鐘の縁に「奉寄進讃州宇多郡中戸大川権現鐘鼓数三十五、 為雨請也、惟時寛永五戊辰歳」裏側に「国奉行 疋田右近太夫三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛 願主 尾池玄番頭」
意訳変換しておくと
讃岐宇多郡中戸(中通)の大川権現(大川神社)に鐘鼓三十五を寄進する。ただし雨乞用である。寛永五(1628)年国奉行 三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛願主 尾池玄蕃
ここに願主として登場する尾池玄蕃とは何者なのでしょうか。今回は彼が残した文書をみながら、尾池玄蕃の業績を探って行きたいと思います。
尾池玄蕃について「ウキ」には、次のように記します。
尾池 義辰(おいけ よしたつ)通称は玄蕃。高松藩主生駒氏の下にあったが、細川藤孝(幽斎)の孫にあたる熊本藩主細川忠利に招かれ、百人人扶持を給されて大坂屋敷に居住する。その子の伝右衛門と藤左衛門は生駒騒動や島原の乱が起こった寛永14年(1637年)に熊本藩に下り、それぞれ千石拝領される。「系図纂要」では登場しない。「姓氏家系大辞典」では、『全讃史』の説を採って室町幕府13代将軍足利義輝と烏丸氏との遺児とする。永禄8年(1565年)に将軍義輝が討たれた(永禄の変)際、懐妊していた烏丸氏は近臣の小早川外記と吉川斎宮に護衛されて讃岐国に逃れ、横井城主であった尾池光永(嘉兵衛)に匿われた。ここで誕生した玄蕃は光永の養子となり、後に讃岐高松藩の大名となった生駒氏に仕えて2000石を拝領した。2000石のうち1000石は長男の伝右衛門に、残り1000石は藤左衛門に与えた。二人が熊本藩に移った後も、末子の官兵衛は西讃岐に残ったという。出生については、天文20年(1551年)に足利義輝が近江国朽木谷に逃れたときにできた子ともいうあるいは「三百藩家臣人名事典 第七巻」では、義輝・義昭より下の弟としている。
足利将軍の落とし胤として、貴種伝説をもつ人物のようです。
尾池氏は建武年間に細川定禅に従って信濃から讃岐に来住したといい、香川郡内の横井・吉光・池内を領して、横井に横井城を築いたとされます。そんな中で、畿内で松永久通が13代将軍足利義輝を襲撃・暗殺します。その際に、側室の烏丸氏女は義輝の子を身籠もっていましたが、落ちのびて讃岐の横井城城主の尾池玄蕃光永を頼ります。そこで生まれたのが義辰(玄蕃)だというのです。その後、成長して義辰は尾池光永の養子となり、尾池玄蕃と改名し、尾池家を継ぎいだとされます。以上は後世に附会された貴種伝承で、真偽は不明です。しかし、尾池氏が香川郡にいた一族であったことは確かなようです。戦国末期の土佐の長宗我部元親の進入や、その直後の秀吉による四国平定などの荒波を越えて生き残り、生駒氏に仕えるようになったようです。
鉦が寄進された寛永五(1628)年の前後の状況を年表で見ておきましょう。
1626(寛永3)年 旱魃が続き,飢える者多数出で危機的状況へ
1627(寛永4)年春、浅田右京,藤堂高虎の支援を受け惣奉行に復帰
同年8月 西島八兵衛、生駒藩奉行に就任
1628(寛永5)年10月 西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手
尾池玄蕃が大川権現(神社)に鉦を寄進
1630(寛永7)年2月 生駒高俊が,浅田右京・西島八兵衛・三野四郎左衛門らの奉行に藩政の精励を命じる
1631(寛永8)年2月 満濃池完成.
ここからは次のようなことが分かります。
①1620年代後半から旱魃が続き餓死者が多数出て、逃散が起こり生駒家は存亡の危機にあった②建直しのための責任者に選ばれたのが三野四郎左衛門・浅田右京・西島八兵衛の三奉行であった③奉行に就任した西嶋八兵衛は、各地で灌漑事業を行い、満濃池築造にも取りかかった。④同年に尾池玄蕃は大川権現に、雨乞い用の鉦を寄進している。
3人の国奉行の配下で活躍する尾池玄蕃が見えて来ます。
尾池玄蕃の活動拠点は、どこにあったのでしょうか?
