瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:祖谷八家

            
「祖谷紀行」を読んでいると「祖谷八家」という用語が良く出てきます。「祖谷八家」の中には、平家の落人伝説の子孫で、平家屋敷と呼ばれる家もあります。中世の「山岳武士」の流れを汲む名主という意味で、誇りを持って使われていたようです。今回は「祖谷八家」が、中世から近世への時代の転換点の中で、どのようにして生き残ったのか。その戦略や処世術を見ていくことにします。テキストは「東祖谷山村誌219Pの 蜂須賀氏の阿波国支配」です。

祖谷山は中世に、以下のように東西三十六名の名主(土豪)達によって支配されていました。
祖谷山三十六名

東祖谷山分として、菅生名・久保名・西山名・落合名・奥井名・栗枝渡名・下瀬名・大枝名・阿佐名・釣井名。今井名・小祖谷名
以上の十二名。
西祖谷分として、閑定名・重末名・名地名・有瀬名・峯名・鍛冶屋名・西名・中屋名・平名・榎名・徳善名・西岡名・後山名・.尾井内名・戸谷名・一宇名・田野内名・田窪名・大窪名・地平名・片山名・久及名・中尾名・友行名・
以上の二十四名、東西合わせて三十六名になります。
 この時代は「兵農未分離」で、武力を持つ者が支配者になっていきます。各名主は、力を背景にエリア内では経済的に抜きん出た地位にありました。
曽我総雄氏は、慶長17年の「三好郡祖谷山内吾橋西名検地帳」を分析して、次の表を作成しています。(『西祖谷山村史』(大正11年版)
「三好郡祖谷山内吾橋西名検地帳」
三好郡祖谷山内吾橋西名検地帳の土地所有関係
この表からは次のような事が分かります。
①50反(五町)以上の土地所有者が名主。
②吾橋西の名内全耕地面積は77、8反
③名主の所有は反数54反
④名全体のの耕地面積の約7割を、名主が所有
⑤全戸数12戸の内で8戸は、3反以下の貧農
ここからは、名主が名(みょう)内の経済を牛耳っていたことが分かります。貧農達は独立しては生活できません。何らかの形で名主に頼らざる得ません。これを隷属農民と研究者は呼びます。ここからは、中世から近世にかけての祖谷山の支配構造は、つぎの両極に分かれていたことが分かります。
①各名主階層に隷属する農民
②農民の夫役労働力に依存して農地経営をおこなう名主
ここでは名主は、各名単位に経済単位を形成し、名内に君臨していたことを押さえておきます。
蜂須賀家政(徳島県・戦国武将像まとめ) | 武将銅像天国
             蜂須賀家政
 阿波一国の主人としてやってきた蜂須賀家政は、近世大名として「領内一円知行」を進めます。
領内一円知行とは、領主が自分の権力で、領内を自己一人のものとして領有し経営することです。これは中世以来の阿波の土豪衆の存在を否定することから始まります。このために細川・三好・長宗我部の三代に渡って容認されていた土豪からの領地没収が当面の課題となります。
 まず蜂須賀家政は、検地に着手します。これによって①耕地面積の確認と②耕作者としての農民の確保、の実現を目指します。そのために「土地巡見使」を派遣します。この役割は、検地施行を前提とする土地の所有状況と実態掌握を行うものでした。これ対して、平野部での検地作業は順調にすすみますが、山間部の土豪達は、抵抗の狼煙をあげます。天正13年(1885)6月から8月にかけて、仁宇山・大粟山・祖谷山などの土豪たちが立ち上がります。これらは内部分裂もあって、短期間で軍事力によって押さえつけられます。
 仁宇谷・大粟山の抵抗を一か月余で鎮圧した蜂須賀家政は、祖谷山にその矛先を向けます。
 この当時の様子を伝えるものとして「祖谷山旧記」は、次のように記します。
蓬庵様(蜂須賀家政)御入国遊ばせられ候硼、数度御召遊ばせらるといえども、御国命に応じ奉らす、御追罫の御人数を御指向け遊ばせられ候ところ、悪党難所に方便を構え、追て御人数多く落命仕り候。此時に至り、私先祖北六郎二郎、同安左衛門、美馬郡一宇山に罷り在り、兼て祖谷山案内の儀に候えば、悪徒誅討を乞い請け奉り、方便を以、過半は降参仕り候由、降参人の者召し連れ罷出、名職を申し与え、相違なく下し置させられ候。相一坦わざる族は、或は斬拾、或は溺め捕え、罷り出候、

