瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:百済救援戦争

白村江の敗北と捕虜たち

前回は新羅救出戦争に出兵した倭軍が白村江で敗北し、多くの兵士が捕虜となり、唐で奴隷などとして長年の抑留生活を送ったこと、そのなかに伊予軍の越知直氏がいたことを見ました。今回は、捕虜とならずに帰国した「(備後国)三谷郡大領の先祖」を見ていくことにします。テキストは下向井 龍彦 百済救援戦争の歴史的位置」です。

白村江の戦い」中川恵司 画
白村江の戦い 大型の唐軍船に立ち向かう小型の倭軍船
663年8月27・28日   白村江で倭軍水軍は大敗北
9月7日 周留城は唐軍に降伏 百済王族・貴族・将軍など多くの百済人は、残存日本軍が集結していた「弖礼城」(所在地未詳)に敗走。
9月25日 撤退する倭軍船に便乗し、倭に亡命。
敗軍を救護し、収容する博多湾はパニック状態へ。
中大兄皇子らは敗北の衝撃に動揺するなかで、大本営の長津宮に敗軍の将や亡命百済高官を集め、軍を解散し、飛鳥へと引き上げていきます。多数の亡命百済人が中大兄ら政府首脳に従ったようです。一方、全国各地から動員された評造軍も解散を告げられて、それぞれ国毎に生存者をまとめて帰郷の途につきます。それは傷ついた心と躰と引きずりながら、傷病者を連れての長く辛い旅路だったでしょう。
 百済救援派遣軍に動員された人名として史料に残る人達を一覧表にしたのが下表です。
白村江の捕虜一覧表
 この中の⑰には、名前は分かりませんが出身地が備後国三谷郡の評造(後の郡司)が記されています。

備後三谷郡周辺
三谷郡は現在の広島県三次市の南東部にあたります。ここに登場する「三谷郡の大領(郡司のトップ)の先祖」について、仏教説話集『日本霊異記』上巻7縁には、次のように記します。
亀の命を贖ひ生を放ちて現報を得亀に助らるる縁 第七
禅師弘済は,百済国の人なり。百済の乱(百済救出戦争)の時に当りて,備後国三谷郡の大領の先祖,百済を救はむが為に軍旅に遣さるる時に,誓願を発して言(申)さく「もし平に還来らば,諸の神祇の為に伽藍を造立て多諸くの寺を起らむ」とまうす。
 遂に災難を免れ,すなはち禅師を請へて相共に還来り三谷寺を造る。其の禅師の伽藍と諸の寺とを造立てたる所以なり。道俗観て,共に為に欽敬ふ。
意訳変換しておくと
亀の命を救って、放生の結果、亀に助けられた話 第七
①禅師弘済は,百済国の人である。②備後国三谷郡の大領の先祖は,百済救援戦争の派遣軍として動員された際に、「もし無事に帰国することができれば,諸々の神祇のために伽藍を造立て寺院を建立する」と誓願した。 その結果、災難を免れ,③禅師を伴って帰国し、三谷寺を建立した。百済から亡命禅師が伽藍と諸寺を周辺にも造立した。人々は,これを見て崇拝した。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①僧侶弘済は、百済滅亡の際に倭にやってきた亡命百済人(渡来人)であること
②備後国三谷郡の大領の先祖(三谷氏)は,百済救援戦争に動員され白村江で敗残兵となったこと
③三谷氏は帰国中に、ひとりの亡命百済僧に出会い仏教に帰依したこと
④三谷氏は、禅師に、誓願通り氏寺建立を次のように依頼した
「是非、私の故郷『三谷』に来ていただきたい。私は出陣に当たって無事帰還できたら伽藍を立てると産土神に誓願した。産土神のお陰で生還できた。三谷に寺院を建立し、住持になってくれまいか」
⑤「遂に災難を免る。即ち禅師を請うけて、相共に還り来る」とあるので、 百済僧弘済は、見知らぬ三谷を終の棲家にする決意をしたこと。

「(三谷)大領の先祖」が率いた評造軍の軍士の全員が生きて故郷の土を踏めたわけではないでしょう。多くの兵士たちが異国に眠ったままになりました。戦死・行方不明の兵士の家族は泣き崩れ、長く悲嘆に暮れたことでしょう。遺族に僧弘済は、懇ろに仏の功徳を説いて励まします。『日本霊異記』には、「三谷寺は、其の禅師の造立する所の伽藍なり。道俗観て共に欽敬を為す」とあるので、彼らの信仰を得たようです。実は、この話はここまでは「前振り」なのです。本当のテーマは、救った亀に助けられるという浦島太郎のような「放生」にあります。回り道になりますが、後半も見ておくことにします。

