瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:石鎚信仰


八坂寺一二社権現
八坂寺の鎮守だった熊野十二社権現
前回は八坂寺の歴史を大まかに見ました。その中で私が興味を持ったのは、八坂寺が熊野行者や石鎚先達として指導的な役割を務める修験者(山伏)たちの寺であったということです。今回は、「八坂寺=修験者の寺」という視点から見ていくことにします。テキストは「四国霊場詳細調査報告書 第47番札所八坂寺 愛媛県教育委員会2023年」です。
熊野神社が鎮守として祀られている伊予の霊場を挙げてみましょう。
42番仏木寺(熊野神社が鎮守)
43番明石寺(熊野十二所権現が鎮守)
44番大宝寺・45番岩屋寺(境内に熊野神社)
47番八坂寺(山号は熊野山、境内に熊野十二所権現)
48番西林寺(三所権現が鎮守)
50番繁多寺(熊野神社が鎮守)
51番石手寺(山号が熊野山、境内に鎌含時代の熊野社の建物)
52番大山寺・60番横峰寺、64番前神寺
多くの霊場札所に、熊野信仰の痕跡が残ることが分かります。ここから「四国辺路」の成立には、熊野信仰が大きく影響したと研究者は考えています。霊場札所が熊野行者によって、開かれたという説です。
熊野行者の中には真言密教系の僧侶もいて、弘法大師信仰を広める役割を地域で果たしたのではないかとも考えます。こうして熊野信仰の拠点寺院に、弘法大師信仰が接木され、四国辺路は形成されるという考えです。その典型として注目されるの八坂寺ということになります。
 近世始めに書かれた澄禅の『四国遍路日記』(承応2年(1653)には、八坂寺本堂に安置されていたという阿弥陀如来像に関わる由緒や、寺院自体の創建伝承・沿革などについては何も触れていません。記述の中心は、境内にあったの鎮守の熊野十二所権現で、次のように記されていました。
①八坂村の長者てあった妙見尼が勧請したこと
②鎮守は、熊野三山権現が並ぶ25間の長床であったこと、
③寺院の中心は鎮守(熊野三山)で、右手に小ぶりな本堂が並んでいたこと
ここからは地元の長者によって熊野神社がこの地に勧進されたこと、そして、神社の別当として熊野先達を行う修験者がいたこと。さらに長床があったとすれば、熊野行者達の信仰センターの役割も果たし、この地域の熊野信仰の中心地であったこと、などがうかがえます。つまり中世の八坂寺の信仰の中心は熊野権現社で、多くの熊野行者が活動し、その周りには廻国の高野聖や念仏聖なども「寄宿」していたことが推測できます。
 これを裏付けるのが熊野那智社の御師・潮崎陵威工文書所収の明応5年(1496)旦那売券です。
ここには近隣の「荏原六郷」が含まれています。ここからは、八坂寺周辺には熊野行者がいて、熊野信仰が波及していたことが分かります。さらに、『四国遍路日記』には、八坂寺の住持は、妻帯の山伏であったとも記されています。

  熊野先達の活動が衰退するのが戦国時代です。
16世紀になると応仁の乱に続く戦乱の拡大は、参詣者の減少をもたらします。さらに戦乱による交通路の麻痺によって、熊野先達の業務は廃業に追い込まれるようになったのが全国の史料から分かります。戦乱で熊野詣でどころでなくなったようです。「戦乱の拡大と交通路の不通などにより、檀那の熊野参詣は減少し、熊野先達業務は次第に低調化した」と研究者は考えているようです。さらに、檀那であった国人領主層の没落も加わります。
このような中で熊野先達たちは、活路をどこに求めたのでしょうか。
「熊野先達=熊野行者=修験者=山伏」たちは、熊野への先達業務から、新たな業務を「開発」して行かざる得なくなります。サービス提供相手を武士層から、村の有力者へ変えて、地元村落との結びつきを深め、彼らを檀那としてサービスを提供する道を探ります。その内容は有名な霊山への「代参」から始まって、加持祈祷など様々な分野に及びます。そして地元に受け入れられて、定着し里寺を起こす者も現れます。
 同時に彼らは、修験者としての霊力を保持するために行場での修行も欠かせません。周辺の霊山や霊場での「辺路修行」も引き続いて行われます。具体的には四国巡礼や石鎚参拝の先達業務です。つまり、中世に熊野先達を勤めていた八坂寺の修験者たちは、近世には四国辺路修行や石鎚参拝の先達を務めるようになったのです。
 石鎚参拝の先達を勤める八坂寺の住持たちの姿を史料で見ておきましょう。
「石鉄(石鎚)山先達所惣名帳」(延宝4年(1676)前神寺文書)には、浄瑠璃寺村の「大坊」の「快常法印」が石鉄山先達の一人として挙げられます。浄瑠璃寺の中興に、元禄年間に活躍した快賢がいます。「快」の字が共通するので「大坊」も浄瑠璃寺のことを指すと研究者は考えています。江戸後期までに石鉄山の先達としての地位は、浄瑠璃寺から八坂寺へと移行します。それが八坂寺所蔵の古文書・古記録で次のように確かめられます。

「石鉄山先達名寄井檀那村帳」(文化6年(1809)は、を見ておきましょう。
これは道後地域の石鉄山先達や檀那村の記録です。そこに八坂寺が先達として記されています。

八坂寺 「石鉄山先達名寄井檀那村帳」
八坂寺の石鉄(石鎚)山先達の檀那村一覧
そして八坂寺の檀那村として、次の村々が挙げられます。

窪野村、久谷村、浄瑠璃寺村、恵原町村、西野村、上野村、小村、南高井村、北高井村、東方村、河原分、
大洲領麻生分西高尾田

 ここに出てくる檀那村は、文化5年(1808)に八坂寺に奉納された『大般若経』(聖教1~10)の施主の居住地と重なります。

八坂寺 大般若経
八坂寺 大般若経
石鎚参拝を通じて養われた先達としての師檀関係は強く、『大般若経』の勧進などでも大きな働きをしています。また、石鉄山先達の同僚である不動院(伊予郡松前村)、円通寺(久米郡樋口村)、和気寺(温泉郡衣山村)などは、文化5年の鐘楼堂再建供養にも出仕ていることが木札から分かります。八坂寺は、石鉄山先達のネットワークに支えられていた「山伏寺」だったのです。

