現在の常識からすると霊場札所で「南無阿弥陀仏」を唱えるのは非常識とされるでしょう。霊場では般若心経が「常識」です。ところが、江戸時代初期の遍路さんたちは、札所で南無阿弥陀仏を唱えていたようです。それを前回は追いかけて見ました。 それでは四国霊場を廻りながら南無阿弥陀仏を唱えるという人たちの心の中は、どうなっていたのでしょうか。「数式」にすると
弘法大師信仰 + 阿弥陀・念仏信仰」=初期の四国霊場巡礼者
になるのかもしれません。これを「真言系阿弥陀信仰(真言念仏)」と研究者は呼んでいるようです。
この真言系阿弥陀信仰を広げたのが高野聖たちだったようです。
五来重氏は「高野聖」の中で、次のような事を明らかにしました
①高野山の千手院聖をはじめとして、後期高野聖が時衆化したこと、②室町時代以降には、高野聖の多くが念仏化したこと③高野聖は廻国性があり、諸国をめぐり弘法大師伝説や念仏信仰を流布したこと④その拠点となったのが全国の有力寺院であること
こうして、南無阿弥陀仏を唱える高野系念仏聖が大きな寺院の周辺に住み着き、坊や院を構え勧進活動を行うようになります。修験者たちが修行のために訪れていた四国辺路の霊場寺院にも、このような動きはやってきます。こうして弘法大師伝説と南無阿弥陀仏は、霊場周辺でも「混淆」していきます。
それでは、その「混淆」はどのような形で現在に残っているのでしょうか。
今回は「真言系阿弥陀信仰の遺物」めぐりを行って見たいと思います。テキストは前回に続いて「武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰」です
最初に訪れるのは高野山奥の院です
奥の院参道の芭蕉句碑から御廟側へ約30m行った左側にある板のように薄い石碑に大きく南無阿弥陀仏(名号)と刻まれています。これを名号版碑(いたび)と呼ぶようです。石材は、徳島県北部の吉野川沿の緑泥片岩製が使われています。阿波には、庚申信仰などの板碑が数多くある所で、阿波式板碑(あわしきいたび)として知られていることは以前にお話ししました。
この板碑も、徳島県で作られたものが奥の院まで運ばれてきたようです。康永3年(1344)3月中旬に建てられたもので、碑面には、次のように刻されています。
中央 南無阿弥陀佛右側 為自身順次往生? 亡妻亡息追善也、奉謝二親三十三廻左側 恩徳阿州国府住人、康永参?甲申暮春中旬沙弥覚佛敬白
阿波国府の住人が、亡妻追悼と33ケ所詣の成就のために建てたもののようです。これを最初に見たときには「なんで、高野山に南無阿弥陀仏を???」という感じでした。しかし、14世紀頃の高野山の状況を考えると納得します。先ほど見たように、念仏聖化した聖達によって、高野山は阿弥陀信仰の中心地のひとつとなっていたのです。だから時宗念仏の一遍もやってきたのです。
こうした背景の中で、「南無阿弥陀仏」の六文字を記す板碑が、高野山の最も聖域である奥の院に建立されたようです。今ならば決して許されることではないでしょう。しかし、当時の高野山は弘法大師信仰と阿弥陀信仰が混淆した時代です。その後、「真言原理主義」運動が高揚し、高野聖たちは高野山から追放されます。それと同時に、高野山から阿弥陀信仰も消し去られていくことになります。その中でわずかに残った念仏信仰の遺物といえそうです。
大日如来の種字(サンスクリット文字)
須崎市神旧飛田の名号碑を見てみましょう。
(ア一) 南無阿弥陀仏明応五天五月十六日
つぎは高岡都中土佐町上ノ加江のものです。
(サ一) 天正―九年 敬(キリーク一)(キャカラバア) 為周陽侍者禅師也(サク一) 三月二十七日 白
①香北町猪野々の猪野家住職逆修碑(天正三年(1575)十月二十一日銘②土佐山田町須江の須江念仏供養塔(慶長十九年(1614)三月―五日銘
などがあるようです。時代は、中世末~近世初期のもののようです。これらの供養塔からは、この時期・この地域に真言的念仏信仰が拡がり、念仏講が形成されていたことがうかがえます。
そしてこれは土佐ばかりではなく、四国全体に広がっていた痕跡があります。この真言系の阿弥陀・念仏信仰を伝え、さらに近世初期に駒形の墓石の形式を持ち込んだのは、誰なのでしょうか。
