かつての讃岐では、村々で雨乞踊りが踊られていました。しかし、その踊りが雨乞踊りと称するようになるのは、江戸時代末から明治以後であることがおおいようです。それまでは風流踊りの流れを汲む盆踊りとして踊られていたようです。それがどうして、雨乞踊りと称するようになったのでしょうか。これについて、幕府や明治政府から盆踊り禁止令を出すようになったこと関係があるのではないかと私は考えています。禁止された盆踊りを、雨乞踊りと称する事で正当化して、踊る機会を確保しようとしたのではないかという仮説です。そこで今回は、明治政府が出した禁止令と、どうして盆踊りが禁止されたのかについて見ていくことにします。テキストは「伊東佳那子・來田享子  明治時代に布達された盆踊り禁止令の記載内容に関する研究」です。

風流踊りから盆踊りへ

次の表のように1870年(明治3)年の群馬県を先頭にして、16県で盆踊り禁止令が出されています。
各県の盆踊り禁止令一覧
盆踊り禁止令を出した各県一覧表 
最初に禁止令を出した群馬県のものを見ておきましょう。
古来ヨリ盆踊ト申事当国ニ於テハ右様賤敷 風俗無之筈之処近来越後辺ヨリ下賤ノ者入込候故歟悪風ヲ佩ヒ盆踊ト唱ヒ夜遊等イタシ候向相聞既ニ昨年中モ厳重取締為致回勤之者見当次第召捕候筈ニ侯処当年之儀モ等一制禁ヲ犯シ相催候儀於有之ハ甚以不埓之事ニ侯以後心得違於有之ハ左之通申付侯事
一、踊之当人ハ其身分ニ応シ相当之過怠金可申付事
一附下女下男ハ其主人ヘ過怠金可申付候事
一、右之催致シタルニ於テハ其居町居村ノ役人共ハ勿論一統ヘ相当ノ過怠金可申付候
一又社寺之境内ニテ催シ候而モ過怠ノ儀同断 猶其上社寺迄可及事
意訳変換しておくと
古来より当国には、盆踊りというような風俗はものはなかった。ところが近年になって越後から下賤の者が入り込んできて、彼らがこのような悪風を拡げ、盆踊りと称して、夜遊などを行うようになったと聞く。すでに昨年中に、巡回して(盆踊りを)見つけたらすぐに逮捕するように命じてある。当年についても、この禁止令を犯し盆踊りを開催することは、大変不埓なことである。以後、心得違の者に対しては、以下のような罰金を申しつける
一、踊った者は身分に応じて相当の罰金を支払うこと。
一、使用人が踊った場合、その主人が罰金を支払うこと
一、盆踊りを主催した村や町の役人はもちろん、その一族も罰金を申しつける。
一、社寺の境内で開催した場合、その社寺も同罪で罰金を支払うこと。
ここでは越後から流入者(民俗芸能伝播者=修験者や山伏)が盆踊りを持込んで、夜遊びなどの「悪風」をひろげたので禁止するとあります。そして、踊ったものだけでなく、盆踊り主催者や場所を提供した寺社などにも罰金刑を課しています。
それでは、明治初年頃の盆踊りとはどんなものだったのでしょうか?

『明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』
明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』
場所は、山形町愛宕山地蔵院の境内や黒石陣屋(藩政時代)の周辺で行われていた盆踊り風景です。
①上部の  「組踊りは風流踊りの一種で、規模は100人以上が様々な衣装や仮面を着て踊り歩く大掛かりなもの
②その下に描かれているのが「俄(にわか)」で、路上で寸劇などの芸能を演じる、いわいるストリートパフォーマンス。
③「有来たりの踊り」は「ぞめき踊り」とも呼ばれ、先祖供養を目的とした小規模な輪踊りのこと
こうしてみると明治初年には、江戸時代に流行したいろいろな踊りや芸能を飲み込んで、大型化・パレード型に進化し、総合芸能化していたことが見て取れます。
絵図からは、次のような事が読み取れます。
①円形で盆踊りが踊られていること。
②踊りの輪の下には、別の踊り集団がいくつもあって、同時並行で踊られていること

明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』2
                   明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』

③仮面を被ったり、いろいろな出で立ち姿であること、上半身裸の踊り手もいること。
④真ん中の着飾った歌い手の女性は柄杓で酒(水?)を飲みながらやっていること
⑤手にいろいろな持ち物を持って踊っていること

