瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:神谷神社棟札

前回に続いて、神谷神社本殿を支えてきた人々の近世編になります。

神谷神社の香西氏連歌会

15世紀末に香西氏が神谷神社神前で、一族や幕下の羽床・滝宮氏などを集めて団結誇示のために法楽連歌会を開いていたことを前回お話しました。そこからは当時の阿野北平野が香西氏のテリトリーであったことがうかがえるとしました。その連歌会の30年ほど前に行われた本殿改修の棟札(写)が伝えられています。
神谷神社 1460年の棟札
神谷神社寛正元(1460)年の棟札(写)

①一番右側の吉兆の言葉の下に寛正元(1460)年の年紀が見えます。応仁の乱の少し前です。
②建築にあたった大工と小工の名前が並んで記されます。③真ん中の一行「奉再興神谷大明神御社一宇」からは、当時の神谷神社が神谷大明神と呼ばれていたことが分かります。④その下に来るのが改修総責任者の名前です。「遷宇行者神主松元式部三代孫松元惣左衛門正重」とあるので、総責任者を松本式部の3代後の孫が務めていたことになります。これは三代前から社司が松元氏によって「世襲化」されつつあったことを示しています。以後、神谷神社は近世を通じて松元(本)氏が社司を務めます。
 この棟札で問題なのは裏の「弘仁三(812)年 河埜氏勧請」という一行です。
「河埜氏」は阿刀氏と同族で、物部氏を祖先とするので、このように記されたと近世の史書は記します。阿刀氏は空海の母親の出身氏族です。つまり空海の母親の実家が勧進したということになります。しかし、これには無理があります。阿刀氏は畿内泉州を本貫とする中央貴族であることは以前にお話ししました。讃岐にいた記録はありません。この棟札の裏書については「江戸時代になって弘法大師伝説が広まる中で作成されたもの」と研究者は考えているようです。つまり、「弘仁三年に阿刀大足による勧請」を伝えるために、江戸時代になって書かれた(写された)ものなのです。しかし、「写」であっても表の「奉再興神谷大明神御社一宇」や、寛正元(1460)年の修理棟札の記載内容は、信じることができるようです。


神谷神社棟札1540年

神谷神社 天文九(1540)年の棟札

   地域の氏子等の奉加によって本殿の屋根葺き替えを行ったときのものです。ここでも松元氏が筆頭者になっています。松元氏は社司であると同時に、有力な国人勢力であったようで、幕末の讃岐国名勝図会にも神谷神社のすぐそばに大きな屋敷が描かれています。そして奉行(勧進責任者)として、蓮歳坊ともう一名の名前が見えます。ここからは、社司以外にも社僧が何人かいて、彼らの勧進活動によって遷宮(葺替え修復)が行われていたことが分かります。

神谷神社江戸時代の棟札

       永禄11(1568)年の棟札は、本殿屋根の葺き替えで、前回から28年経っているので、30年おきに遷宮(葺き替え)が行われていたようです。この時には鍛冶宗次の名が見え、屋根の構造的な部分に手が入れられたことがうかがえます。さらに脇之坊増有とあるので、本坊以外にも社僧が居たことが分かります。
以上のように残された棟札からは、次のようなことが読み取れます。
①中世は、荘官や政所などの個人によって、檜皮葺の屋根の葺き替え工事が行われていた
②それは社僧達(勧進聖)たちの勧進活動によっても賄われていたこと
③それが近世になると村人達が氏子となって、改修修理を担うようになっていたこと
④それをまとめ上げていたのが社司の松元氏であった。
それでは社司の松元家をも少し見ていくことにします。

神谷神社 讃岐国名勝図会1

讃岐国名勝図会(1854年 約170年前)に描かれた「神谷神社」周辺です。
①流れ落ちる神谷川 その川に沿って真っ直ぐに続く松並木の参道
②その上に神谷神社があります。(神社と表記されていることを押さえておきます。神社の背後の三重塔はありません。
③別当寺の青竜(立)寺は現在地に移っています。
④青竜寺の前には三好氏の大きな屋敷があります。
さて、右側の神谷神社周辺を拡大して見ておきましょう。

神谷神社 讃岐国名勝図会2
 
ここで目が引かれるのは、社司松本(元)家の屋敷です。神社の下側に隣接して大きな門構えです。その下に民家が密集しています。この松元家が15世紀の半ばから近代に至るまで、社司を務めたことになります。もうひとつ気がつくには、神社の周りには仏教的性格の建物がなくなっていることです。ここからは神谷明神では、近世の早い時期に松元氏によって「神仏分離」が行われたことがうかがえます。そして、別当寺は現在地に下りていったようです。その経過については、今の私には分かりません。どちらにしても江戸時代の神谷神社の管理権を握っていたのは社司の松元家であったことを押さえておきます。
 私が気になるのは、鳥居は2つ描かれていますが玉垣や狛犬はないことです。玉垣や狛犬などの石造物は、いつ頃奉納されたのでしょうか?

