瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:神社取調

  明治を迎える直前に新政府から出された神仏分離令によって、各藩では神社の御神体チェックが始まります。その後の「神社取調」に示された項目に従って各神社の「身元調べ」が行われたことを前回はお話しました。その調査スタッフの中心メンバーが松岡調(みつぎ)でした。今回はこの人物について見ていきたいと思います。
彼は、高松藩士・佐野衛士の四男として天保9年(1830)生まれています。
友安三冬(良介)から国学、中村尚輔から和歌、森良敬から絵画を学ぶとあり、平田神学や水戸学とのつながりはみられません。
  「天性学を好み友安良介に従い 皇典の学を学び、後に松岡氏を継ぎ、多和神社の禰宜(ねぎ)となり、・・・」
とあり、20歳の時に多和神社に養子に入り、36歳で養父の松岡寛房を継いで神主に就任します。
多和神社 (香川県さぬき市志度 神社 / 神社・寺) - グルコミ
多和神社は、志度寺の守護神の八幡神を祀る神社で「多和八幡宮」と呼ばれ、
志度寺の境内に隣接していたようです。しかし、15世紀後半に志度寺とともに焼失します。江戸時代になって、高松藩藩主松平頼重の手で志度寺と同時に再興されますが、場所は現在地に移転します。高松藩からの保護を受けると同時に、港町として賑わう志度の氏子達の信心も集め、経済基盤もしっかりとした神社であったようです。現在は式内神社とされますが、この指定経過には問題が残るようです。
多和神社
 
松岡調が多和八幡宮の神主となった頃は、明治維新の嵐が四国にも吹きつけ、高松藩が「賊敵」として土佐藩などに占領される時期でもありました。このような激動の中で、明治2年(1869)に高松藩の家老の推薦を受けて藩校・皇学寮の教授に就任します。
 時を同じくして、新政府は、神仏分離令を出し、そのために「御神体チェック」や「神社取締」作業をおこなうことを矢継ぎ早に各藩に通達します。讃岐において、これらの作業の中心的な存在として活動したのが藩校教授に就任したばかりの松岡調でした。その後の調査経過については、前回にお話ししましたので省略します。

 以後、松岡調は東讃から高松にかけての担当エリア五郡の神社についての「神社取調」を進めます。各神社の御神体をチェックし、そこに何が保存され、どんな文書や絵図などがあるかを頭の中に入れていきます。今なら研究者にとっては絶好のフィルドワークです。神社・仏閣に出向いて、そこに保管・保存されている文書や絵図類を「強制力」を行使して見る事が出来るのです。現在の研究者にとってはうらやましいと思う人も入りかも知れません。この2年間あまりの経験は、彼を研究者として大きく成長さる契機となったと私は考えています。この経験が神道界のみならず、文化財や郷土史などの面でも第一人者としての立場を築く事になったようです。

 神社取調が一段落した明治3年の春、桜の季節に松岡調は、妻と娘と共に金刀比羅宮に参詣しています。
そして、金毘羅大権現の仏教伽藍から神社へのリニューアルが進む金刀比羅宮の様子を細かく日記に記していますので見てみましょう。
 金倉川に掛かる普請中の鞘橋を見ては、その美しさを讃えます。内町から小坂までの家の門毎に桜が一本ずつ植えられているのを見て、四、五年経った年の春の日の花をしのび、大門まで登って金毘羅神が去り給うたことを記した立札を見ています。
 琴陵家を訪ねて、書院の広く美しいのを見て、娘は手をうって喜ぶ。護摩堂・大師堂によって、内には檀一つさへないのを見て涙する妻に対し、かしこきことなりと言って、わが心のおかしさを思う。
本宮に詣で、拝殿に上りて拝み奉る。御前の模様、御撫物のみもとのままにて、その外はみなあらたまっているのを見る。白木の丸き打敷のやうなるものに瓶子二なめ置き、又平賀のような器に鯛二つがえ置きて供えている。さて詣でる人々の中には受け入れられない人々もあろうが、己れらはその昔よりはこの上なく尊くかしこく思われた。
 絵馬堂を見て、下りに諸堂を廻る。観音堂も金堂も、十五堂も、皆仏像をとりのぞきたる跡は、御簾をかけて白幣を立てていた。(中略)     
      金刀比羅宮文書 「松岡調日記抄」
  高松街道を徒歩か人力車でやって来たのでしょう。大門には
「金毘羅神が去り給うたことを記した立札」
があったと記します。
神仏分離によって山号は象頭山から金毘羅山へ、社号は金毘羅大権現から金刀比羅宮へと「転身」したことを告げる告知文を読んだのでしょう。そして、旧金光院であった琴陵家を訪ね、書院で接待を受けた事を記します。
この時の当主は琴陵宥常(ありつね)で、松岡調よりも十歳若い若者でした。
維新の際には、上京し神祇科との交渉を重ね金毘羅大権現の存続のための働きかけを行い、金刀比羅宮として生き残る道を開いた若き指導者でした。それから、着々と改革を推し進めていました。宥常については前回にお話ししましたので省略します。
   本宮に参拝すると
が御供えしているのを見て、参拝者の中には受けいれられないかも知れないが自分にとっては「尊くかしこく」感じられた
と述懐します。
金刀比羅宮の仏閣の時代には生魚が御供えされるということは考えられなかったことでしょう。ここに「神仏分離」の新時代の到来を感じたのかも知れません。帰りに見た金堂(現旭社)なども仏像が取り除かれ、御簾がかけられ御幣がたててあった記します。

 松岡調が、東讃・高松地区の神社の「神仏分離」を行っている間に、金刀比羅宮でも改革が進んでいたようです。
 この時の琴平訪問は、「面接」のようなものだったのかも知れません。翌年の1月から彼は、藩校の教授を兼務しながら、ここで禰宜として勤める事になります。それは以後、23年間続く事になるのです。松岡調は、翌年に禰宜就任に当たって次のように述べています
 いみじきことなり、わがすめらみくにの神社仏堂のうちにて、かかるところはおさおさあらじとぞ思われる
当日の彼の日記には 月給20円を受け取ったと記しています。

 翌々年の3月に政府が任命した深見速雄が鹿児島より宮司として赴任してくると、そのもとで宥常が社務職として、松岡調が禰宜として金刀比羅宮の改革を推し進めていく事になります。若い指導者の下で、金刀比羅宮は新たな輝きを放ち始めるのです。

