瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:神仏分離

白川琢磨氏 神祇信仰~神仏習合~神仏分離園技進行


白川琢磨先生に連続四回の比較宗教社会学のシリーズ講義をお願いしています。今回は、その2回目になります。仲多度や三豊の神仏習合から神仏分離に至る動きが聞けそうです。興味と時間のある方の参加をお待ちします。なお、会場が吉野公民館に変更になっていますのでご注意ください。
白川先生の著書です。
顕密のハビトゥス 神仏習合の宗教人類学的研究


英彦山の宗教民俗と文化資源

 
DSC01040明治15年 境内図
                          神仏分離後 明治13年の金刀比羅宮

神仏分離と廃仏毀釈で、仏閣であった金毘羅大権現にあった多くの仏像は「入札競売」にかけられ、残ったものは焼却処分にされたこと、そして、当時の禰宜であった松岡調が残した仏像の内で、現在も金刀比羅宮にあるのは2つだけであることを前々回に、お話ししました。この内の十一面観音については、何回か紹介しています。しかし、不動明王については、触れたことがありませんでした。今回は、この不動さまについて見ていくことにします。
1 金刀比羅宮蔵 不動明王
   護摩堂の不動明王

 現在宝物館に展示されている不動明王は、江戸時代、護摩堂の本尊として祀られていたものです。桧造りの像ですが、背後と台座はありません。政府の分離令で、金堂や各堂の仏像達の撤去命令が出たときに、急いで取り除かれ「裏谷の倉」の中に、数多くの仏像と一緒にしまい込まれていたようです。その際に、台座や付属品は取り除かれたのかもしれません。

2.金毘羅大権現 象頭山山上3

明治5年4月,東京虎ノ門旧京極邸内の事比羅社内に神道教館を建設する資金確保のために、それまで保管していた仏像・仏具・武器・什物の類の売却が進められます。そこで、閉ざされていた蔵が開けられることになります。
 その時のことを松岡調は、日記に次のように記しています。
 佐定と一緒に、裏谷に隠置(かくしおき)たる仏像類を検査しに出向いた。長櫃が2つあった。蓋をとって中を検めると、弘法大師作という聖観音立像、智証大師作という不動立像などが出てきた。その他に、毘沙門像や二軸の画像など事については、ここにも記せない。今夜は矢原正敬宅に宿る。 
(『年々日記』明治五年[七月二十日条])

 彼は、以前に蔵の1階にも2階にも仏像が所狭しと並んでいたのは確認していたようですが、長櫃の中までは見てなかったのです。それを開けると出てきたのが
①弘法大師作という聖観音立像(後の十一面観音)
②智証大師作という不動立像
だったようです。
11金毘羅大権現の観音
金刀比羅宮に残された十一面観音

他の仏像がむき出しのままであったのに対して、この2つの仏像は扱いがちがいます。社僧たちの中に、この一体に対しては「特別なもの」という意識があったようです。
 改めて不動明王を見てみましょう。

1 金刀比羅宮蔵 不動明王

像高162㎝で等身大の堂々とした像です。足の甲から先と、手の指先は別に彫られたもので、今は接続する鉄製のカスガイがむきだしになっています。忿怒相の特徴ある目は、右が大きく見開き、左は半眼で玉眼を入れている。頭はやや浅い巻髪でカールしています。頂蓮はありません。右手には悪を追いはらう威力の象徴である宝剣をもち、左手は少し曲げて体側にたらし、羂索をもっている不動さんの決まりポーズです。
  私には、このお不動さんはウインクをしているように見えるのです。忿怒の表情よりも茶目っ気を感じます。もうひとつ気になるのは、足もとから、胸元にかけて、火にあったようなただれた部分が見られ、塗りがおちて、部分的に木地が露出しているというのです。火災にあったのかなと思ったりもしますが、背面にはそれが見られないと云います。研究者は
「ただれ跡の剥落」を、「かつて護摩を焚いた熱によるもの」
と指摘します。

img000018金毘羅山名所図解
金毘羅山名所図会
 文化年間(1804~18)に書かれた『金毘羅山名所図会』の護摩堂の項には、
(前略)此所にて、天下泰平五穀成就、参詣の諸人請願成就のため、又御守開眼として金光院の院主長日の護摩を修る事、元旦より除夜にいたる迄たゆる事なし(後略)
意訳すると
護摩堂では、天下泰平・五穀成就、参詣者の請願成就のため、又御守開眼として、護摩祈願が行われており、元旦から12月の除夜まで、絶えることがない。(後略)

 とあり、護摩堂では連日護摩が焚かれたことが分かります。そのため、護摩堂のことを長日護摩堂とも呼んだと云います。ここからも金毘羅大権現が真言密教の仏閣で、修験者の僧侶の活動が日常的に護摩祈祷という形で行われていたことが分かります。 もっとも、この像は最初から護摩堂の本尊ではなかったようです。
この不動さんは延暦寺からスカウトされてきたようです。
護摩堂は、慶長9年(1604)に建立されていますが、その時にお堂と一緒につくられた不動さんがいたようです。ところが、次第に護摩祈祷に対する人気・需要が高まります。そこで、より優れたものを探させます。その結果、明暦年間(1656)に、京都の仏師が比叡山にあった不動明王を譲り受け、それを以前からあった本尊にかえて安置したのです。この不動さんは、後から迎え入れたもののようです。ここにも「仏像は移動する」という「法則」が当てはまるようです。
1 護摩祈祷

 護摩は、真言密教の修験者が特異とする祈祷方法です。国家や天皇家の平安を祈って、行われました。それが、やがて権力をもつようになった貴族、さらには武家・庶民へと広かって行きます。護摩といえば不動というぐらい護摩を焚く場所の本尊には、不動明王が安置されるようになります。高く焚え上った火炎と、忿怒相の不動の前で修せられる護摩に霊験あらたかなものを感じたからでしょう。
 大日如来の化身でもあり、修験者の守護神でもあったのが不動明王です。修験者は、護身用に小形の不動明王を身につけていました。行場の瀧や断崖、磐座にも不道明王を石仏として刻んだりもしす。
 金毘羅大権現では、象頭山が修験者の行場で、霊山でした。そこに修験者が入り込み、天狗として修行に励みます。そして、松尾寺周辺に護摩堂を建立し、拠点としていきます。修験者たちの中から、金毘羅神を作り出し、金比羅堂を建立するものが現れます。それが松尾寺よりも人気を集めるようになり、金毘羅大権現に成長していくというのが、私の考える金比羅創世記です。そこからすると、金毘羅大権現の護摩堂とその本尊には興味が涌いてきます。
香川県立図書館デジタルライブラリー | 金毘羅 | 古文書 | 金毘羅参詣名所図会 4

 金毘羅さんでも、朝廷の安穏や天下泰平を願うものから、雨乞いにいたるまで諸々の願いをこめて護摩焚きが行われたようです。
 護摩堂で二夜三日修せられた御守が、大木札や紙守で、木札の先端が山形となっているのは、不動の宝剣を象徴したものと研究者は考えているようです。これらが、霊験あらたかなお守りとして、庶民の人気を集めていたことが分かります。

1 金刀比羅宮 奥社お守り

 金毘羅山内にはもう一つ不動を本尊とする堂があったようです。
万治三年(1660)に建立された本地堂(不動堂)です。ここの本尊は、護摩堂に最初にあった本尊を移してきたものでした。この堂は今の真須賀社の所にありましたが、これも神仏分離で撤去され、堂も不動も残っていません。
 宝物館にもうひとつ残されている仏像は十一面観音です。

1 金毘羅大権現 十一面観音2

この観音様は、聖観音と伝えられてきましたが、頭の穴を見れば分かるとおり、ここには十の観音様の頭が指し込められていました。つまり十一面観音だったことになります。なぜ、十一面観音を聖観音として安置していたのか。それは、以前にお話しましたので省略します。
 どちらにしても、観音堂の本尊で秘仏とされ三十三年毎に開帳されていたという観音様です。開帳の時には、多くの参詣人を集め、後には山内の宝物も拝観させるようになり、ますますにぎわうようになります。この十一面観音は、藤原時代の作で、桧材の一木造りの優品として現在は重要文化財に指定されています。
思いつくまま 第986回・金刀比羅宮宝物館
金刀比羅宮の宝物館

 宝物館に残された二つの仏像は、金毘羅大権現にとって、最も大切な仏であったことがうかがえます。不動明王は、修験者たちの守護神として、観音さまは、松尾寺の本尊だったのでしょう。金毘羅大権現には、観音信仰の系譜痕跡もあるように私には思えます。その二つのルーツを体現するのが、宝物館の2つの仏達である・・・と云うことにしておきます。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

   

