瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:矢原正直

郷土史講座 満濃池と西嶋八兵衛

上記講座で使用した資料を中心にアップしておきます。時間と興味のある方は御覧下さい。

満濃池 3人の再築した人物

満濃池は8世紀初頭に築造されたとされますが、何度も決壊しています。空海の修復後も源平合戦頃には決壊したまま放置されます。そのため池跡が開発されて、池之内村ができていたと伝えられます。それが再築されるのは天下泰平になった江戸時代初期です。それを指揮したのが西嶋八兵衛ということになります。今回は、この西嶋八兵衛について見ていくことにします。

西嶋八兵衛 どうしてやってきたのか

これらについては、西嶋八兵衛が藤堂高虎の子飼いの腹心であったためであったと答えられます。まず主君の藤堂高虎を見ておきましょう。

西嶋八兵衛と藤堂高虎


藤堂高虎は、今年の大河ドラマの主役である秀吉の弟秀長に見いだされます。その後、主君を秀吉→家康と乗り換えて、戦乱を生き延びていきます。「戦乱の風見鶏」と評される由縁です。さらに晩年に駿府に隠居した家康の傍らに仕えて、絶大な信頼を得ます。外様大名でありながら譜代大名あつかいとなり、時の老中と親族関係を結ぶなど大きな政治力をもつ存在になっていきます。西嶋八兵衛は、その藤堂高虎に、若い頃に仕官します。英才教育を受けて栄達していきます。それを年表で押さえておきます。

西嶋八兵衛 藤堂高虎の英才教育を受けた

西嶋八兵衛の父は、もともとは藤堂高虎に仕えていましたが病気で浜松に隠居していました。八兵衛が17歳になると、駿府にいる高虎を訪ねています。見所があったのでしょう150石で小姓に取り立てられています。以後、高虎の身近にあって、英才教育を施されていきます。そして高虎の信頼を得た若者に成長していきます。
  
どうして西嶋八兵衛は、讃岐にやってきたのか?

西嶋八兵衛 生駒家と藤堂家は親族

生駒家3代目の正俊が突然若死にします。残された4代目の高俊は11歳の幼年です。この時期の幕府は、難癖を付けては外様大名を取り潰したり、無理難題を押しつけていた時代です。生駒藩も幕府の標的になる可能性がありました。生駒藩の危機です。これを救おうとしたのが伊勢津藩藩主の藤堂高虎です。
 高虎は生駒親正
に深い御儀がありました。高虎には、主君の秀長(秀吉の弟)が亡くなると、無能な主君に仕えること嫌って高野山に出家して隠遁生活を送っていた時期がありました。その時に秀吉への再就職を勧誘・説得を行ったのが生駒親正です。これによって高虎は秀吉に仕え、伊予宇和島7万石の大名にリクルートできました。高虎は、親正に大きな恩を受けたことになります。その後は、上図のように高虎の娘が生駒家に嫁いできていて子どもを産みます。それが生駒家4代目の高俊になります。つまり高俊は高虎の孫でもあったのす。高虎と父正俊から一字ずつもらって高俊です。高虎は、このように親密な関係にあった生駒藩の危機に対して一肌脱ごうとしたようです。そこで全権委任大使として生駒藩に派遣されたのが若き西嶋八兵衛ということになります。
 家老待遇として生駒藩にレンタルされた西嶋八兵衛を待ち受けていたのは大旱魃でした。

西嶋八兵衛来讃時の讃岐は大旱魃


 八兵衛がやってきた
のは寛永二年(1625)ですが、翌年から災害が続きます。旱魃・台風と2年続きの凶作で餓死者がでます。農民達は土地を捨てて他国に逃散するものも現れます。生駒藩存続の危機が訪れたのです。これに対して右往左往する生駒藩の指導者達に対して、藤堂高虎はレンタルしている西嶋八兵衛にやらせろと命じます。こうして西嶋八兵衛を中心としての災害対策、つまりそれは丸亀平野や髙松平野などのの総合開発プロジェクトでした。

 ここで注意しておきたいのは、満濃池だけを西嶋八兵衛は作ったのではないと云うことです。ため池 + 土器川・金倉川の治水工事 + 灌漑用水路の整備という3つの要素を同時に行っているのです。しかもこれを讃岐全土で同時進行で行っています。これは西嶋八兵衛が単なる技術者ではなく、当時の政策担当者の中枢部にいたからできたことです。それを裏付ける史料を見ておきましょう。

大川神社へ寄進された鉦 西嶋八兵衛・尾池玄蕃


これは1628年(満濃池着工時)に、琴南の大川神社(権現)に寄進された鉦です。ここには上記のような文字が刻まれています。ここからは次のようなことが分かります。


①大川神社は権現で、修験者たちの管理運営下にあったこと。


②雨乞い祈願用に、生駒藩奉行(家老)が寄進していること


③それをとりまとめたのが尾池玄蕃であること。


②の三人の奉行の中に西嶋八兵衛の名前があります。彼が生駒藩中枢にあり、政務を担当していたことが裏付けられます。また丸亀平野の担当が尾池玄蕃であったこと、当時の生駒藩が大旱魃に対して、権現の力を借りて雨を降らせようとしていたことも分かります。
それでは、西嶋八兵衛が讃岐にやってきたときに満濃池はどうなっていたのでしょうか?

