瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:真鈴峠

 6 阿讃国境地図

まんのう町美合や勝浦あたりでは、阿波へ行くのも、隣村へ行くのも、どうしても峠を越えねばなりませんでした。阿波との阿讃山脈にも多くの峠があったことが、江戸時代の絵図を見ていると分かります。
4 阿波国絵図3     5

東から、龍王山から大川山の間にも寒風越、三頭越、二双峠、滝の奥越、真鈴峠と5つの峠が記されています。このうち二双峠は、峠を越えてからもう一度立石峠を経て阿波へ下っていく道でした。

阿讃国境地図 琴南の峠2

 讃岐の隣村へ越えて行く峠には、塩江町の只の股へ越える浅木原峠、塩江町・綾上町方面へ越える雨島峠、綾上町の牛の子堂に出る焼尾峠、綾上町の角の内に出る首切峠などがあります。このほかにも名もない峠は多くあり、峠を越え人やモノが行き来したのでしょう。
モノの多くは、
行商人のもたらしたもの、
一種の宗教人が漂泊しながら携えてきたもの、
金毘羅参りの人々がもたらしたもの
などがあったようです。琴南町誌の中から各峠について書かれていることを拾い上げてみます。

阿波国大地図 琴南の峠1

美合の奥のソラの人たちは、阿波の貞光にはよく買物に行ったようです。その際に使うのが、寒風越でした。峠の頂上まで来ると、急に寒い風が吹いてくるので寒風峠と呼ばれるようになったといいます。
竜王山(讃岐山脈)・大川山 少し近付いてきました。

 この峠の山続きに蛇の道というところがありました。道が曲がりくねっていて、ところどころがくぼんでいて、それは大蛇が通った跡だろうと話ながら歩いたそうです。
 三頭越は、阿波からの金毘羅参りの人々が通った峠です。
三頭越え ハイキングルート

その登り口に大師堂があります。その川向かいは、昔、茶堂があった跡で、金昆羅参詣者が休憩したところです。大師堂には以前にお話した道作り坊主の了念が建立したという陸中二十四輩の石像があります。これは了念が、生国が陸中であるために建てたものだと伝えられます。道作り坊主の了念については、以前にお話ししましたので省略します。
三頭越え 久保谷の大師堂

 滝の奥越は、土器川の源流で今は「源流碑」が建てられています。ここから阿波の滝寺へ下りて行く道が続きます。滝寺へは、養蚕が盛んであった時代は、美合の農家の人々もこの峠を越えて参詣に行ったようです。
阿讃国境地図 琴南の峠2

 勝浦から真鈴峠へ行く途中に四つ足堂があります。
かつては、このお堂では湯茶の接待があったといいます。そして一軒の茶店があって、うどん、酒、たばこぐらいは売っていたようです。
 真鈴峠を越えると三野町へ入りますが、峠を越えると大屋敷の剣山神社があり、牛追い達は、ここで休んでいたようです。
 真鈴峠の頂上近くに清水がわき出ていて、もとは真清水峠と呼んでいたようです。旅人は、この峠で一杯の清水にのどをうるおしました。大屋敷は水が乏しいので、昔はそばを持って来てこの水と交換していたという話が残っています。

 勝浦や美合高松の城下へ出るには焼尾峠を越えました。
峠を越えてから粉所の新名を経て、山田へ出て岡本で高松街道に出て高松へ向かったいたようです。あるいは焼尾峠から陶へ出て行くルートも使われました。しかし、焼尾峠は恐ろしい峠で、追いはぎも出たし、妖怪の話もあったと云います。
 二双峠は頂上にニソの社があります。
ニソの社というのは、もとも祖先の霊のこもる森のことです。峠を越えて行く旧道は、谷川に沿ってどんづまりまで行き、それから急坂をよじ登ったといいます。

立石越(二双越)

山中の村では、病人が出来るとふごの中に雨戸を載せて、その上に寝せたり座らせたりして連れて行きました。荷物を運送していた者に、ダチンカツギ(駄賃担ぎ)と呼ばれた人たちがいました。これは荷物を背に負うて運んだり、オウコ又はトンガリ棒で運びました。車が行けるところは、トウカイヤが車に載せて運びます。どの集落にも一軒か二軒ぐらいはあって、そこへ頼んでいました。

