瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:祖谷地方

                   東祖谷の峠とお堂2
阿波学会紀要 第53号(pp.167―172)2007.7
「三好市「旧東祖谷山村」の峠とお堂と地蔵信仰」より引用 
旧東祖谷村の峠
阿波の剣山西方に拡がる祖谷地方は、外界と閉ざされた独自の社会を維持していきました。今回は中世の祖谷地方が、どんなルートで外界とつながっていたか見ていこうと思います。それは、熊野修験者たちの活動ルートとおもわれるからです。

Yahoo!オークション - 鴨c113 東祖谷山村誌 昭和53年 徳島県 新芳社
テキストは「東祖谷山村誌207P 山岳武士の活動」です。

阿波の剣山の東南に拡がる祖谷地方には、平家の落人伝説が残っています。まずは、源平の屋島合戦に敗れた平國盛は、どんなルートを使って祖谷渓に落ちのびたかを見ていくことにします。
平家伝説 | 祖谷の温泉|いやしの温泉郷
平国盛は清盛の甥にあたる
手東愛次郎は「阿波史」で、次のように記します。

寿永二年讃州八島(屋島)の軍破れしかば門脇宰相平國盛兵百人計り語ひて(安徳))皇を供奉す、同國志度の浦に走り遂に大内郡水主村に移り、数日あって阿州大山を打越え十二月晦日祖谷の谷に到り大枝の荘巖の内にて越年し云々。

意訳変換しておくと
寿永二(1183)年讃岐屋島の壇ノ浦の戦いで敗れた平氏の門脇宰相平國盛は兵百人ばかりで(安徳)天皇を供奉し、志度浦に逃れ、そこから大内郡水主村に移り、数日後には大坂峠を越えて、阿波に入り、12月晦日に祖谷に到り、大枝で越年した。

「阿州大山(大坂峠)を打越え 十二月晦日祖谷の谷に到り」とあります。古代の南海道は、阿波と讃岐を往復するのには大坂越が使われていました。阿波に上陸した源義経も、屋島侵攻時には、この峠を越えています。
 「平國盛兵百人計り語ひて(安徳)天皇を供奉」
とありますが兵百人が軍団姿のままで落ちのびたとは思えません。東讃は、すでに義経配下に入った武士団の支配下です。「勧進帳」に描かれた弁慶・義経一行のように修験者姿にでも変装しておちのびたのかもしれません。平國盛は阿波に入ると、吉野川を東に遡ります。

水の口峠 新聞記事jpg
井ノ内ー水の口峠の祖谷古道の復活記事
研究者は、以下のような祖谷への4つのルートを挙げます。
①三好郡井川町辻から、井ノ内谷を南に越え、水の口峠を経て、寒峰を横切って東祖谷山大枝へ
②吉野川上流の三名方面から、国見山を経て後山へ
③池田から漆川(しつかわ)を経て、中津山を越えて田ノ内へ
④三好郡三加茂から桟敷峠を越えて、深渕・落合峠を越えて落合へ
これらが当時の吉野川方流域からの祖谷地方への交通路と考えられます。④の落合峠越は後世の人々が、生活必需品として讃岐の塩と山の物産を交換した「塩の道」であったことは以前にお話ししました。

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文化十二(1815)年の「阿波志」は、「祖谷に到る経路几そ五」と祖谷への5つのルートを挙げています。
①小島(おじま)峠
②水ノ口峠
③栗ヶ峰経由
④榎の渡しから吉野川を横切って下名に出るもの
⑤有瀬(あるせ)から土佐への街道ヘ出るもの
これらのコースを見るとどれも、必ず千mを越える峠を越えなければなりません。それが永い間、秘境として古い文化を今に伝えることができた要因のひとつかもしれません。