満濃池営築図2 矢原家
満濃池営築

西嶋八兵衛がやって来た時の満濃池跡です。地元の矢原家に残っていた絵図です。

①の左下から中央を通って上に伸びていくのが金倉川で、川の中には大小の石がゴロゴロと転がっている

②右側が「うてめ」(余水吐)跡で、機能を失って川のように描かれている。

③金倉川を挟んで2つの岡があり、左(東)側が「護摩団岩」で空海がこの岩の上に護摩団を築いて祈祷を行ったとされる。この岩は今では満濃池に浮かぶ島となっている。

④右(西)側の丘に池の宮(現神野神社)が鎮座している。

古代に空海が再築した満濃池も③と④の二つの丘を堰堤で結んでいたとされています。それが崩壊したまま450年間放置されてきた姿が描かれています。つまり、ここに描かれているのは17世紀初頭の「古代満濃池の堤跡」なのです。


絵図の上方に描かれた堤跡の内側を見ておきましょう。

西嶋八兵衛 池之内村

④の池の宮の南側(上側)には、民家と農地を区切るあぜ道が描かれています。讃岐国名勝図会(1853年)には、次のように記します。

(満濃池)跡地は、(再開墾されて)五百石(25丁㌶)ほどの谷間の山田となった。人家も次第に増えて、池の内村と呼ばれる村ができていた。


ここからは源平合戦の頃に決壊した満濃池は、中世には農地化されて、内部に村ができていたことが分かります。これを「池内村」と呼んでいたようです。位置的には現在の神野寺の下あたりになります。ここには豊富な湧水があったようなので、それを水源とする村ができたのでしょう。

 
さらに絵図上部には、文字がぎっしりと書かれています。何が書かれているのか見ておきましょう。

西嶋八兵衛と矢原家

ここには工事が始まる2年前の寛永3年(1626)8月、奉行の西嶋八兵衛が矢原正直方へやってきたことが記されています。矢原家というのは、当時の池の内村の有力土豪だったようです。そして、西嶋八兵衛は当主と那珂郡の毎年の旱害について懇談します。その話を聞いて、矢原正直は池の内に所持している田地(500石=25町)を残らず差し出すことを申し出たと記されています。これに藩主は喜んで、後に褒美を取らせると約束します。ちなみにこれは後の池守となる矢原家にとっては、その正当性をしめす証拠資料ですから、記録として残され大切に保管されてきたようです。つまり、旧満濃池跡地の池之内村の領主が矢原家であったことになります。

 矢原家には、次のような文書も残されています


西嶋八兵衛と矢原家文書
御意として申せしめ候。仲郡満濃池上下にて、高五十石永代に遣わされ候間、
常々仕かけ水、堤まわり諸事由断なく、指図つかまつり、堅く相守るべく候ものなり。
よってくだんのごとし。 

寛永拾弐年亥四月三日   西嶋八兵衛之尤(花押)  
                  浅田右京 直信(花押)
矢原又右衛門(正直) 
ここからは池跡の25㌶(500石)を、藩に差し出したことへの恩賞として、藩主から代替地を満濃池周辺で与えられたこと、満濃池の池の守(管理人)に任命されたことが記されています。

こうして矢原家の土地寄進を受けて、工事が始まります。先ほどの絵図をトレスしたものを見ると、工期が日程が上段にはびっしりと書き込まれています。

満濃池着工と完成

冒頭の着工日と末尾の完成日時は上記の通りです。こうして西嶋八兵衛によって満濃池は再び姿を見せます。その満濃池を見ておきましょう。
西嶋八兵衛の満濃池
堰堤は、護摩壇岩と池の宮を結ぶようにして築かれています。そして現在の堰堤よりも前方にありました。この堰堤は戦後の嵩上げ工事によって、護摩壇岩だけを残して、今は池の中に沈んでしまいました。西嶋八兵衛が再築した満濃池の約200年後の姿を見ておきましょう。

満濃池遊鶴 
満濃池遊鶴(まんのう町蔵)
護摩壇岩と池の宮を結んで堰堤が築かれています。その向こうに拡がる池面を鶴の群れが飛んでいます。こうして満濃池は名勝地としても知られていくようになります。この絵図の5年後の讃岐国名勝図会に載せられた満濃池も見ておきましょう。