琴陵宥常と松岡調と神仏分離の年表
1857 10月22日宥常18歳で 第19代金光院別当に就任
1868
 3月13日 明治政府が神仏分離令を通達
 4月21日 金光院宥常は、嘆願のために上京
 6月14日 金光院宥常は京都で還俗し、琴陵宥常と改名
       神祇官からの達書で神号は「金刀比羅宮」
 8月18日 宥常に社務職付与 しかし宥常が求めた大宮司は許されず
 10月28日 多度津藩が「藩内一宗一寺」統合案発表。
       領民の反対運動が高まる。
1869 2月 琴陵宥常が京都での陳情活動を終えて1年ぶりに帰讃
              神祇伯白川家の古川躬行が琴平到着、以後逗留して改革指導
 2月5日  松岡調が「御神体検査」メンバーにとして「神社取調」開始
1871 1月 5日 「社寺領上知令」が出され、社寺領を上知(没収)
     4月12日 松岡調が、妻と娘と共に金刀比羅宮に参詣
     6月    金刀比羅宮は事比羅宮となり国幣小社に列せられる
1872 1月27日 事比羅宮の祢宜に松岡調が就任   以降23年間、禰宜
     3月21日 事比羅宮は県庁の指示で職員を三十数人にまで削減
1873 6月      仏像・仏具の処分開始 ~7月まで
1874 3月    鹿児島より深見速雄が宮司として赴任

その後の松岡調
松岡調

 神仏分離にともなう讃岐の神社仏閣の調査・研究によって、松岡調は古典考証学や考古学に通じ、さらには東京大学に遊学し、研究活動を深めました。仕事を通じて日本各地に出張して学者・文人たちと交わり、各地の典籍・書画・考古遺物の蒐集・調査、讃岐郷土史の研究などを深化させていきます。1885年には、多和神社内の自邸に蔵を建てて「香木舎」と命名し、自分が集めた典籍や事物を保管します。これが現在の多和文庫につながります。
 しかし、日清戦争の時に、金刀比羅宮が朝鮮半島や遼東半島において、政府や軍の許可なく神道布教を図ったことが問題になり、1895年に長年勤めた金刀比羅宮禰宜を解任されます。
 文久4年(1864年)から死の直前まで書かれた『年々日記』は、讃岐における廃仏毀釈・神道国教化の動きを知る上での根本史料です。しかし、残念ながら一般公開されていません。これが讃岐の神仏分離の研究を進める上では大きな障害となっているように私には思えます。
  それともうひとつ讃岐式内社の「選定」めぐる経緯に関しては、問題があると思います。選定の責任者として歴史考証・史料批判等も行わず松岡家が社家を勤める神社を多和神社として、指定したと後世に云われても仕方のない手順が取られているように思います。研究者らしからぬ対応ぶりです。多くの功績を残した人物ですが、晩節を汚したと云われても仕方がないように思えます。
 これに対してはこんな声も聞こえてきそうです。
維新の際の神仏分離の「神社取調」とは、「研究」ではないのだよ。「政治」だったのだ。式内神社の指定もまたしかり・・・と・・・

 明治と年号が変わる直前の慶応4年の3月に新政府から神仏分離令が出されます。この一連の通達を受けて、丸亀藩や高松藩はどのように対応したのでしょうか? 新政府の通達を見ると
「仏像をもって神体とし、また仏像、仏具を社地に置いている場合はすべて取り除き・・・・」
とあります。
 この通達をうけた各藩が先ず行わなければならなかったのは何でしょうか?
それは「神社の御神体のチェック」ということになります。まずは、何を御神体として祀っているのかを確認しなければ、取り除くかどうかも判断できません。こうして明治2年2月5日、「御神体検査」を行う実行メンバーが招集され、八日には打合会が開かれ辞令が公布されます。そして、担当エリアと担当者が次のように決まります。
松岡調   大内、寒川、三木、山田、香川東の五郡
吉成好信 黒木茂矩 香川西、阿野。鵜足、那珂の四郡
大宮兵部 原石見  三野郡
川崎出雲、真屋筑前 豊田郡
 東讃から高松にかけて五郡をひとりで担当する松岡調がリーダー的存在だったようです。彼らに課せられた「御神体チェック」は、先祖が大切に本殿の奥深くに祀ってきた御神体を白日の下にさらすということです。これは、当時の人々にとっては、まさしく恐れを知らぬ行為と思われても仕方がありません。検査官」を見守る人々は、恐怖と不安で眺めていたでしょう。御神体のベールをはがそうとする「検査官」を、敵意のこもった目でみる人もいたかも知れません。調査に当たった人たちもお役目とはいえ、相当の胆力が求められたように思います。御一新の世の中だからこそ出来たことかも知れません。
 さて「御神体チェック」は、どのように行われたのでしょうか?
松岡調が残した高松市周辺の神社の調査記録を見てみましょう。
松縄村熊野社 神体円石 梵字 仏像仏具は本門寿院へ。
伏石村八幡宮 大石
太田八幡宮  新しき木像外に厨子入り小仏像、本地堂は大宝院へ。
一ノ宮村田村大社 男女木像、鏡三面。
 ここからは御神体として、神像、鏡、石、仏像・鏡などが納められていたことが分かります。仏像・仏具類は近くの寺院へ移しています。粗略に扱ったり、集めて燃やすなどの「廃仏」的な行為は、行っていません。これは、小豆島巡礼の八幡さんに祀られていた仏さんが神仏分離で、近くの新しくお堂に移されていたり、かつて四国巡礼の札所で会った観音寺の琴弾神社にあった仏さんが、観音寺の境内に移されているのは、この時の検査チェックの結果だということが分かります。一宮の田村神社には、仏さんは祀られていなかったようです。
 この他にも、棟札などの古いものを入れてあるところもあります。また神像にも木像、立像、坐像、男神、女神と実にさまざまな御神体が出てきました。「御一新」の名の下に社殿の奥深くから引き出され白日のもとにさらされた神々もびっくりしたでしょう。
 こうして御神体が仏像などであった場合は、取り除かれました。
すると御神体がなくなる神社が出てきます。そこで新政府は、明治二年(1869)5月
「御神体なき神社には新しい御神体を勧請せよ」
という通達を出しています。この時に、新しくご神体を調えた神社も多かったようです。
  調査が進められている中で、さらなる通達がやってきます。
【太政官布告】 第七百七十九(布)太政官 (明治3年)閏10月28日 
今般国内大小神社之規則御定ニ相成候 
条於府藩縣左之箇条委細取調当12月限可差出事
 某国某郡某村鎮座 某社
1.宮社間数 並大小ノ建物
1.祭神並勧請年記 附社号改替等之事 但神仏旧号区別書入之事
1.神位
1.祭日 但年中数度有之候ハゝ其中大祭ヲ書スヘシ
1.社地間数 附地所古今沿革之事
1.勅願所並ニ宸翰勅額之有無御撫物御玉?献上等之事
1.社領現米高 所在之国郡村或ハ?米並神官家禄分配之別
1.造営公私或ハ式年等之別
1.摂社末社の事
1.社中職名位階家筋世代 附近年社僧復飾等之別 1.社中男女人員
1.神官若シ他社兼勤有之ハ本社ニテハ某職他社ニテハ某職等の別
1.一社管轄府藩縣之内数ヶ所ニ渉リ候別
1.同管轄之庁迄距離里数
ここには、示された項目に従って、藩内の神社すべてを調査して12月までに提出せよという内容です。これが「神社取調」と呼ばれる作業になります。

