瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:石堂神社

石堂山
石堂神社から石堂山まで
つるぎ町半田の奥にそびえる石堂山は、かつては石堂大権現とよばれる信仰の山でした。
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標高1200mと記された看板
 現在の石堂神社は1200mの稜線に東面して鎮座しています。もともとこの地は、半田と木屋平を結ぶ峠道が通じていたようです。そこに石堂山の遙拝地であり、参拝登山の前泊地として整備されたのが現在の石堂神社の「祖型」だと私は推察しています。県道304号からアップダウンの厳しいダートの道を越えてくると、開けた空間が現れホッとしました。東向きに鎮座する本堂にお参りして、腰を下ろして考えます。

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 スチールの鳥居が白く輝く石堂神社

 かつて石堂山は、明治維新の神仏分離までは、石堂大権現と呼ばれていました。金比羅大権現と同じように、修験者が信仰する霊山で、行場や頂上には様々な神々が祀られていました。

石堂山2
石堂神社からの石堂大権現の霊山
そのエリアは、風呂塔 → 火上山 → 白滝山 → 石堂山 → 矢筈山を含む一円だったようです。このエリアを修験者たちは行場として活動していたようです。ここで修行を積んで験を高めた修験者たちは、各地に出向いて信仰・医療・広報活動を行い、信者を増やし、講を組織します。そして、夏の大祭には先達として信者達を連れて、本山の石堂大権現に参拝登攀に訪れるようになります。それは石鎚参拝登山と同じです。石鎚参拝登山でも、前神寺や横峰寺など拠点となった山岳寺院がありました。同じように、石堂大権現の拠点寺となったのが井川町の地福寺であり、半田町の多門寺であることを前回にお話ししました。
 先達山伏は、連れて来た信者達を石堂山山頂近くの「お塔石」まで導かなければなりません。そのためには参拝道の整備ととともに、山頂付近で宿泊のできる施設が必要になります。それはできれば、朝日を浴びる東向きの稜線上にあることがふさわしかったはずです。そういう意味では、この神社の位置はピッタリのロケーションです。

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明るく開けた石堂神社の神域
  現在の石堂神社には、素盞嗚尊・大山祇尊・嵯峨天皇の三柱の祭神が祭られているようです。

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石堂神社拝殿横の祠と祀られている祭神
しかし、拝殿横の小さな祠には、次のような神々が祀られています。
①白竜神 (百米先の山中に祭る)
②役行者神変(えんのぎょうじゃ じんべん)大菩薩
③大山祇命
どうやらこの三神が石堂大権現時代の祭神だったようです。神仏分離によって本殿から追い出され、ここに祀られるようになったのでしょう。
役行者と修験道の世界 : 山岳信仰の秘宝 : 役行者神変大菩薩一三〇〇年遠忌記念(大阪市立美術館 編) / ハナ書房 /  古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
役行者(えんのぎょうじゃ)

②の役行者は修験道の開祖とされる人物で、「神変」は没後千年以上の後に寛政2年(1799年)に光格天皇から送られた諡号です。
③の大山祇命(オオヤマツミ)の「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意なので、「オオヤマツミ」は「大いなる山の神」という意味で、三島神社(三嶋神社)や山神社(山神神社)の多くでも主祭神として祀られています。石堂大権現に祭る神としては相応しい神です。

問題は①の白竜神です。竜は龍神伝説や善女龍王伝説などから雨乞いとからんで信仰されることがあるようですが、讃岐と違って阿波では雨乞い伝説はあまり聞きません。考えられるのは、「白滝山」から転じたもので、白滝山に祀られていた神ではないのかと私は考えています。「百米先の山中に祭る」とあるので、早速行って見ることにします。

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石堂山への参道登山口(石堂神社の鳥居)
 持っていく物を調えて、参拝道の入口に立つ鳥居をくぐります。もみじの紅葉が迎えてくれます。

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最初の上りを登って振り返ると、石堂神社の赤い屋根が見えます。
そして前方に開けてきたのが「磐座の広場」です。

