瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:真福寺

前回は、生駒藩重臣の尾池玄蕃が大川権現(大川神社)に、雨乞い踊り用の鉦を寄進していることを見ました。おん鉦には、次のように記されています。

鐘の縁に
「奉寄進讃州宇多郡中戸大川権現鐘鼓数三十五、 為雨請也、惟時寛永五戊辰歳」
裏側に
「国奉行 疋田右近太夫三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛  願主 尾池玄番頭」
意訳変換しておくと
讃岐宇多郡中戸(中通)の大川権現(大川神社)に鐘鼓三十五を寄進する。ただし雨乞用である。寛永五(1628)年
国奉行 三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛 
願主 尾池玄蕃
ここに願主として登場する尾池玄蕃とは何者なのでしょうか。今回は彼が残した文書をみながら、尾池玄蕃の業績を探って行きたいと思います。
尾池玄蕃について「ウキ」には、次のように記します。
 尾池 義辰(おいけ よしたつ)通称は玄蕃。高松藩主生駒氏の下にあったが、細川藤孝(幽斎)の孫にあたる熊本藩主細川忠利に招かれ、百人人扶持を給されて大坂屋敷に居住する。その子の伝右衛門と藤左衛門は生駒騒動や島原の乱が起こった寛永14年(1637年)に熊本藩に下り、それぞれ千石拝領される。
「系図纂要」では登場しない。「姓氏家系大辞典」では、『全讃史』の説を採って室町幕府13代将軍足利義輝と烏丸氏との遺児とする。永禄8年(1565年)に将軍義輝が討たれた(永禄の変)際、懐妊していた烏丸氏は近臣の小早川外記と吉川斎宮に護衛されて讃岐国に逃れ、横井城主であった尾池光永(嘉兵衛)に匿われた。ここで誕生した玄蕃は光永の養子となり、後に讃岐高松藩の大名となった生駒氏に仕えて2000石を拝領した。2000石のうち1000石は長男の伝右衛門に、残り1000石は藤左衛門に与えた。二人が熊本藩に移った後も、末子の官兵衛は西讃岐に残ったという。
出生については、天文20年(1551年)に足利義輝が近江国朽木谷に逃れたときにできた子ともいうあるいは「三百藩家臣人名事典 第七巻」では、義輝・義昭より下の弟としている。
 足利将軍の落とし胤として、貴種伝説をもつ人物のようです。
  尾池氏は建武年間に細川定禅に従って信濃から讃岐に来住したといい、香川郡内の横井・吉光・池内を領して、横井に横井城を築いたとされます。そんな中で、畿内で松永久通が13代将軍足利義輝を襲撃・暗殺します。その際に、側室の烏丸氏女は義輝の子を身籠もっていましたが、落ちのびて讃岐の横井城城主の尾池玄蕃光永を頼ります。そこで生まれたのが義辰(玄蕃)だというのです。その後、成長して義辰は尾池光永の養子となり、尾池玄蕃と改名し、尾池家を継ぎいだとされます。以上は後世に附会された貴種伝承で、真偽は不明です。しかし、尾池氏が香川郡にいた一族であったことは確かなようです。戦国末期の土佐の長宗我部元親の進入や、その直後の秀吉による四国平定などの荒波を越えて生き残り、生駒氏に仕えるようになったようです。
鉦が寄進された寛永五(1628)年の前後の状況を年表で見ておきましょう。
1626(寛永3)年 旱魃が続き,飢える者多数出で危機的状況へ
1627(寛永4)年春、浅田右京,藤堂高虎の支援を受け惣奉行に復帰
同年8月 西島八兵衛、生駒藩奉行に就任
1628(寛永5)年10月 西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手 
     尾池玄蕃が大川権現(神社)に鉦を寄進
1630(寛永7)年2月 生駒高俊が,浅田右京・西島八兵衛・三野四郎左衛門らの奉行に藩政の精励を命じる
1631(寛永8)年2月 満濃池完成.

