瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:福島橋

 丸亀港と云えば福島港を連想します。しかし、福島港が丸亀城下町の看板港になるのは19世紀になってからのようです。福島港がどのように発展してきたのかを絵図で追いかけて見ようと思います。
まずは、時代をぐーんと遡って、丸亀平野の地質から始めましょう。

丸亀平野の扇状地

丸亀平野は、①土器川と②金倉川の扇状地をベースにできています。この二つの川が、暴れ狂う龍のように流れを変えながら扇状地を形成します。それが黄色で現されています。④の丸亀競技状付近がその先端になることが発掘調査からも分かっています。そこから北は、その後の縄文海進や堆積作用で氾濫平野が形成されていきます。つまり、丸亀城のある亀山は、湿原の中にぽっかりと浮かぶ小島のような形であった可能性があります。山北八幡神社の由緒書きには、満潮時には亀山までの波が打ちよせていたと記されているのは前回見たとおりです。裏付け史料として丸亀平野の条里制遺構を見ておきましょう
丸亀平野北部 条里制

 ⑥が丸亀城です。この周囲は真っ白で、条里制遺構はありません。湿地帯で耕地には適さなかったようです。ついてに、亀山が鵜足郡と那珂郡の境界上にあること、③の金倉川流域にも条里制遺構がないことを押さえておきます。 

それでは、亀山の北はどうなっていたのでしょうか。拡大して見ましょう。
丸亀平野 地質図拡大版

  亀山(丸亀城)から北には、氾濫平野が広がりますが、古代には満潮時には海面下になりますので人が住むことは出来ません。人が住めるのは、亀山から西に伸びる微髙地です。現在の南条町あたりになります。
 ここで注目したいのは、海際には砂州①と砂州②が東西に伸びていることです。これは、流路を変えながら金倉川と土器川が運んできた砂が海岸線に沿って堆積したものです。古代には、土器川と金倉川の河口は、砂州で結ばれていたようです。よく見ると砂州①と②は、丸亀駅付近で途切れています。ここが西汐入川の海への出口となります。そうすると砂州①が現在の御供所、平山町になります。そして砂州②の東先端付近が福島町になるようです。
古代丸亀周辺の砂州と流路を見てみましょう。
丸亀の砂嘴・砂堆

砂州①②以外にも、砂州③④⑤があります。この砂州と川の流路の関係を考えて見ます。現在この流域を流れているのは、上金倉を源流とする西汐入川です。この川は、北に向かって流れず東に向かって流れて、丸亀駅の西北で海に流れ出しています。どうして真っ直ぐに北に流れないのか不思議に思っていました。この地質図を見て納得することができます。東西に伸びる砂州が幾重にも待ち構え、西汐入川は北上できないのです。そこで東に流れ砂州①と②の間まで行って、やっと海へ出れることになります。

 この砂州①②は、近世初頭の絵図には、どのように描かれているのでしょうか?

丸亀城周辺 正保国絵図
1644年に丸亀藩山崎家が幕府に提出した正保国絵図です。
通目したいのは、丸亀城の北にある③と④の半島のような地形です。その先端には「舟番所」とあります。実は、③と④が先ほどの地質で見た砂州①②にあたると研究者は指摘します。
これを、同時期に作られた正保城絵図と比べて見ましょう
讃岐国丸亀絵図 拡大

 地質図で見たように砂州①②の間を⑤西汐入川が海に流れ出しています。そして、砂州1・2の先端には、それぞれ舟番所が描かれています。この絵図からは、砂州1の上には、宇多津から移住してきた三浦(御供所・西平山・北平山)の家並みが海沿いに続きます。
 一方、砂州2には番所があるだけで民家の姿は見えません。この砂州2は、西汐入川によって隔てられ「中須賀」と呼ばれていました。この無人の砂州が福島町に発展していくようです。そのプロセスを追ってみましょう。
延宝元年(1673)になって、大工七左衛門ら16人が、藩に中須賀に家を建てたいと願い出ます。