満濃池 讃岐国名勝図会2
ドローンで堤防北側上空から俯瞰した姿が満濃池を描く定番になっていきます。

江戸時代の満濃池は西嶋八兵衛が再築したスタイルが変化することなく踏襲され、維持管理されたことを押さえておきます。それだけ優れた設計だったことになります。これが崩壊するのは、新しい技術を取り入れ底樋を石造化したときに、技術が未熟で決壊します。同じ讃岐国名勝図会に載せられた矢原氏の屋敷です。

矢原邸 讃岐国名勝図会

矢原邸には空海が持ち帰ったかりんの大木があったとされますが、この絵図にはそれは見えません。描かれているのは大きな松の木が2本です。矢原家は移転地として満濃池の下の「池下」や「池尻」などに土地を支給され、江戸時代を通じて存続していきます。今でも満濃池周辺の土地は矢原家が所有しているようです。現在の矢原家周辺を見ておきましょう。


満濃池からの矢原家

満濃池堰堤から見た矢原家跡(こんもりとした森)

西嶋八兵衛は満濃池を再築しただけではない。丸亀平野総合開発プロジェクトを推進した。
地元でも西嶋八兵衛のことを知っている人は、そんなに多くありません。多くの人が空海が作った満濃池が存続していたと思っている人の方が多いように思えます。知っている人も「満濃池再築者」という点に限られています。しかし、彼が築造したのは満濃池だけではありません。同時進行で、次のようなため池の築造を行っています。
西嶋八兵衛 讃岐における業績一覧

これらのため池が西嶋八兵衛が作ったため池とされています。しかし、先ほど見たように彼は生駒藩の三人の奉行のひとりで、藩政の中枢にいた人物です。ただの技術者とはちがいます。各地の築造現場に頻繁に出向くことは難しかったのではないかと思います。また重臣が工事現場に常駐して指揮すると云うことは、当時の建設システムからは考えられません。黒鍬組のような土木技術者集団を引き連れていて、指示を受けた技術者たちが請け負っていたことが考えられます。その際の各地の庄屋たちの協力を取り付けるためのお膳立てはしたかもしれません。しかし、満濃池に西嶋八兵衛がかかりっきりで陣頭指揮をしたとは私には考えられません。問題提起としておきます。

もうひとつの問題提起は、満濃池を作っただけでは丸亀平野に水はやってこないということです。

西嶋八兵衛 丸亀平野総合開発事業の一環としての満濃池

池の水を下流に提供するためには、上記のように治水工事(既存の川の流路変更)と、灌漑用水路の整備がセットで求められます。つまり、丸亀平野の総合開発計画の実行ということになります。これはひとつやふたつの村の協力ではできません。多くの村々の庄屋たちの協力なしではできることではありません。西嶋八兵衛は、藤堂高虎が派遣した目付で、国奉行として藩政の中心にいたことからこそ立案・実行できたのです。満濃池の築造と同時期に行われた治水・灌漑を見ておきましょう。

満濃池水掛かり図.JPG 1870年
この絵図は、明治になって長谷川佐太郎によって再築された満濃池水掛の各村々とそこに至る用水路が水色で書き込まれています。上図を拡大して90度回転させて見てみます。

近世:治水整備後に整えられた灌漑網

これを見ると、用水路が東は土器川の左岸まで、西は金倉川を越えて、善通寺から多度津白方方面にまで伸びていることが分かります。灌漑受益の村単位の分布は、現在のものとほぼ同じです。そして、これは近世初頭に西嶋八兵衛が満濃池を築造して以来、大きくは変化していないようです。ここからは次のような事が読み取れます。
①満濃池の受益面積は桃色の髙松藩が最も多いこと。最大の受益者は髙松藩。
②土器川から分水導入している用水路は左岸にはないこと 土器川左岸は満濃池に依存していたこと
③金倉川も善通寺・多度津方面以外は、分水を行っていないこと。つまり、土器川と金倉川には灌漑機能はなく、放水路の機能を持たされていたこと。だから白色で描かれている。
④黄色の天領(五条・榎井・苗田)は、丸亀藩の給水分岐点であり、戦略的な意味を持っていたこと。
⑤善通寺・多度津白方方面は苗田村で一度金倉川に水を落とし、その下流で再度導水していたこと
⑥この水掛図で、最も灌漑用水が不足するのが多度津の白方方面であったこと。
このように丸亀平野一円に用水路を張り巡らせるために、どのような治水工事が行われたのでしょうか金倉川から満濃池用水路の導入口の③附近を拡大して見ます。③でそれまでの流路が変更され、新しく金倉川が人工的に作られたと丸亀市史は次のように記します。

