瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:祖谷山旧記

長宗我部元親の讃岐侵攻については以前にお話ししましたので、今回は阿波国西部への侵攻について見ていくことにします。その際のポイントは、
①阿波西部(祖谷地方)を、どのようにして配下に置いたか。
②その支配管理システムとして機能したのは、どんな組織なのか
③祖谷山衆は、長宗我部元親の配下でどのような役割を担ったのか
テキストは、「石尾和仁 長宗我部元親による阿波国侵攻の「記録」と「記憶」 四国中世史研究」です
中世後半の祖谷山地域の構成メンバー36名は次の通りでした。

祖谷山三十六名
祖谷山36名
東祖谷山12名
菅生・久保・西山・落合・奥井・栗枝渡・下瀬・大枝・阿佐・釣井・今井・小祖谷
西祖谷山24名
閑定・竜末・名地・有瀬・峯・鍛冶屋西・中屋・平・榎・徳善・西岡・後山・尾井内
・戸谷・田野内・田窪・大窪,地平・片山・久及・中尾・友行
元親は、これらの祖谷山衆を配下に組み込み、先陣とするかたちで阿波国内への侵攻を進めていきます。それを示す史料として研究者が取り上げるのが高知県大豊町の旧豊永郷の豊楽寺(ぶらくじ)の史料です。
豊楽寺薬師堂/ホームメイト
豊楽寺薬師堂(国宝:四国最古の建造物)

豊楽寺についてウキは次のように記します。
 豊楽寺は高知県長岡郡大豊町にある真言宗智山派の仏教寺院。山号は大田山。大田山大願院豊楽寺と号する。本尊は薬師如来。別名は柴折薬師。薬師堂は国宝に指定されている。
  薬師堂は12世紀頃(平安時代末期 - 鎌倉時代初期)建立の四国最古の建造物。内陣に如来像3体を安置。1574年に長曾我部元親が、1637年に山内忠義が修理し、1637年の修理で前面中央に1間の向拝が追加された
 豊楽寺は724年(神亀元年)、吉野川北岸の険しい丘に聖武天皇の勅願所として行基が開創したと伝わる。寺号は聖武天皇が薬師本願経説の一節「資求足身心安」より名付けたとされる。」((https://ja.wikipedia.org/wiki/豊楽寺))
豊楽寺薬師堂
豊楽寺薬師堂

この寺は、行基創建の伝承を持っていますが、初見史料は仁平元(1151)年の「豊楽寺薬師如来像胎内銘」になります。
また熊野信仰との神仏混淆が強く見られる寺でもあります。土佐への熊野信仰の流布は、吉野川支流の銅山川沿いの伊予新宮の熊野神社や、この豊楽寺が拠点になったことは以前にお話ししました。これらの寺は、熊野行者や廻国の聖や修験者の活動拠点となっていました。ある意味では。熊野詣での道筋を修験者が土佐軍を先導したという見方もできます。長宗我部元親のブレーンとなっていた土佐の修験者たちも、この寺を拠点として阿波や讃岐の情報収集センターとして活用していたと私は考えています。
豊楽寺には、天文24(1555)年の豊楽寺鐘勧進帳の写しが残されています。ここには小笠原・豊永一族など阿波小笠原氏の一族の名があります。その他にも、西山氏・森氏など阿波国関係者の人名が見えます。 さらに、天正5年に再興された豊楽寺に残された2通の「大田山豊楽寺御堂修造奉加帳」には、次のような人名が見えます。

中世讃岐の仁尾 仁尾浦商人の営業圈は土佐まで伸びていた : 瀬戸の島から
「大田山豊楽寺御堂修造奉加帳」
この中には「仁尾 塩田又市郎」も見えます。
仁尾の肩書きと塩田の名字から見て、仁尾の神人の流れを汲む塩田一族の一人と考えられます。又市郎は豊楽寺の修造に際し、長宗我部家臣団とともに奉加しています。それは元親の強制や偶然ではなく、以前からの豊永郷や豊楽寺と又市郎との密接な繋がりがあったことをしめします。彼が讃岐の西讃地方への侵入の際には手引きを行った可能性もあります。