八坂寺 天明8年(1788)明細帳 山伏
        天明8年(1788)明細帳 山伏八坂寺とある
 近世の八坂寺は醍醐寺三宝院末の当山方真言修験宗に属していたことが史料からも確認できます。

八坂寺 醍醐寺末寺
「醍醐三宝院御門主末院真言修験宗 八坂寺」とある

醍醐寺三宝院は、空海の弟真雅の弟子理源大師(聖宝)の開祖とされ、真言系修験者の拠点寺院でした。そのため近世の八坂寺縁起の中には、理源大師を開祖とするものもあります。八坂寺住持は、修験者として吉野への峰入りも行い、石鎚先達としても活動していたことになります。

以上をまとめておくと
①中世の八坂寺は熊野神社を勧進し、伊予松山地域における熊野信仰センターとして機能した
②八坂寺の住持は修験者で、熊野先達として檀那達を熊野詣でに誘引した。
③戦国時代に戦乱で熊野信仰が衰えると、里寺として地域に根付く運営方法を模索した
④その一環として、四国辺路や石鎚参拝の先達として活動を始め、信者ネットワークを形成した。
⑤そのため信者は、地元に留まらず土佐や大洲まで傘下に入れるようになった。
⑥こうして近世の八坂寺は「熊野信仰 + 石鎚参拝 + 四国霊場」の信仰センターとして機能した。

三角寺も八坂寺とおなじような動きをしていたことは、以前にお話ししました。三角寺ももともとは熊野先達で、それが四国辺路への先達活動を行うようになります。そして、周辺に多くの修験者や廻国行者を抱え込んでいきます。そして彼らがお札を持って、信者ネットワークの村々を巡るようになります。そのためこれらの寺には、いろいろな札の版木が残っています。同時に、讃岐の与田寺で見たように工房的なものもあり、僧侶の職人がいろいろな信仰工芸品を作成していました。それが八坂寺にも残っているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

   
石鎚山お山開き

 霊峰石鎚山の山開きは、現在は七月一日から十日までの十日間です。
でも、もともとは旧暦の旧六月一日からの三日間だけでした。お参りする場合は、大和の大峯山や伯者の大山と同じように、六月一日から三日までの間に登らなければなりません。その間が山開きです。その三日問を除いては、山を閉ざしたのです。それが江戸末期になって旧暦五月二十五日より六月三日まで十日間開くようになりました。

石鎚弥山
どうして「お山開き」の期間が延長されたのでしょうか?
 ペリーがやって来た4年後の安政四年(1857)六月三日の『小松藩会所日記』の記録に、
石鉄(石鎚)祭礼出役(中略)
参詣大夥敷、先は廿ヶ年来参詣と相唱候由。
五月廿五日四千五十人、其前後千人或は千五百人位、朔日二百人計、大凡一万二千五十人もこれあり。廿三日前にも少し登候趣、横峯寺も別条なく珍敷参詣人の趣、委細承之。
とあり、参拝者が大幅に増えていることが分かります。幕末のこの時期は、伊勢参りや金毘羅詣でも参拝者が急増して、それが「おかげまいり」へ暴走していく時流につながります。
 今までにないこの参拝登山客の急増に対応して、西条藩でも藩士を派遣して取締りと保安に当たらせています。しかし、その混雑ぶりは、お山のオーバーユース問題を引き起こします。この対応のために、山開きの期間を三日から十日に大幅に広げたようです。幕末には今までないほどの多くの人が山開きには石鎚を目指すようになっていたのです。
今回は石鎚参拝者の出発から帰宅までの動きを追ってみようと思います。

1石鎚山登山衣装
なぜ人々は、石鎚山を目指したのでしょうか。
 石鎚参拝は個人や家族で、登山するレクレーションではありませんでした。石鎚講という組織に属して、そのメンバーを先達(修験者)が引率・指導して行く集団登山でした。メンバーの中には毎回参加する人もいれば、初めて参加する少年もいました。

山伏装束1
どうして少年が参加したのでしょうか?
 「この山に登ったら一人前」と云われる霊山が各地にあります。村には若者組があって村祭りや芸能、公共事業などに奉仕しました。彼等は力石、俵持ちなどをして日頃から体力を鍛え、技量の練磨に励みました。それは「一人前」と云われるためでした。
 伊予では、石鎚登拝と四国遍路の体験が男一人前のひとつの前提条件になっていたようです。「石鎚は一度は来ても二度は来な」と云われ、村里では一度は体験すべき「山」と目されていたのです。