源平合戦から約50年後の元弘二年(1332)、後醍醐天皇の第一皇子尊良親王が土佐に流されます。
翌年に鎌倉が新田義貞によって陥落したので京に召還されます。これを知らずに、皇妃唐歌姫(からうたひめ)は親王を慕って追いかけ、西祖谷山を経て土佐に入ります。そして親王が京に帰られたことを聞き、京に戻ろうとしますが、帰途に西祖谷山の吾橋で亡くなったという物語があります。ここからは土佐への往還は、古代の紀貫之が京への帰還時に使った阿波沖を伝っての海路とともに、吉野川東側の山路のルートがあったことがうかがえます。
 このとき皇妃唐歌姫の土佐ルートについて「祖谷東西記深山草」は、次のように記します。
讃州引田より大山(大麻峠)を越え、吉野川に沿ひ、三好郡松尾村の山峯より中津山に登り、峯伝いに西祖谷の田の内名に下り、一宇名を経て更に吾橋名の南山を越え、有瀬名に出て土佐の杖立山に入る。

ルートを確認すると次のようになります。
讃岐引田港 → 大麻峠 → 松尾村 → 中津山 → 西祖谷田の内 → 一宇 → 吾橋の南山 → 有瀬 → 土佐杖立山」

吉野川沿いの道ではなく、人家のない峰を伝って、いくつもの峠を越えて土佐をめざしています。この辺りの吉野川は大歩危・小歩危に代表されように切り立った断崖が続きます。そのため川沿いのルートは開けていなかったようです。吉野川の東側の山峰の稜線を歩いて渡っていく「縦走」形式だったことがうかがえます。それが時代の進むにつれて、山腹を横切るトラバース道や、河の断崖などを開撃して道が通じるようになります。ここでは、古代・中世は、山嶺の尾根を使っていたのが、時代がたつと山腹の利用や川沿いルートが登場するようになることを押さえておきます。
 これらの山岳道を開いたのは、熊野行者のような人達だったのかもしれません。熊野詣でに檀那達を先達していた熊野行者達の存在が浮かんできます。山岳交通路が大いに利用されるようになるのが、南北朝の時代です。山岳武士達は、この交通路通じて情報連絡を取り合うようになります。
2018.12.2 中津山~マドの天狗へ * 徳島県池田町山風呂より - Do you climb?
祖谷の中津山(松尾川と祖谷川に挟まれた山)

祖谷と土佐を結ぶルートについて「祖谷東西記深山草」は、次のように記します。
祖谷の中津山を越え、土佐に入らんと心ざし、中津峯へ登り玉ふ、昔は中津の峯ばいに往末せしとて、今に古道と言ふ其形ち残れり。

ここからは、中津山の山腹八合目に祖谷から土佐への古い古道があったことが分かります。私が気になるのは、これらの「土佐古道」が阿波エリアでは吉野川を渡っている気配がないのです。これは、中世においては、吉野川沿いの道が整備されていなかったので、その東の中津山や国見山を越えて行くしかなかったことが考えられます。


古い時代には東祖谷山から土佐に出るには、これとは別に「と越」と「躄(いざり)峠」が使われていました。
躄り峠
天狗峠(躄峠)
四国で最も高位置にある躄峠は、現在は天狗峠と地図には表記されています。「躄(イザリ)峠」という表記は、峠名は適切でないとして、国土地理院は平成11年発行の地図から「天狗峠」に変更しました。私の持っている地図は、もちろん躄峠と書かれています。古い山中間は今でも、昔の名前で呼んでいます。この峠は、生活道よりも煙草や焼酎の闇ル-トとして,地元の人々の記憶に残っているようです。
天狗峠の地蔵
天狗(躄)峠の地蔵尊
 この峠には「奉納地蔵」と刻まれた無年紀の地蔵尊が京柱峠の方角に向いて立つとされます。一揆の首謀者の一人である円之助を供養するために立てられたと地元ではされているようですが、残念ながら私は、この地蔵には記憶がありません。
 躄峠からは稜線沿いに西に進むと矢筈峠を越えて、上板山へと続きます。上板山は、いざなぎ流物部修験の拠点であったことは以前にお話ししました。物部と祖谷は、通婚圏内で、いろいろな交流が行われていたことがうかがえます。さらに物部川を下れば、土佐へつながります。