CPWXEunUcAAxDkg金毘羅大権現

明治維新の御一新のスローガンとともに、こんぴらさんに嵐をもたらした「神仏分離」政策。その結果、
金毘羅大権現は金刀比羅宮へ、
象頭山は琴平山へと名前を変え、
その姿も仏教伽藍から神社へと
姿を変えていきました。こうして、仏号であった金毘羅大権現はお山から「追放」されます。しかし、このような「宗教改革」に対して反発を感じている人たちも数多くいたようです。その中から従来通りの仏式で金毘羅大権現をまつるスタイルの寺院を作ろうとする動きもあったようです。今回は琴平山(旧象頭山)と峰続きの大麻山の麓の大麻村での「金毘羅大権現」復活計画の動きを見てみましょう。
Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
  現在の琴平町榎井には長法寺というお寺があります。
このお寺は、鎌倉時代に善通寺の復興に活躍した宥範僧正が隠棲のために建立されたと伝えられ、もともとは丸亀市亀水町とまんのう町の境にある上池の南西にあったようです。広い伽藍を持っていたとされ、『仲多度郡史』には南門から現在の高篠小学校に至る県道が門前町であり、付近からときどき古瓦などを掘り出すと記されています。
 しかし、1579年 天正合戦で土佐から侵入してきた長宗我部元親軍と長尾氏の戦いで灰燼に帰したとされます。現在も、上池の池底には石碑が建っていて、碑面には(俗世)アビラウソナソの梵字が刻まれているようです。その後、榎井の地に再建されて現在地にあるようなのです。しかし、その寺伝には
「故ありて明治16年2月大麻村字上の村に移転し、同28年再び元の地に復せり」
という気になる記述があります。明治の時代に、12年間ほど隣村の大麻村に移動していたというのです。なぜでしょうか?
長法寺の金毘羅大権現復活の試み
 神仏分離に伴う狂信的な廃仏毀釈運動も熱が冷めてきた頃、象頭山の麓の榎井や大麻では、仏教徒を中心に金毘羅大権現の信仰を守り、かつての繁栄を回復しようとする動きが出てきます。そこには
「新たに生まれた金刀比羅宮は、本来の神である金毘羅大権現を追い出した後に、大国主命とし迎えた神社である。本来の金毘羅大権現を祀る仏式の宗教施設を自分たちの手で作りたい」
という願いがあったようです。
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 その中心となったのが長法寺の檀家の有力者達です。
彼らは長法寺を「金毘羅大権現」を祀る寺院にしていこうと考えます。そのためには、信仰対象となる金毘羅大権現像とそれを納める礼拝施設(お堂)が必要になります。こうして長法寺は、明治16年に新たな伽藍建設地とを求めて麻野村大麻に移転してきます。
  長法寺の檀家指導者達が、先ず取り組んだのが祈りの対象となる金毘羅大権現像を迎える事でした。当時の神仏分離政策下において、明治政府は寺院への管理を強めていましたので、諸仏の勧進についても、各方面の許可が必用でした。そのため金毘羅大権現像の安置・勧進を求める長法寺と本山や県のやりとりをめぐる文書が残されています。それを見てみましょう。
   護法神勧請之義二付御願
当寺本堂二於テ金比羅童子 威徳経儀軌 併せて大宝積経等々煥乎仏説有之候 金毘羅神ヲ安置シ金毘羅大権現卜公称シ鎮護ヲ祈り 利済ヲ仰キ人法弘通之経路ヲ開キ申度蓋シ大宝積経三十六巻 金毘羅天授記品 及金毘羅童子威徳経 二名号利益明説顕著ナリ
今名号ノツ二ツヲ挙レバ 時金毘羅即以出義告其衆云云 
又曰時二金毘羅与其部徒云云 又曰金毘羅浄心云云 
其他増一阿含経大般若経大日経等之説所不少 
且ツ権現之儀モ義説多分ナレトモ差当り 金光明最勝王経第二世学金剛体権現 於化身云云如此説所分明ナル上ハ 仏家二於テ公称勧請仕候テ 毫モ異論無之儀卜奉存候 勿論去ル明治十五年一月四日附 貴所之布教課御告諭之次第モ有之 旁以テ御差悶無之候得ハ速二御免許被成下度此段奉伏願候也
 愛媛県讃岐国多度郡大麻村 長法寺 住職 三宅光厳印
   同県同国郡那珂郡琴平村  信徒総代塩谷太三郎印
   同郡榎井村檀徒総代    斎藤寅吉印
   同郡 同村檀徒総代    斎藤荒太郎印
 明治十八年一月十一日
 本宗管長 三条西乗禅殿
   明治十八年十月二十一日付で当時の長法寺住職の三宅光巌、信徒総代、増谷太三郎、檀徒総代、斎藤寅吉の連名で、本宗管長の三条西乗禅宛「護法神勧請之儀二付御願」と題する文書が提出されています。当時は香川県は愛媛県に併合されていたので「愛媛県讃岐国」となっています。さて内容は、
「金毘羅神を安置して金毘羅大権現と呼んで信仰活動を行いたい。それが人々を救い世の中を栄えさせることにつながる」として金毘羅神についての「神学問答」が展開されます。
そして、金毘羅大権現を仏教徒が勧進信仰しても、何ら問題はないと主張します。しかし、先年明治15年の神祇官布告もあるので、問題が生じた場合は直ちに停止するので、認めていただきたい。
という内容です。このあつかいについては、本寺との間に長い協議があったようです。本寺からの正式の回答は6年後の明治24年に出されています。ふたつの条件付で、真言宗法務所名で「護法善神」としての礼拝を許されます。二つの条件について見ておきましょう。
     内  諭
長法寺住職 三宅 栄厳
護法神金毘羅大権現勧請之義 御聞置相成候二付ハ左之条々ヲ遵守スベシ此段相達候事
           真言宗 法務所印
  明治廿四年一月廿六日
   第壱条
 金毘羅大権現者仏家勧請之護法神タリト雖モ 従前象頭山金毘羅大権現卜公称之神社アリシヨリ 目下金刀比羅神社卜同一ノ物体ナリト意得ノ信徒等有之候 テハ却テ護法神勧請ノ本旨二背馳シ
神仏混淆廃止ノ朝旨ニモ戻り 甚夕不都合二候 宝前二於いて法式ヲ執行シ信徒之為メニ祈祷等ヲナサント欲セハ必ス先本宗ノ経軌ニヨリテ事務シ 毫モ神社前二紛敷所為など供物等不相備様屹度可致事
  第貳条
本堂内二勧請之尊体ハ固ヨリ 経説ニヨリテ彫刻スベキハ勿論 萬一他二在来ノ尊体ヲ招請スル訳ナレバ授受ノ際 不都合無之様注意シ 尚地方廳エハ順序ヲ践テ出願シ 其許可ヲ得テ 該寺シ内務省ヘモ可届出筋二付 此旨相意得疎漏之取計方無之様可致候事 以上
第一条では、金毘羅大権現は仏教の「護法神」ではあるが、以前は金毘羅大権現を公称する神社もあったので、そこと混同されるおそれがある。そうなると「護法神」の本旨にも背き、また「神仏分離」という政府の政策にも背くことになる。そのために法式や祈祷を行うときには、神前と異なることにくれぐれも留意しておこなうこと
第二条では
尊体(金毘羅大権現像)を迎えるに当たっての注意で、什宝帳への記載や郡庁や県丁への出願手続きに遺漏がないように求めています。
 この時期に、長法寺は本山の推薦で新住職を迎えています。
 明治二十三年十月一日付で、新たな住職として兵庫県武庫郡良元村、西南寺住職、権大僧都、筧光雅を迎えます。「兼務」ですので、長法寺には常駐することはなかったようですが、トップが変わることで体制づくりは進んだようです。そして、新住職の就任を祝うかのように本山から金毘羅大権現像が長法寺に寄付されます。
   寄 附 状 (写)
讃岐国多度郡麻野村 長 法 寺
 金毘羅大権現   木像 壱躯
  右令寄附畢
 明治廿四年三月十日
       大本山仁和寺門跡
       大僧正 別處 栄厳
  こうして待ちに待った金毘羅大権現さまが寺にやってきたのです。しかし、当時の神仏分離政策下において、明治政府は寺院への管理を強めていましたので、諸仏の勧進についても許可が必用でした。そこで檀徒惣代、安部長太郎と連名で麻野村長、渋谷丑太郎の副申を添え、香川県知事、谷森真男宛に兼務住職届と、同時に金毘羅大権現木像の什物帳編入願いが提出されます。  
御管内多度郡麻野村大字大麻長法寺儀 
別紙願面三通 金毘羅大権現木像壱躯 什物帳へ編入之義 
出願事実相違無之候
条右御聴許相成度此段副伸候也
    京都葛野郡花園村御室
     仁和寺門跡大僧正別處栄厳代
      権少僧正 鏝  瓊 憧
 明治廿四年五月十六日
香川県知事 谷森 真男 殿
これには仁和寺門跡、真言宗長者の副中と麻野村長渋谷丑太郎の次の添書が付けられていました。
御管下多度郡麻野村大字大麻長法寺 
明細帳へ金毘羅大権現木像壱体編入之儀 
別紙願出之通事実相違無之候条副申候也
  明治廿四年五月十九日
      真言宗長者  大僧正 原  心猛印
 香川県知事 谷森 真男殿
   しかし、県はこれを認めませんでした。
 そこで、翌年に、住職筧光雅は不在なので代理人の吉祥寺(高篠村)住職三輪慈長と外檀信徒惣代六名の連署を付けて、再度、金毘羅大権現像の什物編入を願い出ます。
今度は副中書(別掲)に詳しく補足説明を付けています。しかし、これも県は却下します。
 そこで、長法寺は次の手立てとして「仏体寄附ヲ受ケタル届書進達之義二付具申書」を那珂多度郡長高島光太郎に提出して、この一件についての理解と、とりなしを請願します。
 郡長高島光太郎が、出願に当たっての今までの不備を指摘、指導を加えた文書が残っています。こうして、明治二十五年七月三十日付文書は、郡長の指導を受けて作成したもので、三度目の県知事宛の願書を提出します。様式などに問題が無かったので、県も受けいれざる得なかったのでしょう。この結果、九月二十日付で、金毘羅大権現木像外四躯の仏像が宝物古器物古文書目録への編入を許されました。
 しかし、金毘羅大権現勧請については許可が下りませんでした。そればかりか、今までは許されていた明細帳に載せられた本尊以外の仏像の勧請や信者の参拝についても、その都度の許可が必用とされるようになります。これは常識的には考えられません。お寺にある仏像を拝むのに、いちいちその都度許可を求める内容です。
県が頑なに金毘羅大権現の復活を拒む理由は何だったのでしょうか?
大国主命を祭神として祀る金刀比羅宮としてリニューアルされた金刀比羅宮にとっては、足元の大麻村に金毘羅大権現が復活する事は、面白い事ではなかったはずです。
そして、金刀比羅宮の禰宜を勤めていたのは、以前に紹介した松岡調です。彼は明治維新期の讃岐の神仏分離政策を担った神道家であり研究者でもありました。彼が当時の香川県の宗教政策に影響力を持っていたことは、延喜式神社の指定選考過程にも見られます。
  また、当時の神道の教学・指導の宗教行政の中心は金刀比羅宮の中にありました。境内にあり廃寺となった3つの脇坊の建物が利用されていたのです。これらの神道組織を指導するのも松岡調の仕事の一つでした。つまり、当時の彼は県の宗教行政に大きな影響力を行使できるポストにあったのです。
 度重なる長法寺の金毘羅大権現像をめぐる動きに、県が許可を下ろそうとしなかったのは、松岡調の意向に「忖度」してのことだったのかもしれません。