神社取調ひな形様式2 M15年茨城県

項目を見れば、神社については、社殿の間取りや大きさから始まり、いつ勧進してきたのか、新旧の社号、神社の歴史沿革、勅願所の有無、社領の石高、さらには神官については神職の職名や、僧侶からの還俗者であるかどうか、他社との兼務有無など多岐にわたっています。
 これは、新政府の神祇科が進めようとする神社のランク付け(神社位階)や延喜式の式内神社指定の根本資料になるものでした。この作成を行う事になったのが「御神体チェック」作業を行っていた7人のメンバー達でした。彼らはすでに、主な神社には出向いて調査を行っていました。さらに各神社に通達を出し、これらの項目についての回答を求めると供に、再度出向いて確認も行ったはずです。彼らは調査権を行使できる立場にあったのです。彼らは、讃岐の神社の実態データーを握ったことになります。そして、神社の専門家に育っていきます。

神社取調帳 徳島県
 さて、調査される側の立場に立って見ましょう。
この調査票が送られてきた神社は、どう対応したのでしょうか。
 神職がいた神社は対応ができたでしょうが、神職がいない「村の鎮守さま」などはどうしたのでしょうか。村の庄屋層たちが集まって、協議したでしょう。しかし、村の鎮守のような小さな神社は、歴史・沿革などは分からないこと多かったようです。にもかかわらず、藩からは期限を切って提出を求められてきます。提出しなければ神社として認められないのです。存続のためには「創り出す」ほかありません。後世の適当なことを付会することに追い込まれた所も多かったようです。極めて短期間に、この「調書」は作成されたようです。そのため
「神社取調とは、大半の由緒不明の神社で、付会・でっち上げを行う過程であった」
と指摘する研究者もいます。
こうして、提出期限までの約2ヶ月の間に、各神社の「取調」書が作成され新政府の神祇科(じんぎ)に送られました。この作業に従事したメンバーは讃岐の神社について最も精通している人物たちに成長していきます。なかでもその後の神道界の権威になるのが松岡調です。彼については次回に見ていく事にして、先を急ぎます。
 明治三年11月には政府から
「伝説による神号で呼んでいるところは神道による神号へ改めよ」
という通達が来ます。
この結果「伝説神号」とされた次のような神社名が新しい名前に改められます。
祇園社    → 須賀神社
王子権現   → 高津神社
妙見社    → 産巣日神社
皇子権現社  → 神櫛神社
十二社権現社 → 木熊野神社
金毘羅権現  → 琴平神社
こうして、讃岐の二十六の神社に新しい神号が与えられます。
4-Z6-25-2復飾取調書上帳
調査が進んでいくと、金毘羅大権現がたどった道と同じような道を歩む寺院が出てきます。つまり、神社の別当寺の僧侶が還俗し、神主となるという対応です。
その結果、次のような別当寺が廃寺となります。
大川郡では志度町鴨部にあった西光寺ほか十二力寺。
木田郡では牟礼村の愛染寺、最勝寺ほか五ヵ寺。
小豆郡は土庄町渕崎の神宮寺ほか四力寺。
香川郡は香南町の由佐にあった宝蔵寺。
綾歌郡では綾南町滝宮にあった竜燈院ほか三ヵ寺。
高松市は前田地区の押光寺ほか十四ヵ寺。
坂出市が川津町の宝珠院ほか三ヵ寺。
丸亀市は土器町の寿命院ほかIヵ寺。
仲多度郡は琴平町の金光院ほか一力寺。
観音寺市は粟井町の大円坊一力寺のみ。
三豊郡では山本村財田大野の阿弥陀院ほか六ヵ寺。
   讃岐全体では総数で六十一力寺が廃寺となりました。  しかし、この数は高知と比べると1/8程度の数です。
どうして、讃岐では廃寺となる寺院が少なかったのでしょうか。
  それは還俗する僧侶の数が少なかったからです。高知では全体の2/3近い僧侶が還俗する「雪崩現象」が起きましたが讃岐ではそれが見られません。その原因を考えて見ましょう。 
 以前にも示しましたが神仏分離令を契機として、廃仏毀釈へと運動が燃え広がって廃寺が多く出た藩には、次の共通する3つの要因があります。
平田神学・水戸学などの同調者が宗教政策決定のポスト近くにいたこと。
廃仏に対する拒否感のない殿様がいたこと。
庶民の寺院・僧侶への反発や批判が強く、寺院擁護運動が起きなかったこと
①については、讃岐の神社・仏閣の調査メンバーは、平田神学信奉者ではなく過激な「廃仏毀釈」行動はとっていません。神社に祀ってあった仏像などへの対応ぶりからも、それはうかがえます。
②丸亀藩の最後の殿様は、明治政府の「華族は神道式の葬儀・墓石」という指示にもかかわらず国元の墓は仏教式を用いています。ここからも神道強制には批判的な立場であったことが分かります。高松藩も神仏分離は行うが「廃仏毀釈」まで踏み込もうとする姿勢は見られません。
③については、前回にお話ししたように小藩の多度津藩では「一藩一宗位置寺院」という過激な寺院削減縮小案が初期には出されますが、領民挙げての反対を受けて、撤回に追い込まれています。
つまり「廃仏毀釈」の火の手が大きく上がっていく条件にはなかったようです。
 さらに、加えるなら讃岐は真宗王国で浄土真宗のお寺が8割を越えます。
特に、高松藩は婚姻関係を何重にも結んでいた西本願寺興正寺派のお寺を保護してきた経緯があります。興正寺派のお寺のネットワークは宗学研究や講活動などでも活発な日常活動をを行っており、宗教的な情熱をもつ僧侶も多かったようです。これらが多度津藩の「一藩一宗位置寺院」への反対運動を支援したりもしています。
 さらに、中央においても東西本願寺は新政府への奉納金などを通じて、深いつながりをすでに作っていました。神仏分離の際には、真宗エリアの地域には新政府は配慮を行ったといわれます。こうした要因が、讃岐で廃仏毀釈運動が広がらなかった要因と私は考えています。
「神社取調」が終わった後の村では、今までと違う光景が見られるようになります。
例えば、村の八幡神社とその別当寺は隣接して、一体のもとして住職さんが祭礼を行っていました。しかし、神社とお寺の間には、垣根や玉垣などの人工的な境界が作られ分離されていきます。また、お寺の目の前の神社の祭礼を行うのは、他の村に住む神主さんがやってきて行うという光景が見られるようになるのです。

