瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:神泉苑

  天長元年(824)に空海が平安京の神泉苑で祈雨祈祷を行い、それによって少僧都に任じられたことが史料に最初に登場するのは、寛平七年(895)の『贈大僧正空海和上伝記』です。それでは、それ以前の「仏教的祈雨」とは、どんなものがあったのでしょうか。研究者は次の4つを挙げます。
①諸大寺での読経
②大極殿での読経
③東大寺での読経
④神泉苑での密教的な修法
この中で先行していたのは、①諸大寺での読経と②大極殿での読経のふたつでした。ふたつの中でも②の大極殿での祈雨の方が有力だったようで、頻繁に行われています。例えば『続日本後紀』を年代順に挙げておくと、承和十二年(845)5月1日、5月3日には2日間延長し、5月5日にはさらに2日間延長して祈雨読経が行われていますいます。この頃は、大極殿で行う事が定着し、他の祈雨修法は見られません。それが約30年ほど続きます。
 大極殿での祈雨に参加するのは天台・真言のほか七大寺を含めた諸宗派の僧でした。
この時期は祈雨について宗派間の抗争が生じることはなく、平穏な状態で行われていました。それが破られるのは、貞観十七年(875)のことです。『三代実録』には同年6月15日の条に、次のようにあります。
(前略)屈六十僧於大極殿 限三箇日 転読大般若経 十五僧於神泉苑 修大雲輪請雨経法 並祈雨也。  (後略)
意訳変換しておくと
(前略)六十人の僧侶が大極殿で三日間、大般若経の転読を行った。一方、十五人の僧侶が神泉苑 で大雲輪請雨経法を修法して祈雨した。(後略)

 ここで初めて大極殿以外の神泉苑で大雲輪請雨経法が15人の僧侶によって修法されています。祈雨に請雨経法が出てくるのは、正史ではこの記事が初見のようです。ここからは、一五人の僧侶は新しい祈雨の修法を持って登場し、その独自性を主張したことが考えられます。これを鎌倉中期成立の『覚禅抄』では、空海の弟である真雅が行ったことにしています。しかし、それよりも速い永久五年(1117)頃の『祈雨日記』には、次のように記します。

 貞観年中種々祈雨事。但以神事無其験云々。僧正真雅大極殿竜尾壇上自不絶香煙祈請。小雨降。

意訳変換しておくと
 貞観年中には、さまざまな祈雨が行われた。但、神事を行ってもその効果はなかったと云う。(空海の弟である)僧正真雅は大極殿の竜尾壇上で香煙を絶やさず修法を行った。その結果、小雨があった。

ここには真雅は大極殿での祈雨に参加していて、神泉苑での祈雨のことは何も触れられません。神泉苑での修法は、この時が初めてで、祈雨の中心はあくまでも大極殿での読経であったようです。そうだとすると当時の東密の第一人者であった真雅は、大極殿への出席を立場上からも優先させるはずです。それがいつの間にか、神泉苑での東密による祈雨の方が次第に盛になります。そのために、この時の修法が真雅の手によるものであったと伝承が変わってきたと研究者は考えています。
貞観17(875)年の15人の僧による神泉苑での修法が、宗派間に波紋を投げかけたようです。
これを契機に、さまざまな祈雨法が各宗派から提案されるようになります。『三代実録』同年6月16日の条には、次のような記事があります。
 申時黒雲四合。俄而微雨。雷数声。小選開響。入夜小雨。即晴。先是有山僧名聖慧。自言。有致雨之法 或人言於右大臣即給二所漬用度紙一千五百張。米五斗。名香等聖慧受取将去。命大臣家人津守宗麻呂監視聖慧之所修。是日宗麻呂還言曰。聖慧於西山最頂排批紙米供天祭地。投体於地 態慰祈請。如此三日。油雲触石。山中遍雨。

意訳変換しておくと
 祈雨修法が行われると黒雲が四方から湧きだし、俄雨が少し降り、雷鳴が何度かとどろいた。次第に雷鳴は小さくなり、夜になって小雨があったが、すぐに晴れた。ここに聖慧という山僧が云うには、雨を降らせる修法があると云う。そこで右大臣は、すぐさま祈祷用の用度紙一千五百張。米五斗、名香などを聖慧に与えた、家人の津守宗麻呂に命じて、聖慧の所業を監視するように命じた。 宗麻呂が還って報告するには、聖慧は西山の頂上に紙米を天地に供え、五体投地して懇ろに祈願した。その結果、この三日間。雨雲がわき上がり、山中は雨模様であった。

 ここからは6月15日の15人の僧侶が神泉苑で祈雨修法に、それに対抗する形で山僧の聖慧が祈雨修法を行っていたことが記されています。
 これに続いて、6月23日の条には次のように記されています。
 古老の言うには、神泉苑には神竜がいて、昔旱勉の時には水をぬいて池を乾かし、鐘太鼓を叩くと雨が降ったという。その言葉に従って、神泉苑の水をぬいて竜舟を浮かべ、鐘・太鼓を叩いて歌舞を行った。

このように、古老の言い伝えによる土俗的方法までも、朝廷は採用しています。効き目のありそうなものは、なんでも採用するという感じです。そこまで旱魃の被害が逼迫していたとも言えそうです。
 以上のように、この年はこれまでになく新たな祈雨修法が行われた年でした。それは、長い厳しい旱魃であったこともありますが、その動きを開いたのは、一五僧による神泉苑での祈雨がきっかけを作ったものと研究者は指摘します。
 2年後の元慶元年(877)も、旱魃の厳しい年でした。
そのためこの年も種々の修法が提案され、様々な方法が取り上げられています。それを『三代実録』で見ておきましょう。
まず初めは、6月14日のことです。