 しかし長法寺は諦めません。
明治二十八年二月十四日に「金毘羅大権現木像勧請之義二付御願」なる書面を県に提出します。しかし、これも新任の小畑知事と、その側近によって一蹴されます。
  そこで長法寺は戦略を転換します。県を相手にするのではなく、国を相手にしたのです。
明治二十九年五月十四日、長法寺は「本堂建築願」を内務大臣板垣退宛てに提出します。ここにはかねてからの目論見である鎮守堂(護法善神としての金毘羅大権現堂)を中心とした千六百坪に及ぶ境内に本堂、書院、庫裏等の配置伽藍建設案が示されており、仏教中心のこんぴら信仰の復活を目指そうとするものでした。

長法寺の新伽藍工事始まるが・・・・
 そして、この願いは明治政府によって認められるのです。長法寺は、香川県の敷いた障害を越えたかのように思えました。関係者の喜びは大きかったでしょう。
 ところが建立工事が始まると、勧進資金が思うように集まりません。そのため資金不足で新伽藍建設は思うように進まなかったようです。その上に、台風が襲いかかり、建設途中の建物は大きな被害を受けました。こうして新伽藍の工事は中断したままで、工事資金をめぐる勧進の進め方についても信徒間での意見が対立するようになります。長い対立の後に、明治39年になって建設断念派が推す住職が就任し、お寺を元の榎井村にもどして新築する次の申請が県に出されます
  長法寺移転二付境内建物明細書
   寺院移転ノ儀二付願
 香川県仲多度郡善通寺町大字大麻
   真言宗御室派 長 法 寺
右寺儀今般檀徒及ビ信徒ノ希望二依り旧寺地ナル 仝那榎井村参蔭参拾番地へ移転致度候
条御許可被成下度 別紙明細書及図面相添へ此段上願仕候也
    右寺法類
     龍松寺住職 長谷 最禅
     圓光寺住職 出羽 興道
こうして金毘羅大権現信仰復活の拠点として、建設が目指された長法寺の新伽藍計画は、あっけなく幕を閉じることになります。
いままでのことを、最後にまとめておきましょう
I 金毘羅さんは金毘羅大権現と呼ばれ「寺院」として信仰されてきた。ところが明治政府の神道国教化の有力拠点としての思惑から仏教的な金毘羅大権現は追放され、代わって大国主命を祭神とする金刀比羅宮に生まれ変わった。
2 これに対して、金毘羅大権現の復活をはかる動きが地元で起きたが、県の「妨害・阻止」もあり、スムーズには新伽藍の建設は進まなかった。
3 神仏分離から30年近くたって新伽藍の建設工事の許可が下りたが、時流は金刀比羅宮に流れ、金毘羅大権現の伽藍建設を支援する募金活動は広がらずに、資金不足で中断に追い込まれた。
4 そして、長法寺はもとの榎井の地に新伽藍を小規模で建立し、現在に至っている。

ここから分かることは金毘羅大権現から金刀比羅宮への素早い「変身」ぶりに反感を覚え、古い形のこんぴら信仰を残そうとする動きが地元にあったということは、記録に留めて置くべき事のように私は思います
 
参考史料 榎井の長法寺について ことひら 昭和63年所収

      
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白峯寺の境内には、崇徳院白峯御陵の御霊を廟として祀るために、後白河法王によって頓証寺が建立されていました。ここには、古くから皇室や武家が崇徳上皇の霊を慰めるため夥しい数の什器・宝物類が、寄進されてきました。永徳2年(1382)火災によって、大半は焼亡しましたが、それでもなお多くの宝物が幕末には残っていました。これは神仏習合の下では、白峯寺により守られてきました。それらの寺宝が、その神仏分離の嵐の中で、どのようになって行くのでしょうか?

siramine19讃岐國名勝図会:明治維新直前の景観
維新直前の白峰寺(讃岐国名勝図絵)
最初に白峰寺をめぐる年表を見ておきましょう
明治2年 明治天皇の命で、崇徳上皇霊を新に創建した京都白峯神宮に遷祀。
明治6年 白峯寺住職恵日が復飾し御陵陵掌に転じ、寺は無住化。
明治8年 白峯陵掌友安十郎、白峯寺堂宇の取払いを建議。
明治11年 寺は白峯神社と改称、金刀比羅宮の摂社となる。
明治31年 仏寺に復する。頓証寺は白峯寺に返還される。
崇徳上皇陵

  明治元年(1868)三月に新政府によって出された神仏分離令については、讃岐の神仏混淆の各寺院は、何が起きているのか分からず、当初は模様眺めであったようです。金毘羅大権現社のように、別当自らが京都にのぼって打開策を探ると云うのは特異な行動でした。模様眺めの白峰寺にとって寝耳に水のような知らせが届きます。
新政府の神祇科は、御陵を宮内省の管轄に移し、御霊を京都へ移すというのです。

崇徳上皇
崇徳上皇
 京都の今出川通りの西に廟を造営して、崇徳上皇の御霊はここに祀るというのです。これは、白峰陵の御霊を京都の新しい神社に移すということです。
   崇徳上皇の御霊代(みたましろ)である御真影と愛用の笙(しょう)を頓証寺から受け取るために京都から勅使がやってきて「奉還」されることになります。しかし、白峰寺は何も出来ません。やってきた勅使が御霊を抜き、御像を移す儀式を、僧侶である白峰寺の住職は見守るしかなかったようです。事前に遷還に奉仕したいと願いも許されませんでした。こうして勅使を載せた御用船が、坂出港から京に向かって出航したのは、明治元年8月28日のことでした。

京都の崇徳天皇廟
           京都の崇徳天皇廳 

約七百年余にわたって崇拝の対象となっていた崇徳上皇の御霊がなくなるということは、白峰寺にとっては精神的に大きなダメージになりました。
  さらに追い打ちをかけるように明治4年には寺領上知令が出されます。
これにより境内以外の寺領は国家に没収されることになります。これは、中世以来の朱印地を全て失う事でした。この間に、脇坊の僧侶の中には寺を廃寺として、寺院の土地、建物を私有化する者も現れます。財政基盤をなくし、白峰寺の将来を考えたのか当時の白峯寺住職・恵日は、明治6年10月に還俗して、隣の崇徳天皇白峯御陵の陵掌に転身します。僧侶から神職になったのです。このため白峰寺は住職がいない無住寺院となります。明治5年の太政官布告234号で「無檀家・無住寺院は廃寺」の通達が出ていましたので、主をなくした白峰寺は廃寺となってしまいます。

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頓証寺

  四国巡礼の札所がこんなありさまになったのを、なげき立ち上がったのは講中、信徒たちです。彼らは明治8年7月、白峯寺住職選定の願いを阿野郡大区長片山高義あてに出します。これに対して大区長はすぐに名東県令(当時は愛媛と合併)古賀定雄に取りつなぎます。当時は、廃寺になった各地の札所からの復興要望が出されていたようです。また、中央政府も神仏分離の行き過ぎを修正し、廃寺になった寺院に対する救済策がとられるようになっていたために直ちに聞き届けられます。その結果、明治11年には牟礼・洲崎寺の橘渓導が住職として、無住となっていた白峰寺に入ります。
 神霊奉還後の頓証寺を見ておきましょう。
中央に崇徳上皇宸筆とされる「南無阿弥陀仏」の六字名号を御霊代として安置されていました。これは、流石に京都からやってきた勅使も持って行かなかったようです。

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       頓証寺の中央に奉られる崇徳天皇

頓証寺には、中央に崇徳天皇、向かって右側に十一面観世音菩薩、右側に山ノ神相模坊(天狗)を祀っが祀られていました。この姿は神社ではなく、仏舎であったことを物語っています。御陵は宮内省に属して、白峯寺の管轄を離れ、陵掌の守るところとなっていました。が、頓証寺は寺号であったので、白峯寺の一部として依然その管轄下にあったのです。