真言系阿弥陀信仰の遺物は、四国霊場の弥谷寺にもあるようです
弥谷寺は死者が集まる祖霊の寺と言われてきました。本堂のすぐ近くの石壁面には、浮き彫りの阿弥陀一尊や南無阿弥陀仏の六字名号が彫られています。弥谷寺が古くからの阿弥陀信仰の霊地であることを示しています。
この寺は、近世初期には、弘法大師の父をとうしん太夫、母をあこや御前とする「空海=多度津海岸寺誕生説」の像が安置されていました。つまりこの寺は「阿弥陀信仰(念仏信仰)と異端の弘法大師伝説」を流布していた寺なのです。中世には念仏聖が拠点として活動していた所だと研究者は考えていることは以前にお話ししました。
この寺は、近世初期には、弘法大師の父をとうしん太夫、母をあこや御前とする「空海=多度津海岸寺誕生説」の像が安置されていました。つまりこの寺は「阿弥陀信仰(念仏信仰)と異端の弘法大師伝説」を流布していた寺なのです。中世には念仏聖が拠点として活動していた所だと研究者は考えていることは以前にお話ししました。
本堂のすぐ下の墓地の中に、次の念仏講の碑を研究者は見つけています
延宝四内辰天八月口□日大見村□□念仏講中二胆安楽也
建てられたのは延宝四(1677)年です。澄禅や真念のやってきた時期に当たります。大見村は、弥谷寺の南麓の村です。その時代に念仏講があったことが分かります。大見地区は三野平野に袋状に入り込んでいた三野湾の東部に位置し、瀬戸内海交易に活躍した勢力の存在がうかがえる地域です。
少し想像力を膨らませて、この地に念仏講が組織されるまでの経緯を描いてみましょう。
少し想像力を膨らませて、この地に念仏講が組織されるまでの経緯を描いてみましょう。
高野山の念仏聖が瀬戸内海の熊野水軍の交易ルートに沿いながら紀州の湊を出て、次のような聖地を廻国します。
①引田湊背後の大内郡・水主神社周辺②児島五流修験のテリトリーである小豆島・直島・本島③そして塩飽を経て、多度津・道隆寺④道隆寺の末寺である白方・海岸寺へ⑤そして海岸寺の奥の院(?)である弥谷寺へ
こうして弥谷寺には高野系の念仏聖が何人も住み着き、坊を開き子院を形成していくようになります。彼らは生活のためにも周辺住民への布教活を行います。病気治療や祈祷などで、住民の心を捉えながら、念仏講へと導いていく。さらに瀬戸内海交易に乗り出す地元有力者を熊野水軍のネットワークに紹介し、彼らも信者に加えていく。こうして大見村の階層を越えた人々の間に念仏講を作り、その指導者に収まっていく。これを念仏聖の周辺部への浸透と呼ぶのかもしれません。こうして近世初頭には弥谷寺周辺には念仏講があり、念仏信者が数多く存在していたという仮説に至ります。
昭和50年頃の念仏講
この石碑の周辺には、念仏講に関係したと思われる次のような墓もあります。
「(ア) □□妙昌呂仲定尼 明暦二年□月□□日」「自性妙蓮禅定尼霊位 延宝五年丁巳一月二十七日」
仏母院(多度津白方 熊手八幡神社の旧別当寺)
古代善通寺の外港として栄えた多度津町白方の仏母院にも、次のような念仏講の石碑があります
寛丈―三年(ア)為念仏講中逆修菩提也七月―六日
寛丈十三(1673)の建立です。四国霊場を真念や澄禅が訪れていた時代になります。先ほど見た弥谷寺のものと型式や石質がよく似ていて、何らかの関係があると研究者は考えているようです。
当時のこの寺は「空海=白方誕生説」が流布されていました。
それは空海は、多度津白方で生まれで、父は藤新太夫と母はあこや御前とされていました。父母寺は、その名の通り空海の父母が住んでいた館跡と自称します。ここを訪れた澄禅は『四国辺路日記』に、父母寺・御影堂の弘法大師像を開帳し、その霊験を住持が説くのを聞いたと記します。先ほど見た念仏講逆修碑からすると、この寺の住持も、高野山系の念仏聖であったのかもしれません。どちらにしても仏母院にも、弥谷寺と同じように念仏講があったようです。そして、その講を組織する念仏聖が異端の弘法大師伝説を流布していたとしておきます。
