瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:祖谷山絵巻

以前に、剣山開山について次のようにまとめました
①剣山は近世前半以前には信仰対象の山ではなかったこと
②近世後半になって剣山を開山したのは、木屋平側の龍光寺の修験者であったこと
③これに続いて見ノ越側の円福寺が開かれ、2つの山岳寺院が先達修験者を組織し、多くの信者達の参拝登山が行われるようになったこと
剣山円福寺 « 剣山円福寺|わお!ひろば|「わお!マップ」ワクワク、イキイキ、情報ガイド

これについては、龍光寺は史料的にも押さえましたが、円福寺の場合は、それが出来ていませんでした。今回は祖谷側からの剣山開山を進めたとされる円福寺を見ていくことにします。テキストは「東祖谷山村誌583P 山岳信仰」です。
東祖谷山村誌(東祖谷山村誌編集委員会 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
東祖谷山村誌

『阿波志』は、江戸時
代の剣山について次のように記します。(要約)  
「大剣山 四季の中、春はわずかで消え、夏は長くない。それ故、人は敢て登らない。西は美馬郡菅生名をへだたること四里、南は那賀郡岩倉を、へだたること六里ほど、東は麻植郡茗荷(みょうが)名をへだたること二里、この間人家もなく、登山するものは星をいただいて登り、星をいただいて帰ってくる。茗荷名からの道に渓があり、これを垢離取(こりとり)川と言う。登山者はここで必ず水浴し、下界のけがれをはらう。その上を不動坂という。不動石像が渓中にあって、時には水没してみえない。(中略)
 頂上近くの平坦な所を神将と言う。春には赤や自の草花が咲き乱れる。これを過ぎれば、頂上となり、石があって宝蔵という。西南に二石あり太郎笈、次郎笈と言う。三百歩行くと削って造ったと思われる石があり不動石という。その下に渓谷がある。これらの谷は大小の剣が交わっているかのようである。
この中には、コリトリや不動坂など熊野や大峯の山岳聖地を模した名前が出てきます。また、剣山のことを、別名小篠(こざさ)とよびましたが、これは修験の行場に由来する命名です。さらに、龍光寺の藤の池本坊の祭日は、熊野の那智神社と同じ、7月14・15日です。ここからは、剣山を開山したのが修験者たちで、彼らは熊野や吉野の修験修行場のコピー版を、この地に開こうとしていたことがうかがえます。また「登山するものは星をいただいて登り、星をいただいて帰ってくる。」とありますので、この時点では富士の池や見ノ越に登山宿泊施設は、まだなかったようです。

昇尾頭山からの剣山眺望
剣山と次郎笈 (祖谷山絵巻)

剣山に当時の人々は、どんな姿で登っていたのでしょうか?
文化、文政の頃の永井精古の『阿波国見聞記』には次のような律詩が載せられています。
法螺贅裏艦山人
白布杉清不帯塵
霊秀所鐘斉仰止
侍天雙剣五雲新
剣山 三嶺方向から
剣山と次郎笈(拡大) 祖谷山絵巻

ここからは法螺貝ををふき、白装束に身を包んだ一行が、剣山への山道を登る様が映写されています。これは、山伏を先達とする参拝登山で、『勧進帳』の源義経、弁慶一行の行脚姿に似ていたかもしれません。
異本阿波史には、次のように記されています。

  この山の御神体と崇む。別に社等なし。ここに古えより剣を納む。この巌に立あり。風雨これをおかせどもいささかも錆びず。誠に神宝の霊剣なり。六月七月諸人参詣多し。菅生名より五里、この間に人家なし。夜に出て夜に帰ると言う。その余、木屋平山より参詣の道あり。諸人多くはこれより登る。
 
意訳変換しておくと

  この山(剣山)自体を御神体として崇む。これといった社殿はなどはない。ここに昔、剣を納めたという。また、ここには剣のように立つの巌がある。風雨に侵されても、いささかも錆びない。誠に神宝の霊剣である。六月七月には、多くの人たちが参詣する。その際に、菅生名から五里の間に人家はないので、夜に出て、夜に帰る強行軍だと言う。その他には、木屋平山側から参詣の道があり、多くの人は、こちら側の道を利用する。

