白川琢磨先生に連続四回の比較宗教社会学のシリーズ講義をお願いしています。今回は、その2回目になります。仲多度や三豊の神仏習合から神仏分離に至る動きが聞けそうです。興味と時間のある方の参加をお待ちします。なお、会場が吉野公民館に変更になっていますのでご注意ください。
白川先生の著書です。
白川先生の著書です。
佐定と一緒に、裏谷に隠置(かくしおき)たる仏像類を検査しに出向いた。長櫃が2つあった。蓋をとって中を検めると、弘法大師作という聖観音立像、智証大師作という不動立像などが出てきた。その他に、毘沙門像や二軸の画像など事については、ここにも記せない。今夜は矢原正敬宅に宿る。
(『年々日記』明治五年[七月二十日条])
①弘法大師作という聖観音立像(後の十一面観音)②智証大師作という不動立像
「ただれ跡の剥落」を、「かつて護摩を焚いた熱によるもの」
(前略)此所にて、天下泰平五穀成就、参詣の諸人請願成就のため、又御守開眼として金光院の院主長日の護摩を修る事、元旦より除夜にいたる迄たゆる事なし(後略)
護摩堂では、天下泰平・五穀成就、参詣者の請願成就のため、又御守開眼として、護摩祈願が行われており、元旦から12月の除夜まで、絶えることがない。(後略)
金毘羅大権現は金刀比羅宮へ、象頭山は琴平山へと名前を変え、その姿も仏教伽藍から神社へと
「故ありて明治16年2月大麻村字上の村に移転し、同28年再び元の地に復せり」
「新たに生まれた金刀比羅宮は、本来の神である金毘羅大権現を追い出した後に、大国主命とし迎えた神社である。本来の金毘羅大権現を祀る仏式の宗教施設を自分たちの手で作りたい」
当寺本堂二於テ金比羅童子 威徳経儀軌 併せて大宝積経等々煥乎仏説有之候 金毘羅神ヲ安置シ金毘羅大権現卜公称シ鎮護ヲ祈り 利済ヲ仰キ人法弘通之経路ヲ開キ申度蓋シ大宝積経三十六巻 金毘羅天授記品 及金毘羅童子威徳経 二名号利益明説顕著ナリ今名号ノツ二ツヲ挙レバ 時金毘羅即以出義告其衆云云
又曰時二金毘羅与其部徒云云 又曰金毘羅浄心云云
其他増一阿含経大般若経大日経等之説所不少 且ツ権現之儀モ義説多分ナレトモ差当り 金光明最勝王経第二世学金剛体権現 於化身云云如此説所分明ナル上ハ 仏家二於テ公称勧請仕候テ 毫モ異論無之儀卜奉存候 勿論去ル明治十五年一月四日附 貴所之布教課御告諭之次第モ有之 旁以テ御差悶無之候得ハ速二御免許被成下度此段奉伏願候也愛媛県讃岐国多度郡大麻村 長法寺 住職 三宅光厳印同県同国郡那珂郡琴平村 信徒総代塩谷太三郎印同郡榎井村檀徒総代 斎藤寅吉印同郡 同村檀徒総代 斎藤荒太郎印明治十八年一月十一日本宗管長 三条西乗禅殿
「金毘羅神を安置して金毘羅大権現と呼んで信仰活動を行いたい。それが人々を救い世の中を栄えさせることにつながる」として金毘羅神についての「神学問答」が展開されます。そして、金毘羅大権現を仏教徒が勧進信仰しても、何ら問題はないと主張します。しかし、先年明治15年の神祇官布告もあるので、問題が生じた場合は直ちに停止するので、認めていただきたい。
内 諭長法寺住職 三宅 栄厳護法神金毘羅大権現勧請之義 御聞置相成候二付ハ左之条々ヲ遵守スベシ此段相達候事真言宗 法務所印明治廿四年一月廿六日第壱条金毘羅大権現者仏家勧請之護法神タリト雖モ 従前象頭山金毘羅大権現卜公称之神社アリシヨリ 目下金刀比羅神社卜同一ノ物体ナリト意得ノ信徒等有之候 テハ却テ護法神勧請ノ本旨二背馳シ且神仏混淆廃止ノ朝旨ニモ戻り 甚夕不都合二候 宝前二於いて法式ヲ執行シ信徒之為メニ祈祷等ヲナサント欲セハ必ス先本宗ノ経軌ニヨリテ事務シ 毫モ神社前二紛敷所為など供物等不相備様屹度可致事第貳条本堂内二勧請之尊体ハ固ヨリ 経説ニヨリテ彫刻スベキハ勿論 萬一他二在来ノ尊体ヲ招請スル訳ナレバ授受ノ際 不都合無之様注意シ 尚地方廳エハ順序ヲ践テ出願シ 其許可ヲ得テ 該寺シ内務省ヘモ可届出筋二付 此旨相意得疎漏之取計方無之様可致候事 以上