11_5110051宥常

 金比羅さんの一ノ坂の階段を登っていくと大門の手前右手奥に、神職姿の銅像が立っています。木札には次のように記されています。

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琴陵宥常像
明治維新後の近代日本黎明期に金毘羅大権現を金刀比羅宮と改め、大本宮再営や琴平博覧会を開催し、晩年には海の信仰をつかさどる金比羅宮宮司として日本水難救済会を創設するなど強固な信念で今日の金刀比羅宮の基礎を築いた人物である。
この人が明治維新期の金毘羅大権現の最高責任者だったようです。どのようにして、「金毘羅大権現を金刀比羅宮」と改めたのか、宥常を中心に金毘羅さんの神仏分離の模様を見ていくことにします。
kotohira04琴陵宥常(ことおかひろつね)[1840~1892年]

金毘羅大権現は金光院の院主が「お山の殿様」でした。
 金刀比羅宮は神仏習合の社で、最高責任者である別当は社僧(しゃそう)と呼ばれる僧侶でした。そのため妻帯できません。したがって跡目は実子ではなく、一族の山下家から優秀な子弟から選ばれていました。幕末の金光院院主は宥黙で、優れた別当ではありましたが病弱でした。そこで早くから次の院主選びが動き出していたようです。 

koto-oka金刀比羅宮 - 琴陵宥常像
 琴陵宥常肖像画 高橋由一作
山下家一族の中に宇和島藩士の山下平三郎請記がいました。その二男の繁之助(天保11年(1840)正月晦日生)の神童振りは、一族の中で噂になるほどで白羽の矢が当たります。宥黙は信頼できる側近の者を宇和島派遣して、下調査を重ねた上で琴平・山下家への養子縁組みを整わせます。嘉永2年(1850)11月29日、10歳の繁之助は、次期院主として金毘羅に迎えられたのです。これが先ほど紹介した宥常(僧籍では、ゆうじょう)で、18代別当宥黙(ゆうもく)の後継者に選ばれます。そして安政4(1857)年10月22日に第19代別当に就任しました。宥常18歳の時です。
宥常は明治維新を28歳で迎えることになります。何もなければ彼は、このまま順当に別当として生涯を過ごすはずでした。しかし時代は明治維新を迎え大きく変わろうとしていました。「御一新」の嵐は、そんな宥常の金毘羅大権現をも包み込むことになります。

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 神仏分離は明治政府の手によって祭政一致と神祇官再興、全国の神社、神職の神祇官付属を定めた布告にはじまります。
○太政官布告 慶応四年(1868)3月13日
此度 王政復古神武創業ノ始ニ被為基、諸事御一新祭政一致之御制度ニ御回復被遊候ニ付テ、先ハ第一、神祇官御再興御造立ノ上、追追諸祭奠モ可被為興儀、被仰出候 、依テ此旨 五畿七道諸国ニ布告シ、往古ニ立帰リ、諸家執奏配下之儀ハ被止、普ク天下之諸神社、神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡間 、官位ヲ初、諸事万端、
同官ヘ願立候様可相心得候事,但尚追追諸社御取調、并諸祭奠ノ儀モ可被仰出候得共、差向急務ノ儀有之候者ハ、可訴出候事 
意訳変換しておくと
この度、王政復古により神武天皇の創業の始めに総てを御一新し祭政一致の制度に回復することになった。その第一として、神祇官を再興し、諸祭礼を復活させることにする。これを五畿七道諸国に布告て、往古の姿に立帰り、諸家執奏配下の儀は停止して、天下諸神社、神主、禰宜、祝、神部に至るまで神祇官に附属させる。官位を初め、諸事万端、同官ヘ願立るように心得ること。なお諸社御取調と諸祭については取調べを実施する。 
ここには王政復古・祭政一致が宣言され、神祇官を再興することを布告し、「追追諸社御取調」と、追って各神社の「取調」が実施されることが予告されています。ちなみに、この布告が出されたのは「五箇条の御誓文発布」の前日にあたります。この時、江戸城の無血開城への折衝が大詰めを迎えています。
 また、3ケ月前の正月17日に、新政府は官制を発布して、太政官のもとに七科を置いて政務を分担させる中央行政組織を発表していますが、その七科の筆頭に神祗科が置かれていました。そして神祇事務総督には明治天皇の外祖父にあたる人物が就任します。つまり、神祇科は、他の行政諸官庁を管轄するポストであったわけです。太政官布告を追いかけるかのように4日後には、事務局から次の通達が全国に通達されます


○神祇事務局ヨリ諸社ヘ達 慶応4年3月17日
今般王政復古、旧弊御一洗被為在候ニ付、諸国大小ノ神社ニ於テ、僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ、復飾被仰出候、若シ復飾ノ儀無余儀差支有之分ハ、可申出候、仍此段可相心得候事 、但別当社僧ノ輩復飾ノ上ハ、是迄ノ僧位僧官返上勿論ニ候、官位ノ儀ハ追テ御沙汰可被為在候間、当今ノ処、衣服ハ淨衣ニテ勤仕可致候事、右ノ通相心得、致復飾候面面ハ 、当局ヘ届出可申者也