西嶋八兵衛 四条川治水と用水路建設
つまり、満濃池再築以前には、③→④→⑤という流路で「四条川」が流れていたのを、③で放水路として金倉川を開削し、丸亀平野の西端に移動させ、中央部を洪水の被害を受けないようします。その上に新たな用水路網を開いたというのです。言い換えれば、満濃池用水は旧四条川の流路変更の上に作られたことになります。この工事が満濃池築造と同時期に、庄屋たちの分担作業で行われていたことが考えられます。その段取りをつけたのが西嶋八兵衛とその配下の土木技術者集団だと私は考えています。

③の金倉川からの分水点である水戸大横井を見ておきましょう。

西嶋八兵衛 水戸大横井

③の水戸大横井堰(まんのう町吉野下)は、パン屋さんのカレンズの近くの橋のすぐ上流に何代目かの堰が今もあります。ここでせき止められた水がコントロールされて用水路に流れていきます。附近には旧四条川の痕跡が残っています。また、金倉川は西へ西へと丸亀平野の西の奥まで追いやられ、象頭山の麓の「石淵」にぶつかって流れを北にとり、琴平の町中を通過して行きます。平野中央部に自由自在に流れていた暴れ川を、コントロールするために使われる土木技法の一つです。平野の角の山手に追いやり、中央には人工的な水路を通し、水害から水田を守るという手法です。
 ちなみに西嶋八兵衛が伊勢藩に帰国して開いたのが雲出井用水です。規模も建設方法、完成後の管理方法が満濃池用水によく似ていることは前回お話ししました。讃岐での経験が伊勢藩で活かされているように思えます。

西嶋八兵衛の雲出井用水

伊勢の雲出井用水 満濃池用水と類似点が多い

西嶋八兵衛は満濃池を完成させた後も、重臣の座にいながら各地で総合開発プロジェクトを進めます。

西嶋八兵衛の讃岐滞在2

そして満濃池完成後の8年後の1639年に、伊勢藤堂藩に帰ります。この年は生駒騒動が勃発した年です。生駒藩の家臣団の亀裂は深まるばかりで、押さえが効かなくなっていきます。沈み行く船を見捨てての、伊勢藤堂藩への帰国という形になります。彼にしてみれば20歳代後半から20年間に渡って、生駒藩に関わってきました。それが、生駒騒動という形で終末を迎えることにはいろいろな思いがあったはずです。
 ところが帰国した西嶋八兵衛に幕府から呼び出しがかかります。どんな用向きだったのでしょうか

西嶋八兵衛 生駒藩転封後の来讃

生駒騒動で生駒藩が改易された後は、幕府は高松藩と丸亀藩に2:1の石高比率で東西分割することにします。そうすると両藩の境界線が丸亀平野の真ん中に引かれることになります。これは満濃池の水掛かりが、ふたつの藩に引き裂かれることです。水利権の問題は複雑です。後世に問題を残さないように処理することが担当者には求められることになります。讃岐に派遣された幕府要人は、この課題処理のために白羽の矢を立てたのが、生駒藩奉行として満濃池築造するだけでなく、多くの民政に関わった西嶋八兵衛でした。彼は満濃池再築の責任者として、他国人ではありますが庄屋たちからはリスペクトされていたようです。庄屋たちから水利や里山利用の問題点を聞き取り、それを文書化して後に問題が起きないようにまとめて幕府要人に提出しています。そこには例えば満濃池管理について、次のように記されています。

西嶋八兵衛 満濃池水掛村鷹

西嶋八兵衛 満濃池水掛村高末尾鷹

これをまとめたのが西嶋八兵衛です。これを見えも西嶋八兵衛が満濃池の諸問題について、よく理解していたこと、同時に丸亀平野一円の庄屋たちの信頼を得ていたこともうかがえます。西嶋八兵衛の働きぶりに対して幕府要人は、小太刀一振りを与えてねぎらっています。有能な働きぶりだったことが裏付けられます。
伊勢帰国後の働きについては、前回にお話ししたので省略します。最後に西嶋八兵衛の業績と評価を振り返っておきましょう。

西嶋八兵衛 業績と評価

 天下泰平の時代がやって来ると、戦乱からの復興が政策者には求められるようになります。それまで放置されてきた農業への資本投下がやっと行われるようになります。新田開発と用水の確保はセットで求められますから大規模な治水灌漑工事がどの藩でも行われるようになります。その際に「転用」されるのが築城技術です。石垣などは、堤などにもすぐに転用できます。軍用技術の民政への転用というこになります。こうして家臣団の中に『民政臣僚』と呼ばれる集団が現れます。その走りが藤堂藩で、西嶋八兵衛もそのなかの一人だったようです。彼の場合は、その場がレンタル客臣として赴いた讃岐で、そこで讃岐平野全体の総合開発事業に家老として関わるようになったのです。そのシンボル的な事業が満濃池再築だったとしておきます。
 それでは西嶋八兵衛の讃岐での満濃池周辺での評価はどうでしょうか。
最初に見たように3人の満濃池再築者の中で、空海には遠く及ばず、長谷川佐太郎よりも知名度は低いといったところでしょうか。それでは西嶋八兵衛があまり知られていないのはどうしてなのでしょうか? 例えば満濃池に空海の銅像や長谷川佐太郎の顕彰碑はあります。これらは20世紀になって姿を見せるようになりました。

