瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:真雅

空海の本籍地については、延暦24年(805)年9月11日付けの大政官符が根本史料とされます。

空海 太政官符2
空海の太政官符        
そこには、次のように記されています。

  留学僧空海 俗名讃岐国多度部方田郷、戸主正六位上佐伯直道長、戸口同姓真魚

ここからは次のようなことが分かります。
①空海の本籍地が讃岐国多度郡万田郷(かたたのごう)であること
②正六位上の佐伯直道長が戸籍の筆頭者=戸主で、道長を戸主とする戸籍の一員(戸口)であったこと
③空海の幼名が真魚であること
ここで問題となるのが本籍地の郷名・方田郷です。この郷名は、全国の郷名を集成した「和名類家抄」にないからです。
讃岐の郷名
讃岐の古代郡と郷名(和名類家抄)多度郡に方田郡は見えない

そのため従来は弘田郷については、次のように云われてきました。

「和名抄」高山寺本は郷名を欠く。東急本には「比呂多」と訓を付す。延暦二四年(八〇五)九月一一日の太政官符(梅園奇賞)に「留学僧空海、俗名讃岐国多度郡方弘田郷戸主正六位上佐伯直道長戸口同姓真魚」とあり、弘法大師は当郷の出身である。
                              平凡社「日本歴史地名大系」

太政官符に「方田郷」とあるのに「弘田郷」と読み替えているのは、次のような理由です。

方田郷は「和名類来抄」の弘田郷の誤りで、「方」は「弘」の異体字を省略した形=省文であり、方田郷=弘田郷である。方田郷=弘田郷なので、空海の生誕地は善通寺付近である。

こうして空海の誕生地は、弘田郷であるとされ疑われることはありませんでした。しかし、方田郷は弘田郷の誤りではなく、方出郷という郷が実在したことを示す木簡が平成になって発見されています。それを見ていくことにします。
讃岐古代郡郷地図 弘田郷
讃岐古代の郷分布図

善通寺寺領 良田・弘田・生野郷
中世の弘田郷

弘田町
現在の善通寺市弘田町

.1つは、平成14年に明日香村の石神遺跡の7世紀後半の木簡群のなかから発見されたもので、次のように墨書されています。

方田郷

「多土評難田」        → 多度郡かたた
裏  「海マ刀良佐匹マ足奈」    → 「海部刀良」と「佐伯部足奈」
「多土評」は多度郡の古い表記で、「難」は『万東集』で「かた」と読んでいるので「難田」は「かたた」と読めます。そうすると表は「讃岐国多度部方田郷」ということになります。裏の「マ」は「部」の略字で、「佐匹」は「佐伯」でしょう。つまり、ここには「海部刀良」と「佐伯部足奈」二人の人名が記されていることになります。そして、表の地名は二人の出身地になります。

もう一つは、平成15年度に発掘された木簡で、これも七世紀後半のものです。

表  □岐国多度評

「評」は「郡」の古い表記なので、これも「讃岐国多度郡方田郷」と記されていたようです。この二つの木簡からは、方田郷が実在したことが裏付けられます。今までの「弘田郷=方田郷」説は、大きく揺らぎます。
.1善通寺地図 古代pg
善通寺周辺の遺跡

そうすると方田郷は、いったいどこにあったのでしょうか。
ヒントになるのは、普通寺伽藍の西北の地は、現在でも「かたた」と呼ばれていることです。
方田郷2

善通寺市史第1巻には「方田横井」碑が載せられていて、「方田」という地名が存在したことを指名しています。そうだとすると、律令時代の佐伯一族は、善通寺伽藍の周辺に生活していたことになります。
 古墳時代の前方後円墳の大墓山や菊塚古墳の首長達は、旧練兵場遺跡に拠点を持ち、7世紀後半なるとに最初の氏寺として仲村廃寺(伝導寺)を建立したとされます。それが律令時代になって、南海道が善通寺を貫き、条里制が整えられると、それに合わせた方向で新しい氏寺の善通寺を建立します。その時に、住居も旧練兵場遺跡群から善通寺西方の「方田郷」に移したというシナリオになります。

古代善通寺地図
         佐伯氏の氏寺 善通寺と仲村廃寺(黄色が旧練兵場遺跡群)

 しかし、これには反論が出てくるはずです。なぜなら南海道は現在の市役所と四国学院図書館を東西に結ぶ位置に東西に真っ直ぐ伸びて建設されています。そして、多度郡の郡衙跡とされるのは生野町南遺跡(旧善通寺西高校グランド)です。佐伯氏は多度郡郡長であったとされます。南海道や郡衙・条里制工事は佐伯氏の手で進められて行ったはずです。郡長は、官道に面して郡長や自分の舘・氏寺を建てます。そういう眼からするとを郡衙や南海道と少し離れているような気がします。

生野本町遺跡 
生野本町遺跡 多度郡衙跡の候補地


 ちなみに現在の誕生院は、その名の通り空海の誕生地とされ、伝説ではここで空海は生まれたとされます。この問題を解くヒントは、空海が生まれた頃の善通寺付近には、次のふたつの佐伯直氏が住んでいたことです。
1空海系図2

①田公 真魚(空海)・真雅系
②空海の弟子・実恵・道雄系
①の空海とその弟の真雅系については、貞観3(861)年11月11日に、空海の甥にあたる鈴伎麻呂以下11人に宿禰の姓が与えられて、本籍地を京都に遷すことが認められています。しかし、この一族については、それ以後の記録がありません。歴史の中に消えていきます。
これに対して、②の実恵・道雄系の佐伯直氏については、その後の正史の中にも登場します。
それによると、空海・真雅系の人たちよりも早く宿禰の姓を得て、本籍地を讃岐から京に移していたことが分かります。ここからは、佐伯直氏の本家筋に当たるのは、記録の残り方からも実忠・道雄系であったと研究者は考えています。どちらにしても空海の時代には、佐伯直氏には、2つの流れがあったことになります。そうすれば、それぞれが善通寺周辺に拠点を持っていたとしても問題はありません。次回は、ふたつの佐伯氏を見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
 武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く56P 二つの佐伯直氏

