上皇没後の後白河上皇の対応と慰霊について見てみましょう。それは、ある意味で白峰寺の歴史に迫ることにもつながると思うからです。
崇徳上皇は、保元元( 1156)年、保元の乱の敗北で讃岐へ配流となります。このとき崇徳上皇は罪人として扱われたことは、後白河天皇が発した宣命(石清水八幡官蔵)からも明らかです。長寛二(1164)年に、崇徳上皇が亡くなったときにも「後白河太上皇無服暇之儀」とあり、後白河上皇は喪服にも服していません。兄崇徳に対する冷淡さや非情さを感じる対応です。私が小説家なら兄崇徳死亡を告げる讃岐からの報告に対して、後白河に語らせる台詞は「ああ、そうか」だけです。もう過去の人として、意識の外に追いやっていたと私は考えています。
讃岐の郷土史関係の書籍は、この点を無視して没後の崇徳上皇が、朝廷の指示に基づいて丁重に白峰に葬られたとするものが多いようです。しかし、私はこれには疑問を持ちます。後白河天皇の兄追放後の措置や、没後直後の対応を見ると御陵造営を指示したとは思えないのです。
崇徳上皇の陵墓は、五色台山塊の白峰山(松山)に造営されます。
今は立派に整備されて想像もつきませんが、埋葬された当時は粗末なものであったようです。その埋葬経過についても確かな史料が残されていません。この辺りも通常の天皇陵墓とはちがうようです。国衛(留守所)役人の手で葬られたとされます。しかし、後白羽上皇や朝廷からの指示がない、というよりも中央から無視されたのです。そのために、やもおえず地元の国衙役人たちは自分たちの判断で、山岳宗教の拠点であった白峰寺に埋葬されたと坂出市史は記します。
白峯寺
保元の乱後に崇徳上皇に従って、共に讃岐に下った兵衛佐は、上皇が亡くなり役目を終えて京都へ帰還することになります。その時に彼女が詠んだ歌が『玉葉和歌集』に、載せられています。
崇徳院につき奉りて讃岐国に侍りけるを、
かくれさせ給いにければ都に帰りのばりけるの後、
人のとむらいて侍りける返事に申しつかわしける君なくて かえる波路に しをれこし 袖の雫を 思いやらなむ
と、その心情を歌つています。ここからせめて遺灰なりとも持ち帰りたかったようですが、それもかなわなかったことがうかがえます。ここでは崇徳上皇の白峰への埋葬は、後白河上皇の意向を受けて「薄葬」であったことを押さえておきます。
郡衙の在庁官人は、どうして白峰に埋葬することにしたのでしょうか?
白峰山には、白峰寺が崇徳院陵墓が造られる前からありました。近年行われた文化財調査によると、白峰寺の十一面観音菩薩立像は平安時代中期、不動明王坐像は平安時代後期の作とされています。つまり、これだけを見ても白峯寺(あるいはその前身となる寺院)が、崇徳上皇が流されてくる平安時代末期には存在したことが分かります。
応永14(1406)年の年紀をもつ『白峯寺縁起』には、弘法大師空海が寺の建設をこの地を定め、智証大師円珍が山の守護神の老翁に会い、10体の仏像を造立し、49院を開いたと記します。空海は真言宗の開祖、また円珍は天台宗寺門派の祖で、どちらも讃岐出身です。これら10体の仏像のうち、四体の千手観音が白峯寺・根香寺・吉水寺・白牛寺にそれぞれ安置されたと記します。ここには円珍が同木から複数の仏像をつくり、関連寺院に安置したとする複数同木説が掲げられています。現在の白峯寺は真言宗に属しますが、中世の白峯寺は真言一辺倒でなく天台の要素も濃厚であったようです。「白峯寺縁起」に「空海の開基、円珍の再興」の寺院と記されているのも中世の真言と天台の混淆・共存関係を示す物かも知れません。
五色台にある他の寺院を見ておきましょう
白峰寺と同じ木から彫られた仏像が安置されたという根香寺は、五色台の青峰の山頂東側にある山岳寺院です。吉水寺は近世に無住となり退転しましたが白峯寺と根香寺との間にあった山岳寺院です。残りの白牛寺は、「白牛山と号する国分寺」のことと研究者は考えているようです。この4つの寺院は山岳寺院のネットワークで結ばれていました。
白峯寺奥の院に下りていく石段