寄 附 状 (写)讃岐国多度郡麻野村 長 法 寺金毘羅大権現 木像 壱躯右令寄附畢明治廿四年三月十日大本山仁和寺門跡大僧正 別處 栄厳
御管内多度郡麻野村大字大麻長法寺儀別紙願面三通 金毘羅大権現木像壱躯 什物帳へ編入之義
出願事実相違無之候条右御聴許相成度此段副伸候也京都葛野郡花園村御室仁和寺門跡大僧正別處栄厳代権少僧正 鏝 瓊 憧明治廿四年五月十六日香川県知事 谷森 真男 殿
御管下多度郡麻野村大字大麻長法寺
明細帳へ金毘羅大権現木像壱体編入之儀
別紙願出之通事実相違無之候条副申候也明治廿四年五月十九日真言宗長者 大僧正 原 心猛印香川県知事 谷森 真男殿
長法寺移転二付境内建物明細書寺院移転ノ儀二付願香川県仲多度郡善通寺町大字大麻真言宗御室派 長 法 寺右寺儀今般檀徒及ビ信徒ノ希望二依り旧寺地ナル 仝那榎井村参蔭参拾番地へ移転致度候条御許可被成下度 別紙明細書及図面相添へ此段上願仕候也右寺法類龍松寺住職 長谷 最禅圓光寺住職 出羽 興道
明治2年 明治天皇の命で、崇徳上皇霊を新に創建した京都白峯神宮に遷祀。明治6年 白峯寺住職恵日が復飾し御陵陵掌に転じ、寺は無住化。明治8年 白峯陵掌友安十郎、白峯寺堂宇の取払いを建議。明治11年 寺は白峯神社と改称、金刀比羅宮の摂社となる。明治31年 仏寺に復する。頓証寺は白峯寺に返還される。
崇徳上皇は讃岐の地に移られてから親しく琴平の宮に参籠されおり、ここには「古籠所」・「御所の屋」という上皇ゆかりの旧跡も残っている。そのようないきさつから、琴平の宮では古くから上皇の御霊をひそかにお祀りしてきた。頓証寺に祀られていた上皇の御霊が京都に還った以上、頓証寺は抜け殻になってしまったのだから琴平の宮が上皇を祀る讃岐の中心でなければならない、
白峯寺と頓証寺は、金刀比羅宮と歴史的に何の関係もない。にもかかわらず、金刀比羅宮が頓証寺を自社の末社として古くから頓証寺に伝わる宝物まで占有管理しているのはおかしい、
歴史的経緯からいってすべて頓証寺に返還するのが当然だということです。
明治11年から20年間頓証寺が白峯神社として金刀比羅宮の末社であったことは政府の命令に基づき行われたことであって、すべての宝物を返還する理由は無い
1 天皇家によって崇徳上皇の御霊を京都へ移され2 明治政府によって土地財産を奪われ3 その結果、お寺は一時的にせよ廃寺となり4 さらに金刀比羅宮によって頓証寺の摂社化と、その宝物の「横取り」された。5 その復活・復興に30年を要したということになるようです。
① 平田神学・水戸学などの同調者が宗教政策決定のポスト近くにいたこと。② 廃仏に対する拒否感のない殿様がいたこと。③ 庶民の寺院・僧侶への反発や批判が強く、寺院擁護運動が起きなかったこと
「向後御仏祭一切御廃止に相成り候。右に付御祥月御精進日等以後御用捨あらせられ御平日之通り」
覚一、僧は方外之者、世襲俗人と大に異なり、土地山林を占得するの途あるべからず。今日より更に之を禁ずべし。一、御改革に付、寺院寄付之土地山林一円被召上之、堂宇寺院之傍少許之土地山林傍示を改、之を寺付として付与すべし。一 一向宗は僧俗相混、世襲之体を存すると雖も宗俗と同しかるべし。一 僧徒還俗を欲する者 好に任すべし。一 私領或は私産等を以て相当之寺入を欲する者、願に寄り商議すべし右之通被仰付候事午四月二十三日 藩 庁