丸亀城下町比較地図41

具体的には、南側の波打ち線際から八間下がったところに幅三間の道を東西に伸ばし、その道に沿い表口10間奥行25間を一屋敷とし、屋敷は船作事場と菜園にしたいという願い出でした。「船作事場」を行うのですから申し出た大工は、船大工だったことが分かります。当時は、塩飽が幕府の海上輸送を独占し、船の需要がうなぎ登りの時代です。その波及効果が海を越えて丸亀城下町にも及んでいたようです。船大工にとって海に近い方が何かと便利だったのでしょう。

 六年後の延宝七年になって、 一戸につき表口五間、裏へ二〇間の屋敷と、西の方では五間に二〇間の菜園場が認められることになりました。その代わりとして、 一屋敷12匁の納入を求められます。これを16戸が負担し、計192匁を町役銀として納入することになります。その際に、戸数が増えても、この金額は変わらないという約束を取り付けます。
丸亀城下町比較地図51

こうして貞享元年(1684)から砂州の上に家の建築が始まります。
3年後には、最初に申し出た16屋敷とほかに8屋敷増えて、計24屋敷がそれまで無人だった砂州に軒を並べることになります。同時に、新しい街の氏神様として天満官を勧進し、共同井戸も掘り、4年後の元禄元年(1688)には弁財天も祀るようになります。
  しかし、浜町から海を隔てた洲浜の地で生活することは何かと不便です。その上、いざというときの藩船の御用にも間に合わないこともあります。
そこで、元禄三(1690)年、濱町と結ぶ橋の架橋願いを出します。
丸亀城 福島町

藩はこれを認めて、銀一貫五〇〇匁を支給します。こうして、藩の普請奉行のもと人足600人が架橋工事に当たります。資金が不足したので、大坂の安古町さかいや惣兵衛から丁銀で一貫目を借りています。さらに町から上納する192匁をこの橋のため用立てることが許されたます。こうして元禄四(1691年2月に橋は完成します。当時の藩主高豊がこの橋を「福島橋」と命名します。この橋名にちなんで、中須賀の町は以後は福島町と呼ばれるようになります。橋の長さは15間5尺で、場所は現在のJR丸亀駅の東の重元果物店の西北の所にありました。
坂本龍馬が渡った福島橋の欄干と常夜燈(丸亀市) | 自然、戦跡、ときどき龍馬
福島橋の欄干と常夜灯
福島橋と町の変遷を、「古法便覧」は、次のように記します。
宝永四年(1707)、福島橋床石垣普請、人足千人ご用立をし、福島側より普請。
享保四年(1719)、福島橋新たに仕替えるため銀五貫目拝借し、無利子十年返済の達しあり
享保六年(1721)福島橋の石垣が崩れ落ちた。橋が長くなったためで、修理のために町と三浦から費用の半分負担を申せ付けられた。
享保十年(1725) 福島にて相撲を行う。
元文二年(1737)正玄寺・善龍寺にて芝居興行が許可、これまで芝居は停止されていたが、福島町は橋修復資金のために興行許可が下りた。
元文三年(1738)橋架け替えのため藩の舟子の道具を拝借したいと、藩の船頭に申し出た。
元文四年(1739)福島橋の銀については大年寄も承知しておくこと。
宝暦三年(1753)、橋修復のため芝居興行を願いでたが不許可。その代わり銀二貫目、無利子拝借し七年返済とした。
同年六月、福島橋開通記念の時に、大年寄・御用聴役らが行列の押えに出るよう求められ、祝儀に 樽一荷、生鯛一折をいただいた
天明元年(1781、橋架掛替と山北八幡官の御祭礼があり、お上より御祝儀として白銀10枚下
された。

これを見るとたびたび架け替え修復が必要だったことが分かります。改修費は福島町の住民負担でした。公共事業だから藩が面倒見ると云うわけではないようです。そのため間役銀・棒役は免除されています。また橋の維持費をひねり出すために芝居興行をひんぱんに催しています。