石鎚登拝は、普通十五歳が初山だったようです。
 親が出生のときに
「無事に育ちますように、元気に育てばお山にお参りさせます」
と願掛けしておいて、十五歳がくると「願ほどき」に登らせるケースが多かったと云われます。頂上の「のぞき」と呼ばれる岩場から断崖絶壁の谷を覗かせたり、宙吊りして誓約を誓わせたりすることが、石鎚でもかつては行なわれていたようです。この冒険的体験が「一人前の男」になれたような誇らしさを、そだてる契機になったのかもしれません。これに対し、四国遍路の体験は「世間を知って、見聞を広める」という「自己拡大」の方に意義があったようです。
 大峯山には、山からもどると洞川あたりで女遊びをし、若い精気を発散させる精進落しがありました。しかし、石鎚の場合はその気配は資料的には見えません。でもなかったともいえません。例えば新居浜市大島では、若衆組に加入すればまず石鎚をやり、ついで讃岐の金毘羅参りをして「女郎買いをしてもどると一人前」と見るふうがあったと云いますから・。
石鎚登坂
さて、今なら石鎚に登るのに、持って行くものを準備し、ザックに入れておけば前日の夜にビールを飲んでいても大丈夫です。しかし、霊山への参拝登山はそうはいきません。
まず、登拝者は7日前から「精進潔斎」をしなければなりません。
これは海、川などで沐浴して垢離(コリ=穢れ)をとり、魚肉を断ち、殺生を慎しみます。蚤や蚊も殺さないように気をつけたようです。海から遠い地域でも、出発前日は潮垢離(コリ)を行う所が多かったようです。この時には参加する人たちが連れ添って行き、帰りには海藻を持ち帰ったり、登拝の宴銭を清めてもどったりします。
石鎚の最古の文献『日本霊異記』は、
  「その山高く峙ちて、凡夫は登り到ることを得ず、ただ浄行の人のみ登りて居住す」
と記されています。「浄行の人」だけが登拝できる険阻高峻の霊峯なのです。不浄者は山の天狗に放られると信じられていました。
石鎚講2
 各地の石鎚登拝者の精進ぶりを見てみましょう。
八幡浜市川上地区では、氏神の社殿に寵って別火生活をしながら七日間の垢離をとりました。出発は夜半で、途中は婦女子に会わぬよう心掛けた。登拝中は家族も精進潔斎して家業の漁業も休業し、虫一匹も殺さず、もし万一組内や親類に不幸があってもお山参りがもどるまでは弔問もしなかったと云います。
 越智郡波方町小部地区の漁村地帯は、昔から石鎚信仰の篤い地域でした。
十五歳で初山を踏む少年は、二十一日間の精進生活を行ったと云います。座敷口の土間に白砂を敷き、門注連を立てて座敷に寵り、ここに竃を構えて別火し、かつ食事毎に一日三回の潮垢離をとります。

山伏信仰2
 温泉郡中島町では、満潮時の潮で清めた藁で注連縄をない、これを先達の家に張ったり、ある家に張ってそこにお龍りします。登拝中は家族の者が潮汲みをし、頂上に到着した頃を見計らって行をします。登拝者の家に門注連を張ることは各地に共通しているようです。今治付近には、登拝中の頃合いを見て、この注連竹を少し抜きかけにしたといいます。これをアシヤスメ(足休め)と云い、参拝中の当人の足が軽くなるというのです。
 頭髪をすくことも遠慮したようです。髪をすくと登拝者の弁当にそれが入っていたり、頭が疼くなったりするというのです。

石鎚大権現2
  また登拝中の豆いりはタブーになっていたようです。足に豆ができるというのが理由です。まるで洒落のようで、ここまでくると微笑ましくなります。
 出発前からの本人の精進も大変ですが、家にいる家族もそれを支えるためのタブーがいくつもあって大変です。別の見方をすると、個人でお山に登っているのではない、家族と一緒に登っているという強い連帯性が要求されていたようです。これらのタブーのひとつひとつを、初めて登る少年達は先達や先輩の講員から学んでいったのでしょう。厳しい緊張感が伴う参拝だったことが、私にも少しずつ分かってきました。これは、レクレーションでありません。
  さて石鎚講の参拝者が先ず目指したのは、先達の属する石鎚信仰の拠点寺院でした。
江戸時代には伊予側からは、前神寺と横峰寺がその拠点となっていました。

前神寺1
少し横道にそれて、前神寺について見ておきます。
  現在、四国霊場六十四番の石鉄山前神寺は真言宗石鉄派として独立寺院になっています。この寺は神仏分離前までは、石鎚山の別当寺として石鎚信仰の中心的役割を担ってきました。
石鎚山お山開き7
上社は弥山、つまり石鎚の頂上にあります。
現在は露坐の石上大神三体が立っています。昔は銅の祠の中に三体の蔵王権現がまつられていたという記録があります。それが石土大神の本地仏だったようです  

1成就社から石鎚山
  中社(奧前神寺)があったのが「常住」です。
今は成就と改名されています。中社は石鎚山山頂にいちばん近いところにあったので「前神」と称するようになります。同時に、これが石鎚山別当職を確保する要因になります。前神寺は、もともとはここに成立したお寺ですが、後に里に下社を作り庫裡を移し、そちらを里前神寺と呼ぶようになります。

前神寺1
  下社(里前神寺)は、現在の石鎚神社本社の場所にありました。
ところが明治時代の神仏分離で、頂上に祀る蔵王権現が仏体であると否定され、明治8年(1875)に一辺の通達で廃寺とされます。そして、里前神寺の権現神殿が神社となったのが石鎚神社(下社)です。神仏分離・廃仏毀釈の嵐は「前神寺がスクラップ、石鎚神社がビルトアップ」という現象を、石鎚信仰の上にもたらしたことになります。
 前神寺は、その後の檀家による復興運動が功を奏して、末寺の医王院があった現在地に前寺の名称で再建が認められます。そして各地の先達達の支援・協力もあって、長い時間をかけて復興し再び石鎚山修験道の中心地となり、南北に長い境内地の中に多くの伽藍が建ち並ぶようになりました。伽藍は明治以後の建物と空間配置なので近代的な感じを受けます。それも、このお寺のたどった歴史の所以なのでしょう。

石鎚山お山開き3
   ちなみに里前神寺は、江戸時代も納経所でした。
 前神寺に遍路の札を打つと、石鎚山に登ったことになります。『四国偏礼霊場記』には、ここにお参りした場合は、上(成就)まで登らなければいけない
と書いています。蔵王権現が前神寺の本尊なので、成就社まで行かないと参拝したことにはならない。前神寺は「庫裡」であった、本堂ではないという考え方があったようです。
 これが当時の霊場の実際の姿でした。江戸時代に入ってから、山岳信仰のお寺は本堂を建てて寺の体裁を整え、行場や山頂から庫裡は里に下りていきます。しかし、もともとはお山の上の権現が霊場です。そのほかのものは納経を受けたり、宿坊となって霊場が成り立っていたのです。だから奥の院に参らなければ意味がないと考えられていたようです。そのため四国巡礼のお遍路さんも成就までは登る人が多かったようです。