 本題の祖谷山衆にもどります。ここには、次のような祖谷山衆の名前も見えます。

「西山三郎左衛門」「有瀬有京進」「峯将監」「尾井内孫九良」「今井孫一」
「奥井孫吉郎」「阿佐出羽守」「平孫四良」「徳善河内守」「後山孫二郎」
「大窪右近」「大枝大炊介」「西雅楽介」

ここには祖谷の各名の有力者の人物名が並んでいます。吉野川上流部に当たる阿波国西部と土佐国北部の国境をはさんで 、2つの地域的連合が豊楽寺を核にして形成されていたことが分かります。彼らの宗教的紐帯になっていた豊楽寺を、長宗我部氏が押さたということは、祖谷山衆も天正年間の初期にはすでに掌握していたことがうかがえます。
市村高男氏は、これについて次のように述べます。

  長宗我部氏が阿波から讃岐への進出を目指し、土佐から阿波への北の玄関口に当たる豊永郷へ、制圧した本山氏の一族・旧臣と、服属した阿波の祖谷山山中の在地武士たちとを結集させ、いつでも出撃できる態勢を整えさせるとともに、豊永郷の押さえに当たらせていたことを示すものであろう。

祖谷山衆が長宗我部元親の配下に置かれたことを裏付ける史料を見ておきましょう。
『祖谷山旧記』には、長宗我部元親から次のような具体的な軍事行動が求められていたことが記されています。
さたミつ(貞光)口ヘ被打出(進出)候由、御心遣不及是非、万若殿請合を以、山分けんこの御機遣尤専用候、連々入魂じるしたるへし、猶自是可申、謹言
                                    長宮(長宗我部)元艘(元親) 判
すけをい殿
く ほ 殿
西   殿
ここには、「すけをい」「くほ(久保)」「西」の祖谷山衆に対して、祖谷山中から吉野川平野へ抜けるための要衝であった「さたミつ(貞光)口」へ打ち出る(侵攻)ことを求めています。曽根氏は、この史料を天正6(1572)年頃のものと推定します。ここからも祖谷山衆の一部が長宗我部氏の配下となっていたことを示します。
  天正8(1574)年のものと推定される長宗我部元親から木屋平越前守宛の書状を見ておきましょう。
今春慶事珍重々々、去冬岩倉伝二預音状候両国武略付而此表在陣候処、今度於岩倉被及 戦彼表へ暦々無比類手柄共候、定而して可有其聞候条、具不及申候、弥相談下郡表可及行評儀候条、相応之御馳走可為此節候、当表居陣候間、互切々可申通候、恐々謹言
正月二日          長宮(長宗我部)元親(花押)
木越御返報
意訳変換しておくと
今春慶事珍重々々、冬の岩倉伝二からの武略・陣そろえにについて報告を受けた。この度の岩倉城攻防戦において、大きな手柄を挙げたと聞いている。云うまでもないが、論功行賞については評議を行った上で、相応の褒美を与えるつもりである。今は陣中なので、抜かりなく供えるように申しつける。恐々謹言
正月二日          長宮(長宗我部)元親(花押)
木越御返報
ここには天正7(1573)年12月の岩倉城をめぐる攻防が記されています。その戦いの際の木屋平氏の軍忠を「暦々無比類手柄共候」と賞したものです。木屋平氏が長宗我部元親の傘下で働いていたことが分かります。
 天正5年に三好長治が自刃し、翌年十河(三好)存保が勝瑞に入ります。この時の情勢を『三好家成立之事』は、次のように記します。

「山方ハ去年ノ秋ヨリ(一宮)成助二雖順、里々ハ何レモ(十河)存保治メ給ケル」

ここからは、この時点で一宮城主の一宮成助は、「山方」を支配下に置いていたことが分かります。
次に三好方が一宮城の攻撃を企てたときに元親が一宮成助を救援するために木屋平氏らを動員した書状を見ておきましょう。
態音間本望候、誠今度一宮詰口之儀、可追払諸卒着向候処、後巻不持付敵敗北無是非候、殊御一類中御籠城所々即時被得勝利珍重候、向後弥御馳走可為肝要候、猶従是可申候条、不能子細候、恐々謹言
九月十日      長宮元親(花押)
木上
木越人    御返報
木上は木屋平上野介、木越入は木屋平越前守人道のことです。元親は両者に対して一宮城に籠城して戦ったことに対する軍忠を賞しています。その他にも、木屋平氏に対しては三好勢の侵攻に対して動員をかけている書状もあります。以上からも山間土豪層は、天正年間、元親の傘下として活動していると研究者は判断します。

