前神寺-もともと常住(成就)にあった寺で奥社は石鎚山

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 現在、六十四番の石鉄山前神寺は真言宗石鉄派として一派をなし、独立寺院になっています。しかし、明治以前の神仏分離前までは石鎚信仰の中核的なお寺でした。
 お寺も、現在のロープウエイを下りた成就に中社があり「常住」と呼ばれていました。そこに常住僧がいたのです。
 神仏分離で、石土という名前は仏教的な要素が入っていると言うことで石鎚神社と呼ばれるようになりました。仏教から分離しようとしたからです。
 その後に石鎚神社は、前神神社の中社の上に新たな神社を作りました。それが現在の成就社です。ちなみに、前神寺は西条の里に下りて、現在地に新たな境内を整備しました。

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御詠歌は
「前は神後ろはほとけ極楽の よろづのつみを砕くいしづち」です。
「いしづち」の「つ」は「の」、「も」は霊ですから、石の霊です。石鎚山はほとんど木の生えない岩峰です。 歴史をさかのぼって、もとは何であったかということを究めてから論じるとすれば、奈良時代の『日本霊異記』は「槌」という字を使って、「石槌神」がこの山にいると書いています。
 また『日本霊異記』では、寂仙菩薩が石鎚山を開いて修行したとされています。
 寂仙菩薩は聖武天皇のころの人だと書かれているので、弘法大師から見れば五十年ぐらい先輩に当たります。そういうものを追って、弘法大師は辺路の修行をしました。
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 石鎚山は西日本随一の名山ですから、特別の修験道が発達しました。
上社は弥山、つまり石鎚の頂上にあります。
現在は露坐の石上大神三体が立っています。
昔は銅の祠の中に三体の蔵王権現がまつられていたという記録があります。
それが石土大神の本地仏だったわけです。  

中社のある「常住」は、今は成就へ

 中社は、先ほど述べたようにロープウエイの成就駅の標高1450㍍のところにあります。石鎚頂上から約500㍍ほど下ると、あとはずっと平地が続いて、常住からまた急に下がりますから、いちばん北の端にあるのが常住です。
江戸時代から成就という字が書かれていますが、もともとは常住です。
 石鎚山の山頂は、冬は雪に閉じ込められて住めませんから、常住に留守居の坊さんがいて、お経を読んだり、花を上げたりして、山頂の神様をおまつりしていました。こういう坊さんを常住僧あるいは山龍僧と呼びまして、その場所がすなわち常住です。山岳寺院の成立の事例を見ると、中腹の中社がいちばん先にできています。

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 下社は現在の里前神寺の権現神殿といわれるものです。

神仏分離以後、成就の前神寺の境内にあった権現神殿が石鎚神社になって、戦後、その上のところを整地して現在の石鎚神社ができました。
那智神社と青岸渡寺が後ろ表になっているのと同じように、もとは神社と寺院は全く相接していたわけです。  
前神寺は石鎚権現社の別当職を勤めました。
明和六年(一七六九)の『石鎚山先達惣名帳』 に六十二の先達を支配した連名があるので、江戸時代の中ごろには前神寺が石鎚修験の先達を支配していたことがわかります。そのころは里前神寺が霊場になっていますが、本来、前神寺は石鎚修験の中心的な神社でした。
 同時に、里前神寺は納経所であって、前神寺に遍路の札を打つと、石鎚山に登ったことになります。『四国偏礼霊場記』も、ここにお参りした場合は上まで登らなげればいけないと書いています。

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お参りする場合は、大和の大峯山や伯者の大山と同じように、六月一日から三日までの間に登らなければなりません。その間が山開きです。その三日問を除いては、山を閉ざしたのでした。
 現在は七月一日から十日間のみ山開き、それ以外は山を閉ざしています。石鎚山に登るときぱ、夜中に松明をともして、峰の間を「ナムマイダソボ」という掛け声をかけて登りました。それより上は無言で登ります。

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 三十六の行場は、最近ではほとんどなくなってしまいました。
石鎚神社で調査したものが『石鎚山旧跡三十六王子社』に出ているので、かなり厳しい行をしながら登ったことがわかります。『四国偏礼霊場記』は、これをしないと本当は前神寺の札を打つたということにはならないと書いています。   

