弘化4(1847)年に『金毘羅参詣名所図会』が発行されます。
この図会は、大坂の戯作者である暁鐘成が出版したもので、画家の浦川公佐を連れて、実際に讃岐への取材旅行をおこなっています。53歳の真夏の事なので、暑さのために大変な旅でもあったようです。 金毘羅参詣名所図会は、今では香川県立図書館のデジタルライブラリーで見ることが出来ます。これを使って、丸亀港に上陸した暁鐘成や浦川公佐が見た19世紀半ばの丸亀街道を追体験していこうと思います。図会は全6冊で、第一巻冒頭に次のように記されています。
「丸亀港に渡る参詣人の多くは、浪華から船で向かう者が多いため、まずは船中からの眺望の名所を載せた」
「摂津・播磨の海辺については以前出版されたものに詳しいため、今回は備前の海辺から著すこととした」
ここからは、上方から金毘羅船で丸亀を目指したことがことが分かります。そして「浪華川口」のあとは、一気に「虫明の迫門(せと)」に飛んで、備中の喩伽山や瀬戸の島々などがが取り上げられ、1巻目は備前で終わります。
丸亀からの金毘羅詣でが描かれるのは2巻目です。
金比羅船の構造や大きさを見ると、19世紀前半に弥次喜多コンビが金比羅詣でに乗船した船は、上廻りに屋形がなく、苫がけ船だったことは以前にお話ししました。しかし、ここに描かれた金毘羅船は垣立が高く、大型の総屋形船になっています。これは樽廻船を金毘羅船用に改造したものと研究者は考えています。文化から弘化・嘉永期の40年の間に、船も大きく典型的な渡海船になったことが分かります。定員も数人だったのが何倍にも増えたことでしょう。金比羅船にも「大量輸送」時代がやってきていたようです。 この動きをリードしたのが大坂の平野屋左吉です。彼は、もともとは安治川の川口の樽廻船問屋でした。樽廻船を金毘羅船に改造して、堺筋長堀橋南詰に発着場を設けて、金毘羅船を経営するようになり急成長していきます。
次のページを開くと、入港地の丸亀港が向かえてくれます。
丸亀港 金毘羅参詣名所図会
瀬戸内海上空から南の丸亀城を眺めた構図になっています。当時の絵図の流行は俯瞰図です。立体感のある俯瞰図は居ながらにして、風景が絵図で楽しめます。ドローン映像で、旅番組の構図が大きく変わったのと同じような意味を持っていたのではないかと私は考えています。
ここでも正面に右(西)側に福島湛甫(文化3年1806竣工)、左(東)に新堀湛甫(天保4年1833竣工)とふたつの港が描かれています。そして汐入川の河口を遡った奧には丸亀城がどーんと控えます。絵になる光景です。新堀には、2つの大きな燈籠も並んでいます。どちらかが現在の太助灯籠になるようです。
那河郡円(丸)亀湊讃岐国北の海浜なり。大阪より海陸ともに行程凡そ五十余里、下津丼より凡そ五里。当津は幾内条より南海道往返の喉口なるゆへ象頭山の参詣、大師霊場の遍路、其のほか南海に到るの旅客、摂州浪花津より乗船の徒は言ふも更なり。陸路を下向の輩も或は田の口下村より渡り、又は下津丼より越る等何れも此方に着岸せずと言ふ事なし。されば東雲の頃より追々浪花よりの入船、向ひ路よりの着船引もきらず。又黄昏時よりは向ひ路への渡海、登船の出帆有りて船宿の賑ひ昼夜を分ず、浜辺の蔵々には俵物の水揚産物、積送の浜出し仲仕の掛声、船子の呼声藁しく湊口には縦横に石の波戸ありて紫銅の大灯籠夜陰を照し、監船所の厳重、浜々の石灯籠、魚市の群集、御城は正面の山岳に魏々として驚悟しく、内町には市邸軒をならべ交易にいとまなく、就中、籠の細工物、渋団、円座なんど名物也とて讐家多く、旅客かならず需めて家土産とするなど街の繁栄、実に当国第一の湊と言ふべし。城下の封境、寺院、神社の類ひは後編に委しく著はせばこゝに洩す。
意訳変換しておくと
丸亀港は讃岐国の北の海浜に位置する。大阪より海陸ともに行程およそ五十余里で、対岸の備中下津丼からは5五里程である。この港は、上方からすると南海道往来の喉口になる。そのために金毘羅象頭山の参詣、四国霊場の遍路、その他の南海への旅客など、摂州浪花津より乗船する人々が数多くいることは知られたところである。陸路山陽道を下る輩も、児島の田の口下村や、下津井から船で渡ってこの港に着岸することは言うまでもない。そのため東雲の朝から浪花からの入船や、対岸備中路よりの着船が引もきらず行き交う。また、黄昏時からは備中からの渡海や、上方への上船の出帆も多く、船宿の賑わいは昼夜を分つことがない。浜辺の蔵々には俵物の水揚産物が収められ、積送の浜出し仲仕の掛声や船子の呼声が賑やか飛び交う。湊口には、縦横に石の波戸(堤防)が築かれ、その上に建立された紫銅の大灯籠が夜陰を照す。監船所(船番所)が置かれ、浜々の石灯籠、魚市の群集が浮かび上がる。丸亀城は背後の山々を従えて港の正面に建つ。内町には市邸が軒をならべ交易にいとまがない。そこでは、籠の細工物、渋団、円座などの讃岐の名物などを売る店が多く、旅客は必ず土産に買い求めていく。丸亀城下町の街の繁栄は、実に当国第一の湊というにふさわしい。城下の封境、寺院、神社などは、後編に委ねることにして、ここでは省略する。