禅師尊き像を造らむが為に,京に上り財を売る。既に金と丹との等き物を買得て,難破の津に還到る。時に海の辺の人大なる亀四口を売る。禅師人に勧へて買ひて放たしむ。すなはち人の舟を借り,童子二人を将て共に乗りて海を度る。日晩れ夜深けて舟人欲を起し,備前の骨嶋の辺に行到りて,童子等を取りて海の中に擲入る。然うして後に禅師に告げて云はく「速に海に入るべし」といふ。師教化ふといへども賊なほ許さず。茲に願を発して海の中に入る。水腰に及ぶ時に石を以ちて脚に当つ。其の暁に見れば,亀負へり。其の備中の浦にして,海の辺に其の亀,三頷きて去る。是れ放てる亀の恩を報ゆるかと疑ふ。時に賊等六人,其の寺に金と丹とを売る。壇越まづ量るに価を過ゆ。禅師後に出でて見れば,賊等忙然しくして退進を知らず。禅師憐愍びて刑罰を加へず。仏を造り塔を厳り,供養し巳りぬ。後に海の辺に住みて往き来る人を化ふ。春秋八十有余のとしに卒ぬ。畜生すらなほ恩を忘れず,返りて恩を報ゆ。何にいはむや,人にして恩を忘れむや。 

意訳変換しておくと
そこで禅師は、尊き仏像を本尊として安置するために,④京に上って、材料となる金と丹を買い入れて,難破の津までもどってきた。すると海辺で大きな亀四匹を売っていた。禅師は、これを買って放生した。その後、難波の津から船乗りを雇って、童子二人を連れて瀬戸内海に出港した。日が暮れて、夜深けになり備前の骨嶋(?)の辺に至ったところで、船乗りが悪心を起して,童子等を海の中に放り込んだ。そして、禅師に「おまえも海に入れ」と迫った。師は教え諭したが賊は許さない。そこで、願を発して海の中に入った。すると腰が水に浸かるまでに、足を何かが支えた。よく見ると亀の甲羅に立っていた。そのまま亀に背負われ④備中の浦の海の辺に送られた。これは放生した亀の恩のお礼であろう。
 その後、賊等六人は,その寺に盗んだ金と丹とを売る。壇越まづ量るに価を過ゆ。禅師後に出でて見れば,賊等忙然しくして退進を知らず。禅師は憐愍して、この罰を問わなかった。こうして仏像を造り、塔を建て、供養を重ねた。瀬戸内海や出雲の海の辺に住む⑤「海の民」たちと往来を重ね、教化を奨めた。禅師弘済は、八十有余で亡くなった。畜生の亀でさえ恩を忘れず,恩を返そうとする。何にいはむや,人にして恩を忘れむや。
   この物語の本題は、難波で捕らわれていた亀を買って放生したところ、備前で海賊に変身した船頭に海に突き落とされ時に、亀が甲羅に載せて備中の浜辺まで運んで無事帰郷できた、という因果応報譚を伝えることにあるようです。しかし、ここではそれは置いて三谷氏の氏寺を見ていくことにします。

備後三谷郡 寺町廃寺 復元模型
三谷寺とされる寺町廃寺
三谷寺=寺町廃寺説

弘済が三谷氏のために建立した三谷寺は、どこにあったのでしょうか?

備後三谷郡 寺町廃寺周辺
 ①寺町廃寺 ②寺町廃寺跡に瓦を供給していた大当瓦窯跡 ③上山手廃寺跡(向江田町)
寺町廃寺は三次市の東南部にあります。寺町廃寺については次のような事が分かっています。
①基壇の装飾にせん塼(レンガ)が使われていること
②創建時瓦は、素弁軒丸瓦であること
③これらは同時期の百済寺院に類似していること
④寺町廃寺の同笵瓦が、その北北西1,5㎞の大当瓦窯跡で焼かれたこと
⑤同笵の素弁軒丸瓦は備中国賀陽郡の栢(かや=伽耶)寺廃寺跡からも出土
⑥備中の栢寺の笵が寺町廃寺の笵に転用されていること
備後三谷郡 寺町廃寺金堂基壇 百済風の煉瓦1
寺町廃寺 金堂基壇装飾に百済式の塼(レンガ)が使われている

金堂や塔の基壇には一番下に塼(せん)を立て並べて、その上 に塼や瓦を積み上げる工法が用いられています。こうした構築方法は日本列島の寺院には例がないようです。これも百済工法の「直移植」と研究者は考えています。
備後三谷郡 寺町廃寺 水切り瓦
創建時瓦が、素弁軒丸瓦(百済様式)であること

百済瓦
備後三谷郡 寺町廃寺 金堂の版築技術
寺町廃寺 金堂基壇に高度な版築技術が用いられていること
金堂の建物を支える基壇は,土を交互に積み重ねて突 き固める「版築工法」が用いられています。この工法は当時は中国や百済の工法で、日本では飛鳥周辺地域の寺院のみで使用されてものです。寺町廃寺跡の造営には、百済亡命技術者によって先端技術が導入されたことが分かります。
備後三谷郡 寺町廃寺 唐三彩
寺町廃寺 唐三彩の完成品

