瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:神谷神社

前回に続いて、神谷神社本殿を支えてきた人々の近世編になります。

神谷神社の香西氏連歌会

15世紀末に香西氏が神谷神社神前で、一族や幕下の羽床・滝宮氏などを集めて団結誇示のために法楽連歌会を開いていたことを前回お話しました。そこからは当時の阿野北平野が香西氏のテリトリーであったことがうかがえるとしました。その連歌会の30年ほど前に行われた本殿改修の棟札(写)が伝えられています。
神谷神社 1460年の棟札
神谷神社寛正元(1460)年の棟札(写)

①一番右側の吉兆の言葉の下に寛正元(1460)年の年紀が見えます。応仁の乱の少し前です。
②建築にあたった大工と小工の名前が並んで記されます。③真ん中の一行「奉再興神谷大明神御社一宇」からは、当時の神谷神社が神谷大明神と呼ばれていたことが分かります。④その下に来るのが改修総責任者の名前です。「遷宇行者神主松元式部三代孫松元惣左衛門正重」とあるので、総責任者を松本式部の3代後の孫が務めていたことになります。これは三代前から社司が松元氏によって「世襲化」されつつあったことを示しています。以後、神谷神社は近世を通じて松元(本)氏が社司を務めます。
 この棟札で問題なのは裏の「弘仁三(812)年 河埜氏勧請」という一行です。
「河埜氏」は阿刀氏と同族で、物部氏を祖先とするので、このように記されたと近世の史書は記します。阿刀氏は空海の母親の出身氏族です。つまり空海の母親の実家が勧進したということになります。しかし、これには無理があります。阿刀氏は畿内泉州を本貫とする中央貴族であることは以前にお話ししました。讃岐にいた記録はありません。この棟札の裏書については「江戸時代になって弘法大師伝説が広まる中で作成されたもの」と研究者は考えているようです。つまり、「弘仁三年に阿刀大足による勧請」を伝えるために、江戸時代になって書かれた(写された)ものなのです。しかし、「写」であっても表の「奉再興神谷大明神御社一宇」や、寛正元(1460)年の修理棟札の記載内容は、信じることができるようです。


神谷神社棟札1540年

神谷神社 天文九(1540)年の棟札

   地域の氏子等の奉加によって本殿の屋根葺き替えを行ったときのものです。ここでも松元氏が筆頭者になっています。松元氏は社司であると同時に、有力な国人勢力であったようで、幕末の讃岐国名勝図会にも神谷神社のすぐそばに大きな屋敷が描かれています。そして奉行(勧進責任者)として、蓮歳坊ともう一名の名前が見えます。ここからは、社司以外にも社僧が何人かいて、彼らの勧進活動によって遷宮(葺替え修復)が行われていたことが分かります。

神谷神社江戸時代の棟札

       永禄11(1568)年の棟札は、本殿屋根の葺き替えで、前回から28年経っているので、30年おきに遷宮(葺き替え)が行われていたようです。この時には鍛冶宗次の名が見え、屋根の構造的な部分に手が入れられたことがうかがえます。さらに脇之坊増有とあるので、本坊以外にも社僧が居たことが分かります。
以上のように残された棟札からは、次のようなことが読み取れます。
①中世は、荘官や政所などの個人によって、檜皮葺の屋根の葺き替え工事が行われていた
②それは社僧達(勧進聖)たちの勧進活動によっても賄われていたこと
③それが近世になると村人達が氏子となって、改修修理を担うようになっていたこと
④それをまとめ上げていたのが社司の松元氏であった。
それでは社司の松元家をも少し見ていくことにします。

神谷神社 讃岐国名勝図会1

讃岐国名勝図会(1854年 約170年前)に描かれた「神谷神社」周辺です。
①流れ落ちる神谷川 その川に沿って真っ直ぐに続く松並木の参道
②その上に神谷神社があります。(神社と表記されていることを押さえておきます。神社の背後の三重塔はありません。
③別当寺の青竜(立)寺は現在地に移っています。
④青竜寺の前には三好氏の大きな屋敷があります。
さて、右側の神谷神社周辺を拡大して見ておきましょう。

神谷神社 讃岐国名勝図会2
 
ここで目が引かれるのは、社司松本(元)家の屋敷です。神社の下側に隣接して大きな門構えです。その下に民家が密集しています。この松元家が15世紀の半ばから近代に至るまで、社司を務めたことになります。もうひとつ気がつくには、神社の周りには仏教的性格の建物がなくなっていることです。ここからは神谷明神では、近世の早い時期に松元氏によって「神仏分離」が行われたことがうかがえます。そして、別当寺は現在地に下りていったようです。その経過については、今の私には分かりません。どちらにしても江戸時代の神谷神社の管理権を握っていたのは社司の松元家であったことを押さえておきます。
 私が気になるのは、鳥居は2つ描かれていますが玉垣や狛犬はないことです。玉垣や狛犬などの石造物は、いつ頃奉納されたのでしょうか?

神谷神社 手水 玉垣

手水石(ちょうず)には「天保9(1838)年」と見えます。約190年前のものになります。その奥に見える玉垣は、明治28(1895)年ですから日清戦争の戦勝祝いとして奉納されたようです。

神谷神社 鳥居・狛犬

 二の鳥居は、嘉永2(1849)年で約170年前、狛犬は1864年で、160年前です。

神谷神社 石造物一覧

神谷神社の石造物を年代順に並べたものです。これを見ると、石造物が設置されるようになるのは19世紀になってからだということが分かります。約190年前頃から境内は整備され、現在の原型ができたようです。これは金毘羅さんの整備状況から見てもうなづけることです。金毘羅の参道は、石段と石畳に玉垣、そして燈籠と石造物で埋め尽くされ白く輝くようになり、その姿が一新するのは19世紀前半のことです。その姿を周辺の寺院も真似るようになります。この時期、村人達は隣の村の神社と競い合うように石造物を次々と奉納し、伽藍は整備されていきます。ちなみに本殿や拝殿などの建築物の新築・改修などには、髙松藩の許可が必要でした。髙松藩は新築や増築工事をなかなか認めません。従来通りの改修が認められるだけでした。そのため氏子達は石造物の寄進という方法に自然と進んでいきます。

近世の村社

天保10年4月5日にと神谷村の庄屋・久馬太から髙松藩に願い出た文書です。
神谷神社と市と芝居

ここでは4月6日の神谷明神祭礼で市と芝居興行を行うことを、その前日に神谷村の庄屋が願いでています。その経費は氏子からの持ち寄りで賄い、村入目(公的財源)は使わないと記されています。費用がどこから出されるかを藩は主にチェックしていたようです。また前日に出すのは、藩からの口出しを免れる意図もあったようです。こうしてみると19世紀半ばの神谷明神は、信仰だけでなく人々の娯楽や交流の場としても機能していたことが分かります。市や芝居小屋が建つためには、広い参道や神前の広場が必要です。それらが整備されれば鳥居や手水石・燈籠などが寄進されます。そんな風に幕末の整備は進んだと私は考えています。
神谷神社の中世から近世への担い手の移りかわりをまとめておきます。
①中世は、荘司や政所と脇坊の寄進と僧侶(山伏)による勧進活動で改修が行われていた
②それが近世になると、社司松元氏とと「本願主」や「組頭」の肩書きをもった「オトナ」衆によって改修が行われるようになった。
③19世紀になると、地域の人達が氏子となって積極的に境内整備を行うようになった
④その背景には、信仰の場としてだけでなく、市や芝居・見世物などのレクレーションの場としても神社が活用されてきたからである。
⑤それが明治以後、神仏分離と国家神道によって信仰の場だけに役割が純化・制限されていった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「坂出市域の神社 神社の建立と修復   坂出市史近世下142P」

坂出市の文化財保護協会の神谷神社見学会の後で、お話ししたことをアップしておきます。

中世の神谷神社1

白峯寺にある白峰寺古図です。白峰寺の中世の様子を江戸時代になって、洞林院が描かせたものとされています。そのため栄華が誇張されていて、事実を伝えるものではないと思われてきました。その評価大きく変わったのは最近のことです。発掘調査が行われた結果、三重塔が描かれている本堂横と別所跡から塔跡が出てきたのです。いまでは、ここに書かれている建物群は実際にあったのではないかと研究者は考えるようになっています。中世の神谷明神が置かれた環境を、この絵図から情報が読み取りながら見ていきたいと思います。最初に全体的な絵解きをしておきます。神谷神社がどこにあるか分かりますか?。

中世の白峰寺古図

 雌山・雄山・青海の奥まで海が入り込んでいたこと  海からそそり立つのが白峰山 そこから稚児の瀧が流れ落ちる。断崖の上に展開する伽藍が霊山としてデフォルメされています。①まず注目したいのは、白峯山です。ここには権現とあります。修験者たちが開いた霊山が権現と呼ばれます。②ここに別所があります。奥の院への入口あたりです。別所は、修験者や聖・僧兵たちの拠点となったところです。③ここが崇徳上皇陵です。中世には修験者の天狗信仰と結びつきます。④本堂と別所の間に、洞林院があります。それ以外にも多くの子院が描かれています。中世の白峰寺というのは、このような子院の連合体で運営されていました。④注目したいのは三重塔が3つ描かれています。神谷神社にも三重塔が描かれています。比叡山で云えば山上の大伽藍に対して、麓にいくつもの里の宗教施設をもっていました。中世の神谷明神も、白峰寺勢力を取り巻くサテライト寺院のひとつであったことを押さえておきます。見方を変えて云えば、ここに描かれている範囲が白峰寺の宗教的テリトリーであったとも考えられます。
神谷神社を拡大して見ていくことにします。