①一番上が廃物前寺院数で、明治維新時の各宗派の寺院数で、高知藩には合計751の寺院があったことになります。②一番下の存続寺院実数は、廃物運動後に残った寺院数です。真言宗の「245寺 → 44寺」の激減ぶりが目立ちます③その後に他県から移転してきた寺院数をプラスすると現在の寺院数になります。④合計数を見ると751寺あったのが211寺まで激減した事になります。当時の僧侶1239人のうちの大半が還俗したとも云われますし、寺院数で幕末期の約三〇%にまで激減したのです。これは高知が四国で一番廃仏毀釈運動が激しかったと云われる所以でしょう。
①天満寺は藩政初期に蜂須賀蓬庵(家政の隠居後の法名)によって 創建されたものですが、近世を通じて寺勢はふるわなかったようです。②法雲庵は、徳島市にあったときは単伝庵と称し、藩の家老稲田九郎兵衛家の建立した氏寺でした。③室生寺や大善寺も、地蔵寺や鶴林寺の塔頭寺院でした。このように庵室程度の小寺院で、檀家もほとんどなく、徳島藩の家臣や地下の庄屋などの私寺的な存在であったお寺が多かったようです。
琴陵宥常像明治維新後の近代日本黎明期に金毘羅大権現を金刀比羅宮と改め、大本宮再営や琴平博覧会を開催し、晩年には海の信仰をつかさどる金比羅宮宮司として日本水難救済会を創設するなど強固な信念で今日の金刀比羅宮の基礎を築いた人物である。
此度 王政復古神武創業ノ始ニ被為基、諸事御一新、祭政一致之御制度ニ御回復被遊候ニ付テ、先ハ第一、神祇官御再興御造立ノ上、追追諸祭奠モ可被為興儀、被仰出候 、依テ此旨 五畿七道諸国ニ布告シ、往古ニ立帰リ、諸家執奏配下之儀ハ被止、普ク天下之諸神社、神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡間 、官位ヲ初、諸事万端、同官ヘ願立候様可相心得候事,但尚追追諸社御取調、并諸祭奠ノ儀モ可被仰出候得共、差向急務ノ儀有之候者ハ、可訴出候事
今般王政復古、旧弊御一洗被為在候ニ付、諸国大小ノ神社ニ於テ、僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ、復飾被仰出候、若シ復飾ノ儀無余儀差支有之分ハ、可申出候、仍此段可相心得候事 、但別当社僧ノ輩復飾ノ上ハ、是迄ノ僧位僧官返上勿論ニ候、官位ノ儀ハ追テ御沙汰可被為在候間、当今ノ処、衣服ハ淨衣ニテ勤仕可致候事、右ノ通相心得、致復飾候面面ハ 、当局ヘ届出可申者也
一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細に書付、早早可申出候事、但勅祭之神社 御宸翰勅額等有之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ、御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候事、一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、附、本地仏と唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事、
右之通被 仰出候事