  意訳変換しておくと
蜂須賀小六が阿波に入国して、(祖谷の土豪達に)何度か徳島城に挨拶に来るように命じたが、その命に応じない。そこで、追討の兵を差し向けると、悪党(土豪)たちは難所に砦を構え抵抗し、追手側に多くの死者が出た。そのため私の先祖である北六郎二郎、安左衛門が、美馬郡一宇山にやってきて、祖谷の悪徒誅討を願い出た。方便(調略)で、土豪衆の半分を降参させ、その者達を召し連れて、名職を与え、蜂須賀家の下に置いた。ただ従わない一族は、斬首や溺め捕えた。その次第は以下の通りである

 蜂須賀家政は、祖谷の名主たちの抵抗に対して、武力鎮圧を避けようとします。そして、祖谷の名主のことをよく知っている人物に処理を任せます。それが北(喜田)氏でした。
北氏の出自については、よく分かりません。
 ただ、天正十年に長宗我部氏と争って敗れ、本貫地だった阿波郡朽田城から一宇山に退却していたようです。北氏と祖谷山勢とは、もともとは対抗関係にありました。北氏としては、この際に新勢力の蜂須賀氏につくことで、失地回復を計ろうとする目論見があったようです。そのため蜂須賀氏にいち早く帰順したのでしょう。そして、美馬郡岩倉山・曽江山勢の武力反抗の鎮圧に参加しています。その功としてし天正14年には、一宇山で知行高百石余を得ています。これはかつての朽田城城主の地位には及ばないにしても、経済的には祖谷山の名主に優るものでした。
こうして、蜂須賀藩から祖谷山勢の鎮圧を任されます。このあたりのことが次の表現なのでしょう。
兼て祖谷山案内の儀に候えば、悪徒誅討を乞い請け奉り、方便を以、過半は降参仕り候由、

ここからは、北氏は武力一辺倒でなく、北氏の才覚で「名職の安堵」を条件に、祖谷土豪達の懐柔分断策を展開したことが分かります。「名職の安堵」とは、中世以来の名主の地位の容認です。
 ちなみに『祖谷山旧記』は、北(喜多)家の軍功と由緒を記録した「自家褒賞」的なもので、史料としては問題があります。しかし、当時の様子を記したものが他にないので、取扱に注意しながら手がかりとする以外に方法がないと研究者は考えています。

『祖谷山旧記』に書かれた喜田(北)氏の「調略」方法をもう一度見ておきます。
いち早く降服した者は、
菅生名、名主・榊原 織部介
久保名、名主・阿佐 兵庫
西山名、名主・橘主 殿之助
阿佐名、名主・阿佐 紀伊守
徳善名、名主・国藤 兵部
有瀬名、名主・橘  右京進
大窪名、名主・青山 右京
小祖谷 名主・石川 備後
ついで降服した者は、
後山名、名主・国藤左兵衛
片山名、名主・片山 与市
地平名、名主・今井 藤太
閑定名、名主・阿佐 六郎
戸の谷名、名主・川村 源五
名地名、名主・青山 新平
西岡名、名主・堀川 内記
西  名、名主・播摩平太兵衛
中屋名、名主・下川与惣治
友行名、名主・佐伯 彦七
以上18名の名主は、北(喜田)氏の調略を受入て、「御目見仰せ付けさせられ、持ち懸りの名職、下し置させられ(藩主へのお目見えを許された名職」を与えられ、蜂須賀家政に下った者達です。