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白竜神を祀る磐座(いわくら)群

石灰岩の大小の石が高低差をもって並んでいます。古代神道では、このような巨石には神が降り立つ磐座(いわくら)と考え、神聖な場所とされてきました。その流れを汲む中世の山伏たちも磐座信仰を持っていました。
金毘羅神
天狗姿で描かれた金毘羅大権現
 修験者は天狗になるために修行をしていたともいわれます。そのため天狗信仰の強かった金毘羅大権現では、金毘羅神は天狗姿で描かれているものもあります。修験者にとって天狗は、憧れの存在でした。

天狗 烏天狗
霊山に宿る仏達(右)と天狗たち(左)
聖なる山々に棲む天狗が集って集会を開くのが「磐座の広場」でした。決められた岩の上に、決められた天狗たちが座するとされました。修験者には、この磐座群に多くの天狗達が座っていたのが見えたのかもしれません。それを絵にしてイメージ化したものが金毘羅大権現にも残っています。

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
 金毘羅大権現と天狗達(金毘羅大権現の別当金光院が出していた)

つまり、石堂神社の裏手の山は上の絵のように、石堂大権現と天狗達の集会所として聖地だったと、私は「妄想」しています。そうだとすれば、石堂大権現が座ったのは、中央の大きな磐座だったはずです。

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白竜神を祀る磐座(いわくら)群(石堂神社裏)

ここも修験者たちにとっては聖なる場所のひとつで、その下に遙拝所としての石堂神社が鎮座しているとも考えられます。
下の地図で①が石堂神社、②が白竜神の磐座です。

石堂神社

ここから③の三角点までは、標高差100mほどの上りが続きます。しかし、南側が大規模に伐採中なので展望が開けます。

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南側の黒笠山から津志獄方面
南側の山陵の黒笠山から津志獄へと落ちていく稜線がくっきりと見えます。
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黒笠山から津志獄方面の稜線

いったん平坦になった展望のきく稜線が終わって、ひとのぼりすると③の三角点(1335、4m)があります。

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三角点(1335、4m)
この三角点の点名は「石小屋」です。この附近に、籠堂的な岩屋があったのかもしれません。
 この附近までは北側は、檜やもみの針葉樹林帯で北側の展望はききません。その中に現れた道標です。

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林道分岐まで2㎞とあります。分岐から石堂神社までが1㎞でしたから、石堂神社から1㎞地点になります。
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          小さな二重山陵がつづく
この附近は南側(左)がミズナラやダケカンバの広葉樹、北側(右)が檜やモミなどの針葉樹が続きます。その間に小さな二重稜線が見られます。これは矢筈山の西側稜線にも続いています。 二重稜線とは、稜線が二重に並走し,中間に凹地が出来ている地形で、時に沼沢地や湿地などを生み出します。そのため変化のある風景や植物環境が楽しめたりします。
 標高1400mあたりまでくると大きなブナが迎えてくれました。

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ブナの木
この山でブナに出会えるとは思っていなかったので、嬉しくなって周辺の大きなブナを探して見ました。石堂山の大ブナ紹介です。

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後は黒笠山

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稜線上のブナ 私が見つけた中では一番根回りが太い

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ブナ林の中から見えた吉野川方面
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拡大して見ると、
直下が半田川沿いの集落、左手が半田、右が貞光方面。その向こうに連なるのが阿讃山脈。この範囲の信者達が大祭の日には、石堂山を目指したはずです。