地方の古代寺院としては唯一唐三彩の破片が出ていること
備後三谷郡 寺町廃寺1
寺町廃寺 金堂跡と塔跡の石積階段

以上からは、備中栢(伽耶)寺や三谷廃寺は、百済亡命者の技術者集団によって建立されたと研究者は判断します。
 また先ほど見たように、弘済は飛鳥京まで出かけて、金や丹を購入しています。
ここで注意しておくのは「本尊購入」ではないことです。手に入れたのは資材で、本尊本体を製作したのが三谷郡周辺に定着した百済技術者集団であったことと研究者は考えています。また海賊化した船頭に襲われた弘済らを、亀が運んだのは「備中」の海浜でした。ここからは、弘済と備中栢寺との繋がりが見えてきます。それを裏付けるのが寺町廃寺をはじめ備中・備後地域の古代寺院跡には独特の水切瓦が使われていることです。
寺町廃寺の水切り瓦
備中備中栢寺廃寺と寺町廃寺の軒丸瓦の共通性=共通の技術者集団
 この地域に百済系寺院建立技術を移植し、水切瓦を使った亡命百済僧や技術者集団がいたと研究者は推測します。
三谷寺の伝承から見えてくること
ここからは、弘済はひとりでではなく、造寺・造瓦・造仏の技術者集団たちとともに亡命した亡命百済技術者集団が7世紀後半の備中や備後には形成されていたことがうかがえます。このような集団は周辺の讃岐や伊予など、百済救援戦争に従軍したエリアでも見られたことなのかもしれません。例えば、讃岐の朝鮮式山城の城山城や屋嶋城を築城したのも、亡命百済石工集団や築造集団が技術者集団として、それを佐伯直氏や綾氏などの評造が支えたことが考えられます。

備後三谷郡 寺町廃寺 伽藍置配置
寺町廃寺 全国の法起寺式伽藍配置の寺院跡の中で、最も遺存状態が良好な寺院跡

寺町廃寺の伽藍プラン2
 寺町廃寺跡の伽藍プラン
  寺町廃寺跡の伽藍プランは上図のように,伽藍中軸線から左右同じ距離になる位置に,金堂と塔の壁が 位置します。
また、塔よりも規模が大きな金堂側の回廊を,塔側の回廊よりも一間分 (柱と柱の間隔)ほど外に広げた位置に配置しています。これは中門から入った時に中軸線上から講堂を見た時に塔・金堂・回廊の視覚的なバランスを創り出すためだと研究者は考えています。こうした設計手法は法隆寺西院伽藍と同じです。つまり670 年に焼失した法隆寺の再建に採用された設計手法が,同時期に創建された寺町廃寺跡にもそのまま用いられていることになります。もう一歩踏み込んで云うと、法隆寺西院と
につながりのある技術者集団が寺町廃寺創建に関わっていたことになります。

古代伽藍配置の変遷 塔から金堂中心へ
寺町廃寺(法起寺様式)は、塔から金堂中心に変遷する過渡期の伽藍様式
三谷寺=寺町廃寺とすると、従来の地方の仏教寺院の建立手続きも見直す必要が出てきます。
 従来は、地方寺院は地方豪族(評造・郡司)には、建立技術がなく中央の認可や支援を受けて建立された、早くから氏寺を建立できた勢力の背後には、ヤマト政権との強いつながりがあったとされてきました。しかし、寺町廃寺を見ると三谷氏が亡命百済人集団と結びついて、独力で寺院を建立していたことが分かります。これをどう考えればいいのでしょうか。
 「中央とのつながり」以外にも、亡命百済集団には単独で寺院を建立し、運営して行くだけのネットワークがあったことになります。これらの技術者集団が、備中や備後にいくつもの古代人を建立したでのです。同じような動きは四国にもあった可能性はあります。中央とのつながりだけに目を向けていては、見逃すものがあるような気がします。
弘済は三谷寺で、どんな仏の教えを説いたのでしょうか。
 百済という国が滅びる姿を自分の目で見て体験した弘済は、さまざまな悲劇と人間の運命を心に刻んだはずです。そして命を失った人達への供養、殺生忌避を誓ったのではないかと研究者は推測します。同時に弘済らは、仏教技術を生活技術へと転用して(たとえば道橋・灌漑・建築)、地域社会の生活向上に寄与したでしょう。弘済は、いろいろなかたちで備北地域の地域文化の形成に貢献したことが考えられます。これが地域の仏教受容のひとつの形かもしれません。
以上をせいりしておきます。
①備後三谷郡の郡司(大領)の先祖は、百済救援戦争に動員されて評造として、一族や地域の有力者を従えて博多に集結した。
②そして派遣部隊に編成され朝鮮半島南部伽耶に渡った。
③彼らは水軍でなく陸戦部隊だったので白村江の海戦には参加せず、捕虜となることなく帰国することができた。
④帰国の際に、百済人僧侶を三谷郡に連れ帰り、氏寺の建立を依頼した。
⑤百済人僧侶は、周辺の亡命百済人技術者や備中の栢(伽耶)寺廃寺や畿内の亡命集団とのネットワークを使って、三谷寺=寺町廃寺を造営した。
⑥この寺は、亡命してきたばかりの技術者集団によって造営されたために百済色の非常に強いものとなった。
⑦7世紀の地方寺院の中には、ヤマト政権の支援や認可なしで、渡来人によって建立された寺院があったことを寺町廃寺は示している。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
下向井 龍彦 百済救援戦争の歴史的位置
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白村江の敗北と捕虜たち