〔閑田耕筆に守興和尚が話に云ふ〕
備前の下津居より船にて丸亀へ渡る。海上丸亀近くなりてはるかむかひに五尺斗りなる黒き澪標みゆさも深かるべき所に、いかに長き木をうちこみて斯くみゆるばかりにやと怪しくて船頭にとわれしかば、船頭見てあれは大亀の首を出したるなり。空曇なく海長閑なる日はかく首を出し、あるひは全身をも現す。昔より大小二亀すみて大なるは廿畳じきほどもあらん。小なるもさのみ劣らず、此のものゝ住めるがゆへにこゝを丸亀とは名付たりと語りしと云々。
意訳変換しておくと
備前の下津居から船で丸亀に渡っていたときの話です。丸亀が近づいてきた頃に、海の上に五尺ばかりの黒い澪標が打ち込まれたように突き出ていました。それはまるで、長い木をうち込んだようにみえたので、不思議に思って船頭に聞いてみました。すると船頭は次のように応えました。「あれは大亀が首を出しているんですわ。空に曇や風がなく、海が穏やかな日には、あんなふうに首を出します。時には、全身を現す時もあります。このあたりには、昔から大小のふたつの亀が住み着いていています。大亀は二十畳敷ほどにもなります。小亀も、それと変わらないでしょう。この亀たちが住みついているので、ここはを丸亀と名付たようです。
土器川河口の川口湊
そのため福島湛甫が作られます。もとの船着き場でであった土器川河口周辺は、宇多津・坂出から移住させられた三浦(御供所・西平山・北平山)の人々が船宿や茶屋を営業して繁盛していました。彼らはただの漁民でなく、中世以来の海上運送業も数多くいて、商業活動を行っているものもいたのです。福島に港が移動するときには、彼らも移ってきたようです。さらに金毘羅船が大型化すると、港が浅い福島湛甫では入港できなくなり、新たに新堀湛甫が作られたとようです。福島湛甫=小型船、新堀=大型船という棲み分けがあったのかも知れませんが、絵図上からは読み取ることはできません。
福島・新堀のふたつの港から上陸した客は、まず船宿に入り、船旅の疲れをいやし、陸路の準備をします。
弥次喜多コンビの金比羅詣での際にもお話ししたように、船宿は金毘羅船の梶取りや船主が経営したり、タイアップしていました。そのため客は、船頭に連れられてそれぞれの宿に入ります。当時の引き札を見ると、大坂と丸亀・金毘羅の船宿が数軒ずつ並んで載せられています。ここからは大坂出発時点で、丸亀や金毘羅の宿か決まっていたことが分かります。つまり「金毘羅船の乗船券+丸亀・金毘羅の宿」がセット販売されていたことになります。
旅人は、三里(約12㎞)の道を歩いて金毘羅へ向かう身支度や携行品の準備を宿で行います。
丸亀より金毘羅・善通寺・弥谷寺道案内図 版元原田屋
旅人は、三里(約12㎞)の道を歩いて金毘羅へ向かう身支度や携行品の準備を宿で行います。
多くの参拝客は、金毘羅だけでなく善通寺・弥谷寺の七ヶ所巡りをして、丸亀に帰ってくるルートを宿に勧められるとおりに選んだので、不用な荷物は宿に預けたようです。宿は旅人のために、飲食物の供給、休憩・娯楽場所の提供、旅行用具・土産物の販売や接待に努めます。その以前に紹介した「金毘羅案内図」を無料で手渡しながら次のように勧めたのでしょう。
「金毘羅さんだけなく、この際に弘法大師のお生まれになった善通寺もぜひご参拝を」「弥谷寺などの七ヶ所廻りも地元では、お参りするする人が多いですよ」「お土産は途中で買うと、手荷物になって不便ですから、船に乗る前に当店でどうぞ、お安くしますよ」
丸亀港の船宿を出た後に描かれるのが次の絵図です。
丸亀街道 三ッ角(みつかど)の分岐点 金毘羅参詣名所図会 金毘羅街道を馬に乗った参拝客が馬子に引かれて集団で進んでいます。進行方向は右から左のようです。その行く先の左上に山北八幡が見えます。また、右上には田村の集落を貫いて金毘羅街道が伸びています。そして右端中央には、田村池の東側の堤防が見えているようです。ここには枝振りのいい松があり、その下には大きな道標や常夜灯が並んでます。ここは、いったいどこなのでしょうか? 最初、私には分かりませんでした。金毘羅街道は、南に伸びているものという先入観があったからです。本文を読んでみましょう。