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前回までは円珍(智証大師)を生んだ那珂郡の因支首氏の改姓申請の動きを見てきました。実は、同じ時期に空海の実家である佐伯直氏も改姓申請を行っていました。円珍の母は空海の父田公の妹ともされていて、両家は非常に近い関係にあったようです。今回は因支首氏に先行して行われていた佐伯直氏の改姓運動を見ていこうと思います。テキストは武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館2006年」です。
空海の家系や兄弟などを知るうえでの根本史料とされるのが『三代実録』巻五、貞観三年(861)11月11日辛巳条です。
ここには、空海の父・田公につながる佐伯直鈴伎麻呂ら十一名が宿爾の姓を賜わり、本貫を讃岐国多度郡から平安京の左京職に移すことを許されたときの記録が記されています。公的文書なので、もっとも信頼性のある史料とされています。空海の甥たちは、どのようなことを根拠に佐伯直から佐伯宿禰への改姓を政府に申請したのでしょうか。
「貞観三年記録」の全文を十の段落に分けて、見ていきましょう。

①讃岐国多度郡の人、故の佐伯直田公の男、故の外従五位下佐伯直鈴伎麻呂、故の正六位上佐伯直酒麻呂、故の正七位下佐伯直魚主、鈴伎麻呂の男、従六位上佐伯直貞持、大初位下佐伯直貞継、従七位上佐伯直葛野、酒麻呂の男、書博士正六位上佐伯直豊雄、従六位上佐伯直豊守、魚主の男、従八位佐伯直粟氏等十一人に佐伯宿爾の姓を賜い、即ち左京職に隷かしめき.

意訳変換しておくと
①多度郡の佐伯直田公の息子や甥など佐伯直鈴伎麻呂・酒麻呂・魚主、彼らの男の貞持・貞継・葛野、豊雄、豊守、栗氏ら十一名に宿爾の姓が授けられ、本貫が左京職に移されたこと。

ここに登場する空海の弟や甥たちを系図化したものが下図です。
1佐伯家家系
佐伯宿禰の姓を賜わった九名の名があげられています。このなかで他の史料でその実在が裏付けられるのは、空海の弟の鈴伎麻呂と甥の書博士・豊雄のふたりだけのようです。
鈴伎麻呂に付いては、『類飛国史』巻九十九、天長四年(827)正月甲申二十二日)条に、 次のように記されています。
詔(みことの)りして曰(のたま)はく、天皇(すめら)が詔旨(おほみこと)らまと勅(おほみこと)大命(おほみこと)を衆(もろもろ)聞きたまへと宣(の)る.巡察使の検(けむ)して奏し賜へる国々の郡司等の中に、其の仕へ奉(まつ)れる状(さま)の随(したがう)に勤み誉しみなも、冠位上(あげ)賜ひ治め賜はくと。勅(おほみこと〉天皇(むめら)が大命(おほみこと)を衆(もろちろ)間き食(たま)へと宣(の)る。正六位上高向史公守、美努宿輌清貞、外正六位上久米舎人虎取、賀祐巨真柴、佐伯直鈴伎麿、久米直雄口麿に外従五位下を授く。

この史料は、天長二年(835)8月丁卯(27日)に任命され、同年十二月丁巳(十九日)各国に派遣された巡察使の報告にもとづき、諸国の郡司の中から褒賞すべき者ものに外従五位下を授けたときの記録です。このとき、外正六位上から外従五位下に叙せられた一人に佐伯直鈴伎麿がいます。
   松原弘宣氏は、これについて次のように記します。
この佐伯直鈴伎麻呂は、同姓同名・時期・位階などよりして、多度部の田公の子供である佐伯直鈴伎麻呂とみてあやまりはない。そして、かかる叙位は、少領・主政・主帳が大領を越えてなされたとは考えられないことより、佐伯直鈴伎麻呂が多度部の大領となっていたといえる。

 ここからは、この記録に出てくる佐伯直鈴伎麿は空海の弟と同一人物とし、多度郡の郡司(大領)を務めていたとします。

ここからは、空海に兄弟がいたことが分かります。
一番下の弟・真雅は、当時は天皇の護持僧侶を務めていました。真雅と空海の間には親子ほどの年の開きがあります。そのため異母兄弟だったことが考えられます。
 段落②です
②是より先、正三位行中納言兼民部卿皇太后宮大夫伴宿爾善男、奏して言さく。

意訳変換しておくと

②この改姓・改居は、空海の甥に当たる書博士・豊雄の申し出をうけた大伴氏本家の当主であった伴宿而善男が、豊雄らにかわって上奏した。

 伴(大伴)善男は、貞観三年(861)8月19日に、左京の人で散位外従五位下伴大田宿爾常雄が伴宿爾の姓を賜わったときにも、上奏の労をとっています。その時も、家記と照合して偽りなきことを証明し、勅許を得ています。その時の記録に記された善男の官位「正三位行中納言兼民部卿皇太后宮大夫」は、この当時のものに間違いないようです。ここからは、善男が、伴(大伴)氏の当主として、各方面からの申請に便宜をはかっていたことが裏付けられます。この記述には問題がなく信頼性があるようです。
3段目です
③『書博士正六位下佐伯直豊雄の款に云はく。「先祖大伴健日連公、景行天皇の御世に、倭武命に随いて東国を平定す。功勲世を蓋い、讃岐国を賜わりて以て私宅と為す。

意訳変換しておくと

③書博士の佐伯直豊雄は申請書に次のように記している。先祖の大伴健日連は、景行天皇のときに倭武命にしたがって東国を平定し、その功勲によって讃岐国を賜わり私宅としたこと。

前半の「大伴健日連が日本武尊にしたがって東国を平定したこと」については、『日本書紀』景行天皇四〇年七月戊成(十六日)条に、次のように記されています。
天皇、則ち吉備武彦と大伴武日連とに命(みことおほ)せたまひて、日本武尊に従はじむ。そして同年の条に甲斐の国の酒折宮(さかわれのみや)において、報部(ゆけひのとものを)を以て大伴連の遠祖武日に賜う。

 ここからは、大伴武日連は日本武尊の東国平定に従軍し、甲斐の国で兵士を賜わったと伝えられています。しかし、これを讃岐の佐伯直豊雄が「先祖の大伴健日連」とするのは「問題あり!」です。これは大伴氏の先祖の武勇伝であって、佐伯直の物語ではありません。この辺りに佐伯直の系譜を、大伴氏の系譜に「接ぎ木」しようとする意図が見えてきます。


4段目です
④健日連公の子、健持大連公の子、室屋大連公の第一男、御物宿爾の胤、倭胡連公は允恭天皇の御世に、始めて讃岐国造に任ぜらる。

意訳変換しておくと
④その家系は、健日連から健持大連、室屋大連、その長男の御物宿爾、その末子倭胡連へとつながり、この倭胡連が允恭天皇のとき讃岐国造に任ぜられた。
1佐伯氏
『伴氏系図』
「平彦連」と「伊能直」とのあいだで接がれている
道長の父が田公になっている