白峰寺古図の神谷明神
 
ここに「神谷明神」と書かれています。ここからは白峰寺の大門(現在の展望台)に向けて道が伸びています。神谷明神は白峰寺への入口でもあったことが分かります。
神谷の谷にいくつかの建物が描かれています。
①が一番奥の三重塔です。白峰寺の本堂横・別所にも三重塔は描かれていました。その存在が発掘調査で確かめれています。とすれば、ここにも三重塔があった可能性が高いと研究者は考えています。②が本堂でしょうか。しかし、妻入り社殿のようにも見えます。③が僧坊のようです。どちらにしても、ここからは中世には清瀧寺という神宮寺(別当寺)が神谷明神を管理していたという言い伝えが裏付けられます。ここで注目したいのが④の随身門です。これが随身門なら随身様がここにはいたはずです。
宝物庫には鎌倉時代作とされる随身立像があります。それを見ておきましょう。

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宝物庫前の随身像の説明版
神谷神社の随身さん

神谷神社の宝物庫の随身立像です。
 鎌倉時代中期の13世紀の作品とされ、全国でも記銘がある中では二番目に古い随身さんです。それを裏付けるかのように、次のような古風な要素を持ちます。
① 床几に坐る形式の随身像が多いが、立っている。
② 両手の肘を張つて手を前に出す姿勢はきわめてめずらしい。様式化される前のタイプ。
③ かたいケヤキ材を用い、頭部を頸のあたりで輪切りにし、襟にみられる棚状の矧ぎ面にのせて寄本造りの形をとっている。
④ これと同じ造りの随身さんが高屋神社にもある。
ここからは、随身さんや仏像などの職人集団が白峰寺の周辺にはいた可能性もうかがえます。また、この随身立像は、先ほどの絵図に描かれていた随身門に納められていたものかもしれません。また鎌倉時代の作とされる木造狛犬1対もあります。こうして見ると本堂が姿を現した13世紀初頭以後に、神谷明神が整備されていったことがうかがえます。この随身様の他にも、別当寺青竜寺の本尊とされる仏さまが伝わっています。

青竜寺本尊 阿弥陀如来立像

現在の青龍(立)の本尊「木造阿弥陀如来立像」(県文化)です。
ヒノキの寄木造、像高99cmで、胸部内側に墨書銘があって、「1270(文永7)年に僧長円が両親の極楽往生を願って造立した」とあります。とすると神谷神社本社が建立されて、約半世紀後の造られた阿弥陀仏になります。「讃岐国名勝図会」には、上図のように記します。これによるともともとは、神谷神社(五社明神)の別当寺清龍寺の本尊であったたものが、中世に寺が退転した後、現在地に下りて青竜寺の本尊として迎えられたようです。中世の別当寺の本尊が阿弥陀如来であったというのは興味深いところです。ここからはこの寺が阿弥陀浄土信仰の拠点として、高野聖などの念仏聖たちがいたことがうかがえます。
神谷神社には、中世の舞楽面が2つ伝えられています。

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神谷神社の舞楽面
神谷神社の舞楽面
 ひとつは抜頭面で、父親をかみ殺した猛獣と格闘し、勝利して喜ぶ様を演じた舞に使用されたものです。もうひとつは還城楽面(げんじょうらく)で、西域の胡人の姿に扮して朱の仮面をつけ、桴(ばち)を持ち、捕らえた蛇を食うさまを模した舞に使われるものです。ちなみに、讃岐で舞踊が奉納されていた記録が残るのは、善通寺と観音寺だけです。これらに比べると、各段に小規模な神谷明神に舞楽面が残されていることをどう考えればいいのでしょうか?
 それを解くヒントは、神谷集落に残る額(楽)屋敷という地名です。楽屋敷は、白峯寺の楽人が住居していたという伝承があります。ここからは神谷集落の舞楽集団は、白峯寺の「楽所」として、白峯寺に舞楽を奉納していたことが考えられます。そうだとすればここからも、神谷明神と白峯寺との関係の深さが見えて来ます。

神谷神社には、香西氏が「法楽連歌会」を神前で開いて奉納した記録があります。

神谷神社の香西氏連歌会

「神谷神社法楽連歌一巻」(神谷神社蔵)は、明応5年(1496)2月22日に神谷神社法楽を目的として巻かれたものです。時代は応仁の乱の後の15世紀末で、この時期の香西氏は、管領細川政元の右腕として栄華の絶頂期にあった頃です。香西氏が率いる讃岐武士達が京都の政治動向を左右していたのです。
作者の香西元資は細川勝元の家臣で、香西氏一族や神谷神社近隣の在地武士とその愛童や神官・僧侶たちに勧進して法楽連歌が行われたようです。連衆として、宗堅、宗高、元家、元親、祐宗、元門、宗清、宗勝、重任、増吉、歳楠丸、増林、増認、貞継、有通、盛興、元資、宗元、宗秀、宗春、元隆、幸聟丸、元治、寅代、師匠丸、石王丸、土用丸、鍋丸、惣代の29名の名が見えます。ここには東讃守護代で、連歌に熱心であった安富元家・元治も参席しています。
 神谷神社神前で開いた連歌会には、香西氏一族だけでなく、守護代の安富氏や有力武士や社僧・神官など29人が参加しています。明智光秀が本能寺の信長を襲う前にも連歌会を開いて、身内の団結と戦勝を願っています。 法楽連歌は、歌の内容如何にかかわらず、神仏に対する祈願を籠め、参加者の統合を保証するものでした。地縁・血縁等で結ばれた領主の連合=国人一揆は、公方や守護の圧力に対抗するために開かれたりもします。 
室町時代には連歌は武士の必須教養とされるようになります。
複数の者が集まって長時間詠むことで、集団の結束を図るのに都合の良い文芸で、コミュニテイ形成のツールでした。円滑な社会秩序の安定には価値観や情報の共有を図ることが不可欠です。連歌会は参加者同士の新たな人間関係を生み出します。連帯感や同じ価値観を共有する集団に属することを認識・確認し合う場でもありました。また、連歌は祈りを込められて詠まれる場合が多く、追悼・追善の連歌や法楽連歌、戦勝祈願の連歌も少なくなく、これらの連歌会への参加は名誉なこととされました。この連歌会を運営するにはプロの連歌師を京から呼ぶ必要がありますた。在京が長かった香西氏や安富氏に招かれて来讃する連歌師・猿楽師等がいたようです。彼らが逗留し活動拠点になったのが白峰寺だったのかもしれません。

連歌会を行うのは、自分が保護し、伽藍を整備した寺社が選ばれます。そういう意味からすると、神谷神社が香西氏の勢力下にあり、保護を受けていたことがうかがえます。また神谷明神は、讃岐武士団の団結を誓う場として機能していたことになります。それだけの規模設備があったのでしょう。香西氏は、一族や有力国衆を神谷神社の法楽連歌会に結集して、政治的・宗教的な人的ネットワークをより強固なものにしていたことを押さえておきます。

もうひとつ、神谷神社に残る中世的要素を見ておきましょう。鎌倉時代後期の層塔です。
神谷神社の層塔
           神谷神社の層塔と白峰寺十三重石塔
玄武岩ではなく凝灰岩の層塔なので、天霧産と思われます。これも別当寺の青竜寺に寄進されたのものでしょう。白峰寺十三石塔とよく似ています。もともとは十三重の塔だったのかも知れません。層塔を布教拡大のモニュメントとして使ったのが奈良の西大寺です。西大寺は天皇より各国の国分寺の再興を命じられ、瀬戸内海で活発な活動を展開します。讃岐国分寺再興や白峰寺に十三重塔が姿を現すのと同じ時期になります。これは律宗勢力伸張の痕跡とされます。そのような動きの中で、建立されたのがこの層塔ではないかと私は考えています。石造物にも、白峰寺のサテライト的な性格が見られることをここでは押さえておきます。
以上、中世の神谷明神を取り巻く環境をまとめておくと次の通りです。

中世の神谷明神と別当青竜寺

次回は近世の神谷神社について見ていきたいと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史   坂出市史 中世編 神谷神社の立地と沿革  206P
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坂出市の文化財協会の神谷神社本殿の修理保存見学会に行ってきました。

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最初に宮司の中尾格さんから今回の落雷被災の経過からクラウドファンデイング(CF)に至る経過について、次のようなお話しをうかがいました。
神谷神社 本殿2
          国宝 神谷神社 三間社流造 (1219年の墨書棟木あり)

神谷神社 屋根上部にあった箱棟
神谷神社 落雷した北側(左側)の千木
①2022年9月27日 正午頃に千木に落雷(避雷針なし)。千木を通じて屋根内部で火災発生し、風の影響か東側(右側)に火元が移動。そのため右側の方が激しく焼けている。

神谷神社 火災5

②消火施設は落雷のため機能せず。燃えているのが屋根内側のため放水しても効果なし。御神体を遷した後、檜皮葺屋根をはがして消火活動再開。
③消防士が消火活動を再開し、延焼を屋根部分に限定できた結果、16:30分頃鎮火
④屋根部分だけの被災にとどめることができたために、国宝指定解除にはならず。
④復興費用については、国宝なので国と県の補助金が下りるが、地元負担も1000万円を超える。