前回は百済救援戦争にむけて地方の評造(元国造)たちが大きな役割を果たしたことを見ました。今回は、その後の白村江の敗北で多くの捕虜が発生し、長い抑留生活を余儀なくされていたことを見ていくことにします。テキストは、「下向井 龍彦 百済救援戦争の歴史的位置」です。
まず白村江への航路を、伊予の越知直氏の体験通じて物語り風にして記しておきます。
越知氏の「大領の先祖」は、一族の軍士たちとともに出陣前に、産土神(大三島?)に武運長久と無事生還を祈願した。生きて帰ることが出来たら産土神のために伽藍を建立することを誓った。そして、準備した船で集結地の筑紫に向けて出港した。軍士たちの家族・親族、「評(後の郡)」の住民のすべてが無事生還を祈って船を見送った。それは『万葉集』防人歌のシーンと同じように「別離の悲歎」が詠い踊られた。その中には、大王の前で出陣前に軍事氏族の大伴氏が詠い、佐伯氏が舞ったという次のような久米歌が演じられたかもしれない。
「おおきみ大王のへ辺にこそ死なめ、顧みはせじ」(大伴家持)
「今日よりは顧みなくて大王のしこ醜 のみたて御楯と出で立つ我は」(防人歌)
船は国宰駐在地(国府)に集合し、他の伊予の評造軍とともに伊予総領に引率されて博多長津宮の大本営に集結した。西日本中心にら同じように国宰に引率された評造軍が続々と集結する博多湾岸には、軍士たちを収容する小屋やテントが建ち並んだ。武器・軍粮の梱包が積み上げられ、湾内には軍船がひしめきあう。陸上では近隣諸国から動員された人夫や炊出しの女性たちがせわしく立ち働き、海浜では激しい戦時訓練が行われていた。
 
白村江への道663年2
白村江に至る道
天智2(663)年 3 月 全軍が渡海完了して5ヶ月後のことです。半島南部に展開していた日本軍は、唐・新羅の周留城包囲網を打破して、一挙に反転攻勢に出ようとします。そのため全軍が集結して、錦江河口白村江に陣取る唐軍軍船集団に決戦を挑みます。籠城する百済復興軍も日本軍の攻撃に呼応して討って出ました。これが史上名高い「白村江の戦い」です。日本書紀は次のように記します。

白村江への道663年4

*(8 月17日) 賊の将軍(新羅の将軍)は州柔城(百済復興軍の本拠)を囲み、大唐の将軍は軍船 170 艘を率いて白村江に陣取った。
*(8 月27日)倭国の軍船うち最初に到着したものと大唐の軍船が出会って戦争に なった。倭国軍は負けて退却して、大唐は守りを固めた。
*(8 月28日) 日本の諸々の将軍と百済王豊璋は状況を観ずに、語り合って言った 。「我らが先に戦争を仕掛ければ、彼らは自然と退却するでしょう」と
*①倭国軍は統率が乱れながら兵卒を率いて進んだ。大唐軍は陣を硬くして 、左右から船を挟んで囲んで攻めた。須臾之際(あっという間に)、倭国軍は破れた。水に落ちて溺れて死ぬ者が多かった。
②(倭軍の軍船)は舳先と船尾を回旋させることができなかった。朴市田来津は天を仰いで誓い、歯を食いしばって怒り、数十人を殺したが戦死した。この時、百済王の豊璋は数人と船に乗って高麗に逃げ去った。
*(9 月7日) 百済の州柔城(ツヌサシ)が唐に降伏した。
*佐平余自信、立率木素貴子、谷那晋首、憶礼福留と一般人民は弖礼城についた。翌日、船を出して倭へむかった。
中国文献の『旧唐書・劉仁軌伝』は次のように記します。

水軍および糧船を率い、熊津江より白江に往き、陸軍と会し、同じく周留城に趣く趣けり。仁軌、白江の口において倭兵に遇い、四戦にかち、その舟400艘を焚けり。煙焔は天に漲り、海水みな赤く、賊衆(倭軍)大潰せり。余豊、身を脱して走れば、その宝剣を獲たり。偽りて王子・扶余忠勝・忠志ら士女および倭衆ならびに耽羅国を率いて使いし、一時に並びて降りれり。百済の諸城はみな帰順すれど、賊師・遅受信、任存城に拠りて降りざりき。