ここからは次のようなことが分かります。
①1620年代後半から旱魃が続き餓死者が多数出て、逃散が起こり生駒家は存亡の危機にあった
②建直しのための責任者に選ばれたのが三野四郎左衛門・浅田右京・西島八兵衛の三奉行であった
③奉行に就任した西嶋八兵衛は、各地で灌漑事業を行い、満濃池築造にも取りかかった。
④同年に尾池玄蕃は大川権現に、雨乞い用の鉦を寄進している。
3人の国奉行の配下で活躍する尾池玄蕃が見えて来ます。

尾池玄蕃の活動拠点は、どこにあったのでしょうか?
尾池玄蕃の青野山城跡
三宝大荒神にある青野山城跡の説明版

丸亀市土器町三丁目の三宝大荒神のコンクリート制の社殿の壁には、次のような説明版が吊されています。そこには次のように記されています。
①ここが尾池玄蕃の青野山城跡で、西北部に堀跡が残っていること
②尾池一族の墓は、宇多津の郷照寺にあること
③尾池玄蕃の末子義長が土器を賜って、青野山城を築いた。
この説明内容では、尾池玄蕃の末っ子が城を築いたと記します。それでは「一国一城令」はどうなるの?と、突っ込みを入れたくなります。「昭和31年6月1日 文化指定」という年紀に驚きます。どちらにしても尾池玄蕃の子孫は、肥後藩や高松藩・丸亀藩にもリクルートしますので、それぞれの子孫がそれぞれの物語を附会していきます。あったとすれば、尾池玄蕃の代官所だったのではないでしょうか? 
旧 「坂出市史」には次のような「尾池玄蕃文書」 (生駒家宝簡集)が載せられています。
預ケ置代官所之事
一 千七百九拾壱石七斗  香西郡笠居郷
一 弐百八石壱斗     乃生村
一 七拾石        中 間
一 弐百八拾九石五斗   南条郡府中
一 弐千八百三十三石壱斗 同 明所
一 三千三百石八斗    香西郡明所
一 七百四拾四石六斗   □ □
  高合  九千弐百三拾七石八斗
  慶長拾七(1615)年 正月日                   
           (生駒)正俊(印)
  尾池玄蕃とのへ
この文書は、一国一城令が出されて丸亀城が廃城になった翌年に、生駒家藩主の正俊から尾池玄蕃に下された文書です。「預ケ置代官所之事」とあるので、列記された場所が尾池玄蕃の管理下に置かれていたことが分かります。香西郡や阿野南条郡に多いようです。
 生駒家では、検地後も武士の俸給制が進まず、領地制を継続していました。そのため高松城内に住む家臣団は少なく、支給された領地に舘を建てて住む家臣が多かったことは以前にお話ししました。さらに新規開拓地については、その所有を認める政策が採られたために、周辺から多くの人達が入植し、開拓が急速に進みます。丸亀平野の土器川氾濫原が開発されていくのも、この時期です。これが生駒騒動の引き金になっていくことも以前にお話ししました。
 ここで押さえておきたいのは、尾池玄蕃が代官として活躍していた時代は生駒藩による大開発運動のまっただ中であったことです。開発用地をめぐる治水・灌漑問題などが、彼の元には数多く持ち込まれてきたはずです。それらの解決のために日々奮戦する日々が続いたのではないかと思います。そんな中で1620年代後半に襲いかかってくるのが「大旱魃→飢饉→逃散→生駒藩の存続の危機」ということになります。それに対して、生駒藩の後ろ盾だった藤堂高虎は、「西嶋八兵衛にやらせろ」と命じるのです。こうして「讃岐灌漑改造プロジェクト」が行われることになります。それ担ったのが最初に見た「国奉行 三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛」の3人です。そして、尾池玄蕃も丸亀平野方面でその動きを支えていくことになります。満濃池築堤や、その前提となる土器川・金倉川の治水工事、満濃池の用水工事などにも、尾池玄蕃は西嶋八兵衛の配下で関わっていたのではないかと私は考えています。
多度津町誌 購入: ひさちゃんのブログ

以前に紹介したように「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊文書)」に、尾池玄蕃が登場します
年記がわからないのですが、7月1日に尾池玄番は次のような指示を多度郡の踊組にだしています。
以上
先度も申遣候 乃今月二十五日之瀧宮御神事に其郡より念佛入候由候  如先年御蔵入之儀は不及申御請所共不残枝入情可伎相凋候  少も油断如在有間敷候
恐々謹言
七月朔日(1日)       (尾池)玄番 (花押)
松井左太夫殿
福井平兵衛殴
河原林し郎兵衛殿
重水勝太夫殿
惣政所中
惣百姓中
  意訳変換しておくと
前回に通達したように、今月7月25日の瀧宮(牛頭天王社)神事に、多度郡よりの念佛踊奉納について、地元の村社への御蔵入(踊り込み)のように、御請所とともに、精を入れて相調えること。少しの油断もないように準備するように。