神谷神社 クラウドファン

⑤氏子140軒で年金生活者が多い現状では困難。そこで宮司の娘さんの提案でクラウドファンデイングを実施。
神谷神社 クラウドファティーグ

⑥最初は危ぶんでいたが、蓋を開けてみると開始して3ヶ月後には目標額に到達。結局、倍の2000万円が集まった。
神谷神社 工事計画日程
神谷神社本殿 工事計画 2025年夏の完成予定
⑦資金目処を得て、約1年後の2023年10月に工事開始。今年の秋の完成を目指している。
以上のようなお話しでした。
このあと参加者全員がヘルメットを被って工事現場に案内していただき見学しました。

案内していただく前に、神谷神社本殿がどうして国宝に指定されているかを見ておきましょう。

流れ造と神明造り


神社様式で最も古いのは神明造りです。伊勢神宮正殿が原形とされます。その特徴は、本を伏せたような切妻造(きりづまづくり)の屋根、屋根の端に飛び出た板・千木(ちぎ)、棟の上の丸太・鰹木(かつおぎ)などです。
 これに対して、新しく登場してくるのが流造りです。この特徴は、
正面側の屋根を長く伸ばした優美なな曲線美です。これはそれまでの直線的な外観の神明造と見た目に大きく異なる姿です。ここでは、流造りというのは、古代末から中世初頭に新しく登場してきた神社モデルであることを押さえておきます。それでは、代表的な三間社流造りの圓城寺新羅堂と神谷神社を比べてみなす。

神谷神社と圓城寺新羅堂

新羅善神堂(国宝)は、讃岐出身の円珍(智証大師)の創建した寺院です。その守護神が奉られているのが新羅堂で。両者はよく似ていていますが、相違点を挙げると次のような点です。

神谷神社の方が屋根の反りが強い。

②神谷神社は乱積み石垣の基壇の上に載っている。

③神谷神社は、扉口が真ん中だけで、脇間は板壁で閉鎖的である

④新羅堂は屋根がさらにのびて向背が付け加えられている。

以上からは、神谷神社の方がより古いタイプであると研究者は考えています。次に神谷神社の特徴を挙げておきます。

神谷神社の特色

ここからは、「古代様式 + 中世様式 + 仏教様式」が混じり合った建物で「古いスタイルをとりながらも仏教の影響を受けた中世的な新たな展開」の建物と研究者は評します。このように古いタイプの流造り社殿であることは、分かっていたのですが、国宝指定の決め手となったのは建築年代がわかる史料が見つかったことです。

神谷神社の墨書銘



 大正時代に行われた大改修の時に
、棟木に建築年代を記した上のような墨書銘が見つかったのです。

それを見てみると、
①まず「正一位
神谷大明神」とかかれています。ここからは中世は神谷神社でなく、神谷明神と呼ばれていたことが分かります。
②「健保(けんぽ)
7年2月10日に始之」とあるので、約800年前の1219年に、着工したことが分かります。建保7年は、その年の内に承久に代わります。後鳥羽上皇が承久の乱を起こす2年前のことです。施主は荘官であった刑部正長(さんみぎょうぶのすくね ながまさ)です。この物については、なにも分かりません。 当時は、古代綾氏が国府の在庁官人から武士団化する時期にあたります。そんな一族なのかも知れませんが手がかりはありません。 

神谷神社 本殿5
神谷神社本殿

 どちらにして、神谷神社本殿が約800年前に建てられた建物で、当時姿を現したばかりの流造り様式の原初的な位置にある建物であることが分かりました。これは、神社様式を考える上で、重要な建物になります。それが国宝に指定された決め手のようです。

神谷神社 落雷被災6


次に再建に向けたこれまでの動きを見ていくことにします。

まず足場が組まれ、覆屋が架けられ、次のような手順で作業は進められてきました。

神谷神社 改修手順
解体手順

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屋根の解体手順

神谷神社 桧皮葺屋根の解体4
檜皮葺屋根解体

神谷神社 桧皮葺屋根の解体5
檜皮葺の撤去

神谷神社 野垂木解体
野垂木解体 焦げていても仕える木材は出来るだけ残す

神谷神社 化粧裏板解体
化粧板解体

神谷神社 屋根解体終了
小屋組解体

神谷神社 部材検討
下ろした古材の保管と点検

私が興味があったのは、先ほど見た「建保(けんぽ)7年2月10日月始之」の年期の記された棟木です。

神谷神社 棟木墨書.3jpg
墨書銘の記された垂木
下ろされた棟木を見てみると、火災の煙で真っ黒になっています。ライトを当てて見ると・・・

神谷神社 棟木墨書.4jpg

浮かび上がってくる文字が見えるようです。神谷神社 棟木墨書.2jpg

大正時代の大改築の時の写真(右側)と比べて見ると「建保(けんぽ)7年2月10日月始之の最後の3文字だけがかすかに確認できたようです。この棟木も火災で真っ黒になりましたが、強度には問題ないので再建が進む本殿に使われていました。

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順調に工事は進んでいて、その様子を覆屋の中の2回に上がって身近に見ることができました。
貴重な機会を与えていただいたことに感謝。

神谷神社2
神谷神社本殿
そして本殿が私たちの前に一日も早く姿を見せてくれることを祈念。
今回の被災と復興をめぐる動きを見ながら私が思ったことを最後に記します。
神谷神社の起源は、この奥にある磐座(いわくら)である影向石(ようこうせき)への巨石信仰に始まるのかもしれません。それが阿野北平野の古代豪族綾氏に引き継がれ、ここに神社が創建されたのでしょう。。

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              神谷神社の磐座 影向石
綾氏は、讃岐で最大の古代豪族として国府の府中誘致などに力を発揮します。そして、他の郡司たちが律令制の解体の中で姿を消して行く中で、国府の在庁官人や武士団化してその統領として勢力を維持します。古代末から中世かけての阿野北平野の情勢を考える際に、綾氏一族を抜きにしては考えられません。800年前に神谷神社本殿を再建した庄司も綾氏につながる一族だったのではないかと私は考えています。そして、綾氏=讃岐藤原氏の一族である香西氏の勢力範囲に置かれるようになります。

神谷神社が受け継がれてきたのは・・・

そのような中で、神谷明神本殿は上図のような人たちによって、改修を重ねてきました。
そして今回の改修再建については、21世紀型の勧進活動=クラウドファンデイングによって実現したようにも思えます。担う人達がバトンタッチされながら、そのスタイルは違うかも知れませんが、この神社の本殿を未来に残したいという願いは同じではないかと思えてきました。中世の勧進聖達がこんな「勧進スタイル」を生み出した人達を驚きながら誉めてくれそうです。もし、崇徳上皇が天狗となって白峰寺から見ていたらこんな風に呟いたのではないでしょうか。
 天狗や雷神は私の配下の者達である。その者達が、この度は手違いで大きな迷惑と苦労をかけたことを詫びる。しかし、儂も越えられない試練は課さない。見事に21世紀型の勧進・結集(けつじゅう)で、困難を乗り越えたのは見事であった。以後も、天狗として天から見守っておるぞ・・・」
崇徳上皇と松山天狗

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考資料
【国宝神谷神社本殿建造物保存修理事業】01プロローグ 工事内容紹介
https://youtu.be/rELeCq-v08Q
【国宝神谷神社本殿建造物保存修理事業】02解体作業状況
https://www.youtube.com/watch?v=O0Dxp1jr6-s
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中世から近世への神社の祭礼変化について、以前に次のようにまとめました。
神社の祭礼変遷

①中世は郷惣社に、各村々から組織された宮座が、祭礼行事を奉納していた。滝宮牛頭天王社へ奉納されていた北条組や坂本組の各組念仏踊りも、惣村で組織された宮座であった。
②検地で村切りが行われ、新たに登場した近世の村々は、それぞれが村社を持つようになる。
③近世半ばに現れた村社では、宮座に替わって若者組が獅子舞や太鼓台・奴などを組織し、祭礼運営の主導権をにぎるようになる。
④こうして中世の宮座による祭礼から、若者組中心の獅子舞や太鼓台が讃岐の祭礼の主役となっていく。
それでは江戸時代後半の各村々では具体的に、どんな祭礼が各村々の氏神に奉納されていたのでしょうか。これを今回は追ってみることにします。
坂出市史」通史 について - 坂出市ホームページ

テキストは、「神社の祭礼 坂出市史近世下151P」です。
  坂出市史は、最初に次のような見取り図を示します。
①江戸時代の村人たちは、神仏に囲まれて生活してたこと。村には菩提寺の他に、氏神・鎮守の御宮、御堂、小祠、石仏があり、氏神・鎮守の祭礼は、村人にとっては信仰行事であるとともに最大の娯楽でもあったこと。その祭礼を中心的に担ったのが若者たちだったこと。
②若者仲間が推進力となって、18世紀半ば以降、祭礼興行は盛んになり、規模が拡大すること。若者たちは村役人に強く求めて、神楽・燈籠・相撲・花火・人形芝居などの新規の遊芸を村祭りにとりこみ、近隣村々の若者や村人たちを招いて祭礼興行を競うようになること。
③これに対して、藩役人は「村入用の増加」「農民生活の華美化」「村外者の来村」などを楯にして、規制強化をおこなったこと。