石堂神社

④のあたりが大きなブナがあるところで標高1400mあたりの稜線になります。④からは急登になって、南側からトラバースするようにして白滝山のすぐ南の稜線に出て行きます。そこにあるのが⑥の道標です。
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白滝山と石堂山の分岐点。(林道まで3㎞:
地面におちた方には「白滝山 100m」とあります
笹の中の歩きやすい稜線を少し歩くと白滝山の頂上です。
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白滝山頂上
白滝山頂上は灌木に囲まれて、展望はいまひとつです。あまり特徴のない山のように思えますが、地図や記録などをみると周辺には断崖や
切り立った岩場があるようです。これらを修験者たちは「瀧」と呼びました。そんな場所は水が流れて居なくても「瀧」で行場だったのです。白滝山周辺も、白い石灰岩の岩場があり「白滝」と呼ばれていたと私は考えています。つまり、石堂山系の中の行場のひとつであったのです。そして、この山から北に続く火上山では、修験者たちが修行の節目に大きな護摩祈祷を行った山であることは以前にお話ししました。
石堂山から風呂塔
北側上空からの石堂山系俯瞰図
 今回はここまでです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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11月の連休は快晴続きで、9月末のような夏日の日が続きました。体力も回復してきたので、久しぶりに稜線を歩きたくなり、あっちこっちの山々に出没しました。前回紹介した石堂山にも行ってきたので、その報告記を残しておきます。この山は明治の神仏分離までは「石堂大権現」と呼ばれ、修験者たちの修行の場で、霊山・聖地でした。
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石堂山直下の 「お塔石」
頂上直下の 「お塔石」がご神体です。また、山名の由来ともなった石室(大工小屋石:石堂)もあります。「美馬郡郷土誌」には、大正時代まで祭日(旧6月27日)には多くの白衣の行者たちが、この霊山をめざしたことが記されています。彼らが最初に目指したのが、つるぎ町半田と木屋平の稜線上に鎮座する石堂神社です。グーグルに「石堂神社」と入れると、半田町経由の県道304号でのアプローチルートが提示されます。指示されるとおり、国道192号から県道257号に入り、半田川沿いに南下します。このエリアは、かつて端山88ヶ所巡礼のお堂巡りに通った道です。見慣れたお堂に挨拶しながら高清で県道258号へ右折して半田川上流部へと入っていきます。

半田町上喜来 多聞院.2

上喜来・葛城線案内図(昭和55年5月5日作成)
以前に端山巡礼中に見つけた43年前の住宅地図です。
①は白滝山を詠んだ歌です。
八千代の在の人々は 
   仰げば高き白滝の映える緑のその中に 
小浜長兵衛 埋けたる金が 
   年に一度は枝々に 黄金の色の花咲かす
このエリアの人々が見上げる山が白滝山で、信仰の山でもあり、「黄金伝説」も語り継がれていたようです。実際の白滝山は③の方向になります。石堂山は、白滝山の向こうになるので里からは見えないようです。
②は石堂神社です。上喜来集落の岩稜の上に建っていたようです
⑥の井浦堂の奥のに当たるようですが、位置は私には分かりません。この神社は、稜線上にある石堂神社の霊を分霊して勧進した分社であることは推察できます。里の人達が白滝山や石堂山を信仰の山としていたことが、この地図からもうかがえます。
⑦には「まゆ集荷場」とあります。
現在の公民館になっている建物です。ここからは1980年頃までは、各家々で養蚕が行われ、それが集められる集荷場があったということです。蚕が飼われていたと云うことは、周辺の畑には桑の木が植えられていたことになります。また、各家々を見ると「養鶏場」とかかれた所が目立ちます。そして、いまも谷をつめたソラの集落の家には鶏舎が建ち並ぶ姿が見えます。煙草・ミツマタ・養蚕などさまざまな方法で生活を支えてきたことがうかがえます。

多門寺3
多門寺とサルスベリ
この地図を見て不思議に思うのは、多門寺が見えないことです。
多門寺には室町時代と伝えられる庭と、本尊の毘沙門天が祀られています。古くからの山岳信仰の拠点で、この地域の宗教センターで会ったことがうかがえます。

多門寺
多門寺の本堂と庭
前回もお話ししたように、石堂大権現信仰の中核を占めていた寺院が多門寺だと私は思っています。その寺がどうしてここに書き込まれていないのかが私には分かりません。県道258号を先を急ぎます。