佐伯家の家系を具体的に記したところです。健日連から倭胡連にいたる系譜の「健日連― 健持大連 ― 室屋大連 ― 御物宿爾」
の四代は、古代の系譜に関してはある程度信頼できるとみなされている『伴氏系図』『古屋家家譜』とも符合します。健日から御物にいたる四代は、ほぼ信じてよいと研究者は考えています。
5段目です
⑤倭胡連公は、是れ豊男等の別祖なり。孝徳天皇の御世に、国造の号は永く停止に従う。

意訳変換しておくと
倭胡連は豊男らの別祖であること、また孝徳天皇のときに国造の号は停止されたこと。

  前半の倭胡連は豊雄らの別祖であるというのは、きわめてミステリックな記述と研究者は指摘します。なぜなら、みずからの直接の先祖名を記さないで、わざわざ「別祖」と記しているからです。逆に、ここに「貞観三年記録」のからくりを解く鍵がかくされていると研究者は考えているようです。これついては、また別の機会にします。
  後半の孝徳天皇のときに国造の号が停止されたことは、史実とみなしてよいとします。
『日本書紀』巻二十五、大化二年(六四六)正月甲子(一日)条から、国造の号は大化の改新に際して廃止され、新たにおかれた郡司に優先的に任命された、と考えられているからです。それまでは、国造を務めていた名家であるという主張です。

6段目です

⑥同族の玄蕃頭従五位下佐伯宿而真持、正六位上佐伯宿輛正雄等は、既に京兆に貫き、姓に宿爾を賜う。而るに田公の門は、猶未だ預かることを得ず。謹んで案内を検ずるに、真持、正雄等の興れるは、実恵、道雄の両大法師に由るのみ。

意訳変換しておくと

豊雄らと同族の佐伯宿爾真持、同正雄らは、すでに本貫を京兆に移し、宿爾の姓を賜わっている。これは実恵・道雄の両大師の功績による。しかし、空海の一族であるわれわれ田公一門は、まだ改居・改姓を賜っていない。

第六段の前半は、豊雄らと同族の佐伯宿爾真持、同正雄らは、すでに本貫を京兆に移し、宿爾の姓を賜わっていることです。
真持の正史に残る記述を並べると次のようになります。
承和四年(837)十月癸丑(23日)左京の人従七位上佐伯直長人、正八位上同姓真持ら姓佐伯宿繭を賜う。
同十三年(846)正月己西(7日)正六位上佐伯宿爾真持に従五位下を授く。
同年(846)七月己西(十日)従五位下佐伯宿爾真持を遠江の介とす。
仁寿三年(853)正月丁未(十六日)従五位下佐伯宿爾真持を山城の介とす。
貞観二年(860)二月十四日乙未 防葛野河使・散位従五位下佐伯宿而真持を玄蕃頭とす
同五年(863)二月十日癸卯 従五位下守玄蕃頭佐伯宿爾真持を大和の介とす。

ここからは確かに、真持は承和四年(837)に長人らと佐伯宿禰の姓を賜わっていることが分かります。また「左京の人」とあるので、これ以前に左京に移貫していたことも分かります。同時に改姓認可されている長人の経歴をみると、前年の承和三年(836)十月己酉(十二日)条に、次のように記されています。

讃岐国の人散位佐伯直真継、同姓長人ら二姻、本居をあらためて左京六条二坊に貫附す。

真持もこのときに長人と一緒に左京に本貫が移されたようです。ちなみに、生活はすでに京で送っていた可能性が高いようです。
  正雄の経歴も正史に出てくるものを見ておきましょう。
嘉祥三年(850)七月乙酉(十日)讃岐国の人大膳少進従七位上佐伯直正雄、姓佐伯宿爾を賜い、左京職に隷く
貞観八年(866)正月七日甲申 外従五位下大膳大進佐伯宿而正雄に従五位下を授く。
ここからは、正雄は真持よりも13年遅れて宿爾の姓を賜い、左京に移貫していることが分かります。以上から申請書の通り、本家筋の真持・正雄らが田公一門より早く改姓・改居していたことは間違いないようです。
  
第6段の後半は、真持・正雄らの改姓・改居は、実恵・道雄の功績によるとする点です。
実恵の経歴については、この時代の信頼できる史料はないようです。道雄には、『文徳実録』巻三、仁寿元年(851)六月己西(八日)条に、次のような卒伝があります。
権少僧都伝燈大法師位道雄卒す。道雄、俗姓は佐伯氏、少して敏悟、智慮人に過ぎたり。和尚慈勝に師事して唯識論を受け、後に和尚長歳に従って華厳及び因明を学ぶ。また閣梨空海に従って真言教を受く。(以下略)

道雄の誕生地は記されていませんが、佐伯氏の出身であったこと、空海の下で真言宗を学んだことが分かります。実恵、道雄については、古来より讃岐の佐伯氏出身とされていて、信頼性はあるようです。

 実恵は承和十四年(847)十一月十三日に亡くなっていますので、嘉祥三年(850)の正雄の改姓・改居をサポートすることはできません。これに対して道雄は、仁寿元年(851)六月八日に亡くなっています。正雄の改姓については、支援サポートすることはできる立場にあったようです。
 とすると、真持の改姓・改居は承和三・四年(826・837)のことなので、こちらには東寺長者であった実恵の尽力があったと考えられます。ここからは研究者は次のように考えているようです。
A 実恵は真持一門に近い出自
B 道雄は正雄一門に近い出身
どちらにしても、佐伯道長を戸長とする佐伯一族には、いくつかの家族がいて、本家筋はすでに改姓や本貫地の移動に成功していたことが分かります。この項目は信頼できるようです。

7段目です
⑦是の両法師等は、贈僧正空海大法師の成長する所なり。而して田公は是れ「大」僧正の父なり。

意訳変換しておくと
⑦実恵・道雄の二人は、空海の弟子であり、田公は大僧正空海の父である。

前半の実恵・道雄が空海の弟子であったことは、間違いないので省略します。後半の「田公は空海の父」とするのは、この「貞観三年記録」だけです。

8段目です
⑧今、大僧都伝燈大法師位真雅、幸いに時来に属りて、久しく加護に侍す。彼の両師に比するに、忽ちに高下を知る。

意訳変換しておくと

⑧空海の弟の大僧都真雅は、東寺長者となっているが、本家筋の実恵・道雄一門に比べると、我々田公一門への扱いは低い。

 真雅が田公一門の出身であることは、彼の卒伝からも明らかです。『三代実録』巻二十五、元慶三年(879)正月二日癸巳の条に、

僧正法印大和尚位真雅卒す。真雅は、俗姓は佐伯宿爾、右京の人なり。贈大僧正空海の弟なり。本姓は佐伯直、讃岐国多度郡の人なり。後に姓宿爾を賜い、改めて京職に貫す。真雅、年甫めて九歳にして、郷を辞して京に入り、兄空海に承事して真言法を受学す。(以下略)