満濃池 空海の銅像
満濃池の空海像と長谷川佐太郎顕彰碑
ところが西嶋八兵衛のものは見当たりません。どうしてなのでしょうか?
それには次のような背景が考えられます。

西嶋八兵衛 銅像がないのはどうしてか

第1に西嶋八兵衛が讃岐の人ではなく他国人であったことです。そのために、後世に応援団(顕彰団代やファンクラブ)が育ったなかったことがあります。また、生駒藩がなくなったことです。そのため西嶋八兵衛の業績についての資料の多くが失われました。また、その後にやってきた松平髙松藩では、初代松平頼重がカリスマ化されていきます。その結果、先代の生駒藩の偉人伝は語られることがありませんでした。西嶋八兵衛は江戸時代には讃岐では忘れ去られた存在のようになていました。それが再評価されるのは、近代になってからです。こうして満濃池周辺では銅像も顕彰碑も建てられなかったようです。ただ髙松では、木太北部公園のように地域興し事業の一環として顕彰碑が姿を見せるようになりました。
西嶋八兵衛功徳費 

西嶋八兵衛が満濃池に着工し、完成させた年をもう一度見ておきましょう。

西嶋八兵衛 満濃池再築400周年
2年後が着工400周年 5年後が完成400周年にあたるようです。これを機会に、西嶋八兵衛の再評価が進み、銅像建立につながればと願っている私です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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  満濃池 西嶋八兵衛復興前1DSC00813

 幕末の「讃岐国名勝図会」には、源平の戦いの最中の元暦元年(1184)の大洪水で決壊してから、満濃池跡は次のように記します。

「五百石ばかりの山田となって人家なども建ち、池の内村と呼ばれた」

それでは、満濃池はどのようにして再築されたのでしょうか。「満濃池営築図」を見ながら再築の様子を追ってみましょう。
まんのう町 満濃池営築図jpg
 この図絵に描かれているのは、崩壊から450年間放置された江戸時代初めの堤付近の姿です。
①の上から下に伸びる道路のように見えるのが金倉川で、川の中には石がゴロゴロと転がっています。
②の中央の島のように見えるのが池の宮があった丘で
③の右側の流れは「うてめ」(余水吐)の跡ですが、川のように描かれています。
③金倉川を挟んで、左右に丘があります。古代の満濃池は、この丘を堰堤で結んでいました。
④左(東)側が「護摩団岩」で、空海がこの岩の上に護摩団を築いて祈祷を行ったとされる所です。今は、この岩は満濃池に浮かぶ島となってほとんどが水面下です。
⑤右上の池の内側に当たる所に注目してください。ここに数軒の民家と道、農地を区切るあぜ道が描かれています。これが、池跡にあった「池内村」のようです。

満濃池DSC00881

満濃池営築図 寛永複写版鎌田博物館4
       「うてめ(余水吐け)」の奥には、家屋や田んぼや畦・道が描かれている

 絵図の上部には、文字がぎっしりと書かれています。ここには寛永5年(1628)10月19日の鍬始め(着工)から、同8年(1631)2月の上棟式(完工)までの日付ごとの工程、奉行・普請奉行の氏名、那珂・宇多・多度3郡の水掛高、そして最後に、西嶋八兵衛による矢原正直との交渉が記されているのは以前にお話ししました。
満濃池の再築に向けて、二人の間で何が話し合われたかを推測してみましょう。
再築工事開始の二年前、寛永3年(1626)8月に、生駒藩奉行の西嶋八兵衛が池ノ内村の矢原正直方へやって来た。毎年の日照りについて相談がなされた。そこで、正直は池の内に所持している田地を池の復興のために残らず差し出すことを申し出た。
 つまり、この図に描かれている田畑や家屋が池の内村で、その領主が矢原家であったようです。満濃池を再築するにあたっては、土地の持ち主であり、有力者である矢原家の協力を欠くことができなかったのでしょう。この功績に対して生駒藩は矢原家を満濃池を管理する池守に任じ、同時に池上下において50石を与えます。
 「讃岐国名勝図会」の「神野神社の釣燈篭銘文」からは、矢原家の歴代当主が氏神である神野神社の社殿の再建を願主として行っていたことが分かります。つまり、矢原家は池内村の領主であったようです。
 こうして、堰堤が出来上がり水がためられると池の内村は、池の中に姿を消すことになったのです。