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風呂塔・土々瀧への分岐点
多門寺の奥の院である土々瀧の灌頂院への分岐手前の橋の上までやってきました。ここで道標を確認して、左側を見ると目に見えてきたのが次の建物でした。
半田川沿いの旅籠
          土々瀧への分岐点の旅館?
普通の民家の佇まいとはちがいます。拡大して見ると・・

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謎の旅館
旅館の窓のような印象を受けます。旅館だとすると、どうしてこんなところに旅館が建っていたのでしょうか。
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謎の旅館(?)の正面側

私の持っている少ない情報で推察すると、次の二点が浮かんできました。
①石堂大権現(神社)への信者達の参拝登攀のための宿
②多門寺の奥の院灌頂院への信者達の宿
謎の旅館としておきます。ご存じの方がいらっしゃったらお教え下さい。さらに県道258号を登っていきます。

四眠堂
四眠堂(つるぎ町半田紙屋)
 紙屋集落の四眠堂が道の下に見えてきます。
ここも端山巡礼で御世話になったソラのお堂です。これらのお堂を整備し、庚申信仰を拡げ、庚申講を組織していったのも修験者たちでした。
 霊山と呼ばれる寺社には、多くの高野聖や修験者(山伏)などの念仏聖が庵を構えて住み着き、そこを拠点にお札配布などの布教活動をおこなうようになります。阿波の高越山や石堂山周辺が、その代表です。修験者たちが庚申信仰をソラの集落に持込み、庚申講を組織し、その信仰拠点としてお堂を整備していきます。それを阿波では蜂須賀藩が支援した節があります。つまり、ソラの集落に今に残るお堂と、庚申塔は修験者たちの活動痕跡であり、そのテリトリーを示すものではないかと私は考えています。

端山四国霊場 四眠堂
端山四国霊場68番 四眠堂
四眠堂の前を「導き給え 教え給え 授けたまえ」と唱えながら通過して行きます。半田川から離れて上りが急になってくると県道304号に変わります。しかし、県道表示の標識は私は一本も見ませんでした。意識しなければ何号線を走っているのかを、気にすることはありません。鶏舎を越えた急登の上に現れたのがこのお堂。

庚申堂 半田町県道304号
半田小谷の庚申堂
グーグルには「庚申堂」で出てきます。

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           半田小谷の庚申堂

   高野聖が修験道を学び修験者となり、村々の神社の別当職を兼ねる社僧になっている例は、数多く報告されています。近世の庶民信仰の担当者は、寺院の僧侶よりも高野聖や山伏だったと考える研究者もいます。ソラの集落の信仰には、里山伏(修験者)たちが大きな役割を果たしていたのです。その核となったのがこのようなお堂だったのです。
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最後の民家
 上に登っていくほどに県道304号は整備され、走りやすくなります。植林された暗い杉林から出ると開けた空間に出ました。ススキが秋の風に揺らぐ中にあったのがこの民家です。周囲は畑だったようです。人は住んでいませんが、周辺は草刈りがされて管理されています。「古民家マニア」でもあるので拝見させていただきます。

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民家へのアプローチ道とススキP1260095
庭先から眺める白滝山
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庭先からの吉野川方面
この庭先を借りて、お茶を沸かして一服させていただきました。西に白滝山が、北に吉野川から讃岐の龍王・大川、東に友納山や高越山が望めます。素晴らしいロケーションです。そしてここで生活してきた人達の歴史について、いろいろと想像しました。そんな時に思い出したのが、穴吹でも一番山深い内田集落を訪れた時のことです。一宇峠から下りて、集落入口にある樫平神社でお参りをして内田集落に上がっていきました。めざす民家は、屋号は「ナカ」で、集落の中央という意味でしょう。この民家を訪ねたのは、屋敷神に南光院という山伏を祀(まつ)っていることです。先祖は剣周辺で行を積んでいた修験道でなかったのかと思えます。
 村里に住み着いた修験者のことを里山伏と呼ぶことは先ほど述べました。彼らは村々の鎮守社や勧請社などの司祭者となり、拝み屋となって妻子を養い、田畑を耕し、あるいは細工師となり、鉱山の開発に携わる者もいました。そのため、江戸時代に建立された石塔には導師として、その土地の修験院の名が刻まれたものがソラの集落には残ります。
 この家の先祖をそんな山伏とすれば、ひとつの物語になりそうな気もしてきます。稜線に鎮座する石堂大権現を護りながら、奥の院である矢筈山から御神体である石堂山のお塔岩、そして断崖の白滝山の行場、護摩炊きが山頂で行われた火揚げ山を行場として活動する修験者の姿が描けそうな気もします。