とあって、次のことが分かります。
①もとは佐伯直で讃岐国多度郡に住んでいたこと、
②のちに京職に移貫し佐伯宿爾となったこと、
③空海の実弟であったこと
また、真雅は貞観二年(860)、真済のあとをうけて東寺長者となったばかりでした。この時を待っていたかのように、改姓申請はその翌年に行われています。
 後半の「実恵・道雄一門に比べるとその高下は明らかである」というのは、実恵・道雄一門の佐伯氏の人たちが、すでに佐伯宿爾への改姓と京職への移貫をなしとげていることを指しているようです。この段落も疑わしい点はないようです。

9段目です
⑨豊雄、又彫轟の小芸を以って、学館の末員を恭うす。往時を顧望するに、悲歎すること良に多し。正雄等の例に准いて、特に改姓、改居を蒙らんことを」と。

意訳変換しておくと

③空海の甥・豊雄は、書博士として大学寮に出仕しているが、往時をかえみて悲歎することが少なくない。なにとぞ本家の正雄等の例にならって、田公一門にも宿爾の姓を賜わり、本貫を京職に移すことを認めていただきたい。

書博士・豊雄については、この「貞観三年記録」にしか出てきません。書は、佐伯一門の家の学、または家の技芸として、大切に守り伝えられていたとしておきましょう。
「往時をかえりみるに悲歎することが少なくない」というのは、空海の活躍に想いを馳せてのことなのでしょうか。この言葉には、当時の田公一門の人たちの想いが込められていると研究者は考えているようです。
最後の10段目です
⑩善男等、謹んで家記を検ずるに、事、憑虚にあらずと。之を従す。

意訳変換しておくと
以上の款状の内容について、伴善男らが大伴氏の「家記」と照合した結果、系譜上に偽はなかった。よってこの申請を許可する。

  この記録は、大きく分けると次のように二段落に分けることができるようです。
A 前半の①と②は、佐伯宿禰の姓を賜わった鈴伎麻呂ら十一名の名前とその続柄と、この申請について伴宿爾善男(大伴氏)が関わったこと
B 後半の③から⑩には、書博士豊雄が作成した款状、 つまり官位などを望むときに提出した願書と善男がその内容を大伴氏の「家記」と照合したこと
 「貞観三年記録」の記事の信憑性について、段落ごとに研究者は検討しています。一つ一つの記事は、大伴氏が伝えてきた伝承などにもとづくものがあったとはいえ、ほぼ信頼していいようです。

しかし、研究者にとって疑問残ることもあるようです。
第一は、佐伯連の始祖と考えられる倭胡連から空海の父・田公までのあいだが、すっぽり欠落していることです。
1佐伯氏
大伴氏系図

第二は、大伴氏の系図には、空海の父・田公が「少領」と尻付きに記されていることです。ところが「貞観三年記録」の田公には、官位は記されていません。「選叙令」の郡司条には、次のような郡司の任用規定があります。
凡そ郡司には、性識清廉(しょうしきせいれん)にして、時の務(つとめ)に堪えたらむ者(ひと)を取りて、大領(だいりょう)、少領と為よ。強(こわ)く幹(つよ)く聡敏にして、書計に工(たくみ)ならむ者(ひと)を、主政(しゅしょう)、主帳(しゅちょう)と為よ。其れ大領には外従八位上、少領には外従八位下に叙せよ。〈其れ大領、少領、才用(ざいよう)同じくは、先ず国造(こくぞう)を取れ。)

ここに、少領は郡司の一人であり、その長官である大領につぐ地位であって、位階は外従八位下と規定されています。田公が、もし少領(郡司)であったとすれば、必ず位階を持っていたはずです。しかし、「貞観三年記録」の田公には、位階が記されていません。史料の信憑性からは、「貞観三年記録」が根本史料です。そのため「貞観三年記録」にしたがって、空海の父・田公は無位無官であった、と研究者はみなします。
以上をまとめておくと、次のようになります。
①田公一門の直接の先祖をあげないで、「別祖である」とわざわざ断ってまで中央の名門であった佐伯連(宿禰)に接ぐこと、
②佐伯連の初祖と考えられる倭胡連から田公までの間が、すっぽり欠落していること、
③「貞観三年記録」の倭胡連公までと田公の世代とは、直接繋がらないこと
④倭胡連公のところで系譜が接がれていること
これらの背景について、研究者は次のように考えています。
この改姓申請書は、空海の弟真雅が東寺長者に補任されたのを契機として、佐伯直氏が空海一門であることを背景に、中央への進出を企て申請されたものであること。 つまり「佐伯直氏の改姓・本貫移動 申請計画」なのです。それを有利に進めるために、武門の名家として著名で、かつ佐伯宿爾と同じ先祖をもつ伴宿爾の当主・善男に「家記」との照合と上奏の労を依頼します。さらに、みずからの家系を権威づけるために、大伴連(宿爾)氏の系譜を借用します。それに田公以下の世代を「接ぎ木」したのが「貞観三年記録」の佐伯系譜だったようです。
 そのために大伴氏の系図にみられるように、讃岐国の佐伯直氏ではなく、中央で重要な地位を占めていた佐伯連(宿爾)の祖・倭胡連公をわざわざ「別祖」と断ってまで記し、そこに「接ぎ木」しています。
 讃岐国・佐伯直氏のひと続きの家系のように記されていた系譜は、じつは倭胡連公のあとで、中央の名門・佐伯宿禰氏の系譜に空海の父・田公一門の系譜を繋ぎあわせたものだったと研究者は指摘します。
「是れ豊雄らの別祖なり」以下の歯切れの悪い文章が、この辺の事情を雄弁に物語っているようです。それでは、別の視点から「貞観三年記録」を空海の家系図としてみた場合、信頼できる部分はどこなのでしょうか。
 それは、田公以下の十一名の世代だけは、空海の近親者として信じてよい、と研究者は考えているようです。空海には、郡司として活躍する弟がいたり、中央の書博士になっている甥もいたのです。
 また、『御広伝』『大伴系図』などにみられた伊能から男足にいたる四代の人たち、「伊能直――大人直―根波都―男足―田公」の系譜も、ある程度信頼できるようです。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
武内孝善 弘法大師空海の研究 吉川弘文館2006年」
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空海のあとを受け継いだ真言教団のリーダーたちをみると、空海の血縁者が多いようです。前回に見た実恵にしても、真雅、真然、智泉など、いずれも空海の血をひく佐伯直氏の出です。初期の真言宗教団のなかで佐伯直氏一族は強い勢力をもっていたことがわかります。空海の死後に、真言宗教団をまとめたのは東寺長者の実恵でした。その後が、空海の末弟の真雅です。しかし、兄の空海とは、年が27歳も違います。異母兄弟と考えるの自然です。
佐伯直家の本籍地を讃岐国多度郡から都に移すことを中央政府に求めた「貞観三年記録」には、空海の身内11人の名前とその続き柄が記されています。それらの人物を系譜化すると下の系図のようになります。
1 空海系図