以後の尾池玄蕃の文書を整理すると次のようになります。
①7月 朔日(1日) 尾池玄番による滝宮神社への踊り込みについての指示
②7月 9日  南鴨組の辻五兵衛による尾池玄蕃への踊り順確認文書の入手
③7月20日  尾池玄蕃による南鴨踊組への指示書
④7月25日 踊り込み当日の順番についての具体的な確認
  滝宮神社への踊り込み(奉納)が7月25日ですから、間近に迫った段階で、奉納の順番や鉦の貸与など具体的な指示を細かく与えています。また、前回に那珂郡七箇村組と踊りの順番を巡っての「出入り」があったことが分かります。そこで、今回はそのような喧嘩沙汰を起こさぬように事前に戒めています。
 ここからは尾池玄蕃が滝宮牛頭天皇社(神社)への各組の踊り込みについて、細心の注意を払っていたことと、地域の実情に非常に明るかったことが分かります。どうして、そこまで玄蕃は滝宮念仏踊りにこだわったのでしょうか。それは当時の讃岐の大旱魃対策にあったようです。当時は旱魃が続き農民が逃散し、生駒藩は危機的な状況にありました。そんな中で藩政を担当することになった西嶋八兵衛は、各地のため池築堤を進めます。満濃池が姿を見せるのもこの時です。このような中で行われる滝宮牛頭天皇社に各地から奉納される念仏踊りは、是非とも成功に導きたかったのでないか。 どちらにしても、次のようなことは一連の動きとして起こっていたことを押さえておきます。
①西嶋八兵衛による満濃池や用水工事
②滝宮牛頭天王社への念仏踊り各組の踊り込み
③尾池玄蕃による大川権現(神社)への雨乞用の鉦の寄進
そして、これらの動きに尾池玄蕃は当事者として関わっていたのです。
真福寺3
松平頼重が再建した真福寺

 尾池玄蕃が残した痕跡が真福寺(まんのう町)の再建です。
 真福寺というのは、讃岐流刑になった法然が小松荘で拠点とした寺院のひとつです。その後に退転しますが、荒れ果てた寺跡を見て再建に動き出すのが尾池玄蕃です。彼は、岸上・真野・七箇などの九か村(まんのう町)に勧進して堂宇再興を発願します。その真福寺の再建場所が生福寺跡だったようです。ここからは、尾池玄蕃が寺院勧進を行えるほど影響力が強かったことがうかがえます。
 しかし、尾池玄蕃は生駒騒動の前には讃岐を離れ、肥後藩にリクルートします。檀家となった生駒家家臣団が生駒騒動でいなくなると、真福寺は急速に退転します。このような真福寺に目を付けたのが、高松藩主の松平頼重です。その後、松平頼重は真福寺をまんのう町内で再興します。それが現在地(まんのう町岸の上)に建立された真福寺になります。
  以上をまとめておきます。
①尾池玄蕃は、戦国末期の動乱期を生き抜き、生駒藩の代官として重臣の地位を得た
②彼の活動エリアとしては、阿野郡から丸亀平野にかけて活躍したことが残された文書からは分かる。
③1620年代後半の大旱魃による危機に際しては、西嶋八兵衛のもとで満濃池築堤や土器川・金倉川の治水工事にあったことがうかがえる。
④大川権現(神社)に、念仏踊の雨乞用の鉦を寄進するなどの保護を与えた
⑤法然の活動拠点のひとつであった真福寺も周辺住民に呼びかけ勧進活動を行い復興させた。
⑥滝宮牛頭天王社(神社)の念仏踊りについても、いろいろな助言や便宜を行い保護している。
以上からも西嶋八兵衛時代に行われ「讃岐開発プロジェクト」を担った能吏であったと云えそうです。
 尾池玄蕃は2000石を拝領する重臣で、優れた能力と「血筋」が認められて、後には熊本藩主に招かれ、百人扶持で大坂屋敷に居住しています。二人の子供は、熊本藩に下り、それぞれ千石拝領されています。生駒騒動以前に、生駒藩に見切りをつけていたようです。
玄蕃の子孫の中には、高松藩士・丸亀藩士になったものもいて、丸亀藩士の尾池氏は儒家・医家として有名でした。土佐藩士の尾池氏も一族と思われます。
    