丸亀市土器町三丁目の三宝大荒神のコンクリート制の社殿の壁には、次のような説明版が吊されています。そこには次のように記されています。
①ここが尾池玄蕃の青野山城跡で、西北部に堀跡が残っていること②尾池一族の墓は、宇多津の郷照寺にあること③尾池玄蕃の末子義長が土器を賜って、青野山城を築いた。
この説明内容では、尾池玄蕃の末っ子が城を築いたと記します。それでは「一国一城令」はどうなるの?と、突っ込みを入れたくなります。「昭和31年6月1日 文化指定」という年紀に驚きます。どちらにしても尾池玄蕃の子孫は、肥後藩や高松藩・丸亀藩にもリクルートしますので、それぞれの子孫がそれぞれの物語を附会していきます。あったとすれば、尾池玄蕃の代官所だったのではないでしょうか?
旧 「坂出市史」には次のような「尾池玄蕃文書」 (生駒家宝簡集)が載せられています。
預ケ置代官所之事一 千七百九拾壱石七斗 香西郡笠居郷一 弐百八石壱斗 乃生村一 七拾石 中 間一 弐百八拾九石五斗 南条郡府中一 弐千八百三十三石壱斗 同 明所一 三千三百石八斗 香西郡明所一 七百四拾四石六斗 □ □高合 九千弐百三拾七石八斗慶長拾七(1615)年 正月日
(生駒)正俊(印)尾池玄蕃とのへ
この文書は、一国一城令が出されて丸亀城が廃城になった翌年に、生駒家藩主の正俊から尾池玄蕃に下された文書です。「預ケ置代官所之事」とあるので、列記された場所が尾池玄蕃の管理下に置かれていたことが分かります。香西郡や阿野南条郡に多いようです。
生駒家では、検地後も武士の俸給制が進まず、領地制を継続していました。そのため高松城内に住む家臣団は少なく、支給された領地に舘を建てて住む家臣が多かったことは以前にお話ししました。さらに新規開拓地については、その所有を認める政策が採られたために、周辺から多くの人達が入植し、開拓が急速に進みます。丸亀平野の土器川氾濫原が開発されていくのも、この時期です。これが生駒騒動の引き金になっていくことも以前にお話ししました。
生駒家では、検地後も武士の俸給制が進まず、領地制を継続していました。そのため高松城内に住む家臣団は少なく、支給された領地に舘を建てて住む家臣が多かったことは以前にお話ししました。さらに新規開拓地については、その所有を認める政策が採られたために、周辺から多くの人達が入植し、開拓が急速に進みます。丸亀平野の土器川氾濫原が開発されていくのも、この時期です。これが生駒騒動の引き金になっていくことも以前にお話ししました。
ここで押さえておきたいのは、尾池玄蕃が代官として活躍していた時代は生駒藩による大開発運動のまっただ中であったことです。開発用地をめぐる治水・灌漑問題などが、彼の元には数多く持ち込まれてきたはずです。それらの解決のために日々奮戦する日々が続いたのではないかと思います。そんな中で1620年代後半に襲いかかってくるのが「大旱魃→飢饉→逃散→生駒藩の存続の危機」ということになります。それに対して、生駒藩の後ろ盾だった藤堂高虎は、「西嶋八兵衛にやらせろ」と命じるのです。こうして「讃岐灌漑改造プロジェクト」が行われることになります。それ担ったのが最初に見た「国奉行 三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛」の3人です。そして、尾池玄蕃も丸亀平野方面でその動きを支えていくことになります。満濃池築堤や、その前提となる土器川・金倉川の治水工事、満濃池の用水工事などにも、尾池玄蕃は西嶋八兵衛の配下で関わっていたのではないかと私は考えています。
以前に紹介したように「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊文書)」に、尾池玄蕃が登場します
年記がわからないのですが、7月1日に尾池玄番は次のような指示を多度郡の踊組にだしています。
以上先度も申遣候 乃今月二十五日之瀧宮御神事に其郡より念佛入候由候 如先年御蔵入之儀は不及申御請所共不残枝入情可伎相凋候 少も油断如在有間敷候恐々謹言七月朔日(1日) (尾池)玄番 (花押)松井左太夫殿福井平兵衛殴河原林し郎兵衛殿重水勝太夫殿惣政所中惣百姓中
意訳変換しておくと
前回に通達したように、今月7月25日の瀧宮(牛頭天王社)神事に、多度郡よりの念佛踊奉納について、地元の村社への御蔵入(踊り込み)のように、御請所とともに、精を入れて相調えること。少しの油断もないように準備するように。