若者達による祭礼規模の拡大と、それを規制する藩当局という構図が当時はあったことを最初に押さえておきます。

御用日記 渡辺家文書
御用日記 阿野郡大庄屋の渡辺家
  阿野郡の大庄屋を務めた渡辺家には、1817(文化15)年から1864(文久4)年にかけて四代にわたる「御用日記」43冊が残されています。ここには、大庄屋の職務内容が詳しく記されています。
1841(天保12)年12月条の「御用日記」には、次のような規制が記されています。
一 神社祭礼之節、練物獅子奴等古来ョリ在来之分者格別、新規之義者何小不寄堅ク停止可被申付候。尤、獅子太鼓打の子供の衣類并奴のまわし向後麻木綿の外相用セ申間敷候
一 寺社開帳市立祭礼等の節、芝居見セ物同様の義相催候向も在之哉二相聞候、去年十二月従公儀被 御出の趣相達候通猥之義無之様可破申付候
意訳変換しておくと
一 神社祭礼については、練物(行列)や獅子舞・奴など古来よりのものは別にして、新規の催しについては、何者にも関わらず禁止申しつける。なお、獅子や太鼓打の子供の衣類や奴のまわしについては、今後は麻木綿の着用を禁止する。
一 寺社の開帳や市立祭礼の芝居や見せも同様に取り扱うこと。去年十二月の公儀(幕府)からの通達に従って違反することのないように申しつける。
ここからは、次のような事が分かります。
①旧来の獅子舞や奴に加えて「新規催し」が村々の祭礼で追加されていたこと
②藩は、それらを禁止すると共に従来の獅子舞などの服装にも規制していること
③幕府の天保の改革による御触れによって、祭礼抑制策が出されて、それを高松藩が追随していること

具体的に坂出地区の祭礼行事を見ていくことにします。 坂出市史は以下の祭礼記事一覧表が載せられています。
坂出の神社祭礼一覧
  これを見ると19世紀になると、相撲・市・万歳興行・湯神楽・松神楽・盆踊り・箱提灯などさまざまな興行が行われていたことが分かります。

柳田国男は、『日本の祭』の中で、祭礼を次のように定義しています。
祭礼は
「華やかで楽しみの多いもの」
「見物が集まってくる祭が祭礼」
祭の本質は神を降臨させて、それに対する群れの共同祈願を行うことにあるが、祭礼では社会生活の複雑化の過程で、信仰をともにしながら見物人が発生し、他方では祭の奉仕者の専業化を生み出した。

祭礼が行われるときには、門前に市が立ちます。
上表の「1835(天保6)年2月、坂出塩竃神社」の祭礼と市立には、門前に約40軒もの店が立ち並び、約2100人が集まったという記録が残っています。天保7年の坂出村の人口は3215人なので、その約2/3の人々が集まっていたことになります。塩浜の道具市というところが塩の町坂出に相応しいところです。
この他にも市立ては、1839(天保十)の神谷神社(五社大明神)や翌年の鴨村の葛城大明神、松尾大明神でも、芝居興行とセットで行われています。
 芝居や見世物などの興行を行う人のことを香具師とよびました
香具師は、全国の高市(祭や縁日の仮設市)で活躍して、男はつらいよの寅さんも香具師に分類されます。その商売は、小見世(小店:露店)と小屋掛けに、大きく分けられます。小屋掛けとは、小屋囲いした劇場空間で演じられる諸芸や遊戯のことです。これはさらにハジキ(射的・ダルマおとしなどの景品引き)とタカモノ(芝居・見世物・相撲など)に分けられるようです。坂出では、どんな興行が行われていたのでしょうか。

神谷神社 讃岐国名勝図会2
神谷神社(讃岐国名勝図会)
神谷村の神谷神社(五社大明神)の史料には、次のように記されています。
天保十年四月五日、「当村於氏神明六日五穀成就為御祈願市場芝居興行仕度段氏子共ョリ申出候」
尤、入目の儀氏子共持寄二仕、村入目等ニハ不仕」
意訳変換しておくと
1839(天保十)年四月五日、(神谷村の)氏神で明日六日、五穀成就の祈願のために市立と芝居を興行を行うと氏子たちから申出があった。なお費用は氏子の持寄りで、村入目(村の予算)は使わないとのことである」

と神谷村の庄屋久馬太から藩庁へ願い出ています。祭礼の実施も庄屋を通じて藩に報告しています。また、費用は氏子からの持ち寄りで運営されていたことが分かります。費用がどこから出されるかを藩はチェックしていました。

坂出 阿野郡北絵図
坂出市域の村々
鴨村の葛城大明神の祭礼史料を見ておきましょう。

鴨部郷の鴨神社
鴨村の上鴨神社と下鴨神社
1839(天保10)年4月7日と18日、葛城大明神社の地神祭のために「市場」「芝居興行」が鳴村庄屋の末包七郎から大庄屋に願い出られ、それぞれ許可・実施されています。この地神祭の時には「瓦崎者(河原者)」といわれた役者を雇って人形芝居興行が行われています。その際の氏子の申し出では次のように記されています。
「尤、同日雨入二候得者快晴次第興行仕度」
(雨の場合は、快晴日に延期して行う予定)」

雨が振ったら別の日に替えて、人形芝居は行うというのです。祭礼奉納から「レクレーション」と比重を移していることがうかがえます。

  林田村の氏神(惣社大明神)の史料を見ておきましょう。
林田 惣社神社
林田村の氏神(惣社大明神) 讃岐国名勝図会

惣社大明神では1845(弘化2)年8月19日に、地神祭・市場・万歳芝居興行の実施願いが提出されています。
以上のように、坂出の各村では、氏総代→庄屋→大庄屋→藩庁を通じて申請書が出され、許可を得た上で地神祭のために、市場が立ち、芝居や人形芝居の興行が行われていたことが分かります。その興行の多くは「タカモノ」と呼ばれる見世物だったようです。
  御供所村の八幡宮では、1834(文政七)8月12日に、翌々15日の松神楽興行ための次のような執行願が出されています。

然者、御供所村八幡宮二おゐて、来ル十五日例歳の通松神楽興行仕度、尤、初尾(初穂)之義者氏子共持寄村人目等二者不仕候山氏子共ヨリ申出候間、此段御間置可被成申候」

意訳変換しておくと
つきましたは御供所村の八幡宮において、きたる15日に例歳の松神楽の興行を行います、なお初穂費用については、氏子たちの持ち寄りで賄い、村人目からは支出しないとの申し出がありました。此段御間置可被成申候」

ここでも村費用からの支出でなく、「氏子共」の持ち寄りで賄われることが追記されています。
西庄 天皇社と金山権現2
西庄村の崇徳天皇社(讃岐国名勝図会)

西庄村の崇徳天皇社では、1834(文政7)年8月27日、湯神楽についての次の願書が出されています。
「然者、来月九日氏神祭礼二付、崇徳天皇社於御神前来月六日夜、湯神楽執行仕度段氏子共ヨリ申出シ、尤、人目之義ハ村方ヨリ少々宛持寄仕候間、村入目者無御座候間、此段御間置日被下候」

意訳変換しておくと
つきましては、来月9日氏神祭礼について、崇徳天皇社の神前で6日夜、湯神楽を執行することが氏子より申出がありました。なお費用については村方より持ち寄り、村入目からの支出はありません。此段御間置日被下候」

 崇徳天皇社での湯神楽も費用は「村方ヨリ少々宛持寄仕候」で行われています。
湯立神楽(ゆだてかぐら)とは? 意味や使い方 - コトバンク
湯神楽

鴨島村の鴨庄大明神では、1858(安政5)年9月2日松神楽の執行についての次のような願書が出されています。

「然者、於当村鴨庄大明神悪病除為御祈薦松神楽執行仕度段氏子共ヨリ申出、昨朔日別紙の通、御役所へ申出候所、昨夜及受取相済候二付、今日穏二執行仕せ度奉存候、此段御聞置被成可有候」

      意訳変換しておくと
「つきましては、当村鴨庄大明神で悪病を払うための祈祷・松神楽を行うことについて氏子から申出が、昨朔に別紙の通りありましたので、役所へ申出します。昨夜の受取りなので、今日、執行させていただきます。此段御聞置被成可有候」

 前日になって氏子達は、庄屋に申し出ています。庄屋はそれを受けて、直前だったために、本日予定通りに実施させていただきますと断りがあります。
林田村の惣社大明神でも、1860(万延元)年9月12日湯神楽の執行について次の願書が出されています。
「当村氏惣社大明神於御仲前、今晩湯神楽修行仕度段御役所江申出仕候、御聞済二相成候問」

ここからはその晩に行われる湯神楽について、当日申請されています。それでも「御聞済二相成候問」とあるので許可が下りたようです。ここからは祭礼の神楽実施については、村の費用負担でなく、氏子負担なら藩庁の許可は簡単に下りていたことがうかがえます。