(前略)是日。左弁官権使部桑名吉備麿言。降雨之術。請被給香油紙米等試行之。三日之内。必令有験。於是給二香一斤。油一斗。紙三百張。五色細各五尺。絹一疋。土器等
意訳変換しておくと
(前略)この日、左弁官権使部の桑名吉備麿が自ら、私は降雨之術を会得しているので、香油紙米らを授けて試行させたまえ、されば三日の内に、必ずや験がありと云う。そこで、香一斤・油一斗・紙三百張・五色細各五尺・絹一疋・土器を授けた。

 桑名吉備麿は、自分が降雨の術を持つことを売り込んでいるようで、それに必要な物を要求しています。
さらに6月26日には、次のように記します。

屈伝燈大法師位教日於神泉苑 率廿一僧。修金麹鳥王教法。祈雨也。
意訳変換しておくと
伝燈大法師が神泉苑で、21人の僧侶を率いて。金翅鳥王教法を修法し、祈雨を祈願した。

「金翅鳥王教法」という祈雨修法は、初見です。神泉苑で、それまでにない修法が行われています。しかし、雨が降ったとはありません。これが駄目なら新しい祈雨の登場です。翌日の6月27日には、次のように記します。

遣権律師法橋上人位延寿。正五位上行式部大輔兼美濃権守橘朝臣広相於東大寺大仏前 限以三日‐修法祈雨。遂不得嘉満
意訳変換しておくと
 権律師法橋上人位の延寿をして、正五位上行式部大輔兼美濃権守橘朝臣広相が東大寺大仏前で 三日間に限って 祈雨修法を行うが、効果はなかった。

 この後には、7月7日から5日間、紫宸殿で百人の僧による大般若経の転読が行われますが、これも、効果はありません。そこで7月13日から、また異なった方法で祈雨が次のように行われます。

 先是。内供奉十禅師伝燈大法師位徳寵言。弟子僧乗縁。有呪験致雨之術 請試令修之。但徴乗縁於武徳殿 限以五日 誦呪祈請。是日。未時暴雨。乍陰乍響。雨沢不洽。
意訳変換しておくと
 内供奉十禅師の伝燈大法師位・徳寵が云うには、弟子僧の乗縁は祈雨の術に優れた術を持っていることを紹介して、試しにやらせてくれれと申し入れてきた。そこで、武徳殿で五日に限って修法を行わせたところ 暴雨になり雨は潤沢に得た。

 ここでも、新たな祈雨法が武徳殿で行われています。これまでは、祈雨と言えば大極殿で大般若経を転読するものと決まっていました。それが一五僧の請雨経法が神泉苑で行われた後は、自薦他薦による新しい修法の売込み合戦とも言うべき様相となっていたことが分かります。これは当然の結果として、祈雨修法をめぐって宗派間の対立・抗争を生み出します。その際に研究者が注目するのは、この時点では神泉苑での祈雨修法が、真言東密だけの独占とはなっていなかったことです。そのために様々な祈雨修法が採用され、実施されたのです。
 『三代実録』元慶四年五月二十日の条には、次のように記します。

(前略)有勅議定。始自廿二日、三ケ日間。於賀茂松尾等社 将修二濯頂経法 為祈雨也。(後略)
意訳変換しておくと
(前略)勅議で22日から三ケ日間、賀茂松尾等社で「濯頂経法」が修法され、祈雨が行われた。(後略)

ここにも「濯頂経法」というこれまでにあまり聞かない祈雨修法が行われています。この後、大雨となりすぎて、逆に神泉苑で濯頂経法を止雨のために修法しています。これらを見ると、この時も祈雨修法のやり方が固定化していなかったことがうかがえます。
 貞観17年から元慶4年にかけての混沌とした様相の後、約十年にわたって仏教的祈雨の記事が出てこなくなります。この間は比較的天候が順調だったのでしょう。次に仏教的祈雨が見られるのは、寛平3年(891)になります。『日本紀略』同年六月十八日の条に、次のように記します。

極大極殿 延屈名僧 令転読大般若経 又於神泉苑 以二律師益信 修請雨経 同日。奉幣三社 
意訳変換しておくと
大極殿で延屈名僧によって大般若経が転読されるとともに、神泉苑で東寺の律師益信によって請雨経法が修せられ、三社に奉納された。

 ここでは、それまでのようないろいろな修法を試すという状況は、見られません。そして、この後は、神泉苑での祈雨は、東密によって独占されていきます。891年に、益信が祈雨を行った時には、すでに神泉苑での祈雨が東密の行うものであるという了解のようなものが、ほぼできあがっていたと研究者は考えています。
これと関連する史料である寛平7(883)年成立の『贈大僧正空海和上伝記』には、次のように記します。

 天長年中有早災 皇帝勅和上 於神泉苑令祈膏雨 自然傍詑。乃賀其功 任少僧都
意訳変換しておくと
 天長年間に旱魅があり、天皇の命により空海が神泉苑で祈雨を行って雨を降らし、その功によって少僧都に任じられた

ここからは、この記事が書かれた寛平7年には、もうすでに空海請雨伝承が成立していたことが分かります。寛平7年は、益信の祈雨より4年後のことになります。伝承成立が、益信の祈雨以前であったと研究者は考えています。真言側は、この空海請雨伝承でもって、自らの神泉苑での祈雨の正当性を朝廷に訴えていったのでしょう。
 しかし、ここではこの時点での伝承の内容は、空海が神泉苑で祈雨を行いそれによって少僧都に任じられたということだけで、それ以上のものではなかったことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