大剣石 祖谷山絵図
大剣岩と大剣神社 
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剣山の大剣岩
ここには、山頂の法蔵岩のことは何も触れられません。出てくるのは大剣岩で、これが御神体だとします、そして社殿はない。宿泊施設もないと記します。見ノ越の円福寺は出てきません。つまり、これが書かれたのは、見ノ越に宿泊施設も兼ねた(剣山)円福寺が出来る以前のことのようです。
夫婦池からの剣山
夫婦池越の剣山 (祖谷山絵巻)
円福寺の寺伝には、次のように記されています。
安徳帝の御遺勅に「朕が帯びていた剣は清浄の高山に納め守護すべし」と宣いになったので、御剣を当山(石立山)に納め、剣山大権現と勧請まします」とあります。ここには、近世になって語られるようになった平家伝説に附会したかたちで、安徳天皇の剣を埋めた霊山=剣山」として記されています。

大正十一年刊の『麻植郡誌』は「安徳天皇と剣山」の項に、次のような伝承を載せています。
平国盛は安徳帝を奉じて、屋島を逃れ阿波に入り、元暦2(1185)年の大晦日に祖谷に入って阿佐にお泊まりになった。ある時、剣山に登って武運長久を祈り、剣を祀らんとされたが、その時丁度岩が口を開く様に割れたので、そこに御剣を納めた。すると、岩は又口を閉した。この時までこの山を石立山と呼んでいたのであるが、それからは剣山と呼ぶことになった。剣を納めた岩を宝蔵石と呼んでいる。剣山の絶頂は平家の馬場という広い草原になっていて、鈴竹という竹が群生している。椛に竹の葉を横断して、点線状の穴のあいているものがある。これを里人は馬の歯形笹と呼んで、龍の駒が鳴んだものだと珍重するのである。又、 一説には安徳天皇の馬であるとも言う。(一部訂正)」

剣山頂上 祖谷山絵巻
剣山頂の法蔵岩(祖谷山絵巻)
これに続けて馬の歯形笹と呼ぶものは、笹の葉が開かぬ内に虫が食った痕だと云います。そして『異本阿波志』の次の記事を引用します。

「(頂)上は樹木なく一円小笹原なり、晴天には必ず龍馬出てここに遊ぶ、この笹を食うという。毛色赤くして二歳駒程なり、今これを見る人多し。(要約)」
 
晴天の時には、剣の山頂には「龍馬」が現れて、山頂に生えている笹を食む。その馬は二歳の若駒で、これを見た人は多いと云うのです。
 このように「龍竜伝説」に附会する形で、次の時代には「馬の歯形笹」が書かれます。こうして、平家伝説と剣山と山岳崇拝が、ひとつのストーリーとして伝承・伝説化されていきます。

P1250794
剣山頂の法蔵岩
これに対して、元木直洲の『燈下録』(文化9(1812)年)は、「剣山=平家伝説」説を否定して、次のような説を現します。(意訳・要約)
剣山に祀られた剣は、阿波の国霊、大宜都比売神を殺した素蓋鳴命のものだ。木屋平口から剣山に登る途中には、竜光寺の坊と思われる庵があって、そこに住む老人が、更に奥院に参詣することが許されるかどうかを神様に伺って参拝者に示すというのである。
ここには、剣山に埋められた剣は安徳天皇のものではなくて、素蓋鳴命のものだとされています。ここで注目しておきたいのが、前述の『阿波志』にも「敢てこの庵から婦人は更に奥に進まない」と記されていることです。人々の信仰の対象となる山は、日頃から人々の立ち入りを許さない山でもありました。だから、登山には神による許可が必要でした。その入山許可を与えたのが龍光寺だと記します。剣山が円福寺、竜光寺の指導の下に山伏(修験者)にって開かれたことがここからもうかがえます。
 剣山が、先達・山伏たちが信者を連れてくる「集団登山」として、龍光寺と円福寺やが剣山信仰の拠点として栄えてきたことを押さえておきます。
丸笹・見ノ越
夫婦池方面から丸笹・見ノ越方面(祖谷山絵巻)
明治維新の神仏分離で、霊山剣山の地位が動揺した時期がありました。
維新政府の神仏分離令発布と、山伏禁止令が出されたからです。これによって、熊野、那智、大峰などの修験者聖地の威令が衰え、聖護院や醍醐寺の統制力が弱まっていきます。これに対して、円福寺や龍光寺の山伏たちは、逆境を逆手にとっていきます。それまでは、中央の修験本山の許可によった山伏修験者の大先達、先達等の位階の任命権を、自分たちが握ろうとしたのです。そして、円福寺と龍光寺は中央から独立し、拠り所を失った山伏達を再組織して、剣山信仰へと導いたのです。
 円福寺に残る明治15年文書には、次のように記されています。
何某 何房
(赤地金襴紫何  級輪袈裟着用
許可能事
年号月日
真言宗剣山 円福寺主 権少講義何某
右者許容書
これは袈裟着用の許可文(認可状)の形式で、この形式に基づいて、袈裟を発行していたことが分かります。
別に、次のようなものがある。
許可次第
第一   明治十五年六月二百五十枚用意  先達免状渡
第二   同年初テ三十枚用意  近士戒
第三 同右同枚 法名院号許可
第四 同百枚用意 大先達許客証
第五 同二十枚用意 袈裟許可仕也
右五ヶ御許可仕事
別義
何組長或副長申付仕能事
御宝剣御巻物等ハ勤功
之次第二依而被渡仕也
明治十五午年定
ここからは明治15年に、円福寺が上記のような規定をつくり、免状・院号・先達書・袈裟許可書など作成し、先達や信者に与えたことが分かります。つまり、これらの証明書や許可状の発行権を持っていたのです。
剣山円福寺・徳島県三好市東祖谷菅生 | Bodhisvaha
剣山円福寺