密教の隆盛と共に山岳修行が僧侶の必須項目になると、国家や国衙も僧侶の山林修行のゲレンデを整えていきます。それが那珂郡の霊山大川山をゲレンデとする中寺廃寺であり、五色台をゲレンデとする「白峯寺・根香寺・吉水寺・白牛寺(国分寺)」でした。4つの寺は、五色台の小辺路ルートの拠点として整えられたようです。そういう意味では、白峯寺をはじめとする五色台の山岳寺院は、国分寺や国府と創建当初から関係を持っていたのかもしれません。五色台には、熊野行者など修験者(山伏)の活動がうかがえます。
稚児の滝とその上の霊場、そして奥の院から岬の突端の行場などは、修験=山伏たちの修行ゲレンデだったようです。そして、根来寺との間では、何度も往復辺路する小辺路修行が行われていました。つまり、五色山そのものが霊山で、修験者にとっては聖地だったのでしょう。それが古代の山岳寺院としての白峰寺の姿だったと私は考えています。
白峰寺古図
崇徳上皇の陵墓管理のことを考えると、国分寺の奥の院的な存在である白峰寺に委託するのがいいと国府の在庁官人たちは判断したのかも知れません。こうして白峰山に崇徳上皇は葬られます。先ほども述べたように、当時の天皇陵墓としては規格外で粗末なものだったようです。崇徳上皇の怨霊が怖れられるようになるのは、崇徳没後13年後の安元2(1176)年になってからのようです。
三条実房の口記『愚味記』(陽明叢書)の安元三(1177)年五月九日条には、次のように記されています。
讃岐院(崇徳上皇)・宇治左府(藤原頼長)こと、沙汰あるべきこと、相府(藤原経宗)示し給いていわく、讃岐院ならびに宇治左府こと、沙汰あるべしと云々、これ近日天下悪事、かの人等の所為の由疑いあり、よってかのことを鎮められんがためなり、無極人事なり、
意訳変換しておくと
讃岐院(崇徳上皇)・宇治左府(藤原頼長)ことについて、相府(左大臣藤原経宗)は、最近の「天下悪事」は、崇徳上皇と藤原頼長の崇りによるもので、それを鎮めることが極めて重要なことであると実房に語った。
左大臣が保元の乱で敗れた崇徳上皇と藤原頼長のタタリを怖れ、その対策を最重要課題であると認識していたことが分かります。3日後の5月13日条には、上皇と頼長の怨霊対応について後白河院より蔵人頭藤原光能を通じての諮問が次のように記されています。
讃岐院・宇治左府間こと、相府示し給いていわく、讃岐院ならびに左府間等こと、昨日、光能をもつて仰せ造わさるなり、頼業・師尚勘文下し給うなり、また去年用意のため、かの両人ならびに永範卿・師直等に仰せ、勘がえ儲けせしむるなり、
意訳変換しておくと
相府(左大臣藤原経宗)は、讃岐院(崇徳上皇)・宇治左府(藤原頼長)について、昨日光能から報告があった。これについては昨年に清原頼業・中原師直らに勘文(調査報告)の作成を命じておいたものである。
ここからは文中に前年の安元2(1176)年に太政官の事務官である外記の清原頼業・中原師直らに勘文(調査報告)の作成を命じていたことが分かります。讃岐での現地調査などを経て、報告書が提出されたようです。怨霊を後白河院が意識しはじめたのも、この報告書の提出を命じた前年のことであったようです。同時に、朝廷は讃岐において崇徳上皇がどのように葬られていたかについて、なにも知らなかったことが分かります。崇徳上皇没後の扱いについては、後白河上皇の無関心に対応して、朝廷はノータッチだったことが裏付けられます。

西行
鳥羽院時代に北面の武士で、崇徳上皇とは近い関係にあったのが西行です。彼は23歳で出家し、久安4(1148)年頃に高野山に入り聖となり、仁安3(1168)年に中四国へ辺路修行のための途上に、白峰のやってきます。旧主であり、共に歌会で興じた崇徳院の墓所松山(白峰陵)を訪れ、その霊を慰めるためです。『山家集』には、当時の白峰陵墓の粗末さや荒廃ぶりが描かれています

後白河上皇
後白河上皇が兄の崇徳上皇の慰霊について、関心を持つようになったのはどうしてなのでしょうか
安元2(1176)年には、後白河院周辺の人物が相次いで亡くなります。