一方斬首された者は、
下瀬名、名主・大江 出雲
久及名、名主・香川 権大
釣井名、名主・播摩 左近
今窪名、名主・中山藤左衛門
榎  名、名主・三木 兵衛
一宇名、名主・田宮 新平
平  名、名主・八木 河内
この七名は、北六郎二郎・同安左衛門父子の手によって斬首されました。その理由は、「重々御国命に相背き、相随わず、あまつさえ土州方と取持、狼藉」を働いたとされます。また、次の十一名の名主は、前記七名の名主が斬首されたのと前後して、讃州の鵜足に逃げますが、北六郎二郎、同安右衛父子の手によって補えられます。
落合名、名主・橘  大膳
大枝名、名主・武集 平馬
尾井内名、名主・大野 王膳
今井名  名主・黒田 監物
田野窪名、名主・横田 内膳
田野内名、名主・坂井 大学
鍛冶屋名、名主・轟  与惣
峯  名、 名主・影山 将監
奥野井名、名主・松下 平太
栗伎渡名、名主・松家 隼人
重末名、 名主・本多 修理
これを一覧表にしたものが東祖谷山村誌223Pに、以下のように載せられています。
近世祖谷山三十六名の措置一覧
近世祖谷山三十六名の処置一覧表
この中で北氏が斬殺処分にした七名については、次のように記します。
「重々国命に叛いた上に、右七人の者共と徒党を組んで、土州と連絡しながら敵対を重ねた。そこで徒党のメンバー七人の首謀者六郎二郎・安左衛門を斬り亡ぼした。また逃亡した六郎二郎・安左衛門父子を追補し、讃州の鵜足郡にて11人を捕らえた。安左衛門については、ここからすぐに渭津へ囚人として引連れて、早速に成敗が仰せ付けられた。六郎二郎については、上記18人の親族のどのような企みをしていたのかが分からないので、捕縛地の鵜足から祖谷山へ連れて帰り、十八人の一族を総て召し捕えて渭津へ連行し、取り調べを行った上で、罪刑の軽重によって、重い者は成敗が仰せ付けられ、軽い者には、以後は国命に随うとの起請文を書かせて放免とした。

以上を整理して起きます
①蜂須賀家政は、北六郎二郎、安左衛門に、祖谷の土豪抵抗勢力の鎮圧をを命じた。
②北六郎二郎、安左衛門は、方便(調略)で土豪衆を分断懐柔し、半分を降参させた。
③早期に抵抗を止めて従った者達は、名主(後の庄屋・政所)として取り立てた。
④一方、最後まで抵抗を続けた土豪たち18名は厳罰に処した。
⑤こうして中世には36名いた名主は、18名に半減した。
⑥18名の名主の統括者として、喜田(北)氏が祖谷に住むことになった。

祖谷山の名主たちの武力抗争が鎮圧されたのが天正18年(1590)でした。それから20年近く経た元和3年(1617)に、刀狩りが祖谷山でも行われることになります。
祖谷山日記には、刀狩りについて次のように記されています。

「元和三年、蓬庵様の御意として、祖谷中の名主持伝えの刀脇指詮議を遂げ指上げ中すべき旨、仰せ付けられ、東西名々それぞれ詮議仕り、取り揃え指上げ申し候。」

意訳変換しておくと
「元和3年に、藩主の蜂須賀家政様の名で命で、刀狩りを行うことを、祖谷中の名主に伝え、刀脇などを差し出すように申しつけた。東西祖谷山村の名主達は、命に従い刀を取り揃えて提出した。

祖谷山に派遣された刀狩代官は、渋谷安太夫で、政所は喜田安右衛門でした。この二人によって徴発された刀剣は27本と記録されています。その際に、徴発した刀類については、代物、代銀が支払われることになっていたようです。ところ3年経った元和6年(1620)になっても、その約束が守られません。
これに対して、祖谷の名主が不満を表明したのが、刀狩りと強訴一件です。
この事情について「祖谷山旧記」は、次のように記します。
「代銀元和六年迄に御否、御座無く候に付、指上人の内、名主拾八人発頭仕り、百姓六百七拾人召し連れ、安太夫に訴状指上げ、蓬庵様御仏詣の節、途中において、御直訴仕り候」

