応仁の乱が始まった翌年(1468)年9月に、前関白一条教房は、兵火を避けて家領があった土佐国幡多郡の荘園に避難してきます。
そして、中村を拠点に公家大名に変身していきます。その間も、一条氏は、中村と上方の間を堺港を利用して何度も船で往復しています。
文明11(1479)年に、京都の一条家の造営用木材が、土佐中村から堺商人によって取引されて、運ばれるようになります。このころから堺商人と土佐一条家の関係が始まったようです。堺商人と土佐の一条家の間には、これ以後も頻繁に材木の取引が行われています。
畿内と関係の深い一条家は、堺を支配する細川氏との関わりも深かったようです。『大乗院寺社雑事記』の明応三年(1494)2月25日には、当時の大阪湾周辺の情勢が次のように記されています。
「細川方へ罷上四国船雑物 紀州海賊落取之、畠山下知云々、掲海上不通也」
意訳変換しておくと
細川氏への献上品を乗せた四国船が、紀州海賊に襲われ献上品が奪われた。畠山氏の命にも関わらず、紀伊水道は通行不能状態である。
ここからは、土佐中村と堺を結ぶ太平洋ルートがあったこと、それが紀州海賊によって脅かされていることがうかがえます。この交易ルートを通じて、土佐への布教を展開していたのが本願寺でした。
天文年間の本願寺法主は証如でした。
證如の時代の本願寺は、教団内部で対立が激化した時期でした。証如は、これを抑えて法主の指導力強化に努めます。そのような中で享禄5(1532)年6月に舞い込んだのが、細川晴元からの河内国に滞陣中の阿波・三好元長(法華宗)に対する襲撃依頼です。これに応えて証如は門徒を動員し、三好元長を和泉国まで追い立てて敗死させています。ところが、これを見て一向一揆勢の戦闘力を恐れた細川晴元は、本願寺と決別して京都の日蓮宗教団や六角定頼と手を結びます。そして、本願寺の本拠地であった山科本願寺を、焼き討ちにします。
本願寺第十世 證如(しょうにょ)
證如の時代の本願寺は、教団内部で対立が激化した時期でした。証如は、これを抑えて法主の指導力強化に努めます。そのような中で享禄5(1532)年6月に舞い込んだのが、細川晴元からの河内国に滞陣中の阿波・三好元長(法華宗)に対する襲撃依頼です。これに応えて証如は門徒を動員し、三好元長を和泉国まで追い立てて敗死させています。ところが、これを見て一向一揆勢の戦闘力を恐れた細川晴元は、本願寺と決別して京都の日蓮宗教団や六角定頼と手を結びます。そして、本願寺の本拠地であった山科本願寺を、焼き討ちにします。
天文三年 本願寺 釋證如 方便法身尊形
山科本願寺を追われた証如は、大坂御坊へ拠点を移して大坂本願寺とし、新たな教団の本拠地とします。その後は晴元の養女を長男・顕如と婚約させて晴元と和睦し、室町幕府とも親密な関係を築いて中央との関係修復に努め、本願寺の体制強化を進めます。また、山科本願寺の戦いを教訓として、各地の一向一揆に対しても自制的な動きをもとめるようになります。こうして、加賀一向一揆に対しても調停という形で門徒集団への介入を深めます。そのような中で、土佐の一条氏への接近を図っていきます。
天文日記
證如が残したのが「天文日記」です。
これは證如が21歳の天文五年(1536)正月から天文23年8月に39歳で亡くなる10日前まで書き続けた19年間の日記です。
『天文日記』の天文6(1537)年正月27日条に、次のように記されています。
今朝従土佐一条殿尊致来候 堺商人持而来之
ここからは、中村の一条氏が堺の商人に連れられて、初めて大坂本願寺に證如を訪ねていることが分かります。土佐中村の一条家と堺商人の関係に、本願寺が関わるようになっていたようです。
土佐一条氏の貿易船建造計画
以前にお話ししたように、一条氏は明との交易に参入するために渡唐船建造を開始し、その用材確保のために、天文五(1536)年4から、土佐国幡多郡から木材を切り出しはじめます。しかし、一条氏に大型船の建造能力はありません。そのため堺に技術援助を求めています。堺の造船や貿易事務のテクノラートであった板原次郎左衛門は、最初はこの依頼を無視します。しかし、一条氏は前関白という人的ネットワークを駆使して、大坂の石山本願寺の鐙如上人の協力を取り付けます。鐙如は浄土真宗のトップとして、信徒である板原次郎左衛門に中村行きを命じます。