ここには「僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ、復飾被仰出候」とあり、別当寺の僧職による祭礼が禁止されると同時に、復飾(一度僧籍にはいった者が、もとの俗人にもどること。還俗すること)が命じられています。また「僧位僧官を返上し・・・衣服ハ神職の衣服で勤仕」するようにと、具体的な指示も出ています。
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それでは金毘羅大権現は、これを受けてどう対応したのでしょうか。それまでの神仏混淆の下では、金毘羅大権現は金光院の支配下にありました。

つまり金光院別当の真言僧侶が神を祭祀、社領・財政を管理、本堂を営繕、人事を差配してきたのです。それは村々に鎮座する神社と別当寺(中宮寺)の関係でも同じでした。
急かすかのように10日後には「神仏分離」の通達が出されます 
○神祇官事務局達 慶応四年三月二十八日
一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細に書付、早早可申出候事、但勅祭之神社 御宸翰勅額等有之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ、御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候事、
一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、附、本地仏と唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事、
右之通被 仰出候事
意訳変換しておくと
一、中世以来、権現や牛頭天王などの仏語を神号に使用する神社が少なからずある。これらについてはその神社の由緒委細報告書を早々に提出すること。但し勅祭神社や御宸翰勅額などを有する神社については、直接に聞き取り調査を行った上で、沙汰を下す。その他の神社社は、裁判、鎮台、領主、支配頭へ提出すること、
一、仏像を神体としている神社は、これを改めること。また本地仏と唱し、仏像、鰐口、梵鐘、仏具を社前に安置している所は、早々に取除くこと、右之通被 仰出候事
ここでは神名に「権現」「明神」「菩薩」などの仏教的用語を使用している神社名を改めると供に、ご神体を仏像としている神社は仏像を取り除くべきこと、また、本地仏・鰐口・梵鐘などの仏具を神社から取り外し、神社と寺院と判然と区別するよう命じます。
そして、一週間後には再び次の太政官符が出される念の入りようです。
○太政官達 慶応四年閏四月四日
今般諸国大小之神社ニオイテ神仏混淆之儀ハ御禁止ニ相成候ニ付、別当社僧之輩ハ、還俗上、神主社人等之称号ニ相転、神道ヲ以勤仕可致候、若亦無処差支有之、且ハ佛教信仰ニテ還俗之儀不得心之輩ハ、神勤相止、立退可申候事、但還俗之者ハ、僧位僧官返上勿論ニ候、官位之儀ハ追テ御沙汰可有之候間、
当今之処、衣服ハ風折烏帽子浄衣白差貫着用勤仕可致候事、是迄神職相勤居候者ト、席順之儀ハ、夫々伺出可申候、其上御取調ニテ、御沙汰可有之候事、
太政官達 慶応四年閏四月四日 神仏分離令

ここでは神仏混淆の禁止の再確認と、別当・社僧に還俗を命じ、神主または社人と名称を変え、神道に転じよとの布告が出され、還俗しないものは神社への出入りは禁止とし、立ち退くように求めています。また祭礼の際には、烏帽子をかぶり白差貫を着用するなど神職の服装を求めています。 四月十九日には、神職の者の家族に至るまで、仏教式の葬祭をやめ、神道式の葬祭を行うよう命じるのです。
 明治政府は、江戸時代の仏教国教化政策を否定し、神道国教化政策を進めます。そして、神社の中から仏教的な要素を取り除くために、神仏分離政策を早急に、しかも強力に実施しようとします。

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このような性急で過激とも思われる新政府の「御一新」を、金毘羅さんではどううけとめたのでしょうか。
  大権現を称していた金毘羅さんの対応を姿を見てみましょう。
 金毘羅さんでも中世以来の本地垂迹(ほんちすいじゃく)という考えで神仏習合が行われていました。この考えは日本の八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた「権現(ごんげん)」であるとするものです。「垂迹」とは神仏が現れることをいい、「権現」とは仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを意味します。  金光院松尾寺もその守護神である金毘羅大権現との神仏混淆が行われていました。現在の旭社は薬師堂(金堂)、若比売社は阿弥陀堂、大年社は観音堂というように多くの寺院堂塔からなる一大伽藍地だったのです。そして金光院主の差配の下、普門院、尊勝院、神護院、萬福院、真光院という5つの寺の真言僧侶がお山の事務を取り仕切っていました。

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 このような中で新政府の通達は、金光院を初めとする僧職達に対して、還俗して神職になるか、お山を下りるかの二者選択を迫るものだったいえます。
神仏分離の布告を受けた金光院では、別当宥常が脇坊や重役を集めて協議を続けます。この会議をリードしたのは普門院の院主宥暁でした。彼は、江戸深川の永代寺の住職を勤め終わり、高野山に登って数年間修業を積んだ学僧で、名望もありました。彼は次のように主張します。

神仏分離令が対象としている寺院は、両部神道で祭られている社僧寺院であって、根本仏寺であり神社地でない金毘羅大権現を指すものでない。金毘羅は印度仏法の経典上に現われる神であって、日本の神祇に属する神ではない。したがって今回の法令によって改廃を受けるものでない

というもので、この意見が重役達のほとんどが賛意を表したと云います。
 そこで四月二十一日、金光院別当宥常は、役人山下周馬、寺中普門院宥暁を従えて、嘆願のために上京します。 そして綾小路・甘露寺の両執奏家へ、次のように上申します」。

「金毘羅権現は、、わが国の神祇でなく、全く印度の神祇であって、仏教専俗の神である」

 しかし上京した宥常を待っていたのは、「御一新基金御用」の名目での新政府への一万両の献納要請でした。宥常は、受けいれるほかなく献納を申し出て、6月15日までに5000両を調達し、残り半分は3か年間に調達する旨の上申書を提出します。
 廃仏毀釈の運動へ 
 明治政府の神仏分離の政策は、これまで僧侶の風下に置かれていた神官達が、この時とばかりに政府の政策に追随し、さらにこれを越えて廃仏毀釈の運動へと進んでいきます。その過激化と行き過ぎにブレーキを掛けるために、明治元年4月10日、政府は次のような布告を発します。

