明治を迎える直前に新政府から出された神仏分離令によって、各藩では神社の御神体チェックが始まります。その後の「神社取調」に示された項目に従って各神社の「身元調べ」が行われたことを前回はお話しました。その調査スタッフの中心メンバーが松岡調(みつぎ)でした。今回はこの人物について見ていきたいと思います。
彼は、高松藩士・佐野衛士の四男として天保9年(1830)生まれています。
友安三冬(良介)から国学、中村尚輔から和歌、森良敬から絵画を学ぶとあり、平田神学や水戸学とのつながりはみられません。
  「天性学を好み友安良介に従い 皇典の学を学び、後に松岡氏を継ぎ、多和神社の禰宜(ねぎ)となり、・・・」
とあり、20歳の時に多和神社に養子に入り、36歳で養父の松岡寛房を継いで神主に就任します。
多和神社 (香川県さぬき市志度 神社 / 神社・寺) - グルコミ
多和神社は、志度寺の守護神の八幡神を祀る神社で「多和八幡宮」と呼ばれ、
志度寺の境内に隣接していたようです。しかし、15世紀後半に志度寺とともに焼失します。江戸時代になって、高松藩藩主松平頼重の手で志度寺と同時に再興されますが、場所は現在地に移転します。高松藩からの保護を受けると同時に、港町として賑わう志度の氏子達の信心も集め、経済基盤もしっかりとした神社であったようです。現在は式内神社とされますが、この指定経過には問題が残るようです。
多和神社
 
松岡調が多和八幡宮の神主となった頃は、明治維新の嵐が四国にも吹きつけ、高松藩が「賊敵」として土佐藩などに占領される時期でもありました。このような激動の中で、明治2年(1869)に高松藩の家老の推薦を受けて藩校・皇学寮の教授に就任します。
 時を同じくして、新政府は、神仏分離令を出し、そのために「御神体チェック」や「神社取締」作業をおこなうことを矢継ぎ早に各藩に通達します。讃岐において、これらの作業の中心的な存在として活動したのが藩校教授に就任したばかりの松岡調でした。その後の調査経過については、前回にお話ししましたので省略します。

 以後、松岡調は東讃から高松にかけての担当エリア五郡の神社についての「神社取調」を進めます。各神社の御神体をチェックし、そこに何が保存され、どんな文書や絵図などがあるかを頭の中に入れていきます。今なら研究者にとっては絶好のフィルドワークです。神社・仏閣に出向いて、そこに保管・保存されている文書や絵図類を「強制力」を行使して見る事が出来るのです。現在の研究者にとってはうらやましいと思う人も入りかも知れません。この2年間あまりの経験は、彼を研究者として大きく成長さる契機となったと私は考えています。この経験が神道界のみならず、文化財や郷土史などの面でも第一人者としての立場を築く事になったようです。

 神社取調が一段落した明治3年の春、桜の季節に松岡調は、妻と娘と共に金刀比羅宮に参詣しています。
そして、金毘羅大権現の仏教伽藍から神社へのリニューアルが進む金刀比羅宮の様子を細かく日記に記していますので見てみましょう。
 金倉川に掛かる普請中の鞘橋を見ては、その美しさを讃えます。内町から小坂までの家の門毎に桜が一本ずつ植えられているのを見て、四、五年経った年の春の日の花をしのび、大門まで登って金毘羅神が去り給うたことを記した立札を見ています。
 琴陵家を訪ねて、書院の広く美しいのを見て、娘は手をうって喜ぶ。護摩堂・大師堂によって、内には檀一つさへないのを見て涙する妻に対し、かしこきことなりと言って、わが心のおかしさを思う。
本宮に詣で、拝殿に上りて拝み奉る。御前の模様、御撫物のみもとのままにて、その外はみなあらたまっているのを見る。白木の丸き打敷のやうなるものに瓶子二なめ置き、又平賀のような器に鯛二つがえ置きて供えている。さて詣でる人々の中には受け入れられない人々もあろうが、己れらはその昔よりはこの上なく尊くかしこく思われた。
 絵馬堂を見て、下りに諸堂を廻る。観音堂も金堂も、十五堂も、皆仏像をとりのぞきたる跡は、御簾をかけて白幣を立てていた。(中略)     
      金刀比羅宮文書 「松岡調日記抄」
  高松街道を徒歩か人力車でやって来たのでしょう。大門には
「金毘羅神が去り給うたことを記した立札」
があったと記します。
神仏分離によって山号は象頭山から金毘羅山へ、社号は金毘羅大権現から金刀比羅宮へと「転身」したことを告げる告知文を読んだのでしょう。そして、旧金光院であった琴陵家を訪ね、書院で接待を受けた事を記します。
この時の当主は琴陵宥常(ありつね)で、松岡調よりも十歳若い若者でした。
維新の際には、上京し神祇科との交渉を重ね金毘羅大権現の存続のための働きかけを行い、金刀比羅宮として生き残る道を開いた若き指導者でした。それから、着々と改革を推し進めていました。宥常については前回にお話ししましたので省略します。
   本宮に参拝すると
が御供えしているのを見て、参拝者の中には受けいれられないかも知れないが自分にとっては「尊くかしこく」感じられた
と述懐します。
金刀比羅宮の仏閣の時代には生魚が御供えされるということは考えられなかったことでしょう。ここに「神仏分離」の新時代の到来を感じたのかも知れません。帰りに見た金堂(現旭社)なども仏像が取り除かれ、御簾がかけられ御幣がたててあった記します。