円福寺の護摩祈祷や剣神社の祭りには、どんな行事が行われていたのでしょうか?
東祖谷山村誌には、剣神社の最高位の先達であった元老大顧間の森本長一氏の次のような話が載せられています。

円福寺の境内には、一坪ばかり石を築いた小高い所があり、この上を護摩の建火場として、僧侶がこれに向って経文を唱える。周囲には先達を始め、多数の参詣人が白装束で立っている。護摩の焚木には、その者の住所、名前、千支、性別が記されてあり、桧でできているが、それにシキミの葉を添えて、僧侶が住所、名前等を唱えながら火中へ投ずるのである。護摩を焚く間、先達の免状としてある木札すなわち絵符をその先につけた杖は、一まとめにして背後の小祠に祀ってある。絵符は杖につけやすいように下駄状の歯が着いており、歯には中央に穴があいているので、それに杖を差しこんで紐で結びつけるのである。

剣山円福寺の護摩
円福寺の護摩法要
 戦前は護摩焚きの灰をかためて、不動尊を造ったり、古い先達の像をつくって御守としたことがあったそうだ。現在でも御神石の下から湧く御神水を水筒などに入れてもちかえる人も多い。御神水は何年おいてもくさらない水で、これを飲むと無病息災、病気の人も不思議と回復するという。これを神棚に祀ったりもする。
円福寺の祭日は旧六月十四、五日だが、剣神社は七月一日に「お山開祭」、七月十七日に「剣山大祭」を行う。大祭には神輿が出る。円福寺の信者には香川・岡山など他県の人も多いそうだが、剣神社の信者もそうで、戦前には香川から獅子舞もやってきたそうだ。
剣山年間行事

 剣神社の先達組織は、お山先達・小先達・中先達・大先達・特選大範長・名誉大範長・元老大顧問の七階級からなっている。先達は約千人程で、岡山、香川、愛媛、高知、徳島などの各県に拡がっている。講中には例えば、森本長一氏の場合、森本会という組織をつくっておられる。先達が信者を募集してバスなどで剣神社に参詣するのである。森本会には二人の女性の先達がいるそうだが、神社全体では十人内外の女性先達がいる。行場で女性が修行することを許されたのは昭和七年からである。
要点を整理しておくと
①円福寺の境内で護摩祈祷が行われ、周囲に先達や多数の参詣人が白装束で参加した。
②護摩の焚木(檜)に、参加者の住所、名前、千支、性別が記して、僧侶が住所、名前等を唱えながら火中へ投ずる
③護摩を焚く間、先達免状の木札(絵符をその先につけた杖)は、一まとめにして背後の小祠に祀ってある。(先達の叙任式を兼ねていた)
④戦前は護摩焚きの灰をかためて、不動尊を造ったり、古い先達の像をつくって御守とした
⑤現在でも御神石の下から湧く御神水を水筒などに入れてもちかえる人も多い。
⑥円福寺の祭日は旧六月十四、五日だが、剣神社は七月一日に「お山開祭」、七月十七日に「剣山大祭」を行う。大祭には神輿が出る。
⑦円福寺の信者には香川・岡山など他県の人も多く、戦前には香川から獅子舞もやってきた。
⑧剣神社の先達組織は、お山先達・小先達・中先達・大先達・特選大範長・名誉大範長・元老大顧問の七階級からなっている。
⑨先達は約千人程で、岡山、香川、愛媛、高知、徳島などの各県に拡がっている。
⑩先達が信者を募集してバスなどで剣神社に参詣する。
⑪十人内外の女性先達がいるが、行場で女性が修行することを許されたのは昭和七年からである。