「社人共、陽は御趣意と称し、実は私情を晴らし候様の所業」

さらに9月18日には、
「神仏混淆致さざるよう先達って御布告これ有り候所、破仏の御趣意には決してこれ無き処」

社人や神官の僧侶への憂さ晴らしの所業となっており、御政道の妨げになると、その心得違いを戒め、廃仏毀釈にブレーキをかける布告を出しています。

明治維新と廃仏毀釈」
仏像が燃やされる廃仏毀釈

 金光院別当宥常が陳情のために滞在した京都は、その廃仏毀釈の真っ只中でした。
宥常が頼りとした猶父である綾小路家は、実はその立場を利用して神仏分離を厳しく実施しようとする側だったのです。綾小路家の役人であった山田・平田・熊谷はその中心人物で、彼等の立場から見れば、宥常が提出した上申書は、大勢を知らない井の中の蛙としか見えません。神仏分離を強行しようとする彼らからみると伊勢の皇太神宮に匹敵する参詣者があり、日本一社として朝廷の尊い信仰を受け、仏教面では真言宗の一無本寺に過ぎない金毘羅大権現を、神仏分離政策から外すことなど絶対に認められないことだったのです。
小川一真撮影《興福寺東金堂破損仏》 1888年 廃仏毀釈後の興福寺 の状況がいかに悲惨であったのかを物語る写真。現在は海外の美術館に所蔵されている仏像もある。
奈良興福寺の廃仏毀釈
 神仏分離は着々と実行に移され、京都の公郷家出身の僧侶が多かった奈良の興福寺は僧侶全員が還俗して春日神社の神官となり、興福寺は無住の寺となって、西大寺や唐招提寺が管理するするようになったとの話が伝わってきます。鎌倉岡八幡宮では、境内にあった真言宗寺院の塔頭の僧侶が全員還俗して神官となり、総神主と称するようになります。
 王政復古のおひざもとであった京都では、神仏分離・廃仏毀釈が進行し二條城内に設けられた京都府庁の台座には、道端の石地蔵を集めて石垣が組まれます。寺院の廃合や整理も激しく、一般の末寺や大寺院内の塔頭などで廃寺となるものが多くでていました。

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 京都にいた宥常は、こういう空気に接して「現実」を知ります。
 政府の方針や廃仏毀釈という現実に逆らって、金毘羅大権現を仏教専属の神社として維持していくことが難しと思うようになってきたようです。それを加速させる次のような風も吹き始めます。
①一つは当時、金刀比羅宮内でも時流に乗って平田門下が影響力を増してきて、僧籍維持を主張する普門院への対抗勢力になりつつあったこと。
②社会状況が、仏教(寺院)として存続しても僧侶の生活を保障するものではなくなっていたこと。そして、奈良の興福寺の僧侶を真似るように僧籍を離れるのが流行のようにもなっていたこと。
③新政府の「御一新」に逆らって、金毘羅神は日本古来の神ではなくて、仏教の神だと上申しても、結果としてそれはお上に反逆するものであり、かえって金毘羅大権現の存続を危ういものにすること
④だとすると大権現存続のためには、あえて平田派的な論を用いた方が得策かもしれないこと。
⑤加えて宥常の個人的な保身・処世の動機も重なったのかもしれません。「御一新(神仏分離)」を通じて、山上経営の主導権を確固たるものにして、若きリーダーとして歴史に名を残す。
若い宥常の判断と、その後の行動は早かったようです。彼は政府の神仏分離政策に従って改革を行い、神社として存続を図り、引き続いて繁栄する道を選ぶべ道を選択します。つまり、彼は京都で今までの方針を転回させるのです。

  明治元年五月、宥常は上申書を政府に提出します。
そして、政府の神仏分離の方針に従うことを告げ、次の条々について御伺いを立てます。
1 金毘羅大権現は本朝の大国主尊であること。
2 象頭山を琴平山と改め、神号は勅裁をいただきたい。
3 一山の僧侶は還俗すること。
4 勅願所、日本一社の御綸旨(りんじ)、御撫物(なでもの)は、今まで通り認められたい。
5 御朱印地であることを考慮していただきたい。
 こうして6月14日、金光院宥常は京都で還俗します。金光院最後の住職となった宥常(ゆうじよう)は琴陵宥常(ことおかありつね)と改名と改めることを、願い出て許されます。そして金毘羅大権現の新たな神号は「勅裁を蒙(こうむ)りたい」と願い出たとおり、神祇官からの達書でに「金刀比羅宮」と改められます。
 こうして、新政府との交渉によって金毘羅大権現が金刀比羅神社として、存続できる道を開くことはできました。次にやるべきことは、その社格と、自らの地位の確保です。8月14日、琴陵宥常は、金刀比羅宮を勅裁神社の列に加え、宥常を大宮司に補任されたいと次のように願い出ます。
   宥常の歎願奉り候口上の覚                            
 讃岐国那珂郡小松庄琴平山に、御鎮座在りなされ候 金刀比羅大神の御儀は、御代々比類無き御尊崇に依りて、御出格の御沙汰の件々並びに、天朝において御取り扱いの次第等は、別紙に相記し、尊覧に備え奉り候通りに御座候、斯の如く種々容易ならざる朝令を蒙り奉り、御蔭を以て、神威日盛は申すに及ばず、奉仕の者共、神領の商農に至るまで安住罷り在り候儀は、偏に広大無量の、朝恩と冥加至極有り難き幸せと存じ奉り候、
 然るに方今一方ならざる御時節をも相弁え候上は、安閑罷り在り難し、天恩の万分の一をも報謝奉り度き赤心に御座候処、微力不肖も私聊以其の実行を相顕しがたく、依之会計御役所え御伺い奉り、金壱万両調達奉り度段歎願奉り候処、御隣懲の御沙汰を以て御採用成し下され、重々有り難き
幸せに存じ奉り候、且万事広大御仁恕の御趣意に取継り、猶又歎願願い候義は、別紙に相記候御由緒御深く思召なされ、分けて御制外の御沙汰を以て向後、勅裁の社に加えられ、且私儀大宮司に任ぜられ度、俯し伏して懇願奉り候、然る上は弥以て、皇位赫々国家安泰の御祈祷、一社を挙げて丹精を抽んで奉る可く候、恐惶敬白
    六月十四日          金光院事琴陵宥常
   弁事御役所
ここにはもう象頭山も金毘羅大権現も現れません。山は琴平山、主神は金刀比羅大神とリニューアルした名称が表記されます。また金刀比羅宮の由緒については「別所に相記」して提出したとあります。どのような内容だったかが気になるのですが、私の手元にこの時に提出した文書はありません。推察するに、先の上申書で「金毘羅大権現は本朝の大国主尊である」としたので、大国主尊を主神とする神々の系譜が、この間に調えられたようです。
神社取調 西宮神社
西宮神社の寺社取調書
 ちなみに、「神社取調」の提出は、金刀比羅宮だけでなく全ての神社に求められました。
そのために村々の役人や神職は苦労したようです。当時の庶民は自分たちの「村の鎮守」に誰を祀っているのか、どんな神々を祀っているのかに関心はなく、祭礼を行っていました。 由緒が分かるのは式内社や、建立者がはっきした氏神様などほんのわずかでした。そこへ新政府からおまえの村の神社の由緒書きを提出せよと命じられたのです。ないものは提出できないとは言えません。提出しなければ神社として認められず、邪教として扱われ存続できないのです。
 ここに神仏分離政策のもうひとつの意味があります。
仏教よりも否定されたりされなければならなかったのは、民俗信仰だったのかもしれません。それまで民衆が信仰してきた修験道や巫女(シャーマン)などの民間宗教や、若者組、ヨバイ、さまざまの民俗行事、乞食などが「廃仏」とともに「毀釈」されて行くことになります。そういう意味では民衆の生活態度や地域の生活秩序が再編成されてゆくスタートだったと言えるのかも知れません。別の視点で見ると、国家が村の祠や小社を有用で価値的なものと無用・有害で無価値なものとに線引きしたとみることもできます。この結果、民衆に根付いていた多くの信仰が邪教として、排斥されていくことになります。
「神社取調」に対応したのは、村役人や神職(大半が僧侶から神職に転身した人たち)だったのではないか私は推測します。
彼らは、村に伝わる伝承をかき集め「村の鎮守」の由緒書きを作ったのではないでしょうか。なにもないところから由緒書きを作らなければならなかった神社もあったかもしれません。「真摯」な「考証」にも関わらず「不明」な神社も多いと云う記録も残っています。
  その「由緒」を明らかにできなかった神社の方が多かったようです。しかし、提出しなければならない。そうなると、創り出す他ありません。後世の適当なことを付会することに追い込まれていったのでしょう。ある研究者は「神社取調とは、大半の由緒不明の神社で社で、付会・でっち上げを行う過程」であったとも云っています。確かに、急に提出期限も限られたものなので、今の私たちから見ると「拙速・乱造」と思えるものもあるように思います。話が横道にそれました、これについては、また別の機会にして・・・
 宥常の嘆願書に戻ります。
 宥常は、新政府の求めに応じて一万両を納めたことに続いて、次のように記します。