『明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』3
                  明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』

⑥輪の外にも、いろいろな人がいて面白おかしく踊っている。
⑦上半身裸で三味線を持って演奏している女性もいる。
⑥仮装した踊り手達が町中を上(カミ)から下(シモ)へ、下から上へと踊りながら行進し、夜更けまで踊り明かしたこと
これを見ると、明治初年の盆踊りは、現在の盆踊りからは想像も出来ないほど、猥雑であったことがうかがえます。だから禁止対象となったいえるかもしれません。

愛媛県の禁止令(明治6年8月29日)を見ておきましょう。

  略)盆踊ハ大概夜中ノ嬉戯ニシテ①男女混同頗ル猥褻ニ渉リ竟ニ言フベカラザルノ嫌ヒナキヲ免カレズ殊ニ妙齢ノ者共心気ヲ浮藻ノ地ニ動カシ本業ノ妨害タル(略)

意訳変換しておくと

 略)盆踊はだいたい夜中に踊られもので、そこに①男女が混同して集まり、非常に猥雑になり、言葉に云い表せられないような忌むべき光景が見られる。特に妙齢の若者男女の心気を浮藻にさせて、本業を疎かにさせる(略) 

ここには男女混同が風俗を乱すものになっていることを指摘して、今後一切の禁止を命じています。盆踊り禁止理由のひとつが男女の風紀の乱れであることを押さえておきます。 

田舎教師/田山 花袋|岩波文庫 - 岩波書店
 
  それを裏付けるのが1909(明治 42)年の田山花袋の「田舎教師」に描かれた盆踊りシーンです。
盆踊りのある処は村の真中の広場であった。人が遠近からぞろぞろと集まってくる。樽拍子の音が揃うと、白い手袋を被った男と女が手をつないで輪をつくって、調子よく踊り始める。(中略)
村にはぞろぞろと人が通った。万葉集のかがいの庭のことが、それとなく清三の胸を通った。男は皆一人ずつ相手をつれて歩いている。猥褻なことを平気で話している。世の羈絆を忘れて、この一夜を自由に遊ぶという心持ちが四辺に充ち渡った。垣の中からは燈光がさして笑い声がした。
「田舎教師」は、青年教師である小林秀三氏の日記を基に、現地調査によって執筆した小説です。この盆踊りの舞台は、埼玉県羽生市発戸とされています。このような光景は、ここだけではなく、全国で見られたシーンであったようです。これが「男女が一箇所に集まり風紀が乱れる」という理由になるようです。これを参加する男女から見れば盆踊りは、唯一の開放的な娯楽の場所で、性解放の機会だったようです。これは期待が膨らむ場所です。しかし、禁止スル側から見れば「それが問題なのだ!」ということになります。 


歌川広重「古代踊尽し 盆のおどり
               歌川広重「古代踊尽し 盆のおどり」

 一方、岐阜県や小倉県(福岡県)の禁止令では、「老幼男女群集」、「多人数相集」るものとし、男女だけではなく、多くの年齢層が集まる場と捉えています。権力者は、人が大勢集まる場所を嫌います。それは、一揆などの政治活動の場に転化・利用されてきたからです。研究者の中には次のように指摘する人もいます。

「盆踊りの輪がつくりだす非日常的な社会編成は、集会条例が禁止の対象とした政治演説のアジテーションと同様(あるいはそれ以上に)、治安当局にとって警戒すべき事態だった」

 しかし、自由民権運動が高まり、『大日本帝国憲法』の発布や帝国議会開設へ向けて、大衆の政治熱が大いに盛り上がりをみせるのは明治20年代になってからのことです。盆踊り禁止令が出されているのは明治初頭です。時間的なズレがありますので「盆踊り禁止令=政治運動規制」説は、無理筋のようです。
風俗画報 明治24年より(湘南盆踊り研究会所蔵
明治24年の盆踊り
 各県の禁止理由を、研究者は次のように4つに分類します。
① 一箇所に男女が多人数集まること
 盆踊りは「男女が集まる場所」であり、そのことによって風紀が乱れることを問題視しています。たとえば秋田県の禁止令には、盆踊りが「男女群ヲ成」すことが挙げられます。
② 盆踊り禁止理由の2つ目は「裸体や奇妙な格好をすること」です。