神谷神社 手水 玉垣

手水石(ちょうず)には「天保9(1838)年」と見えます。約190年前のものになります。その奥に見える玉垣は、明治28(1895)年ですから日清戦争の戦勝祝いとして奉納されたようです。

神谷神社 鳥居・狛犬

 二の鳥居は、嘉永2(1849)年で約170年前、狛犬は1864年で、160年前です。

神谷神社 石造物一覧

神谷神社の石造物を年代順に並べたものです。これを見ると、石造物が設置されるようになるのは19世紀になってからだということが分かります。約190年前頃から境内は整備され、現在の原型ができたようです。これは金毘羅さんの整備状況から見てもうなづけることです。金毘羅の参道は、石段と石畳に玉垣、そして燈籠と石造物で埋め尽くされ白く輝くようになり、その姿が一新するのは19世紀前半のことです。その姿を周辺の寺院も真似るようになります。この時期、村人達は隣の村の神社と競い合うように石造物を次々と奉納し、伽藍は整備されていきます。ちなみに本殿や拝殿などの建築物の新築・改修などには、髙松藩の許可が必要でした。髙松藩は新築や増築工事をなかなか認めません。従来通りの改修が認められるだけでした。そのため氏子達は石造物の寄進という方法に自然と進んでいきます。

近世の村社

天保10年4月5日にと神谷村の庄屋・久馬太から髙松藩に願い出た文書です。
神谷神社と市と芝居

ここでは4月6日の神谷明神祭礼で市と芝居興行を行うことを、その前日に神谷村の庄屋が願いでています。その経費は氏子からの持ち寄りで賄い、村入目(公的財源)は使わないと記されています。費用がどこから出されるかを藩は主にチェックしていたようです。また前日に出すのは、藩からの口出しを免れる意図もあったようです。こうしてみると19世紀半ばの神谷明神は、信仰だけでなく人々の娯楽や交流の場としても機能していたことが分かります。市や芝居小屋が建つためには、広い参道や神前の広場が必要です。それらが整備されれば鳥居や手水石・燈籠などが寄進されます。そんな風に幕末の整備は進んだと私は考えています。
神谷神社の中世から近世への担い手の移りかわりをまとめておきます。
①中世は、荘司や政所と脇坊の寄進と僧侶(山伏)による勧進活動で改修が行われていた
②それが近世になると、社司松元氏とと「本願主」や「組頭」の肩書きをもった「オトナ」衆によって改修が行われるようになった。
③19世紀になると、地域の人達が氏子となって積極的に境内整備を行うようになった
④その背景には、信仰の場としてだけでなく、市や芝居・見世物などのレクレーションの場としても神社が活用されてきたからである。
⑤それが明治以後、神仏分離と国家神道によって信仰の場だけに役割が純化・制限されていった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「坂出市域の神社 神社の建立と修復   坂出市史近世下142P」

        上棟式の棟札 - マネジャーの休日余暇(ブログ版)
現在の棟札

中世の荘園の歴史を知ろうとするとき、頼りとなるのは京都や奈良の荘園領主の手もとに残された史料になるようです。地元の民家や寺社に中世文書が残されていることは、ほとんどありません。その中で棟札は、荘園の全体的な枠組みの手がかりを伝えてくれる地元の貴重な史料です。
 棟札とは、寺社の造営や修理のときに、その事業の願主、大工、上棟の年月日、造営の趣旨などを書いて、棟木に打ち付けた木札のことです。建物自体が老朽化して解体されたのちも棟札だけが残され保存されていることがあります。

天嶽院 | 山門屋根 茅葺替大修理・3 棟札調査

以前に見た坂出の神谷神社にも、中世に遡る棟札が何枚も保管されていました。式内社や荘園鎮守社であったような神社には、棟札が残されている場合があります。棟札からは何が見えてくるのでしょうか。今回は中世の地方神社の棟札を見ていくことにします。    テキストは「日本の中世」 村の戦争と平和 鎮守の森で  現代につづく中世 121Pです。
    棟札 武内神社2
                                                           
京都府相楽郡精華町の北稲八間荘の武内神社には、20枚もの棟札が保存されているようです。
時代的には、鎌倉時代末期から昭和にまでいたる造営棟札です。
棟札 武内神社
武内神社の棟札
年代的に二番めに古い延文三年(1358)の棟札には「神主源武宗」や大工のほかに、道念、了円など8人の名前が記されています。この8人がこの時代の北稲八間荘の有力者たちだったようです。
応永十年(1403)にも、ほぼ同じ内容のものが作られています。
文明四年(1472)のものになると、「神主源武宗」の下に「老名」として道法以下10名の名前が並びます。北稲八間荘の有力者たちが「老名」(オトナ)と呼ばれていたことが分かります。オトナは「長」「長男」とも表記されますが、十人という数が北稲八間のオトナの定数だったことが分かります。
棟札 武内神社3
武内神社拝殿