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


「寺々由来」の成立時期を探る手掛りを、研究者は次のように挙げていきます。
 この書には、松平家の御廟所法然寺のことが書かれていません。前回もお話ししたように仏生山法然寺は那珂郡小松庄にあった法然上人の旧蹟生福寺を、香川郡仏生山の地に移したものです。建設は寛文八(1668)年に始まり、2年後の正月25日に落慶供養が行われています。その法然寺がこの書には登場しないので、寛文十(1670)年より前に成立していたと推測できます。ところが、ここで問題が出てきます。それはこの時に創建されていたはずの寺でも、この書には載せられていない寺があるのです。それを研究者は次のように指摘します。
①「仏生山條目」の第23條に「頼重中興仁天令建立之間、為住持者波為報恩各致登山法夏可相勤之」と定められた浄上宗の國清寺・榮國寺・東林寺・真福寺。
②頼重が万治元年に寺領百石を寄進し、父頼房の霊牌を納め、寺領三百石を寄進して菩提寺とした浄願寺
③明暦四年に、頼重が百石寄進した日光門跡末天台宗蓮門院
④頼重が生母久昌院の霊供料として寛文八年に百石を寄進した甲州久遠寺末法花宗廣昌寺
このように頼重に直接関係する寺々が、この書には載せられていないのです。これをどう考えればいいのでしょうか? その理由がよく分りません。どちらにしても、ここでは、法然寺の記載がないからと言って、本書成立を寛文十年(1670)以前とすることはできないと研究者は判断します。

結論として、本書の成立は寛文十年よりやや遅れた時期だと研究者は考えているようです。
その根拠は、東本願寺末真宗寒川郡伝西寺の項の「一、寺之證檬(中略)十五代常如上人寺号之免書所持仕候」という記述です。ここに出てくる常如という人物は、先代琢如が寛文11年4月に没した後を受けた人になります。(「真宗年表」)。そうすると、この書が成立した上限は、それ以後ということになります。また下限は、妙心寺末禅宗高松法昌寺は延宝三年十一月に賞相寺と改められます(「高松市史」)。しかし、この書には、法昌寺の名で載っています。また、延宝四年に節公から常福寺の号を与えられて真宗仏光寺派に属した(「讃岐国名勝国合」)絲浜の松林庵が載っていません。ここからは延宝2年頃までに出来たことが推測できます。

鎌田博物館の「諸出家本末帳」と「寺々由来書」を比較してみて分かることは? 
高松藩で一番古い寺院一覧表①「御領分中寺々由来書」を観てきましたが、これと「兄弟関係」にあるのが鎌田共済会図書館の②「諸出家本末帳」です。この書は昭和5年2月、松原朋三氏所蔵本を転写したことを記す奥書があります。しかし、原本が見つかっていません。この標題の下に「寛文五年」と割書されているのは、本文末尾の白峯寺の記事が寛文五年の撰述であるのを、本書全体の成立年代と思い違いしたためで、本文中には享保二(1717)年2月の記事があるので、その頃の成立と研究者は判断します。成立は、「由来書」についで、2番目に古い寺院リストになります。両者を比べて見ると、内容はほとんど同じなので、同じ原本を書写した「兄弟関係」にあるものと研究者は考えています。両者を比べてみると、何が見えてくるのでしょうか? まず配列について見ていくことにします。