明神などが店を並べて市街地のようになったのは、近代になってからのようです。
まんのう町明神地区の町並み

それまでは日用品や雑貨。米、醤油などを売る店がぽつぽつとあっただけでした。正月がくると正月買物、盆がくると盆買物に町に下りていきます。そんな時には、ふだんの仕事に使うオウコよりは、ややきゃしやできれいに仕上げたオウコを持って行ったものだと云います。正月には砂糖、下駄、足袋など、盆にはそうめんや浴衣地などを買って来ます。
 衣類などは自分の家で織っていたので、わざわざ買うことはありませんでした。機織りをしなくなってからは、阿波から反物を売りに来るようになりました。
魚は、家に婚礼、厄ばらいなどの宴会がある場合は、わぎわざ琴平の町へ買いに行きました。
常は琴平・坂出などから魚の行商人が来ていたようです。魚屋が出来たのは近年になってからのことです。それでブエンの魚も容易に手に入るようになっりました。魚屋が出来た初めのころは、ブエンの魚はなくて、店には竹の皮で編んだかごの中の塩鰯とか、女竹に通しためざしなどを売っていたと云います。

塩は、専売になる前は坂出・宇多津方面からも、また阿波の貞光からも売りに来ていたと云います。
塩は漬物用にも大量に買いましたが、牛を飼っている農家でもたくさん買っていたようです。農家では、 塩の下に桶を置いていました。それはニガリを取るためです。ニガリは正月前に豆腐をつくるために必要でした。今では豆腐をつくる家もなくなってしまいました。明神などには豆腐屋ができたからでしょうか。
明神から奥のソラの集落に行商人がやってくると、懇意にしている大百姓や地主の家に泊まっていました。
阿波から正月にやって来るデコマワシも馴染みの家に泊まって村落の家々を廻りました。物もらいは、秋の終わりから冬の初めによく来ました。お米が出来て豊かな季節だったので、そんなころを見はからって来ていたののでしょう。物もらいは、行商人と違ってどこの家でも泊めてくれません。そこで無住の庵とか焼き場の中のコツドウ(輿堂)などに泊まつていました。
阿波の山間部は米が少ないので、馬が美合まで来て米を積んで帰えりました。
米を二俵半ぐらい鞍の両側につけます。これを運ぶのは運送用の馬でなくて農耕用の馬だったと云います。伊予からは、秋祭りや正月の前になると障子紙を売りに来ました。大抵の家では障子紙を買って貼り替えをします。年に一度というのがきまりであったようです。
真鈴あたりからは、建築材料である真竹を明神まで売りに来ました。竹は、車が産地まで入らねば運搬が難しかったのです。土器川に沿って水車屋も何軒かありましたが、廃業して米屋となったり、今ではうどん屋となって有名になった店もあります。
讃岐うどん「谷川米穀店」香川県仲多度郡まんのう町 - 讃岐うどんやラーメン食べ歩きと、旅のブログ

美合の皆野には、一軒の油屋がありました。
菜種をしぼって各地の店へ油を卸していた。しばり粕はタマと言い、馬に載せて周辺の農家の畑へ売りに行きます。よい肥料として歓迎されたようです。油は一日に二石しめるのが一人前だといわれました。
人々は油徳利を持って油を買いに行きます。そして灯明や揚げ物の油として使いました。菜種をしばるのが普通でしたが、辛子の種でも油をとっていたと云います。
内田には薬を行商とする家がありました。
この家には五人ぐらいの行商人がいて、阿波のソラの村へ行商に行っていました。イレ(入)クスリとかカエ(替)クスリといって、富山の薬売りと同じような商いを行っていたようです。農閑期の秋から年末に出かけて行って、先方の農家へ薬を置いて、毎年入れ替えてくるのきます。後には、高松の薬屋から千金丹、万金丹、五龍園などをうけて来て、それを入れ替えに行くようになったと云います。