福島橋の掛け替えについては、次の文書もあります。
一福島橋の儀、先年は春秋両度芝居の徳用銀等を以て、掛替修覆等仕り来り候の処、去る天保午歳掛替の節は入用銀調達相成り難く、拠んどころ無く十八貫目拝借御願ひ中上候の処、 貧町の事故、 その後上納も三、四度にて柳の上納、その余の処は今以て上納に相成中さず候の処、その後弘化三午歳板替の節も過分の入箇に御座候えども、最早拝借の儀も中上げ難く、町内にて色々心配仕り漸く出来に相成り……(中略)
……最早近年の内には、板・欄干等取替中さずては相成り難く、貧町にて右様過分の入箇まで引受け罷りあり候儀も御座候につき何様にても、以来の通り定間割に仰せつけなされ下され度く候事
安政三丙辰十一月                     福島町
意訳変換しておくと
福島橋の件について、前回は春秋の度芝居の徳用銀収入で、掛替修覆費を賄いました。また天保の掛替の時にはは入用銀調達が困難で、仕方なく十八貫目を拝借しての掛け替えとなりました。貧しい町のことですので、 その後の上納も未だ完済できていません。その後、弘化三の橋の板替の時も過分の援助をいただいており。これ以上拝借することもできません。町内では、色々と心配しております。(中略)
……最早近年の内には、板・欄干などの取替を行わなければなりません。貧町の福島町には過分の出費を負担することもできませんので、これまで通りの定間割を仰せつけていただけるようにお願い申し上げます。
安政三(1856)年十一月                      福島町

 ここからは、福島橋の修復が町民のおおきな負担であると同時に、橋修理費を捻出するために芝居や相撲の勧進を町を挙げて行っていたことが分かります。それが町民の団結力となっていたのかもしれません。

 西讃府志には、戸数198、人口989(男490、女499),馬3。寺は白蓮社・大師堂・庵、神祠は天満宮2・弁財天、白蓮社が玄要寺院内より移されています。庵は西山寺へ、天満宮と弁財天は寛保元年に合祀(現市杵島神社)して、福島弁天として信仰を集めるようになります。町の東側に船着き場があったので、金毘羅参拝客の増加と共に繁栄するようになります。
福島町が表玄関になるのは、文化3年に福島湛甫が作られてからです。

丸亀城 福島町3

福島湛甫は東西61間・南北50間・入口18間・満潮時水深1丈余で、役夫延5万人余・此扶持米485石余・石工賃銀18貫の経費で完成します。丸亀繁昌記には、材木問屋が軒を並べて賑わう湛甫近辺の様子が記されています。福島湛甫の完成で、丸亀港の航行が容易となり安全性も高まります。さらに、金毘羅船で上陸した旅客は福島町内を通り浜町方面へと向かうため、町内の旅籠、土産物屋などが急増し福島町は、その目抜き通りとしてにぎわうことになります。それまでは、御供所の東汐入川の川口に入港していた客船は、この福島湛甫を目指すようになり、西汐入川川口に繋留されるようになります。金毘羅船の船着き場も移動したようです。

丸亀城 福島湛甫

 以後、金毘羅船の発着で幕末に向けて飛躍的な発展を遂げることになります。その利益をもとに、持舟をもち、海上商品輸送などに乗り出していく商人も増え、丸亀の商業的中心になっていきます。
丸亀城 今昔比較図

この橋がなくなるのは、浜町と福島町の間の西汐入川が埋め立てられてからのことになります。それは、明治43(1910)年の西汐入川付け替え工事が始まるまで待たなければなりませんでした。これについては以前にお話ししましたので、絵図だけ紹介しておきます。
丸亀市実測図明治 注記入り

明治34年 鉄道が通過し丸亀駅が完成。その裏を西汐入川が流れています。

11929年(昭和4年)