それは空海は、多度津白方で生まれで、父は藤新太夫と母はあこや御前とされていました。父母寺は、その名の通り空海の父母が住んでいた館跡と自称します。ここを訪れた澄禅は『四国辺路日記』に、父母寺・御影堂の弘法大師像を開帳し、その霊験を住持が説くのを聞いたと記します。先ほど見た念仏講逆修碑からすると、この寺の住持も、高野山系の念仏聖であったのかもしれません。どちらにしても仏母院にも、弥谷寺と同じように念仏講があったようです。そして、その講を組織する念仏聖が異端の弘法大師伝説を流布していたとしておきます。
仏母院の墓地には、この他にも次のような二基の墓石が見つかっています。
右 文化九(1812)壬申天六月二十一 行年七十五歳正面 (ア) 権大僧都大越家法印甲願法華経一百二十部左 向左奉謡光明真言五十二万仁王経一千部(裏面には刻字無し)
(向右)天保(1833)四巳年二月十七日正面(ア) 権大僧都大越家法雲(左・裏面には刻字無し)
研究者が注目するのは「権大僧都」です。これは「当山派」修験道の位階のことで、醍醐寺が認定したものです。この位階を下から記すと
①坊号 ②院号 ③錦地 ④権律師 ⑤一僧祗、⑥二僧祗、⑦三僧祗、⑧権少僧都 ⑨権大僧都、⑩阿閣梨、⑪大越家 ⑫法印の12階からなるようです。そうすると⑪大越家は、大峰入峰36回を経験した者に贈られる高位者であったことが分かります。ここからは、19世紀前半の仏母院の住持は、吉野への峰入りを何度も重ねていた醍醐寺系当山派修験者の指導者であったことがうかがえます。
享保二年(1717)「当山派修験宗門階級之次第」によると、仏母院は江戸時代初期以前には、念仏聖が住居する寺院であることが確認できるようです。さらに文化年間(1804~18)には山伏寺であったことも分かります。仏母院は熊手八幡神社の別当を勤めていた関係もありそうです。
以上のように、仏母院は近世初期の住持は念仏聖で、「空海誕生地」説を流布していたようです。「空海=白方誕生説」を流布した仏母院や弥谷寺は、善通寺とは別の系譜の僧侶や聖がいたことがうかがえます。その後、弥谷寺は善通寺からの指導者を受入れるようになり、「空海=白方誕生説」の流布を止めますが、白方では父母寺に代わって海岸寺がこれを流布し、奥の院を建立します。それを本寺の道隆寺も保護します。これが善通寺と海岸寺の争論へと発展していくことは以前にお話ししましたので省略します。
海岸寺奥の院
続いて75番善通寺の真言系阿弥陀信仰の痕跡を探してみましょう
この寺には、御影堂の西にある墓地に多くの歴代院主の墓石が建立されています。その中に次の墓石があります
(サ) 明暦四□年(キリーク) 為□□□□禅定問(サク) □月二十日 施主 近藤喜三
明暦四年(1658)の建立で、上部に阿弥陀三尊の種子、両側面には五輪塔が浮き彫りされておいるようです。このような例はほとんどない珍しい形式だと研究者は指摘します。これも「真言系阿弥陀信仰の遺物」と言えるようです。
72番出釈迦寺奥院(いわゆる「禅定」)にも自然石に刻まれた名号石があるようです。
禅定は捨身ケ岳ともいわれ、弘法人師が幼いときに捨身修行した時に、釈迦如来が現れ救った所として、中世の修験者の中では聖地として有名だったようです。
西行もここへ来て何年も修行しています。この山は弘法大師修行の地と修験者たちには聖地で、我拝師山と呼ばれてきました。
西行もここへ来て何年も修行しています。この山は弘法大師修行の地と修験者たちには聖地で、我拝師山と呼ばれてきました。
現在の我拝師山は、塔跡といわれるところに大師堂と鐘楼があます。そこから東に捨身ケ岳を仰ぎ見ることができます。名号石は本堂・鐘楼堂のすぐ下に、北面して建てられています。これが当初からあった場所なのかどうかは分かりません。「南無阿弥陀仏」あるだけで、建立年代などはありません。研究者は、江戸時代中期頃以前と見ているようです。
この名号石の少し上の場所に釈迦如来の石像があります。こちらは天保七年(1836)と刻まれています。江戸時代末のものです。この周辺に十王石像が十体並べられています。我拝師山には地蔵菩薩の世界と通じる信仰の痕跡がうかがえるようです。