長宗我部元親の阿波侵攻1
長宗我部元親の阿波侵攻図
『祖谷山旧記』にも以下のように記されています。

「土佐国長曽我部宮内少輔元親、四国分国之節、私共六代之曾祖父菅生孫一郎、久保源次郎、西山主殿介三人旗下二加り、土佐并御当日・伊予・讃岐二而知行給候」

意訳変換しておくと

「土佐の長曽我部元親は、四国分国の際に、私どもの六代曾祖父である菅生孫一郎、久保源次郎、西山主殿介の三人が長宗我部元親の旗下に加り、土佐や阿波・伊予・讃岐に知行を得ました」

ここには長宗我部氏の配下として活動した祖谷山衆が、四国各地で知行を得ていたことが記されています。ここからも祖谷山間部土豪が長宗我部元親の配下にあったことを裏付けます。

天正13(1585)年に長宗我部元親が撤退して、蜂須賀氏が入部してきた時に、山間土豪の大規模な一揆が勃発します。
これに対して従来は「阿波の山間土豪は豊臣勢と長宗我部勢の対抗の日和を見ていた状況で、傍観の態であった」とされてきました。しかし、傍観していたわけではなく、積極的に長宗我部氏に与しようとしために豊臣系大名である蜂須賀氏の入部に対して山間土豪による一揆が勃発したと考えるべきだと研究者は指摘します。
以上をまとめておくと
①長宗我部元親は西阿波への侵入に際して、祖谷山衆を配下に置いた
②それは、地域の宗教的中核寺院である豊楽寺の史料からも分かる。
③祖谷山衆は長宗我部元親の阿波侵攻の戦陣として活動し、四国各地に知行地を得た。

長宗我部元親の阿波・讃岐・伊予侵攻について、野本亮氏は次のように記します。

急峻な四国山地を一領具足を主力とした数万の軍勢が越えるのはほとんど不可能に近く、武器・弾薬・食料の輸送という面から見ても現実的ではない。阿・讃・予における元親の勝利の陰には、土佐方に内通、もしくは積極的に協力した同盟者の存在が第一であり、彼等の利害関係に乗じる形で契約を結び、兵と物資の支援を受けたと考える方が無理がない」

            
「祖谷紀行」を読んでいると「祖谷八家」という用語が良く出てきます。「祖谷八家」の中には、平家の落人伝説の子孫で、平家屋敷と呼ばれる家もあります。中世の「山岳武士」の流れを汲む名主という意味で、誇りを持って使われていたようです。今回は「祖谷八家」が、中世から近世への時代の転換点の中で、どのようにして生き残ったのか。その戦略や処世術を見ていくことにします。テキストは「東祖谷山村誌219Pの 蜂須賀氏の阿波国支配」です。