 天正三年(1574)のものをみると、オトナのうち一人に「政所」という肩書きが付きます。ここからは十人のオトナのうちの一人が、交替で政所という世話役を務めるようになったことがうかがえます。神主の名乗は、慶長13年(1608)まで「武宗」でした。ここからは「源武宗」が神主家の代々の当主に世襲される名前であったことが分かります。
江戸時代にはいると、神主は紀姓の田中氏に交替しています。
かわって「フシヤゥ」という役名が登場するようになります。「フシヤウ」とは検非違使庁の下級職員の「府生」のことだと研究者は指摘します。中世後期になると京都周辺の荘園の荘官級武士の中には、朝廷の下級職員に編成され、重要な儀式のときにだけ出仕して、行列の一員などの役を演ずる者が現れます。「フシャウ」とは、そういう位置にある者で、具体的には「源武宗」を指すようです。そうだとすると旧神主家が、神主の地位を失ったのちも村の中で一定の地位を保っていたことになります。しかし、それも元文三年(1738)を最後に姿が見えなくなります。
 江戸時代には、北稲八間荘はそのまま北稲八間村となり、瑞竜寺、朝倉氏、寛氏の三つの領主に分割されました。領主ごとに庄屋が置かれ、それぞれ寺島氏、川井氏、田中氏が勤めます。かれらは家筋としては、オトナたちと重なります。こうした家筋の人々は、おそらく壮年期には庄屋を務め、長じてはオトナ、すなわち村の古老として武内神社の祭礼や造営などを指揮したようです。
 また元禄十三年(1700)以後の棟札には「鹿追」と呼ばれる役職がみえるようになり、五人から十人の名前が連記されています。鹿などの獣害駆除を直接の任務とする村の若者たちの代表と研究者は考えているようです。
 以上のように神主、オトナ、庄屋、鹿追、それに繁呂寺の住職の名前を書き連ねるのが、江戸時代の武内神社の棟札の定番だったようです。おもしろいことに嘉永五年(1853)の棟札には、「鹿追 このたび勝手につき手伝い申さず候」と記されています。幕末を迎え、オトナ、庄屋といった村内の古老や壮年層と若者たちの間に、何らかの対立が発生していたようです。

 近代を迎えると、国家、社会体制の中での村の位置づけは大きくかわっていきます。
神社の祭礼、造営についていえば、古式が尊重されているようです。下は明治30年(1897)の棟札です。

棟札 武内神社4
これをみると、神主は社掌、庄屋は区長と名をかえています。しかし記されている内容や形式はおおむね古式に従ったものです。オトナという文字はみえませんが、氏子総代とされる三名の名前が見えます。明治以後になってオトナは「氏子総代」に変わったようです。
 中世には、オトナとか沙汰人と呼ばれる人々は祭礼、祈祷などのほか、年貢の村請、湯起請に象徴される刑事事件の解決など幅広い村政を担っていました。それが江戸時代になると、徴税や一般的な村政にかかわる権限は庄屋に移管され、オトナの権限は宗教的な行事に限られたようです。つまり江戸時代に村の政教分離が行われたことになります。そして、その延長上にあるのが今の氏子総代になるようです。
 棟札は集落によって作られ、村に残されたモニュメントとも云えます。棟札から、中世の村のようすがわかる事例をもう一つ見ておきましょう。
棟札 日吉神社
日吉神社(宮津市)

丹後半島の宮津市岩ヶ鼻の日吉神社の棟札を見てみましょう。
この神社には天文十八年(1549)11月19日の日づけをもつ三枚の棟札があります。
棟札 日吉神社2

右側二枚の棟札からは次のようなことが分かります。
①中世にはこの地が伊爾(祢)荘(官津市・与謝郡伊根町)と呼ばれていたこと
②日吉神社が伊爾荘の一宮(荘園鎮守)であったこと
③伊爾荘は「延永方」と「小嶋方」に分かれていたこと

さらにる文献史料ともつきあわせると、「延永方」は「西方」「東方」に分かれ、
「東方」と「小嶋方」は幕府奉行人の飯尾氏の所領、
「西方」はこの地の国人松田氏の所領
であったことがわかります。棟札の銘からは、飯尾氏の支配部分においても松田氏が代官として伊爾荘を仕切っていたことがうかがえます。

