最初に西光寺が姿を現す16世紀の宇多津の復元地形を見ておきましょう。
今の宇多津の旧市街は、江戸時代の塩田と昭和の埋め立てで、海は遙か北に退き陸封化されてしまいました。しかし、中世までは、青野山と聖通寺山に挟まれた大きな湾に、大束川が流れ込む自然の良港でした。上の地図の実線が海岸線になります。そして、西光寺の前は海でした。小舟であれば直接に、この寺の前の船着場にこぎ寄せることが出来ました。石山本願寺から「教線拡大」のための僧侶が海からやってきて、ここに道場を形成していきます。
宇多津の繁栄ぶりを、復元イラストで見ておきましょう。
宇多津は讃岐NO1の港町で、海運業に関わる人たちや職人・商人がたくさん住んでいました。彼らを本願寺からやってきた僧侶は信徒に組織していきます。ここでは、今まで見てきた内陸部の道場とは信者層が違っていたことを押さえておきます。
幕末の讃岐国名勝図会に描かれた宇多津です。海岸線は大束川の堆積物と埋め立てで沖に伸びています。髙松藩の米の集積地として藩の米蔵があります。江戸時代になっても海運拠点だったことが分かります。高松街道が大束川とぶつかる所に西光寺が立地しています。写真で見ておきましょう。
大門の前は今は大束川ですが、かつては海でした。そこにはいくつもの船着場があり、周辺には運輸関係(船頭・水夫・船持ちの問屋・金融業者などが集まり住んでいたことが発掘調査から分かっています。
縁起を見ておきましょう。開基は1550年、開基者は本願寺の僧侶です。16世紀になると本願寺は、石山に拠点を移し、瀬戸内海へ教線拡大を本格化させます。その流れが安芸や宇多津にもおよんできたようです。
その中で西光寺は、どのようにして姿を現すのでしょうか? 西光寺文書で一番古いものを見ておきましょう。
三好実休が亡くなった後に、讃岐方面の支配権を握ったのが篠原長房です。篠原長房は1567年に、この保護状を西光寺に与えています。しかし、ここには西光寺という名前は出てきません。「鍋屋下の道場」です。鍋屋というのは地名です。さきほど、この周辺は鋳物師原とか鍋屋といった鋳物に関わる地名が多かったと述べました。その職人や船乗りの住むエリアの港に面した場所に道場が開かれたようです。注意しておきたいのは、道場で正式な寺院ではなかったことです。しかし、保護状をもらえるのですから、それなりの勢力をもっていたのでしょう。 そして3年後の「元亀貳(1570)年正月」には、「西光寺道場」という寺院名を持つまでに成長しています。
この年に勃発するのが、石山本願寺と信長の間で戦われる石山戦争です。
当時の本願寺です。大阪の淀川沿いの石山にあったので、石山本願寺と呼ばれていました。現在の大阪城の黄色い部分が当時の本願寺エリアになります。ここに大阪御坊を開いたのは第8代門主・蓮如(れんにょ)で、 1496年(明応5年)のことでした。蓮如の死後、山科本願寺が兵乱(1532年)によって焼失したために、大阪御坊へ本山を移し、「石山本願寺」と呼ばれるようになります。
石山本願寺の周囲には「寺内町(じないちょう)」と呼ばれる数千軒規模の町があり、一大商業・宗教都市を形成するようになります。周囲に深い堀や強固な土塁を巡らせ、「難攻不落の要塞」へと変貌を遂げていきました。その周囲には多くの門徒達が集まります。これが寺内町です。そのような中で顕如は、1570年に信長との戦いを決意します。これが10年間の石山合戦始まりです。戦いを続けるためには、資金や食糧がや物資が必要になります。そのために全国に支援物資の調達が求められます。石山本願寺の顕如が阿波の僧侶や門徒に宛てた文書を見ておきましょう。
顕如が阿波の僧侶や門徒に宛てた文書です。信長との戦いに際して、本山への支援を求めたものです。もう少し激烈な開戦宣言が述べられているのかと思いましたが、簡単な内容で、具体的なことは担当僧侶に任せるので従うようにとあります。必要な事以外には何も書かれていません。
これを受けて、阿波の安楽寺も動き出し始めます。それは讃岐の末寺までおよびます。食糧や戦略物資の調達のために本山からオルグ部隊がやってきて、各道場や寺々を廻っていきます。この時に興正寺派のネットワークは、強化されたと私は考えています。丸亀平野の真宗末寺は、どのような支援活動を行ったのでしょうか?