 後には、新居屋(にいや)から小川・樫尾を通って、京柱峠を越えて大豊へ出る道が利用されるようになります。
これが現在のR439(酷道よさく)の原型になる交通路です。吉野川の支流・南小川を京橋峠の源流部から下って行くと、大歩危小歩危から延びてきた吉野川本流と交わるところが、大豊や豊永です。そこには熊野行者の拠点として機能していた定福寺や、国宝の薬師堂を持つ豊楽寺などがあります。これらの熊野信仰の拠点の寺社は、戦国時代に土佐の長宗我部元親が西阿波に侵攻するときには、その手助けを務め、保護を受けていることは以前にお話ししました。
 ちなみに戦後直後の京柱峠・谷道峠・蹙峠について徳島大学の教授だった福井好行氏は「東祖谷山村に於ける交通路の變遷」で次のように記します。

(これらの高知とを結ぶ峠は)荒廃し,僅かに闇商入が「ドブロク」を仕入れ、煙草を出す闇道となり、比較的低い京柱峠も仙人が通る位のものとなつた。

ここでは祖谷地方は、中世には躄峠や京橋峠を通じて、土佐と通じていて、熊野詣での修験者たちが利用する交通路であったこと、それを長宗我部元親は利用し、阿波・讃岐への侵攻を行ったこと。戦後には、これらの峠は人が利用することもなく荒れ果てていたことを押さえておきます。

東祖谷山の久保名・菅生名の人々が、最も利用したのは次の2ルートでした。
A 小島(おじま)峠から貞光へ出る11里の道
B 見ノ越峠 名頃ヘ出て、現在の剣山への登山基地となっている見の越を越えて麻植郡木屋平に向う道
この二つの道は南北朝時代の阿波山岳武士の連絡路でもあったようです。特にAの小島峠経由は、平坦地が広く開け、人々も多く住み、生産物も多くて物産の交換も盛んに行われます。人々の往来が多く、最も利用度が高かったのもこの峠のようです。寛政5年 讃岐香川郡由佐邑の菊池武矩が祖谷に遊んだ時の紀行文「祖谷紀行」には、その道順が次のように記されています。
「郡里・吉野川を渡つて一宇・小島峠・菅生・阿佐・亀尻峠・久保・落合・加茂 」

ここからは菊池武矩も、小島峠経由で祖谷の菅生に入ったことが分かります。
小島峠
祖谷の小島峠

源平合戦後の四国には、それぞれ守護が任命されます。
阿波では承久の乱後に、小笠原長清が阿波国の守護となります。小笠原氏は三好郡池田を拠点にして、後には「三好」氏を名乗り、土着して阿波一国を支配するようになります。三好氏は、南北朝の争いのときには南朝に味方して戦い、阿波山岳武士の一方の旗頭として戦います。しかし、足利方の細川頼之が四国探題として阿波に来ると、これに従うようになります。その後は、戦国時代の終りごろまで阿波・淡路を実質的に支配することになります。
  細川氏は守護といっても完全に支配したのは讃岐だけだったようです。
阿波では三好氏(小笠原氏)が自由に切り廻していたようです。そういう中で祖谷山は、深い山々に閉ざされたエリアで三好氏(前小笠原氏)の命なども及ばなかったようです。

祖谷地方の有力者は、どのように勢力を固めたのでしょうか?
そのヒントは、隠居制度にあると研究者は考えています。隠居というのは長子に嫁をもらうと、老人が別に家を建てて別居するものです。親は長男に嫁をもらうと跡を譲り、自分は二・三男をひきいて他所へ入植し、新しく開墾して、二男のために耕地を作る。二男を独立させ、その生活を安定させやがて老いて死んでゆく、そのため死場所はたいてい末子の家でした。これを隠居分家といっています。後には開墾できる場所が少くなって、老人は隠居するだけで、二男・三男を率いて開墾することはなくなりますが、祖谷山地方ではこのようにして、新しい「村」は生まれたようです。

 東祖谷の菅生(すげおい)・久保・西山・落合・奥ノ井・栗枝渡・大枝・阿佐・釣井(つるい)・今井・小祖谷の十二名は、小さいながら村落共同体を形成していました。そこには各名と同じ姓をもつ中心的な家がありました。今になっては、地名が先だったのか、氏名が土地につけられたのか、あるいは、最初の開発者と、後の名主が血統の上でつながっているのかどうかも分かりません。