剣山の行場

最後に剣山の主な行場を、次のように挙げています。
鎖の行場
鉄の鎖が滝にそって降されており、それを握って滝を下る修行をする。
不動の岩屋                          
洞穴の中に不動尊を祀ってあるが、その不動尊に水が落ちている。夏でも一般の人なら十分間と中に入っておれない冷たさだという。
鶴の舞
鶴が翼を広げ、胸を張った姿の様に岩が張りだしており、そこを廻るのである。
千筋の手水鉢
水が流れて岩が縦に割れ、たくさんの筋状になっている。それを降りるのである。
引臼舞
引臼状をした岩を廻るのである。
蟻の塔渡り
足場の岩が刻みこんであり、そこに左右の足を突込んで廻る。もし左右の足の位置を間違えれば出発点にもどってやりなおすしかないという。
以上をまとめておきます。
①江戸時代後半になって、木屋平の龍光寺の修験者たちによって剣山は開山され、富士の池を通じて、多くの参拝登山者が先達たちに率いられてやって来るようになった。
②祖谷側では菅生の円福寺が見ノ越を拠点に大剣神社を神体とする石鎚信仰を広めた。
③龍光寺と円福寺は、信者テリトリーを分割して、共存共栄関係にあった。
④明治の神仏分離や山伏禁止令の中でも、両寺は教勢を失わずに信者達を集め続けた。
⑤こうして見ノ越の円福寺は、本家の菅生・円福寺を凌駕するに至った

こうして、見ノ越の円福寺は明治の神仏分離以後も剣山の見ノ越側の拠点として繁栄を続けることになります。ところで、江戸時代後半になって見ノ越に現れた円福寺は、もともとはどこにあったお寺なのでしょうか。それを次回は見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

木地師5
木地師(ろくろ師)
    木地師(きじし)のことが、東祖谷山村誌に載せられていました。これを今回は読書ノート代わりにアップします。まずは、木地師についてのアウトラインを「ウキ」で押さえておきます。
①木地師とは轆轤(ろくろ)を用いて椀や盆等の木工品(挽物)を加工、製造する職人で、ろくろ師とも呼ばれた。
②伝説では近江国蛭谷(現:滋賀県東近江市)に隠遁した惟喬親王が、手遊びに綱引ろくろを考案し、周辺の杣人に木工技術を伝授し、日本各地に伝わったと言う。
③惟喬親王の家来、太政大臣小椋秀実の子孫を称する人たちは「朱雀天皇の綸旨」の写しを持って、全国の山々に入り込み、7合目より上の木材を自由に伐採できる権利を主張した。
④綸旨や由緒書の多くは、江戸時代の近江筒井神社の宮司・大岩助左衛門重綱の偽作であるが、木地師が各地に定住する場合に有利に働いた
⑤木地師は良質な材木を求めて20〜30年単位で、山中を転々と移動しながら木地挽きをし、里の人や漆掻き、塗師と交易をして生計を立てていた。
⑥中には移動生活をやめ集落を作り、焼畑耕作と木地挽きで生計を立てる人々もいた。そうした集落は移動する木地師達の拠点ともなった。
木地師と近江の筒井神社
筒井八幡(帰雲庵)(東近江市蛭谷町)と木地師
江戸時代に入ると木地師達は、次のどちらかの神社の氏子に登録されていきます
A 惟喬親王の霊社を祀った神祗官の白川家擁する君ガ畑村(東近江市君ヶ畑町)の大皇太神(鏡寺)
B 神祗官の吉田家擁する蛭谷村の筒井八幡(帰雲庵)(東近江市蛭谷町)
両社は、それぞれ自分たちを木地師の氏神と称し、競って自社の氏子に登録していくようになります。これを「氏子狩」と呼んだようです。こうして総代代理と称する勧進僧が近江からやってきて、寄進を募るようになります。これが「氏子駆」で、その寄進の「勧進帳」が両社には数多く残されています。これを見ると幕末には、木地師は東北から宮崎までの範囲に7000戸ほどいたことが分かります。

祖谷山に木地師がいたことをしめす一番古い史料を見ておきましょう。
 阿波国田井庄中西郷之内轆轤師得銭、取前御方参上、者当知行不可有相違候状如件
康暦二(1343)年十二月十五日
阿波守 花押
国藤治部亮殿
意訳変換しておくと
阿波国田井庄中西郷の内の轆轤(ろくろ)師得銭(徳善)を、御方に与える。よって当知行について相違なきことを記す。如件
①康暦二(1343)年十二月十五日
②阿波守(細川頼之)花押
③国藤治部亮殿

①年号は康暦(こうりゃく)2年で、1380年にあたります。南北朝時代の末期です。
②花押の上には阿波守とあります。当時の阿波守は細川頼之になります。
③宛先の国藤治部亮は、徳善治部の子になるようです。