蔵王権現
石鎚山頂に祀られていた蔵王権現  

さて、ふもとのお寺までやって来たところで今回は終了、お山への道はまた次回に・・
石鎚信仰3

参考文献 森 正史  石鎚信仰と民俗  大山・石鎚と西国修験道 所収
                                       
 

 


 
石鎚山と石土山(瓶が森)
前回は笹ヶ峰・瓶が森・石鎚の3つの霊山が開山され、それぞれのお山に権現が勧進され、それを里の別当寺が管理し、山岳信仰がそれぞれのエリアで展開される鼎立状態にあったことをお話ししました。しかし、中世から近世にいたる中で、他を圧倒するようになったのが石鎚だったのです。今回は、近世の石鎚信仰を見ていきたいと思います。
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 中世の石鎚山 役小角伝説が広がり
中世期になると、吉野や熊野では役小角伝説が広がり、彼を開祖にした修験集団が発展していくようになります。それに少し遅れて、地方の修験霊場も役小角やその門弟を祖とする「修行伝説」を生み出していくようになります。この結果、どこの修験者も開祖は役小角となってしまいます。
 鎌倉時代の「金峰山創草記」には、
役小角が仏法流布の地を求めて三本の蓮花を東に向って投じたところ、一本は伊与国石辻に、一本は大和国弥勒長に、残る一本は伯者国三徳山に落ちたとの「三徳山縁起」の伝承がのせられています。
こうして「伊与国」の石鎚山も、中央の修験集団の間では「役小角有縁の地」として受けとめられるようになります。また、石鎚山側もこれに応えるかのように、室町時代以降になると役小角が弟子の石仙などの案内で石鎚山を開いたとの伝承を広げるようになります。
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 中世の石鎚山に関しては、いくつかの遺物が知られています。
年代順にこれらをあげて見ると、
興国五年(1344)の銘のある前神寺梵鐘
建徳二年(1371)の銘文がある横峯寺鰐口
元中三年(1386)沙門亮賢が勧進して作製した「大般若経経函」
応永十四年(1407)福島真守が奉納した「石鉄山」の神額
今に残るのは「大般若経経函」(讃岐・水主神社所蔵)だけですが、十四世紀末には石鎚周辺では、修験者が活発な山岳信仰活動を行っていたことがうかがえます。
  室町時代末の文明九年(一四七七)の年号が入った石鎚山の弥山山上の御宝殿の扉の銘書には次のように記されています。
扉右側に願文として
啓白帰命頂礼蔵王権現、奉造立赤銅金繰之御宝倉 右依造立功徳 
金輪聖皇御願円満 国郡泰平庄内安穏真俗繁昌 
諸人快楽一切善願悉皆成就殊奉念願処如此、
于時文明九年丁酉三月十二日
大願主として、別当権少僧都良真 俗姓当国朝倉住人長井弾正忠之息男・大工・小工六の名称が記され、左側には「奉 遷宮導師吉祥寺住侶権少僧都円意」の他大檀那の源勝久・越智通直・同通春・同通生・同重秀・同通重・藤原久永・奉職 吉辰若・勧進聖の澄順・秀範・義通・宥円・円良・法印の慶通・広勢・基因の名が記されています。
 ここからは、別当の前神寺・良真の発願で、勧進聖や法印の努力と、領主の源(細川)勝久や越智(河野)通朧ら越智氏の一族などの保護のもとに宝殿を完成させたことが分かります。そして前神寺と近い関係にあった吉祥寺住職の手で遷宮の法要がいとなまれています。
  この頃に前神寺別当良真が、金剛蔵王権現を本尊とし、石仙を開祖にいただく、石鎚山の信仰を地元の有力者の保護を受けながら、協力関係にある寺院の手を借りて展開していたことがうかがえます。
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石鎚山は河野家の外護と別当前神寺の努力で繁栄していたようです。
 その後、前神寺は戦国末期の混乱をうまく乗り切り、寺領を維持していきます。そして、天正15年(1587)に新領主として入国してきた福島正則の信心を得る事に成功します。正則は深く石鎚権現を信仰し、前神寺に宿坊を建てて参拝したと伝えられます。さらに、慶長14年(1609)豊臣秀頼は、正則を普請奉行として常住に神殿を建立するのです。こうして、前神寺はどんでん返しが多発した戦国末期において「危機管理」に成功し、寺勢を伸ばすことになります。
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 近世の石鎚山
 江戸時代に入ると石鎚信仰は、西条藩の保護と別当前神寺の展開する積極的な布教が功を奏して広く庶民に広がって行くようになります。
 例えば西条藩の保護政策を挙げると
①明暦三年(1657) 藩主一柳直興による里前神寺の堂宇建立
②寛文十年(1670) 紀州藩徳川出身の松平頼純による石鎚山社への寄進状
③元禄八年(1695) 石鉄山別当前神寺に殺生禁断の制札
④吉宗以降の将軍家の祈願を石鉄山社と伊曾乃神社が行う決定
こうして権力者からの保護と寄進を受けて、寺社(ハードウエア)の整備が進みます。
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しかし、参拝者を増やすためには、ソフトウエアが必要でした。
当時の石鎚参拝は今と違って、個人でお参りするものではありません。中世の熊野詣でと同じで、先達が地域の信者達を伴って集団でやってくるというスタイルです。そのため先達達を増やす事が、参拝客増加の重要なポイントでした。石鎚信仰PRと石鎚講普及のために前神寺は、独自の「先達制度」を調えていきます。
 
前神寺に『先達所惣名帳 金色院』という記録が残されています。
延宝四年(1676)辰五月廿九日のものです。ここには、道前道後の寺院、堂庵六四ケ寺院、村名、先達名が記されています。前神寺は、ここに記録された先達所を拠点にして。地域の講組織を作り上げていったようです。これを「先達所分布図」にしてみるといろいろなことが見えてきます。