明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』4
                  明治初年ノ黒石盆踊(原作者不明)』

 禁止令は 「裸体」「異形之体」「奇異ノ姿」などの姿で行われる盆踊りを次のように問題視します。
A 1871(明治 4)年 和歌山藩の禁止令では、男女が化粧をして舞い踊ること
B 1872(明治 5)年 宇都宮県の禁止令では、盆踊りを「裸体や異形の体にて舞い跳びするもの」と捉え、「奇異の姿で行われる」こと
C 1874(明治 7)年 神奈川県の禁止令では、「女児聯伍シ衣服等頗ル美麗ヲ競ウ」とあり、女児が衣服などで美麗を競い合う見世物的要素があったこと
これを裏付けるのが、「田舎教師」(1909(明治 42)年)と同じ年に発行された森鴎外の自叙形式の小説「ヰタ・セクスアリス」の描写です。そこには森鴎外が10 歳の記憶として盆踊りの場に「男が女装」、「女が男装」した人がいたことが描かれています。以上からは、盆踊りには異性装で踊る慣習があったことが分かります。異性装は風流踊りの要素のひとつでもありました。
 異性の服装で踊ることについては、研究者は次のように解釈します。
①仏教的宗教性に加えられた演出として、盆踊りの仮装性を捕らる視点
②祝祭空間での異性装が「神性」に近づこうとするものであったという視点
盆踊りに異性装するのは、当時の庶民感覚では「当たり前」のことでした。ところが文明開化を推進する明治政府の役人達の中には、異性装は恥ずべき風習と考える人達がいたようです。両者に大きな隔たりがあったと研究者は指摘します。政府の役人達は、大衆を無知で遅れた存在ととらえ、彼らを文明開化に導いていくという指命感があったようです。別の言葉で言い換えると、政府役人が庶民を「矯正」しようとしているのです。これは政府の庶民の娯楽的風俗への介入です。それが「親心」であれ、実態は庶民の宗教的感性の抑圧になります。

月百姿 盆の月 月岡芳年作 画像は復刻版
月百姿 盆の月 月岡芳年作  (湘南盆踊り研究会所蔵)

③ 盆踊り禁止理由の3番目は
「楽器等を打ち鳴らすこと」です
 盆踊りに楽器を叩きながら踊ることは、一遍の念仏踊りに原点があると研究者は考えています。
神奈川県の禁止令では、「大鼓竹甄」を打ち鳴らすもの、秋田県の禁止令では「管弦等を鳴らして歌舞をする」ものと記します。ここからは「邦楽器の使用」も政府のめざす文明開化には、そぐわないとされたようです。絵図には、いろいろな楽器を打ち鳴らす姿が描かれています。しかも、いくつも集団が混じり合って、同時に演奏しています。これは「騒音」とされてもしかたない面もあったようです。         
④ 盆踊り禁止理由の4番目は「町中を踊り歩く(踊り騒ぐ)もの」です
夜中に町中を踊り歩く(踊り騒ぐ)ことが禁止の理由とされています。
秋田県では「深夜外歩」、若松県では夜中に道路で踊り騒ぐこと、栃木県では夜中の路頭を徘徊することが問題視さています。念仏踊りの頃には、盆踊りは神社の境内などで円形隊列で踊られていました。ところが江戸時代中頃になると伊勢踊りの「道行き」の要素が加わってきたようです。道行きとは、一箇所に留まらず往還をゆっくりと踊りながら進んでいくスタイルです。これを「踊(練)り歩く」と表現しました。これは江戸時代以降に加わったものです。これが禁止理由のひとつになっています。
 山形県の禁止令では、盆踊りと同じように「群行市在踊リ歩」くことと、通りがかりの家で酒や食事を貪る風習を問題視して「卑陋」として禁じています。

1873(明治 6)年に出された磐城県(現:福島県)の「念仏躍」禁止令は、次のように記します。

磐城之風俗旧来念仏躍ト相唱ヘ湛秋之際仏名ヲ称ヘ太鼓ヲ打男女打群レ夜ヲ侵シテ遊行シ中ニハ如何ノ醜態有之哉之由文明ノ今日有間敷弊習ニ付管内一般本年ヨリ右念仏躍禁止申付侯条少年児女ニ至迄兼テ相達可申事