神泉苑-京都市 中京区にある平安遷都と同時期に造営された禁苑が起源 ...
神泉苑
 天長元年(824)に空海が平安京の神泉苑で祈雨祈祷を行い、それによって少僧都に任じられたことは、空海の伝記類のほとんどが取り上げています。その伝記類の多くが、祈雨に際して、空海が請雨経法を修したと記します。これが「空海請雨伝承」と一般に呼ばれているものです。
2善女龍王 神泉苑2g

 鎌倉中期成立の『高野大師行状図画』で、「神泉祈雨事」の部分を見ておきましょう。

 淳和天皇の御宇天長元年に天下大に日でりす。公家勅を下して。大師を以て雨を祈らしめんとす。南都の守敏申て云守敏真言を学して同じう御願を祈らんに、我既に上臆なり。先承りて行ずべしと奏す。是によりて守敏に仰せて是を祈らしむ。七日の中に雨大に降。然どもわづかに京中をうるほし。いまだ洛外に及ぶ事なし。

 重て大師をして神泉苑にして請雨経の法を修せしむ。七日の間 雨更にふらず。あやしみをなし。定に大観じ給ふに守敏呪力を以て、諸竜を水瓶の中に加持し龍たり。但北天竺のさかひ大雪山の北に。無熱池と云池あり。其中に竜王あり。善女と名付。独守敏が鈎召にもれたりと御覧じて公家に申請て。修法二七日のべられ。
  彼竜を神泉苑に勧請し給ふ。真言の奥旨を貴び 祈精の志を感じ 池中に形を現ず。金色の八寸の蛇。長九尺計なる蛇の頂にのれり。実恵。真済。真雅。真紹。堅恵。真暁。真然。此御弟子まのあたりみ給ふ。自余の人みる事あたはず。則此由を奏し給ふ。公家殊に驚嘆せさせ給ひて、和気の真綱を勅使にて、御幣種々の物を以て竜王に供祭せらる。密雲忽にあひたいして、甘雨まさに傍陀たり。三日の間やむ事なし。炎旱の憂へ永く消ぬ。上一大より下四元に至るまで。皆掌を合せ。頭をたれずと云事なし。公家勧賞ををこなはれ。少僧都にならせ給ひき。真言の道、崇めらるゝ事。是よりいよくさかんなり。大師茅草を結びて、竜の形を作り、壇上に立てをこなはせ給ひけるが。法成就の後、聖衆を奉送し給ひけるに、善女竜王をばやがて神泉苑の池に勧請し留奉らせ給ふて、竜花の下生、三会の暁まで、此国を守り、我法を守らせ給へと、御契約有ければ、今に至るまで跡
を留て彼池にすみ給ふ。彼茅草の竜は、聖衆と共に虚にのぼりて、東をさして飛去。尾張国熱田の宮に留まり給ひぬ。彼社の珍事として、今に崇め給へりといへり。仏法東漸の先兆、東海鎮護の奇瑞軋にや。大師の言く、此竜王は。本是無熱池の竜王の類なり。慈悲有て人のために害心なし。此池深して竜王住給は七国土を守り給ふべし。若此竜王他界に移り給は七池浅く水すくなくして。国土あれ大さはがん。若然らん時は。我門徒たらん後生の弟子、公家に申さず共、祈精を加へて、竜王を請しとゞめ奉りて、国土をたすくべしといへり。今此所をみるに。水浅く池あせたり。をそらくは竜王他界に移り給へるかと疑がふべし。然ども請雨経の法ををこなはるゝ毎に。掲焉の霊験たえず。いまだ国を捨給はざるに似たり。(後略)
意訳変換しておくと
 淳和天皇治政の天長元(824)年に天下は大旱魃に襲われた。公家は、弘法大師に命じて祈雨祈祷を行わせようとした。すると南都奈良の守敏も真言を学んでいるので、同じく雨乞祈祷を行わせてはどうかと勧めるものがいた。そして準備が既に出来ているということなので、先に守敏に祈祷を行わせた。すると七日後に、雨が大いに降った。しかし。わずかに京中を潤しただけで、洛外に及ぶことはなかった。

 そこで弘法大師に、神泉苑での請雨経の法を行わせた。七日の間、修法を行ったが雨は降らない。どうして降らないのかと怪しんだところ、守敏が呪力で、雨を降らせる諸竜を水瓶の中に閉じ込めていたのだ。しかし、天竺(インド)の境堺の大雪山の北に、無熱池という池あった。その中に竜王がいた。その善女と名付けられた龍は、守敏も捕らえることができないでいた。
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そこで、その善女龍王を神泉苑に勧請した。すると、真言の奥旨にを貴び、祈祷の志を感じ、池中にその姿を現した。それは、金色の八寸の蛇で、長九尺ほどの蛇の頂に乗っていた。実恵・真済・真雅・真紹・堅恵・真暁・真然などの御弟子たちは、その姿を目の当たりにした。しかし、その他の人々には見ることが出来なかった。すぐにそのさまを、奏上したところ、公家は驚嘆して、和気の真綱を勅使として、御幣など種々の物を竜王に供祭した。すると雲がたちまち広がり、待ち焦がれた慈雨が、三日の間やむ事なく降り続いた。こうして炎旱の憂いは、消え去った。上から下々の者に至るまで、皆な掌を合せ、頭をたれないものはいなかったという。これに対して、朝廷は空海に少僧都を贈られた。
 以後、真言の道が崇められる事は。ますます盛んとなった。大師は茅草を結んで、竜の形を作り、壇上に立て祈雨を行った。祈雨成就後は、善女竜王を神泉苑の池に勧請し、留まらせた。こうして未来永劫の三会の暁まで、この国を守り、我法を守らせ給へと、契約されたので、今に至るまで神泉苑の池に住んでいます。
 また茅草の竜は、聖衆と共に虚空に登って、東をさして飛去り、尾張国熱田の宮に留まるようになったと云う。熱田神宮の珍事として、今も崇拝を集めています。これこそが仏法東漸の先兆で、東海鎮護の奇瑞である。大師の云うには、この竜王は、もともとは無熱池の竜王の類である。しかし、慈悲があり、人のために害心がない。この池は深く、竜王が住めば国土を守ってくれる。もしこの竜王が他界に移ってしまえば池は浅くなり、水は少なくなって、国土は荒れ果て大きな害をもたらすであろう。もし、そうなった時には、我門徒たちは、後生の弟子、公家に申し出ることなく、祈祷を行い、竜王を留め、国土を守るべしと云った。今、この池を見ると、水深は浅くなり、池が荒れています。このままでは、竜王が他界に移ってしまう恐れがある。しかし、請雨経の修法を行う度に。霊験は絶えない。いまだこの国をうち捨てずに、守っていると言える。(後略)
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 この後は、神泉苑が大変荒れた状態になっているので、早く復旧すべきであると結んでいます。以上をまとめておくと
①天長元(824)年の旱魃の時に、空海と守敏が祈雨において験比べを行うことになった。
②その時に、空海が善如竜王を勧請して雨を降らせた
③神泉苑には今もその竜王が棲むことを説く話
空海請雨伝承は、この話が書かれた鎌倉時代の中頃には内容的にかなりボリュームのあるものになっていたことが分かります。これを、後世の伝記類はそのまま継承します。