白村江敗北

8 月27・28 日 日に、倭軍ははじめて唐水軍と対戦し、瞬時のうちに壊滅的敗北をしています。倭軍の兵船 400 艘が焼き払われ、炎と煙が天を焦がし、血と炎で海は朱に染まった。「倭衆は・・一時に並びて降りれりと『旧唐書』は記します。ここからは大量の捕虜が出てきたことが分かります。
白村江への道 戦力比較
両軍の戦力比較 

この時の敗因としては、兵力量の差、軍船の大きさの差、兵器体系の差など、いくつもの敗因をあげることができます。
研究者が注目するのは『日本書紀』からうかがえる両軍の命令系統と戦術の差です。バラバラに突進する小型の倭軍兵船は「争先」「乱伍」と表記します。それに対して整然とした鉄壁の陣形で迎え撃ち、囲い込んで殲滅する唐軍巨大兵船(「堅陣」)。ここからは、組織的な訓練を十分に積み、一糸乱れずに動く東軍と、統一的な訓練を受けなかった雑多な編成の日本軍のバラバラな動きが対照的に描かれています。
白村江の敗北6
「②船の舳先と船尾を回旋させることができなかった」という記述からは、倭軍船には舵もなかったことがうかがえます。この戦いを経験した評造たちは、軍事力の編成・訓練システムなどを含めて、倭軍の後進性を躰で味わったことになります。「大東亜戦争」の無謀性を痛感した世代と同じ体験に似ているようにも思えてきます。海に投げ出された何千もの軍士が溺れ死んでいく中で、味方の残存兵船に救出され者もいたようです。しかし、戦場に取り残された多くの軍兵は唐の捕虜となります。

白村江への道 戦力比較2

その後、長い抑留生活から帰国できたことがわかる兵士の一覧表を見ていくことにします。
日本書紀には唐・新羅の捕虜となって何年か後に帰国した人々の記事が、天武13年(684)から慶雲四年(707)にかけて四例出てきます。それらを一覧表にしたのが次の表です。
白村江の捕虜一覧表
         捕虜解放され帰国したことが史料に残る動員兵士の氏名と出身地

この表から帰国した指揮官や兵士の本貫地を見てみると次のような情報が読み取れます。
①陸奥・筑後・肥前・備中・備後・讃岐・伊予・土佐で、陸奥・筑紫を除けばすべて西日本地域に集中②特に北九州~瀬戸内の出身者が目立ち、異国での労苦に対して課役の免除など恩典を得ている
③捕虜となった兵士の中に、土佐の④布氏首磐 伊予の⑫物部薬・⑱越知直ら8名 讃岐の⑭錦部刀良がいる。
ここからは、広範囲に多くの人達が百済救援戦争に動員されていたことが分かります。同時に、讃岐であれば、綾氏や佐伯直氏などの評造(元国造、後の郡司)クラスのメンバーは、ほとんどが従軍したことがうかがえます。
まず⑭の讃岐出身の「錦部刀良(にしこりのとら)について見ておきましょう。(新編丸亀市史)
彼には姓はなく、讃岐国那賀郡の人とのみ記します。錦部氏は百済からの渡来人系氏族で、綾や錦織りの職人として大王に仕えた錦織部(錦部)と関係する人物のようです。刀良の場合は、無姓なので部民だったようです。彼について『続日本紀』巻第三、文武天皇の慶雲4年5月(707年)は次のように記します。

刀良ほか2名に、各(おのおの)衣と塩・穀とを賜ふ。初め百済(くだら)を救ひしとき、官軍利あらず。刀良ら、唐の兵の虜(とりこ)にせられ、没して官戸(奴隷)と作(な)り、?(四十)餘年を歴(へ)て免されぬ。刀良、是に至りて我が使(遣唐使)粟田(あはた)朝臣真人(まひと)らに遇ひて、随ひて帰朝す。その勤苦を憐みて、此の賜有り

意訳変換しておくと
 刀良ほか2名に衣と塩・籾を賜った。昔、百済を救うために派兵した。(663年)、官軍は不利で、(刀良たちは)唐軍の捕虜となり、賤民の官戸とされ、四十年あまりを経て、ようやく解放された。刀良はここに至って、わが国の遣唐使粟田朝臣真人らに会い、彼らについて帰朝した。その勤めの苦労を憐んで、この賜り物があった

ここからは次のような情報が読み取れます。
①日唐国交回復後に、唐に派遣された遣唐使・粟田真人が慶雲元年7月(704年)に唐から帰国した
②その時に白村江で捕虜となった讃岐出身の錦部刀良を伴って帰国した
③刀良は、軍丁(いくさよろず)として、動員され伊予惣領軍に従軍した可能性がある。
④20歳で従軍したとしたら40年近い月日が流れているので60歳だったことになる。
⑤その抑留生活への褒賞は、わずかの衣と塩・穀のみであった。
これが刀良についての記録のすべてです。
  前回に「備中国風土記』逸文を紹介しました。そこには、斉明天皇が難波から筑紫に向かう途中の備中国下道郡迩磨郷に立ち寄った時の出来事を次のように記していました。
① 皇極天皇6(660)年 唐に侵攻され滅亡した百済の遺臣が倭に軍事援助をもとめたこと。
②それに応じて、斉明(皇極)天皇と、皇太子の中江大兄王子が海路で筑紫に向かった
③その途中の吉備のある里でで、兵士募集をしたところ2万の兵が集まった
ここからはヤマトの大王が現地行幸で、多くの豪族と人民を戦争に徴発したことが伝えられています。
   讃岐那珂郡の錦部刀良も、このように動員され多度郡の評造佐伯直氏の配下などで軍丁として行動を共にしていて捕虜となったことが考えられます。

