讃岐国那珂郡七箇村五条村榎井村苗田村絵図」(倉敷歴史博物館)
前回は、天領の絵図下部の五条村を見ました。今回は中央の髙松街道沿いに発展した榎井村を見ていくことにします。榎井村東部の拡大図です。
上の絵地図から読み取れる情報を挙げておきます。
①榎井村の中央を髙松街道(茶色)が貫き、沿道に家が建ち並んでいる。②土器川を渡った髙松街道が真楽寺の所でドッグレッグして、春日神社の北側を西に伸びていく③春日神社には出水が描かれている④法蔵寺近くの十字路の東側に高札場と郷倉があり、榎井村の中心であった
①については、後に述べます。
②について、髙松街道が真楽寺の所でドッグレッグしているのは何故でしょうか?
その理由として考えられるのは、土器川(祓川)の渡場から真っ直ぐに西に伸びてきた髙松街道を、金倉川にかかる鞘橋に結びつけるには、どこかで南にルート変更する必要がありました。その変更点がこの地点だったと私は考えています。ここには榎井の村社である春日神社があります。そして春日神社には、こんこんと湧き出す泉(出水)があります。春日大社と鞘橋は早くから生活道で結ばれていたのかもしれません。


春日神社(琴平町)の本殿横の出水
③の春日大社の出水は、前回お話しした五条村の大井神社と同じで、神聖な場であると同時に、下流の水源地としても機能していました。春日大社の水源をもとに開かれたのが榎井村になることは以前にお話ししました。五条が本村、榎井が新村です。

奈良市の高札場
④の高札場と郷倉が榎井村の中心だったようです。この辺りに中世の石井氏の居館もありました。
琴平の五条の能勢氏の本庄城と、榎井の石川氏の石川居館(山本祐三氏 琴平の山城より)
現在は春日神社と呼ばれ、「立荘の際に藤原氏の氏神である奈良の春日大社を勧進」したからと説明されます。しかし、社伝には「榎井大明神」と記されています。そして、榎の大樹の下に泉があり、清水が湧出することから名付けられと記します。また、社殿の造営なども次のような人たちが関わっていたことが棟札からも分かります。寛元二年(1244)、新庄右馬七郎・本庄右馬四郎が春日宮を再興貞治元年(1362)、新庄資久が細川氏の命により本殿・拝殿を再建永禄12年(1569)、石川将監が社殿を造営
ここに出てくる新庄氏・本庄氏は、観応元年(1350)十月日付宥範書写(偽書)の『金毘羅大権現神事奉物惣帳』に、「本庄大庭方」「本庄伊賀方」「新庄石川方」「新庄香川方」などと出てくる宮座を構成する有力メンバーです。彼らは小松荘の本庄(五条)・新庄(榎井)に名田を持つ名主豪農クラスの者で、後に国人土豪層として戦国期に活動したことが、残された感状などからも分かります。以上からは、春日神社は新庄氏や石川氏の氏神としての性格を併せ持っていたことが分かります。それが近世になって「榎井大明神」から「春日神社」に接ぎ木されて株取りされたようです。どちらににしても春日神社と石川氏の居館跡の辺りを中心に、中世の中心はあったのでしょう。それが18世紀になって髙松街道沿いに東西に発展していきます。ここに高札場が設けられたのは、そのような背景があるからだと私は考えています。
絵地図の西側を見ておきましょう。
榎井村西部
⑤髙松街道沿いに、南に法蔵寺・玄龍寺、北に興泉寺がある。
⑥興泉寺が金毘羅寺領の新町との境界であった。
⑦興泉寺には南東から(琴平マルナカ)流れる水路が描かれている
18世紀初頭の元禄時代に書かれた金毘羅大祭行列屏風図と見比べて見ましょう。

大祭行列屏風図の榎井と寺領境界(元禄年間)
多く人達が行列を組んで髙松街道を、本社に向かっている姿描かれています。この絵図からは次のような事が読み取れます。①榎井の間には、木戸が金毘羅寺領の新町側に木戸が構えられている。
②街並みは新町側で終わっていて、榎井側には家並みはなく田んぼが続いている
この絵図が書かれたのが18世紀初頭です。そして、池御料地図は18世紀後半に書かれたものです。そうだとすると、18世紀の短期間の間に、榎井の髙松街道沿いに家並みが建ち並び都市化したことがうかがえます。18世紀は、榎井村にとっては大発展の世紀であったことを押さえておきます。

木戸を抜けると金毘羅領です。頭人の奴行列が金毘羅領に入ろうとしているところです。それを参拝者が、道の端に寄って、行列を眺めています。大祭に奉仕する女頭人を乗せた駕籠が、丸亀街道との合流点に立つ鳥居を今まさにくぐったところです。そして男頭人は、乗馬姿で髙松街道を池の御領方面からやってきて木戸に差し掛かろうとしています。その木戸を入ったところに、うどんの看板を掲げた店があります。これが讃岐でのうどん屋出現を示す最も古い史料になります。空海が中国から持ち帰ったのを弟子が讃岐に伝えたというのは俗説です。
今度は幕末の讃岐国名勝図会に描かれた榎井村を見ていくことにします。
髙松街道沿いの榎井村(讃岐国名勝図会)
北からの髙松街道榎井の俯瞰図になります。この絵図からは次のような事が読み取れます。①東から伸びてきた髙松街道が真楽寺でドッグレッグしている。
②榎井村の西端に興泉寺が描かれていて、街道には切れ目なく民家が建ち並び門前町を形成している。
③街道沿線には、寺社がいくつも描かれている
こうしてみると、幕末には榎井村は人口がさらに増えて街道の背後まで家が建ち並ぶようになっていたことが分かります。讃岐国名勝図会が榎井村の名勝として絵図入りで紹介している玄龍寺です。
榎井村の玄龍寺
左からうあってきた髙松街道が右の金毘羅側に続き。多くの往来が描かれています。この辺りに、榎井村の高札と郷倉があったことになります。池御料三村と金毘羅寺領(上が南)
榎井の東端でドッグレッグした髙松街道を東に進むと、四条村です。ここは髙松藩になります。四条については、讃岐国名勝図会には次のように描かれています。
土器川周辺・四条村 (讃岐国名勝図会)
以上をまとめておきます。①古代中世の榎井は、春日神社(榎井大明神)の出水を利用したエリアに集落が形成された。
②中世には大井神社を中心とする五条が本所(庄)で、石井氏の榎井大明神(春日神社)は新所(庄)で、それぞれの国衆の氏神であった。
③春日神社と石井氏の居館を結ぶ用水路沿いと、その下流域が榎井エリアであった。
④それが流行神の金毘羅神の登場で、金比羅寺領の門前町化が18世紀になって進むと、榎井も髙松街道沿いに人家が建ち並ぶようになった。
⑤榎井村の高札場は、石井氏の居館に近い髙松街道沿いに建てられた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考史料
横関智也の提供「讃岐国那珂郡七箇村五条村榎井村苗田村絵図」(倉敷歴史博物館)
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