研究者が注目するのは、一番左の棟札です。
多くの名前が列記されています。これを見ると格名前に権守とあります。権守を辞書で調べると「守(かみ)(国司の長官)、または、頭(かみ)(寮の長官)の権官(ごんかん)。」と出てきます。この棟札には、権守の肩書きを持つ偉そうな人たちばかりのように思えます。ところが、これは村人たちの名前だというのです。これが遷宮の時の「御百姓中官途」の顔ぶれだというのです。
 中世後期の村では、村人に村が「官途」(官位)を与えていました。
具体的には「権守」「介」「大夫」「衛門」「兵衛」などです。これらの官途の名称は、朝廷が使っていたものをコピーしたものです。権守、介はそれぞれ国司の長官と次官であり、衛門、兵衛はそれぞれ衛門府、兵衛府のことです。また大夫と大は五位(正五位、従五位)のことになります。しかし、村における官途付与はもちろん朝廷の正式の任免手つづきを経たものではありません。ある年齢に達したときや、鎮守の造営に多額の寄付を行ったときなどに、村の合議によって官途が与えられていたようです。

中国古代帝国の形成と構造 : 二十等爵制の研究(西嶋定生 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 西嶋定生の「二十等爵の研究」を思い出させてくれます。
① 秦朝発展の原因のひとつは開発地に新たに設置した「初県」(新村落)にあった。
②初県では人的秩序形成のために国家が定期的に位階を配布し、人間のランク付けを行った。
③ハレの場である社稷祭礼の際には、その位階ランク順に席につき、官位の高い老人や有力者が当然上位に位置し、会食も行われた。
④この座席順が日常生活でのランク付けに用いられた。
この手法と日本の中世神社で行われていたことは、なんとなく響き合うものを感じます。アジア的長老支配の手法といえるのかもしれません。
京都府宮津市の神前式|天然記念物の花々が咲き乱れる「山王宮日吉神社」とは
日吉神社本殿
話を日吉神社に戻します。
官途の名乗を許されると「官途成」と呼ばれます。
官途成すると、その村の成人構成員として認知を受けたことになります。江戸時代の庶民に「○衛門」「○兵衛」「○介」といった名前が多いのは、中世村落での官途成に由来があるようです。江戸時代になると、こうした名前も親の命名で自由につけられるようになりますが、中世には、村の許可を得てはじめて名乗れる名前でした。村の官途にも上下の秩序があったようです。「衛門」「兵衛」などは、比較的簡単に名乗ることが許可されたもので、下位ランクの官途だったようです。
それに対し最高位は、この棟札に出てくる「権守」です。
彼らも若いころは「衛門」や「兵衛」などの官途を名乗ったのでしょう。それが年齢を重ねるとともに「大夫」へ、さらに「権守」へと「昇進」していったようです。「権守」までくれば村のオトナで、指導者です。そういう目で見ると、伊爾荘の日吉神社も、オトナたちが遷宮事業の中心となっていたのが分かります。
 遷宮完了を記念して、右側2枚は、荘の代官を勤めている国人たちが納めた者です。そして左側のものは、村の指導者(オトナ=権守)たちが、自分たち独自の棟札を神社に納めものです。そこには、鎮守を実質的に維持・管理するのは自分たちだという自負と、この機会にその集団の結束や団結を確認する思いを感じます。棟札には、村を運営した人々の存在証明の主張が込められていると研究者は指摘します。
ヤフオク! -「棟札」の落札相場・落札価格

2つの神社の棟札を見て養った「視力」で、坂出の神谷神社に残る棟札を見てみましょう。

神谷神社本殿2
神谷社殿社殿
この神社の社殿は香川県に2つしかない国宝建築物のひとつです。大正時代に行われた大改修の時に発見された棟木の墨書銘に、次のように記されていました。
正一位神谷大明神御費殿
建保七年歳次己如二月十日丁未月始之
 惣官散位刑部宿祢正長
ここからは、承久元(1219・建保七)年に、本殿が建立されたことが分かります。

神谷神社棟札1460年
   今度は一番古い年紀を持つ上の棟札(写)を見てみましょう。
表が寛正元(1460)年で、「奉再興神谷大明神御社一宇」とあります。「再興」とあるので、それ以前に建立されていたことが分かります。建築にあたった大工と小工の名前が並んで記されます。そして真ん中の一行「奉再興神谷大明神御社一宇」からは当時の神谷神社が神谷大明神と呼ばれていたことが分かります。  その下に来るのが改修総責任者の名前です。「行者神主松本式部三代孫松本惣左衛門正重」とあります。
神谷神社は明治の神仏分離までは「神谷大明神」で、神仏混淆の宗教施設で管理は別当寺の清瀧寺の社僧がおこなっていました。「行者神主」にそのあたりのことが現れていることがうかがえます。
さて私が興味をひかれるのは最後の行です。
「当村政所並惣氏子共栄貴祈所 木(?)政所並惣氏中」とあります。ここに出てくる「政所」とは何なのでしょうか? 
先ほど見た京都の武内神社の天正三年(1574)の棟札にも、オトナのうち一人に「政所」という肩書きがありました。そして十人のオトナのうちの一人が、交替で政所という世話役を務めるようになったことをみました。それと同じ意味合いだとすると、神谷村のオトナ(有力者)たちということになります。しかし、ここでは「当村政所」とだけ記し、具体的な氏名は書かれません。