 空海請雨伝承が初めて登場した寛平七年(895)『贈大僧正空海和上伝記』と、比較しておきます。
天長年中有旱 皇帝勅和上 於神泉苑 令祈膏雨 自然傍詑。乃賀其功 任二少僧都

意訳変換しておくと 
天長年間に旱魅があり、天皇の命により空海が神泉苑で祈雨を行って雨を降らし、その功により少僧都に任じられた
ここには、これ以上のことは何も書かれていません。空海と験比べをした守敏の名前も、神泉苑に棲む善如竜王も出てきません。伝説や民話は時代が下れば下るほど、いろいろな物がいろいろな人の思惑で付け加えられていくとされます。空海請雨伝承は、時間の経過とともに内容の上でかなり脚色が加えられ、話が大きく発展していったことを押さえておきます。空海請雨伝承の話の根幹は、天長元年に空海が神泉苑で雨乞を行い、それによって少僧都に任じられたということです。
 この話は、長く史実と考えられてきましたが戦後になって、次のような異論が出されます。
佐々木令信氏は、「空海神泉苑請雨祈祷説について 東密復興の一視点」で次のように記します。

「空海神泉苑請雨祈祷説が流布しつつあった十世紀初頭は、東密がそれまで空海以降、人を得ずふるわなかったのを、復興につとめそれをなしえた時期にあたる。聖宝、観賢とその周辺が空海神泉苑請雨祈祷説を創作することによって、請雨経法による神泉苑の祈雨霊場化に成功したと推測したが、観賢がいわゆる大師信仰を鼓吹した張本人であってみればその可能性はつよい」
 
佐々木氏が言うように、説話の成立にはそれが必要とされた歴史的な背景があったようです。次にその説話成立の背景を探ってみましょう。

 空海による史実としての祈雨は、どのように記されているのか。
 天長元年(824)に空海が神泉苑において請雨経法を修して雨を降らせたという話については、研究者から疑問が出されています。しかし、全くの創作とは言えないようです。というのは、空海の祈雨が「日本紀略」にあるからです。『日本紀略』 天長四年五月二十六日の条に次のようにあります。

 命二少僧都空海 請仏舎利裏 礼拝濯浴。亥後天陰雨降。数剋而止。湿地三寸。是則舎利霊験之所感応也。

 意訳変換しておくと
 空海を少僧都を命じる。空海は内裏に仏舎利を請じて、礼拝濯浴した。その結果、天が陰り雨が降った。数刻後に雨は止んだが、地面を三寸ほど湿地とするほどの雨であった。これは舎利の霊験とする所である。

 この内裏で祈雨成就は、空海の偉業の一つとして数えられてもよい史実です。しかし、後世の伝記類はこれを取り上げようとはしません。こちらよりも神泉苑を重視します。それは神泉苑の方がストーリー性があり、ドラマチックな展開で、人々を惹きつける形になっているからかもしれません。神泉苑の請雨伝承は、時間とともに大きく成長していきます。南北朝期に成立した『太平記』では「神泉苑の事」として、さらに多くのモチーフが組み合わされていきます。このように、史実のほうが話としては発展を見ずに、伝承のほうが発展しているところが面白い所です。見方を変えると、後世の伝記類の書き手にとっては、空海が内裏で仏舎利を請じて祈雨を行ったという史実よりも、神泉苑で請雨経法を修したという伝承のほうがより重要だったようです。そこに、この伝承の持つ意味や成立の背景を解く鍵が隠されていると研究者は考えています。
今回はここまでです。以上をまとめておきます。
①天長元年(824)に空海が神泉苑において請雨経法を修して雨を降らせたという話が空海請雨伝承として伝わっている。
②これは鎌倉中期成立の『高野大師行状図画』の「神泉祈雨事」の内容が物語化されたものである。
③しかし、空海請雨伝承が初めて登場する寛平七年(895)『贈大僧正空海和上伝記』には、僅かな分量で記されているに過ぎない。
④『日本紀略』天長四年五月二十六日の条には、空海の雨乞修法を成功させ、その成功報酬として少僧都に命じられたと短く記す。しかも場所は、内裏である。
⑤後世の弘法大師伝説は、②を取り上げ、④は無視する。
この背景には、真言密教の戦略があったようです。それはまた次回に。