寺由来書と本末帳1
由来帳と本末帳の各宗派配列
上が①の由来書、下が②の本末帳で、数字は所載の寺院数です。
①大きい違いは、「由来書」では浄土・天台・真言・禅・法華・律・山伏・一向の順なのに、「本末帳」では、一向が禅宗の次に来ていること。
②真宗内部が「由来書」では西本願寺・東本願寺・興正寺・東光寺・永応寺・安楽寺の順なのに、「本末帳」では興正寺・安楽寺・東光寺。永応寺・西本願寺・東本願寺の順序になっていること
これは「本末帳」は一度バラバラになったものを、ある時期に揃えて製本し直した。ところが欠落の部分もあって、元の姿に復元できなかったと研究者は考えています。
③掲載の寺院数は、両書共に浄土8・天台2・律12・時宗1・山伏1です。真言は105に対して59、禅宗は7と5、 真宗は129に対して121と、どれも「本末帳」の方が少いようです。
④欠落がもっとも多いのは真言宗で、仁和寺・大覚寺とも「本末帳」は「由来書」の約半数しかありません。これも欠落した部分があるようです。
「由来書」と「本末帳」の由緒記述についての比較一覧表が次の表3です。
由来書と本末帳
「由来書」と「本末帳」の由緒記述の比較
上下を比べると書かれている内容はほとんど同じです。違いを見つける方が難しいほどです。ただ、よく見ると、仁和寺末香東郡阿弥陀院(岩清尾八幡別当)末寺六ヶ寺の部分は配列や記述に次のような多少の違いがあります。
①の円満寺については「由来書」にある「岩清尾八幡宮之供僧頭二而有之事」の一行が「本末帳」にはありません。
③の福壽院について「本末帳」には、「はじめ今新町にあり、寛文七年、中ノ村天神別当になった」と述べていますが「由来書」には、それがありません。
⑤の薬師坊について「由来書」には「原本では記事が消されている」と断書しています。「本末帳」では、そこに貼紙があり、「消居」というのはこの事を指すようです。
⑥の西泉坊については、「由来書」には記事がありますが、「本末帳」にはありません。
全般にわたって見ると、多少の違いがありますが、内容は非常ににていることを押さえておきます。

研究者は表4のように一覧化して、両者の異同を次のように指摘します。
由来書と本末帳3

①志度寺の寺領は江戸時代を通じて70石でした(「寺社記」)。ところが「由来書」は40石、「本末帳」は50石と記します。「由来書」成立の17世紀後半頃は、40石だったのでしょうか。
②真言宗三木郡浄土寺の本尊の阿弥陀如来について「由来書」は安阿弥の作と記します。「本末帳」は「安阿弥」の三字が脱落したために「本尊阿弥陀之作」となってしまっています。
④法花宗高松善昌寺について、「由来書」は「日遊と申出家」の建立、「本末帳」は「木村氏与申者」の建立と記します。建立者がちがいます。
⑤真宗南条郡浄覚寺は「由来書」は「開基」の記事だけですが、「本末帳」では「開基」とともに「寺之證檬」とあります。
⑥の真宗北条郡教善寺(「本末帳」は教専寺)、⑦の真宗高松真行寺の例を見ても、真宗寺院の記事は、ほとんど例外なく「開基」と「寺之證拠」の二項があります。
⑧真宗高松覚善寺、⑨の徳法寺ともに「本末帳」では「寺之證拠」が貼紙で消されています。なお真宗の部で、「由来書」では例外なく「一、開基云々」とあるのを「本末帳」では「一、寺開基云々」とし、また「由来書」では「以助力建立仕」を「本末帳」では「以助成建立仕」という表現になっています。以上から、州崎寺の本は鎌田図書館本の直接の写しではないと研究者は判断します。
以上をまとめておくと
①「御領分中宮由来」と「御領分中寺々由来書」は、寛文九(1668)年に高松藩が各郡の大政所に寺社行政参考のために同時期に書上げ、藩に提出させたものとされてきた。
②法然寺が載せられていないので、法然寺完成以前に成立していたともされてきた。
③しかし、法然寺完成時には姿を見せていた寺がいくつか記載されていない。それは、松平頼重に関連する寺々である。
④以上から法然寺完成の1670年以前に成立していたとは云えない。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

  「松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来(ごりようぶんちゆうてらでらゆらい)の検討 真宗の部を中心として~四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行」
関連記事

新編 香川叢書 全六巻揃(香川県教育委員会編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
香川叢書(昭和14年発行 昭和47年復刻)

私が師匠からいただいた本の中に「香川叢書」があります。久しぶりにながめていると「真福寺由家記」が1巻に載せられていました。それを読んでの報告記を載せておきます。
 香川叢叢書1巻18Pには、真福寺由末記の解題が次のように記されています。
仲多度郡紳野村大学岸上の浄土宗真福寺は、法然上人の配流地那珂郡小松庄での止住遺蹟と伝ふる所謂小松三福寺(四条村清福寺・高篠村生福寺)の一で、もとは同郡四條村にあつたが、寛永二年高篠村に移轄再興され、更に寛文二年藩主松手頼重が復興を計らせた。この記はその復興の成りしを喜び、寛文三(1663)年正月、松平頼重自ら筆執つて書いた由来記である。(同寺蔵)