石堂山から風呂塔
     矢筈山から風呂塔までの石堂大権現の行場エリア
ないのは私の才能だけかもしれません。次回はテントを持ってきて、酒を飲みながら「沈思黙考」しようと考えています。「現場」に自分を置いて、考えるのが一番なのです。
 この民家を後にすると最後のヘアピンを越えると、道は一直線に稜線に駆け上っていきます。その北側斜面は大規模な伐採中で視界が開け、大パノラマが楽しめる高山ドライブロードです。

石堂山
県道304号をたどって石堂神社へ
稜線手前に石堂神社への入口がありました。

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県道304号の石堂神社入口
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石堂神社への看板
ここからは1㎞少々アップダウンのきついダートが続きます。

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石堂神社参のカラマツ林
迎えてくれたのは、私が大好きな唐松の紅葉。これだけでも、やってきた甲斐があります。なかなか緊張感のあるダートも時間にすればわずかです。

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標高1200mの稜線上の石堂神社
たどりついた石堂神社。背後の木々は、紅葉を落としている最中でした。
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拝殿から鳥居方向
半田からは寄り道をしながらも1時間あまりでやってきました。私にとっては、快適な山岳ドライブでした。これから紅葉の中の稜線プロムナードの始まりです。それはまた次回に。

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最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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地福寺(井川町井内)
以前に、地福寺と修験者の関係を、次のようにまとめました。
①祖谷古道が伸びていた井内地区は、祖谷との関係が深いソラの集落であったこと
②馬岡新田神社と、その別当寺だった地福寺が井内の宗教センターの役割を果たしていたこと
③地福寺は、剣山信仰の拠点として多くの修験者を配下に組み込み、活発な修験活動を展開していたこと
④そのため地福寺周辺の井内地区には、修験者たちがやってきて定着して、庵や坊を開いたこと。それが現在でも、集落に痕跡として残っていること
③に関して、剣山は近世後半になって、木屋平の龍光寺と、井川の地福寺によって競うように開山されたことは以前にお話ししました。見ノ越の剣神社やその別当寺として開かれた円福寺を、剣山の「前線基地」として開いたのは地福寺でした。
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地福寺が見ノ越の円福寺の別当寺であることを示す

地福寺は、箸蔵寺とも緊密な関係にあって、その配下の修験者たちは讃岐に信者たちを組織し「かすみ」としていたようです。そのため讃岐の信者達は、地福寺を通じて見ノ越の円福寺に参拝し、そこを拠点に剣山での行場巡りをしていました。そのため見ノ越の円福寺には、讃岐の人達が残した玉垣が数多く残っています。丸亀・三豊平野からの剣山参詣の修験者たちの拠点は、次のようなものであったと私は考えています。
①金毘羅大権現の多聞院 → ②阿波池田の箸蔵寺 → 
③井川の地福寺 → ④見ノ越の円福寺」
そして、この拠点を結ぶ形で西讃地方の剣山詣では行われていたのではないかと推測します。

それでは③の地福寺が剣山を開山する以前に、行場とし、霊山としていたのはどこなのでしょうか。
それが石堂山だったと私は考えています。
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石堂山山頂
石堂山