丸亀駅の裏を流れていた西汐入川のルートが変更されました。そして旧川跡は埋め立てられ新町となります。
以上をまとめておくと
①古代の丸亀城のある亀山は、湿地の中に浮かぶ島で、海岸線には東西に砂州が伸びていた。
②そのため古代は耕作地としては適さず、条里制遺構も残っていない。
③近世には砂州①の背後は畑地として耕作されるようになり、砂州①上には宇多津からの移住者の家並みが海沿いにならぶようになった。
④西側の砂州②は中須賀とよばれる無人の砂地であった
⑤そこに船大工たちが家と作業所を建てて暮らし始めると、人々が移り住むようになった
⑦不便なために藩に申し出て橋を建設し、その橋を藩主は福島橋と命名した。そのため町の名前も福島町と呼ばれるようになった。
⑧福島湛甫ができると金比羅船の発着として発展するようになり繁華街となった。
⑨資本蓄積を重ねた商人の中には、持ち舟を持ち商業資本として活躍する者も現れた。
⑩明治になって鉄道が通過するようになり駅裏開発のために西汐入川が埋めたてられ「新町」となった。
⑪こうして福島橋は、お役御免と成り撤去された。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 丸亀市史4近世 

丸亀駅裏に「新町」ができるまでのお話

「丸亀駅近くの線路の北側は明治の末ごろまでは海であった。福島町はそこに浮かぶ中洲だった」と聞きました。本当でしょうか?
丸亀城絵図56
 『讃岐国丸亀絵図』(正保年間(1644年)
上の絵図は、正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させたものです。城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれています。その他にも城下の町割・山川の位置・形も載されています。丸亀藩も幕府の命を受けてこの絵図を提出したと思われます。原図サイズは、東西217cm×南北255cmとかなり大きなものです。
丸亀の海岸線17世紀
この絵図で注目したいのは海に面した北側(下側)です。海際には砂州が広がり、その南側を汐入川が西から東に流れています。現在の丸亀駅は海の中です。その北に広がる塩屋町は、近世以後の開拓で陸地化されたようです。江戸時代には、丸亀駅の北側には旧四条川がもたらす堆積物で塩屋の方から突き出た洲浜が続いていたことが絵地図からも分かります。この洲浜を中須賀と呼び、浅瀬を挟んで浜町と向かい合っていました。ここは誰も人の住まない砂嘴(さし)の先端でした。1658年(万治元年)山崎氏は3代で断絶し改易となり、代わって京極高和が播磨龍野より入ってきます。その2年後には、現在の丸亀城天守が石垣の上に姿を見せます。

中須賀に最初に家を建てたのは塩飽大工たち?

1 讃岐国丸亀絵図部分図

「福嶋町由来書」には、京極藩の支配が固まっていく中で大工十六人が、この中須賀に家を建てることを願い出て、許可され移り住んだことが記されています。最初に家を建て住み着いたのは、塩飽の大工達のようです。当時の丸亀は、京極氏の移封に伴う建築ラッシュで、塩飽大工が仕事を求めて丸亀城下に数多く入っていました。彼らが島に近いこの地に「進出・移住」しようとしたのでしょう。その後、この中須賀へ移住する者が相次ぎ人口も急速に増えます。
二年後には天満宮を、さらに弁天財をここへ移し中須賀の氏神としました。その後も中須賀へ移住するは増え続けますが、海を隔てて不便なので1691(元禄四)年に長さ約二八・八㍍の橋が初めて架けられます。
当時の二代藩主京極高豊は、この橋を福島橋と名づけました。
同時に中須賀といっていたこの中洲は福島町と改められたのです。橋ができて便利になっため、そして湊に近いという利便さ、
さらに庶民の町としての生活のしやすさなどから、
この中洲は最初に十六戸が移住してから約十年後の元禄六年には、家や人が百倍にもなったようです。
当時の福島町の景観は?
 このころの絵地図からは、福島の南岸と北岸には松林が東西に続いているのが見えます。南岸の松林は、現在の弁天通の南側に沿って東西に続き、松林の西には弁財天の祠があり、東には天満宮が見えます。その後、天満宮と弁財天を1力所に合わせ祀ります。
丸亀新堀1

これが現在の厳島神宮天満宮(福島町)です。後には、ここで日照りの年には雨乞いの祈願もするようになり信仰の中心になっていきます。
イメージ 1
厳島神宮天満宮(福島町)