「勅裁の社に加えられ、且私儀大宮司に任ぜられ度、俯し伏して懇願奉り」

ここからは大宮司のポストに就くことを嘆願していることが分かります。この歎願書に次いで、8月13日に重ねて歎願書を提出し、勅裁の神社の件は認可されます。しかし、大宮司就任は許されませんでした。8月17日に従五位下を授けられ、翌8月18日付けで、改めて社務職を仰せ付けられます。
 結局、「宮司に仰せつけられたい」という願いは聞き届けられず、明治6年3月には、鹿児島より深見速雄が宮司として赴任して来ることになります。宥常が宮司に任命されたのは、14年後の明治19年3月深見速雄が亡くなった翌4月のことでした。(松原秀明氏『金毘羅信仰資料集』)それまでの宥常は金比羅宮のトップではなかったことになります。
  こうして宥常の京都での新政府との交渉は1年間に及びました。
この交渉が地元金比羅山内の僧侶達と連絡・合意を取りながら進めたとは思えません。京都にいる宥常と側近者で決定され進められたようです。このため「寺院から神社へ、僧侶から神職への転身」を、普門院や尊勝院の反神仏分離派の院主達がスムーズに受けいれてくれるとは限りませんでした。若き宥常の「決断と実行」が試されることになります。
  明治2年(1869)二月、琴陵宥常は1年ぶりに讃岐に帰ってきます。と同時に、神祇伯白川家の古実家古川躬行が琴平に到着、以後逗留して改革を指導することになります。いわば改革のお目付役であり、実質責任者となります。

金毘羅山多宝塔2
 金毘羅大権現関係の建築物は、次の様に改められていきました。
①三十番神堂
 廃止の上、石立社(祭神少彦名神)に充当。
②阿弥陀堂
 廃止の上、若比売社(祭神須勢理毘売命)に充当。
③薬師堂(金堂)
 廃止の上、その建物を旭社(祭神伊勢大神・八幡大神・春日大神)に充当。
④不動堂
 廃止の上、津島神社(祭神建速須佐之男命)に充当。
⑤孔雀堂
 廃止の上、その建物を天満宮(祭神菅原道真)に充当。
⑥摩理支天堂
 廃止の上、その建物を常磐神社に充当。
⑦毘沙門天堂
 伊邪那岐神・伊邪那美神並びに日子神社(祭神事代主神・味組高根神・加夜鳴海神)に充当。
⑧多宝塔
 廃止の上、その建物は明治三年六月に取り払う。
⑨経蔵
 廃止の上、その建物は取り払う。
⑩大門
 左右の金剛力士像を撤去して、建物はそのまま存置。
⑪二天門
 左右の多聞・持国天像を撤去して、建物はそのまま存置
金毘羅山旭社金堂

次に組織改革と人員整理です
 まず、旧体制である江戸時代末の金光院の組織を見ておきましょう
別当寺は象頭山松尾寺金光院で、金光院主は当時二百数十名の役人を使用し、寺領をもつ領主的な存在で「お山の殿様」と呼ばれていました。役人の内、僧籍にあったのは20数名程度だったようです。そして5人の役僧が「寺中」と呼ばれる脇坊の住職として、次のような分業体制をとっていました。
①真光院、尊勝院 庶務
②万福院   会計
③神護院   神札・祭礼
④普門院   社領民の滅罪(葬儀)
この内、④普門院は山上の外の現在の琴平公会堂にありました。
  宥常は、僧籍にあった二十数人への還俗を断行します。その上で、旧脇坊を次のように処置します。
神護院は退身した上で還俗して社務職として神社に仕えました。万福院は退身して還俗し、山上から去ります。尊勝院と普門院は退身しますが、僧籍からは離れませんでした。
先にも述べたように神仏分離に、最も反対していたのは普門院の院主宥暁と尊称院院主でした。
彼らは、宥常の進める改革策を受けいれることは出来なかったようです。還俗に対しても激しく抵抗しました。普門院は大門の外(現金刀比羅公会堂)にあって、松尾寺の檀家の葬祭などを取り仕切っていたので、普門院の院生宥暁に、先祖代々の尊牌とその香花料として徳米十石の田地を与えて仏籍に残る道を選ばせます。その後、普門院は京都仁和寺内階明寺の直末寺院となり松尾寺と称するようになり、金比羅公会堂の下の現在地に境内を移します。しかし、これは普門院の意向に従うものではなかったようです。後に普門院は、金刀比羅宮を裁判に訴え争うことになります。