石堂山は、つるぎ町一宇と三好市半田町の境界上にあります。

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石堂山のお塔岩

頂上近くにある 「お塔石」をご神体とする信仰の山です。石鎚の行場巡りにもこんな石の塔があったことを思い出します。修験者たちがいかにも、このみそうな行場です。

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         石堂山のお塔岩の祠
お塔岩の下には、小さな祠が祀られていました。この下はすぱっと切れ落ちています。ここで捨身の行が行われていたのでしょう。

この山には、もうひとつ巨石が稜線上にあります。
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阿波志(文化年間)には、次のように記されています。
「絶頂に石あり削成する如し高さ十二丈許り南高く北低し石扉あり之を覆う因て名づけて石堂と曰う」
意訳変換しておくと
頂上には、削りだしたかのような巨石があり、その高さは十二丈ほどにも達する、北側の方が低く、石の空間があるので石堂と呼ばれている。


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石堂山の石堂

ここからは、次のようなことが分かります。
①南北に二つならんだ巨石が並んで建っている。
②その内の北側の方には、石に空間があるので石堂と呼ばれている
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大工小屋石
つまり石堂山には山名の由来ともなった石室(大工小屋石)があり、昔から修験道の聖地でもあったようです。

「美馬郡郷土誌」には、大正時代まで祭日(旧6月27日)には白衣の行者多数の登山者が、この霊山をめざした記されています。
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また石室から西方に少し進むと、御塔(おとう)石とよばれる高さ約8mの方尖塔状の巨石がそびえます。これが石堂神社の神体です。また石堂山の南方尾根続きの矢筈(やはず)山は奥院とされていました。この山もかつては石堂大権現と呼ばれ、剣山を中心とした修験道場の一つで、夏には山伏たちが柴灯護摩を修行した行場であったのです。

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石堂山方面からの白滝山

 白滝山(しらたきやま 標高1,526m) は、東側の頂上直下附近は、石灰岩の断崖や崩壊跡が見られます。修験者たちは、断崖や洞窟を異界との接合点と考えて、このような場所を行場として行道や瞑想を行いました。白滝山周辺の断崖は、行場であったと私は考えています。
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              白滝山山頂
 白滝山からさらに北に稜線を進むと火打山です。
火上山・火山・焼ケ山というのは、修験者たちが修行の区切りに大きな火を焚いて護摩供養を行った山です。石堂山からは東に流れる吉野川が瀬戸内海に注ぎ込む姿が見えます。火打山で焚いた護摩火は海を行く船にも見えたはずです。
 火打山につながる「風呂塔」も、修験者たちが名付けた山名だと思うのですが、それが何に由来するのかは私には分かりません。しかし、この山も修験者たちの活動する行場があったと思います。こうして見ると、このエリアは次のような修験者たちの霊地・霊山だったことがうかがえます。
「風呂塔 → 火上山(護摩場) → 白滝山(瀧行場) → 石堂山(本山) →矢筈山(奥の院)」から

ここを行場のテリトリーとしていたのは、多門寺(つるぎ町半田上喜来)が考えられます。
多門寺
多門寺(つるぎ町半田上喜来)
このお寺は今でも土々瀧にある奥の院で、定期的な護摩法要を行い、多くの信者を各地から集めています。広範囲の信者がいて、かつての信徒集団の広がりが垣間見えます。この寺が山伏寺として石堂神社の別当を務めたいたと推測しているのですが、史料はありません。また、最初に述べた地福寺からも、水の口峠や桟敷峠を越えれば、風呂塔に至ります。つまり、地福寺が見ノ越を中心に剣山を開山する以前は、地福寺も石堂山を霊山として、その周辺の行場での活動を行っていたというのが今の私の仮説です。

 最後に石堂山から東に伸びる標高1200mの稜線に鎮座する石堂神社を見ておきましょう。
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石堂神社

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東面して鎮座する石堂神社
この神社も神仏分離以前には、石堂大権現と呼ばれていたようです。そして夏には、山伏たちが柴灯護摩を修行していたのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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