水車屋も、油屋や薬の行商もなくなり阿讃の峠を越える人は、だんだん少なくなりました。そのほかに、今はなくなってしまったものに紺屋があります。これは内田に二軒あって、機織りが盛んであった時代に、女たちはそこへ行って糸を染めて来ました。ソラに近い美合あたりの人は、峠を越えて阿波の郡里・重清などの紺屋に行ったとようです。
 内田の吉田寺のお大師さんの市は、琴南の人々にとっては最もにぎやかで楽しみの多いものだったようです。
江戸期の記録によると、簑売り、ヤリ屋、餅、うどんなどの店が出ています。それらの店の中には、内田の地に定住する者もあって、だんだんと集落は一つの町並みとして発達していったようです。
参考文献
琴南町誌 民俗


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真鈴(ますず)峠は、香川県から徳島県への山越えのみち。峠近くの高尾家の屋敷内には、泉があります。こんこんと水の湧き出る泉には、こんな話が語り伝えられています。

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真鈴峠への道
むかし、日照りが何日も何日も続きました。
山の奥、それも少々高所なので水には不自由していました。
とても暑い日に、お坊さまが来られました。
汗とほこりで、べとべとです。

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勝浦の四つ足峠
高尾家のおばあさんは、
「まあ、おつかれのご様子、一体みなさいませ」
と、声をかけ、お茶をさしあげました。
汗をふ拭きおえたお坊さまは、
「すまんことだが、水を一[祢いただけないものかな」
と、おばあさんに頼みます。
「このごろは日照り続きで、水も少ないのだけどお坊さまが飲むくらいの水はあるわな」
「そんなに水が、不自由なのかい」
「はい、峠の下まで汲みに行きます」

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真鈴の民家
お坊さまは、お水をおいしそうに飲んだあと、杖をついて屋敷のまわりを歩きます。
歩きながら、しきりに地面を突いているではありませんか。
何度も杖で地面を突くと、ふしぎなことに水がにじみ出てきます。
「おばあさん、ここ掘ってみい、水が出るぞ」
おばあさんは、水が湧いてくるという地面を、一升ますの大きさくらい手で掘ってみました。
すると、たちまち水はいっぱいになります。
おばあさん、こんどは一斗ますくらいの大きさに土を掘ります。
たちまち水は、いっぱいになってあふれ出ます。
近所の人たちを呼んできて、さらに大きく掘ってみました。
水は、ますますあふれるように流れ出るではありませんか。
「これは、枡水じゃ、増水じゃ」
と、人々はおおよろこびです。
おばあさんは、お坊さまにお礼を申さねばとあたりを探しましたが、お姿は見えません。
「ありがたいことじや、ふしぎなことだ」
おばあさんは、よろこびのあまり水に手を入れてみました。すると、
「ちろん、ちろん」
と、音がします。お坊さまが持っていた鈴のような音がして、水が湧き出てきます。
「ちろん、ちろん…」
と湧き出る水に人々は「真鈴の水」と名付けました。

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真鈴の民家
隣村から、少し水を分けてもらえないかと言ってきました。
おばあさんは、水のないのは不自由なことだと快く承知しました。
隣村といっても県境、阿波から水をもらいに来たのです。
    水を、にないに入れ一荷にして、県境を越えて帰って行きます。
お礼は、蕎麦一升。水と、蕎麦とを交換して、仲良く暮らした山の村でした。
真鈴の水は、今日も、ちろんちろんと湧き出ています。

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真鈴の地名由来には、次の2つの説があるようです。
A 真水と鈴から、真鈴とつけた
B 阿波の大星敷から水が不足すると真鈴に水をもらいに来た。そのお礼に大豆やそばを枡に入れて持って来たので、この地を「枡水(ますみず)呼んだ。それが後に誂って真鈴になった

真鈴の開拓者にも、2つの説があるようです。
C 矢野と名乗るものがこの地に来て開拓
D 長尾氏の子孫・高尾家による開拓
C説は、矢野氏が開き、野鳥野獣の害を防ぐため、建御名方命を勧請して城村神社を建てたと、この神社の社記に記されています。
D説は、西長尾城の長尾大隅守一族が、一族が分散して各地にかくれ、あるいは仏門に入るものもいました。この時に長尾氏一族の長尾高敦が、真鈴の地に入り姓を高尾と改めこの地を開拓したというものです。当時、真鈴には六戸しかありませんでしたが、周囲を開き同族も増え真鈴集落は大きくなっていきます。現在の真鈴の高尾家は、その子孫だと言われ、その本家には近年まで甲冑や武具等が伝えられていました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 琴南町誌

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