この我拝師山について、五来重氏は西行『山家集』などの記事から「我拝師山(がはいし)」は、もともとは「わかいち」のことで、熊野の若王子が祀られていたと指摘します。若一王子は、熊野修験者が信仰したものです。熊野信仰の痕跡もあることになりますが、ただ現在は、その遺物は何も確認されていないようです。ここにも熊野信仰に、後から弘法大師信仰が接木された跡はあるようです。
屋島寺縁起絵
84番屋島寺にも六字名号があります。
自然石に刻まれていて、我拝師山の禅定にあるものに比べると風化が進んでいるようです。建立年代は江戸時代中期以前と研究者は見ています。場所は、旧遍路道治いの屋島山上に近い場所で、坂道を登ってきた遍路達を迎えたのでしょう。当時の遍路達は、ここで手を併せて南無阿弥陀仏を唱え、拝したのかもしれません。
屋島寺は、鎮守が熊野神社です。寛文十年頃の『御領分中寺々由来』には、次のように記されます。
当山鎮守十二社権現(熊野権現)、弘法人師之勧進之也
熊野権現を弘法大師が勧進したというのです。まさに熊野信仰と弘法大師信仰の合体の典型例を見るようです。いつ頃に熊野権現が勧請されたかは分かりません。しかし、周囲の状況から推察すると
①讃岐大内郡の増吽による水主三山への熊野権現勧進②備中児島への新熊野(五流修験)の勧進③佐佐木信綱の小豆島への熊野権現勧進
などと同時期のことと考えられます。熊野水軍の瀬戸内海交易の展開や、それに伴う熊野行者の活動などが背景にあることは以前にお話ししました。
熊野・紀伊 → 引田湊(背後の水主神社) → 小豆島・直島・本島 → 児島(五流修験) → 芸予大三島
という熊野修験者のテリトリー拡大の時期のこととしておきましょう。
大内郡の与田寺で増吽が活躍していた時代の応永十四(1407)年の行政坊有慶吐那売券には「八島(屋島)高松寺の引 高松の一族」とあり、屋島寺周辺に熊野先達がいたことが分かります。彼らによる勧進かもしれません。
屋島寺には「熊野本地絵巻」があります。熊野絵巻は熊野比丘尼が絵説きしたといわれますので、熊野比丘尼がいたこともうかがえます。
さらに本堂の東方には「皿の池」が残ります。これは源平合戦で、戦の後に刀を洗ったと伝えられます。しかし、熊野比丘尼がいたとすると『血盆経』と関係がありそうです。「血盆経」は血の穢(けが)れのために地獄へ堕ちた女人を救済するための経典とされます。
霊場に残る念仏・阿弥陀信仰の痕跡を追いかけ見ました。
これらをもたらしたのは、時宗念仏化した高野聖だったと研究者は考えているようです。彼らは弘法大師信仰も同時に持っていました。こうして修験者や聖などの廻国性の宗教者が集まる寺院では、「弘法大師信仰 + 阿弥陀・念仏信仰」が広がっていきます。
しかし、高野山本山での「原理主義運動」の高揚の結果、高野聖達が排斥され、念仏信仰も粛正されていきます。その影響は、四国霊場寺院にも及びます。高野山と同じように、念仏信仰の痕跡は消えていくことになるのです。
そして、札所で南無阿弥陀仏が唱えられることはなくなります。代わって光明真言が最初に唱えられることになったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰」
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これらをもたらしたのは、時宗念仏化した高野聖だったと研究者は考えているようです。彼らは弘法大師信仰も同時に持っていました。こうして修験者や聖などの廻国性の宗教者が集まる寺院では、「弘法大師信仰 + 阿弥陀・念仏信仰」が広がっていきます。
しかし、高野山本山での「原理主義運動」の高揚の結果、高野聖達が排斥され、念仏信仰も粛正されていきます。その影響は、四国霊場寺院にも及びます。高野山と同じように、念仏信仰の痕跡は消えていくことになるのです。
そして、札所で南無阿弥陀仏が唱えられることはなくなります。代わって光明真言が最初に唱えられることになったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰」
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