神谷神社棟札2枚目


その後の16世紀後半から百年毎棟札を並べたのが上図です
この3つの棟札を比べると次のようなことが分かります。
①地域の有力者の手で、定期的に社殿の遷宮(改修)が行われてきたこと
②遷宮の行者神主は代々松元氏が務めていること
③村の檀那等(氏子)の祈祷所として信仰を集めてきたこと
④中世は脇坊の僧侶(山伏)による勧進活動で改修が行われていたのが、江戸時代になると「本願主」や「組頭」の肩書きをもった「オトナ」衆によって改修が行われるようになっている。
そして、オトナ(有力者)の名前が具体的に記されています。
神谷神社にも 中世のオトナ → 江戸時代の庄屋 → 明治以後の顔役 神社総代という流れが見られるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「日本の中世」 村の戦争と平和 鎮守の森で  現代につづく中世 121P


DSC04291

 神谷神社があるのは、阿野郡松山郷五ヵ村のひとつであった旧神谷村です。白峰山西麓の谷筋にあり、山裾の集落から小川沿いに東に延びる参道を登っていくと境内が現れます。社殿の後には、影向石と呼ばれている巨石が磐座として祀られて、古代の信仰対象だったことがうかがえます。この磐座に対する信仰が、この神社の起源なのでしょう。
  今回は、神谷神社について見ていくことにします。テキストは坂出市史 中世編 神谷神社の立地と沿革  206P」です

神谷神社 由緒書

 神谷神社の祭神は伊弊諾尊・伊弊再尊の子で火の神とされる火結命(ほむすびのみこと)で、その孫でやはり火の神とされる奥津彦命・奥津姫命を併せ祀ります。相殿には、春日四神(経津主神、武甕槌神、天児屋根命、姫大神)が祀られています。磐座信仰+火結命(ほむすびのみこと)+春日四神と合祀されるようになって、五社神社と地元では呼ばれてきたようです。

 神谷神社の創始は分かりません。社伝によると
「神谷の渓谷にあった深い渕から自然に湧き出るような一人の僧が現われ渕の傍にあった大岩の上に祭壇を設け・・たのが神谷大明神の創始と謂われているという。
その後、弘仁3年(812)空海の叔父・阿刀大足が、春日四柱を相殿に勧請して再興したという。・・・・
なんだかよく分からない話です。
 阿刀大足は、以前にお話したように、摂津に基盤を持つ阿刀氏で、空海の母の兄弟になります。真魚(空海幼名)からすると叔父で、空海の「英才教育担当者」とされる学識豊かな知識人であり中央官人ですが、讃岐への来歴はありません。「阿刀大足勧進」という伝承自体が「弘法大師空海伝説」とも云えます。あくまで伝説で、すぐには信じられません。
神谷神社が正史で確認できるのは、三代実録の次の叙位記録になるようです。
①貞観七(865)年に従五位上、
②貞親十七(875)年に正五位下
また、延喜式にも讃岐式内社24社の中の1社として、阿野郡の3社のひとつとして、城山神社、鴨神社と並んで名前があります。ここからは、9世紀後半までは、有力豪族の保護を受けて国庁の管理下にも置かれた神社があったことがうかがえます。

実は「阿刀大足勧進」を証明する史料があるとされてきました。それを見てみましょう。
神谷神社棟札1460年

神谷神社に残る棟札の中で一番古い年紀を持つ棟札(写)を見てみましょう。表が寛正元(1460)年で、「奉再興神谷大明神御社一宇」とあります。これに問題はありません。問題なのは裏の「弘仁三(812)年 河埜氏勧請」という一行です。 阿刀ではなく「河埜氏」とあることは押さえておきます。阿刀氏も河野氏と同じく物部氏を祖先とする同族なので、このように記されたと近世の史書はしてきました。
 この棟札の裏書については「江戸時代になって作成されたもの」と研究者は考えているようです。つまり、「弘仁三年に阿刀大足による勧請」を伝えるために、江戸時代になって書かれた(写された)ものなのです。しかし、「写」であっても表の「奉再興神谷大明神御社一宇」や、寛正元(1460)年の修理棟札は、信じることができるようです。
天文九(1540)年の棟札は二枚あります。
神谷神社 修理棟札1540年
地域の氏子等の奉加によって本殿の屋根葺き替えを行ったときのものです。松元氏が神官の筆頭者になっています。松元氏は神官であると同時に、有力な国人勢力であったようで、幕末の讃岐国名勝図会にも神谷神社のすぐそばに大きな屋敷が描かれています。