⑱の越知直ら8名については、仏教説話集『日本霊異記』は次のように記します。(要約)

伊予国越智郡の大領(郡司のトップ)の先祖である越智直は白村江の戦いに参加し、唐軍に捕われある島に同族八人とともに抑留された。彼らは観音信仰に目覚め菩薩像に、「舟を造り、帰国できるように」と祈願した。その結果、西風に乗って無事到着することができた。政府が事情を天皇に報告すると、天皇はこれを憐れに思って彼らの願いを聞いた。そこで越智直は新しい郡をつくり、そこを治めたいと申し出た。天皇はこれを許可し、彼を大領に(郡司のトップ)に任じた。

ここからは次のような情報が読み取れます。
①越智直は大領の先祖とされているので越智郡内の有力豪族で評造であった。
②越智氏は小市国造の系譜をもつので、兵士として参加したのではなく、一族や農民を率いた指揮官として従軍した
③越智氏は「海の民」で紀氏と結びついていたので、水軍兵力として従軍して海戦に参加したこと
④越知氏はもともとは氏神信仰者であったが、捕虜抑留という危機打開のために仏教に加護を求めた。
⑤そのため越智郡の支配維持・再編のためのシンボルとして仏教寺院を建立したこと。
越智直の「直」とは、善通寺の佐伯直と同じで、地方豪族に与えられることの多かった姓です。
越智氏は、伊予五国造の小市氏以来の在地豪族で、その後も「郡司、大領従八位上越智直広国」(天平八年〈738〉伊予国正税帳)など、後に郡司を世襲していることが分かります。ここに出てくる主人公は、その先祖にあたりるようです。越智氏は高縄半島とその周辺一帯の島嶼部を勢力エリアとしていました。天武政権で国県制から律令的国郡制への移行が進む中で、帰国した越知直を新しく設置した越智郡の大領に任じたことになります。

日本霊異記 | 文学,日本文学小説 | 万能書店

越知直が無事に帰国できたのは、観音像を信仰したご利益のためだったと『日本霊異記』は説きます。
観音さまは、災難を除いて幸福を招くという典型的な仏です。このように『日本霊異記』には、郡司たちの仏教信心の話が数多く入っています。その中でも氏寺を建立する例が多いようです。当時は、郡司達は争って氏寺を建立していた時期で、白鳳瓦を屋根に乗せて輝く伽藍が地方にも姿を見せ始めた頃になります。これは古墳時代の前方後円墳と同じく支配者のシンボルモニュメントでもありました。新たなモニュメントは、過去の神話から脱皮して新しい支配権を確立するための装置として機能します。こうして地方でも仏教導入が進んで行きます。その契機が越知氏の場合は、他国での戦争捕虜と抑留生活という苦難の中で手にしたものだされます。どちらにしても、越知直の体験や功績は、白村江の敗北 → 唐での抑留生活 → 帰国と越智郡設立 → 氏寺建立として伝えられ、それが先祖の功績顕彰するために、氏寺の縁起として伝えたものなのでしょう。それが『日本霊異記』に載せられたとしておきます。
 
 白村江の敗北という巨大な危機感は、「倭から日本へ」の政治革新エネルギーへと昇華されていきます。それが古代律令体制を産み出す原動力になったと研究者は考えています。地方では地方行政機構が革新され、国郡里(郷)制へと変化していくことになります。集団で捕虜生活を送った越知氏一族は、唐の巨大さと先進性を自分の目で見て帰ってきたのです。ヤマト政権の進める次のような戦後政策を理解し、支持する心の準備ができていたでしょう
①瀬戸内海防備のための朝鮮式山城の建設など防備体制強化
②軍団移動のための大道建設(南海道整備)
③進んだ文化・技術を導入するための渡来人の積極的な受入
④大量の人民徴兵のための個別人身支配体制(戸籍制度+土地制度整備)
⑤自らが郡司に就任し、郡衙などの施設を建設し政府の新政策を地方で担う心構え
⑥新文化の象徴である仏教信仰と、ステイタスシンボルとしての氏寺建立