金毘羅参詣名所図会2巻 三軒家
中府口
城下南の出口にして則ち金毘羅参詣の道条、是より行程百五十町と云ふ。中府村
城下の門外にて市中続きの在領也。左右人家建ち列り農工商ともに住す。三軒家
中府村の中なり。昔は僅か三軒のみなりしが繁栄に付き、今は人家軒を並べり。故に其の旧名をよべり。此所より道すじ左右に分れり。右は伊予街道にして善通寺に至る者は是に赴く。左は金毘羅参詣の往還にして道標の石、奉納の石灯籠等道の傍辺にあり。象頭山参詣の道条中府口より百五十丁の間は、都て官道にひとして路径広く高低なく、老幼婦女等も悩まざるの平地なり。其の上傍らの在郷より農夫あまた馬を引いで参詣の旅客を進めて乗らしむる事、三方荒神の櫓にして馬士唄うたひ連て勇める形勢、恰も伊勢参宮の街道に髣髴たり。
意訳変換しておくと
三軒家
三軒家
中府村の中で、昔は三軒だけした家がなかった。それが今では繁栄して、人家が軒を並べるようになった。ここから道筋に行くと、街道が左右に分かれた三叉路になる。右が伊予街道を経て善通寺へつながる道である。左が金毘羅参詣の往還で、道標や燈籠などが並んでいる。
象頭山参詣の道中で、中府口より百五十丁の間は、全て官道のようなもので路径は広く高低ないので、老幼婦女等にも容易な平地である。その上、在郷の農夫が馬を引いて参詣旅客に乗ることを勧める。三方荒神の櫓をつけて馬子唄を謡って、連れだっていく姿は、あたかも伊勢参宮の街道を彷彿とさせる。
ここからは、この絵図が三間茶屋のすぐ南の三叉路であることが分かります。中府の大鳥居から400m程南へ進むとあるドラッグストア前の変形十字路(三つ角)です。明治初期までは南へ直進する道はなく、ここは行き止まりでT字の三叉路でした。そのため、この辺りは三ッ角(みつかど)とも呼ばれていたようです。ここが、伊予街道との分岐点だったようです。右(南西)へ進むと伊予街道です。ここに大きな道標や常夜灯があり、金毘羅街道と伊予街道への分岐点でもあったようです。
そして、金毘羅街道は、三ツ角から山北八幡方向にむけて東へ進みはじめるのです。そして、県道33号線(旧国道11号線)を横切った後、骨付き鶏「一骨」のある丸戸の交差点まで東進し、そこで方向を再び南に変えます。つまり、ここまでのルートは丸亀城の西側を迂回してことになります。丸戸の交差点からは丸亀平野の古代条里制に沿って、ほぼ真っ直ぐに南下していきます。その南下する方向に田村池と田村集落が描かれいることになるようです。
上図が三軒家の三ツ角 「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」
原田屋版の案内図に描かれている三軒家の三ッ角(みつかど)を見てみましょう。背後には田村池が描かれています。そして丸亀城の中府口からの道と三叉路でまじわった所に大きな道標や常夜灯が描かれています。西に伸びる道は金倉川を越えて「永井清水」で善通寺への金比羅多度津街道と交わります。ここが永井の交差点のようです。伊予街道はさらに鳥坂方面に続きます。
⑨の三軒家の三ツ角 「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」の拡大図
丸亀方面(北)からやってくると、左側の標識には右 イヨ右側の標識には、
左 こんぴら江
右 弘法大師 善通寺と記されています。
最後に、参詣者を載せている馬と馬子を見ておきましょう。
枠付馬(三宝荒神の櫓)に乗った参拝客
丸亀港に金比羅船が着くと、争って客引きをしたのが馬方と駕龍屋のようです。駕龍は二人で担ぐ二枚肩の打ち上げ駕龍が普通でした。馬は枠付馬で(三宝荒神の櫓という)三人まで乗れました。駄賃は三人で三分、酒代一朱でしたが、馬子たちは客の懐を見て値を付けていたようです。馬や駕寵の終点は、金毘羅二本木の銅鳥居の下で、現在の高灯籠のところです。三方荒神の櫓に揺られながら馬子唄を謡って、連れだっていく姿がここには描かれています。馬子唄がどんな歌詞で、どんなメロデイであったのかを今は知ることはできません。
今回は三軒屋の三ッ角(みつかど)までとなりました。以下は、またの機会に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 丸亀市史 819P
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