こうしたやりとりの末に、天文6年(1537)年3月には、堺から板原次郎左衛門が中村にやってきます。板原氏は、貿易船の蟻装や資材調達の調達などの元締で、堺の造船技術者のトップの地位にいた人物でした。彼が土佐にやってこなければ貿易船を作ることはできなかったはずです。そういう意味では、鐙如上人の鶴の一声は大きかったようです。上人側にも、日明貿易への参画という経済的な戦略があったのかもしれません。同時に、土佐への教線拡大という思惑もあったはずです。
中村での組み立てが終了すると、船は艤装のために紀州に廻航されます。その際には、紀州のかこ(水夫)二十人を土佐国に派遣するよう依頼してます。ここからは、当時の中村周辺には、大船の操船技術を持った水夫もいなかったし、最終段階の艤装技術も中村にはなかったことがうかがえます。蟻装が終わった貿易船は、天文7年12月堺に回航されます。それを、鐙如は堺まで出向き密かに見物しています。こうして、一条氏は、本願寺の鐙如の支援と堺の技術協力で貿易船を建造しています。
中村での組み立てが終了すると、船は艤装のために紀州に廻航されます。その際には、紀州のかこ(水夫)二十人を土佐国に派遣するよう依頼してます。ここからは、当時の中村周辺には、大船の操船技術を持った水夫もいなかったし、最終段階の艤装技術も中村にはなかったことがうかがえます。蟻装が終わった貿易船は、天文7年12月堺に回航されます。それを、鐙如は堺まで出向き密かに見物しています。こうして、一条氏は、本願寺の鐙如の支援と堺の技術協力で貿易船を建造しています。
ここに登場する板原次郎左衛門は、堺衆で本願寺の門徒です。
本願寺の要請を請けて、堺商人と一条氏との仲介を行っています。また本願寺と一条氏との間を取り次いだのは、本願寺・斎相伴衆の堺・慈光寺の円教でした。本願寺の力なしでは、この大型船建造計画は進まなかったことが分かります。さらに、中村で組み立てられた船は、艤装のために紀州に廻航されています。ここでも、紀伊門徒の「海の民」が艤装にあたったのでしょう。
本願寺の要請を請けて、堺商人と一条氏との仲介を行っています。また本願寺と一条氏との間を取り次いだのは、本願寺・斎相伴衆の堺・慈光寺の円教でした。本願寺の力なしでは、この大型船建造計画は進まなかったことが分かります。さらに、中村で組み立てられた船は、艤装のために紀州に廻航されています。ここでも、紀伊門徒の「海の民」が艤装にあたったのでしょう。
以上からは、土佐一条氏と堺・本願寺・紀伊門徒とが大船建造を巡って複雑に絡み合って動いていることが見えてきます。同時に、一条氏と本願寺が強い結び付きをもっていたことからは、逆に本願寺の教線が堺・紀伊を通じて土佐中村方面に伸びていたことが推察できます。一条氏の渡唐船の建造は、堺衆との繋がりだけでなく、真宗本願寺の土佐への教線拡大との関わりで捉えておく必要がありそうです。
「天文日記」には、次のようにも記されています。
土佐国より勧進之物千疋、又田布五十端来、此内五百疋ハ真宗寺下より
ここに寺院名が記されていないので、土佐のどこにあったお寺なのかも分かりませんが、天文年間に土佐に真宗寺院があったことは分かります。堺を通じて太平洋ルートによって真宗が伝播したことが、ここからはうかがえます。これは瀬戸内海側と比べると半世紀遅いことになります。
以上から土佐への本願寺の教線ラインは、一条氏の手引きで堺商人を通じて大平洋を渡ったこと、そこに紀伊門徒の関わりもあったと研究者は考えています。そこには堺商人のしたたかな商業活動のやりかた見え隠れします。同時に、本願寺による太平洋ルート上の港への教線拡大の活動も含まれていたようです。
中世の土佐の港津は、古代の『土佐日記』に出てくる「浦戸・大湊・奈波・羽根・奈良志津・室津」などの港にプラスして、「兵庫北関入船納帳」に出てくる「甲浦・先浜・奈半利・前浜・安田」も含まれるでしょう。これらは、東土佐の港ですが、西土佐エリアでは「洲崎・久礼・佐賀・中村下田」などを挙げることができます。堺の港から訪れた坊主は、これらの港に立ち寄って布教したとするのは自然なことです。前回見た阿波の那賀川河口の今津浦のように、土佐や瀬戸内海への中継港にも真宗寺院が姿を現し、真宗門徒の水運関係者の拠点として機能するようになっていました。
それでは、次に受入側の土佐一条氏の方を見ておくことにします。