③の国藤治部亮の父・得善治部は、河内国出身で楠木正成の臣下と称します。南朝のため軍勢を募る目的で阿波にやってきて、西祖谷山に定住し、その開墾地を得銭と名付けます。のちに徳善と改め、徳善氏を名のります。吉野南朝方として活動しますが、康暦二年(1380)に細川頼之の阿波制圧に対して降伏して、安堵状を得たようです。この時に安堵された領地が「阿波国田井庄中西郷内の轆轤(ろくろ)師得銭(徳善)」ということになります。ここからは、南北朝時代に木地師達が祖谷山の徳善に定住していたことがうかがえます。これが最も古い木地屋に関する記録になるようです。ちなみに、この前年は「康暦の政変」で、室町幕府管領の細川頼之が失脚し、讃岐の宇多津に「帰国」した年になります。細川頼之は帰国後に、阿波への南朝残党軍の攻略を進めたとしておきます。
 東祖谷山村誌は、さらに次のような推測をします。
  徳善氏が南朝動乱期において、木地師たちを保護したのではないか。それは、木地師たちの持つ「職業的機動性」と「全国的なネットワーク」を活用し、熊野行者と同じように、南朝の機動部隊として飛耳張目して諜報伝令の役にあたったと研究者は推測します。木地師達は徳善氏の保護を受けて、周辺へと入植していきます。ここでは南北朝時代に、現在の徳善に「ろくろ師」の集落があったことを押さえておきます。
徳善を起点に木地師は、次のように活動エリアを拡げていきます。

祖谷村徳善
木地師の最初の入植地? 大歩危駅周辺の徳善・榎・西岡
①榎を中心として、吉野川対岸の山城町の六呂木・下名
②榎から北東の吾橋・徳善・西岡と分裂・発展しながら、東北に移動
西岡から東に伸びる尾根づたいに祖谷川に出て、今久保・中尾・閑定の山地に小屋を構え、さらに上流へと移動していきます。彼らの活動が、記録で確認できるのは18世紀になってからです。
木を求めて移動する木地師
木地師の転居
近江筒井八幡宮の「氏子駈帳原簿第十一号」には、氏子駈巡国人が、阿波の「いや谷・一宇山・みふち(深渕)」に、享保二十(1735)年9月に入山したことが記されています。これが「氏子駈」としては、一番古い史料になるようです。そこに記されている「氏子寄進リスト」を見ておきましょう。

元文2(1737年)の寄進リスト
美馬郡一宇山と三好郡祖谷谷の木地師の寄進リスト

元文2(1737年)の深淵山中木屋で、「氏子駈」に対しての寄進リスト
中木屋と木屋平のリスト
   ここからは、深淵・木屋平・美馬郡一宇山・三好郡祖谷山に、これだけの木地師達がいたことが分かります。
ひとりの木地師は「初尾+氏子+きしん(寄進)」の3点セットとなっています。「初尾」は、 神仏に供える金銭や米です。平安時代中期ごろから「初穂」を「はつを」と発音するようになり、中世以降は「初尾」と書くようになります。氏子は「氏子料」・きしんは「寄進料」・えぼしは「烏帽子料」でしょう。
 ここからは、18世紀前半になると伊勢講の御師のように、 近江筒井八幡宮の氏子駈巡国人が祖谷山周辺にもやってきて、木地屋たちから「氏子料集金」を行ったことが分かります。それから百年後の天保3年にも、氏子駈巡国人はやってきて次のような寄進リストを残しています。一番右に「同国美馬郡葛生(葛尾?)山木地師」と見えます。
天保3年9月(1832)筒井公文所氏子駈帳22号簿冊所収3(名頃)
1832年 名頃の木地師の寄進リスト
  
 祖谷山の木地師たちは、どんな生活を送っていたのでしょうか

木地屋の家 歴第60図 祖谷山絵巻
                        木地屋の家  祖谷山絵巻
画題 祖谷山当丸絶頂望菅生名諸山年表秘録に曰く、文政11年9月卯上刻公(蜂須賀斉昌)祖谷山御見分御出。同27日未中刻御帰城。
 |
19世紀前半に、藩主の祖谷山巡回に従った絵師の渡辺広輝(ひろてる)が残した「祖谷山絵巻(17面)」の中には、木地師の家と題された一枚があります。題目は「木地挽小屋全図」で、遠景の註に「土佐境」とあります。この絵図からは次のようなことが読み取れます。