これらの中世の名主は、山岳武士として南朝に就きました。
そして、次のように平家の落人伝説と絡み合って伝えられるようになります。
①阿佐氏は平敦盛の次男國盛が屋島から逃れて此処に来て住みついたという系図をもち、大小二つのの赤旗を伝えている
②久保氏も國盛の子孫と名のるので、阿佐氏の分家
③西山氏は俵藤太の子孫、
④奥ノ井も俵氏が名主、
⑤菅生氏は新羅二郎の子孫
「山岳武士」という言葉が最初に出てくるのは、明治44年の手東愛次郎の「阿波史」145Pで次のように記されています。(意訳)

足利尊氏に従った細川氏の頼春は、諸所で戦ったが延元元年に兄の和氏と共に、阿波に下って阿波の国衆を従えた。しかし。美馬・三好の山岳武士たちの中には、なかなか従わない者がいて抵抗と続けた。延元四年に新田義助が伊予にやってきて活動を始めると、これに呼応して阿波の山岳武士たちの動きも活発化した。しかし、義助が急病で亡くなってからは、細川頼春は体制を整えて反攻に移り、山岳武士のリーダー的な存在であった池田の大西氏を調略し、更に兵を西に進めて伊予に入り、伊予軍を大いに破った。こうして、阿波の山岳武士の勢いも衰へてしまった。

   これが以後の郷土研究書の定番フレーズになって、「山岳武士」という言葉が一人歩きするようになります。しかし、このストーリー由来は、史料的には裏付けられておらず、よく分かりません。つまり、裏付けのない「物語」なのです。

南北朝期の阿波武士の動向について「阿府志」巻17は、次のように記します。 
初めて細川律師定騨、讃州に攻め来るについて阿波國板東・板西などは細川に来従せり、大西(現・池田)の小笠原阿波守義盛は南朝の末までも後醍醐天皇御方也、時に頼春初めて阿波郡秋月の縣立の家にありて国政を行ふ、従うもあり不従もあり、不従は攻めけり、

意訳変換しておくと
細川律師定騨(頼春)が讃州に侵攻し、さらに阿波國板東・板西を勢力下におさめた。大西(現・池田)の小笠原阿波守義盛は南朝の後醍醐天皇方であった。そこで頼春は、阿波郡秋月に拠点をおいて国政を行ふ。従うもいたが、従わない者もいて、従わないものに対しては、攻めた。

「従うもあり不従もあり、不従は攻めけり」とあるので、細川氏の阿波国経営が決して容易に実現したものではないことがうかがえます。また「阿波史」には、反細川氏の「山岳武士」として、次のような勢力が登場します。
①三好郡池田の大西城を根拠に、守護小笠原義盛
②祖谷山には源平両氏の残党
③麻植郡木屋平村の木屋平氏
④三好郡佐馬地村白地には大西氏
⑤名東郡一宮城には小笠原宮内大輔
⑥麻植郡一宇には、「木地屋」よ呼ばれ、轆轤(ろくろ))使って漆器の材料を作った部族(木地師)
⑦木屋平の三木氏は、阿波忌部の系統で祖神天日鷲命の神裔とされます。
⑧東西祖谷山には、菅生左兵衛尉・渡辺宮内丞で、菅生家は池田の小笠原の一族で、祖谷山におけるリーダー的な役割を果たしたとされます。
正平年間阿波の南朝の中心人物は、小笠原頼清でした。頼清は父義盛が興國元(1340)年、細川方に従ったことが不満で、 一族より離れて南朝吉野方に従って、田井庄を拠点としていました。田井庄は山城谷にあって阿波と伊予南軍の重要な連絡点で、やがて吉野から九州へ至る連絡ポイントの役割も果たすようになります。
 阿波の南朝方と熊野吉野との連絡を担当したのが、熊野の修験者達でした。彼らの拠点として機能したの次のような熊野系の寺社だったということは以前にお話ししました。
 高越山 → 伊予新宮の熊野神社 → 伊予の三角寺
                 → 土佐の豊楽寺
伊予方面への熊野信仰の伝播ルートは、新宮村の熊野神社を拠点にして川之江方面に山を下りていきます。妻鳥(川之江市)には、めんとり先達と総称される三角寺(四国霊場六十五番札所)と法花寺がいました。また新宮村馬立の仙龍寺は、三角寺の奥院とされます。めんとり先達は、新宮の熊野社を拠点に川之江方面で布教活動を展開していたようです。そして、めんとり先達の修行場所は、現在の仙龍寺の行場だったことがうかがえます。以上から、次のような筋書きが描けます。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社勧進
②さらに行場として銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き
③里下りして瀬戸内海側の川之江に三角寺を開いた