神谷神社棟札2枚目

永禄11(1568)年の棟札も二枚あります。本殿屋根の葺き替えで、前回から28年経っているので、30年おきに葺き替えが行われていたようです。この時には鍛冶宗次の名が見え、屋根の構造的な部分に手が入れられたことがうかがえます。さらに脇之坊増有とあるので、本坊以外にも社僧が居たことが分かります。

その後の神谷神社の沿革を伝える史料はありません。しかし、鎌倉時代のものとされる遺品が隣接する宝物館に保管されていますので見ておきましょう。
神谷神社随身像
①阿吽一対の木造随身立像(重要文化財)

坂出市史は、この随身立像を次のように紹介しています
像高 阿形像125、2㎝  吽形像 125、6㎝
建保七(1219)年建立の国宝指定の本殿と同じ頃、鎌倉時代中期の13世紀に制作されたとされる。両手の肘を張つて手を前に出す姿勢はきわめてめずらしい。制作紀年銘のある随身立像では最古の、岡山県津山市高野神社の一対(応保一年銘)に次いで古い。
 後世の床几に坐る形式の随身像にくらべると古制を示している。両像とも、かたいケヤキ材を用い、頭部を頸のあたりで輪切りにし、襟にみられる棚状の矧ぎ面にのせて寄本造りの形をとっている。これが高家神社のものと同じ技法である。技巧的には阿形像の方が複雑に仕上げられている

「白峯寺古図」に見えるとおり、神谷神社は、神谷明神として多くの付属建造物が描かれています。 本殿とおもえる妻入り社殿の後には、立派な三重塔が見えます。その前方には、平入りの社僧の坊舎と随身門が描かれています。この随身立像は、ここに描かれている随身門に納められていたのかもしれません。
神谷神社の面

②舞楽面二面(市指定有形文化財)
③大般若波羅密多経(市指定有形文化財)
数多くあった宝物も、元禄十一(1698)年に著された「神谷五社縁起」(『綾・松山』所載)には中世の兵乱により多くが散逸していた様子が記されています。

神谷神社の境内には、江戸時代後半の年号が刻まれた次のような石造物があります
①天保9(1838)年 手水石
②弘化三(1846)年  石階耳石上に立つ親柱に
③嘉永2(1849)年 二の鳥居
④元治元(1864)年 狛犬と燈籠
⑤慶応4(1868)年  百度石
⑥明治28(1895)  玉垣設置
DSC04297
①天保9(1838)年 手水石
DSC04298
③嘉永2(1849)年 二の鳥居
DSC04299
④元治元(1864)年 狛犬と燈籠
これらの石造物が設置されたのは19世紀のことです。江戸時代の後半になって境内は整備され、現在の原型ができたことが分かります。
このような整備が進む中で、明治37(1904)年8月に本殿が特別保護建造物に指定されます。

この時期に整備された神谷明神と別当寺の清瀧寺の様子を描いた絵図が讃岐国名勝図会に載せられています。
神谷神社 讃岐国名勝図会

神谷川沿の突き当たりの谷に鎮座する神谷神社の姿が右手に見えます。一番奥が国宝の本殿です。社人を務める松本氏の屋敷も描かれています。神谷神社と同時に、神宮寺である青竜寺も大きな構えを見せています。青竜寺の以前には、清瀧寺という大きな神宮寺があったようです。これは後で見ることにして、国宝に指定されている本殿を見ておくことにします。

神谷神社本殿3
神谷神社本殿
大正の大改修の際に発見された棟本の墨書銘に、次のように記されています。
正一位神谷大明神御費殿
建保七年歳次己如二月十日丁未月始之
惣官散位刑部宿祢正長
ここからは、承久元(1219・建保七)年に、本殿が建立されたことが分かります。
また先ほどの棟札からは、本殿の葺替えが以下のように行われたことが分かります。
①寛正元(1460)年の棟札(写)
②天文9(1540)年
③永禄11(1556)年
④万治3(1660)年
⑤宝暦9(1759)年
 棟札の年紀からは、約20年ごとに葺替が行われていたことがうかがえます。そして、日露戦争が始まった明治37(1904)年8月には、古社寺保存法に定める特別保護建造物に指定されています。その時の指定理由には、次のように記されています。
「再建年代明カナラサレトモ、其形式ヨリ判スレハ鎌倉初期二属スル者ノ如シ、即我国現存神社中最古キ者ノ一ナリ」
この指定を受けて約百年前の大正6(1917)年から翌年にかけて、総事業費491、5万円で解体修理が行われます。この大正修理の際に、今まで見てきた棟木銘と棟札が発見されて建立年代やその後の修理の沿革が明らかとなりました。
kamitani19