高松藩藩祖の松平頼重自身の筆による由来記のようです。読んでみましょう。

讚州那珂郡高篠村の真福寺は、源空上人(法然)之遺跡、念佛弘通之道場也。蓋上人念佛興降之御、承元丁卯仲春、南北之強訴により、月輪禅定之厚意にまかせて、暫営寺に棲遅し、源信自から作る本尊を安置して、六時に礼讃ス。直に専念を行すれは、群萌随て化し、唯名字を和すれは、往生日こに昌なり。道俗雲のとくに馳、英虜星のごとくに集まる。而后、皇恩勅許之旨を奉し、阪洛促装,の節に及て、弟子門人相謂曰く。上人吸洛したまわは、誰をか師とし、誰をか範とせん。洪嘆拠に銘し、哀馨骨に徹す。依之上人手つから、諸佛中之尊像を割ミ、併せて極難値遇の自影をけつり、古云く、掬水月在手、心は月のこく、像は水のとしし誰か迄真性那の像にありと云はさらんや。而華より両の像を当寺に残して、浄土の風化盆揚々たり。中葉に及て、遺雌殆頽破す。反宇爰にやふれ、毀垣倒にたつ。余当国の守として、彼地我禾邑に属す。爰に霊場の廃せんとすると欺て、必葛の廣誉、あまねく檀越の信をたヽき、再梵堂宇を営す。予も亦侍臣に命して、三尊の霊像を作りて以寄附す。空師の徳化、ふたヽひ煕々と然たり。教道風のとくにおこり。黎庶草のとくにす。滋に法流を無窮に伝ん事を好んして、由来の縁を記す。乃ち而親く毫を揮て、以て霊窟に蔵む。維時寛文三歳次癸卯初春下旬謹苦。
     
  意訳変換しておくと
讚州那珂郡高篠村の真福寺は、源空上人(法然)の旧蹟で、念佛道場である。承元丁(1207)年卯仲春、南北之強訴により流刑となり、月輪禅定(九条良経)の荘園・小松荘にある当寺で、生活することになった。法然は自から彫った本尊を安置して、一日六回の礼讃を、専念して行っていると、高名を慕って多くの人々が集まってきて、名号を和するようになった。みるみるうちにいろいろな階層の人々が雲がたなびくように集まってきた。
 その後に、勅許で畿内へ帰ることを許さたときには、弟子門人が云うには「上人が京に帰ってしまわれたら、誰を師とし、誰を範としたらよいのでしょうか。」と嘆き悲しんだ。そこで上人は、自らの手で尊像を彫り、併せて自影を削った。古くから「掬水月在手、心は月のごとく、像は水のごとし 誰か迄真性那の像にあり」と云われている。このふたつの像を残して、法然は去られた。
 しかし、その後に法然の旧蹟は荒廃・退転してしまった。私は、讃岐の国守となり、この旧蹟も私の領地に属することになった。法然の霊場が荒廃しているのを嘆き、信仰心を持って、檀家としての責任として堂宇を再興することにした。家臣に命して、三尊の霊像を作りて、寄附する。法然の徳化が、再び蘇り、教道が風のごとくふき、庶民が草のごとくなびき出す。ここに法然の法流を無窮に伝えるために、由来の縁を記す。毫を揮て、以て霊窟に収める。
 寛文三(1663)年 癸卯初春下旬 謹苦。
内容を整理しておくと次のようになります
①那珂(仲)郡高篠村の真福寺は法然の讃岐流刑の旧蹟で、念佛道場で聖地でもあった。
②法然は、この地を去るときに、阿弥陀仏と自像のふたつの像を残した。
③松平頼重は、退転していた真福寺を再興し、三尊を安置し、その由来文書を収めた。
真福寺1
真福寺(まんのう町岸上 法然上人御旧跡とある)
少し補足をしないと筋書きが見えて来ません。
①については、残された史料には、小松荘で法然は生福寺(しょうふくじ)(現在の西念寺)に居住し、仏像を造ったり、布教に努めたといいます。当時、周辺には、生福寺のほか真福寺と清福寺の三か寺あって、これらの寺を法然はサテライトとして使用した、そのため総称して三福寺と呼んだと伝えられます。真福寺が拠点ではなかったようです。
小松郷生福寺2
 生福寺本堂で説法する法然(法然上人絵伝)