金比羅詣での湊として繁栄する福島町

Ã\¤§Ã\‚からの玄関Ã\£ã¨ãªã£ã¦ã„た丸亀の湊
丸亀湊の賑わい(右が福島湛甫、左が太助燈寵のある新堀湛甫)
時代とともに金比羅参詣の客が増えて「金比羅船船 追い風に吹かれてしゅらしゅしゅしゅ」の通り、福島町は繁栄していきます。
1806(文化三)年には、北側に船の停泊所が築かれます。
福島湛甫といわれ、東西111㍍・南北91㍍・東側にある入口32㍍、深さ3㍍の大きさで、太助燈寵のある東側の新堀湛甫より27年も前のことです。つまり、新堀湛甫が作られるまでは、金比羅詣での参拝者は、福島湛甫に上陸し福島の町を抜けて福島橋を渡り、金比羅への道を歩み始めたのです。
両宮橋の架橋
 こうして、福島が栄えるにつれ、多くなった通行人を福島橋一つでは賄いきれなくなります。そこで、その西に簡単な橋を架けることになりました。この橋は福島の天満宮と浜町の船玉神社との間に架けられたので両宮橋と人々は呼びました。現在でいえば、新町にある松田書店のあたりから南へ架けられていたようです。福島町には弁天筋、大井戸筋、榎木町、暗夜小路、材木町などの幾筋もの町筋が並ぶようになります。
丸亀新堀1
福島湊と福島町の街並み その向こうに福島橋が見える
確かに福島町は近世まで中洲であったようです。それが金比羅詣での盛況ぶりに合わせるかのように発展してきた町だったのです。それでは福島町と丸亀駅の間にあった「海」は、どんな状態だったのでしょうか?

2丸亀地形図

現在の丸亀駅のすぐ北は満潮時の深さは2,5㍍ほどでの海浜で、西汐入川が西から東へ流れ海に注いでいました。旧藩時代には、福島町弁財天社と浜町との間は藩の船隠しで、御召船泰平丸、住吉丸、御台所船浪行丸、先進丸。出来丸、幸善丸、白駒丸、その他漕船、小遣舟などの船体を繋留した所でした。南の浜町側には船の倉庫が十以上もあり、その関係の役所や長屋・小屋などが建ち並んでいました。ここが船手浜之町ですが、人々は俗に「船頭町」と呼んだようです。
丸亀城下葛1828年

それでは、福島町が陸続きになったのはいつなのでしょうか?
 それは明治の鉄道建設と関係があります。
1889(明治二十二)年、琴平まで讃岐鉄道が開通した時の丸亀駅は始発駅で、現在地よりは250㍍ほど西にありました。それから8年後に鉄道が高松まで延長されます。その際に、駅は現在地へ移りそこにあった「船手浜之町」の跡は消えます。しかし「船頭町」と呼ばれていた町の名は、その後も長く残ります。
丸亀地図 明治
 20世紀を迎え日露戦争に勝利すると、本格的な近代化の波が瀬戸の港にも押し寄せます。こうしたなかで、丸亀史は市は1909(明治41)年から西汐入川の附け替えと港湾の大改修に着手します。その手順は以下の通りです。
1 浜町銀座通りの鉄道線路までの丸亀港の浚渫、
2 西汐入川河口の埋め立てと福島湛甫の西側一帯の埋め立て(広島方面行き三洋汽船発着場の西)
3 現在の流路への西汐入川の附け替え
 先ず港の浚渫によって出てくる土砂で西汐入川河口と福島湛甫の西側を埋め立てます。同時に、駅の方へ流れていた西汐入川を藤井建材店の所から流れを北へ変え、現在の流路にする工事でした。
この西汐入川の附け替えと埋め立てによって、水によって隔てられていた福島町は陸続きとなりました。

丸亀古城図1802年
また埋め立てられた海(河口?)には、新町もできました
新町は名の通り埋め立てによって1912(大正元)年に新しくできた町なのです。この結果、西汐入川河口に架けられていた福島橋と両宮橋は不要となりました。福島橋の石造欄干は東汐入川の渡場の欄干に使われていましたが、これも今では、その一部が資料館に保存されているそうです。この欄干が福島町(島)と丸亀城下を結ぶ架け橋だった時代があったのです。今から百年前以上のことになります。
参考文献 丸亀の歴史散歩

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