A ①土佐境の祖谷山山中に3軒の木地師の小屋が並んで建っている。
B ②一番右の小屋からは煙が上がり、その前に②干し物が干されている。また周りにはろくろで削った④木屑が盛り上げられている。
C 小屋の周辺には、③のような切株が数多く見えて、材料のために周辺の森が切り倒されている。
D 右から二番目の小屋には、面に⑤木材が数多く立て掛けられていている。乾燥して材料とする木材だろうか?
E 水桶と樋が見えるので、⑥水場が確保できていることが分かる

木地師の家 祖谷山絵巻(拡大)
祖谷山の木地師の家(拡大)
水場などが確保できて、居住環境が良ければ、木々が倒された森は、焼き畑として利用されて、定住していく木地師たちもいたようです。
  この絵に描かれた木地師の家も、主屋・作業小屋・乾燥小屋など、作業用途に応じて建てられていた気配がします。そうだとすると、ここにいるのは一家族だけになります。

御出仏山・明谷山・中野山
御出仏山・明神山方面(祖谷山絵巻)
弘化四年(1847)2月、医師陳々斉の随筆・診療日録『俗話集』には、当時の木地小屋のことが次のように記します。
「はるかの谷間より同じくヲヲイと答えるにぞ嬉しくも、さては是なん木地屋の家居より答えるならんと思ひつつ、行けども行けども時ならぬ霧がくれにして、行先き一向さだかならねども折々人の声も聞へける程に、間ものふ心ざす方へ無恙(つつがなく)当(到か)着して、うろ/ヽ見廻し
見れば、二間半四方程の小屋二軒あり、いづれも桜や槙などの皮にて屋根を葺き、ぐるりの囲いも同じく、殊に滝の端に細長き木にて椰をあみたるうへゝ、彼木の皮をしき、其上へむしろ様の物を並べてある也。さて西方が亀吉とかいふ木地師也。東方は鶴太といふて、則ち此も疱瘡を病居るな
り。いかさま八畳敷程もあるらん、坐の真中に大なるいろりをあけてあり。すさましき措木をくべて、中々暖かなる事なり。肝心の二便場(便所)をととへば、此所は一向、作付植物などいたさぬゅへ、不浄は無用の事故、彼(かの)小屋外の棚端より居捨て給へときけば、おかしくも又恐ろしく、
いかさまと、こはごわ覗けば、誠に波風荒き海原に小船をつけし心地して、几そ二十四五間もあるべき滝下を望めば、中々、二便の気もなくならん」
意訳変換しておくと
「はるかの谷間からヲヲイと答えてくれることが嬉しく、これが木地屋の家からの返答だろうと思いつつ足を運ぶ。しかし。行けども行けども、霧が深く、行先は一向に見えてこない。折々、人の声が聞へてくるので、その声を頼りに、こちらだと思う方へ向かっていくと、なんとか到着した。うろうろと見廻して見れば、二間半四方程の小屋が二軒ある。どちらも桜や槙などの樹皮で屋根を葺いている。周りの囲いは、滝の端に細長き木で棚を編んで、木の皮をしき、その上へむしろのような物を並べてある。二軒の内の西方が亀吉という木地師で、東方は鶴太といい、疱瘡を患っている。中に入ると、八畳敷ほどの広さの坐の真中に、大きな囲炉裏が開けてあります。そこに多くのほだ木がくべられていて、暖かい。
 便場(便所)はどこかと問うと、ここでは一切、作物を作らないので、不浄は無用のことで、この小屋外の棚端からしたらよかろうとのこと。おかしくも恐ろしく、家のそばの滝をこわごわと覗き込んでみると、波風の荒い海原に小船を着けるような心地して、およそ25間も下の滝壺が見えてくる。これを見て、便気もなくなってしまった。」
木地師小屋6

ここからは次のようなことが分かります。
二間半四方の小屋が二軒あって、木地師と疱瘡患者が生活していた
②小屋は樹皮の皮で屋根が葺かれている。
③大きな囲炉裏があって、ほだ木が大量にくべられてる。
④家は滝のすぐ近くに建っていたこと。

モシホ坂・菅生・塔の丸から 
小島峠から菅生・久保方面(祖谷山絵巻)
大正11年(1922)折口信夫は木地屋のたたずまいを、次のように詠んでいます。(『折口信夫全集』第廿六巻 中公文庫版)
   高く来て、音なき霧のうごき見つ
木むらにひびく、われのしはぶき
篇深き山澤遠き見おろしに
頼静音して、家ちひさくあり
澤なかの木地屋の家にゆくわれの
ひそけき歩みは 誰知らめやも
有瀬 宵の岳 祖谷山絵巻
有瀬(祖谷山絵巻)