身を以て敗戦体験をした評造たちは「新国家の建設」にむけて、これらの新政策の実現に向けて協力したとも考えられます。我が国の戦後民主主義が、悲惨な戦争教訓の上に立って推し進められたことを思い出させます。私は元国造であった綾氏や佐伯直氏も百済救援戦争に従軍し、敗戦を体験していると考えています。
 総勢数万におよぶ軍団は「官費支給兵(GI)ではありませんでした。食糧から武具まで兵士自弁兵でした。そのため兵士を徴発された地域にも大きな負担となったはずです。そのことがそれまでの氏族的支配を動揺させ、新たな律令的支配を受容せざるをえない状況をつくりあげていったと研究者は考えています。ここでは、白村江の敗北は、九州だけでなく、瀬戸内海一円の国々において律令制国家を作り出していくプラス要因として働いたとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
愛媛県史 越智直・日下部猴之子
下向井 龍彦 百済救援戦争の歴史的位置
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7世紀後半、白村江敗北と壬申の乱後の天武朝時代になると、讃岐では大型土木工事が目白押しとなります
A 城山・屋島の朝鮮式山城
B 讃岐平野を東西に伸びる南海道の建設
C 郡衙建設と郡司達の氏寺建立
D 条里制工事
これらの工事を担当したのはかつての国造で、彼らが郡司へと移行していきます。これだけの大土木工事は大きな負担だったはずです。それを国造たちを、どうしてすんなりと受入れたのでしょうか? そんな疑問が私にはありました。それに答えてくれる論文に出会いましたので見ていくことにします。テキストは「下向井 龍彦 百済救援戦争の歴史的位置」です。 

白村江への道663年
白村江に至る道
「備中国風土記』逸文に、斉明天皇が難波から筑紫に向かう途中の備中国下道郡迩磨郷に立ち寄った時の出来事を次のように記します。

 この国の風土記には次のようにある。皇極天皇6(660)年、大唐の将軍である蘇定方(ソテイホウ)が新羅軍を率いて百済を攻めた。そこで百済は使者を遣わせて救援を乞うたので、天皇は筑紫に行幸して救援の兵を送った。その時、皇太子だった天智天皇が摂政として随行し、下道郡に身を置いた。そこで、ある郷の村を見ると戸数が大変多かったので、皇極天皇は詔を下して この郷で兵士を集った。その時に得た兵は2万人だったので、天皇は大変喜んで この村を二萬郷(にまんのさと)と名付けた。これが後に爾磨(にま)と改められた。その後、天皇が筑紫の仮宮で崩御したので、この軍勢は遣わせずに終わった。」

ここからは次のような情報が読み取れます。
① 皇極天皇6(660)年 唐に侵攻され滅亡した百済の遺臣が倭に軍事援助をもとめたこと。
②それに応じて、斉明(皇極)天皇と、皇太子の中江大兄王子が海路で筑紫に向かった
③その途中の吉備のある里でで、兵士募集をしたところ2万の兵が集まった
この2万という数字はともかく、ヤマトの大王が現地行幸することで、多くの豪族と人民を戦争に徴発できるようになったことがうかがえます。
日本書紀は3回に分けて、次のような軍事力が派遣されたと記します。数
第一派:
1万余人、船舶170余隻。指揮官 安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。
第二派:
2,7万人 主力指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫。
第三派:
1万余人 指揮官は廬原君臣(廬原国造の子孫。静岡県清水市本拠)
推古政権時代にも、新羅将軍・久米王子に神部、国造・伴造らと軍兵2,5万人が授けられたことがあります。約1世紀前に大伴金村が筑紫で行った部民制による兵士動員スタイルが、吉備でも行える体制が整っていたことがうかがえます。
 百済救援軍の派兵決定に踏み切った直後の斉明 6(660)年 12 月、政府は諸国に「諸軍器」の「備え」と軍船建造を命じています。
『日本書紀』には、「駿河国」への造船指令で完成した船が曳航中に伊勢国で転覆したという事件だけが記されています。これは「事故」であったから報告されたので、多くは命令通りに各国で輸送船や軍船が造られていたはずです。駿河国に造船指令が出されていたのなら瀬戸内海の讃岐にも造船指示があったでしょう。それを遂行する国司は、この時点ではまだいませんでした。だとすれば、これらを担当したのは国造たちや有力豪族たちだったのでしょう。

郡郷制変遷表
国郡里制の変遷

 この時点であった地方支配機構は評造(こおりのみやつこ)だけです。任命されたのは旧国造・旧地方伴造で、田地調査、人口調査、50 戸制を創設し、課税・徴兵などを担当させていました。しかし、これは整備されたものではなく、中央の命令が地方にまで法令として下りてくるものではなくAboutで大雑把なものだったようです。  
そのために置かれたのが総領です。
これは百済救援軍の準備・動員のために斉明7(661)年の初めに置かれました。総領―国宰―評造という命令系統を通して次のような事が行われました。
兵器の製造修理
指定数の船舶の造船修理
指定量の軍粮備蓄
指定数派遣軍軍士の選抜・訓練
兵站基地である筑紫博多湾までの輸送
伊予総領は、伊予・讃岐・阿波を支配し、後には朝鮮式山城の築造・運営にもあたっています。 ここでは、古代律令国家の中央集権的な行政機構が、百済救援軍動員を契機に整備され始めたことを押さえておきます。
 ちなみに6世紀に、朝鮮半島政策遂行のために動員された多度郡国造の佐伯直氏の祖先が眠るのが善通寺市有岡町の大墓山や菊塚古墳である可能性を前回お話ししました。この古墳からは百済的な馬具や王冠、鉄剣が出土します。半島での駐屯活動の中で手に入れたことが考えられます。