意訳変換しておくと
「元和6年になっても刀剣の代金が支払われていないことに対して、名主18人が発議し、百姓670人余りを引き連れて、安太夫に訴状を指し上げ、藩主のお寺参りの途中で直訴した

この強訴に対しての、蜂須賀蓬庵(家政)の処置を一覧化したものが下の表です。
祖谷山刀狩りと強訴参加一覧

この表からは次のような事が読み取れます
①天正の一揆では、早期帰順者18名は処分されなかった(○△)
②残りの18名の名主は処分を受けたが、罪が軽いとされた名主は家の存続を許されていた。
③その中で18名の名主が刀狩り強訴に加わり、その中の多くの者がが「成敗・磔罪」に処せられた。
④一揆での早期帰順者は、刀狩りの際に刀剣を供出しているが、強訴には参加していない。
結局、「一揆・早期帰順者と強訴不参加者グループ」が阿波藩からの粛正を免れたことになります。そして彼らが「祖谷八家」のメンバーになっていくようです。

結果的には、この強訴事件を逆手にとって、蜂須賀藩は祖谷への支配強化を図ります。それはある意味では藩にとっては「織り込み済みのこと」だったのかもしれません。これについて東祖谷山村誌は、次のように記します。
藩権力としては、どうしても祖谷山名主層の武力解体は、藩経営のうえからいって、さけることのできないことであった。(中略)
このことは、藩権力のまさに、藩制確立のために、天正の武力抗争への持久力を秘めた処置の姿であり、名主層にしてみれば権力失墜への最後の抵抗も、力の優位の前に敗北という結果となっている。元和四年という年は、阿波藩にとっては重大な時期であり、祖谷山の強訴の落着によっていよいよ藩制の確立が目に見えて強まるのである。
 
  どちらにしても、阿波藩に抵抗せずに温和しくしたがった名主達が生きながらえて、「祖谷八家」と称するようになることを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「東祖谷山村誌219Pの 蜂須賀氏の阿波国支配」


 寛政5年(1793)の春、讃岐国香川郡由佐村の菊地武矩が、阿波の祖谷を旅行した時の紀行文を現代語に意訳して読んでいます。高松の由佐発しての前回までのコースは以下の通りでした。
4月25日
由佐 → 鮎滝 → 岩部 → 焼土 → 内場 → 相栗峠 → 貞光
4月26日
貞光 → 端山 → 猿飼 → 鳴滝 → 一宇 西福寺
4月27日
一宇の西福寺  → 小島峠 → 菅生 → 虹の滝 → 久保
4月28日
大雨で久保家逗留し、平家伝説などを聞く
今回は5日目です。阿佐家に伝わる平家の赤旗が見たいというのが、旅の当初からの目的でした。そのため雨の中を押して、久保から阿佐家を尋ねていきます。その様子を現代語にして見ていくことにします。
祖谷山の民家分布

祖谷紀行 葛橋1
祖谷紀行 4月29日 蔓橋の場面
29日 夜が明けて空を見ると、曇りがちではあるが、かねてからの願いなので、平家の旗を見に行くことにする 。 
久保の前川という谷川を渡る。ここには蔓橋が架かっている。