 松岡調が、東讃・高松地区の神社の「神仏分離」を行っている間に、金刀比羅宮でも改革が進んでいたようです。
 この時の琴平訪問は、「面接」のようなものだったのかも知れません。翌年の1月から彼は、藩校の教授を兼務しながら、ここで禰宜として勤める事になります。それは以後、23年間続く事になるのです。松岡調は、翌年に禰宜就任に当たって次のように述べています
 いみじきことなり、わがすめらみくにの神社仏堂のうちにて、かかるところはおさおさあらじとぞ思われる
当日の彼の日記には 月給20円を受け取ったと記しています。

 翌々年の3月に政府が任命した深見速雄が鹿児島より宮司として赴任してくると、そのもとで宥常が社務職として、松岡調が禰宜として金刀比羅宮の改革を推し進めていく事になります。若い指導者の下で、金刀比羅宮は新たな輝きを放ち始めるのです。

琴陵宥常と松岡調と神仏分離の年表
1857 10月22日宥常18歳で 第19代金光院別当に就任
1868
 3月13日 明治政府が神仏分離令を通達
 4月21日 金光院宥常は、嘆願のために上京
 6月14日 金光院宥常は京都で還俗し、琴陵宥常と改名
       神祇官からの達書で神号は「金刀比羅宮」
 8月18日 宥常に社務職付与 しかし宥常が求めた大宮司は許されず
 10月28日 多度津藩が「藩内一宗一寺」統合案発表。
       領民の反対運動が高まる。
1869 2月 琴陵宥常が京都での陳情活動を終えて1年ぶりに帰讃
              神祇伯白川家の古川躬行が琴平到着、以後逗留して改革指導
 2月5日  松岡調が「御神体検査」メンバーにとして「神社取調」開始
1871 1月 5日 「社寺領上知令」が出され、社寺領を上知(没収)
     4月12日 松岡調が、妻と娘と共に金刀比羅宮に参詣
     6月    金刀比羅宮は事比羅宮となり国幣小社に列せられる
1872 1月27日 事比羅宮の祢宜に松岡調が就任   以降23年間、禰宜
     3月21日 事比羅宮は県庁の指示で職員を三十数人にまで削減
1873 6月      仏像・仏具の処分開始 ~7月まで
1874 3月    鹿児島より深見速雄が宮司として赴任

その後の松岡調
松岡調

 神仏分離にともなう讃岐の神社仏閣の調査・研究によって、松岡調は古典考証学や考古学に通じ、さらには東京大学に遊学し、研究活動を深めました。仕事を通じて日本各地に出張して学者・文人たちと交わり、各地の典籍・書画・考古遺物の蒐集・調査、讃岐郷土史の研究などを深化させていきます。1885年には、多和神社内の自邸に蔵を建てて「香木舎」と命名し、自分が集めた典籍や事物を保管します。これが現在の多和文庫につながります。
 しかし、日清戦争の時に、金刀比羅宮が朝鮮半島や遼東半島において、政府や軍の許可なく神道布教を図ったことが問題になり、1895年に長年勤めた金刀比羅宮禰宜を解任されます。
 文久4年(1864年)から死の直前まで書かれた『年々日記』は、讃岐における廃仏毀釈・神道国教化の動きを知る上での根本史料です。しかし、残念ながら一般公開されていません。これが讃岐の神仏分離の研究を進める上では大きな障害となっているように私には思えます。
  それともうひとつ讃岐式内社の「選定」めぐる経緯に関しては、問題があると思います。選定の責任者として歴史考証・史料批判等も行わず松岡家が社家を勤める神社を多和神社として、指定したと後世に云われても仕方のない手順が取られているように思います。研究者らしからぬ対応ぶりです。多くの功績を残した人物ですが、晩節を汚したと云われても仕方がないように思えます。
 これに対してはこんな声も聞こえてきそうです。
維新の際の神仏分離の「神社取調」とは、「研究」ではないのだよ。「政治」だったのだ。式内神社の指定もまたしかり・・・と・・・