法然が居住した生福寺は、現在の正念寺跡とすれば、真福寺は、どこにあったのでしょうか?
満濃町史には「空海開基で荒れていたのを、法然が念仏道場として再建」とあります。真福寺が最初にあったとされるのはまんのう町大字四條の天皇地区にある「真福寺森」です。ここについては以前にお話したので省略します。
真福寺森から見た象頭山
四条の真福寺森から眺めた象頭山

松平頼重による真福寺の復興は、仏生山法然寺創建とリンクしているようです。
 法然寺建造の経緯は、「仏生山法然寺条目」の中の知恩院宮尊光法親王筆に次のように記されています。
 元祖法然上人、建永之比、讃岐の国へ左遷の時、暫く(生福寺)に在住ありて、念仏三昧の道場たりといへども、乱国になりて、其の旧跡退転し、僅かの草庵に上人安置の本尊ならひに自作の仏像、真影等はかり相残れり。しかるを四位少将源頼重朝臣、寛永年中に当国の刺吏として入部ありて後、絶たるあとを興して、此の山霊地たるによって、其のしるしを移し、仏閣僧房を造営し、新開を以て寺領に寄附せらる。

意訳すると
①浄土宗の開祖法然が、建永元年に法難を受けて土佐国へ配流されることになった。
②途中の讃岐国で。九条家の保護を受けて小松庄の生福寺でしばらく滞在した。
④その後戦乱によって衰退し、草庵だけになって法然上人の安置した本尊と法然上人自作の仏像・真影だけが残っていた。
⑤それを源頼重(松平頼重)が高松藩主としてやってくると、法然上人の旧跡を興して仏生山へ移し、仏閣僧房を造営して新開の田地を寺領にして寄進した

 ここには頼重が、まんのう町にあった生福寺を仏生山へ移した経緯が記されています。これだけなら仏生山法然寺創建と真福寺は、なにも関わりがないように思えます。
ところが話がややこしくなるのですが、退転していた真福寺は、松平頼重以前の生駒時代に再建されているのです。
もう少し詳しく見ておくと、生駒家重臣の尾池玄蕃が、真福寺が絶えるのを憂えて、岸上・真野・七箇などの九か村に勧進して堂宇再興を発願しています。その真福寺の再建場所が生福寺跡だったのです。生駒家の時代に真福寺は現在の西念寺のある場所に再建されたことを押さえておきます。
 その後、生駒騒動で檀家となった生駒家家臣団がいなくなると、再建された真福寺は急速に退転します。このような真福寺に目を付けたのが、高松藩主の松平頼重ということになります。
頼重は、菩提寺である法然寺創建にとりかかていました。その創建のための条件は、次のようなものでした。
①高松藩で一番ランクの高い寺院を創建し、藩内の寺院の上に君臨する寺とすること
②水戸藩は浄土宗信仰なので、浄土宗の寺院で聖地となるような寺院であること
③場所は、仏生山で高松城の南方の出城的な性格とすること
④幕府は1644年に新しく寺院を建てることを制限するなどの布令を出していたので、旧寺院の復活という形をとる必要があったこと。

こうして、法然ゆかりの聖地にあった寺として、生福寺は仏生山に形だけ移されることになります。そして、実質的には藩主の菩提寺「仏生山法然寺」として「創建」されたのです。その由緒は法然流刑地にあった寺として、浄土宗門徒からは聖地としてあがめられることになります。江戸時代後半には、多くの信徒が全国から巡礼にやって来ていたことは以前にお話ししました。いまでも、西念寺(まんのう町羽間)には、全国からの信者がお参りにやって来る姿が見えます。

真福寺3

真福寺(讃岐国名勝図会)
 その後、松平頼重は真福寺をまんのう町内で再興します。
それが現在地の岸の上の岡の上になります。その姿については、以前にお話ししたのでここでは触れません。真福寺再建完了時に、松平頼重自らが揮毫した由来記がこの文章になるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
真福寺由来記 香川叢書第1巻 446P

   法然ゆかりのお寺 まんのう町岸上の真福寺 
イメージ 1

 最初にこのお寺と出会ったのは、もう何十年も昔。丸亀平野が終わる岸上の丘の上にどっしりと立っていた。この周辺に多い浄土真宗のお寺さんとは立地環境も、境内の雰囲気も、寺院建築物も異なっており、「なんなのこのお寺」という印象を受けたのを今でも覚えている。境内の石碑から「法然ゆかりのお寺」ということは分かったが、それ以上のことを知る意欲と機会に恵まれなかった。
改めて訪ねて見て「寺の歴史」を書物だけからでも調べておこうと思った。以下は、真福寺に関しての読書メモである