石鎚山先達分布図
明和六年の「先達惣名帳」に載っている各地の先達分布図からは次のようなことが分かります。
①この時点では、先達はほぼ伊予の国に限られています。
②道後が43、道前が22と道後の方が多くなっています。これは石鎚講が地元の西条よりも道後平野を拠点にして組織されたことを示しているようです。
③高縄半島に分布が少ないようです。これは、熊野行者の存在があって、彼らは石鎚には参拝しません。
④この先達所の分布は、後の安永九年の鎖奉納の先達や講中と一致する所が多いようです。これらの講から先達達が信者を連れて参拝にやって来るとともに、いろいろなものを寄進し、登山道なども整備されていったのでしょう。
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こうして石鎚山が世間に知られるようになると、延宝五年(1677)には、木喰が石鎚山に登って「夢想記」を書いて紹介したり、正徳三年(一七一三)に刊行された寺島良安の『和漢三才図会』にも石鎚山や里前神寺、横峯寺が紹介されるようになり、伊予以外からの参拝者達も増えてくるようになり、石鎚信仰はレベルアップしていきます。
石鎚修行の目玉でもある「大鎖」が講によって設置されるのも、この頃のようです。
安永八年(1779)弥山の大鎖が切れると翌年に、作りかえた時の記録が残っています。これによると、前神寺が勧進帳を出し、尾道で鎖を作り、4月に西条本陣にはこび、5月前神寺で銘をきざみ、5月5日に極楽寺、6月奥前神寺と運ばれ、開山にあわせて7月に山上にかけています。
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その銘文には、次のように刻まれています。
「奉再興石鉄山 大悲蔵王権現 御鎖大小二筋 
施主 予州松山城下弁道後七郡及諸国当山信心講中、
安永九年庚子二月吉日 石鉄山別当前神寺住持仁岳記」とあり、
奉納者の名前が続きます。
勧化頭取の予州松山三津浜俗先達の木地屋市左衛門・同和田屋信八郎、
御鎖用掛の予州松山城下大唐人町、河野平治右衛門、越智義篤、
世話人の唐人町講中、大先達の和気寺・得誉廓山居士の名前があげられ、
予州の松山城下・同三津浜、温泉・伊予・和気・久米・浮穴・風早・越智の各郡、予州久万山・芸州広島領、備後の尾道・福山・松永及び諸国の講中、
御鎖をあげる人夫の費用を寄付した予州新居郡O講中、
治工の尾道鍛冶町の佐渡屋七良兵衛の名が見えます。
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気になる事を挙げると
①山名は石鉄山で、祀られているのは大悲蔵王権現です。石鎚という文字はありません。「石鎚」が使われるのは神仏分離以後です。
②勧進頭取は地元の西条藩ではなく松山の三津浜の先達二人です。
③鎖を作った治工は尾道鍛冶町の職人です。それが舟で西条に運ばれています
④この時期になると伊予以外の芸州広島領、備後の尾道・福山・松永にからの講が拡大しています。
 ちなみに、鎖の掛かえに功労があった木地屋市左衛門は、その年に一番活躍した先達として「先達絵符」が与えられました。これが現在の先達絵符制度のはじまりと云われます。こうして、先達達の活動に報いると共に、先達のランキング制を調え競争心も刺激していくシステムに「改善」していきます。これは先達のやる気を育て、数を増やすことにもつながります。18世紀末には土佐、宇和、備前にも石鎚登拝の講が作られていきます。信者や講のエリアを広げているのは、その成果なのでしょう。
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   石鎚常夜灯について
讃岐の金毘羅大権現につながる旧金毘羅街道(伊予街道)を歩いていると「金・石」の文字が刻まれた常夜燈によく出会います。
「金」は金毘羅大権現、「石」は石鉄山の略記のようです。
石鎚講は、集めた資金で石鎚参拝だけでなく自分の住んでいる所に、石鎚山遥拝所や、常夜灯を建てるようになります。○石=「石鉄(鎚)山」と○金=金毘羅大権現を刻んだ常夜灯が金毘羅街道沿い増えていくのは18世紀末からです。今風に言うと石鎚参拝という「集団登山」の中で養われた信仰心や一体感、帰属意識を「地域貢献」のために活用していると言えるのかも知れません。石鎚講は、地域では積極的に社会ボランテイア活動も行っていたようです。
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 それでは石鎚講の地域での日常活動は?
毎月、集まり「月並祭」を行う講が多かったようです。その日は、宿元に集まり、オツトメ(勤行)して、会食します。
 松山市東野の石鎚講では、
昭和初年まで十戸位で講をつくり、正・五・九月に各自が米、野菜、食器を持ち寄って宿元で会食していたそうです。その日は必ず入浴して集まることが決まりだったといいます。宿元の床の間に、不動権現の軸物を掛け、供物を供え、大数珠繰りをします。先達が「六根清浄」と言えば、講員が「ナンマイダンボ」と唱和します。始めは左廻しに数珠を繰り(これは石鎚に登る意という)、終わると反対に右廻しに繰(下山の意)ります。数珠廻しが終わるとこの数珠で先達が加持祈祷します。次いで会食し、解散する。これが松山地方における石鎚講勤行の一般的パターンだったようです。
 温泉郡重信町では、講員が常夜燈の場所に集まり、
石鎚山を遙拝の後で、組中を巡回してから当元で勤行していたといいます。そして各戸から米を集めて廻り、それで会食します。この会食を常夜燈の所で行いオツヤをする所もあったようです。
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 伊予郡松前町中川原では12月に代参者と宿元を決めます。
宿元は神床に注連縄を張り、海藻をつけます。石鎚不動明王の軸物を掲げ、供物をします。その日講員は入浴し、潔斎してから宿元に集合します。宿元の家の入口では、口を漱いでから家に入ります。まず会食があって、終わってから再び外に出て口を漱ぎ、改めて次の勤行を先達に従って行います。①懺悔文 ②礼文 ③登り念仏 ④詠歌 ⑤不動寄せ ⑥般若心経 ⑦不動真言 を唱える。この間、法螺貝が吹き鳴らされたようです。
 広島県竹原市福本講中は石鎚講の古いスタイルを伝えるといいます。
 福本講中では、大祭中の石鎚登拝に先立ち、講員は講元宅に参集して「幟起し」の行事を行います。幟は一本で講元宅の庭に立てます。終わって直会があります。講中で石鎚登拝をするのを「マイリ講」といい、毎月の月並祭は「コウマワシ」と呼ぶようです。
 出発にあたっては精進料理で直会をします。この直会の席で、船のコースや潮流について講元・先達・元老格の三者で協議してコースの決定と舵取りを行う者を決めます。また出立に先立ち、講元宅で力餅をまきます。祭壇に蔵王権現、弘法大師、不動明王の三幅の掛軸をかけ、その前に供物や奉納品を供えます。この祭壇前で講員一同でハナガタメ(直会)をします。それは(石)印付きの箱膳にご馳走を並べた大盤振舞の直会だったようです。
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  このように石鎚講は「参拝登山」の一時的なものでなく、地元の講組織に属することで日常的な社会的・宗教活動も伴っていたことがわかります。
現在の四国霊場巡礼団のように知らない人たちが集まって一時的に形成されるものではなかったのです。また先達は「ツアーコンダクター」ではないということです。これは、中世の熊野詣の「檀那と先達」の関係に近い要素を残しています。「お客(参拝者)にサービスを提供する」というものではありません。どちらかというと「先達=導者」的で、師弟関係的な要素が多分にあったようです。
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 以上のように、前神寺は「先達所」を決定し、また村落の指導者層を俗先達に任命してそれに「講頭補任状」や「院号、袈裟補任状」を発行してきました。それは石鎚講の組織化を図るためでした。このソフトウエアがうまく機能したために、前神寺は石鎚講というソフトウエアを組織することによって他藩にまで布教拡大策が行えたようです。
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参考文献  森 正史 石鎚信仰と民俗 大山・石鎚と西国修験道
  