善通寺大墓山古墳の馬具2
             大墓山古墳出土の馬具類(善通寺郷土資料館)
 6世紀に朝鮮半島に派遣された軍隊は、佐伯直氏軍団のように西国の「評造軍」を中核として編成されていました。それは国造たちの私兵集団で、高価な武具・馬具を自力で整えられる国造領内富裕層に限られていました。装備は自分持ちで、自宅管理、訓練は自己訓練です。それは当時の群集墳の副葬品の武器からうかがえます。
 例えば土器川中流部のまんのう町長尾の町代古墳群(6世紀前半~後半)からは馬具や鉄剣・鉄鏃などの武具が出土しています。

町代3号墳馬具
         まんのう町の町代3号墳の馬具

町代3号墳鉄製遺物2

武具副葬は被葬者の生前のステイタスを誇示する威信財です。ここからは被葬者が国造軍軍士であったことが分かります。6世紀には国造を指揮官とする国造軍が半島に派遣されていたのです。

郡郷制変遷表
国郡(評)里(郷)制変遷図
次に大化の軍制改革で、あらたに創設された「評造軍」を見ておきましょう。
①「兵庫」を設置して、個人装備を一括収蔵・管理
②50 戸制を踏まえた新規選抜軍士の編成(兵力数増員)
③その指揮官が「評造」
個人装備の一括収蔵や新しい軍隊編成法は、装備の点検・修理と廃棄などを効率化し、動員可能数を増やしました。そして評造指揮下の訓練の集団化も行われるようになります。そういう意味では、評造軍は国造軍に比べてはるかに革新され強化された軍隊と云えそうです。
 佐伯直氏が多度郡の「評造(後の郡司)」として果たした役割を挙げてみましょう。
①割り当てられた兵力数を支配下の評造軍軍士から選抜して訓練実施
②一般住民男女は派遣軍軍士たちの装備の製作・修理
③騎馬・駄馬の生産・育成
④軍服などの縫製
⑤軍粮の備蓄
⑥軍船の制作・水夫集団の提供
これらの活動は、綾氏や佐伯直氏にとっては負担の多い役務だったかもしれません。しかし、視点を変えて見ると、中央政府の命令に従ってこれらを行う事で、いろいろな役得がありました。それは新しい武具の供与であり、製法伝授などの先進技術の需要につながったかもしれません。また、軍港提供でそれが交易港として機能し、経済的な利益をもたらすことがあったかもしれません。また「中間搾取」などもあり、後の郡司は美味しい職であったことは以前にお話ししました。
 どちらにしても多度郡の佐伯氏は、大伴軍団の一員として早くから朝鮮半島での駐屯活動に従事し、
その活動の中で先進的な軍事技術や経済的な富を7世紀になっても手に入れていたことがうかがえます。
 例えば、讃岐の古代氏寺は一町(107m)四方の伽藍が一般的です。
ところが佐伯直氏の氏寺である善通寺は、その四倍の2町四方の伽藍を有します。ここにも他の郡司を凌駕する経済力がみえてきます。当時の寺院は、大学でもあり、病院でもあり、僧侶は最高の文化人でした。寺院の中では東アジアの国際用語である中国語が日常用語として使用してされていたと研究者は考えています。それはイスラム教が国や地域は違ってもモスクの中ではアラブ語が用いられるのと似ています。幼い空海は善通寺に出入りし、そこの僧侶達と中国語で話していたかも知れません。これが遣唐使の一員として唐に渡ったときに役立つことになったのではないかと私は考えています。そのような環境の中で空海は育ったことになります。最後は佐伯直氏の国際性と経済基盤の源がどこにあったかという話しにすり替わっていったようです。
以上をまとめておきます。
①百済救援戦争に各国の軍隊を率いたのは、評造(元国造)たちだった。
②評造たちは船や水夫の提供・戦略物資の供出・輸送など後方支援活動を担った。
③同時に評造は、一族や動員された兵士を引率し、筑紫博多湊に集結した。
④そこで伊予大領の軍団として編成され、対馬海峡を渡り半島に上陸した。
⑤しかし、軍団は評造軍の寄せ集めで、統一性がなく集団的な動きができなかった。
⑥また軍船なども遙かに劣っており、唐水軍の敵ではなく、白村江で大敗北を喫した。
⑦この時に多くの兵士が唐軍の捕虜とされ、唐で奴隷として長い歳月を送った。
⑧戦後30年近くを経て、唐との国交回復が進む中で、捕虜たちの帰国が実現した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
下向井 龍彦 百済救援戦争の歴史的位置
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