研究者が注目するのは、弘治3年(1557)卯月29日付の「康政」の次の書状です。
ここからは「康政」が「一向宗」を保護していたことがうかがえます。花押のある康政については、姓も分からない謎の人物です。この時期の一条氏は兼定が当主でしたが、わずか6歳で家督を継いだため、この康政が後見役となり、兼定に代わって執政を取り仕切っていたようです。一説には、康政は兼定の叔父で刑部卿と称したとされます。中村の真蔵院に入って宗覚と号し、それまで天台宗であった寺を真宗に改めたとも伝えられます。一向衆之事其身惟一人之儀、可有御免之旨候也、乃如件、弘治二年卯月二十九日 康政(花押)渡部主税助殿
この寺が『南路志』に出てくる西宝寺のようで、次のように記されています。
「開基之儀、康政卿渡辺主税二仰而一向宗建立、弘治二年康政卿宗旨御免之御書頂戴」
意訳変換しておくと
(西宝寺の)開基については、康政卿が渡辺主税に命じて一向宗寺院を建立した。それは弘治二(1556)年のことで、康政卿より宗旨替えの届け出を頂戴している。
ここからは、16世紀半ばに中村に真宗寺院があり、一条家の保護を受けていたことが分かります。すでに天文年間には、貿易船建造などを通じて、一条氏が本願寺と深いつながりを持っていたことは見てきた通りです。この時期には一条家の実権を握る康政が、本願寺の布教活動を支援していたことがうかがえます。
西宝寺のある与津浦は中村の外港でもありました。ここへも堺からいろいろな商品と供に、真宗門徒たちが来港し、西宝寺を交易センターとして交易活動を行っていたようです。
中村の一条氏は、長宗我部元親によって滅ぼされます。
一条氏が保護していた真宗門徒たちはどうなったのでしょうか。
土佐ではこの時期に、海岸線の港周辺に道場が建てるようになった段階で、まだ多くは寺院として創建されていなかったと研究者は考えています。庇護者としての一条氏を失い、エネルギーを失った真宗は、以後は教線を拡大することはなかったようです。
長宗我部時代の土佐での真宗の状況を示す史料はありません。
そんな中で研究者が注目するのが「長宗我部地検帳』です。
この「地検帳」に出てくる寺院で寺号のあるものを抜き出すと真宗寺院は、全く見当たりません。ただ、次のような道場はあるようです。
長宗我部検地帳
この「地検帳」に出てくる寺院で寺号のあるものを抜き出すと真宗寺院は、全く見当たりません。ただ、次のような道場はあるようです。
フクシマ先年桑名助左衛門先祖通海寺へ寄進卜有テ今迄通海寺知行之由候乍去勘左衛円を給分二不人就右可為御公領興一所拾六代 中屋敷 真宗道場有
「一所拾六代 中屋敷 真宗道場有」と文末に記されています。検地が行われた天正16(1588)年に、フクシマに真宗道場があったことが確認できます。
『南路志』には、次のように記します。
「寺地ハ手結浦福島(=フクシマ)と申所ニ有之、天正地検帳の拾六代真宗道場床と記載御座候」
と記されています。以上から「フクシマ=福島真宗道場」は手結浦福島にあったことが分かります。手結浦は、現在の香南市夜須町手結で、太平洋に面した港町です。このフクシマ道場が、後の真行寺になるようです。現在の真行寺は、近世になって作られた手結内港を見下ろす位置にあり、この港の管理センターの役割をしていたことがうかがえます。他に寺院はないようなので、この港の関係者の多くを門徒にしていたことがうかがえます。
ここからは土佐の港々には、真宗の道場が姿を見せるようになっていたことが分かります。この分布状況を地図に落としたものが図2になります。
土佐における真宗寺院・道場の分布図(1588年時点)
この分布図からは、真宗の寺や道場が太平洋沿岸の港を中心に、海岸線からあまり内陸に入っていない地域に集中していることが分かります。
この他にも吾川郡長浜村の地検帳には「道場ヤシキ浦戸」が出てきます。
「南路志」では真宗寺の欄に次のように記します。
「永正年中 浦戸道場坂之麓二建立仕」
阿波郡里の安楽寺過去帳に土佐の末寺八か寺の内の一つとして浦戸には真宗寺の名があります。浦戸道場が真宗寺(現高知市南御座)に成長したようです。また吾川郡弘岡下ノ村にも「真宗ヤシキホリケ」とあります。これは教秀寺のようです。
このように時代は少し下りますが、道場がいくつか建設されていたことが分かります。土佐に真宗が遅れながらも伝播し、拠点となる道場が姿を見せるようになっていたことが分かります。