 南朝方が吉野の山奥を拠点として、57年間も存続できたのはどうしてでしょうか?
その要因のひとつが、淡路、阿波、伊予、土佐の熊野行者を勢力下においたことだと研究者は考えています。
正平11年の栗野三位中将の袖判のある綸旨には、次のように記します
灘目椿泊は那賀、海部の境也、海深くして舟繋りよし、何風にも能泊也、椿水崎(蒲田岬)は海部の内也、紀州白井の水崎へ十里也(南海治乱記)

意訳変換しておくと
阿波の椿泊は、那賀、海部郡の境にあたる。港は海深く、船が多く停泊できる上に、どんな方向からの風が吹いていても入港可能でである。向こう岸の蒲田岬は海部郡になる。ここからは紀州白井の水崎へは十里ほどである(南海治乱記)

 淡路の沼島は、阿波小笠原一族の小笠原刑部、小笠原美濃守が、紀伊吉野と四国を結ぶ海上輸送の拠点としていたことはよく知られています。阿波側の海上拠点だったのが、ここに登場する蒲生田岬の椿泊です。椿泊の湾外の野々島、加島(舞子島)には防備のため広大堅固な城があったようです。阿波小松島も阿波水軍の重要な根拠地でした。阿波東部の宮方総帥・一宮成宗は、この椿泊水軍と小松島水軍を味方とした事で、紀伊を後背地として持久戦に堪えれたと研究者は考えています。また、椿泊に上陸した熊野行者たちは、吉野方の諜報・連絡要員として、阿波の山岳ルートを使って伊予に向かいます。
「史料綜覧」巻六751Pの南朝・正平22年(1367) 北朝貞治六年十二月十七日の条には、
征西府、阿波人菅生大炊助ノ忠節ヲ賞ス

とあり、阿波の菅生大炊助が瀬戸内海にまで進出して活躍しことが記されています。これも阿波、淡路や熊野の水軍の力が背後にあったからこそでしょう。
  以前に見たように、熊野水軍の船団は熊野行者を水先案内人として、瀬戸内海を行き来していました。熊野行者達は、そのような瀬戸内海交易活動や対外貿易を通じる中で、拠点地を開いて行きます。それが吉備児島の五流修験(新熊野修験)であり、芸予諸島の大三島神社の社僧集団でした。このようなネットワークの一部として、阿波の山岳武士達も活動を行っていたと私は考えています。