今回はこの真雅(しんが)を見ていくことにします。
 真雅についての根本伝記は、寛平5年(893)に弟子等よって編纂された『故僧正法印大和尚位真雅伝記』全1巻と、『日本三代実録』巻35、元慶3年正月3日癸巳条真雅卒伝になるようです。
 それによると、真雅の本姓は佐伯直で、もとは讃岐国多度郡に属していたのが、申請運動の結果、宿禰の姓を賜って佐伯宿禰氏となり、右京に戸籍を移すことになたことが記されます。真雅の兄は空海で、年齢的には27歳も年が離れています。異母兄弟と考えるのが自然です。父と子ほども年齢が離れていることは、頭の中に入れておきます。

真雅 地蔵院流道教方先師像のうち真雅像
真雅像(地蔵院流道教方先師像)

 真雅が生まれたのは延暦20(801)年です。この当時、兄の空海は、大学をドロップアウトし、沙門として各地の行場を修行中です。もしかしたら行方知れずで、弟の生まれたことも知らなかったかもしれません。真雅は9歳の時、讃岐から上京しています。官吏となるためには、この頃からから書道や四書五経について学ぶ必要がありました。しかし、彼の進む道は、兄空海の栄達と共に変化していきます。この時期の空海と真雅の動きを年表で見ておきましょう
801年 真雅誕生
805年 長安で青竜寺の恵果に師事し密教を学ぶ。
806年 明州を経て十月帰国。
809年 上京、高雄山寺に居を構える。
810年 勅許を得て実恵、智泉らに密教を教える。真雅上京
813年 真言密教の本旨を示す。
816年 高野山開創を勅許。(43歳) 弟真雅(16歳)を弟子とする。
817年 高野山開創始まる。
819年 真雅(19歳)に具足戒を授ける。
822年 東大寺に灌頂道場建立。
823年 嵯峨天皇から東寺をもらう。
     真雅(23歳)天皇の御前で真言37尊の梵号を唱誦する。
834年 空海が東寺で実慈と真雅に両部灌頂を受ける。
835年 空海死亡
  真雅にとっては、記憶にほとんどない兄が突然遣唐使になって唐に赴くことになったことは驚きだったでしょう。それがわずか2年で帰国し、その後は密教のリーダーとして飛躍していく姿には、もっと驚いたかも知れません。

大師堂(神護寺) - コトログ京都
神護寺大師堂

真雅が空海と初めて出会ったのは、いつどこででしょうか。
 それを示す史料はありませんが、九州太宰府での「謹慎待機」が解けて、空海が京都の髙尾山神護寺に居を構えてからのことでしょう。それに時期を合わすように、真雅は上京しています。この時期の空海の動きは密教伝来の寵児として、スッタフの拡充充実が求められます。真雅が16歳になるのを待っていたかのように、真雅を出家させ、19歳の時には具足戒を授け、スッタフの一員としたようです。
 真雅は、唐の長安・青竜寺住職恵果和尚から伝えられた新しい密教の教義を、むさぼるようにして兄から学んだのでしょう。そんな真雅を空海は身近において、宮中へも連れて行ったようです。
   『故僧正法印大和尚位真雅伝記』には、真雅の活躍が次のように記されています。
 真雅(23歳)の時、内裏に参入し、御前にて真言三十七尊の梵号を唱え、声は宝石を貫いたようで、舌先はよどみなかったため、天皇はよろこび、厚く施しをした。

また、この年に空海は10月13日には、皇后院で息災の法を三日三夜修法し、12月24日には大僧都長恵・少僧都勤操とともに清涼殿にて大通方広の法を終夜行なっています。このような儀式に空海は真雅を伴って参内したようで、淳和天皇や朝廷の面々の知遇を得ることができました。これが後の真雅の人的ネットワークとして財産になり、空海の後継者の一人としての地盤を固めるのに役立ったようです。
真雅

承和元年(834年)9月、真雅と実慈は、病が重くなっていた空海から東寺で、共に両部灌頂を受けます。空海が後事を託したのは、一族の実恵と真雅の二人だったことがうかがえます。
「東寺長者」には実恵が就きますが、遺命で東寺の大経蔵管理については、真雅に全責任を任したと云います。東寺の大経蔵は、空海が唐から持ち帰ったおびただしい数の経典や密教の法具など一切が納められていた真言密教にとって最も重要な蔵です。ある意味、空海後の真言宗組織は、実恵・真雅の「二頭体制」だったといえるのかもしれません。以後の真雅の動きを年表で追ってみましょう

835年 弘福寺別当、また、一説に東大寺真言院を委託される。
847年 東大寺別当に任ぜられる。
848年 大権律師、9月:律師に任ぜられる。
850年 3月、右大臣藤原良房の娘明子が惟仁親王(後の清和天皇)を生む。
     真雅は親王生誕から24年間、常に侍して聖体を護持
853年 惟仁親王のために藤原良房と協同で嘉祥寺に西院を建立。
860年 真済死亡後の東寺長者となる(先任二長者の真紹をさしおいて就任)
862年 嘉祥寺西院が貞観寺と改められる。
864年 僧として初めて輦車による参内を許される。
874年 7月、上表して僧正職を辞するが許されず(その後、再三の辞表も不許可)。
879年 1月3日、貞観寺にて入滅。享年79歳79。
1828年 950回忌に、法光大師の諡号が追贈。

この年表を見ると、850年の清和天皇の誕生が真雅の大きな転機になっていることがうかがえます。

真雅と藤原良房
藤原良房

そこに至るまでに真雅は、実力者藤原良房への接近を行っています。良房の強大な力を背景に、真雅は天皇一家の生活に深くくい込んでいったようです。良房をバックに真雅が天皇家と深いかかわり合いを持ちはじめたころに発生するのが「承和の変」です。