満濃池史
大宝年間(701-704)、讃岐国守道守朝臣、万農池を築く。(高濃池後碑文)
820年讃岐国守清原夏野、朝廷に万農池修築を伺い、築池使路真人浜継が派遣され修築に着手。
821年5月、復旧難航により、築池別当として空海が派遣される。その後、7月からわずか2か月余りで再築。
852年秋、大水により万農池を始め讃岐国内の池がすべて決壊
852年8月、讃岐国守弘宗王が万農池の復旧を開始し、翌年3月竣工。
1022年 満濃池再築。
1184年5月、満濃池、堤防決壊。この後、約450年間、池は復旧されず放置され荒廃。池の内に集落が発生し、「池内村」と呼ばれる。
1628年 生駒藩西嶋八兵衛が満濃池再築に着手。
1531年 満濃池、再築
1649年 長谷川喜平次が満濃池の木製底樋前半部を石製底樋に改修。
1653年 長谷川喜平次が満濃池の木製底樋後半部を石製底樋に改修,
1654年 6月の伊賀上野地震の影響で、7月5~8日、満濃池の樋外の石垣から漏水。8日には櫓堅樋が崩れ、9日九つ時に決壊。満濃池は以降16年間廃池。
1866年 洪水のため満濃池の堤防が決壊して金倉川沿岸の家屋が多く流失し青田赤土となる。長谷川佐太郎、和泉虎太郎らが満濃池復旧に奔走。
1869年 高松藩執政松崎渋右衛門、長谷川佐太郎と満濃池視察。
    8月、満濃池、岩盤の掘削によって底樋とする工事に、軒原庄蔵を起用`満濃池の復旧工事に着手。
    9月、岩盤の掘削工事に着手。
1870年3月、石穴底樋貫通。6月、満濃池堤防復旧。7月、満濃池修築完了

  参考文献
 香川大学名誉教授 田中健二 歴史的史料からみた満濃池の景観変遷 満濃池名勝調査報告書

満濃池と龍3
 
 満濃池には、古くから龍が住むという伝承があります。
『今昔物語集』には龍の棲む池として、また中世の『志度寺縁起』には、蛇になった志度の猟師当願の住む池として語られています。
『讃岐国名勝図絵』嘉永7年(1854)刊行にも、空海の築堤の説話と、池に棲む大蛇が海に移る際に堤が壊れたと記されます。そのうえで、元暦の大洪水による決壊後は長らく村と化していたが、寛永年間に西嶋八兵衛により再築が行われたことが語られます。

満濃池と龍

 今回は西嶋八兵衛による満濃池再築を見ていくことにします。
「満濃池営築図」原図(坂出の鎌田博物館の所蔵)を見てみましょう。
DSC00813















      満濃池営築図 原図(寛永年間)
この図には、中央に池の宮がある小山が描かれ、その左右に分かれて水流が見えています。 ここに描かれているのは、源平の兵乱の中の元暦元年(1184)に崩壊して以来、450年間にわたって放棄された満濃池の再築以前(寛永初め)の景観です。少し見にくいので、トレス版でみることにします。まんのう町 満濃池営築図jpg
満濃池営築図 トレス版(寛永年間)


満濃池営築図 寛永複写版鎌田博物館2
提供 中讃ケーブルテレビ 歴史の見方より
A 左下から中央を通って上に伸びていくのが①金倉川です。川の中には、大小の石がゴロゴロと転がっている様子が見えます。鎌倉時代の崩壊時の時に崩れ落ちた石なのでしょうか。

B 金倉川を挟んで中央に2つの山があります。
左(東)側が④「護摩団岩」で空海がこの岩の上に護摩団を築いて祈祷を行ったとされる「聖地」です。現在では、この岩は満濃池に浮かぶ島となっています。川の右(西)側にも丘があり、よく見ると神社建っています。これが②「池の宮」です。現在は神野神社と飛ばれていますが、江戸時代の史料では、神野神社という表記は出てきません。丘の右側の小川は③「うてめ」(余水吐)の跡のようです。「余水吐き」が川のように描かれています。

C 古代の満濃池については、何も分かりませんが、この二つの丘を堰堤で結んでいたとされていいます。それが崩壊したまま450年間放置されてきた姿です。つまり、これが「古代満濃池の堤体跡」なのです。そこを上(南)側の旧池地から金倉川流れ落ちて、大小の石が散乱してます。