祭礼一覧表に出てくる相撲奉納を見ておきましょう。
御用日記に出てくる角力奉納をまとめたのが次の一覧表です。
坂出の相撲奉納一覧
御用日記の相撲奉納一覧表
ここからは次のような事が分かります。
①1821年から43年までの約20年間で相撲奉納が7回開催されていたこと
②奉納場所は、鴨神社や坂出八幡宮など
③各村在住の角力取によつて奉納角力が行われたこと
④「心願」によって「弟子兄弟共、打寄」せで行われていたこと
⑤「札配」や「木戸」銭は禁止されていること。
近世後期の坂出周辺の村々に角力取がいて、彼らが「心願」で神社への奉納角力に参画していたことを押さえておきます。
  以上をまとめておきます。
①江戸時代後半の19世紀になると、坂出の各村々の祭礼では、獅子舞や太鼓台以外にも、相撲・市・万歳興行・湯神楽・松神楽・盆踊り・箱提灯などのさまざまな行事が奉納されるようになっていた。
②これらの奉納を推進したのは中世の宮座に替わって、村社の運営権を握るようになった若者組であった。
③レクレーションとしての祭礼行事充実・拡大の動きに対して、藩は規制した。
④しかし、祭礼行事が村費用から支出しないで、氏子の持ち寄りで行われる場合には、原則的に許可していた。
⑤こうして当時の経済的繁栄を背景に、幕末の村社の祭礼は、盛り上がっていった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    神社の祭礼 坂出市史近世下151P

        上棟式の棟札 - マネジャーの休日余暇(ブログ版)
現在の棟札

中世の荘園の歴史を知ろうとするとき、頼りとなるのは京都や奈良の荘園領主の手もとに残された史料になるようです。地元の民家や寺社に中世文書が残されていることは、ほとんどありません。その中で棟札は、荘園の全体的な枠組みの手がかりを伝えてくれる地元の貴重な史料です。
 棟札とは、寺社の造営や修理のときに、その事業の願主、大工、上棟の年月日、造営の趣旨などを書いて、棟木に打ち付けた木札のことです。建物自体が老朽化して解体されたのちも棟札だけが残され保存されていることがあります。

天嶽院 | 山門屋根 茅葺替大修理・3 棟札調査

以前に見た坂出の神谷神社にも、中世に遡る棟札が何枚も保管されていました。式内社や荘園鎮守社であったような神社には、棟札が残されている場合があります。棟札からは何が見えてくるのでしょうか。今回は中世の地方神社の棟札を見ていくことにします。    テキストは「日本の中世」 村の戦争と平和 鎮守の森で  現代につづく中世 121Pです。
    棟札 武内神社2
                                                           
京都府相楽郡精華町の北稲八間荘の武内神社には、20枚もの棟札が保存されているようです。
時代的には、鎌倉時代末期から昭和にまでいたる造営棟札です。
棟札 武内神社
武内神社の棟札
年代的に二番めに古い延文三年(1358)の棟札には「神主源武宗」や大工のほかに、道念、了円など8人の名前が記されています。この8人がこの時代の北稲八間荘の有力者たちだったようです。
応永十年(1403)にも、ほぼ同じ内容のものが作られています。
文明四年(1472)のものになると、「神主源武宗」の下に「老名」として道法以下10名の名前が並びます。北稲八間荘の有力者たちが「老名」(オトナ)と呼ばれていたことが分かります。オトナは「長」「長男」とも表記されますが、十人という数が北稲八間のオトナの定数だったことが分かります。
棟札 武内神社3
武内神社拝殿

 天正三年(1574)のものをみると、オトナのうち一人に「政所」という肩書きが付きます。ここからは十人のオトナのうちの一人が、交替で政所という世話役を務めるようになったことがうかがえます。神主の名乗は、慶長13年(1608)まで「武宗」でした。ここからは「源武宗」が神主家の代々の当主に世襲される名前であったことが分かります。
江戸時代にはいると、神主は紀姓の田中氏に交替しています。
かわって「フシヤゥ」という役名が登場するようになります。「フシヤウ」とは検非違使庁の下級職員の「府生」のことだと研究者は指摘します。中世後期になると京都周辺の荘園の荘官級武士の中には、朝廷の下級職員に編成され、重要な儀式のときにだけ出仕して、行列の一員などの役を演ずる者が現れます。「フシャウ」とは、そういう位置にある者で、具体的には「源武宗」を指すようです。そうだとすると旧神主家が、神主の地位を失ったのちも村の中で一定の地位を保っていたことになります。しかし、それも元文三年(1738)を最後に姿が見えなくなります。
 江戸時代には、北稲八間荘はそのまま北稲八間村となり、瑞竜寺、朝倉氏、寛氏の三つの領主に分割されました。領主ごとに庄屋が置かれ、それぞれ寺島氏、川井氏、田中氏が勤めます。かれらは家筋としては、オトナたちと重なります。こうした家筋の人々は、おそらく壮年期には庄屋を務め、長じてはオトナ、すなわち村の古老として武内神社の祭礼や造営などを指揮したようです。
 また元禄十三年(1700)以後の棟札には「鹿追」と呼ばれる役職がみえるようになり、五人から十人の名前が連記されています。鹿などの獣害駆除を直接の任務とする村の若者たちの代表と研究者は考えているようです。
 以上のように神主、オトナ、庄屋、鹿追、それに繁呂寺の住職の名前を書き連ねるのが、江戸時代の武内神社の棟札の定番だったようです。おもしろいことに嘉永五年(1853)の棟札には、「鹿追 このたび勝手につき手伝い申さず候」と記されています。幕末を迎え、オトナ、庄屋といった村内の古老や壮年層と若者たちの間に、何らかの対立が発生していたようです。

 近代を迎えると、国家、社会体制の中での村の位置づけは大きくかわっていきます。
神社の祭礼、造営についていえば、古式が尊重されているようです。下は明治30年(1897)の棟札です。

棟札 武内神社4
これをみると、神主は社掌、庄屋は区長と名をかえています。しかし記されている内容や形式はおおむね古式に従ったものです。オトナという文字はみえませんが、氏子総代とされる三名の名前が見えます。明治以後になってオトナは「氏子総代」に変わったようです。
 中世には、オトナとか沙汰人と呼ばれる人々は祭礼、祈祷などのほか、年貢の村請、湯起請に象徴される刑事事件の解決など幅広い村政を担っていました。それが江戸時代になると、徴税や一般的な村政にかかわる権限は庄屋に移管され、オトナの権限は宗教的な行事に限られたようです。つまり江戸時代に村の政教分離が行われたことになります。そして、その延長上にあるのが今の氏子総代になるようです。
 棟札は集落によって作られ、村に残されたモニュメントとも云えます。棟札から、中世の村のようすがわかる事例をもう一つ見ておきましょう。
棟札 日吉神社
日吉神社(宮津市)

丹後半島の宮津市岩ヶ鼻の日吉神社の棟札を見てみましょう。
この神社には天文十八年(1549)11月19日の日づけをもつ三枚の棟札があります。
棟札 日吉神社2

右側二枚の棟札からは次のようなことが分かります。
①中世にはこの地が伊爾(祢)荘(官津市・与謝郡伊根町)と呼ばれていたこと
②日吉神社が伊爾荘の一宮(荘園鎮守)であったこと
③伊爾荘は「延永方」と「小嶋方」に分かれていたこと

さらにる文献史料ともつきあわせると、「延永方」は「西方」「東方」に分かれ、
「東方」と「小嶋方」は幕府奉行人の飯尾氏の所領、
「西方」はこの地の国人松田氏の所領
であったことがわかります。棟札の銘からは、飯尾氏の支配部分においても松田氏が代官として伊爾荘を仕切っていたことがうかがえます。

研究者が注目するのは、一番左の棟札です。
多くの名前が列記されています。これを見ると格名前に権守とあります。権守を辞書で調べると「守(かみ)(国司の長官)、または、頭(かみ)(寮の長官)の権官(ごんかん)。」と出てきます。この棟札には、権守の肩書きを持つ偉そうな人たちばかりのように思えます。ところが、これは村人たちの名前だというのです。これが遷宮の時の「御百姓中官途」の顔ぶれだというのです。
 中世後期の村では、村人に村が「官途」(官位)を与えていました。
具体的には「権守」「介」「大夫」「衛門」「兵衛」などです。これらの官途の名称は、朝廷が使っていたものをコピーしたものです。権守、介はそれぞれ国司の長官と次官であり、衛門、兵衛はそれぞれ衛門府、兵衛府のことです。また大夫と大は五位(正五位、従五位)のことになります。しかし、村における官途付与はもちろん朝廷の正式の任免手つづきを経たものではありません。ある年齢に達したときや、鎮守の造営に多額の寄付を行ったときなどに、村の合議によって官途が与えられていたようです。

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 西嶋定生の「二十等爵の研究」を思い出させてくれます。
① 秦朝発展の原因のひとつは開発地に新たに設置した「初県」(新村落)にあった。
②初県では人的秩序形成のために国家が定期的に位階を配布し、人間のランク付けを行った。
③ハレの場である社稷祭礼の際には、その位階ランク順に席につき、官位の高い老人や有力者が当然上位に位置し、会食も行われた。
④この座席順が日常生活でのランク付けに用いられた。
この手法と日本の中世神社で行われていたことは、なんとなく響き合うものを感じます。アジア的長老支配の手法といえるのかもしれません。
京都府宮津市の神前式|天然記念物の花々が咲き乱れる「山王宮日吉神社」とは
日吉神社本殿
話を日吉神社に戻します。
官途の名乗を許されると「官途成」と呼ばれます。
官途成すると、その村の成人構成員として認知を受けたことになります。江戸時代の庶民に「○衛門」「○兵衛」「○介」といった名前が多いのは、中世村落での官途成に由来があるようです。江戸時代になると、こうした名前も親の命名で自由につけられるようになりますが、中世には、村の許可を得てはじめて名乗れる名前でした。村の官途にも上下の秩序があったようです。「衛門」「兵衛」などは、比較的簡単に名乗ることが許可されたもので、下位ランクの官途だったようです。
それに対し最高位は、この棟札に出てくる「権守」です。
彼らも若いころは「衛門」や「兵衛」などの官途を名乗ったのでしょう。それが年齢を重ねるとともに「大夫」へ、さらに「権守」へと「昇進」していったようです。「権守」までくれば村のオトナで、指導者です。そういう目で見ると、伊爾荘の日吉神社も、オトナたちが遷宮事業の中心となっていたのが分かります。
 遷宮完了を記念して、右側2枚は、荘の代官を勤めている国人たちが納めた者です。そして左側のものは、村の指導者(オトナ=権守)たちが、自分たち独自の棟札を神社に納めものです。そこには、鎮守を実質的に維持・管理するのは自分たちだという自負と、この機会にその集団の結束や団結を確認する思いを感じます。棟札には、村を運営した人々の存在証明の主張が込められていると研究者は指摘します。
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2つの神社の棟札を見て養った「視力」で、坂出の神谷神社に残る棟札を見てみましょう。