祖谷山は中世に、以下のように東西三十六名の名主(土豪)達によって支配されていました。
祖谷山三十六名

東祖谷山分12名
菅生名・久保名・西山名・落合名・奥井名・栗枝渡名・下瀬名・大枝名・阿佐名・釣井名。今井名・小祖谷名
西祖谷分24名
、閑定名・重末名・名地名・有瀬名・峯名・鍛冶屋名・西名・中屋名・平名・榎名・徳善名・西岡名・後山名・.尾井内名・戸谷名・一宇名・田野内名・田窪名・大窪名・地平名・片山名・久及名・中尾名・友行名・
以上の二十四名、東西合わせて三十六名になります。
 この時代は「兵農未分離」で、武力を持つ者が支配者になっていきます。各名主は、力を背景にエリア内では経済的に抜きん出た地位にありました。
曽我総雄氏は、慶長17年の「三好郡祖谷山内吾橋西名検地帳」を分析して、次の表を作成しています。(『西祖谷山村史』(大正11年版)
「三好郡祖谷山内吾橋西名検地帳」
三好郡祖谷山内吾橋西名検地帳の土地所有関係
この表からは次のような事が分かります。
①50反(五町)以上の土地所有者が名主。
②吾橋西の名内全耕地面積は77、8反
③名主の所有は反数54反
④名全体のの耕地面積の約7割を、名主が所有
⑤全戸数12戸の内で8戸は、3反以下の貧農
ここからは、名主が名(みょう)内の経済を牛耳っていたことが分かります。貧農達は独立しては生活できません。何らかの形で名主に頼らざる得ません。これを隷属農民と研究者は呼びます。ここからは、中世から近世にかけての祖谷山の支配構造は、つぎの両極に分かれていたことが分かります。
①各名主階層に隷属する農民
②農民の夫役労働力に依存して農地経営をおこなう名主
ここでは名主は、各名単位に経済単位を形成し、名内に君臨していたことを押さえておきます。
蜂須賀家政(徳島県・戦国武将像まとめ) | 武将銅像天国
             蜂須賀家政
 阿波一国の主人としてやってきた蜂須賀家政は、近世大名として「領内一円知行」を進めます。
領内一円知行とは、領主が自分の権力で、領内を自己一人のものとして領有し経営することです。これは中世以来の阿波の土豪衆の存在を否定することから始まります。このために細川・三好・長宗我部の三代に渡って容認されていた土豪からの領地没収が当面の課題となります。
 まず蜂須賀家政は、検地に着手します。これによって①耕地面積の確認と②耕作者としての農民の確保、の実現を目指します。そのために「土地巡見使」を派遣します。この役割は、検地施行を前提とする土地の所有状況と実態掌握を行うものでした。これ対して、平野部での検地作業は順調にすすみますが、山間部の土豪達は、抵抗の狼煙をあげます。天正13年(1885)6月から8月にかけて、仁宇山・大粟山・祖谷山などの土豪たちが立ち上がります。これらは内部分裂もあって、短期間で軍事力によって押さえつけられます。
 仁宇谷・大粟山の抵抗を一か月余で鎮圧した蜂須賀家政は、祖谷山にその矛先を向けます。
 この当時の様子を伝えるものとして「祖谷山旧記」は、次のように記します。
蓬庵様(蜂須賀家政)御入国遊ばせられ候硼、数度御召遊ばせらるといえども、御国命に応じ奉らす、御追罫の御人数を御指向け遊ばせられ候ところ、悪党難所に方便を構え、追て御人数多く落命仕り候。此時に至り、私先祖北六郎二郎、同安左衛門、美馬郡一宇山に罷り在り、兼て祖谷山案内の儀に候えば、悪徒誅討を乞い請け奉り、方便を以、過半は降参仕り候由、降参人の者召し連れ罷出、名職を申し与え、相違なく下し置させられ候。相一坦わざる族は、或は斬拾、或は溺め捕え、罷り出候、

  意訳変換しておくと
蜂須賀小六が阿波に入国して、(祖谷の土豪達に)何度か徳島城に挨拶に来るように命じたが、その命に応じない。そこで、追討の兵を差し向けると、悪党(土豪)たちは難所に砦を構え抵抗し、追手側に多くの死者が出た。そのため私の先祖である北六郎二郎、安左衛門が、美馬郡一宇山にやってきて、祖谷の悪徒誅討を願い出た。方便(調略)で、土豪衆の半分を降参させ、その者達を召し連れて、名職を与え、蜂須賀家の下に置いた。ただ従わない一族は、斬首や溺め捕えた。その次第は以下の通りである

 蜂須賀家政は、祖谷の名主たちの抵抗に対して、武力鎮圧を避けようとします。そして、祖谷の名主のことをよく知っている人物に処理を任せます。それが北(喜田)氏でした。
北氏の出自については、よく分かりません。
 ただ、天正十年に長宗我部氏と争って敗れ、本貫地だった阿波郡朽田城から一宇山に退却していたようです。北氏と祖谷山勢とは、もともとは対抗関係にありました。北氏としては、この際に新勢力の蜂須賀氏につくことで、失地回復を計ろうとする目論見があったようです。そのため蜂須賀氏にいち早く帰順したのでしょう。そして、美馬郡岩倉山・曽江山勢の武力反抗の鎮圧に参加しています。その功としてし天正14年には、一宇山で知行高百石余を得ています。これはかつての朽田城城主の地位には及ばないにしても、経済的には祖谷山の名主に優るものでした。
こうして、蜂須賀藩から祖谷山勢の鎮圧を任されます。このあたりのことが次の表現なのでしょう。
兼て祖谷山案内の儀に候えば、悪徒誅討を乞い請け奉り、方便を以、過半は降参仕り候由、