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左に(白峰)相模大権現(白峰の天狗)
ところが、第三の災難が白峰寺にふりかかってきます。
明治11年、金刀比羅宮の禰宜松岡調から頓証寺を神社して、金刀比羅宮の摂社とするが願い出られたのです。これに対して、県や国の担当者は、白峯寺への現地調査も聞き取りも行わずに、机上で頓証寺を金刀比羅宮へ引き渡すことを認めてしまいます。この時から頓証寺は白峯神社と呼ばれる事になります。つまり頓証寺という崇徳天皇廟の仏閣がたちまちに神社に「変身」してしまったのです。ある意味では、これは金刀比羅宮の「乗っ取り」といえます。

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頓証寺の相模(白峰)大権現(天狗)
こうして頓証寺は金刀比羅宮の摂社とされ、白峯寺から「所有権」が金刀比羅宮に移ってしまいました。
これが明治11年4月13日のことです。この時に白峯寺の宝物は、上下二棟の倉庫に納められていました。上の倉には准勅封として帝に関する宝物を納め、さらに下の倉には白峯寺に関するものが納められていました。上の倉は、頓証寺を摂社化した金刀比羅宮が引き継ぐことになります。そして、残りが寺側の所有となったのです。これは、現代風に云えば「資産乗っ取り」と云えます。

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崇徳上皇白峰御陵
  なぜこのようなことを県や国担当者は許したのでしょうか。
担当者が事情に通じてなくて、軽はずみに判断したためとも云われます。しかし、私にはそれをすんなりと信じる事は出来ません。なぜなら、この時期の金刀比羅宮の禰宜職は松岡調なのです。彼が讃岐の神仏分離の立役者であったことは、以前触れましたので省きます。松岡貢と白峰寺の接点としては次の点があげられます。
①松岡調が若いころの1850年代に「讃岐国名勝図絵」の挿絵を担当し、白峰寺も描いていること。
②明治の神仏分離の際には、「神社取調」調査の担当者として、白峰寺を担当していること
以上から、白峰寺と頓
頓寺の事情と頓証寺が保管する「宝物」は周知していたはずです。そして当時の彼は讃岐神道界のリーダー的な存在として発言権を高めていました。同時の彼が禰宜を務める金刀比羅宮は、香川の神道界の中心的な立場にもありました。彼の手回しで「頓証寺の白峯神社化と摂社化が進められ、宝物は金刀比羅宮のものとするという手順」案が作成されたと私は考えています。そして、当局への根回しも行われていたのではないでしょうか。

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白峯御陵への階段
 当時の松岡調の提言は、おそらく次のようなものだったでしょう。

崇徳上皇は讃岐の地に移られてから親しく琴平の宮に参籠されおり、ここには「古籠所」・「御所の屋」という上皇ゆかりの旧跡も残っている。そのようないきさつから、琴平の宮では古くから上皇の御霊をひそかにお祀りしてきた。頓証寺に祀られていた上皇の御霊が京都に還った以上、頓証寺は抜け殻になってしまったのだから琴平の宮が上皇を祀る讃岐の中心でなければならない、

というようなものだったのではないでしょうか。
この結果、頓証寺が長年にわたって皇室や武家から寄進を受けてきた什器・宝物類が金刀比羅宮に移されることになったのです。同時に金刀比羅宮では崇徳上皇が祭神として祀られるようになります。

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白峰御陵

廃仏毀釈の嵐が弱まると、白峯寺の渓導住職や信徒らは、頓証寺の復興計画を立てます。
そして、白峰神社(旧頓証寺)の返還を金刀比羅宮に求めるようになります。こうして、金刀比羅宮への反撃が始まったのです。しかし、協議では解決できないと見るや、金刀比羅宮を訴訟します。その言い分は、次の通りです。

白峯寺と頓証寺は、金刀比羅宮と歴史的に何の関係もない。にもかかわらず、金刀比羅宮が頓証寺を自社の末社として古くから頓証寺に伝わる宝物まで占有管理しているのはおかしい、


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白峰御陵

 明治17年に裁判所は、白峯寺勝訴の判断を下します。
その後も、いろいろなやりとりが金刀比羅宮との間で行われますが、明治28年に松岡調が大陸における布教事件で失脚して後の明治31年9月に、県の命令で、白峯神社は白峰寺に返還されることになります。こうして金刀比羅宮から境内・建物の返還を受け、頓証寺として元の仏堂にもどすことができたのです。
 このため金刀比羅宮には祭神とした崇徳上皇を祀る神社がなくなってしまいました。そこで、本社から奥社への参道沿いの現在地に「白峯神社」が「創建」されたようです。

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「崇徳上皇陵」ではなく「白峰陵」

 しかし、20年ぶりに金刀比羅宮から頓証寺は変換されましたが、問題は残りました。金刀比羅宮は、摂社とした頓証寺から多くの宝物を持ち去っていました。その宝物の変換を白峰寺は要求します
白峯寺の言い分は、
歴史的経緯からいってすべて頓証寺に返還するのが当然だということです。

一方の金刀比羅宮の言い分は、
明治11年から20年間頓証寺が白峯神社として金刀比羅宮の末社であったことは政府の命令に基づき行われたことであって、すべての宝物を返還する理由は無い

ということのようです。
 結局、この問題は最終決着がつきませんでした。その結果、頓証寺から金刀比羅宮に移された宝物の多くが金比羅宮に残されたのです。その代表例が下の重要文化財の絵巻物「なよ竹物語」です。

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 昭和40年にもこの問題がぶり返し、地元の青年団から金刀比羅宮に対して、宝物返還の嘆願が出されています。どちらの言い分が正しいかどうかは別として、歴史的な経緯は後世に正しく伝えていく必要があるというのが歴史家の考えのようです。

なよ竹物語
 
 最後に明治の神仏分離政策が白峰寺に与えたダメージは
1 天皇家によって崇徳上皇の御霊を京都へ移され
2 明治政府によって土地財産を奪われ
3 その結果、お寺は一時的にせよ廃寺となり
4 さらに金刀比羅宮によって頓証寺の摂社化と、その宝物の「横取り」された。
5 その復活・復興に30年を要したということになるようです。

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新政府によって出された神仏分離令を発火点として、廃仏毀釈へと運動が燃え広がっていく藩には共通する3つの要因が揃っているように思います。
平田神学・水戸学などの同調者が宗教政策決定のポスト近くにいたこと。
廃仏に対する拒否感のない殿様がいたこと。
庶民の寺院・僧侶への反発や批判が強く、寺院擁護運動が起きなかったこと
d0187477_16023307廃仏毀釈の展開
この3つの視点で、高知藩を見ていきましょう。
まず①についてですが、幕末の高知藩には、寺社係であった北川茂長などをはじめ、平田篤胤の門下生や同調者が多かったようです。藩の宗教政策の担当者が平田派同調者であったことは、明治政府の神仏分離令をきっかけにして、政府の意図を越えた過激な廃仏運動を政策化し実行していくことにつながります。
②については、幕末以前に廃仏政策を実行していた藩主達がいます。
 例えば水戸藩では、徳川斉昭と彰考館関係者が次のような廃仏運動を藩内で推進します。常磐山東照宮をはじめ神社は全て唯一神道に改め、一村一社制の採用、宗門改め廃止、氏子帳作成、僧侶・修験の還俗、家臣の仏葬などの廃止、神儒折衷の葬祭式の採用、廃寺、村々の辻堂小祀石仏庚申塚などの廃棄、梵鐘の徴収などが行われ、年中行事の中に東照宮・光圀・楠正成・天智天皇を祀る行事などが組み入れられて行きました。処分寺数は190ケ寺で、寛文年中の1/5程度ですが神仏分離・廃仏を通して神道への統合を試みています。これは明治の廃仏・神道化への先鞭と云える運動でした。この政策は行き過ぎたものとして、幕府による斉昭の処分で 頓挫しますが、水戸学に影響を受けた領主の中は、このような動きに心情的に共感する者もあったようです。
 さて、高知藩の場合はどうだったのでしょうか。
 高知藩でも執政として野中兼山が行った改革の中に、南学の奨励策がありました。その一貫として寺院、僧侶の淘汰をすすめ、寺院の数を減らしています。これは寺院削減、寺領没収など財政政策ともリンクしていたようです。そのような「廃仏経験」を持っていた高知藩では、当時の領主にも抵抗感はなかったようです。
 さらに領主である山内家で、明治3年11月10日に次の文書を、菩提寺に通達します。
「向後御仏祭一切御廃止に相成り候。右に付御祥月御精進日等以後御用捨あらせられ御平日之通り」
 「仏式祭礼は一切廃止とするので、精進日など行事は行わない」と、まさに絶縁宣言です。これで、山内家と菩提寺であった真如寺、要法寺、称名寺との仏縁は絶たれます。そしてこの菩提寺の住職の中からは、直ちに神職に転じて、後の高知県の神道界の指導者に転じていく者も現れます。殿様は明治4年2月には、「葬祭心得書」を示して、領民に仏葬から神葬に改めることも奨励しています。
 ここには殿様が廃仏毀釈の流れに反対し、棹さす動きを見せる事は考えられません。急進的な担当者の廃仏毀釈案がすぐにでも実行されていく体制が高知藩には整っていたようです。
 こうして版籍奉還後の明治3年(1870)4月2日に藩は、次のような布告を出します。
     覚    
一、僧は方外之者、世襲俗人と大に異なり、土地山林を占得するの途あるべからず。今日より更に之を禁ずべし。
一、御改革に付、寺院寄付之土地山林一円被召上之、堂宇寺院之傍少許之土地山林傍示を改、之を寺付として付与すべし。
一 一向宗は僧俗相混、世襲之体を存すると雖も宗俗と同しかるべし。            
一 僧徒還俗を欲する者 好に任すべし。               
一 私領或は私産等を以て相当之寺入を欲する者、願に寄り商議すべし
右之通被仰付候事午四月二十三日         藩 庁
 この史料は、文章上には「廃仏」という言葉は出てきません。しかし「僧は・・・土地山林を占得するの途あるべからず」と僧侶の土地の所有を禁止し、寺地の没収や境内の縮小を宣言します。また、一向宗は妻帯を許しているが、僧侶であるとして例外扱いをしないこと、僧侶の還俗を奨励する内容になっています。
 こうして藩からの保護と、経済的基盤を失った寺院は、住職が未来に希望を持てなくなり次々と還俗して主がいなくなり廃寺となります。その状況を数字で示すと次の表のようになります。