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金毘羅大権現の観音堂の本尊(金刀比羅宮 宝物館)
 組織改革と同時に、人員整理も行います
改革前には、僧俗合わせて300人近い職員がいたのを、明治4年の冬には約80人とし、県からの指示で翌年にはさらに、30人程度まで人員は削減されます。 それは、財政収入減へ対応でもあり、「社寺領上知令」とも関わります。 それまで金毘羅大権現の金光院院主は、寺領朱印地330石の領主で、領主に対する租税は免除され、そこから得られる収益は全て祭司・供養・社殿の修繕費用に充てられました。
  ところが明治4年1月。いわゆる「社寺上知令」が発布されます。

「諸国社寺由緒ノ有無ニ不拘 朱印地除地等 従前之通被下置候所。各藩版籍奉還之末 社寺ノミ土地人民私有ノ姿ニ相成不相当ノ事ニ付、今般社寺領現在ノ境内ヲ除ク外、一般上知被仰付追テ相当禄制相定、更に蔵米ヲ以テ可下賜事」

ここにはすでに版籍奉還が行われ、各藩が領地を奉還した以上、「朱印地」「除地(のぞきち)」等の「社寺領」も当然「上知(没収)」すべきである。それにより失われた特権については、追って蔵米にて補償する予定である、とされています。

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ちなみに京都の南禅寺界隈の別荘庭園群は、神仏分離令や社寺上知令によって、広大な敷地を持っていた南禅寺の土地の大部分が民間へ払い下げられます。それを山縣有朋や財閥の野村家など、政財界の人々がステータスとして競って別邸を建てたものです。あの綺麗な景色の中に、寺社と明治政府の攻防が隠れているようです。
 ここからは神仏分離に、経済的な側面があったことを、改めて気付かされます。この結果、経済基盤を失い衰退していった寺院も多いのです。この措置とリンクさせて、財政収入の激減が予想される社寺への「職員削減」を命じたようです。

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 そのような中で、明治5年4月3日、鵜足郡内田村の吉田寺住職真道房から金刀比羅宮に対して、
「御山変革につき、不用となった三つ壇と仏具類一揃えの寄付を願いたい」
との申し出がありました。宥常はこれを許しています。この頃から、金毘羅大権現の仏像や仏具や什器などの処分が注目されるようになったようです。
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   聖観音立像 (金刀比羅宮 宝物館蔵)
改革によって取り除かれた仏像・仏具の処分が明治5年6月から始められます。その記録を見てみましょう。
六月五日、梵鐘が227円50銭で榎井村の興泉寺へ売却。
七月十一日 雑物什器売却、
  十八日 仏像売却、
  十九日 善通寺の誕生院の僧が、両界曼荼羅を金二〇円で買い取った。
 八月四日 障りありとして残されていた仏像や仏具を境内の裏谷で焼却した。
午前八時から始められて、午後には焼却を終わった。その日の暮れのころ、聞き付けて駆けつけた二、三人の老女が、杖にすがりながら、燃え尽きてちりぢりとなった灰を、つまみとって紙に包み、おし頂いて泣きぬれていた

と記録されています。
 のこされた仏像は、長櫃(ながびつ)にいれて裏谷へ隠してあった聖観音立像と、不動明王立像の2体だけでした。現在、この2体は宝物館に展示されています。金毘羅さんの神仏分離の激動を見守った仏と言えるのかも知れません。立ち上る煙を宥常は、どんな気持ちで見ていたのでしょうか。

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最後に琴綾宥常の神仏分離令への対応を年表的にまとめて記しておきます。
 
明治元年4月から上京し、翌年2月まで京都滞在
5月  御一新基金御用を命ぜられ、6月下旬までに一万両のうち五千両調達の旨請書差出し
7月  観音・本地・摩利支天・毘沙門・千体仏などの諸堂の廃止決定
8月 弁事役所宛に、金刀比羅宮を勅裁神社にすることを願出て許された。
9月 東京行幸冥加として千両を献納し、徳川家の朱印状十通を弁事役所へ返納し、神祇伯家へ入門11月 春日神社の富田光美について大和舞を伝習し、多備前守から俳優舞と音曲の相伝を受ける
12月 皇学所へ「大日本史」と「集古十種」を進献
明治2年2月、月末に丸亀帰着。白川家の故実家古川躬行が本社神式修行指導のため来着。
3月 御本宮正面へ「当社之義従天朝金刀比羅宮卜被為御改勅祭之神社被為仰付候事」の建札
6月晦日 はじめて客殿で大祓の神式実施
10月 十日の会式も神式に改め、翌三年から、神輿が御旅所まで渡御するスタイルに変更
明治4年6月、国幣小社に列し、官祭へ、
明治5年4月、宥常は権中講義に補せられ、翌月に東京虎ノ門旧京極邸内の事比羅社内に神道教館設置
これには多大の経費を要し、その時上京していた宥常は資金調達のため一旦帰国しなくてはならなくなった。この時に、仏像・仏具・武器・什物の類を売却したのは、東京での出費を賄う必要からでもあった
明治8年1月、御本宮再営着工し、翌年4月仮遷座、10年4月に上棟祭
その間の費用は、官費を仰がず、すべて社費を以って行ったので、落成の際、内務省から宥常に褒美を下賜された。
 しかし宥常の宮司に仰付られたいという願いは聞き届けられず、明治6年3月、鹿児島県士族深見速雄が宮司として赴任来讃。宥常が宮司に任命されたのは、明治19年3月深見速雄が亡くなった翌4月のことです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
神仏分離令と金刀比羅宮 ことひら町史441P

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