ここからは、北氏は武力一辺倒でなく、北氏の才覚で「名職の安堵」を条件に、祖谷土豪達の懐柔分断策を展開したことが分かります。「名職の安堵」とは、中世以来の名主の地位の容認です。
 ちなみに『祖谷山旧記』は、北(喜多)家の軍功と由緒を記録した「自家褒賞」的なもので、史料としては問題があります。しかし、当時の様子を記したものが他にないので、取扱に注意しながら手がかりとする以外に方法がないと研究者は考えています。

『祖谷山旧記』に書かれた喜田(北)氏の「調略」方法をもう一度見ておきます。
いち早く降服した者は、
菅生名、名主・榊原 織部介
久保名、名主・阿佐 兵庫
西山名、名主・橘主 殿之助
阿佐名、名主・阿佐 紀伊守
徳善名、名主・国藤 兵部
有瀬名、名主・橘  右京進
大窪名、名主・青山 右京
小祖谷 名主・石川 備後
ついで降服した者は、
後山名、名主・国藤左兵衛
片山名、名主・片山 与市
地平名、名主・今井 藤太
閑定名、名主・阿佐 六郎
戸の谷名、名主・川村 源五
名地名、名主・青山 新平
西岡名、名主・堀川 内記
西  名、名主・播摩平太兵衛
中屋名、名主・下川与惣治
友行名、名主・佐伯 彦七
以上18名の名主は、北(喜田)氏の調略を受入て、「御目見仰せ付けさせられ、持ち懸りの名職、下し置させられ(藩主へのお目見えを許された名職」を与えられ、蜂須賀家政に下った者達です。

一方斬首された者は、
下瀬名、名主・大江 出雲
久及名、名主・香川 権大
釣井名、名主・播摩 左近
今窪名、名主・中山藤左衛門
榎  名、名主・三木 兵衛
一宇名、名主・田宮 新平
平  名、名主・八木 河内
この七名は、北六郎二郎・同安左衛門父子の手によって斬首されました。その理由は、「重々御国命に相背き、相随わず、あまつさえ土州方と取持、狼藉」を働いたとされます。また、次の十一名の名主は、前記七名の名主が斬首されたのと前後して、讃州の鵜足に逃げますが、北六郎二郎、同安右衛父子の手によって補えられます。
落合名、名主・橘  大膳
大枝名、名主・武集 平馬
尾井内名、名主・大野 王膳
今井名  名主・黒田 監物
田野窪名、名主・横田 内膳
田野内名、名主・坂井 大学
鍛冶屋名、名主・轟  与惣
峯  名、 名主・影山 将監
奥野井名、名主・松下 平太
栗伎渡名、名主・松家 隼人
重末名、 名主・本多 修理
これを一覧表にしたものが東祖谷山村誌223Pに、以下のように載せられています。
近世祖谷山三十六名の措置一覧
近世祖谷山三十六名の処置一覧表
この中で北氏が斬殺処分にした七名については、次のように記します。
「重々国命に叛いた上に、右七人の者共と徒党を組んで、土州と連絡しながら敵対を重ねた。そこで徒党のメンバー七人の首謀者六郎二郎・安左衛門を斬り亡ぼした。また逃亡した六郎二郎・安左衛門父子を追補し、讃州の鵜足郡にて11人を捕らえた。安左衛門については、ここからすぐに渭津へ囚人として引連れて、早速に成敗が仰せ付けられた。六郎二郎については、上記18人の親族のどのような企みをしていたのかが分からないので、捕縛地の鵜足から祖谷山へ連れて帰り、十八人の一族を総て召し捕えて渭津へ連行し、取り調べを行った上で、罪刑の軽重によって、重い者は成敗が仰せ付けられ、軽い者には、以後は国命に随うとの起請文を書かせて放免とした。