実は、これは絵図の全てではありません。絵図の上部を見てみましょう。

DSC00814















     満濃池営築図 原図(寛永年間)
④旧池内には数軒の民家と道、農地を区切るあぜ道が描かれています。これが、中世以後旧満濃池を開発して成立していた「池内村」の一部のようです。
⑤さらに上部には、文字がぎっしりと書かれています。
何が書かれているのか見ていくことにしましょう。この絵図の上側に書かれた文字を起こしてみます。
 満濃池営築図 寛永年間(1624~45)摸写図
満濃池営築
寛永五辰年 奉行西嶋八兵衛之尤
 十月十九日 鍬初 代官出張 番匠喚
 十一月三日 西側堀除
 十二月廿日 普請方一統引払候
同六巳年
 正月廿八日 取掛
 二月十八日 奉行代官相改
 三月十九日 東ノ分大石割取掛
 四月十日  奉行代官立会相改 皆引取
 八月二日  底土台 亀甲之用意石割掛
 同十五日  西側大石切出済
 十月廿八日 座堀取除出来
 十二月十二日台目取除二掛ル
 同廿二日  奉行一統引払
同七午年
 正月廿八日 取掛
 三月十八日 台目所出来
 四月十日  櫓材木着手
 同十一日  流水為替土手築立
 同十八日  底樋亀甲石垣取掛 ’
       五月廿四日迄二出来
 六月五日  底樋取掛
 同廿九日  一番櫓建立
 七月六日より底樋伏込 同廿九日迄二           
 八月十五日 木樋両側伏込
 十月六日  堤埋立出来 竪樋座堀掛
 同十八日  竪樋下築立 同晦日出来
 十一月十七日 打亀甲石垣
 同廿九日  二番櫓立                                 
 十二月十日 三番櫓立
 同十五日  四番櫓立
 同廿二日  五番櫓立
同八未年    裏
二月五日  堤石垣直シ
同十五日  芝付悉皆出来
上棟式終 普請奉行 下津平左衛門  福家七郎右衛門
那珂郡高合 一万九千八百六十九石余
宇多郡高合 三千百六十石余
多皮郡高合 一万二千七百八十五石二斗余
  三郷合 三万五千八百十四石二斗余
西嶋氏、寛永三年八月、矢原正直方え来、当郡年々旱損二付、懇談御座候付、池内所持之田地不残差出申候
 ここには満濃池再建工事の伸張状況が記されていることが分かります。
 寛永5年(1628)10月19日の鍬始め(着工)から、同8年(1631)2月の上棟式(完工)までの日付ごとの工程、奉行・普請奉行の氏名、那珂・宇多・多度3郡の水掛高、最後に、西嶋八兵衛による矢原正直との交渉が書き込まれています。

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        満濃池営築図 トレス版

最後の文を専門家は次のように解釈しています。
寛永3年(1626)8月、奉行の西嶋八兵衛が矢原正直方へ来た。
那珂郡の毎年の旱害について懇談がなされた。
そこで、正直は、池内に所持している田地を残らず差し出す旨、申し出た。
 研究者は、この図に描かれた家と農地は、池ノ内側に描かれており、ここが池内村の中心であって、その領主が矢原家であったと推定します。そこで、満濃池の再築のためには、土地の持ち主であり、有力者である矢原家の協力を欠くことができなかったというのです。 
 
矢原家が満濃池跡に所持していた田地を池の復興のため差し出したという内容です。これを、裏付けるのが西嶋八兵衛書状(矢原家文書)8月15日付の文書になるようです。漢文書下文)
先日は、御目に懸かり大慶存じたてまつり候。兼て申し上げ置き候、満濃池内御所持の田畠二十五町余、このたび断りいたし、欠け候のところ、衆寡替えがたく御思召寄す、今日御用にて罷り出で、相窺い候ところ、笑止に思召し候。
いずれも同前の事に候。なお追々存こ畜りこれある趣、仰せられ候。三万石余の衆人上下、承知せしめ候。千載御家たちまちに相聳い候成り行き、何とも是非に及びがたき事候。
恐々謹言        
 八月十五日      西嶋八兵衛之尤(花押)  
 矢原又右衛門様                  
このたびは ぬさも取りあえず 神野なり 
   神の命に 逢う心地せり         
現代語に直し意訳すると次のようになります。
 先日は、お目にかかることが出来て大変歓んでいます。兼てから申し上げていた矢原家が満濃池跡に所持する田畠二十五町余を、池の再築のために総て差し出すことを、主君に伝えました。本日、御用で主君に会った折りに、その行為についてお喜びの様子であった。。
 いずれの機会に、何らかの形で矢原家への処遇を考えたいと仰せられていた。三万石余の衆人の見守る中での今回の行い、まことに誉れ有る行為である。
田畑25町を差し出した矢原家とは、何者なのでしょうか
 幕末に成立した「讃岐国名勝図会」には、平安末期の元暦元年(1184)に決壊した満濃池について次のように記します。