真雅と承和の変

良房が図ったこの政変は、天皇家を自らの血縁者で固めようとしたもので、これに反対する皇位継承者や重臣橘逸勢らを謀反人と決めつけて流罪・追放します。ところが実権を収めた良房に舞い降りてくるのが
①応天門の放火炎上
②流感のまんえん
③地震の続発
です。当時は、これらは怨霊のたたりとされていました。たたり神から身を守ってくれるのが先進国唐から導入された最先端宗教テクノである密教でした。具体的には真言高僧による祈祷だったようです。ここが真雅の舞台となります。
真雅と応天門2
こうした世情のなか、真雅は良房の意を受けて
①仁明天皇の病気平癒
②惟仁親王(のちの清和天皇)の立太子祈願
などの重要な収法の主役を演じます。
 真雅の躍進は、藤原良房の保護・支援が大きいようです
嘉祥3年(850)3月25日に生まれた惟仁親王(後の清和天皇)は、文徳天皇の第4皇子でしたが、母は藤原良房の娘です。そのため11月には皇太子に立てられます。これは童謡に次のように謡われたようです。
大枝を超えて走り超えて躍り騰がり超えて、我や護る田や捜り食むしぎや。雄々いしぎやたにや。」

「大枝」は「大兄」のことで、文徳天皇には4人の皇子ありながら、その兄たちを超えて惟仁親王が皇太子となったこと風刺したもののようです。その皇太子を護持したのが真雅でした。
 また藤原良房の娘明子が文徳天皇のもとに入った後、長らく懐妊しませんでした。ここでも藤原良房は真雅と語り、真雅が尊勝法を修した結果、清和天皇が誕生したとも記されます。
真雅と応天門の変

このように惟仁親王(清和天皇)降誕の功もあって、真雅は藤原良房より信認を受けるようになっていきます。
仁寿3年(853)10月25日には、少僧都
斉衡3年(856)10月2日には大僧都
僧官を登り詰めていきます。さらに清和天皇が即位した翌年の天安3年(859)に嘉祥寺西院に年分度者を賜ったのも、それまでの真雅の功に対する、摂政藤原良房からの賞であったのかもしれません。
真雅と清和天皇

清和天皇
 真雅は清和天皇が生まれてから24年間、「常に侍して聖体を護持」とありますから、内裏に宿直して天皇を護持していたようです。「祈祷合戦」の舞台と化していた当時の宮中では、「たたり」神をさけるためにそこまで求められていたようです。この結果、藤原良房の知遇、仁明、文徳、清和の歴代天皇の厚い保護のもとに、真雅の影響力は天皇一家の生活のなかにもおよぶようになります。仁明帝一家は、あげて真雅の指導で仏門に入るというありさまです。ここから天皇が仏具をもち、袈裟を纏うという後の天皇の姿が生まれてくるようです。
 実恵は、空海のワクのなかで忠実に法灯を守ろうとしました。それに対して、真雅は師空海の残した法灯と貴族社会との結びつきを強めていったと言えそうです。
  この結果、真言宗は天皇家や貴族との深いつながりを持ち隆盛を極めるようになります。
しかしある意味、「天皇家の専属祈祷師」になったようなものです。「宮中に24年間待機」していたのでは、教義的な発展は望めません。そして、教団内部も貴族指向になっていきます。
 これが天台宗との大きな違いだったと私は思っています。真言宗は、空海がきちんと教義を固めて亡くなります。それを継いだ宗主たちは、教団内部の教義論争に巻き込まれることはありませんでした。そして、真雅は「天皇家の専属祈祷師」の役割を引き受けます。
 一方、天台宗の場合は最澄は、教義の完成を志し半ばにして亡くなります。
残された課題は非常に多く、内部論争も活発に繰り返され、そこから中世の新宗教を開くリーダーが現れてきます。それだけカオスに充ち満ちていて、新しいものが生まれだしてくる環境があったのでしょう。これが比叡山と高野山のちがいになるのではないでしょうか。少し筆が走りすぎたようです。話を真雅にもどしましょう。

真雅は藤原良房の政治力をフルに活用し、真言宗の拡充を図ります
そのひとつが貞観四年(862)に、伏見区深草僧坊町に貞観寺を開創し、初代座主となったことです。この寺は、東寺をはるかに上まわる大伽藍と、広大な荘園を有するようになりますが、やがて東寺、のちに仁和寺心蓮院の末寺となり、中世に衰退して廃寺となります。

 真雅は、貞観寺創建と相前後して東寺長者、二年後には僧正、法印大和尚位にまで昇進します。そして、量車(車のついた乗り物)に乗ったまま官中に出入りすることが許されます。僧職に車の乗り物が認められたのは真雅が最初で、彼の朝廷での力のほどを示します。

  「幸いにして時来にかない、久しく加護に侍る。かの両師(実恵と道雄)と比するに、たちまち高下を知らん」(『日本三代実録』巻5、貞観3年11月11日辛巳条)

と評されたように、真言宗においても実恵と道雄の権勢は高まります。そのため真雅の貞観寺には多くの荘園が寄進されます。朝廷と密接な結びつきのある貞観寺に寄進することによって、租税から免れることを狙うとともに、有力者と接近して地域の権益の保護をはかるためでしょう。貞観寺の田地は約755町(750ha)にも及んだといわれます。

 真雅は自分が法印大和尚位についた年、師の空海が死後も無位であることに気を遺います。そして、空海への法印大和尚位の追贈を、清和天皇へ願い出て許されています。
 
貞観の大仏開眼供養会があった年の十一月、
讃岐の国多度郡の佐伯直氏の一族十一人に、佐伯宿爾の姓があたえられ、あわせて平安左京に移貫することがみとめられます。    
空海の甥たちの悲願がやっとかなったのです。これより先に一族を代表して佐伯直豊雄が、宿爾の姓を賜わるために提出した申請書には次のように記されています。

今、大僧都伝燈大法師位真雅、幸ひに時来に属りて、久しく加護に侍す。彼の両師 実恵と道雄)に比するに、忽ち高下を知らん」(「三代実録」貞観三年十一月十一日辛巳条)