 

                                     

   
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 瓶が森は、今では全面舗装されUFOロードを走れば、お手軽に行ける山になりました。
かつて、重いキスリングザックを背負い面河から石鎚に登り、土小屋から山肌を切り崩した林道に毒づきながら、ここまでたどり着いた時の印象は忘れられません。山頂の西側に広がる氷見(ひみ)二千石原は、天上の楽園のように思えました。緩やかなササ原が広がり、アクセント付けるように、ウラジロモミの林、白骨樹が点在し、かなたには石鎚の姿がドーンと見えます。笹野原の中に幕営し、石鎚に落ちる夕日をながめた記憶は忘れがたいものでした。
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瓶が森からの石鎚

 この時に、子持ち権現の鎖場にも登ったのですが、その時には「石鎚の修験者の行場テリトリーの一部」としか考えていませんでした。しかし、その後に段々分かってきた事は、
石鎚山系には古くは、次の3つの霊場エリアが並立していたということです。
①石鎚山
②瓶が森 + 子持ち権現
③笹ヶ峰
 
今回は霊峰 瓶が森について見ていきたいと思います。
 瓶が森は石鎚山、二ノ森に次ぐ愛媛県内第3位の高峰です。この山は、山頂よりもその下の笹の海の方に目が奪われがちですが、よく見ると山頂は南北の双耳峰です。北側が三角点のある女山、南側が石土蔵王権現を祭る男山です。権現を祀るので霊峰であるが分かります。昭和初期頃までは「石土山」とも呼ばれていたようです。
石鎚山と石土山(瓶が森)

この山は、古くは石鎚山と互いに競いあっていたようです
 山麓の西の川の人々は石鎚山を権現さまとよび、瓶が森と子持権現の山を一緒にして子持ち権現さまとよんでいました。子持権現は瓶が森の西方に岩稜の峰で、切り立った岩壁で、鎖がなくては登れません。ここも大事な行場です。西の川の人の中には、瓶が森と子持権現を一つにして石土山とよんでいる人もいました。
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瓶が森から見た子持ち権現
 麓から見れば石鎚山と瓶・子持は、どちらも力高くて神秘にとざされた山で、両方ともに信仰していたようです。そういう山が並び立つ場合には、山争いの伝承が生まれてくるのが全国的な傾向のようです。ちなみに、早くから開けたのは地元に近い瓶が森のようです。地元では、その頂上には寺の趾があると言ったり、石鎚山は瓶が森が西へ飛んでいって今の山ができたなどという伝承があるようです。

1石鎚古道 瓶が森・子持ち権現
そしてこれには、次のような役行者の伝説がくっついています。
役行者は石鎚山を探しに行ったが、なかなか見つけることができない。途中に一人の老人がハツリをといでいるのに出会った。ハツリとは斧のことである。役行者が老人に一体何をしているのかと聞くと、老人はこのハツリをといで針にするのだという。ずいぶん気の長い話だと思ったが、やはり何事も辛抱が大事なのだと役行者は再び探しに出かけた。
 そこでオトウ(中腹の一地名)の奥の岩穴で修行をしていると、大きい石が割れた。それから二町ほど登ったら穴の薬師があって、その中で石鎚山は大蛇になってこもっていた。そこで、役行者がそこでは参詣者が行きにくいと言えば、石鎚山は飛んでいって今のところに納まったのだという。
 ここからは、
①瓶げが森が地元の人たちにとっては信仰の山であったこと
②しかし、結果として瓶が森が石鎚山に「吸収併合」されたこと
③「吸収併合」や移動させたのは外来の修験者(山伏達)だったこと
が分かります。
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 瓶が森から望む石鎚
別の伝説(西条誌)には、
石鎚権現はもと瓶ヶ森(笹ヶ峰ともいう)に祀られていた。それを西之川の庄屋高須賀氏の先祖が、今の石鎚山に背負って遷した。それで石鎚山祭礼のときは、庄屋は裃をつけ、帯刀して人の背に負われて上席に着く慣例になった。

というもので、これも「瓶が森 → 石鎚」移動説をとります。どちらにしても、今でも地元の西の川や東の川の人達は、両方とも信仰しているようです。
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瓶が森