参考文献
藪元昌 善女龍王と清滝権現 雨乞儀礼の成立と展開所収

 

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もともとの善女(如)龍王(唐服姿の男性像)
 雨乞の竜として最も有名なのは、善如竜王です。無形文化財の讃岐の綾子踊り奉納の際にも「善女龍王」の幟を持った参加したことが何度かあります。しかし、その頃は「善女龍王」がいったい何者で、どんな姿をしているのかも知りませんでした。
 善通寺の境内を歩いていて善女龍王を祀る祠と池がある事に気付いてから、これが空海の祈雨祈願と密接に関係する神であることを知りました。そのことに付いては、以前にお話ししました。

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京都の神泉苑
善如竜王は、空海が天長元年(824)に京都の神泉苑で祈雨を行った際に現れ、雨を降らせたとされ「空海請雨伝承」として伝わっています。
神泉苑-京都市 中京区にある平安遷都と同時期に造営された禁苑が起源 ...

 この話については、どうも後の「創作」と考える研究者の方が多いようです。その「創作話」が空海伝説とともに発展していきます。
 この話の中に登場する善如竜王が果たした役割としては、次の二点があります。
①善如竜王が棲む神泉苑が祈雨を行うのに最もふさわしい場所である
②空海が勧請した竜であることから、真言宗が神泉苑での祈雨に最も深く関わるべきである
 この話を聞くと、以上のふたつが自然に納得できるのです。そういう意味でも善如竜王は空海請雨伝承において、重要な役割を果たしています。

2善女龍王2

 それでは、善女龍王とはどんな姿をしているのでしょうか?
分からなけば辞書をひけという教えに従って、密教学会編『密教大辞典』(法蔵館、1983年)で「善如竜王」を調べてみると、次のようにあります。
[形像]御遺告には、彼現形業宛如金色、長八寸許蛇、此金色蛇居在長九尺許蛇之頂也と説けども、世に善如竜王として流布せるものは女形にして、金色の小蛇を戴き宝珠を持てり。

とあり、『御遺告』には蛇の姿で表されているが、世に流布しているものは女形であると記されています。グーグルで「善女龍王」を画像検索すると、女性の姿で描かれているのが殆どです。ところが男性形のものも少数出てきます。

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空海の神泉祈祷で現れた善女龍王(蛇の姿)

 例えば、高野山に残されている平安時代後期作の善如竜王の図は、唐風の礼服姿の男神像です。ここからは善如竜王は次の3つの姿があるようです
①へび
②男性の唐風官人
③女性の龍女
いったい、どうして3つに描き分けられるのでしょうか。権現のように姿を変えるのでしょうか。そこがよく分かっていませんでした。今回は、そこを探ってみます。

 空海の伝記類の中で初めて善如竜王が登場するのは『御遺告』のようです。
 (前略)従爾以降。帝経四朝 奉為国家 建壇修法五十一箇度。亦神泉薗池辺。御願修法祈雨霊験其明。上従殿上下至四元 此池有竜王善如 元是無熱達池竜王類。有慈為人不至害心 以何知之。御修法之比託人示之。即敬真言奥旨従池中 現形之時悉地成就。彼現形業宛如金色 長八寸許蛇。此金色蛇居二在長九尺許蛇之頂也。(後略)

 ここには次の事が記されています。
①祈雨祈願場所として神泉薗が聖地であること
②そこに住む善女龍王の姿は「八寸ばかりの金色の蛇で九尺ばかりの蛇の頭の上に乗っている」
ここで押さえておきたいのは、善女龍王に人間の姿ではなく蛇で、男神・女神という表現もないことです。つまり蛇なのです。
 この『御遺告』の記述が、その後の空海の伝記類にも受け継がれていきます。平安時代から江戸時代にかけて成立した数多くの伝記類のほとんどは、善如竜王の姿を『御遺告』の記述のままに受け継ぎます。『御遺告』が空海の遺言として信じられてきた所以でしょう。ここでは、伝記類には善如竜王は、蛇の姿として描かれていることを押さえておきます。
12世紀半ば頃に、善如龍王を男性として描いた絵図が現れます。


2善女龍王 高野山
高野山の善女龍王図 

これは高野山にある絵図で『弘法大師と密教美術』には、次のように解説されています。
冠をいただき唐服を着けた王族風の男性が、湧き上がる雲に乗る姿を描く。左手には火焔宝珠を載せた皿を持つ。その裾を見るとわずかに龍尾がのぞいており、空海と縁の深い善女竜王であると判明する。善女竜王図は、天長元年(824)空海が神泉苑において雨乞いの修法(ずほう)を行った際に愛宕山に現れたと伝わる。『高野山文書』の古い裏書によれば、本図は久安元年(1145)に三井寺の画僧定智によって描かれたことがわかる。
 
ここからは、12世紀の半ば頃には、高野山では善女龍王を男神として描くようになっていたことが分かります。これは、雨を降らせる龍神(蛇)が権化し、人間に似た神として描かれるという変身・進化で真言密教の修験道僧侶の特異とするところです。この絵を掲げながら祈雨が行われたのかもしれません。
 この高野山の善女龍王の模写版が醍醐寺に2つあるようです。