ここからは、賜姓と京への本貫地の移管が、叔父真雅の威光を背景に行われたことがうかがえます。豊雄らの賜姓を周旋したのは、佐伯直氏の本家とされる中納言伴善男でした。(『三代実録』同上条参照)。
 真雅も伴善男と組んで佐伯氏一族の賜姓と移貫を実現させるために工作したのでしょう。
 貞観六年(864)二月、僧綱の位階が制定されたさいに真雅は、法印大和尚位の位階を賜わり、僧正に任ぜられています。もともとこの新位階の制定は、真雅の上表によって定められたものです。こうして真雅は、僧綱の頂点に立って仏教界を牛耳る地位を獲得したのです。
 しかし、そのころの政局は、けっして平穏ではありませんでした。咳逆病の流行による社会不安が広がっていました。そのような中で起きるのが先ほど述べた応天門の変です。応天門は、大内裏の正殿である朝堂院(八省院)の南中央に位置する重要な門です。そこから火が出て、門の左右前方に渡廊でつながる棲鳳・翔鸞の両楼も応天門とともに焼け落ちてしまったのは、貞観八年(866)二月十日の夜のことです。そして、半年後には時の大納言伴善男は、息子の中庸とともに応天門に火をつけた主謀者として告発され、善男らは大逆の罪で斬刑を命じられますが、罪一等を減じられて遠流の刑に処せられることが決定し、善男は伊豆の国へ、中庸は隠岐の国ヘ配流されます。伴善男は佐伯直氏の本家とされ、賜姓を周旋した人物です。賜姓決定が、もう少し遅ければ佐伯直氏の請願も認められることがなかったかもしれません。

874年7月
「上表して僧正職を辞するが許されず(その後、再三の辞表も不許可)」

とあるように、真雅は七十歳を過ぎたころには、何度も朝廷へ一切の要職から引退したいと願い出ますが聞き入れられません。
『日本三代実録』巻35、元慶3年正月3日癸巳条、真雅卒伝)には、真雅の死を次のように記しています。

 晩年真雅は病に伏せ、医者や薬に頼ることなく、手に拳印を結び、口に仏号を唱えて遷化した。享年79歳。元慶3年(879)正月3日のことであった。真雅は清和天皇が降誕以来、左右を離れずに日夜護持していたから、天皇ははなはだ親しく重んじていた。天皇は狩猟を好んでいたが、真雅の奏請によって山野の狩猟を禁じて、自らもこれを断ったばかり、摂津国蟹胥・陸奥国鹿尾の贄を御膳に充てることも止めたほどであった

彼も江戸時代末期の文政十一年(1828)になってから法光大師の号が贈られています。
真然像
真然(しんねん)像

最後に真雅や空海の甥に当たる真然を見ておきます。
彼は空海の実弟である佐伯直酒麿(佐伯田公の五男)の子といわれ、真雅や空海とは叔父。おいの間柄になります。真然は、空海から密教の教義、真雅からは両部潅頂を受けています。そして、空海没の翌年の承和三年(836年)に、遺唐使として真済とともに出港します。その際に、空海の死を長安・青竜寺に報告する手紙を託されますが、乗船の難破で入唐が果たせず、命からがら帰国しています。
空海の遺命で、その後の真然は金剛峰寺の伽藍造営に全力を傾注します。
真然廟(高野山)
真然廟(高野山)

そのためか、空海亡きあとの真言教団は、東寺派と金剛峰寺派に分かれ冷戦状態が続き、円仁、円珍らによって降盛をみせていた天台宗とは対照的な様相をみせます。心配した真然は晩年、真言宗の復興へ動き出しますが、果たせないまま党平二年(890年)9月に没します。真然の果たせなかった夢を継ぎ、真言宗を盛り立てたのが益信、聖宝、観賢らになるようです。
真然大徳廟

  以上見て来たように、空海は真言教団の重要ポストに佐伯直親族を当て、死後も彼らが教団運営の指導権を握っていたことが分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 讃岐人物風景1 四国新聞社 1980年

   
799年 政府は氏族の乱れを正すため各氏族に本系帳(系図)を提出するよう命じ、『新撰姓氏録』の編集に着手。
861年 佐伯直豊雄の申請により,空海の一族佐伯直氏11人.佐伯宿禰の姓を与えられる
866年 那珂郡の因支首(円珍の一族)秋主・道麻呂・多度郡人同姓純雄・国益ら9人,和気公の姓を与えられる(三代実録)
 ここからは9世紀の讃岐の有力豪族である空海の佐伯直氏やその親族で円珍(智証大師)を出した因支首氏(いなぎのおびと)が、それまでの姓を捨て、改姓申請や本貫地の変更申請をおこなっていたことが分かります。以前に円珍の因支首氏が和気氏に改姓するまでの動きを見ました。今回は空海の佐伯直氏の改姓申請を追ってみましょう。 
  どうして、改姓申請や都への本貫地移動申請が出されるようになったのでしょうか。
 地方豪族の当時のサクセスストーリーは、中央官僚として活躍し、本貫地を都に移すことでした。そのために、官位を挙げるために実績を上げたり、政府への多額献金で官位を買ったりしています。つまり、故郷を捨てて花の都で中央官僚としてしての栄達の道を歩むことが夢であったようです。
日本名僧・高僧伝”19・円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日 ...
円珍系図
 
金蔵寺を氏寺とする円珍の因支首氏の場合も、因支首氏という姓では、田舎豪族の響きで格好が悪いと思っていたのかもしれません。同族の伊予国の和気氏は、郡司クラスの有力豪族です。改姓によって和気氏の系譜関係を公認してもらい、自らも和気氏に連なろうと因支首氏は試みたと研究者は考えているようです。さて、それならば空海の佐伯氏はどうだったのでしょうか。

佐伯氏の改姓申請に対する中央政府の承認記録が残っているようです。
  それが『三代実録』巻五、貞観三年(861)11月11日辛巳条です。この時期は、空海が亡くなって26年後のことになります。空海の父・田公につながる一族11名が宿爾の姓を賜わり、本貫を讃岐国から左京職に移すことを許されたときの記録です。これは「貞観三年記録」と呼ばれ、「公的史料」ですので、佐伯家の系譜を見る上での根本史料とされています。今回は、ここに何が書かれ、何が分かるのかを見ていきます。最初に書かれるのは改姓を認められた空海の①弟たちと②③甥たちの名前と位階が記されています
①讃岐国多度郡の人、
故の佐伯直田公の男(息子)
故の外従五位下佐伯直鈴伎麻呂
故の正六位上佐伯直酒麻呂
故の正七位下佐伯直魚主
②鈴伎麻呂の男、
従六位上佐伯直貞持、
大初位下佐伯直貞継、
従七位上佐伯直葛野、
③酒麻呂の男、
書博士正六位上佐伯直豊雄
従六位上佐伯直豊守
魚主の男、従八位佐伯直粟氏
11人に佐伯宿爾の姓を賜い、即ち左京職に隷かしめき.