 さて、中世に霊山が開かれるという事(=開山)は、権現が勧進されるということでした。その勧進の主役は修験者達でした。その結果、権現を管理することになるのは里の別当寺でした。

別当寺を設立の古い順に並べて見ると次のようになります
1 正法寺(新居浜市) 常仙(上仙)  笹ヶ峰
2 天海寺                              瓶が森(石土山) 
3  前神寺と横峯寺         石仙               石鎚 
 ちなみに、正法寺は古代の瓦が出土する古代寺院です。この寺は秦氏の氏寺で、その一族の上仙(常仙)によって開かれたとされます。また、上仙は、修験者で寂仙法師とも呼ばれ、石鎚、笹ヶ嶺、瓶ヶ森等の霊山を開山したとも伝えられています。しかし、歴史的にこのお寺が主張してきたのは、笹ヶ峯の「石鎚権現」の別当なのです。
2石鎚山と石土山(瓶が森)
   それでは瓶が森を行場とし、その権現を祀っていたお寺はどこなのでしょうか?
 瓶が森の「石土(蔵王)権現」の別当を主張したのは山麓にあった天海(河)寺でした。天海寺は瓶ヶ森中腹の「常住」には坂中寺があり、山頂のそばには弥山がもうけられていたといいます。
 今の石鎚は、神仏分離後はロープウエイ終点の「常住」は「成就」となりました。しかし、瓶が森では、神仏分離以後も「常住」と書かれていました。ここは瓶・子持権現を遥拝するにふさわしいロケーションです。石鎚山中腹の成就社と同じように、人がここまで参拝に来ると、神が下りてくる信仰があったのでしょう。かつては、ほんの小屋掛け程度のものがありましたが今は廃墟となっています。瓶が森・子持権現の信仰者が、神のまぼろしを見るのにふさわしい場所だったのでしょう。このように、天海寺は西の川から瓶が森・子持ち権現エリアを行場とする霊域をもっていたのです。
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瓶が森 
そこに中世になって新しい勢力が未開発地に入ってきます。それが前神寺です。
 その行場テリトリーは法安寺から横峯寺、常住の奥前神寺、山頂・天柱石(お塔岩)などを霊地を含みます。なお横峯寺は、かつては天海寺の末寺であったともいわれます。東西に向いあうように対をなしていたこの両寺には。いずれも杉の大木があったと伝わります。
前神寺には、永祚二年(990)の紀年銘のある阿弥陀仏、横峯寺には平安時代末といわれる大日如来や金剛蔵王権現がありますから、平安時代末には、2つのお寺は成立していた事が分かります。そして、このふたつを中心とする石鎚と、天海寺を別当とする瓶が森の東西の霊域が競合していく事になるのです。
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 それが「石鎚山は瓶ヶ森より、扇子の要だけ高い」とか、西条市の伊曽乃神社祭神との神婚説話の「石鎚神の投げ石」の伝説として残っているのでしょう。この話は、その後の石鎚山の信仰上の優位性を、しめす意図から作られた伝承といえます。言い換えれば、瓶が森から石鎚山に信仰が集約されて行く過程で作り出されたものなのでしょう。
  「笹ヶ峰・瓶が森・石鎚の三山は、鼎立して殆ど同時に開け、同様に信仰の標的となったものであるが、中世末期か江戸初期に笹ヶ峰が衰微し、次に瓶ヶ森が衰微したものと思われる。」
と研究者はいいます。
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  そして近世になると石鎚にひときわ強い光が当てられるようになり、四国の霊山としての輝きをますようになるのです。
絵図は「旅する石鎚信仰者https://ameblo.jp/akaikurepasu/entry-12225893233.htmlからお借りしたものを使わせていただいています。

 

    前神寺-もともと常住(成就)にあった寺で奥社は石鎚山

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 現在、六十四番の石鉄山前神寺は真言宗石鉄派として一派をなし、独立寺院になっています。しかし、明治以前の神仏分離前までは石鎚信仰の中核的なお寺でした。
 お寺も、現在のロープウエイを下りた成就に中社があり「常住」と呼ばれていました。そこに常住僧がいたのです。
 神仏分離で、石土という名前は仏教的な要素が入っていると言うことで石鎚神社と呼ばれるようになりました。仏教から分離しようとしたからです。
 その後に石鎚神社は、前神神社の中社の上に新たな神社を作りました。それが現在の成就社です。ちなみに、前神寺は西条の里に下りて、現在地に新たな境内を整備しました。

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御詠歌は
「前は神後ろはほとけ極楽の よろづのつみを砕くいしづち」です。
「いしづち」の「つ」は「の」、「も」は霊ですから、石の霊です。石鎚山はほとんど木の生えない岩峰です。 歴史をさかのぼって、もとは何であったかということを究めてから論じるとすれば、奈良時代の『日本霊異記』は「槌」という字を使って、「石槌神」がこの山にいると書いています。
 また『日本霊異記』では、寂仙菩薩が石鎚山を開いて修行したとされています。
 寂仙菩薩は聖武天皇のころの人だと書かれているので、弘法大師から見れば五十年ぐらい先輩に当たります。そういうものを追って、弘法大師は辺路の修行をしました。
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 石鎚山は西日本随一の名山ですから、特別の修験道が発達しました。
上社は弥山、つまり石鎚の頂上にあります。
現在は露坐の石上大神三体が立っています。
昔は銅の祠の中に三体の蔵王権現がまつられていたという記録があります。
それが石土大神の本地仏だったわけです。  

中社のある「常住」は、今は成就へ

 中社は、先ほど述べたようにロープウエイの成就駅の標高1450㍍のところにあります。石鎚頂上から約500㍍ほど下ると、あとはずっと平地が続いて、常住からまた急に下がりますから、いちばん北の端にあるのが常住です。
江戸時代から成就という字が書かれていますが、もともとは常住です。
 石鎚山の山頂は、冬は雪に閉じ込められて住めませんから、常住に留守居の坊さんがいて、お経を読んだり、花を上げたりして、山頂の神様をおまつりしていました。こういう坊さんを常住僧あるいは山龍僧と呼びまして、その場所がすなわち常住です。山岳寺院の成立の事例を見ると、中腹の中社がいちばん先にできています。