2善女龍王 醍醐寺2
 
これが建仁元年(1201)の模写版です。
2善女龍王 醍醐寺22

上のもうひとつは、さらに模写し着色したものです。
50年前に絵仏師定智が描いた高野山の「善女竜王図」と細かい所まで一致します。ここからは、次のような事が分かります。
①それまで蛇とされていた善女龍王が12世紀中頃には、唐の官僚姿で描かれるようになった。
②醍醐寺は、高野山のものを模写したものを、無色版と着色版の2つ持っていた
どうやら醍醐寺でも祈雨祈願が行われるようになっていたようです。 
2 清滝権現
善如竜王と密接な関係にあるのが、醍醐寺の清滝権現です。
『密教大辞典』の「清滝権現」には、次のようにあります。
 娑掲羅竜王の第三女善如竜王なり。密教に如意輪観音の化身として尊崇す。印度無熱池に住し密教の守護神たり。唐長安城青竜寺に勧請して鎮守とす、故に青竜と号せり。弘法大師帰朝の際これを洛西髙尾山麓に勧請す。海波を凌ぎて来朝せることを顕して水扁を加え清滝と改む。山麓の川を清滝川と名け地名を清滝と称するはこれに由る。(中略)
 其後聖宝尊師高雄より醍醐山に移す。故に小野醍醐の法流を汲む寺院には多く清滝権現を祀る。又醍醐山にては西谷に鎖座せしが、三宝院勝覚寛治二年山上山下に分祀す。(後略)

 最初に「娑掲羅竜王の第三女善如竜王なり」とあり、清滝権現は娑掲羅竜王の第三女であって、善如竜王と同体であるとされます。善如竜王と清滝権現は、「二竜同体」ということになるようです。長安の青竜寺の守護神であった青龍を空海が連れ帰り、高尾山に清滝と改名し勧進します。その後、醍醐山に移されたとあります。
ここで確認したいのは「善如龍王=清滝権現」ということです
 清滝権現の図像には四種類あり、その一つに先ほど見た高野山にある定智本善如竜王像、つまり唐風の礼服姿の男神像が示されます。つまり、善如竜王と清滝権現は図像の上でも同じ姿をとる「二竜同体」のようです。両者の関係は非常に密接であるとされていたことが分かります。
 しかし、このふたつの龍神の成立当初の伝承には、両者の関係は全く説かれていません。
 善如竜王の登場は、『御遺告』からです。その記事の中に清滝権現に関係するようなことは、一切書かれていません。
 
下醍醐の清瀧宮 - 京都市、醍醐寺 清滝宮の写真 - トリップアドバイザー
上醍醐 清滝宮
 
清滝権現は、『醍醐雑事記』によると寛治三年(1089)に勝覚によって上醍醐の地に清滝宮が建立されたとあります。11世紀末の登場です。『醍醐雑事記』の清滝権現に関係する記事の中にも、善如竜王との関係は一切記されていません。
 このように、二竜の成立当初の伝承では、両者の関係は全く見られず、無関係の関係だったようです。それぞれ別個の竜として存在していたようです。それが、いつの間にか『密教大辞典』の記事のように、「二竜同体」となったようです。
 
善女龍王 変化

なぜ善女龍王と清滝権現は一体化したのでしょうか
 善如竜王と清滝権現の同体視は、祈雨を通して行われたと研究者は考えているようです。雨乞祈雨を接点として両者が次第に接近し一体化したというのです。そこには、醍醐寺の祈雨戦略があったようです。
  醍醐寺が祈雨に関して「新規参入」を果たそうとします。しかし、当時の国家的な祈雨の舞台は空海が祈雨し、善女龍王が住む神泉苑が聖地でした。やすやすと醍醐寺が入り込む余地はありません。そこで醍醐寺は、次のような祈雨戦略活動を展開します。
①神泉苑から醍醐寺の清滝宮への祈雨場所の移動 
②善女龍王に変わる祈雨神の創造
この戦略を、どのように実行していったのかを見てみましょう。
醍醐寺で行われた祈雨を表にしたの下の図です。
2善女龍王 醍醐寺の祈雨g
これによると、醍醐寺での祈雨が初めて行われるのは寛治三年(1089)のことです。それまでは、空海が祈雨を行った聖地・神泉苑で行われていました。ところが院政期以降に、醍醐寺での祈雨の記事が見られるようになります。これは何を意味するのでしょうか?
  研究者は、醍醐寺が祈雨に「参入」しようとしているのではないかと指摘します。
醍醐寺での祈雨は、初め釈迦堂において行われています。それが大治5年(1130年)に、清滝権現を祀る清滝宮で行われるようになります。そして、それが主流となって定着していきます。
 その当時は、神泉苑が祈雨の聖地とされていましたから、そこへ醍醐寺が参入することは難しかったはずです。そういう中で、醍醐寺が独自性を主張していくためには、善女龍王に変わる新たなアイテムが必要でした。そこで新たに作り出された雨乞神が清滝権現だったのではないかというのです。しかし、まったく馴染みのない神では人々は頼りにせず不安がります。そこで、真言密教お得意の「権化」の手法が使われます。つまり、清滝権現は善女龍王の権化で、もともとは一体であるという手法です。こうして清滝権現は醍醐寺の新たな祈雨の神として、成長をしていくことになります。その成長を促すためには「清滝権現=善如竜王」の二龍同体説が醍醐寺にとっては必要だったと研究者は考えているようです。
 この二龍同体説の醍醐寺が創造したという裏付け史料は、例えば『醍醐寺縁起』の中の清滝権現に関わる部分を研究者は指摘します。
『縁起』では、清滝権現を醍醐寺の本尊である准肌如意輪の化身とします。そして、醍醐寺を開いた聖宝の前に現れた最も重要な神として位置づけらます。しかし、この『縁起』の内容をそのまま史実として受け入れることはできないようです。その理由の一つとして、空海の帰朝の際に、青龍が唐の青竜寺からやって来たという伝承があります。しかし、これは空海の多くの伝記類には見られないものです。醍醐寺においてのみ唱えられた伝承のようです。空海が伝記の中でもっとも強く結びついている竜は善如竜王です。清滝権現の名前は、伝記にはありません。
 清滝権現を紹介する際に、よくこの『縁起』の内容が語られますが、これは後世に付け加えられた話と研究者は考えているようです。
2善女龍王男性山
善如竜王
 そして、もうひとつ重要なことは、この時点では清滝権現と善如竜王の両龍神たちは男神だったようです。先ほど見た醍醐にに残る善女龍王絵図を思い出して欲しいのですが、これは高野山のものを模写した男神姿でした。つまり、この時点では醍醐寺では、唐風の官僚姿の善女龍王を祀っていたのです。そして善龍王と表記されていたのです。
2「善」から「善女」へ
書物に登場してくる善女龍王の表記を見てみると下表のようになります。
2善女龍王の表記1
この表を見ると、平安時代末期までは、「善女」ではなく「善如」と表記されていたことが分かります。12世紀半ばの『弘法大師御伝』以後に、「善女」の表記が主流となっています。「善如」から「善女」へ変化したようです。最初は「善如」と呼ばれていたのです。
 どうして、「善如」から「善女」へ変わったのでしょうか
 その理由は、清滝権現がサーガラ竜王の三女とされることからきているようです。彼女は「竜女」とも呼ばれ『法華経』の「提婆達多品十二」に登場する竜女成仏譚で有名な竜女です。それまでの仏教界では、女性は五障の身であるために成仏できないとされてきました。そころが竜女は「変成男子=男子に変身」することによって成仏を遂げます。仏教に心を寄せた女性たちにとっては、この『法華経』の竜女成仏譚は、救いの道を示す大きな意味を持つ存在だったようです。平安時代末期の『梁塵秘抄』には。
  竜女も仏になりにけり、などかわれらもならざらん
と詠まれています。それほど竜女成仏譚が広く一般に広がっていたことが分かります。そのような中で、醍醐寺の密教僧侶たちは、竜女も善如竜王と清滝権現と権化関係の中に入れて同一視する布教戦略をとるようになったと研究者は考えます。
  善女龍王=清滝権現=竜女です。
そして最後に、権化した竜女は女性です。そうなると、三位一体同心説の元では、清滝権現も、善女龍王も女性であるということに自然となっていきます。それを醍醐寺は広めるようになっていきます。
以上をまとめておくと
①空海が神泉苑で善女龍王に祈雨し雨を降らせたという伝承がつくられた
②その結果、国家的な雨乞いは、真言密教が独占し、場所は神泉苑、祈りの対象は善如(女)龍王とされるようになった
③善如龍王は、もともとは小さな蛇とされていた
④それが12世紀半ばになると、唐風官人の男神として描かれるようになった
⑤さらに醍醐寺が祈雨行事に参入するようになって、祈雨場所を醍醐寺でも行うと同時に、新たな祈雨神として、清滝権現を創造した。
⑦醍醐寺は、清滝権現を善女龍王と二龍同体として売り出した。
⑧さらに、醍醐寺はふたつの龍王に「変成男子」の竜女も加えて同体視し、流布させた
⑥その結果、竜女が女性であるので、それまでは男性とされたいた善女龍王も清滝権現も女性化し、女性として描かれるようになった。