奥の院にこそ四国遍路の意味があります。

それを江戸の時代の中ごろから忘れてしまいました。
王子、王子でなんらかの修行をしながら、山頂から海を拝してくるのが本来の修行であり、遍路の原形でした。石鎚山の山麓には、石鎚信仰に関係のある寺がたくさんありました。ことに西条市北川(喜多川)の法安寺と大生院の正法寺は、灼然または上仙(常仙)を開基とする古代寺院です。そのほか、大保木の天河寺、樫原の極楽寺、古坊の横峰寺がありました。天河寺は現在はありません。極楽寺は石鎚山口にあります。

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 石鎚山別当職を確保したのは、常住にあった前神寺でした。

これは石鎚山山頂にいちばん近いところにあったので、前神と称したからです。したがって、奥前神寺が里に下って里前神寺になると、ほかの寺も別当を名のるようになりました。それで江戸時代には訴訟などもあったようです。
 
  『四国偏礼霊場記』を見ると、権現さんが前神寺の本尊です。
ここでいう寺は庫裡のことで、本堂ではありません。それが霊場の実際の姿だとおもいます。江戸時代に入ってから、それぞれ本堂を建てて寺の体裁を整えますが、もともとは権現が霊場です。そのほかのものは納経を受けたり、宿坊となって霊場が成り立っていました。したがって、奥の院に参らなければ意味がないわけです。

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   最後に三十六王子の話をいたします。

①福王子は、現在はわかりまぜん。
②檜王子は、現在でも檜という地名が残っているので、そこにあったことがわかります。
③大保木王子は、扇王子だったかもしれません。現在も地名が残っています。
川の上の断崖から下をのぞく「覗き」の行がありました。
魔除げとして扇を上げる行は、どこの山にもあります。
④綾掛王子。⑤細野王子は、逼割禅定かありました。
⑥子安場王子には、覗きの行と元結掛かありました。
大峯の石休場は、石の上に腰をおろして休むことができるところですから、小休場ではないかとおもいます。元結掛というのは、山に登るときに元結の注連を首にかけて参って、下りに木に掛けることです。

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⑦黒川王子⑧今宮王子。黒川という集落も今宮という集落も山先達の村で、黒川と今宮が主導権を争った時代があります。もとぱここに山案内人がいたわけです。
黒川王子も今宮王子も覗きの行と垢離行がありました。このように、王子ごとに行をします。 登山道にかかると、非常に急坂になります。
⑨四手坂王子は女人禁制の権現堂があります。
四千坂というので、幣を立てたのだとかもいます。少豆禅定王子には小豆の数取りによって念仏を唱える行があったのだろうとおもいます。禅定は苦行のことです。
⑩今王子はわかりません。
⑩雨乞王子。⑩花取王子は常磐木を取って神に捧げる行があったところです。花とは常磐木をいうのです。⑩矢倉王子の修行形態はわかりません。

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 成就に近いところに行くと、

⑩山伏王子と女人結界の⑥女人返王子があります。
⑩杖立王子は、もっていった金剛杖を立てて帰るところです。
成就には⑩鳥居坂王子と⑩稚子宮鈴之巫女王子があります。ここは巫女がいたのだとおもいます。西之川集落のもう一つの登り口には、⑥吉几王子、⑩恵比寿王子、⑩刀立王子、⑩御鍋の岩屋王子があります。これは脇道になります。

 登山道を登る途中で、夜明峠から左に折れると、天柱石の下に⑤お塔石王子があります。おそらく昔は、天柱石という高い柱のような石に抱きついてめぐる行道があったと考えられます。
天柱石には窟の中に⑩窟の薬師王子があるので、窟に龍る行もあったようです。
祈滝王子には滝行がありました。登山道に戻ると、八丁坂王子、前社ヶ森王子(現在は禅師ヶ森)、大剣王子、小剣王子、古森王子、早朧王子(天狗)をへて、夜明峠王子となります。
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ここで夜を明かしてご来光を仰いで登ったといわれています。
 ここから一の鎖、二の鎖、三の鎖を修行して、弥山頂上に登り、来迎谷の裏行場王子で「水の禅定」があるといいますが、その方法はわかりません。最後に、天狗岳王子で危険な行があったということが調査によってわかっています。