イメージ 2

法然上人御旧跡とあります。
この寺と法然には、どんな関係があるのでしょうか?
1207年2月、専修念仏禁止令が出され、法然は土佐に、弟子の親鸞は越後に流罪となります。しかし、法然を載せた舟は、土佐には向かわず瀬戸内海の塩飽諸島の本島をめざします。その後は、讃岐の小松庄(現在の琴平・まんのう町周辺)に留まる。そして10ヶ月後には赦免され讃岐を離れることになります。
 この背景には、法然の擁護者であった関白藤原兼実(かねざね)の力が働いていたようです。法然が過ごした本島も、小松庄も九条家の荘園で、兼実の庇護下で「流刑」生活でした。そのため「流刑」と言うよりも未知の地への布教活動的な側面も生まれたようです。
4月頃に九条家の小松庄に本島からやって来た法然は、生福寺(現西念寺)という寺院に入ります。
「法然上人行状絵図」には
「讃岐国小松庄におちつき給いひにけり。当座のうち生福寺といふ寺に住して、無常のことはりを説き、念仏の行をすすめ給ひければ、当国近国の男女貴賤化導に従ふもの市のごとし
と書かれています。当寺、生福寺周辺には真福寺・清福寺の2つの寺があり併せて「三福寺」と呼ばれていたようです。
九条家の荘園である小松庄の大寺院は、古代瓦が出土する弘安寺だと思われるのですが、なぜか法然はそこには行きません。小松荘の東端で土器川の川向こうで、西山のふもとの生福寺を拠点にします。そして、周辺の真福寺と清福寺を「サテライト」として活動したとされています。

法然がやって来たときに真福寺は、どこにあったのか?

  真福寺についての満濃町史には「 空海開基で荒れていたのを、法然が念仏道場として再建」とあります。真福寺が最初にあったとされるまんのう町大字四條の天皇地区にある「真福寺森」の地名が残る場所へ行ってみましょう。
イメージ 3

「真福寺森」は、西に象頭山、その北に善通寺の五岳山がのぞめ、北は丸亀平野が広がる田野の中にありました。満濃池のゆるが抜かれて田植えが終わったばかり。
イメージ 4

この集会所の周囲が寺域とされているようです。
イメージ 5

かつての寺院のものとも思われる手洗石造物が残るだけ。
当寺の真福寺を偲ばせるものはこれのみ。
ここでも法然は、念仏の功徳を民衆に説いたのでしょうか?
イメージ 6

しかし、この寺院も長宗我部軍と長尾大隅守との戦いの兵火に焼かれて消失したと伝えられます。復興の動きは江戸時代になってからです。生駒家の家臣の尾池玄蕃が、真福寺が絶えるのを憂えて、岸上・真野・七箇などの九か村に勧進して堂宇再興を発願。その後、1662(寛文二)年に僧広誉退休によって、現在の高篠村西念寺の地に再建されたようです。つまり、真福寺は元あった場所ではなく、法然が居住した生福寺(現西念寺)に再建されたようです。


イメージ 7

ところがわずか十余年後に、初代高松松平城主としてやってきた頼重は、再びこの寺を移転させます。それが現在の岸上の岡の上。

イメージ 8

この時に、寺領五〇石の他に仏像・仏具や山林なども頼重から受領しています。
イメージ 9

当時の境内は東西約110㍍、南北約140㍍で、馬場・馬場裏などの地名が残っていると云います。
イメージ 10

広い境内に堂宇が立ち並んでいたのでしょう。江戸時代に、この寺が管理していた寺院は岸上薬師堂・福良見薬師堂・宇多津十王堂・榎井村古光寺・地蔵院・慈光院などであったと云います。まさに高松の殿様の庇護を受けて再建されたお寺なのです。それにふさわしい場所が選ばれ、移ってきたのでしょう。周辺の浄土真宗のお寺とは規模も寺格も異にするお寺さんであったようです。

イメージ 11

ここからは神野・真野・吉野方面が一望できる。支配モニュメントの建設場所としてはうってつけの場所だ。
イメージ 12

頼重の宗教政策の一環として保護を受け再建され、藩政下においては隆盛を誇った寺院。今でも法然由来の寺院として信仰を集めているが訪れる人は少ない。しかし、私はこのお寺の雰囲気と景観が好きだ。



このページのトップヘ