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八峰方面からの勝浦
まずは「琴南町誌 958P」で予習
「下福家は、土器川の源流勝浦川と真鈴川にはさまれた標高350~550mぐらいの阿讃山脈の緩斜面に開けた集落である。その東側を「東ら」と言い、西側は「西ら」と呼ばれる。突出した丘陵の中段に扇状に人家が散在している。「東ら」は家の近くに比較的広い水田が聞かれている。「西ら」は伝説では神櫛王の家臣の子孫である福家長者がこの地を開き、天安元(857)年、ここに社を建て神櫛王を祀ったという。後に、この神社を福家神社、その地を下福家と呼ぶようになった。福家長者の子孫については、不詳であるがこの福家神社を中心に集落は拓けた。」
まんのう町下福家と四つ足茶堂
下福家集落
さて、これだけの情報を頭に入れて、土器川源流に近い勝浦地区の下福家へ原付ツーリング開始
琴平方面から国道438号を南下し、まんのう町明神にある「谷川うどん」の上にある信号を右折し、県道108号線の「滝の奥」方面へに入る。

DSC00879現在の長楽寺
現在の長善寺
勝浦から下りてきた現在の長善寺の伽藍を右手に見ながら更に進み、勝浦集落への入口も越えて行く。

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しばらくすると「下福家バス亭」が見えてくる。ここから下福家集落に入っていく。
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旧長善寺跡
かつての長善寺の伽藍跡を左手に見上げながらさらに坂を登る。この寺は、阿波郡里の安楽寺のサテライト寺院として、丸亀平野への浄土真宗興正寺派の布教センターの役割を果たした寺院で、阿波と讃岐に多くの門徒を抱えた大寺院だったようだ。

DSC00796長善寺破れ本堂
取り壊される前の旧長善寺本堂
かつての茅葺きの本堂は、その面影を残していた。

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旧長善寺の鐘楼
鐘楼には、大きな石がぶら下げられて重しとなって揺れていた。今は、更地となってそれもない。寺から更に道を詰めて、沢が滝のように落ちていくのを見ながら急勾配の細い坂道を登ると、深い木立の中に福家神社が鎮座する。
DSC00855勝浦福家神社鳥居
福家神社鳥居
拝殿には「福家神社のもうひとつの由来について」と題して、町史に書かれていない神社由来が貼り付けられていた。一部紹介すると
「前略 崇徳上皇が崩御されて帰る行き先が無くなったお供の公家達は、阿讃の山奥に住み生活の糧に木材を土器川に流して下流の地で商いをして富を得たので、村人達はその一団を福(富)の家長者と呼んでいた。その後も公家達は京都の縁者と連絡を取っていた模様で源平の戦いに敗れた安徳天皇を密かに招いた地は現琴南町の造田の横畑地区と思われる。(通称:平家の落人部落)
そこで公家達は相当の逃走資金を献上して阿波祖谷に逃げさせた。(以下略)」

 ここには、神櫛王に発し、崇徳上皇、安徳天皇に連なる誇り高き神社であることが、記されている。 満濃町誌には、下福家の人々がこの神社の宗教行事を通じて結束を保ってきたことを、次のように記している。 

下福家は、全戸で二九軒(東8軒、中6軒、下8軒、西7軒)であるが、福家神社を中心に生活してきたことが、福家神社の正月の行事をみると明らかである。正月の元日の宮まいりは、大晦日の十二時が過ぎると氏子の者は皆神社に参るが、どの家も「おごくさん」を炊いて、ヘギに盛って持って来て祀る。
DSC00853福家神社鳥居
福家神社参道 


福家神社の年間行事 勝浦
福家神社の年間行事(まんのう町勝浦)
一月七日に的射の行事があるが、各戸から持ち寄った紙を張り合わせ、五尺四方の的をつくる。もちろん、弓も矢も手造りである。まず宮司がお祀いをして三本射ると、続いて氏子の者全員が交替に二、三本の矢を射る。これが済むと、この的を境内中引きずり回して、めちゃくちゃにこわしてしまう。これで悪魔を射払い、一年の無病息災を祈念るのである。最後に、お神酒が出て、重箱の「おごくさん」をいただく。それは、「手のひら盆」といって、手の甲に受けていただくもので、古いしきたりがそのまま残っている。
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福家神社

  福家神社の横の道を登っていくと、家の周りに棚田が重なる風景が見えてくる。一番高い民家から勝浦・明神方向をながめる。幾重にも山々がひだのように重なる。(以下追加 2025/08/27)
福家神社から500mほど山に登ると見はらしのよい丘に龍王社が鎮座します。
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社といっても石積みがあるだけで、社殿はありません。お祭りの日(八月四日)には、朝早く頭屋の者がここに登り、付近にある萱や小木を切り取り、これで石積みの壇上に、高さ70㎝、幅60㎝ほどの小さな祠を造ります。新しい祠ができると大川宮(大川山)から龍王が天狗に乗ってここに降りて来るのだと信じられている。磐境に設けられた神聖な社に龍王が降臨されるという信仰形式が今に伝えられています。ここからは次のようなことが読み取れます。
①空海の「善女龍王」信仰から雨乞の龍王社が祀られている。
②大山権現から龍王が天狗に乗って下りてくるというのは、天狗信仰(修験者)の存在

準備が出来ると、集落の人々は思い思いにおごくさんや、お神酒を持って来て供え、長老が祝詞をあげます。神事が終わると参拝者はお供物をいただく。秋の祭りには、獅子が奉納される。人々はこれで今年も雨の心配がないと安心するのです。
千ばつの時は、この龍はん(ごりょうはん)に雨乞いをしたことが次のように記します。
金毘羅さんに参詣し神火を火縄に受け、約28㎞の道を歩き、四つ足にある「はこぶち」に着くと、その淵の水を汲み、そこで108の松明に神火を移し、この松明をかざして行列をつくる。各人が「なんまいだ、なんまいだ」と称えながら山を登る。
「龍はん」に神火と水を供え、三日二夜の間徹夜の祈願をする。雨乞い中は洗濯物や千物は一切しないで水を大切にして風呂さえも休んだ。神前に大火を燃やし、29戸の講中の者が、思い思いの日を紙片に書き箱に入れ、榊の葉でかきまわすと、紙片が一つだけついてくる、この紙に書かれた日には必ず雨が降ったという。 「大川さんから白い雲の帯が下りて来て龍王の祠を結ぶようになった時には、必ず雨が降る」
そして、使いの天狗がとまっていたという天狗松と呼ぶ老木もありました。今では日照りがしても、龍王さんに祈願をすることもなくなったが、毎年二回の龍王祭は欠かしたことはないといいます。。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 琴南町誌 950P