 意訳変換しておくと
磐城の風俗である念仏躍は、晩秋に仏名を称えて太鼓を打ち鳴らし、男女が群集し夜を徹して、遊行する。中にははなはだ醜態をさらす者もいる。これは文明開化の今日では許されない悪習である。ついては県内では本年より、念仏躍を禁止する。少年・少女に至るまで通達するように

 ここで禁止理由は、男女が群れ夜中に遊行することが問題視されています。明治時代の念仏踊りは、盆踊りとして踊られていました。娯楽的な面が高まるにつれて、男女が一夜を共にすることが普通のこととされるようになります。そのため、磐城県ではこうした行為が醜態であるとし、念仏踊りを「文明の今日あるまじき弊習」と指弾します。以上、明治初年の禁止令の4つの禁止理由を見てきました。
 盆踊りは、江戸時代にも禁止令がだされています。
しかし、明治時代の盆踊り弾圧と江戸時代とのものは、禁止背景が異なると研究者は指摘します。例えば、江戸で出された 触れには、次のように記します。
1677(延宝 5)年 「8 月になって踊り続けるのはいけない」
1709(宝永 6)年6 月 夜中に町々に踊る者がいるので、交通の妨害になるから差し止める」
ここに書かれている禁止利用は、盆踊りによって人々が家業などを忘れ怠惰すること、江戸の秩序が乱れること、交通の邪魔、近所迷惑になることから禁止、制約したものです。ところが、明治時代の禁止は、諸外国との不平等条約改正を目的に行われた近代化政策の一環でもあったようです。盆踊りを「文明国として欧州に伍する為に廃止すべき弊風」とみなす延長線上にありました。ここでは、同じような表現を用いた禁止でも、江戸時代と明治時代とでは、その意味は大きく違っていたことを押さえておきます。
 また、禁止することは、大衆の反感を招き、騒動になるおそれがあることを役人達は知っていました。そこで踊りの日数を短縮させて許可するなどの懐柔策も併用しています。天皇制を浸透させる祝日である天長節が盆踊りを許可する日として指定いるのも象徴的です。

風俗画報明治30年より、河内音頭の図
                  風俗画報明治30年より、河内音頭の図(湘南盆踊り研究会所蔵)
もうひとつ盆踊りが弾圧対象とされた背景には、神道の神仏分離・廃仏毀釈の攻撃目標になったのではないかと私は考えています。
明治初年に明治政府の意志決定場面に近い所にいた神道学者たちは、仏教だけでなく、修験者や民間信仰までも排斥対象としていました。そのような目で見ると、庶民のなかで大きな娯楽であり、影響力をもつ盆踊りは潰しておきたい存在だったのではないでしょうか。それは、文明開化を推進するの近代化官僚と目的は違えども利害は一致します。民衆の中にある猥雑な大衆娯楽を取り除くというスローガンで、穢れの多い盆踊りを排斥したのではないかと私は考えています。

最後に盆踊り禁止令をめぐるその後を見ておきましょう。
明治初年に盆踊り禁止令が出されて、取り締まり対象となります。しかし、布告だけで庶民の最大の娯楽である盆踊りをやめるはずもありません。取締まる側と民衆との間で、攻防戦が展開されます。その結果、緩和と制限が繰り返されます。
愛媛県(香川県を併合中)の場合も見ておきましょう。
1878(明治10)年 盆踊り禁止令公布
1881(明治14)年 8月8日 愛媛県が盆踊り禁止(愛媛県甲第147号達)
1889(明治22)年 禁止していた盆踊りを許可(県令54号)
1893(明治26)7月 盆踊りを旧暦7月10日~20日の間に制限して許可(香川県県告諭第669号)
愛媛県に併合されていた香川県は、独立後に盆踊りを期間を短縮して許可しています。これは、県民達は喜んだはずです。東京からやってきた知事の人気取り政策のひとつであったのかもしれません。また、許可された期間が7月10日~20日の10日間となっています。ここからは、江戸時代には、これよりも長く盆踊りは、夏の夜に毎晩、踊り続けられていたことが分かります。