神谷神社本殿2
神谷社殿社殿
この神社の社殿は香川県に2つしかない国宝建築物のひとつです。大正時代に行われた大改修の時に発見された棟木の墨書銘に、次のように記されていました。
正一位神谷大明神御費殿
建保七年歳次己如二月十日丁未月始之
 惣官散位刑部宿祢正長
ここからは、承久元(1219・建保七)年に、本殿が建立されたことが分かります。

神谷神社棟札1460年
   今度は一番古い年紀を持つ上の棟札(写)を見てみましょう。
表が寛正元(1460)年で、「奉再興神谷大明神御社一宇」とあります。「再興」とあるので、それ以前に建立されていたことが分かります。建築にあたった大工と小工の名前が並んで記されます。そして真ん中の一行「奉再興神谷大明神御社一宇」からは当時の神谷神社が神谷大明神と呼ばれていたことが分かります。  その下に来るのが改修総責任者の名前です。「行者神主松本式部三代孫松本惣左衛門正重」とあります。
神谷神社は明治の神仏分離までは「神谷大明神」で、神仏混淆の宗教施設で管理は別当寺の清瀧寺の社僧がおこなっていました。「行者神主」にそのあたりのことが現れていることがうかがえます。
さて私が興味をひかれるのは最後の行です。
「当村政所並惣氏子共栄貴祈所 木(?)政所並惣氏中」とあります。ここに出てくる「政所」とは何なのでしょうか? 
先ほど見た京都の武内神社の天正三年(1574)の棟札にも、オトナのうち一人に「政所」という肩書きがありました。そして十人のオトナのうちの一人が、交替で政所という世話役を務めるようになったことをみました。それと同じ意味合いだとすると、神谷村のオトナ(有力者)たちということになります。しかし、ここでは「当村政所」とだけ記し、具体的な氏名は書かれません。

神谷神社棟札2枚目


その後の16世紀後半から百年毎棟札を並べたのが上図です
この3つの棟札を比べると次のようなことが分かります。
①地域の有力者の手で、定期的に社殿の遷宮(改修)が行われてきたこと
②遷宮の行者神主は代々松元氏が務めていること
③村の檀那等(氏子)の祈祷所として信仰を集めてきたこと
④中世は脇坊の僧侶(山伏)による勧進活動で改修が行われていたのが、江戸時代になると「本願主」や「組頭」の肩書きをもった「オトナ」衆によって改修が行われるようになっている。
そして、オトナ(有力者)の名前が具体的に記されています。
神谷神社にも 中世のオトナ → 江戸時代の庄屋 → 明治以後の顔役 神社総代という流れが見られるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「日本の中世」 村の戦争と平和 鎮守の森で  現代につづく中世 121P


DSC04291

 神谷神社があるのは、阿野郡松山郷五ヵ村のひとつであった旧神谷村です。白峰山西麓の谷筋にあり、山裾の集落から小川沿いに東に延びる参道を登っていくと境内が現れます。社殿の後には、影向石と呼ばれている巨石が磐座として祀られて、古代の信仰対象だったことがうかがえます。この磐座に対する信仰が、この神社の起源なのでしょう。
  今回は、神谷神社について見ていくことにします。テキストは坂出市史 中世編 神谷神社の立地と沿革  206P」です

神谷神社 由緒書

 神谷神社の祭神は伊弊諾尊・伊弊再尊の子で火の神とされる火結命(ほむすびのみこと)で、その孫でやはり火の神とされる奥津彦命・奥津姫命を併せ祀ります。相殿には、春日四神(経津主神、武甕槌神、天児屋根命、姫大神)が祀られています。磐座信仰+火結命(ほむすびのみこと)+春日四神と合祀されるようになって、五社神社と地元では呼ばれてきたようです。

 神谷神社の創始は分かりません。社伝によると
「神谷の渓谷にあった深い渕から自然に湧き出るような一人の僧が現われ渕の傍にあった大岩の上に祭壇を設け・・たのが神谷大明神の創始と謂われているという。
その後、弘仁3年(812)空海の叔父・阿刀大足が、春日四柱を相殿に勧請して再興したという。・・・・
なんだかよく分からない話です。
 阿刀大足は、以前にお話したように、摂津に基盤を持つ阿刀氏で、空海の母の兄弟になります。真魚(空海幼名)からすると叔父で、空海の「英才教育担当者」とされる学識豊かな知識人であり中央官人ですが、讃岐への来歴はありません。「阿刀大足勧進」という伝承自体が「弘法大師空海伝説」とも云えます。あくまで伝説で、すぐには信じられません。
神谷神社が正史で確認できるのは、三代実録の次の叙位記録になるようです。
①貞観七(865)年に従五位上、
②貞親十七(875)年に正五位下
また、延喜式にも讃岐式内社24社の中の1社として、阿野郡の3社のひとつとして、城山神社、鴨神社と並んで名前があります。ここからは、9世紀後半までは、有力豪族の保護を受けて国庁の管理下にも置かれた神社があったことがうかがえます。

実は「阿刀大足勧進」を証明する史料があるとされてきました。それを見てみましょう。
神谷神社棟札1460年

神谷神社に残る棟札の中で一番古い年紀を持つ棟札(写)を見てみましょう。表が寛正元(1460)年で、「奉再興神谷大明神御社一宇」とあります。これに問題はありません。問題なのは裏の「弘仁三(812)年 河埜氏勧請」という一行です。 阿刀ではなく「河埜氏」とあることは押さえておきます。阿刀氏も河野氏と同じく物部氏を祖先とする同族なので、このように記されたと近世の史書はしてきました。
 この棟札の裏書については「江戸時代になって作成されたもの」と研究者は考えているようです。つまり、「弘仁三年に阿刀大足による勧請」を伝えるために、江戸時代になって書かれた(写された)ものなのです。しかし、「写」であっても表の「奉再興神谷大明神御社一宇」や、寛正元(1460)年の修理棟札は、信じることができるようです。
天文九(1540)年の棟札は二枚あります。
神谷神社 修理棟札1540年
地域の氏子等の奉加によって本殿の屋根葺き替えを行ったときのものです。松元氏が神官の筆頭者になっています。松元氏は神官であると同時に、有力な国人勢力であったようで、幕末の讃岐国名勝図会にも神谷神社のすぐそばに大きな屋敷が描かれています。

神谷神社棟札2枚目

永禄11(1568)年の棟札も二枚あります。本殿屋根の葺き替えで、前回から28年経っているので、30年おきに葺き替えが行われていたようです。この時には鍛冶宗次の名が見え、屋根の構造的な部分に手が入れられたことがうかがえます。さらに脇之坊増有とあるので、本坊以外にも社僧が居たことが分かります。

その後の神谷神社の沿革を伝える史料はありません。しかし、鎌倉時代のものとされる遺品が隣接する宝物館に保管されていますので見ておきましょう。
神谷神社随身像
①阿吽一対の木造随身立像(重要文化財)

坂出市史は、この随身立像を次のように紹介しています
像高 阿形像125、2㎝  吽形像 125、6㎝
建保七(1219)年建立の国宝指定の本殿と同じ頃、鎌倉時代中期の13世紀に制作されたとされる。両手の肘を張つて手を前に出す姿勢はきわめてめずらしい。制作紀年銘のある随身立像では最古の、岡山県津山市高野神社の一対(応保一年銘)に次いで古い。
 後世の床几に坐る形式の随身像にくらべると古制を示している。両像とも、かたいケヤキ材を用い、頭部を頸のあたりで輪切りにし、襟にみられる棚状の矧ぎ面にのせて寄本造りの形をとっている。これが高家神社のものと同じ技法である。技巧的には阿形像の方が複雑に仕上げられている

「白峯寺古図」に見えるとおり、神谷神社は、神谷明神として多くの付属建造物が描かれています。 本殿とおもえる妻入り社殿の後には、立派な三重塔が見えます。その前方には、平入りの社僧の坊舎と随身門が描かれています。この随身立像は、ここに描かれている随身門に納められていたのかもしれません。
神谷神社の面

②舞楽面二面(市指定有形文化財)
③大般若波羅密多経(市指定有形文化財)
数多くあった宝物も、元禄十一(1698)年に著された「神谷五社縁起」(『綾・松山』所載)には中世の兵乱により多くが散逸していた様子が記されています。