豊永の小笠原氏は、先祖が阿波の小笠原氏と同族の甲斐源氏出身の小笠原氏であるとします。
それが、地名にちなんて豊永と姓をかえます。豊永小笠原氏が下土居城の麓にたてた居館の趾に、氏神松尾神社が鎮座します。ここで豊永小笠原氏が、阿波の小笠原氏を始め山岳武士と共にその防備を固めたと東祖谷山村史は記します。豊永氏が南朝吉野方の背後を押さえていたので、国境を接した祖谷山でも阿波山岳武士が三十有余年の間、勢力を保持できたというのです。同時に、ここには熊野信仰の拠点施設の豊楽寺があったことは以前にお話ししました。
以上をまとめておきます。
①祖谷地方は、外界と閉ざされた独自の社会を維持していきた。
②それは、周囲の高い山々に囲まれたすり鉢状の地形に起因する。
③それが有利に働いたのが南北朝時代で、祖谷地方の国侍たちは南朝吉野方に与して、半世紀あまり抵抗を続けた。
④それが可能だったのは、西阿波の山岳地帯を結ぶ峠越えの交通路であった。
⑤これは熊野行者たちが熊野詣でのためにも使用した山岳道で、拠点には熊野神社などが勧進され、サービスを提供していた。
⑥南朝吉野方は、熊野神社系の修験者を味方にして、彼らによって情報・命令を伝え、一体的な軍事行動を取ろうとした。
⑦こうして南朝吉野方は、紀伊・淡路・阿波・伊予・九州を結ぶ山岳連絡網(道)を形成するようになり、そこを熊野行者達が活発に生きするようになった。
⑧このようにして結びつけられた土豪集を、近代になって阿波では「山岳武士」とよび、皇国史観の中で神聖化されるようになった。
⑨南海治乱記などでは「山岳武士=修験道的僧兵」と捉えている節もある。祖谷の土豪勢力と修験道が切っても切り離せない関係にあったことがうかがえる。
⑩近世の土佐の長宗我部元親がブレーン(書紀・連絡)集団として、修験者たちを厚遇していたことにつながる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「東祖谷山村誌207P 山岳武士の活動」
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原付バイクで新猪ノ鼻トンネルを抜けての阿波のソラの集落通いを再開しています。今回は三好市井川町の井内エリアの寺社や民家を眺めての報告です。辻から井内川沿いの県道140線を快適に南下していきます。
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井内川の中に表れた「立石」
   川の中に大きな石が立っています。グーグルには「剣山立石大権現」でマーキングされています。
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剣山立石大権現
石の頂上部には祠が祀られ、その下には注連縄が張られています。道の上には簡単な「遙拝所」もありました。そこにあった説明看板には、次のように記されています。
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①井内は剣山信仰の拠点で、御神体を笈(おい)に納めて背負い、ホラ貝を吹き、手に錫杖を持ち  お経と真言を唱えて修行する修験者(山伏)の姿があちらこちらで見られた。その修験者の道場跡も残っている。
②この剣山立石大権現の由来については、次のように伝わっている。
山伏が夜の行を終えてここまで還って来ると、狸に化かされて家にたどり着けず、果てには身ぐるみはがされることもあった。そこで山伏は本尊の権現を笈から出して、この石の上に祀った。するとたちまち被害がなくなった。こうして、この石は豪雨災害などからこの地を守る神として信仰されるようになり「立石剣山大権現」と呼ばれるようになった。
③1970年頃までは、護摩焚きが行われ「五穀豊穣」「疫病退散」などが祈願されていた。県道完成後、交通通量の増大でそれも出来なくなり、山伏による祈祷となっている。
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剣山立石大権現
ここからは井内地区が剣山信仰の拠点で、かつては数多くの修験者たちがいたことがうかがえます。この立石は井内の入口に修験者が張った結界にも思えてきます。それでは、修験者たちの拠点センターとなった宗教施設に行ってみましょう。
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地福寺
  井内の家並みを越えてさらに上流に進むと、川の向岸に地福寺が見てきます。
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この看板には次のようなことが記されています。
①大日如来坐像が本尊で、室町時代までは日の丸山中腹の坊の久保(窪)にあったこと。
②南北朝時代の大般若経があること
③平家伝説や南北朝時代に新田義治が滞留した話が伝わっていること。
④地福寺の住職が剣山見残しの円福寺の住職を兼帯していること。
 この寺院は、対岸にある旧郷社の馬岡新田神社の神宮寺だったようです。
②のように南北朝時代の大般若経があるということは、「般若の嵐」などの神仏混淆の宗教活動が行われ、この寺が郷社としての機能を果たしていたことがうかがえます。地福寺の住職が別当として、馬岡新田神社の管理運営を行うなど、井内地区の宗教センターとして機能していたことを押さえておきます。