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この表の見方は
①一番上が廃物前寺院数で、明治維新時の各宗派の寺院数で、高知藩には合計751の寺院があったことになります。
②一番下の存続寺院実数は、廃物運動後に残った寺院数です。真言宗の「245寺 → 44寺」の激減ぶりが目立ちます
③その後に他県から移転してきた寺院数をプラスすると現在の寺院数になります。
④合計数を見ると751寺あったのが211寺まで激減した事になります。
 当時の僧侶1239人のうちの大半が還俗したとも云われますし、寺院数で幕末期の約三〇%にまで激減したのです。これは高知が四国で一番廃仏毀釈運動が激しかったと云われる所以でしょう。
 高知県の廃仏運動のその後は?
 江戸時代を通じてお寺は「葬式仏教化した」と批判を受けますが、寺院と檀家である庶民は意外に強く結ばれていたことを、知らされることが起きます。旦那寺がないのは、一般庶民にとって葬式や法事に当たって不便なのです。元領主は神道に改修し、神道式の葬儀を行えと云いのこして東京へと去りましたが、庶民にとっては慣れ親しんだ宗派がいいという声は高まります。つまり廃仏毀釈の反動化といいましょうか揺り戻し現象が起きるのです。
 高知県としてもそれを放置でず、寺院再興策を取るようなります。それでもまだ不足で、寺院のない町村があったり、僧侶がいないという現状を打開するために、県外の寺院、僧侶を誘致するより方法が取られます。県外からの寺院の誘致は、明治4年からはじまり、埼玉県北足立郡与野町から高知市一宮に移ってきた真言宗智山派の善楽寺を第一陣として、大正15年に幡多郡白田川村に真言宗智山派の観音寺が転入してきたことで終わっています。これら県外転入寺院のうち、徳島県からの移転が七か寺でもっとも多いようです。
 どんなお寺が徳島からやってきたのでしょうか?
①天満寺は藩政初期に蜂須賀蓬庵(家政の隠居後の法名)によって 創建されたものですが、近世を通じて寺勢はふるわなかったようです。
②法雲庵は、徳島市にあったときは単伝庵と称し、藩の家老稲田九郎兵衛家の建立した氏寺でした。
③室生寺や大善寺も、地蔵寺や鶴林寺の塔頭寺院でした。
このように庵室程度の小寺院で、檀家もほとんどなく、徳島藩の家臣や地下の庄屋などの私寺的な存在であったお寺が多かったようです。
高知県では過激な廃仏毀釈運動で、その後の寺院数の不足状態を招きました。
これに対して、徳島県では廃仏棄釈が発生しなかったので、ほとんどの寺院が存続しました。その結果、檀家の少ないお寺は自然淘汰され、廃寺化かすすんでいったようです。この七か寺は、そのようなかで新天地を高知に求めたチャレンジャーだったようです。高知県におけるお寺不足が、これら寺院にとって唯一の活路であったのかもしれません。そのような見方をすれば、高知県が他県の寺院を受入て救済するということになったといえるのかもしれません。

三好昭一郎 四国各藩における廃仏毀釈の展開 幕末の多度津藩 所収

11_5110051宥常

 金比羅さんの一ノ坂の階段を登っていくと大門の手前右手奥に、神職姿の銅像が立っています。木札には次のように記されています。

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琴陵宥常像
明治維新後の近代日本黎明期に金毘羅大権現を金刀比羅宮と改め、大本宮再営や琴平博覧会を開催し、晩年には海の信仰をつかさどる金比羅宮宮司として日本水難救済会を創設するなど強固な信念で今日の金刀比羅宮の基礎を築いた人物である。
この人が明治維新期の金毘羅大権現の最高責任者だったようです。どのようにして、「金毘羅大権現を金刀比羅宮」と改めたのか、宥常を中心に金毘羅さんの神仏分離の模様を見ていくことにします。
kotohira04琴陵宥常(ことおかひろつね)[1840~1892年]

金毘羅大権現は金光院の院主が「お山の殿様」でした。
 金刀比羅宮は神仏習合の社で、最高責任者である別当は社僧(しゃそう)と呼ばれる僧侶でした。そのため妻帯できません。したがって跡目は実子ではなく、一族の山下家から優秀な子弟から選ばれていました。幕末の金光院院主は宥黙で、優れた別当ではありましたが病弱でした。そこで早くから次の院主選びが動き出していたようです。 
koto-oka金刀比羅宮 - 琴陵宥常像
 琴陵宥常肖像画 高橋由一作
山下家一族の中に宇和島藩士の山下平三郎請記がいました。その二男の繁之助(天保11年(1840)正月晦日生)の神童振りは、一族の中で噂になるほどで白羽の矢が当たります。宥黙は信頼できる側近の者を宇和島派遣して、下調査を重ねた上で琴平・山下家への養子縁組みを整わせます。嘉永2年(1850)11月29日、10歳の繁之助は、次期院主として金毘羅に迎えられたのです。これが先ほど紹介した宥常(僧籍では、ゆうじょう)で、18代別当宥黙(ゆうもく)の後継者に選ばれます。そして安政4(1857)年10月22日に第19代別当に就任しました。宥常18歳の時です。
宥常は明治維新を28歳で迎えることになります。何もなければ彼は、このまま順当に別当として生涯を過ごすはずでした。しかし時代は明治維新を迎え大きく変わろうとしていました。「御一新」の嵐は、そんな宥常の金毘羅大権現をも包み込むことになります
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 神仏分離は明治政府の手によって祭政一致と神祇官再興、全国の神社、神職の神祇官付属を定めた布告にはじまります。
○太政官布告 慶応四年(1868)3月13日
此度 王政復古神武創業ノ始ニ被為基、諸事御一新祭政一致之御制度ニ御回復被遊候ニ付テ、先ハ第一、神祇官御再興御造立ノ上、追追諸祭奠モ可被為興儀、被仰出候 、依テ此旨 五畿七道諸国ニ布告シ、往古ニ立帰リ、諸家執奏配下之儀ハ被止、普ク天下之諸神社、神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡間 、官位ヲ初、諸事万端、
同官ヘ願立候様可相心得候事,但尚追追諸社御取調、并諸祭奠ノ儀モ可被仰出候得共、差向急務ノ儀有之候者ハ、可訴出候事 
ここには王政復古・祭政一致が宣言され、神祇官を再興することを布告し、「追追諸社御取調」と、追って各神社の「取調」が実施されることが予告されています。ちなみに、この布告が出されたのは「五箇条の御誓文発布」の前日にあたります。この時、江戸城の無血開城への折衝が大詰めを迎えています。
 また、3ケ月前の正月17日に、新政府は官制を発布して、太政官のもとに七科を置いて政務を分担させる中央行政組織を発表していますが、その七科の筆頭に神祗科が置かれていました。そして神祇事務総督には明治天皇の外祖父にあたる人物が就任します。つまり、神祇科は、他の行政諸官庁を管轄するポストであったわけです。太政官布告を追いかけるかのように4日後には、事務局から次の通達が全国に通達されます