今般諸国大小之神社ニオイテ神仏混淆之儀ハ御禁止ニ相成候ニ付、別当社僧之輩ハ、還俗ノ上、神主社人等之称号ニ相転、神道ヲ以勤仕可致候、若亦無処差支有之、且ハ佛教信仰ニテ還俗之儀不得心之輩ハ、神勤相止、立退可申候事、但還俗之者ハ、僧位僧官返上勿論ニ候、官位之儀ハ追テ御沙汰可有之候間、当今之処、衣服ハ風折烏帽子浄衣白差貫着用勤仕可致候事、是迄神職相勤居候者ト、席順之儀ハ、夫々伺出可申候、其上御取調ニテ、御沙汰可有之候事、
神仏分離令が対象としている寺院は、両部神道で祭られている社僧寺院であって、根本仏寺であり神社地でない金毘羅大権現を指すものでない。金毘羅は印度仏法の経典上に現われる神であって、日本の神祇に属する神ではない。
したがって今回の法令によって改廃を受けるものでない
「金毘羅権現は、、わが国の神祇でなく、全く印度の神祇であって、仏教専俗の神である」
「社人共、陽は御趣 意と称し、実は私情を晴らし候様の所業」
「神仏混淆致さざるよう先達って御布告これ有り候所、破仏の御趣意には決してこれ無き処」
①一つは当時、金刀比羅宮内でも時流に乗って平田門下が影響力を増してきて、僧籍維持を主張する普門院への対抗勢力になりつつあったこと。②社会状況が、仏教(寺院)として存続しても僧侶の生活を保障するものではなくなっていたこと。そして、奈良の興福寺の僧侶を真似るように僧籍を離れるのが流行のようにもなっていたこと。③新政府の「御一新」に逆らって、金毘羅神は日本古来の神ではなくて、仏教の神だと上申しても、結果としてそれはお上に反逆するものであり、かえって金毘羅大権現の存続を危ういものにすること④だとすると大権現存続のためには、あえて平田派的な論を用いた方が得策かもしれないこと。⑤加えて宥常の個人的な保身・処世の動機も重なったのかもしれません。「御一新(神仏分離)」を通じて、山上経営の主導権を確固たるものにして、若きリーダーとして歴史に名を残す。
1 金毘羅大権現は本朝の大国主尊であること。2 象頭山を琴平山と改め、神号は勅裁をいただきたい。3 一山の僧侶は還俗すること。4 勅願所、日本一社の御綸旨(りんじ)、御撫物(なでもの)は、今まで通り認められたい。5 御朱印地であることを考慮していただきたい。
讃岐国那珂郡小松庄琴平山に、御鎮座在りなされ候 金刀比羅大神の御儀は、御代々比類無き御尊崇に依りて、御出格の御沙汰の件々並びに、天朝において御取り扱いの次第等は、別紙に相記し、尊覧に備え奉り候通りに御座候、斯の如く種々容易ならざる朝令を蒙り奉り、御蔭を以て、神威日盛は申すに及ばず、奉仕の者共、神領の商農に至るまで安住罷り在り候儀は、偏に広大無量の、朝恩と冥加至極有り難き幸せと存じ奉り候、然るに方今一方ならざる御時節をも相弁え候上は、安閑罷り在り難し、天恩の万分の一をも報謝奉り度き赤心に御座候処、微力不肖も私聊以其の実行を相顕しがたく、依之会計御役所え御伺い奉り、金壱万両調達奉り度段歎願奉り候処、御隣懲の御沙汰を以て御採用成し下され、重々有り難き幸せに存じ奉り候、且万事広大御仁恕の御趣意に取継り、猶又歎願願い候義は、別紙に相記候御由緒御深く思召なされ、分けて御制外の御沙汰を以て向後、勅裁の社に加えられ、且私儀大宮司に任ぜられ度、俯し伏して懇願奉り候、然る上は弥以て、皇位赫々国家安泰の御祈祷、一社を挙げて丹精を抽んで奉る可く候、恐惶敬白六月十四日 金光院事琴陵宥常弁事御役所
「勅裁の社に加えられ、且私儀大宮司に任ぜられ度、俯し伏して懇願奉り」
①三十番神堂
廃止の上、石立社(祭神少彦名神)に充当。②阿弥陀堂