近世阿波の漆器工業は、美馬郡半田村の敷地屋を中心に展開していきます。
宮本常一編の作品一覧・新刊・発売日順 - 読書メーター

竹内久雄が史料提供し、また自らも執筆した『うるし風土記 阿波半田』を見ておきましょう。享保二十年(1725)11月、土佐韮生(香美郡物部村)久保山に、筒井八幡宮の巡国人が到着し、周辺の木地屋から上納金を集金します。その中に、次のような記録があります。

一、三分  初尾  半田村二而ぬし屋(塗物師) 善六」
『享保二十乙卯九月吉祥日 宇志こか里帳』(筒井八幡宮原簿十一号)

ここからは、善六がもともとは物部の木地師であったのが、半田に移って、「ぬし屋 (塗物師)」となっていたことが分かります。同時に享保の終り(1725年)には、半田地方に各地の木地師から白木地が送り込まれ、塗りにかけていたと研究者は考えています。
 それから約20年後の宝暦八年(1758)に、半田漆器業の開祖といわれる敷地屋利兵衛が、31歳で半田村油免に漆器の店を開きます。その後、七人の兄弟と力を合わせて、家業は軌道に乗せます。そのころには三好・美馬両郡には、25世帯の木地師が住んでいたと云います。それが開業から42年後には、家族を含め304人に増えています。急速な発展ぶりがうかがえます。初代利兵衛は、天明元年に54歳で亡くなると、その子の亀五郎が15歳で稼業を継ぎます。敷地屋の略系を示すと、次頁のようになる。 
敷地屋の略系
  半田の敷地屋略系
    祖谷の木地師たちは、各峠を越えて半田の敷地屋に白木地を納入するようになります。敷地屋による白木地の独占体制ができあがっていきます。半田の漆器工業は、藩の財源増収策の一環として保護され、販路を拡げていきます。2代目亀五郎が41歳の時には、苗字帯刀、大久保姓を許されます。文化8年(1811)には、塗物裁判所を開設し、翌年には亀五郎の長男善右衛門が、漆樹植付裁判役に就いています。
 嘉永3年(1850)、4四代熊太は、江戸への市場拡大を計ります。藍商の志摩利右衛門の力を借りて、藩の御用船による製品の輸送を始め、江戸の霊岸島に支店を置いて、藩の倉庫を使用して営業を行うようになります。
半田敷地屋の漆器全国販路
半田の敷地屋の全国販路(1851年)

こうして4代目の時代には、全国40ヶ所にまで販売網を拡げます。
これは急速な白木地の需要増大を招きます。祖谷山周辺の木地師に大量の注文が舞い込むようになります。半田漆器や木地師の繁栄のピークは、この時期だったようです。

半田 敷地屋

 半田漆器は幕末に一時衰退しますが、明治半ばになって敷地屋の努力で復活します。明治20年の仕入れ帳には、木地挽150戸・塗師40戸・磨師100戸・蒔絵師30戸・指物大工60戸を参加に従え、年間販売高13,8万円とあります。

半田敷地屋2

半田町史には、次のように記されています。

「木地を一字から木地屋の人々が持ってきて、半田の逢坂の一部落は、その塗師の集落であった。それらは、木地と塗料を敷地屋から受取り、家族が仕上加工した。塗るだけではなし、全部半田でするようになった。白木地で庸や箱を作る一種の家具大工と、塗るだけのものが分業し、あるいは両者を兼ねるものに分れ、三者合せて、大正十四年四月の調べでは、専業百戸、副業二〇戸位い」

東祖谷山村落合の木地屋、小椋竹松(1882~1965年)は、1950年4月(69歳)の時に、次のように語っています。

「私の一日の生産 
「からすばち」のときは三〇個、「菓子ぼん」は、二〇〇個、吸物搬で静付で一五〇個ぐらい。背負うときは、小さい「菓子ぼん」なら四〇〇個、もみすくいなら五〇個を背中に負い、落合峠を越え、加茂山峠を経て、半田町の木内に達し、問屋の大久保へ製品を差出した」
「これらの加工品は、すべて米麦と代えていたが、日露戦争の直後、菓子ぼん五寸三分のもので、間屋渡しが一枚五厘であった」

以前に、落合峠は「塩の道」で祖谷村消費する讃岐の塩が運ばれたことをお話しました。しかし、木地師から見ると、名頃や落合の木地師達が作った白木地が半田に向けて運ばれた道でもあったようです。「木地師の道」とも呼べそうです。