6月13日 鳥羽上皇の娘で、二条天皇の中官となった高松院妹子が30歳で没、7月 8日 後白河院の女御で高倉天皇の生母建春門院平慈子が35歳で没7月17日 後白河の孫六条院が13歳で没8月19日 藤原忠通の養女で、近衛天皇の中宮となった九条院呈子が46歳で没
この状況について『帝王編年記』(『新訂増補国史大系』)は次のように記します。
「三ケ月の中、院号四人崩御、希代のことなり」
近親者の相次ぐ死は崇徳上皇と頼長の怨霊に対する恐怖を後白河院に生じさせます。それを決定付けたのが翌年治承元(1177)年の京都大火による大内裏の焼亡でした。これらを崇徳上皇と藤原頼長の怨霊のしわざと、後白河上皇は恐れるようになります。

山田雄司氏は『崇徳院怨霊の研究』の中で、両人の怨霊が取りざたされることになった最大の要因は、大極殿が京都大火により焼失してしまったことにあるとします。そして、怨霊を最も意識するようになったのが後白河院であったと指摘します。
『愚味記』治承元(1177)年五月十三・十七両国条には、その対応策が次のように記されています。
(五月十三日)讃岐院(崇徳上皇)・宇治左府(藤原頼長)間こと、(前略) 昨日下し給うの勘文等、 一々見合いの由仰せ義あり、在知の旨は讃岐院においては、成勝寺国忌を置かれ、八講を行せらる。また讃岐御在所において同じく追善を修すべきか、また左府においては、贈官位あるべきか、しかれば太政大臣は、その子師長すでに任じ候、よって正一位・准三宮を贈る、(中略)惣じてかの両人のため、もつとも追善を修せらるべきか、
意訳変換しておくと
(前略)昨日提出された調査報告にもとづいて対応策が次のように協議された。讃岐院(崇徳上皇)については、成勝寺に国忌を置き、法華八講を行うことで、歴代天皇と同じように崇徳上皇の菩提を慰霊すること。また讃岐でも御在所(上皇墓所)においても同じように追善を行う事。また左府(藤原頼長)については、官位を改めて贈り、子師長には正一位・准三宮を贈る、(中略) 両人のための追善を行う事。
追善を行う事で怨霊を鎮める方針が確認されています。
具体的な対応策は4日後の5月17日に次のように示されました。
具体的な対応策は4日後の5月17日に次のように示されました。
讃岐院ならびに宇治左府こと、明日奏せしむべしと云々、今日すでに書を請け候、院五ヶ事、左府四ケ事と云、(中略)讃岐院事一 かの御墓所をもつて勅し山陵と称し、その辺堀埋し汚穢せしめざれ。また民烟一両を割分し、御陵を守らしむること一 陰陽師を遣わし、山陵を鎮めしめ、同じく僧侶を遣わし経を転ぜしむること一 国忌を置かるること一 讃岐国御墓所辺、一堂を建て三昧を修すること宇治左府事については略漢家の法、あるいは社櫻を立て、祭祀をおこなうの例有り、もしくはその告有り、かの例に随うべきかと云々、戸主の腋ならびに評定の詞等、その状多くして忘却す、よってこれを記さず尋ね申すべきなり、多くは外記勘文に付け先例を注出せらるなり、院御事は崇道天王の例多くこれを載す、
意訳変換しておくと
讃岐院(崇徳上皇)と宇治左府(藤原頼長)について、明日発表する内容について、今日すでにその書を見たが内容は次の通りであった。讃岐院(崇徳上皇)について① 白峰の御墓所を詔勅で山陵として、その周辺の堀を整備して周辺からの穢れを防ぐ。御陵を守るための陵戸(専属墓守)を設ける。②陰陽師と僧侶を現地(讃岐)に派遣して鎮魂させる。③ 崇徳上皇の国忌を定めること。④ 讃岐国白峰墓所に、一堂を建て法華三昧を行うこと
ここには、崇徳上皇と藤原頼長への具体的な朝廷の対応が挙げられています。4番目の国忌とは天皇や先帝、母等の命日を、政務を止めて仏事を行うこととした日のようです。朝廷では、この日に寺院において追善供養を行い、日程が重なる神事は延期されていました。 後鳥羽上皇から無視されていた崇徳上皇の霊を、以後は普通に扱おうとする内容です。
ここで注目したいのが、崇徳院の墓所についての対応です。