 今昔物語 弘法大師修請雨経法降雨語
  今は昔。天下は日照りが続き、すべての植物は枯れ尽きてしまいました。
天皇をはじめ、大臣から一般人民に至るまで皆が歎いていました。そのころ弘法大師という人がいました。
天皇は、弘法大師を召して言いました。
「如何にしたら、この旱魃かんばつを止め雨を降らせて、人々を救うことが出来ようか?」
大師は答えました。
「私の行法に雨を降らす法がございます。」
その言葉を聞いて、天皇は命じました。
「速やかにその法を行うべし。」
大師は、神泉苑で請雨経(しょううきょう)の法を行いました。
七日間、請雨経の法を行っていると、祈雨の壇の右上に五尺くらいの蛇が現れました。
見ると、その蛇は頭上に五寸くらいで金色の蛇を乗せています。
その蛇は、こちらへ近寄ってきて、池に入りました。
その場には、20人の伴僧が居並んでいましたが、
その光景が見えたのは4人の高僧だけでした。

1人の高僧が弘法大師に尋ねました。
「この蛇が現れたことは、何かの前兆なのですか?」
大師は答えました。
「これは天竺の阿耨達智池(あのくだつちいけ)に住む 善如竜王(ぜんにょりゅうおう)が、この神泉苑に通ってきて、請雨経の法の効果を示そうとなさっているのです。」
そうしているうちに、俄かに空は陰り、戌亥の方角(北西)より黒雲が出現し、雨が降ってきました。
その雨は、国じゅうに降り、旱魃は止まったのです。
これ以後、天下が旱魃の時には、弘法大師の流れを受け継ぐ者によって、
神泉苑で請雨経の法が行われるようになったのです。
請雨経の法が行われると、必ず雨が降りました。
このことは、今まで絶えず行われていると、語り伝えられているのです。