祖谷の葛橋 阿波名所図会.2jpg
阿波の葛橋 阿波名所図会(久保の蔓橋ではありません)
長几十二三丈、幅四尺計、こちら岸からあちら岸に、几十餘のかつらを引渡して、両岸の大木に結びつけ、そこに長四尺ばかりの丸木や薪を割ったものを、竹ひごように編んで並べてある。左右には欄干をつけて、ひっくり返えっても落ちない備えがされている。
祖谷紀行 葛橋2
祖谷紀行 久保の蔓橋の場面
また蔓を両岸の大木の枝上に蜘手のようにいくつも架け、欄千に結付けている。両岸の大木は、川にせり出していて、その枝々は、川の上で行合うほどになっている。橋を維持し、落ちないような工夫が至るところに見える。その大きさは、高松の常磐橋を少し狭くして、もう少し長くしたようなものである。谷が深く、普通の橋柱(橋脚)が建たないので、上からかつらを結付けて橋としている。これを里人は手荷を担いで渡る。私たちも慣れないことではあるが、左右の手に欄千を握って用心しながら足をゆっくりと置きながら進んだ。半ば当たりの所で、伏せて下を見ると、渓流がさか巻いて、巖にぶつかり、雷のような音が聞こえてくる。蔓橋の間は几そ十四五丈ほどであろうか。目がくらむような気がして、長くはおれずに逃げ出すように渡った。渡り終えて、後の人を見ると雲中を歩む仙人のようだ。

祖谷紀行 葛橋3

 里人が云うには、祖谷には十三の蔓橋がある。
その内で、第1は善徳のもので、第二が久保の西六里にある長二十五六間のものと評す。人に聞いた所によると、どこかで鬘橋を渡らないと祖谷には入れない云う。しかし、これは妄説であることを知った。峠を越えれば蔓橋を渡らなくとも祖谷には入れる。
 また、かずら橋を渡る際には、梶のない船が大海原に漂うように、大揺れするとも聞いた。しかし、まったく揺れないというわけではないが、揺れ幅は一、二寸のものである。これも虚説であった。
 また蔓橋は、そこに生えている鬘を使うと聞いていたが、これも誤りであった。使われている蔓は、すべて他所から切り出され運ばれてきたものであった。そのため毎年掛け替えることはせずに、3年に一度くらいの掛け替えを行っている。こうして見ると、讃岐と2,30里しか離れていない阿波の祖谷のことでも「浮説(フェイク=ニュース)」が多いことに気づかされる。世の中とは、こうしたものであろうか。嘆かわしく感じる。
葛橋は当時から興味を惹く題材で「名勝」であったようです。そのため名所図会などにも取り上げられています。作者のその取り上げ方は、見たことをありのままに伝えようとする姿勢で貫かれています。彼がある意味で、合理的精神の持ち主だったことがうかがえます。また、鬘橋を実際に見てから学んだことで、それまでの自分の旧知の知識を疑い是正しようとしています。これも「近代的精神の萌芽」とも云えそうです。
祖谷山 亀尻峠
久保→ 亀尻峠 → 阿佐 
久保前川の蔓橋を渡って、亀尻峠越えで阿佐家を目指します。

 雨が止まないので、別業(本宅以外の屋敷・別荘?)の西山平助の家に雨宿りさせてもらう。しかし、雨はやまず、ますます強くなる。そこで別業を管理する者は、私たち一人ひとりに笠を借してくれた上に、案内の童を呼んでくれた。厚情に感謝する。傘をさして、谷を下り、岡を昇り、亀尻山(峠)に至る。
祖谷紀行 阿佐家1
祖谷紀行 29日 亀尻峠から阿佐家へ
 まさに久保家の主人が云ったように、道は険しく、汗が流れて衣服の間をつたい落ちる。ようやく鑽までやってきたが、雨はますます本降りになり、休む場もない。雨霧が立ち覆って、先もよく見えない。ただ声がする方向に、坂を下ると棘があり、欝林には、ぶす(ぶと?)という虫が多く、それが手足を噛んで、痛くて堪らない。

亀尻峠から阿佐家への雨の中の下り坂で、棘やぶとに悩まされています。なんとか阿佐家にたどり着きます。
祖谷山阿佐家
阿佐家

こうして坂を下り、谷を巡ってなんとか阿佐家に着いた。案内を請うて、久保家の主人が書いてくれた紹介状を出すと、袴に脇指しの家長と思える人物が現れて、座敷に通された。当主が錦の袋に入った平家の赤旗を軸にしたものを二つ床に架けた。