1番目の項目に「讃岐国にある上皇の墓所を山陵と称させ、まわりに堀をめぐらしてけがれないようにし、御陵を守るための陵戸を設ける」とあります。ここからは、それまでは山陵には堀もなく、管理のための陵戸もなく、「一堂」もなかったことが分かります。崇徳上皇没後に造られた山陵は、現地の国司や在庁官人によって設計・築造されたもので、上皇の墓としての基準を満たすものではなかったことが裏付けられます。
治承元(1177)年に決定された山陵・廟所の建立計画は、朝延内で論議されたままで立ち消えになってしまします。それは、平清盛による後白河法皇の幽閉というクーデターのためです。これによって後白河院政は停止され、崇徳院怨霊対策も頓挫してしまいます。崇徳上皇怨霊対策が再度動き出し始めるのは、養和元(1181)年2月に、清盛が亡くなり源平合戦で平氏が都落ちした後のことになります。
先に決まっていた白峰山陵に附属の「一堂」を建設する計画は、14年後の建久三(1191)年になって再び動き始めます。
このころから後白河上皇は原因不明の病気に苦しめられるようになります。これも崇徳上皇の怨霊のしわざと考えたのでしょうか、停止されていた堂の建設計画が実現に向けて進み始めます。『玉葉』建久3年12月28の記事には「崇徳院讃岐国御影堂領に官符を給うべし」とあるので完成した仏堂は、「崇徳院讃岐国御影堂」と名付けられたことが分かります。
このころから後白河上皇は原因不明の病気に苦しめられるようになります。これも崇徳上皇の怨霊のしわざと考えたのでしょうか、停止されていた堂の建設計画が実現に向けて進み始めます。『玉葉』建久3年12月28の記事には「崇徳院讃岐国御影堂領に官符を給うべし」とあるので完成した仏堂は、「崇徳院讃岐国御影堂」と名付けられたことが分かります。
白峰寺蔵『白峯山古図』にも崇徳院陵の脇に「御影堂」が記されています。この御影堂には官符が給され維持経営されることになります。そして、京都春日河原に建立された崇徳院廟は、後に粟田官と名付けられると共に、白峰と同じ名前の崇徳院御影堂が付随して建てられます。後白河法皇は、建久3年3月13日に亡くなっています。
白峰寺に朝廷の手によって初めて建立されたお堂は、決して大きなものではありませんでした。
ところが「崇徳院讃岐国御影堂」と名付けられたお堂の威光は、年を経るに従って輝きを増していくのです。そらが崇徳院の御陵を供養・管理しているのは白峯寺であるという存在証明になります。また、歴代天皇の亡骸を埋納した墓所の内、畿内以外では唯一の地方にある御陵を守護する寺でもありました。「白峰寺=特別な寺=権威ある寺」という意識を、人々に広げていくことになります。これが白峰寺の中世における発展の基礎になったと研究者は考えているようです。
白峰寺の天狗 相模坊
しかし、それだけではありません。白峰は天狗の山として、天狗信仰の中心地でもあったのです。もし、崇徳上皇の怨霊が現れなければ、白峰の中世の繁栄があったかどうかは分かりません。崇徳上皇の怨霊が天狗化することで、天狗=山伏(修験者)となり、白峰寺は隆盛を向かえることになったのかもしれません。そうだとすると、それを企画したプランナーがいたことになります。以上をまとめておくと
①白峰寺は、古代の山岳寺院として出発した。
②それは五色台を行場とする国分寺や根来寺などの山岳寺院のネットワークの拠点の一つとして整備された。
③古代の山岳寺院を担ったのは、密教系の修験者以外にも、熊野行者・高野聖・六十六などの廻国行者であった。白峰山は、彼らの活動拠点であった。
④崇徳上皇没後に、讃岐国府の在庁官人たちは山陵を白峰山に造ることにした。
⑤この山陵は、歴代天皇のものに比べると規格外に粗末な物で、これには後白河上皇や朝廷は関与しなかった。
⑥しかし、都で崇徳上皇の怨霊さわぎがおこると、対応策として追善慰霊が決定された。
⑦それが陵墓の整備・墓守設置・一堂建設などであった。
⑧こうして白峰寺は「崇徳院讃岐国御影堂」を持つ追善の寺として認識されるようになる。
⑨寄進された周辺荘園を寺領化し、経済的な基盤を整えた白峰寺は大寺院へと成長して行く。
⑩その担い手は、修験者たちであった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。