敷地屋五代の弁太郎と長男の利美は、相次いで亡くなります。
そこで分家の亀吉の子甚吉が、本家の後継となりますが、漆器工業の前途を見限って、大正15年に廃業します。こうして職人は四散し、半田漆器は衰退します。ここでは半田の漆器工業は、享保から大正末まで、祖谷の木地屋たちから、二百余年にわたって、白木地の提供を受けていたことを押さえておきます。

漆・柿渋と木工 宮本常一とあるいた昭和の日本23』田村善次郎監修他 - 田舎の本屋さん

半田漆器を、姫田道子氏がレポートしたものが「宮本常一と歩いた昭和の日本23」に載せられています。それを最後に紹介しておきます。
 ところが竹内さんの仕事場には、膳などはあっても椀は見ることができません。私はそれが気になりました。どうしてお椀がないのかしら。竹内さんのお話では、椀をつくっていたのは、専ら敷地屋という半田では唯一の漆器問屋だったらしい。そして半田周辺の山や、半田の町なかに住んでいた木地師たちがつくった椀木地は、すべてその敷地屋に納められていたといいます。独占でした。
 また明治20年代の記録では、逢坂には40軒の塗師屋がありましたが、そのうちのほとんどが、敷地屋の賃仕事をしていたといいます。たぶん半田のお椀の大多数は、そういう家々によってつくられたのでしょう。
東祖谷山地図2
    東祖谷山の落合峠と小島峠(東祖谷山村誌)

<木地の道>
 車で降り立ったところは、中屋といわれる山の中腹で陽が当たり、上を見上げると更に高い尾根がとりまいています。
 「あそこは蔭の名(みょう)、おそくまで雪が残るところ、馬越から蔭の嶺へと尾根伝いに東祖谷山の道に通じています。昔、木地師と問屋を往復する中持人が、この下のあの道を登り、そして尾根へと歩いてゆく」
 と竹内さんは説明して下さると、折りしも指をさした下の道を、長い杖を持って郵便配達人が、段々畑の柔らかな畦道を確実な足どりで登って来ました。平坦地から海抜700mの高さまで点在する半田町の農家をつなぐ道は、郵便配達人が通る道であり、かつては木地師の作る椀の荒挽を運ぶ人達の生活の道でもあったのです。
半田敷地屋の生産関係

半田敷地屋の生産関係図(東祖谷村誌)

 東祖谷山村の落合までは直線距離で25キロ、尾根道を登り降りすると40キロ。陽の高い春から秋にかけては、泊まらずに往復してしまう中持人もいたとか。さすがプロです。しかも肩に担う天秤棒にふり分け荷物で13貫(約50㎏)という重量があり、いくつも難所があったのに町から塩、米、麦、味噌、醤油、衣料、菓子類までも持ってゆき、そして半田の里にむけての帰り道は木地師が作った木地類を持ち帰ります。運賃の駄賃をもらう専門職でした。

 半田から南東の剣山の麓近くの村、一宇村葛籠までは、峠を越え尾根道をゆき渓谷ぞいの道を歩いて25キロ。
竹内さんはここで昔、木地師をしていた小椋忠左ヱ門さん夫妻をさがし当てました。51年の1月と51年の秋に二度訪れております。おそらく阿波の山でこの方ひとりが半田漆器と敷地屋とに、かかわりを持った最後の木地師ではないかと思われます。
東祖谷村の小倉姓一覧
東祖谷村の小椋姓一覧(木地師は小椋を名告った)

木地師の山
木地師の山(岳人)
以上をまとめておきます
①祖谷山の木地師は、吉野川沿いの徳善や榎・西岡に入植した
②南北朝末期の徳善氏の記録に「轆轤師得徳」と地名が出てくることが、それを裏づける。
③以後、切り尽くせば、さらに奥地に良質な木を求めて、祖谷側上流へと移動していく。
④実際の、木地師としての活動がうかがえる史料は「氏子駈帳」で、18世紀の前半に祖谷山村周辺での活動が見えてくる。
⑤19世紀には藩主お抱え絵師が残した「祖谷山絵巻」に、土佐国境附近での木地師小屋が描かれていて、活動の一端がうかがえる。
⑥祖谷山周辺の木地師は、半田の敷地屋に材料を下ろすようになり、安定的な生産活動が始まる。
⑦しかし、近代化の中で漆器の先行きに不安を感じた敷地屋は、今から約百年前の1926年に稼業を畳んだ。こうして、祖谷山村周辺の木地師たちも製品の卸先を失い、衰退していくことになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
東祖谷山村誌258P 祖谷における「ろくろ師」の発生
竹内久雄編集 『うるし風土記 阿波半田』
姫田道子 半田漆器レポート? 宮本常一と歩いた昭和の日本23

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