その赤旗が次のように「祖谷紀行」の中には描かれています。

阿佐家の平家の赤旗1
平家の赤旗 大旗(祖谷紀行)
大旗
総長 鯨尺六尺八寸三分、曲尺 八尺五寸一分五厘、幅二尺七寸
小旗
此幡上下損セリ、幡ノ上二八ノ字アルヘシ、切テ見エス、左ノ大明神ノ上二嶋ノ字チラチラミユル是巖島大明神ナルヘシ、右ハ一向二見エス、楷書古雅唐以上ノ趣アリ、双蝶ノ画工密ニシテ雅ナリ、地ハ明画ノ絹二似夕り、尤旗ニツギテナク、 一幅ノ絹ナリ、阿州蓬奄君見給ヒ、表具シテ錦ノ袋二入テ返シタマフトナリ
意訳変換しておくと
大旗は 総長 鯨尺で六尺八寸三分、曲尺で八尺五寸一分五厘、幅二尺七寸
小旗は、上下に損傷がある。「幡」の字の上には「八」の字があったはずだ。切れて見えない。また左側の大明神の上いは嶋の字がチラチラと見えるので、これは巖島大明神と書かれているのだろう。それに対して、右側は何も見えない。楷書古雅で唐風の趣がある字体である。双蝶の絵は、緻密で優雅である。生地は明画の絹に似ている。なお、旗には継ぎ目がない。一枚の絹である。阿州蓬奄が表具して、錦の袋に入れて阿佐家に返したという。

平家の赤旗 小旗
平家の赤旗 小旗(祖谷紀行)
平家の赤旗2

平家の赤旗3
阿佐家の平家の赤旗(右が大旗・左が小旗)
阿佐家の大小二流の平家の赤旗とよばれるものです。
大旗は、たて、303㎝,よこ111㎝の大きさで、赤、紫二色で交互に染られていましたが、今は変色して色は殆んど残っていません。上辺中央に、八幡大菩薩の墨書が見えます。
 小旗は、たて199㎝、よこ53㎝でやや中央に「むかい蝶」の絞章が墨で画かれ、上辺に、八幡大菩薩の文字を見えます。しかし、いまは、称の両脇の「大明神」も、かつて見えたという「厳島」も見えません。小旗も、赤く染められていたはずですが、今は色を失なって白く見えます。大・小ともに絹製ですが、いたみが激しくて18世紀末に菊地武矩が訪ねた時には、表装仕立てになっていたことが分かります。大旗が本陣用、小旗が戦陣用と伝えられています。

作者は、平家の赤旗だけを見に来たかのようで、当主とのやりとりや家のことには何も触れていません。「御旗を見終わると、謝意を述べて立ち帰った。」と記すだけです。
ここでは阿佐家のことを、もう少し詳しく見ておきましょう。
近世の祖谷地方は、天正13年 (1585)の祖谷山一揆鎮圧に功績のあった喜多家が政所(庄屋)に就きます。その下で中世以来の系譜を引く名主がそれぞれの名(東祖谷山12名,西祖谷な ご山24名)の農民を名子として支配する独特の方式が続きます。阿佐名の名主・阿佐家は、比較的早い時期に蜂須賀家に服属した家で、そのため郷高取(ごうたかとり)とも呼ばれる武士に準ずる待遇の身居(身分)を与えられます。いわゆる「祖谷八士」の一人で、文政10年(1827)郷士格となっています。