明治中期の盆踊り取締まり状況を、日本之時事第7号 明治21年(1888年)を見てみましょう。
記事概要(意訳)
数百の老若男女が一同に、立場のわけへだてなく集まって、灯籠をかかげ、声がとどろき、踊りが沸き立ち、手拍子が響き渡る、これが田舎の盆踊りである。市街の路上、名主の門前、鎮守の杜内などで、時期は盂蘭盆、七月十五六日の夜である。男性の女装、女性の男装、ボロをきたり、貴族の装いをしたり、奇抜な格好で、意表をつく趣向をこらして、皆の目をひこうと競い合う。卑猥でみだらで、男女の情が交錯し、一夜の契りを結んで果ては子を宿すこともあり、風紀を乱すとういうことで、以前より警察により取り締まられることになった。

 この盆踊りは、田舎に多いが、特に東北が盛んであった。筆者は、避暑のために東北に旅行したが、丁度8月15日~16日にあたった。東北では、陽暦でも陰暦でもなく、その中間のやり方で、この季節を盂蘭盆としているのが多い。今年は西日本が水害などで大変だったが、東北は非常に季候が良く、作物もよく実った。農家の人は意気揚々とし、それが商工業の人にも波及して、腹をたたいたり、胸をたたいたり、往事の盆踊りの賑わいであった。老若男女が熱狂して踊り騒いでいる。警察もこれを黙認していた。これをみて、眉をひそめる人もあるかもしれない。ああ、また風俗が乱れていると。しかし、筆者は思う。煌びやかな場で行われる舞踏会は男女が抱擁して跳ね回っているではないか。また、仮装舞踏会なども盆踊りの仮装と何が違うのだろう。もし、風俗をただすというなら、庶民からでなく上からやるべきではないだろうか。何事も西洋がよいといって、カルタはだめでトランプはよい、とか、盆踊りはだめで舞踏会はよい、とか、忠義は反逆罪より卑しいとか、そういう人もいまだに多い。庶民の風紀をただそうと、厳しく禁じたところで、元をたださないと、どうにもならないのではないか。そうしたこともあるから、最近は警察も粋にはからって、盆踊りも黙認するようになったのではないか。古来中国では、気候変化の予兆から、農家の苦境を知ったというが、このように農民が歓喜しているのは、気候がよく豊穣が見込まれるからであり、むしろ大いに楽しんでもらうべきではないか。盆踊りも村芝居もよいではないか。

 ここからは、警察によって取り締まられていた盆踊りが、黙認され、また賑わいを取り戻す姿が描かれています。また、盆踊り復活を肯定的に捉える世論が形成されつつあることがうかがえます。

ところが緩和の動きが反転するのが明治末です。
「第二次桂内閣 1908年(明治41年)~1911年(明治44年)の文部大臣 小松原英太郎 内務大臣 平田東助が盆踊り禁止令を再発動して、農村粛正にのりだします。生産阻害、風俗壊乱の元兇として盆踊り廃止を説いてまわります。これを『盆踊り退治』と称したようです。この影響で、盆踊りがやまった時期が明治の終わり頃か、大正の初め』と伝えられる村も多いといいます。(永田衡吉「民俗芸能 明治・大正・昭和」より)

このように江戸時代末から大正初めにかけて、幕府や明治政府は盆踊りを禁止する方向にあり、守ろうとする民衆と綱引きを繰り返していたと云えそうです。
以上をまとめておきます。
①一遍上人の踊り念仏は、江戸時代になり風流化され、村々で盆踊りとして踊られるようになった。
②その中で、仮面や女装男装姿で踊ることが定着し大衆化し、猥雑化し、人びとの最大の娯楽となっていた。
③明治になると、文明開化=近代化を掲げる明治政府は、猥雑さを伴う盆踊りを禁止した。
④しかし、庶民は禁止令を無視し、盆踊りを続けようとする。
⑤そこで、取り締まる側と、庶民との間で攻防戦が展開されるようになる。
⑥その中で、讃岐では「この踊りは、ただの盆踊りではありません。雨乞踊りなのです。旱魃の時に踊られ続けて来た神聖な踊りです」という由緒が強調されるようになる。
⑦その結果、盆踊りであった滝宮念仏踊りなども、雨乞踊りというキャッチフレーズが付けられて紹介されるようになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「伊東佳那子・來田享子 明治時代に布達された盆踊り禁止令の記載内容に関する研究」
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