以後の尾池玄蕃の文書を整理すると次のようになります。
①7月 朔日(1日) 尾池玄番による滝宮神社への踊り込みについての指示②7月 9日 南鴨組の辻五兵衛による尾池玄蕃への踊り順確認文書の入手③7月20日 尾池玄蕃による南鴨踊組への指示書④7月25日 踊り込み当日の順番についての具体的な確認
滝宮神社への踊り込み(奉納)が7月25日ですから、間近に迫った段階で、奉納の順番や鉦の貸与など具体的な指示を細かく与えています。また、前回に那珂郡七箇村組と踊りの順番を巡っての「出入り」があったことが分かります。そこで、今回はそのような喧嘩沙汰を起こさぬように事前に戒めています。
ここからは尾池玄蕃が滝宮牛頭天皇社(神社)への各組の踊り込みについて、細心の注意を払っていたことと、地域の実情に非常に明るかったことが分かります。どうして、そこまで玄蕃は滝宮念仏踊りにこだわったのでしょうか。それは当時の讃岐の大旱魃対策にあったようです。当時は旱魃が続き農民が逃散し、生駒藩は危機的な状況にありました。そんな中で藩政を担当することになった西嶋八兵衛は、各地のため池築堤を進めます。満濃池が姿を見せるのもこの時です。このような中で行われる滝宮牛頭天皇社に各地から奉納される念仏踊りは、是非とも成功に導きたかったのでないか。 どちらにしても、次のようなことは一連の動きとして起こっていたことを押さえておきます。
①西嶋八兵衛による満濃池や用水工事②滝宮牛頭天王社への念仏踊り各組の踊り込み③尾池玄蕃による大川権現(神社)への雨乞用の鉦の寄進
そして、これらの動きに尾池玄蕃は当事者として関わっていたのです。
松平頼重が再建した真福寺
尾池玄蕃が残した痕跡が真福寺(まんのう町)の再建です。
真福寺というのは、讃岐流刑になった法然が小松荘で拠点とした寺院のひとつです。その後に退転しますが、荒れ果てた寺跡を見て再建に動き出すのが尾池玄蕃です。彼は、岸上・真野・七箇などの九か村(まんのう町)に勧進して堂宇再興を発願します。その真福寺の再建場所が生福寺跡だったようです。ここからは、尾池玄蕃が寺院勧進を行えるほど影響力が強かったことがうかがえます。
しかし、尾池玄蕃は生駒騒動の前には讃岐を離れ、肥後藩にリクルートします。檀家となった生駒家家臣団が生駒騒動でいなくなると、真福寺は急速に退転します。このような真福寺に目を付けたのが、高松藩主の松平頼重です。その後、松平頼重は真福寺をまんのう町内で再興します。それが現在地(まんのう町岸の上)に建立された真福寺になります。
しかし、尾池玄蕃は生駒騒動の前には讃岐を離れ、肥後藩にリクルートします。檀家となった生駒家家臣団が生駒騒動でいなくなると、真福寺は急速に退転します。このような真福寺に目を付けたのが、高松藩主の松平頼重です。その後、松平頼重は真福寺をまんのう町内で再興します。それが現在地(まんのう町岸の上)に建立された真福寺になります。
以上をまとめておきます。
①尾池玄蕃は、戦国末期の動乱期を生き抜き、生駒藩の代官として重臣の地位を得た
②彼の活動エリアとしては、阿野郡から丸亀平野にかけて活躍したことが残された文書からは分かる。
③1620年代後半の大旱魃による危機に際しては、西嶋八兵衛のもとで満濃池築堤や土器川・金倉川の治水工事にあったことがうかがえる。
④大川権現(神社)に、念仏踊の雨乞用の鉦を寄進するなどの保護を与えた
⑤法然の活動拠点のひとつであった真福寺も周辺住民に呼びかけ勧進活動を行い復興させた。
⑥滝宮牛頭天王社(神社)の念仏踊りについても、いろいろな助言や便宜を行い保護している。
以上からも西嶋八兵衛時代に行われ「讃岐開発プロジェクト」を担った能吏であったと云えそうです。
尾池玄蕃は2000石を拝領する重臣で、優れた能力と「血筋」が認められて、後には熊本藩主に招かれ、百人扶持で大坂屋敷に居住しています。二人の子供は、熊本藩に下り、それぞれ千石拝領されています。生駒騒動以前に、生駒藩に見切りをつけていたようです。
玄蕃の子孫の中には、高松藩士・丸亀藩士になったものもいて、丸亀藩士の尾池氏は儒家・医家として有名でした。土佐藩士の尾池氏も一族と思われます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。