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○神祇事務局ヨリ諸社ヘ達 慶応4年3月17日
今般王政復古、旧弊御一洗被為在候ニ付、諸国大小ノ神社ニ於テ、僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ、復飾被仰出候、若シ復飾ノ儀無余儀差支有之分ハ、可申出候、仍此段可相心得候事 、但別当社僧ノ輩復飾ノ上ハ、是迄ノ僧位僧官返上勿論ニ候、官位ノ儀ハ追テ御沙汰可被為在候間、当今ノ処、衣服ハ淨衣ニテ勤仕可致候事、右ノ通相心得、致復飾候面面ハ 、当局ヘ届出可申者也
ここには「僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ、復飾被仰出候」とあり、別当寺の僧職による祭礼が禁止されると同時に、復飾(一度僧籍にはいった者が、もとの俗人にもどること。還俗すること)が命じられています。また「僧位僧官を返上し・・・衣服ハ神職の衣服で勤仕」するようにと、具体的な指示も出ています。
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それまでの神仏混淆の下では、金毘羅大権現は金光院の支配下にありました。
つまり金光院別当の真言僧侶が神を祭祀、社領・財政を管理、本堂を営繕、人事を差配してきたのです。それは村々に鎮座する神社と別当寺(中宮寺)の関係でも同じでした。
急かすかのように10日後には「神仏分離」の通達が出されます 
○神祇官事務局達 慶応四年三月二十八日
一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細に書付、早早可申出候事、但勅祭之神社 御宸翰勅額等有之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ、御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候事、
一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、附、本地仏と唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事、
右之通被 仰出候事
ここでは神名に「権現」「明神」「菩薩」などの仏教的用語を使用している神社名を改めると供に、ご神体を仏像としている神社は仏像を取り除くべきこと、また、本地仏・鰐口・梵鐘などの仏具を神社から取り外し、神社と寺院と判然と区別するよう命じます。
  そして、一週間後には再び次の太政官符が出される念の入りようです。○太政官達 慶応四年閏四月四日
今般諸国大小之神社ニオイテ神仏混淆之儀ハ御禁止ニ相成候ニ付、別当社僧之輩ハ、還俗上、神主社人等之称号ニ相転、神道ヲ以勤仕可致候、若亦無処差支有之、且ハ佛教信仰ニテ還俗之儀不得心之輩ハ、神勤相止、立退可申候事、但還俗之者ハ、僧位僧官返上勿論ニ候、官位之儀ハ追テ御沙汰可有之候間、
当今之処、衣服ハ風折烏帽子浄衣白差貫着用勤仕可致候事、是迄神職相勤居候者ト、席順之儀ハ、夫々伺出可申候、其上御取調ニテ、御沙汰可有之候事、
ここでは神仏混淆の禁止の再確認と、別当・社僧に還俗を命じ、神主または社人と名称を変え、神道に転じよとの布告が出され、還俗しないものは神社への出入りは禁止とし、立ち退くように求めています。また祭礼の際には、烏帽子をかぶり白差貫を着用するなど神職の服装を求めています。 四月十九日には、神職の者の家族に至るまで、仏教式の葬祭をやめ、神道式の葬祭を行うよう命じるのです。
 明治政府は、江戸時代の仏教国教化政策を否定し、神道国教化政策を進めます。そして、神社の中から仏教的な要素を取り除くために、神仏分離政策を早急に、しかも強力に実施しようとします。
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このような性急で過激とも思われる新政府の「御一新」を、金毘羅さんではどううけとめたのでしょうか。
  大権現を称していた金毘羅さんの対応を姿を見てみましょう。
 金毘羅さんでも中世以来の本地垂迹(ほんちすいじゃく)という考えで神仏習合が行われていました。この考えは日本の八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた「権現(ごんげん)」であるとするものです。「垂迹」とは神仏が現れることをいい、「権現」とは仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを意味します。
   金光院松尾寺もその守護神である金毘羅大権現との神仏混淆が行われていました。現在の旭社は薬師堂(金堂)、若比売社は阿弥陀堂、大年社は観音堂というように多くの寺院堂塔からなる一大伽藍地だったのです。そして金光院主の差配の下、普門院、尊勝院、神護院、萬福院、真光院という5つの寺の僧侶がお山の事務を取り仕切っていました。

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 このような中で新政府の通達は、金光院を初めとする僧職達に対して、還俗して神職になるか、お山を下りるかの二者選択を迫るものだったいえます。
神仏分離の布告を受けた金光院では、別当宥常が脇坊や重役を集めて協議を続けます。この会議をリードしたのは普門院の院主宥暁でした。彼は、江戸深川の永代寺の住職を勤め終わり、高野山に登って数年間修業を積んだ学僧で、名望もありました。彼が主張したのは、
神仏分離令が対象としている寺院は、両部神道で祭られている社僧寺院であって、根本仏寺であり神社地でない金毘羅大権現を指すものでない。金毘羅は印度仏法の経典上に現われる神であって、日本の神祇に属する神ではない。
したがって今回の法令によって改廃を受けるものでない
というもので、この意見が重役達のほとんどが賛意を表したと云います。
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 そこで四月二十一日、金光院別当宥常は、役人山下周馬、寺中普門院宥暁を従えて、嘆願のために上京します。 そして綾小路・甘露寺の両執奏家へ、
「金毘羅権現は、、わが国の神祇でなく、全く印度の神祇であって、仏教専俗の神である」
旨を上申するのです。
 しかし上京した宥常を待っていたのは、「御一新基金御用」の名目での新政府への一万両の献納要請でした。宥常は、受けいれるほかなく献納を申し出て、六月十五日までに五〇〇〇両を調達し、残りの五〇〇〇両は三か年間に調達する旨の上申書を提出します。
 廃仏毀釈の運動へ 
 明治政府の神仏分離の政策は、これまで僧侶の風下に置かれていた神官達が、この時とばかりに政府の政策に追随し、さらにこれを越えて廃仏毀釈の運動へと進んでいきます。明治元年四月十日、政府は布告を発して、
「社人共、陽は御趣 意と称し、実は私情を晴らし候様の所業」
が御政道の妨げを生じると、その心得違いを戒め、さらに、同年九月十八日には、
「神仏混淆致さざるよう先達って御布告これ有り候所、破仏の御趣意には決してこれ無き処」
と行き過ぎた廃仏毀釈にブレーキをかける布告を出しています。
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 このように若き金光院別当宥常が陳情のために滞在した京都は、その廃仏毀釈の真っ只中でした。
宥常が頼りとした猶父である綾小路家は、実はその立場を利用して神仏分離を厳しく実施しようとする側だったのです。綾小路家の役人であった山田・平田・熊谷はその中心人物で、彼等の立場から見れば、宥常が提出した上申書は、大勢を知らない井の中の蛙としか見えません。神仏分離を強行しようとする彼らからみると伊勢の皇太神宮に匹敵する参詣者があり、日本一社として朝廷の尊い信仰を受け、仏教面では真言宗の一無本寺に過ぎない金毘羅大権現を、神仏分離政策から外すことなど絶対に認められないことだったのです。

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 神仏分離は着々と実行に移され、京都の公郷家出身の僧侶が多かった奈良の興福寺は僧侶全員が還俗して春日神社の神官となり、興福寺は無住の寺となって、西大寺や唐招提寺が管理するするようになったとの話が伝わってきます。
 鎌倉岡八幡宮では、境内にあった真言宗寺院の塔頭の僧侶が全員還俗して神官となり、総神主と称するようになります。
 王政復古のおひざもとであった京都では、神仏分離・廃仏毀釈が進行し二條城内に設けられた京都府庁の台座には、道端の石地蔵を集めて石垣が組まれます。寺院の廃合や整理も激しく、一般の末寺や大寺院内の塔頭などで廃寺となるものが多くでていました。