神谷神社の境内には、江戸時代後半の年号が刻まれた次のような石造物があります
①天保9(1838)年 手水石
②弘化三(1846)年  石階耳石上に立つ親柱に
③嘉永2(1849)年 二の鳥居
④元治元(1864)年 狛犬と燈籠
⑤慶応4(1868)年  百度石
⑥明治28(1895)  玉垣設置
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①天保9(1838)年 手水石
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③嘉永2(1849)年 二の鳥居
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④元治元(1864)年 狛犬と燈籠
これらの石造物が設置されたのは19世紀のことです。江戸時代の後半になって境内は整備され、現在の原型ができたことが分かります。
このような整備が進む中で、明治37(1904)年8月に本殿が特別保護建造物に指定されます。

この時期に整備された神谷明神と別当寺の清瀧寺の様子を描いた絵図が讃岐国名勝図会に載せられています。
神谷神社 讃岐国名勝図会

神谷川沿の突き当たりの谷に鎮座する神谷神社の姿が右手に見えます。一番奥が国宝の本殿です。社人を務める松本氏の屋敷も描かれています。神谷神社と同時に、神宮寺である青竜寺も大きな構えを見せています。青竜寺の以前には、清瀧寺という大きな神宮寺があったようです。これは後で見ることにして、国宝に指定されている本殿を見ておくことにします。

神谷神社本殿3
神谷神社本殿
大正の大改修の際に発見された棟本の墨書銘に、次のように記されています。
正一位神谷大明神御費殿
建保七年歳次己如二月十日丁未月始之
惣官散位刑部宿祢正長
ここからは、承久元(1219・建保七)年に、本殿が建立されたことが分かります。
また先ほどの棟札からは、本殿の葺替えが以下のように行われたことが分かります。
①寛正元(1460)年の棟札(写)
②天文9(1540)年
③永禄11(1556)年
④万治3(1660)年
⑤宝暦9(1759)年
 棟札の年紀からは、約20年ごとに葺替が行われていたことがうかがえます。そして、日露戦争が始まった明治37(1904)年8月には、古社寺保存法に定める特別保護建造物に指定されています。その時の指定理由には、次のように記されています。
「再建年代明カナラサレトモ、其形式ヨリ判スレハ鎌倉初期二属スル者ノ如シ、即我国現存神社中最古キ者ノ一ナリ」
この指定を受けて約百年前の大正6(1917)年から翌年にかけて、総事業費491、5万円で解体修理が行われます。この大正修理の際に、今まで見てきた棟木銘と棟札が発見されて建立年代やその後の修理の沿革が明らかとなりました。
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この大正の大修理では、できりだけ建築当初の姿にもどす方針が打ち出されて、次のような現状変更が行われています。
①向拝柱を旧位貰に戻すこと、
②向拝打越垂本を復原すること
③発見された断片から垂本は全て反り付きとすること
④縁回り諸材の寸法と位置を復原すること、
⑤箱棟鋼板被覆を取り去り渋墨塗りに復原すること
(大正八年二月「現状変更説明」による)
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それ以後の沿革は以下の通りです。
昭和22(1947)戦後の文化財保護法(昭和22年制定)で重要文化財指定
昭和27(1952)屋根葺替
昭和30(1955)2月「現存の三間社流造の最古に属する例」として国宝指定
神谷神社本殿2

神谷神社本殿は、「流造神社本殿の最古に属する例」として早くから知られてきたようです。
流造は、伊勢神宮正殿に代表される桁行一間・梁間二間の身舎(もや)に切妻造の屋根を架けた平入の本殿から発展した古い形式と考えられるようです。機能的には正面の本階や拝所を覆うので、どこが正面か分からなくなるおそれがある建物です。そのために建物の正面性を主張するための工夫が凝らされることになります。その工夫が身舎の前に庇を設けて切妻屋根の前流れを前方に延長させる方法です。

 神谷神社 宇治上神社本殿(平安後期)
京都府宇治市の宇治上神社本殿(平安後期)
神谷神社の流造本殿は、京都府宇治市の宇治上神社本殿(平安後期)に次いで古いものだとされています。宇治上神社本殿は、一間社流造の内殿3棟を一連の覆屋に納め、左右の一棟は片側面と背面及び屋根を覆屋と共用しています。これは変則的な形式です。これに対して、流造の規範的な形式は正面の柱間を三間とする三間社で、神谷神社本殿は流造本殿の本流の姿を良く留めているようです。

神谷神社本殿1
神谷神社本殿
①縁を正側三面とし脇障子を備えた正面性の強い構えとして流造の規範的な形式ができあがってていること、
②全体として古代建築に比べて木柄が細いものとなっているものの装飾的要素はまだ少ないこと
③反りの強い破風や庇各部材の面の大きさなどに鎌倉時代初期の趣を伝えていること
④正面は中央間のみを扉口とし脇間を板壁とする閉鎖性の強い構えであること
⑤内部は一室で、頭貫を用いずに柱上に直接舟肘木と桁を載せる古いスタイルをとっている
⑥基壇に礎石建て、庇に組物を使って、妻梁に虹梁型を用いるという仏教的な影響を受けている
以上から「古いスタイルをとりながらも仏教の影響を受けた中世的な新たな展開」の建物と評しています。
 神谷神社本殿 讃岐国名勝図会
讃岐国名勝図会に描かれた神谷神社本殿

最後に、神谷神社の性格について考えておきましょう
神谷神社を考える際に避けては通れないのが、この谷の上にある白峯寺の存在です。白峯寺は、国分寺背後の山岳仏教の修験道(山伏)の行場として開かれ、五色山全体が修行の山でした。その行場に開かれたのが白峰寺や根来寺です。これらの行場は、小辺路ルートとして結ばれ、それが後の四国遍路の「へんろ道」として残ります。
白峯寺古図 周辺天皇社
白峯寺古図

 白峯寺古図を見ると、⑤神谷神社の谷から白峯寺への参拝道が見えます。これも修験者が開いた「小辺路」です。つまり、神谷神社は、白峰寺の行場のひとつとして開かれたと私は考えています。
中世の白峯寺は以前にお話したように「山岳信仰 + 熊野信仰 + 崇徳上皇信仰 + 天狗信仰 + 念仏行者 + 弘法大師信仰熊野」などの修験者や行者・高野聖・六十六部などの聖地で、多くの行者がやってきて住み着いていました。そのような白峰寺の中にひとつのサテライトが神谷神社であったと私は考えています。
 ちなみに神谷神社も明治の神仏分離までは、「神谷大明神」で、神仏混淆の宗教施設で管理は別当寺の清瀧寺の社僧がおこなっていました。
神谷神社 讃岐国名勝図会3
白峯寺古図拡大 神谷神社の背後の三重塔
『白峯山古図』には神谷神社の背後に三重塔が垣間見えます。これは清瀧寺のもので、この塔からも相当大きな寺院だったことがうかがえます。中世の神谷神社が神仏混淆で清瀧寺の社僧の管理下にあったことを押さえておきます。

白峯寺大門 青海天皇社 神谷神社
右下が神谷神社、左下が高屋神社 上が白峯寺大門

神谷集落には額(楽)屋敷という地名が残ります。 ここには、白峯寺の楽人が住居していたという伝承があります。
讃岐の古代の地方楽所としては、善通寺が「国楽所」を担ってきたようです。その後、観音寺などの有力寺社でも、舞楽はじめ舞曲芸能が盛行するに従い設置されます。白峯寺でも「楽所」が、寺領の松山荘内にある神谷周辺に置かれていた可能性があるようです。そうだとすればここからも、神谷明神と白峯寺との関係の深さがうかがえます。

神谷大明神石塔(石造多層塔残欠)
神谷神社の凝灰岩製層塔
 神谷神社の斎庭北東隅には鎌倉時代後期の一対の凝灰岩製層塔があります。
この塔は、もともとは神宮寺であった清瀧寺のものと伝えられます。清瀧寺がいつの頃に姿を消したのかは分かりません。さきほど見たように白峯寺古図には、神谷神社の奥に三重塔が描かれています。これが清瀧寺だったようです。清瀧寺の退転後に現在地に清龍(立)寺が創建されます。

神谷神社 青竜寺 讃岐国名勝図会
青竜(立)寺(讃岐国名勝図会)
青竜寺には阿弥陀如来立像(県指定有形文化財)が安置されています。この胸部内面に文永七(1270)年の墨書銘を記されています。『綾北問尋抄』(宝暦五(1755)年刊)に「五社(=神谷神社)の本地仏(中略)安阿弥(=快慶)の作とも云」と記します。ここからは、この仏がもとは神谷明神の本地仏で、清瀧寺の本尊であったと研究者は考えているようです。
神谷神社 清立寺本尊
青立寺の阿弥陀如来立像(県有形文化財)像高 101㎝
 
胸部内側に造像墨書銘「奉造立志者、為慈父悲母往生極楽也、文永七年巳九月七日僧長円敬白」とあるので、鎌倉時代中期文永七(1270))年の制作であることが分かります。
坂出市史は、この阿弥陀さまを、次のように紹介します。
ヒノキ材の寄木造りである。香川県下ではこの期の阿弥陀像は多数あるが、造像年の明確なのは数体である。なお、梶原景紹著『讃岐国名勝図会』に「阿弥陀堂、本尊(古仏、五社明神の本地なり)当庵は、往古五社明神の別当清滝寺といえる寺跡なり、退転の年月末詳、今清立寺はこの寺を再興せしならん」
とあり、本像が、神谷神社の本地仏であったという。先述の『白峯山古図』には、直接、阿弥陀堂は確認できないものの、神谷明神の鳥居の左側に神谷村の集落が描かれており、その中に清滝寺阿弥陀堂と思しき立派な堂合らしき建物が見える。