④是より先、正三位行中納言兼民部卿皇太后宮大夫伴宿爾善男、奏して言さく。
を意訳すると
①②③佐伯直田公の息子たち(空海の兄弟)の
佐伯直鈴伎麻呂・酒麻呂・魚主、
そして彼らの息子(空海の甥)の貞持・貞継・葛野、豊雄。豊守、栗氏ら11名に宿爾の姓が授けられ、本貫が左京職(都)に移されたこと。
④この改姓・改居は、書博士豊雄の申し出をうけた大伴氏(この当時は伴氏と称していた)本家の当主であった伴宿而善男が、豊雄らにかわって上奏したこと。
この史料から空海に連なる親族を系図にすると、次のようになるようです。

1空海系図2
空海系図
最初に、これを見たときに私は「空海には兄弟たちがいたという」驚きを覚えたことを思い出します。
この系図から分かることを挙げていきましょう。
①空海の父は「田公」であること。
地元では
「空海の父は善通であり、父のために建立したお寺なので善通寺とした」

と云われています。しかし、これは近世になって善通寺が「空海生誕の地」に建つことを強調するために流布されたものであることは、以前にお話した通りです。根本史料には空海の父は「田公」と明記されています。
②空海には、4人の弟がいること。
③一番末の真雅は、空海との年齢差は27歳とされます。
ここから、腹違いの弟と研究者は考えているようです。

真雅 地蔵院流道教方先師像のうち真雅像
空海の末弟・真雅(地蔵院流道教方先師像のうち真雅像)

 真雅については『三代実録』巻二十五、元慶三年(879)正月二日癸巳の条に、次のように記します。
僧正法印大和尚位真雅卒す。真雅は、俗姓は佐伯宿爾、右京の人なり。贈大僧正空海の弟なり。本姓は佐伯直、讃岐国多度郡の人なり。後に姓宿爾を賜い、改めて京職に貫す。真雅、年甫めて九歳にして、郷を辞して京に入り、兄空海に承事して真言法を受学す。(以下略)
とあって、
①もとは佐伯直で9歳までは讃岐国多度郡に住んでいたこと
②のちに京職に移貫し佐伯宿爾となったこと、
③空海の実弟であったこと、
が記されています。また、真雅はこの改姓申請が承認される前年の貞観二年(860)、真済のあとをうけて東寺長者となり、宗内で並びなき地位に登ります。
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空海行状絵図 三尊と雲に乗って談義する真魚 その奥の部屋では鳩眠る弟が描かれている



④空海の兄弟の中で、次男の鈴伎麻呂は実在が確認できます。
『類飛国史』巻九十九、天長四年(827)正月条の記録の中に、巡察使の報告にもとづき、諸国の郡司のなか褒賞すべきものに外従五位下を授けたとあり、このとき、外正六位上から外従五位下に叙せられた一人に讃岐の佐伯直鈴伎麿の名前があります。
   松原弘宣氏は、次のように記します。
「この佐伯直鈴伎麻呂は、同姓同名・時期・位階などよりして、多度部の田公の子供である佐伯直鈴伎麻呂とみてあやまりはない。そして、かかる叙位は、少領・主政・主帳が大領を越えてなされたとは考えられないことより、佐伯直鈴伎麻呂が多度部の大領となっていたといえるのである。

 この鈴伎麿を空海の弟の鈴伎麻呂とみなします。空海の弟は多度郡の郡司を勤めたいたようです。しかし、残りに二人の弟については分かりません。
⑤この記録に女性は出てきません。
そのため母親の名前も、何人かいたとされる姉や妹も分かりません。
⑥空海の弟酒麻呂の息子・豊雄は、書博士として大学寮に出仕していたようです。
彼については、これ以外に史料はありません。しかし、書博士になっているのですから、書は巧みであったことがうかがえます。書は、佐伯一門の家の学、または家の技芸として、大切に守り伝えられていたと勝手に想像しています。彼がまとめた空海一族の系譜は、直接に官庁に提出されたわけではないようです。それを取り次ぎ上奏したのは、大物です。
⑦改姓・改居の上奏を行った伴宿禰善男とは、何者なのでしょうか
「是より先、正三位行中納言兼民部卿皇太后宮大夫伴宿爾善男、奏して言(もう)さく」
と、申請者に名前の出てくる人物は、名門大伴氏の当主のようです。佐伯氏は、大伴氏の出とされ同族意識を持っていたことは、以前にお話ししました。そのために、空海の甥の豊雄が書いた佐伯直氏の系譜を、大伴氏の系譜と照会し、間違いないことを保証し、中央官庁に申請したようです。一族の大物の力を借りているようです。
860年に佐伯直氏から改姓願いが出された背景は?
それは空海の弟・真雅が東寺長者に補任されたのを契機として、空海一門であることを背景に、中央へのさらなる進出を計ろうとする狙いがあった研究者は考え、次のように記します。

  「この計画を有利に進めるために、古来都における武門の名家として著名で、かつ佐伯宿爾と同じ先祖をもつ伴宿爾の当主・善男に「家記」との照合と上奏の労をたのみ、みずからの家系を権威づけるために、大伴連(宿爾)氏の系譜を借りて佐伯の興りを記し、それに田公以下の世代を繋ぎあわせたのが、「貞観三年記録」にみられる佐伯の系譜であった」

 そのためにいままでの讃岐国の佐伯直氏ではなく、中央で重要な地位を占めていた佐伯連(宿爾)の祖・倭胡連公をわざわざ「別祖」と断って、そこに系譜を継ぐという行為に表れているといえるようです。
 その系譜工作に大伴氏の当主であった伴宿禰善男も手を貸していることになるようです。
以上をまとめておくきます。
①書博士の佐伯直豊雄が中心となって申請し、佐伯宿爾への改姓と左京職への移貫が勅許されたときの記録「貞観三年記録」からは次のような事が分かる。
②讃岐国・佐伯直氏の系譜は、倭胡連公のあとで、中央の名門・佐伯宿而氏の系譜に空海の父・田公一門の系譜を繋ぎあわせたものである。
③にもかかわらず「貞観三年記録」を空海の家系図としてみた場合、空海の父・田公以下11名の世代の存在は信用できる。
④また、田公から4代前の
伊能直 ― 大人直 ― 根波都 ― 男足 ― 田公

 の系譜も、ある程度信用できる
では、この信頼できる11名の世代から何がわかるのでしょうか?
 研究者は、空海の弟や甥たちの位階は、地方在住にしては異常ともいえるほどきわめて高いことを指摘します。次回は、なぜ空海の一族の位階が高かったのかを見ていくことにします。
おつきあいいただき、ありがとうございました。

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