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 京都にいた宥常は、こういう空気に接して「現実」を知ります。
 政府の方針や廃仏毀釈という現実に逆らって、金毘羅大権現を仏教専属の神社として維持していくことが難しと思うようになってきたようです。それを加速させる次のような風も吹き始めます。
①一つは当時、金刀比羅宮内でも時流に乗って平田門下が影響力を増してきて、僧籍維持を主張する普門院への対抗勢力になりつつあったこと。
②社会状況が、仏教(寺院)として存続しても僧侶の生活を保障するものではなくなっていたこと。そして、奈良の興福寺の僧侶を真似るように僧籍を離れるのが流行のようにもなっていたこと。
③新政府の「御一新」に逆らって、金毘羅神は日本古来の神ではなくて、仏教の神だと上申しても、結果としてそれはお上に反逆するものであり、かえって金毘羅大権現の存続を危ういものにすること
④だとすると大権現存続のためには、あえて平田派的な論を用いた方が得策かもしれないこと。
⑤加えて宥常の個人的な保身・処世の動機も重なったのかもしれません。「御一新(神仏分離)」を通じて、山上経営の主導権を確固たるものにして、若きリーダーとして歴史に名を残す。
若い宥常の判断と、その後の行動は早かったようです。彼は政府の神仏分離政策に従って改革を行い、神社として存続を図り、引き続いて繁栄する道を選ぶべ道を選択します。つまり、彼は京都で今までの方針を転回させるのです。
C-23-1 (1)
  明治元年五月、宥常は上申書を政府に提出します。
そして、政府の神仏分離の方針に従うことを告げ、次の条々について御伺いを立てます。
1 金毘羅大権現は本朝の大国主尊であること。
2 象頭山を琴平山と改め、神号は勅裁をいただきたい。
3 一山の僧侶は還俗すること。
4 勅願所、日本一社の御綸旨(りんじ)、御撫物(なでもの)は、今まで通り認められたい。
5 御朱印地であることを考慮していただきたい。
 こうして6月14日、金光院宥常は京都で還俗します。金光院最後の住職となった宥常(ゆうじよう)は琴陵宥常(ことおかありつね)と改名と改めることを、願い出て許されます。そして金毘羅大権現の新たな神号は「勅裁を蒙(こうむ)りたい」と願い出たとおり、神祇官からの達書でに「金刀比羅宮」と改められます。
 こうして、新政府との交渉によって金毘羅大権現が金刀比羅神社として、存続できる道を開くことはできました。次にやるべきことは、その社格と、自らの地位の確保です。8月14日、琴陵宥常は、金刀比羅宮を勅裁神社の列に加え、宥常を大宮司に補任されたいと次のように願い出ます。
   宥常の歎願奉り候口上の覚                            
 讃岐国那珂郡小松庄琴平山に、御鎮座在りなされ候 金刀比羅大神の御儀は、御代々比類無き御尊崇に依りて、御出格の御沙汰の件々並びに、天朝において御取り扱いの次第等は、別紙に相記し、尊覧に備え奉り候通りに御座候、斯の如く種々容易ならざる朝令を蒙り奉り、御蔭を以て、神威日盛は申すに及ばず、奉仕の者共、神領の商農に至るまで安住罷り在り候儀は、偏に広大無量の、朝恩と冥加至極有り難き幸せと存じ奉り候、
 然るに方今一方ならざる御時節をも相弁え候上は、安閑罷り在り難し、天恩の万分の一をも報謝奉り度き赤心に御座候処、微力不肖も私聊以其の実行を相顕しがたく、依之会計御役所え御伺い奉り、金壱万両調達奉り度段歎願奉り候処、御隣懲の御沙汰を以て御採用成し下され、重々有り難き
幸せに存じ奉り候、且万事広大御仁恕の御趣意に取継り、猶又歎願願い候義は、別紙に相記候御由緒御深く思召なされ、分けて御制外の御沙汰を以て向後、勅裁の社に加えられ、且私儀大宮司に任ぜられ度、俯し伏して懇願奉り候、然る上は弥以て、皇位赫々国家安泰の御祈祷、一社を挙げて丹精を抽んで奉る可く候、恐惶敬白
    六月十四日          金光院事琴陵宥常
   弁事御役所
ここにはもう象頭山も金毘羅大権現も現れません。山は琴平山、主神は金刀比羅大神とリニューアルした名称が表記されます。また金刀比羅宮の由緒については「別所に相記」して提出したとあります。どのような内容だったかが気になるのですが、私の手元にこの時に提出した文書はありません。推察するに、先の上申書で「金毘羅大権現は本朝の大国主尊である」としたので、大国主尊を主神とする神々の系譜が、この間に調えられたようです。
 ちなみに、「神社取調」の提出は、金刀比羅宮だけでなく全ての神社に求められました。
そのために村々の役人や神職は苦労したようです。当時の庶民は自分たちの「村の鎮守」に誰を祀っているのか、どんな神々を祀っているのかに関心はなく、祭礼を行っていました。
  由緒が分かるのは式内社や、建立者がはっきした氏神様などほんのわずかでした。そこへ新政府からおまえの村の神社の由緒書きを提出せよと命じられたのです。ないものは提出できないとは言えません。提出しなければ神社として認められず、邪教として扱われ存続できないのです。
 ここに神仏分離政策のもうひとつの意味があります。
仏教よりも否定されたりされなければならなかったのは、民俗信仰だったのかもしれません。それまで民衆が信仰してきた修験道や巫女(シャーマン)などの民間宗教や、若者組、ヨバイ、さまざまの民俗行事、乞食などが「廃仏」とともに「毀釈」されて行くことになります。そういう意味では民衆の生活態度や地域の生活秩序が再編成されてゆくスタートだったと言えるのかも知れません。別の視点で見ると、国家が村の祠や小社を有用で価値的なものと無用・有害で無価値なものとに線引きしたとみることもできます。この結果、民衆に根付いていた多くの信仰が邪教として、排斥されていくことになります。
「神社取調」に対応したのは、村役人や神職(大半が僧侶から神職に転身した人たち)だったのではないか私は推測します。
彼らは、村に伝わる伝承をかき集め「村の鎮守」の由緒書きを作ったのではないでしょうか。なにもないところから由緒書きを作らなければならなかった神社もあったかもしれません。「真摯」な「考証」にも関わらず「不明」な神社も多いと云う記録も残っています。
  その「由緒」を明らかにできなかった神社の方が多かったようです。しかし、提出しなければならない。そうなると、創り出す他ありません。後世の適当なことを付会することに追い込まれていったのでしょう。ある研究者は「神社取調とは、大半の由緒不明の神社で社で、付会・でっち上げを行う過程」であったとも云っています。確かに、急に提出期限も限られたものなので、今の私たちから見ると「拙速・乱造」と思えるものもあるように思います。話が横道にそれました、これについては、また別の機会にして・・・
 宥常の嘆願書に戻ります。
 宥常は、新政府の求めに応じて一万両を納めたことに続いて、
「勅裁の社に加えられ、且私儀大宮司に任ぜられ度、俯し伏して懇願奉り」
と、大宮司のポストに就くことを嘆願します。この歎願書に次いで、八月十三日に重ねて歎願書を提出し、勅裁の神社の件は認可されます。しかし、大宮司就任は許されませんでした。8月17日に従五位下を授けられ、翌8月18日付けで、改めて社務職を仰せ付けられます。
 結局、「宮司に仰せつけられたい」という願いは聞き届けられず、明治6年3月には、鹿児島より深見速雄が宮司として赴任して来ることになります。宥常が宮司に任命されたのは、14年後の明治19年3月深見速雄が亡くなった翌4月のことでした。(松原秀明氏『金毘羅信仰資料集』)それまでの宥常は金比羅宮のトップではなかったことになります。
  こうして宥常の京都での新政府との交渉は1年間に及びました。
この交渉が地元金比羅山内の僧侶達と連絡・合意を取りながら進めたとは思えません。宥常と側近者で決定され進められたようです。このため「寺院から神社へ、僧侶から神職への転身」を、普門院や尊勝院の反神仏分離派の院主達がスムーズに受けいれてくれるとは限りませんでした。若き宥常の「決断と実行」が試されることになります。
  明治2年(1869)二月、琴陵宥常は1年ぶりに讃岐に帰ってきます。と同時に、神祇伯白川家の古実家古川躬行が琴平に到着、以後逗留して改革を指導することになります。いわば改革のお目付役であり、実質責任者となります。

金毘羅山多宝塔2
 金毘羅大権現関係の建築物は、次の様に改められていきました。
①三十番神堂
 廃止の上、石立社(祭神少彦名神)に充当。
②阿弥陀堂
 廃止の上、若比売社(祭神須勢理毘売命)に充当。
③薬師堂(金堂)
 廃止の上、その建物を旭社(祭神伊勢大神・八幡大神・春日大神)に充当。
④不動堂
 廃止の上、津島神社(祭神建速須佐之男命)に充当。
⑤孔雀堂
 廃止の上、その建物を天満宮(祭神菅原道真)に充当。
⑥摩理支天堂
 廃止の上、その建物を常磐神社に充当。
⑦毘沙門天堂
 伊邪那岐神・伊邪那美神並びに日子神社(祭神事代主神・味組高根神・加夜鳴海神)に充当。
⑧多宝塔
 廃止の上、その建物は明治三年六月に取り払う。
⑨経蔵
 廃止の上、その建物は取り払う。
⑩大門
 左右の金剛力士像を撤去して、建物はそのまま存置。
⑪二天門
 左右の多聞・持国天像を撤去して、建物はそのまま存置
金毘羅山旭社金堂

次に組織改革と人員整理です
 まず、旧体制である江戸時代末の金光院の組織を見ておきましょう
別当寺は象頭山松尾寺金光院で、金光院主は当時二百数十名の役人を使用し、寺領をもつ領主的な存在で「お山の殿様」と呼ばれていました。役人の内、僧籍にあったのは20数名程度だったようです。そして5人の役僧が「寺中」と呼ばれる脇坊の住職として、次のような分業体制をとっていました。
①真光院、尊勝院 庶務を、
②万福院   会計を、
③神護院   神札・祭礼
④普門院   社領民の滅罪(葬儀)
この内、④普門院は山上の外の現在の琴平公会堂にありました。
  宥常は、僧籍にあった二十数人への還俗を断行します。その上で、旧脇坊を次のように処置します。
神護院は退身した上で還俗して社務職として神社に仕えました。万福院は退身して還俗し、山上から去ります。尊勝院と普門院は退身しますが、僧籍からは離れませんでした。
先にも述べたように神仏分離に、最も反対していたのは普門院の院主宥暁と尊称院院主でした。
彼らは、宥常の進める改革策を受けいれることは出来なかったようです。還俗に対しても激しく抵抗しました。普門院は大門の外(現金刀比羅公会堂)にあって、松尾寺の檀家の葬祭などを取り仕切っていたので、普門院の院生宥暁に、先祖代々の尊牌とその香花料として徳米一〇石の田地を与えて仏籍に残る道を選ばせます。その後、普門院は京都仁和寺内階明寺の直末寺院となり松尾寺と称するようになり、金比羅公会堂の下の現在地に境内を移します。しかし、これは普門院の意向に従うものではなかったようです。後に普門院は、金刀比羅宮を裁判に訴え争うことになります。

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 組織改革と同時に、人員整理も行います
改革前には、僧俗合わせて300人近い職員がいたのを、明治4年の冬には約80人とし、県からの指示で翌年にはさらに、30人程度まで人員は削減されます。 それは、財政収入減へ対応でもあり、「社寺領上知令」とも関わります。
  それまで金毘羅大権現の金光院院主は、寺領朱印地330石の領主で、領主に対する租税は免除され、そこから得られる収益は全て祭司・供養・社殿の修繕費用に充てられました。
  ところが明治4年1月。いわゆる「社寺上知令」が発布されます。
「諸国社寺由緒ノ有無ニ不拘 朱印地除地等 従前之通被下置候所。各藩版籍奉還之末 社寺ノミ土地人民私有ノ姿ニ相成不相当ノ事ニ付、今般社寺領現在ノ境内ヲ除ク外、一般上知被仰付追テ相当禄制相定、更に蔵米ヲ以テ可下賜事」
ここにはすでに版籍奉還が行われ、各藩が領地を奉還した以上、「朱印地」「除地(のぞきち)」等の「社寺領」も当然「上知(没収)」すべきである。それにより失われた特権については、追って蔵米にて補償する予定である、とされています。