「五百石ばかりの山田となり。人家なども往々基置して、池の内村といった」

意訳変換しておくと
(満濃池)跡地は、(再開墾されて)五百石ほどの谷間の山田となった。人家も次第に増えて、池の内村と呼ばれる村ができていた。

 当時の田1反(10a)当たりの米の収穫量は、ほぼ2石(300kg)です。西嶋八兵衛の書状に見える25町余の田畠は、石高でいえば、500石余にあたります。この石高は、「讃岐国名勝図会」に見える池内村の石高とぴったりと一致します。ここからは矢原家は池内村全体の領主であったことになります。
矢原家と池内村との関係を「讃岐国名勝図会」の記事から、探ってみましょう。
矢原家に伝わる「矢原家傅」には、矢原家は神櫛王の子孫酒部黒麿が、延暦年間(782 - 806)に池の宮の近辺に住んだことに始まと伝えます。池の宮(現神野神社)は、時代と共にその位置を変えながら現在でも、満濃池の堤に続く丘の上に鎮座します。
矢原家伝が伝える内容を箇条書きにすると
①貞治元年の白峯合戦では細川清氏方に加担。
②天正12年(1584)、長宗我部氏の西讃侵攻に際しては、矢原八助(正景)が、神野寺に陣取った元親の嫡子信親と戦い、のち和睦。
③豊臣秀吉の部将で讃岐一国の領主となった仙石秀久のとき、正景は那珂郡七ケ村東分で高45石を賜る。
④同13年(1585)、仙石秀久より長男正方と次男猪兵衛に刀と槍を賜わる。
⑤同15年(1587)6月、生駒家より合力米200石を賜り、文禄の役に当主正方の弟猪兵衛が従軍
⑥慶長6年(1601)その戦功を賞して、200石の知行地を賜る。
⑦矢原正方は、備前国日比家の養子となり衝三右衛門と名乗って宇喜多秀家に仕えた。
⑧宇喜多秀家が没落後は故郷に帰り、元和2年(1616)没。
⑨寛永3年(1626)、正方の子正直が西嶋八兵衛によるに満濃池再築の際に、寄宿して指揮。
⑩この功績により生駒家は、正直を満濃池の池守にした。
⑪正直は慶安2年(1649)に没した。
 上に述べた内容のうち、
①慶長6年(1601)、生駒親正より200石の知行地を賜った。
②寛永の再築時の功績により、生駒家は正直を満濃池の池守に任じた。
この2件については、矢原家文書の中に該当するものがあります。                     
矢原家文書 慶長六年(1601)・寛永十二年(1635)」
  ①慶長六(1601)年十月十四日 生駒一正宛行状 矢原家文書
  扶持せしむ知行所事
   豊田郡 五十七石一斗四升  植田
   香西郡百四十二石八斗六升  中間 ミまや(御厩)
                 合二百石
 右の分まったく知行せしむべきものなり
   慶長六年十月十四日  生駒讃岐守 一正(花押)
 (日比呉三右衛門)
 ここには、慶長6年(1601)の知行地給付は、正直の父である日々典三左衛門(正方)宛てで給地は豊田郡植田、香西郡中間・御厩の計200石が記されています。


②寛永十二年(1635)四月三日 生駒家家老連署奉書 矢原家文書
矢原又右衛門宛の西嶋八兵衛書簡
生駒家家老連署奉書 矢原家文書
 御意として申せしめ候。仲郡満濃池上下にて、高五十石永代に遣わされ候間、常々仕かけ水、堤まわり諸事由断なく、指図つかまつり、堅く相守るべく候ものなり。よってくだんのごとし。
   寛永拾弐年亥四月三日   西嶋八兵衛之尤(花押)
                浅田右京 直信(花押)
 (正直) 矢原又右衛門
【資料 ②】からは、正直が満濃池を管理する池守に任命され、同池上下において50石を与えられたことが分かります。また、「讃岐国名勝図会」に記載された神野神社の釣燈篭の銘文からは、矢原家の歴代当主が池の宮(神野神社)の社殿の造替や堂舎の再建を願主として行っていたことが読み取れると満濃町史は記します。

諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
矢原邸 讃岐国名勝図会
以上から矢原家について、まとめると次のようになります。
①矢原家は、戦国時代には満濃池跡に本拠を持つ小領主であった。
②長宗我部氏の讃岐侵入に際し、香川氏・長尾氏に従い抵抗した
③近世初期には、仙石・生駒藩に臣従し、知行地を得ていた
④満濃池の再築の功績により、池守に任じられた
これらを根拠として矢原家は池内村の領主であったといえるようです。しかし、それがいつまで遡れるかは分かりません。池ノ内村を領有していた矢原家の奉納した池内村は、満濃池ができあがると再び池の中に姿を消すことになったのです。

参考文献 
香川大学名誉教授 田中健二 歴史資料から見た満濃池の景観変遷
満濃池名勝調査報告 まんのう町教育委員会 2019年3月刊
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