廃止の上、若比売社(祭神須勢理毘売命)に充当。③薬師堂(金堂)
廃止の上、その建物を旭社(祭神伊勢大神・八幡大神・春日大神)に充当。④不動堂
廃止の上、津島神社(祭神建速須佐之男命)に充当。⑤孔雀堂
廃止の上、その建物を天満宮(祭神菅原道真)に充当。⑥摩理支天堂
廃止の上、その建物を常磐神社に充当。⑦毘沙門天堂
伊邪那岐神・伊邪那美神並びに日子神社(祭神事代主神・味組高根神・加夜鳴海神)に充当。⑧多宝塔
廃止の上、その建物は明治三年六月に取り払う。⑨経蔵
廃止の上、その建物は取り払う。⑩大門
左右の金剛力士像を撤去して、建物はそのまま存置。⑪二天門
左右の多聞・持国天像を撤去して、建物はそのまま存置
①真光院、尊勝院 庶務を、②万福院 会計を、③神護院 神札・祭礼④普門院 社領民の滅罪(葬儀)
神護院は退身した上で還俗して社務職として神社に仕えました。万福院は退身して還俗し、山上から去ります。尊勝院と普門院は退身しますが、僧籍からは離れませんでした。
「諸国社寺由緒ノ有無ニ不拘 朱印地除地等 従前之通被下置候所。各藩版籍奉還之末 社寺ノミ土地人民私有ノ姿ニ相成不相当ノ事ニ付、今般社寺領現在ノ境内ヲ除ク外、一般上知被仰付追テ相当禄制相定、更に蔵米ヲ以テ可下賜事」
「御山変革につき、不用となった三つ壇と仏具類一揃えの寄付を願いたい」
六月五日、梵鐘が227円50銭で榎井村の興泉寺へ売却。七月十一日 雑物什器売却、十八日 仏像売却、十九日 善通寺の誕生院の僧が、両界曼荼羅を金二〇円で買い取った。八月四日 障りありとして残されていた仏像や仏具を境内の裏谷で焼却した。
午前八時から始められて、午後には焼却を終わった。その日の暮れのころ、聞き付けて駆けつけた二、三人の老女が、杖にすがりながら、燃え尽きてちりぢりとなった灰を、つまみとって紙に包み、おし頂いて泣きぬれていた
大別当金光院 当院は象頭山金毘羅大権現の別当なり本殿・金堂・御成御門・ニ天門・鐘楼等多くの伽藍があり。古義真言宗の御室直末派に属す。山内には、大先達多聞院・普門院・真光院・尊勝院・万福院・神護院がある
○宝永7年(1710) 太鼓堂上棟。○享保年中(1716-36)本坊各建物、幣殿拝殿改築、御影堂建立。○享保14年(1729)本坊門建立、神馬屋移築。このころ四脚門前参道を玄関前から南に回る参道(現参道)に付替え○寛延元年(1748) 万灯堂建立。○天保3年(1832) 二天門を北側に曳屋。
○弘化3年(1846) 金堂が建立。この図中にはまだ姿がありません
①三十番神社 廃止し、その建物を石立社へ②阿弥陀堂 廃止し、その建物を若比売社へ③観音堂 廃止し、その建物を大年社へ④金堂 廃止し、その建物を旭社へ⑤不動堂 廃止し、その建物を津嶋神社へ⑥摩利支天堂・毘沙門堂(合棟):廃止し、常盤神社へ⑦孔雀堂 廃止し、その建物を天満宮へ⑧多宝塔 廃止の上、明治3年6月 撤去。⑨経蔵 廃止し、その建物を文庫へ⑩大門 左右の金剛力士像を撤去し、建物はそのまま存置⑪二天門 左右の多聞天像を撤去し、建物はそのまま中門へ⑫万灯堂 廃止し、その建物を火産霊社へ⑬大行事社 変更なし、後に産須毘社と改称⑭行者堂 変更なし、大峰社と改称、明治5年廃社⑮山神社 変更なし、大山祇社と改称⑯鐘楼 明治元年廃止、取払い更地にして遙拝場へ⑰別当金光院 廃止、そのまま社務庁へ⑱境内大師堂・阿弥陀堂は廃止
神護院→小教院塾、尊勝院→小教院支塾、万福院→教導係会議所、真光院→教導職講研究所、普門院→崇敬講社扱所への転用が行われています