 かつての清瀧寺については、よく分からないようです。
しかし、清瀧寺の後に出来た清立(滝)寺については、天霧城の香川氏の家臣の亡命先だったという次のような話が伝えられます。天正年間(1573~)、天霧城主香川信景が豊臣秀吉の四国攻めにより敗れ、長宗我部元親の養子親和と共に土佐に亡命します。その落城時に、家臣何某(香川山城守?)が剃髪し、この地に逃げてきて、清瀧寺を再興し堂宇を建てたのが青立寺、後の清立(滝)寺だと云うのです。

尻切れトンボになりますが、以上をまとめておきます
①神谷神社は磐座信仰に始まり、国分寺ー白峰寺ー根来寺の山岳信仰の行場として、「小辺路」修行の行場ネットワークのひとつであった。
②中世の神谷神社は、神仏混淆下にあり清瀧寺の社僧が別当として管理運営に当たっていた。
③清瀧寺は、白峯寺とは「楽所」や「連歌」、人事交流などで密接な関係にあり、三重塔を有する規模の寺社でもあった。
④鎌倉時代の棟木から神谷神社本堂は鎌倉時代の流れ作りのもっとも古い形式を残す本堂であることが分かり国宝に指定されている。
⑤本堂は中止後半以後、氏子達によって屋根の葺き替えが行われ、管理されてきたことが残された棟札からは分かる。
⑥清瀧寺の退転後は、青竜寺が代わって別当寺となったが社人松元氏の力も台頭し、以前のような支配力を発揮することはなかった。
⑦幕末から明治に境内整備が進み、現在のレイアウトがほぼ完成した。
神谷神社における神仏分離については、文献や史料がなく今の私には分かりません。あしからず。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献   坂出市史 中世編 神谷神社の立地と沿革  206P」
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 白峯寺古図は寺伝では、江戸初期に南北朝末年の永徳二(1283)年に焼亡した白峯寺を回顧して、往時の寺観を描いたものとされています。以前にはこの古図で白峯寺伽藍内を見ました。今回は白峯寺の周辺部や荘園を見ていくことにします。テキストは「坂出市史 中世」です。

白峯寺古図 周辺天皇社
白峯山古図
『白峯山古図』には、③稚児ケ瀧の上に①白峯陵や白峰寺の数多くの堂舎が描かれています。本社の右に勅使門があり、そこを出て白峯寺へ向かう道の脇に②御影堂(崇徳院讃岐国御影堂:後の頓証寺)があります。中世には、ここにいくつかの荘園が寄進されます。
 今回注目したいのは、周辺にある天皇社です。
A 稚児ヶ滝の滝壺の左に崇徳天皇(社)があります。これが現在の⑧青海神社です。
B 白峰寺の大門から尾根筋の参道を下りきった場所に、もう一つの崇徳天皇(社)が見えます。これが現在の⑩高家神社です。
これらの二社は、現在も鳥居に「崇徳天皇」の扁額が掲げられています。
高屋神社 崇徳上皇
高屋神社の崇徳天皇扁額

B 尾根筋参道の右には深い谷筋の奥に、神谷明神(神谷神社)が三重塔と共に描かれています。この神社の神殿は国宝ですが、中世は神仏混交で明神を称していたことが分かります。そして、白峯寺山中の子院のひとつであったことがうかがえます。
C 絵図の前面を流れるのが現在の綾川で、その上流に鼓岡があります。ここも、白峯寺が寺領であると主張していた所で、讃岐国府のほとりに当たる場所です。青海・高屋神社の崇徳天皇社と神谷明神、鼓岡は、「白峯寺縁起」に書かれている白峯寺寺領とされる場所です。鼓丘は、明治以降に崇徳院霊場として政治的に整備され、今は鼓丘神社が鎮座していることは以前にお話ししました。
坂出市史には、白峰寺古図と白峰寺縁起に記された白峯寺の寺領荘園群が次のように挙げています。
『白峯寺縁起』に、次の3つの荘園
① 今の青海・河内は治承に御寄進
② 北山本の新庄も文治に頼朝大将の寄附
③ 後嵯峨院(中略)翌(建長五)年松山郷を寄進
「讃岐国白峯寺勤行次第」に5つの荘園
④ 千手院料所松山庄一円
⑤ 千手院供僧分田松山庄内
⑥ 正月修正(会)七日勤行料所西山本新庄
⑦ 毎日大般若(経)一部転読(誦)料所当国新居郷
⑧ 願成就院明実坊修正(会)正月人(勤行)料所松山庄内ヨリ      
これは、そのまま信じることはできませんが、15世紀初頭には白峯寺はこのような寺領の領有意識を持っていたことは分かります。それをもう少し具体的に見てみると・・・・
①の青海(村)、④の松山庄一円、⑤の松山庄内、③の松山庄内、それに③の松山郷を合わせると松山郷全体が白峯寺の寺領荘園になっていたことになります。
①の河内を「阿野郡河内郷」とすると、ここには鼓岡と国府がありました。そこが白峯寺の寺領だったというのは無理があります。国府の諸施設のあった領域以外の土地を、寺領と云っているのでしょうか。このあたりはよく分かりません。
⑦の新居郷は、古代の綾氏の流れをくみ、在庁官人として成長し、鎌倉時代以降鎌倉御家人として栄えた讃岐藤原氏の一族新居氏の本拠です。五色台山上にある平地部分のことと研究者は考えているようです。

福江 西庄

②と⑥は、前回お話ししたように北山本新庄(後の西庄)で、当初は京都の崇徳院御影堂に寄進されていた荘園です。それを白峯寺は押領して寺領とします。
もともと、これらの寺領は『玉葉』建久二(1191)年間閏十二月条にあるように、後鳥羽上皇が崇徳院慰霊のために建立した仏堂である「崇徳院讃岐国御影堂領」に寄進されたことがスタートになります。
 寛文九(1669)年の高松藩の寺社書上「御領分中寺々由来」には、白峯寺の項に「建長年中、高屋村・神谷村為寺領御寄付」とあるので、松山郷内青海・高屋・神谷の「三ヶ庄」は崇徳院讃岐国御影堂領松山荘として存続していたようです。三ヶ庄の名称は、寛永十(1832)年に作成された「讃岐国絵図」にもあり、現在も綾川を取水源にした三ヶ庄用水に名を残しています。

白峯寺古図拡大1
白峯寺古図拡大図 中世には様々な堂舎が立ち並んでいた

  白峰山は、古代から信仰の山で、次のような複合的な性格を持っていました。
①五色山自体が霊山として信仰対象
②五流修験による熊野行者の行場
③高野聖による修験や念仏信仰の行場で拠点霊山
④六十六部などの廻国聖の拠点
⑤四国辺路修行の行場
ここに、天狗になった崇徳上皇の怨霊を追善するための山陵が築かれます。白峯陵(宮内庁治定名称では「しらみねのみささぎ」)は、唯一玉体埋葬の確実な山陵です。
白峰寺7
白峯寺(讃岐国名勝図会) 
そして朝廷により崇徳院御影堂(後の頓証寺)などの堂舎が整備されていきます。ある意味、天皇陵というもうひとつの信仰対象を白峯寺は得たことになります。しかも、この天皇陵は特別でした。天狗と化し、怨霊となった崇徳上皇を追善(封印?)する場所でもあるのです。菅原道真の天満宮伝説とおなじく、怨念は強力であればあるほど、善神化した場合の御利益も大きいと信じられていました。こうして白峯寺は「崇徳上皇を追善する寺」という顔も持ち、多くの信者を惹きつけることになります。中央からの信仰も強く、朝廷や帰属からも様々な奉納品が寄せられるようになります。同時に、寺領化した松山庄や西庄などの人々も、地元に天皇社を勧進し祀るようになります。それを親しみを込めて「てんのうさん」と呼びました。その「本宮」の白峰山や白峯寺も、いつしか「てんのうさん」と呼ばれ信仰対象になっていきます。

讃岐阿野北郡郡図8坂出と沙弥島
讃岐綾北郡郡図(明治) この範囲がかつての西庄にあたる

 坂出市の御供所は、前回お話ししたように北山本新庄(西庄)の一部でした。
ここには崇徳上事の讃岐配流に随ってきたという七人の「侍人」伝承があります。また、今も白峰宮(西庄町)には、2ヵ所の御供所(坂出市、丸亀市)から祭礼奉仕の慣習が続いているようです。

坂出市西庄
 坂出市には、今見てきたように中世に起源を持つ三社(高家神社・青海神社・白峰宮)があります。これらは崇徳上皇を祀っています。さらに川津町には江戸時代創建の崇徳天皇社があるので、四社の崇徳天皇社が鎮座することになります。これも白峯寺の寺領化と崇徳上皇への信仰心が結びついたものなのかもしれません。
白峯寺大門 第五巻所収画像000004
白峯寺大門に続く道
まとめておくと
①白峯山上に崇徳院陵が整備され、その追善の寺となった白峯寺には荘園が寄進され寺領が拡大していった
②各荘園には白峯陵から天皇社が勧進され、「てんのうさん」と呼ばれて信仰対象となった。
③そのため白峯寺の寺領であった坂出市域には、いくつも「てんのうさん」が今でも分布している
白峰寺 児ヶ獄 第五巻所収画像000009
稚児の滝の下の青海神社もかつては天皇社

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史 中世編
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