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  ちなみに京都の南禅寺界隈の別荘庭園群は、神仏分離令や社寺上知令によって、広大な敷地を持っていた南禅寺の土地の大部分が民間へ払い下げられます。それを山縣有朋や財閥の野村家など、政財界の人々がステータスとして競って別邸を建てたものです。あの綺麗な景色の中に、寺社と明治政府の攻防が隠れているようです。
 ここからは神仏分離に、経済的な側面があったことを、改めて気付かされます。この結果、経済基盤を失い衰退していった寺院も多いのです。この措置とリンクさせて、財政収入の激減が予想される社寺への「職員削減」を命じたようです。

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 そのような中で、明治5年4月3日、鵜足郡内田村の吉田寺住職真道房から金刀比羅宮に対して、
「御山変革につき、不用となった三つ壇と仏具類一揃えの寄付を願いたい」
との申し出がありました。宥常はこれを許しています。この頃から、金毘羅大権現の仏像や仏具や什器などの処分が注目されるようになったようです。
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   聖観音立像 (金刀比羅宮 宝物館蔵)
改革によって取り除かれた仏像・仏具の処分が明治5年6月から始められます。その記録を見てみましょう。
六月五日、梵鐘が227円50銭で榎井村の興泉寺へ売却。
七月十一日 雑物什器売却、
  十八日 仏像売却、
  十九日 善通寺の誕生院の僧が、両界曼荼羅を金二〇円で買い取った。
 八月四日 障りありとして残されていた仏像や仏具を境内の裏谷で焼却した。
午前八時から始められて、午後には焼却を終わった。その日の暮れのころ、聞き付けて駆けつけた二、三人の老女が、杖にすがりながら、燃え尽きてちりぢりとなった灰を、つまみとって紙に包み、おし頂いて泣きぬれていた

と記録されています。
 のこされた仏像は、長櫃(ながびつ)にいれて裏谷へ隠してあった聖観音立像と、不動明王立像の2体だけでした。現在、この2体は宝物館に展示されています。金毘羅さんの神仏分離の激動を見守った仏と言えるのかも知れません。
 そして、立ち上る煙を宥常はどんな気持ちで見ていたのでしょうか。
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参考文献 神仏分離令と金刀比羅宮 ことひら町史441P


  明治以前の金毘羅さんの姿を見てみましょう。
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 明治以前の神社は、本地垂迹(ほんちすいじゃく)のもとで神仏習合が行われていました。この考えは日本の八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた「権現(ごんげん)」であるとするものです。「垂迹」とは神仏が現れることをいい、「権現」とは仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを意味します。
   インドからやって来た番神クンピーラ(金毘羅神)を権現としたので金毘羅大権現と呼ばれていました。そして象頭山は、金光院松尾寺とその守護神である金毘羅大権現との神仏混淆の地で、現在の旭社は薬師堂(金堂)、若比売社は阿弥陀堂、大年社は観音堂というように多くの寺院堂塔からなる一大伽藍地でした。金光院主の差配の下、普門院、尊勝院、神護院、萬福院、真光院という5つの寺の僧侶がお山の事務をとり行っていました。

これは幕末の「金毘羅参詣名所圖會」に見る金毘羅さんの姿です。
金毘羅本殿周辺1
大門から続く参道と石段を登ってきた参拝客が目にするのは、左下の金堂(現旭社)です。そして、参道は右に折れて仁王門をくぐって、最後の石段を登って本社へ至ります。山内の建物を挙げると次のようになります
 大別当金光院 当院は象頭山金毘羅大権現の別当なり
本殿・金堂・御成御門・ニ天門・鐘楼等多くの伽藍があり。
古義真言宗の御室直末派に属す。
山内には、大先達多聞院・普門院・真光院・尊勝院・万福院・神護院がある
この説明文だけを読むと、金毘羅さんが神社とは思えません。また当時の建築物群も、神社と云うよりも仏教伽藍と呼ぶ方がふさわしかったようです。
 この絵図だけ見ると、どの建築物が一番立派に見えますか?
金毘羅山多宝塔2
これは誰が見ても中段の金堂が立派です。
幕末に清水次郎長の代参で金毘羅さんに参拝した森の石松は、この金堂を右上の本殿と勘違いして、この上にある本殿まで行かずに帰ったことになっています。そのために、帰り道で事件に巻き込まれ殺されたと語られています。それが、納得できるほどこの建物は立派です。同時の参拝記録にも賛辞の言葉が数多く記されています。

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 この建物は以前にも紹介しましたが幕末に三万両というお金をかけて何十年もかけて建立されたものです。そして、ここに納められたのが薬師さまでした。それ以外にも堂内には、数多くの仏達が安置されたいたのです。金堂は今は旭社と名前を変え、祭神は天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神、天照大御神、天津神、国津神、八百万神 などで平田派神学そのものという感じです。しかし、今は堂内はからっぽです。
   目を転じて手前を見ると塔が建っています。多宝塔を記されているようです。別の角度から見てみましょう。
金毘羅山旭社金堂

★「讃岐名所圖會」にみる金堂と多宝塔
さきほどの金堂を別の角度から俯瞰した絵図です。参道には、蟻の子のように人々が描かれています。正面に金堂(現旭社)、そして右へ進むと長宗我部元親の寄進したと云われる二天門が参拝客を迎えます。そして、参道の両側には灯籠が並びます。今の金毘羅さんの姿とちがうのは・・? 右手に塔があります。よく見ると多宝塔と読めます。これは今はありません。ここには神馬が奉納されています。明治以前の金毘羅さんが仏教的な伽藍配置であったことを再確認して、先に進みましょう。
まず、明治以前の建物群の配置図を確認しましょう
konpira_genroku 元禄末頃境内図:
元禄末頃(1704)境内図
元禄末頃の作と推定される「金毘羅祭礼屏風図」の配置と参道です
   ①昔の参道(点線)は、普門院の門の所に大門がありました
   ②脇坊中前土手を通り、本坊の大庭の中を通り、築山の道を抜け
    ③宥範上人の墓の付近を通り、鐘楼堂仁王門に出て
    ④本地堂其の他末社の前を通り、神前に至るルートでした。
 ○宝永7年(1710) 太鼓堂上棟。
 ○享保年中(1716-36)本坊各建物、幣殿拝殿改築、御影堂建立。
 ○享保14年(1729)本坊門建立、神馬屋移築。
このころ四脚門前参道を玄関前から南に回る参道(現参道)に付替え
 ○寛延元年(1748)  万灯堂建立。
 ○天保3年(1832)  二天門を北側に曳屋。
○弘化3年(1846)  金堂が建立。この図中にはまだ姿がありません
そして明治の神仏分離以後の配置図です
明治13年神仏分離後
    
    神仏分離・廃仏毀釈によって、どう姿が変わったのかを確認します。
    ①三十番神社 廃止し、その建物を石立社へ
    ②阿弥陀堂 廃止し、その建物を若比売社へ
    ③観音堂 廃止し、その建物を大年社へ
    ④金堂    廃止し、その建物を旭社
    ⑤不動堂 廃止し、その建物を津嶋神社へ
    ⑥摩利支天堂・毘沙門堂(合棟):廃止し、常盤神社へ
    ⑦孔雀堂 廃止し、その建物を天満宮へ
    ⑧多宝塔 廃止の上、明治3年6月 撤去
    ⑨経蔵   廃止し、その建物を文庫へ
    ⑩大門   左右の金剛力士像を撤去し、建物はそのまま存置
    ⑪二天門 左右の多聞天像を撤去し、建物はそのまま中門
    ⑫万灯堂 廃止し、その建物を火産霊社へ
    ⑬大行事社 変更なし、後に産須毘社と改称
    ⑭行者堂 変更なし、大峰社と改称、明治5年廃社
    ⑮山神社 変更なし、大山祇社と改称
    ⑯鐘楼   明治元年廃止、取払い更地にして遙拝場へ 
    ⑰別当金光院 廃止、そのまま社務庁へ
    ⑱境内大師堂・阿弥陀堂は廃止
    松尾寺は徹底的に破壊され、神社に改造された跡が読み取れます。そして、金光院、金堂、大門などは転用されています。なかでも明治の宗教政策の様相がうかがえるのが5つあった門院の転用用途です。
    神護院→小教院塾、
    尊勝院→小教院支塾、
    万福院→教導係会議所、
    真光院→教導職講研究所、
    普門院→崇敬講社扱所への転用が行われています
    崇敬講社扱所以外では、讃岐における神道の指導センターとしての役割を忠実に実行したようです。 現在では、下の現在の境内図に見られるように坊舎跡は取り払われ、宝物館や公園になっています。  
     
konpira_genzai2002年境内図
2002年境内図
こうして仏教的な伽藍は、神社へと姿を変えたのですがそこには、おおきな痛みを伴いました。神仏分離が金毘羅大権現になにをもたらしどう変えていったのかを、次回は当時の金光院主に焦点を当てながら考えていきたいと思います。
金毘羅山旭社・多宝塔1

  関連記事 金堂(旭社)についてはこちらへ 


参考文献(HP) 讃岐象頭山金毘羅大権現多宝塔(象頭山松尾寺多宝塔)
    

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