阿佐利昭家住宅(
       阿佐家平面図(東祖谷山村誌674P)
 その屋敷は山地の中としては、広い平担地を敷地としていて、前方が広く開けています。
屋敷の建築年代は文久二年であることが棟札から分かります。徳善家と同じよな玄関・書院風造りの続き座敷がありますが、間取りはかなり違っているようです。この家の特徴を、東祖谷山村誌は次のように記します。
①中廊下があること。家の下手に四室、その中央棟通りに廊下があって、前後二室ずつに分割している。
②上手の奥に隠居がある。上手のジョウダンノマとインキョは、今はどちらも八畳である。しかし、もともとの間仕切は、半間奥にあって、ジョウダンノマは十畳、インキョは六畳であった。インキョには炉が切られ、天丼を張っていない。ここからこの部屋は未完成という感じも受ける。
阿佐家上段の間からインキョ
阿佐家 ジョウダンノマ
平家の赤旗を拝見した一行は、降り続く雨の中を傘をさし、来た道を亀山峠に向けて引き返します。
ここで亀越峠のことを少しお話しします。
祖谷山 亀尻峠3
亀越峠(「阿波の峠歩きより」)
亀越峠は、旧祖谷街道上に位置します。
 阿佐と麦生土と西山や久保を十文字に結ぶ交通の要所でもあります。そのためかつては通夜堂が建っていて、祭りには踊りや相撲大会も奉納されていたようです。この峠には二体の弘法大師像も祀られています。その台座には阿佐、西山、九鬼、麦生土、京上、小川の各名の十数名の名が彫り込まれています。ここからは、この峠にいろいろな集落から人々が集まり、交流や信仰の場となっていたことがうかがえます。
 阿波藩士・大田信上の『祖谷山日記』には、亀尻峠からの展望の良さが記されています。地元の栃之瀬中学校(昭和48年束祖谷中学校に統合)では、遠足に峠まで登っていたようです。今は、植林された樹木が茂って展望は遮られてしまいました。
亀越峠のあごなし地蔵は、歯痛どめの流行神だった。
亀尻峠のあごなし地蔵
ここには「あごなし地蔵」も祀られています。江戸時代後期になると、いろいろな流行神が登場するようになって、「分業」して痛みに対応してくれるようになります。こうして「歯痛専門」の流行神も登場します。そんな仏様が「あごなし地蔵」です。
 亀尻峠のあごなし地蔵の台座には「おきノくに あごなし地蔵」と刻まれています。「おきノくに」とは隠岐のことで、「あごなし地蔵」発祥の地です。あごがなければ歯もないし、歯痛にもなりません。この地蔵尊は、青石で作られていますが、阿波のものではないようです。総高28㎝と小柄なので、隠岐で作られ、背負って運ばれてきて、この峠に勧請されたものと研究者は考えています。歯痛からの解放を願って、この峠に勧進された地蔵尊のようです。それを行ったのは。廻国の修験者たちだったはずです。祖谷には、修験者の活動が色濃く残っているように私は思っています。
亀尻峠から久保までの下り道を見ておきましょう。
亀尻山までやってきた。南北に坂がある。南が来たときの道なので、今度は北への坂道をたどる。少し行くと道のそばに、藁屋の猪小屋があった。猪が山田を荒らさないように監視する小屋らしい。雨が止まないので、ここで休息することにした。休んでいると西湖が、次のような事を話し出した。祖谷では疱瘡を忌み嫌う。そのためか疱瘡患者が少ない。たまたま疱瘡になった者は、こんな猪小屋のようなものを建てて、そこに患者を隔離して、家から食事などを運んで看病する。そのため疱瘡患者は、風雪や療痛の気に犯されて、十に八九は亡くなってしまう。この地の風俗が淳厚だとおもっていたので、これを聞いて心が少し暗くなった。そうする内に、雨もやんだので、猪小屋を出て坂を下った。麓について、もと来た道に出会い、例の鬘橋を渡って、黄昏には久保に帰り着いた。

祖谷の葛橋 阿波名所図会
祖谷の橋(阿波名所図会18)

4月30日、夜明があけても、雨は猶やまない。谷川からは雷のような濁流に石が打ち付けられる音が聞こえてくる。久保家の主人は心配して、もう一泊することを勧めてくれた。その言葉に甘えて、かたじけないと謝しながら泊まらせてもらうことになった。
  こうして降り続く雨に閉じ込められて、翌日も久保家に逗留することになります。その間。主人から聞いたのが祖谷に伝わる怪奇伝説ですが、これは省略して、今回はここまでとします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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