この大正の大修理では、できりだけ建築当初の姿にもどす方針が打ち出されて、次のような現状変更が行われています。
①向拝柱を旧位貰に戻すこと、
②向拝打越垂本を復原すること
③発見された断片から垂本は全て反り付きとすること
④縁回り諸材の寸法と位置を復原すること、
⑤箱棟鋼板被覆を取り去り渋墨塗りに復原すること
(大正八年二月「現状変更説明」による)
kamitani25

それ以後の沿革は以下の通りです。
昭和22(1947)戦後の文化財保護法(昭和22年制定)で重要文化財指定
昭和27(1952)屋根葺替
昭和30(1955)2月「現存の三間社流造の最古に属する例」として国宝指定
神谷神社本殿2

神谷神社本殿は、「流造神社本殿の最古に属する例」として早くから知られてきたようです。
流造は、伊勢神宮正殿に代表される桁行一間・梁間二間の身舎(もや)に切妻造の屋根を架けた平入の本殿から発展した古い形式と考えられるようです。機能的には正面の本階や拝所を覆うので、どこが正面か分からなくなるおそれがある建物です。そのために建物の正面性を主張するための工夫が凝らされることになります。その工夫が身舎の前に庇を設けて切妻屋根の前流れを前方に延長させる方法です。

 神谷神社 宇治上神社本殿(平安後期)
京都府宇治市の宇治上神社本殿(平安後期)
神谷神社の流造本殿は、京都府宇治市の宇治上神社本殿(平安後期)に次いで古いものだとされています。宇治上神社本殿は、一間社流造の内殿3棟を一連の覆屋に納め、左右の一棟は片側面と背面及び屋根を覆屋と共用しています。これは変則的な形式です。これに対して、流造の規範的な形式は正面の柱間を三間とする三間社で、神谷神社本殿は流造本殿の本流の姿を良く留めているようです。

神谷神社本殿1
神谷神社本殿
①縁を正側三面とし脇障子を備えた正面性の強い構えとして流造の規範的な形式ができあがってていること、
②全体として古代建築に比べて木柄が細いものとなっているものの装飾的要素はまだ少ないこと
③反りの強い破風や庇各部材の面の大きさなどに鎌倉時代初期の趣を伝えていること
④正面は中央間のみを扉口とし脇間を板壁とする閉鎖性の強い構えであること
⑤内部は一室で、頭貫を用いずに柱上に直接舟肘木と桁を載せる古いスタイルをとっている
⑥基壇に礎石建て、庇に組物を使って、妻梁に虹梁型を用いるという仏教的な影響を受けている
以上から「古いスタイルをとりながらも仏教の影響を受けた中世的な新たな展開」の建物と評しています。
 神谷神社本殿 讃岐国名勝図会
讃岐国名勝図会に描かれた神谷神社本殿

最後に、神谷神社の性格について考えておきましょう
神谷神社を考える際に避けては通れないのが、この谷の上にある白峯寺の存在です。白峯寺は、国分寺背後の山岳仏教の修験道(山伏)の行場として開かれ、五色山全体が修行の山でした。その行場に開かれたのが白峰寺や根来寺です。これらの行場は、小辺路ルートとして結ばれ、それが後の四国遍路の「へんろ道」として残ります。
白峯寺古図 周辺天皇社
白峯寺古図

 白峯寺古図を見ると、⑤神谷神社の谷から白峯寺への参拝道が見えます。これも修験者が開いた「小辺路」です。つまり、神谷神社は、白峰寺の行場のひとつとして開かれたと私は考えています。
中世の白峯寺は以前にお話したように「山岳信仰 + 熊野信仰 + 崇徳上皇信仰 + 天狗信仰 + 念仏行者 + 弘法大師信仰熊野」などの修験者や行者・高野聖・六十六部などの聖地で、多くの行者がやってきて住み着いていました。そのような白峰寺の中にひとつのサテライトが神谷神社であったと私は考えています。
 ちなみに神谷神社も明治の神仏分離までは、「神谷大明神」で、神仏混淆の宗教施設で管理は別当寺の清瀧寺の社僧がおこなっていました。
神谷神社 讃岐国名勝図会3
白峯寺古図拡大 神谷神社の背後の三重塔
『白峯山古図』には神谷神社の背後に三重塔が垣間見えます。これは清瀧寺のもので、この塔からも相当大きな寺院だったことがうかがえます。中世の神谷神社が神仏混淆で清瀧寺の社僧の管理下にあったことを押さえておきます。