以上を整理して起きます
①蜂須賀家政は、北六郎二郎、安左衛門に、祖谷の土豪抵抗勢力の鎮圧をを命じた。
②北六郎二郎、安左衛門は、方便(調略)で土豪衆を分断懐柔し、半分を降参させた。
③早期に抵抗を止めて従った者達は、名主(後の庄屋・政所)として取り立てた。
④一方、最後まで抵抗を続けた土豪たち18名は厳罰に処した。
⑤こうして中世には36名いた名主は、18名に半減した。
⑥18名の名主の統括者として、喜田(北)氏が祖谷に住むことになった。

祖谷山の名主たちの武力抗争が鎮圧されたのが天正18年(1590)でした。それから20年近く経た元和3年(1617)に、刀狩りが祖谷山でも行われることになります。
祖谷山日記には、刀狩りについて次のように記されています。

「元和三年、蓬庵様の御意として、祖谷中の名主持伝えの刀脇指詮議を遂げ指上げ中すべき旨、仰せ付けられ、東西名々それぞれ詮議仕り、取り揃え指上げ申し候。」

意訳変換しておくと
「元和3年に、藩主の蜂須賀家政様の名で命で、刀狩りを行うことを、祖谷中の名主に伝え、刀脇などを差し出すように申しつけた。東西祖谷山村の名主達は、命に従い刀を取り揃えて提出した。

祖谷山に派遣された刀狩代官は、渋谷安太夫で、政所は喜田安右衛門でした。この二人によって徴発された刀剣は27本と記録されています。その際に、徴発した刀類については、代物、代銀が支払われることになっていたようです。ところ3年経った元和6年(1620)になっても、その約束が守られません。
これに対して、祖谷の名主が不満を表明したのが、刀狩りと強訴一件です。
この事情について「祖谷山旧記」は、次のように記します。
「代銀元和六年迄に御否、御座無く候に付、指上人の内、名主拾八人発頭仕り、百姓六百七拾人召し連れ、安太夫に訴状指上げ、蓬庵様御仏詣の節、途中において、御直訴仕り候」

意訳変換しておくと
「元和6年になっても刀剣の代金が支払われていないことに対して、名主18人が発議し、百姓670人余りを引き連れて、安太夫に訴状を指し上げ、藩主のお寺参りの途中で直訴した

この強訴に対しての、蜂須賀蓬庵(家政)の処置を一覧化したものが下の表です。
祖谷山刀狩りと強訴参加一覧

この表からは次のような事が読み取れます
①天正の一揆では、早期帰順者18名は処分されなかった(○△)
②残りの18名の名主は処分を受けたが、罪が軽いとされた名主は家の存続を許されていた。
③その中で18名の名主が刀狩り強訴に加わり、その中の多くの者がが「成敗・磔罪」に処せられた。
④一揆での早期帰順者は、刀狩りの際に刀剣を供出しているが、強訴には参加していない。
結局、「一揆・早期帰順者と強訴不参加者グループ」が阿波藩からの粛正を免れたことになります。そして彼らが「祖谷八家」のメンバーになっていくようです。

結果的には、この強訴事件を逆手にとって、蜂須賀藩は祖谷への支配強化を図ります。それはある意味では藩にとっては「織り込み済みのこと」だったのかもしれません。これについて東祖谷山村誌は、次のように記します。
藩権力としては、どうしても祖谷山名主層の武力解体は、藩経営のうえからいって、さけることのできないことであった。(中略)
このことは、藩権力のまさに、藩制確立のために、天正の武力抗争への持久力を秘めた処置の姿であり、名主層にしてみれば権力失墜への最後の抵抗も、力の優位の前に敗北という結果となっている。元和四年という年は、阿波藩にとっては重大な時期であり、祖谷山の強訴の落着によっていよいよ藩制の確立が目に見えて強まるのである。
 
  どちらにしても、阿波藩に抵抗せずに温和しくしたがった名主達が生きながらえて、「祖谷八家」と称するようになることを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「東祖谷山村誌219Pの 蜂須賀氏の阿波国支配」

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