宇多津の西光寺に残っている本願寺からの礼状を見ておきましょう。
本願寺から西光寺への支援物資輸送への礼状
これは本願寺からの礼状になります。
①送り主は、本願寺の管理グループの法橋頼兼で、送り先は西光寺の専念。
②内容は「青銅七百貨、法米五十解、大麦小麦捨百二斗」を、西光寺が支援物資として本願寺へ送ったことに対する礼状
青銅七百貨は銭70万枚です。これを西光寺が単独で集めたとは考えられません。丸亀平野全体の信徒から支援物資が西光寺に集められ船で送り出されたと私は考えています。つまり郡家の末寺にも、支援割当は課せられたはずです。西光寺は、支援物資の集積と積み出し拠点の役割を果たしていたことになります。江戸時代の絵図には、年貢の集積のための髙松藩の藩の米蔵が描かれています。阿野郡や那珂郡の米は、宇多津から運び出されていました。その先駆けとも云えます。
どちらにしても、石山戦争時代の非常時には、西光寺だけでなく、安芸門徒(広島)も物資や兵力を送っています。丸亀平野の興正寺派の信徒も、その流れ中に放り込まれたはずです。資金調達のために本山からオルグ部隊もやってきたはずです。それが興正寺派ヘットワークの強化にもつながります。ここでは瀬戸内海の海運活動を通じて、石山本願寺は瀬戸内海の港町にも道場を形成したこと。それが石山戦争の時には、本山の支援拠点として機能したことを押さえておきます。
丸亀平野への本願寺と興正寺の末寺の3つの教線ラインを次のようにまとめておきます。
A 南から阿讃山脈を越えての安楽寺ルート
B 三木から内陸部を西に進む常光寺ルート
C 大坂の石山本願寺を拠点とする海運ルート
真宗興正寺派が讃岐で教勢拡大できた背景には、次のような追い風があったからだと私は考えています。
①第1派は、最初に見たように阿波三好氏の讃岐支配と、そこでの布教活動を安楽寺に認めたことです。
②第2波は、石山戦争の長期化です。そのため本願寺は、資金や食料の調達に追われます。讃岐にも僧侶を派遣し信徒集団の組織化をはかります。この時には宇多津の西光寺が、讃岐の戦略物資の集約と搬出口になりました。また、この時に三好氏は、信長と敵対関係にあったので本願寺を支援して「信長包囲網」の一陣を担います。そのため本願寺が讃岐での戦略物資を調達することを認めています。これらの活動を通じて、丸亀平野の道場のネットワークは強化されていきます。石山戦争が浄土真宗の門徒拡大の第2にステップになります。
③第3波は、本願寺の東西分裂です。この結果、両寺は競って末寺獲得に乗り出します。その結果、讃岐でも多くの道場が寺号を得ることになります。この時期に寺号を得た真宗寺院が讃岐でも多いことは以前にお話ししました。
④第4派が1635年の江戸幕府の宗門改めと檀家制度の開始です。どこかのお寺の門徒になることが強制される時に、髙松藩の殿様としてやってきたのが松平頼重でした。彼は真宗興正派に肩入れします。髙松藩の政策的な保護を通じて、興正寺派のお寺は増えていきます。
松平頼重が興正寺派を保護した背景としては、次のように言われます。
水戸黄門のお兄さんに当たる松平頼重が初代髙松城主としてやって来るのが1640年のことです。彼は、幼少期には嫡男として認められずに京都の寺院に預けられて、そこで成長します。僧侶としての知識と世界観と人脈をもっていた人物でした。そのため上のような興正寺と姻戚関係を持っていました。以後も、髙松藩や家老などの家臣団と興正寺の間には幾重にも婚姻関係が結ばれて、緊密な関係を作り上げて行きます。戦国時代の三好氏に代わって、江戸時代になると髙松藩という後ろ盾を興正寺派は得たのです。
しかし、ここで注意しておきたいのは、安楽寺の存在価値は髙松藩では終えていました。阿波という国外にあるある安楽寺に讃岐の寺が貢納するというのは髙松藩にとっては面白くないことでした。それが18世紀後半以後の大量離末につながるのでしょう。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
追記 丸亀市郡家の願誓寺は、文安年中(1444~49)に蓮秀によって開かれた本願寺派の寺院とされます。
年紀をそのまま信じることはできませんが、秀吉の京都の大仏開眼式典には浄土真宗を代表する7つのお寺として呼ばれているので古くからあった拠点寺周辺部には、阿波の安楽寺や氷上村の常光寺など興正寺派の末寺が多い中で、買田池周辺の3つの寺院は西本願寺を本寺としてきました。周辺の真宗寺院とは、創建過程がことなることがうかがえます。宇多津の西光寺の流れを汲むのかも知れませんが、史料がなくてよく分かりません。髙松藩のリストには次のように記されています。