白峯寺大門 青海天皇社 神谷神社
右下が神谷神社、左下が高屋神社 上が白峯寺大門

神谷集落には額(楽)屋敷という地名が残ります。 ここには、白峯寺の楽人が住居していたという伝承があります。
讃岐の古代の地方楽所としては、善通寺が「国楽所」を担ってきたようです。その後、観音寺などの有力寺社でも、舞楽はじめ舞曲芸能が盛行するに従い設置されます。白峯寺でも「楽所」が、寺領の松山荘内にある神谷周辺に置かれていた可能性があるようです。そうだとすればここからも、神谷明神と白峯寺との関係の深さがうかがえます。

神谷大明神石塔(石造多層塔残欠)
神谷神社の凝灰岩製層塔
 神谷神社の斎庭北東隅には鎌倉時代後期の一対の凝灰岩製層塔があります。
この塔は、もともとは神宮寺であった清瀧寺のものと伝えられます。清瀧寺がいつの頃に姿を消したのかは分かりません。さきほど見たように白峯寺古図には、神谷神社の奥に三重塔が描かれています。これが清瀧寺だったようです。清瀧寺の退転後に現在地に清龍(立)寺が創建されます。

神谷神社 青竜寺 讃岐国名勝図会
青竜(立)寺(讃岐国名勝図会)
青竜寺には阿弥陀如来立像(県指定有形文化財)が安置されています。この胸部内面に文永七(1270)年の墨書銘を記されています。『綾北問尋抄』(宝暦五(1755)年刊)に「五社(=神谷神社)の本地仏(中略)安阿弥(=快慶)の作とも云」と記します。ここからは、この仏がもとは神谷明神の本地仏で、清瀧寺の本尊であったと研究者は考えているようです。
神谷神社 清立寺本尊
青立寺の阿弥陀如来立像(県有形文化財)像高 101㎝
 
胸部内側に造像墨書銘「奉造立志者、為慈父悲母往生極楽也、文永七年巳九月七日僧長円敬白」とあるので、鎌倉時代中期文永七(1270))年の制作であることが分かります。
坂出市史は、この阿弥陀さまを、次のように紹介します。
ヒノキ材の寄木造りである。香川県下ではこの期の阿弥陀像は多数あるが、造像年の明確なのは数体である。なお、梶原景紹著『讃岐国名勝図会』に「阿弥陀堂、本尊(古仏、五社明神の本地なり)当庵は、往古五社明神の別当清滝寺といえる寺跡なり、退転の年月末詳、今清立寺はこの寺を再興せしならん」
とあり、本像が、神谷神社の本地仏であったという。先述の『白峯山古図』には、直接、阿弥陀堂は確認できないものの、神谷明神の鳥居の左側に神谷村の集落が描かれており、その中に清滝寺阿弥陀堂と思しき立派な堂合らしき建物が見える。

 かつての清瀧寺については、よく分からないようです。
しかし、清瀧寺の後に出来た清立(滝)寺については、天霧城の香川氏の家臣の亡命先だったという次のような話が伝えられます。天正年間(1573~)、天霧城主香川信景が豊臣秀吉の四国攻めにより敗れ、長宗我部元親の養子親和と共に土佐に亡命します。その落城時に、家臣何某(香川山城守?)が剃髪し、この地に逃げてきて、清瀧寺を再興し堂宇を建てたのが青立寺、後の清立(滝)寺だと云うのです。

尻切れトンボになりますが、以上をまとめておきます
①神谷神社は磐座信仰に始まり、国分寺ー白峰寺ー根来寺の山岳信仰の行場として、「小辺路」修行の行場ネットワークのひとつであった。
②中世の神谷神社は、神仏混淆下にあり清瀧寺の社僧が別当として管理運営に当たっていた。
③清瀧寺は、白峯寺とは「楽所」や「連歌」、人事交流などで密接な関係にあり、三重塔を有する規模の寺社でもあった。
④鎌倉時代の棟木から神谷神社本堂は鎌倉時代の流れ作りのもっとも古い形式を残す本堂であることが分かり国宝に指定されている。
⑤本堂は中止後半以後、氏子達によって屋根の葺き替えが行われ、管理されてきたことが残された棟札からは分かる。
⑥清瀧寺の退転後は、青竜寺が代わって別当寺となったが社人松元氏の力も台頭し、以前のような支配力を発揮することはなかった。
⑦幕末から明治に境内整備が進み、現在のレイアウトがほぼ完成した。
神谷神社における神仏分離については、文献や史料がなく今の私には分かりません。あしからず。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献   坂出市史 中世編 神谷神社の立地と沿革  206P」
関連記事

このページのトップヘ