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どこかで聞いたことがあるような・・・。

そういえば・・・そうです。
善通寺の境内の中にありました。
上の写真が善通寺本堂の西側の池の中にある善女龍王社です。
善女龍王 雨乞祈祷」碑が建立されています。

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善通寺は真言のお寺として雨乞祈願の役割が与えられ、干ばつの時には雨乞祈祷が古くから行われてきました。その雨乞祈祷が行われていた舞台がここなのです。この龍王社は、金堂より北西側の方丈池の中に忘れ去られたかのようにポツンとあります。
 この祠については、真言宗の高僧浄厳が、善通寺誕生院主宥謙の招きで讃岐を訪れ際の様子が記された「浄厳大和尚行状記」に、次のように登場します。 
延宝六(1678)年3月26日 讃州多度郡善通寺誕生院主宥謙の請によって彼の地に赴き因果経を講じ、四月二十一日より法華経を講じ、九月九日に満講した。
その夏は炎旱が続き月を越えても雨が降らなかった。和尚は善女龍王を勧請し、菩提場荘厳陀羅尼を誦したもうこと一千遍、並びにこの陀羅尼を血書して龍王に法施されたところが、甘雨宵然と降り民庶は大いに悦んだ。今、金堂の傍の池中の小社は和尚の建立したもうたものである。
ここには、高野山の高僧が善通寺に逗留していた際に、干ばつに遭遇し「善女龍王」を新たに勧進し、雨乞の修法を行い見事に成就させこと、そして「金堂の傍らの小社」を浄厳が建立したことが記されたいます。それが善女龍王のようです。
この祠は一間社流見世棚造、本瓦葺、建築面積3.03㎡の小さな社です。
調査から貞享元年(1684)建立、文化5年(1808)再建、文久元年(1861)再建の3枚の棟札が出てきました。それぞれ龍王宮、龍王殿、龍王玉殿と記載された棟札で、最初の建立は、浄厳の雨乞祈祷の6年後のことになります。国家に公的に認められていた真言の雨乞祈祷法が善通寺にもたらされた時期が分かります。
ちなみに現在の建物は文久元年(1861)に再建されたもので、低い切石基壇上に土台が建っています。わずか一間の本殿と向拝が付いた一間社の平面形式です。見世棚造の向拝部には木造の階(きざはし)が設けられています。柱は角柱。善女神信仰の雨乞い祈願として興味ある建物です。
ここでどんな雨乞祈願が行われたのでしょうか。
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江戸時代の善通寺は、雨乞祈祷寺だった

善通寺には「御城内伽藍雨請御記録」と記された箱に納められる約八〇件の文書も残されています。そこには、丸亀藩からの要請を受けた善通寺の僧侶たちが丸亀城内亀山宮や善通寺境内善女龍王社で行った雨乞いの記録があります。
それによると正徳四年(1714)~元治元年(1864)にわたる約150年間に39回の雨請祈祷が行われています。およそ4年に一度は雨乞が行われていたことがわかります。それだけ日照りが丸亀平野を襲い、人々を苦しめていたのです。

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空海は、神泉苑で何に雨乞祈祷を行ったのか?

神仙苑雨乞祈祷1 
神仙苑雨乞祈祷(高野空海行状図画)
 神泉苑は、京都の二条城南側にあり、かつては二条から三条にまたがるほど広大で、美しい池庭をもつ禁苑でした。桓武天皇が行幸し、翌々年には雅宴を催して以来、天皇や朝廷貴族の宴遊の場になっていました。そして、いつの頃からかこの
池にには龍が棲んでいるといわるようになります。
 龍はもともと中国で生まれた空想上の生物で神獣・霊獣の一種です。

神仙苑4
神仙苑雨乞祈祷(高野空海行状図画) 空海の祈祷で現れた善女龍王
中国では皇帝のシンボルでになり、道教の四方神である青龍にも変じました。そして、インドから伝わった八大龍王と習合します。インドの龍は水に棲み、春分に天に昇り秋分に水底に沈み、雨を司るとされました。そこで、雨を降らすためには龍の力を借りることが必要と考えられるようになります。
 さらに平安京を「風水」で観ると、この池は「龍口水」ともいわれ、「龍」が動いている時はそこでかならず水を飲む。水を飲む所がなくなれば「龍」は逃げてしまいます。神泉苑は「龍」を生かすための水飲み場だとされました。
 それを知っていて、空海は雨乞をここで行ったのでしょう。
それ以後、天下が旱魃の時には、弘法大師の流れを受け継ぐ者によって、神泉苑で請雨経の法が行われるようになります。つまり、真言宗による祈雨祈祷が成立し、それが国家規模で各地で展開されていったのです。そういう意味では、今昔物語のこの話は、真言宗の「雨乞祈祷争い勝利宣言」とも読めるのかもしれません。
そして、祈願対象として祀られるようになったのが善如竜王です。

香川県に残る善女龍王は

讃岐の他の寺院でも善如竜王が残る寺院があります
四国霊場本山寺(豊中町本山)は、本堂が国宝になっていますが鎮守堂には左の善女龍王像が安置されています。この堂は墨書銘「天文二年」(1547)が記されていますので、遅くとも16世紀中頃に雨乞祈祷が行われていたようです。
 ちなみに、龍を背負っていない、女性像でないので一見すると善如竜王には見えません。しかし、善女龍王は性別は不明なようです。この像は腰をひねり両袖をひるがえして飛雲上に乗る姿に動きが感じられます。龍に変わる飛雲が雨雲到来と降雨をもたらす象徴とされています。
 また、善女龍王の絵図は多いのですが彫像の作例は非常に珍しい存在で、真言密教関係の像で他に例のないものと評価されています。
像高47.5センチで、製作年代については南北朝時代とされています。

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また、本山寺と関係の深かった威徳院(高瀬町下勝間)や地蔵寺(高瀬町上勝間)にも江戸時代の善女龍王の画幅や木像が残り、雨乞祈祷が行われていたようです。これらにより善女龍王への信仰が民衆にも広く浸透していたことがうかがえます。

 さらに、地蔵寺には、文化七年(1810)に財田郷上之村の善女龍王(澗道(たにみち)龍王)を勧請したことを記した「善女龍王勧請記」が伝わっており、一九世紀初頭には財田の澗道龍王の霊験が周辺地域にも聞こえていたことがわかります。 
 このように空海により行われた雨乞祈祷は、その後は、国家による雨乞行事として、各地の真言寺院で行われて行き、その祈りの対象となった善女龍王は雨乞の神様として信仰を集めていったのです。
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