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 下社は現在の里前神寺の権現神殿といわれるものです。

神仏分離以後、成就の前神寺の境内にあった権現神殿が石鎚神社になって、戦後、その上のところを整地して現在の石鎚神社ができました。
那智神社と青岸渡寺が後ろ表になっているのと同じように、もとは神社と寺院は全く相接していたわけです。  
前神寺は石鎚権現社の別当職を勤めました。
明和六年(一七六九)の『石鎚山先達惣名帳』 に六十二の先達を支配した連名があるので、江戸時代の中ごろには前神寺が石鎚修験の先達を支配していたことがわかります。そのころは里前神寺が霊場になっていますが、本来、前神寺は石鎚修験の中心的な神社でした。
 同時に、里前神寺は納経所であって、前神寺に遍路の札を打つと、石鎚山に登ったことになります。『四国偏礼霊場記』も、ここにお参りした場合は上まで登らなげればいけないと書いています。

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お参りする場合は、大和の大峯山や伯者の大山と同じように、六月一日から三日までの間に登らなければなりません。その間が山開きです。その三日問を除いては、山を閉ざしたのでした。
 現在は七月一日から十日間のみ山開き、それ以外は山を閉ざしています。石鎚山に登るときぱ、夜中に松明をともして、峰の間を「ナムマイダソボ」という掛け声をかけて登りました。それより上は無言で登ります。

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 三十六の行場は、最近ではほとんどなくなってしまいました。
石鎚神社で調査したものが『石鎚山旧跡三十六王子社』に出ているので、かなり厳しい行をしながら登ったことがわかります。『四国偏礼霊場記』は、これをしないと本当は前神寺の札を打つたということにはならないと書いています。   

奥の院にこそ四国遍路の意味があります。

それを江戸の時代の中ごろから忘れてしまいました。
王子、王子でなんらかの修行をしながら、山頂から海を拝してくるのが本来の修行であり、遍路の原形でした。石鎚山の山麓には、石鎚信仰に関係のある寺がたくさんありました。ことに西条市北川(喜多川)の法安寺と大生院の正法寺は、灼然または上仙(常仙)を開基とする古代寺院です。そのほか、大保木の天河寺、樫原の極楽寺、古坊の横峰寺がありました。天河寺は現在はありません。極楽寺は石鎚山口にあります。

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 石鎚山別当職を確保したのは、常住にあった前神寺でした。

これは石鎚山山頂にいちばん近いところにあったので、前神と称したからです。したがって、奥前神寺が里に下って里前神寺になると、ほかの寺も別当を名のるようになりました。それで江戸時代には訴訟などもあったようです。
 
  『四国偏礼霊場記』を見ると、権現さんが前神寺の本尊です。
ここでいう寺は庫裡のことで、本堂ではありません。それが霊場の実際の姿だとおもいます。江戸時代に入ってから、それぞれ本堂を建てて寺の体裁を整えますが、もともとは権現が霊場です。そのほかのものは納経を受けたり、宿坊となって霊場が成り立っていました。したがって、奥の院に参らなければ意味がないわけです。

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   最後に三十六王子の話をいたします。

①福王子は、現在はわかりまぜん。
②檜王子は、現在でも檜という地名が残っているので、そこにあったことがわかります。
③大保木王子は、扇王子だったかもしれません。現在も地名が残っています。
川の上の断崖から下をのぞく「覗き」の行がありました。
魔除げとして扇を上げる行は、どこの山にもあります。
④綾掛王子。⑤細野王子は、逼割禅定かありました。
⑥子安場王子には、覗きの行と元結掛かありました。
大峯の石休場は、石の上に腰をおろして休むことができるところですから、小休場ではないかとおもいます。元結掛というのは、山に登るときに元結の注連を首にかけて参って、下りに木に掛けることです。

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⑦黒川王子⑧今宮王子。黒川という集落も今宮という集落も山先達の村で、黒川と今宮が主導権を争った時代があります。もとぱここに山案内人がいたわけです。
黒川王子も今宮王子も覗きの行と垢離行がありました。このように、王子ごとに行をします。 登山道にかかると、非常に急坂になります。
⑨四手坂王子は女人禁制の権現堂があります。
四千坂というので、幣を立てたのだとかもいます。少豆禅定王子には小豆の数取りによって念仏を唱える行があったのだろうとおもいます。禅定は苦行のことです。
⑩今王子はわかりません。
⑩雨乞王子。⑩花取王子は常磐木を取って神に捧げる行があったところです。花とは常磐木をいうのです。⑩矢倉王子の修行形態はわかりません。

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 成就に近いところに行くと、

⑩山伏王子と女人結界の⑥女人返王子があります。
⑩杖立王子は、もっていった金剛杖を立てて帰るところです。
成就には⑩鳥居坂王子と⑩稚子宮鈴之巫女王子があります。ここは巫女がいたのだとおもいます。西之川集落のもう一つの登り口には、⑥吉几王子、⑩恵比寿王子、⑩刀立王子、⑩御鍋の岩屋王子があります。これは脇道になります。

 登山道を登る途中で、夜明峠から左に折れると、天柱石の下に⑤お塔石王子があります。おそらく昔は、天柱石という高い柱のような石に抱きついてめぐる行道があったと考えられます。
天柱石には窟の中に⑩窟の薬師王子があるので、窟に龍る行もあったようです。
祈滝王子には滝行がありました。登山道に戻ると、八丁坂王子、前社ヶ森王子(現在は禅師ヶ森)、大剣王子、小剣王子、古森王子、早朧王子(天狗)をへて、夜明峠王子となります。
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ここで夜を明かしてご来光を仰いで登ったといわれています。
 ここから一の鎖、二の鎖、三の鎖を修行して、弥山頂上に登り、来迎谷の裏行場王子で「水の禅定」があるといいますが、その方法はわかりません。最後に、天狗岳王子で危険な行があったということが調査によってわかっています。

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