土佐で再び真宗の教線が伸び始めるのは、長宗我部氏が土佐を去った後です。
「木仏之留」によれば、堺真宗寺の末寺である幡多郡広瀬村の明厳寺は、慶長11(1606)年に、了専の願いにより准如から木仏下付が行われています。つまり、一人前の真宗寺院として独り立ちしたということです。
正念寺(高岡郡宇佐村)
和泉堺の善教寺の末寺である高岡郡宇佐村にある正念寺は、慶長16(1611)年に、本願寺准如から木像の木仏に裏書きを下付されています。「地検帳」に宇佐村に道場のことが記されているので、これが正念寺と推測できます。正念寺は、阿波郡里の安楽寺の末寺帳にも記されています。天正年間に道場として建設されていたものが、慶長年間になって寺院として格上げされています。創建は堺との関わりのなかで、堺の国教寺の末寺であったものが、やがて教線を阿波から伸ばしてきた安楽寺に配下に入れられたようです。
本願寺より下付された木仏
慶長10年以降、四国各地で木仏の下付が頻繁に行われています。
その背景には、慶長6(1601)の本願寺の東西分裂があるようです。本寺の分裂という危機的な状況の中で、西本願寺は組織強化策の一環とし木仏下付をおこなうようになります。木仏下付には、西本願寺を支持する門末寺院への褒賞的意味合いがあったようです。 木仏は寺院・道場の最重要物件です。それが本寺である西本願寺から下付され、道場へ安置されるということは、当時の法主である教如への忠誠と強固な支持を誓うことになります。それまでは、木仏下付の例はあまりありませんでした。それが、本願寺の東西分裂後に顕著化するのは、教団の組織強化に有効だったためと研究者は考えています。
この頃から道場から寺院へ「脱皮」成長していく所が多いようです。土佐では寛永18年(1641)に、数多くの寺に「木仏下付」が行われています。この年を契機として、土佐真宗寺院の整備がはかられたことがうかがえます。これらの寺院は、天正年間までに道場として姿を見せていたもので、道場記載の地と、木仏下付された寺院の所在地がほぼ一致することからも、それが裏付けられるようです。
早くから開かれていた道場・寺院は、先ほどの分布図で見たように海岸線に近い位置にありました。
明厳寺・正念寺などは、堺の寺院の末寺なので、大平洋ルートを利用して堺からもたらされと研究者は考えています。土佐では、四国山脈の山並みを越えての移動よりも、太平洋を利用しての移動の方が便利だったはずです。それを活用したのが紀伊門徒や、堺門徒など海洋航海者であったのでしょう。彼らを媒介者として、土佐には真宗教線ラインがのびてきたとしておきましょう。
土佐分国図
以上をまとめておきます
①土佐への真宗伝播は、中村に亡命した一条家の保護を受けてはじまった。
②中村一条家は、木材取引などを通じて堺商人と結びついていた。
③堺に真宗が伝播し、真宗門徒が堺商人の中にも数多く現れるようになる。
④本願寺は、紀伊水道を通じて阿波へ、また太平洋のルートを利用して土佐への教線を伸ばした。
⑤当時一条家が建造中であった中国との大型貿易船は、堺の真宗門徒の造船技術者によって建造されていた。
⑥この大型船建造への支援を堺の技術者に命じたのは、石山本願寺の證如であった。
⑦この背後には、土佐一条家領内での本願寺の布教活動への支援協力があった。
⑧「渡り」と呼ばれる海の民の門徒化が進み、海岸部に道場や寺院が建設され、水連・商業活動に従事する者たちを門徒に組み込んでいった。
⑨真宗を保護した一条氏が長宗我部元親に滅ぼされると後ろ盾を失い、真宗門徒の組織化は十分に進まなかった。
そして、長宗我部元親が減んだあと、土佐では急速に真宗が広がっていきます。
戦国期に組織化されていなかった真宗教団は、長宗我部元親亡き後の近世になって組織化されていくようです。その背後に何があったかについては、また別の機会に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
橋詰 茂 四国真宗教団の成立と発展 瀬戸内海地域社会と織田権力」
朝倉慶景 土佐一条氏と大内氏の関係及び対明貿易に関する一考察 瀬戸内海地域史研究8号 2000年
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