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地福寺
 町史によると、もともとは日の丸山の中腹の坊の久保にあったのが、18世紀前期か中期ごろに現在地に移ったと記されています。現在の境内は山すその高台にあり、谷沿いの車道からは見上げる格好になり山門と鐘楼が見えるだけです。P1170083
地福寺の本堂と鐘楼
 石段を登り山門(昭和44(1969)年)をくぐると、正面に本堂、右側に鐘楼があります。鐘楼の前の岩壁には不動明王が祀られ、野外の護摩祭壇もあります。ここが古くからの修験道の拠点であり「山伏寺」であったことがうかがえます。
 本堂は文政年間(1818~30)の建築のようですが、明治40年(1907)に茅から瓦に、さらに昭和54年(1979)には銅板に葺き替えられています。また度重なる増築で、当時の原型はありません。鐘楼は総欅造りで、入母屋造銅板葺の四脚鐘台です。組物は出組で中備を詰組とします。扇垂木・板支輪・肘木形状などに禅宗様がみられ、全体に禅宗様の色濃い鐘楼と研究者は評します。

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③の地福寺と西祖谷との関係を見ておきましょう。
この寺の前に架かる橋のたもとには、ここが祖谷古道のスタート地点であることを示す道標が建っています。地福寺のある井内と市西祖谷山村は、かつては「旧祖谷街道(祖谷古道)で結ばれていました。地福寺は、井内だけでなく祖谷の有力者である「祖谷十三名」を檀家に持ち。祖谷とも深いつながりがありました。地福寺は祖谷にも多くの檀家を持っていたようです。
井川町の峠道
水の口峠と祖谷古道
 井内と西祖谷を結ぶ難所が水ノ口峠(1116m)でした。
地福寺からこの峠には2つの道がありました。一つは旧祖谷街道(祖谷古道)といわれ、日ノ丸山の北西面を巻いて桜と岩坂の集落に下りていきます。このふたつの集落は小祖谷(西祖谷)と縁組みも多く、戦後しばらくは、このルートを通じて交流があったようです。

小祖谷の明治7年(1875)生れの谷口タケさん(98歳)からの聞き取り調査の記録には、水ノ口峠のことが次のように語られています。

水口峠を越えて、井内や辻まで煙草・炭・藍やかいを負いあげ、負いさげて、ほれこそせこ(苦し)かったぞよ。昔の人はほんまに難儀しましたぞよ。辻までやったら3里(約12キロ)の山道を1升弁当もって1日がかりじゃ。まあ小祖谷のジン(人)は、東祖谷の煙草を背中い負うて運んでいく、同じように東祖谷いも1升弁当で煙草とりにいたもんじゃ。辻いいたらな、町の商売人が“祖谷の大奥の人が出てきたわ”とよういわれた。ほんなせこいめして、炭やったら5貫俵を負うて25銭くれた。ただまあ自家製の炭はええっちゅうんで倍の50銭くれました。炭が何ちゅうても冬のただひとつの品もんやけん、ハナモジ(一種の雪靴)履いて、腰まで雪で裾が濡れてしょがないけん、シボリもって汗かいて歩いたんぞよ。祖谷はほんまに金もうけがちょっともないけに、難儀したんじゃ」

 もうひとつは、峠と知行を結ぶもので、明治30年(1897)ごろに開かれたようです。
このルートは、祖谷へ讃岐の米や塩が運ばれたり、また祖谷の煙草の搬出路として重要な路線で、多くの人々が行き来したようです。 この峠のすぐしたには豊かな湧き水があって、大正8年(1919)から昭和6年(1931)まで、凍り豆腐の製造場があったようです。

「峠には丁場が五つあって、50人くらいの人が働いていた。すべて井内谷の人であった。足に足袋、わらじ、はなもじ、かんじきなどをつけて、天秤(てんびん)棒で2斗(30kg)の大豆を担いで上った」
と知行の老人は懐古しています。
 水ノ口峠から地福寺を経て、辻に至るこの道は、吉野川の舟運と連絡します。
また吉野川を渡り、対岸の昼間を経て打越峠を越え、東山峠から讃岐の塩入(まんのう町)につながります。この道は、古代以来に讃岐の塩が祖谷に入っていくルートの一つでもありました。また近世末から明治になると、多くの借耕牛が通ったルートでもありました。明治になって開かれた知行経由の道は、祖谷古道に比べてると道幅が広く、牛馬も通行可能だったようです。しかし、1977年に現在の小祖谷に通ずる林道が開通すると、利用されることはなくなります。しかし、杉林の中に道は、今も残っています。
水の口峠の大師像
水の口峠の大師像
この峠には、「文化元年三月廿一日 地福寺 朝念法印」の銘のある弘法大師の石像が祀られています。朝念というのは、地福寺の第6代住職になるようです。朝念が、水ノ口峠に石仏を立てたことからも、この峠の重要さがうかがえます。
P1170081
剣山円福寺別院の看板が掲げられている
④の地福寺と剣山の円福寺について、見ていくことにします。
 剣山の宗教的な開山は、江戸後期のことで、それまでは人が参拝する山ではなく、修験者が修行を行う山でもなかったことは以前にお話ししました。剣山の開山は、江戸後期に木屋平の龍光寺が始めた新たなプロジェクトでした。それは、先達たちが信者を木屋平に連れてきて、富士の宮を拠点に行場廻りのプチ修行を行わせ、ご来光を山頂で拝んで帰山するというものでした。これが大人気を呼び、先達にたちに連れられて多くの信者たちが剣山を目指すようになります。
木屋平 富士の池両剣神社
 藤の池本坊
  龍光寺は、剣山の八合目の藤の池に「藤の池本坊」を作ります。
登山客が頂上の剱祠を目指すためには、前泊地が山の中に必用でした。そこで剱祠の前神を祀る剱山本宮を造営し、寺が別当となります。この藤(富士)の池は、いわば「頂上へのベースーキャンプ」であり、頂上でご来光を遥拝することが出来るようになります。こうして、剣の参拝は「頂上での御来光」が売り物になり、多くの参拝客を集めることになります。この結果、龍光院の得る収入は莫大なものとなていきます。龍光院による「剣山開発」は、軌道に乗ったのです。
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地福寺の護摩壇

  このような動きを見逃さずに、追随したのが地福寺です。
地福寺は先ほど見たように祖谷地方に多くの信者を持ち、剣山西斜面の見ノ越側に広大な社領を持っていました。そこで、地福寺は江戸時代末に、見の越に新たに剣山円福寺を建立し、同寺が別当となる剣神社を創建します。こうして木屋平と井内から剣山へのふたつのルートが開かれ、剣山への登山口として発展していくことになります。
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  それでは、地福寺から剣山へのルートは、どうなっていたのでしょうか?
 水口峠の近く日ノ丸山があります。この山と城ノ丸の間の鞍部にあるのが日の丸峠です。井川町桜と東祖谷山村の深渕を結び、落合峠を経て祖谷に入る街道がこの峠を抜けていました。
   見残しにある円福寺の住職を、地福寺の住職が兼任していたことは述べました。地福寺の住職の宮内義典氏は、小学校の時に祖父に連れられて、この峠を越えて円福寺へ行ったことがあると語っています。つまり、祖谷側の剣山参拝ルートのスタート地点は、井内の地福寺にあったことになります。
 
日ノ丸山の中腹に「坊の久保」という場所があります。
ここに地福寺の前身「持福寺」があったといわれます。平家伝説では、文治元年(1185)、屋島の戦いに敗れた平家は、平国盛率いる一行が讃岐山脈を越えて井内谷に入り、持福寺に逗留したとされます。
  以上をまとめておきます
①井川町井内地区には、修験者の痕跡が色濃く残る
②多くの修験者を集めたのは地福寺の存在である。
③地福寺は、神仏混淆の中世においては郷社の別当寺として、井内だけでなく祖谷の宗教センターの役割を果たしていた。
④そのため地福寺は、祖谷においても有力者の檀家を数多く持ち、剣山西域で広大な寺領を持つに至った。
⑤地福寺と西祖谷は、水の口峠を経て結ばれており、これが祖谷古道であった。
⑥地福寺は剣山が信仰の山として人気が高まると、見残しに円福寺と劔神社を創建し、剣山参拝の拠点とした。
⑦そのため祖谷側から剣山を目指す信者たちは、井内の地福寺に集まり祖谷古道をたどるようになった。
⑧そのため剣山参拝の拠点となった地福寺周辺の集落には全国から修験者が集まって来るようになった。
祖谷古道

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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