瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:秀吉の四国出兵

「秀吉の四国平定」の讃岐侵攻については、「黒田家譜」や「改選仙石家譜』、「森古伝記」などの編纂資料を比較すると、多少のちがいはありますが、その推移はほぼ一致します。それを整理すると次のようになります。

四国征伐・宇喜多軍
           宇喜多軍の進撃ルート 讃岐を通過して阿波へ (黒 毛利軍)

秀吉の四国出兵 讃岐方面

ここからは東讃では、長宗我部方の抵抗はほとんどなく、短期間で軍事行動は終わったようです。宇喜多勢が植田城を放置して阿波に転戦できた背景には、讃岐東部には十河氏や安富氏をはじめとす反長宗我部勢力がいたことがあげられます。放置して通過しても、十河・安富氏がいるから大丈夫と判断したからでしょう。長宗我部軍による東讃制圧から僅かに期間で、地に根を支配体制がまだ出来上がっていなかったと研究者は考えています。
それを裏付けるものとして、秀吉軍の上陸を手引きをした香川郡の横井氏がいます。
横井家家系 丸亀市今津
羽柴軍を手引きした横井氏の系図

横井家の先祖は香川郡東横井村(高松市香南町)に住んで、讃岐守護細川氏の重臣であった尾池氏に従う土豪クラスの武士だったようです。天正年間の長宗我部侵攻の際には、当時の当主がこれ戦ったことが分かる文書もあります。そして秀吉軍の四国侵攻の際には、その手引きをしたことを示す文書も残っていることは以前にお話ししました。そのことが記されているのは天正13(1585)年5月4日付けの横井家当主の丹後守(正元)宛ての羽柴秀吉書状案です。横井家のものは秀吉朱印でなく花押ですが、その内容は「来月三日」の四国渡海による作戦開始を伝え、讃岐の丹後守(横井元正)に具体的な作戦行動を指示したものです。そのミッションとは、小豆島に滞陣する仙石権兵衛の四国渡海の案内手引きをせよということです。ここからは横井氏が小豆島に亡命中の安富氏や十河氏と連絡をとりながら諜報活動等を行っていたことが見えて来ます。横井元正は、この書状を受け取ると同時に、仙石氏の屋島上陸作戦に備えるための行動を開始したことでしょう。そして、長宗我部方の城の情報なども伝えたのでしょう。このような反長宗我部方の土豪たちが東讃には数多くいたようです。ここからも長宗我部元親による東讃支配は不安定だったことがうかがえます。
 こうして屋島に上陸した宇喜多直家軍は、限定的な戦闘だけで阿波に転戦していきます。阿波が主戦場で、讃岐は通過のみのような印象を受けます。このように軍記ものに出てくる秀吉の讃岐侵攻は東讃だけが舞台で、それも植田城を放置しての「通過」として記されています。
書かれていない西讃方面は、どうだったのでしょうか? 
 具体的には、長宗我部氏と親族関係を結び同盟関係にあった天霧城主香川氏に対しては、秀吉はどのような対応をとろうとしていたのでしょうか? 従来は、秀吉の四国出兵の際の讃岐攻めは、東讃だけが想定戦闘エリアとされてきました。つまり、香川氏に対しては、兵力を差し向ける意図もなかったというのです。それに再考を求める【史料】を見ておきましょう。
前回も見た毛利方の吉川元長が国元に送った書簡には、次のように記されています。
毛利軍の天霧城攻撃目標設定史料

意訳変換しておくと

「また阿波方面については、羽柴軍が一宮・岩倉・脇城を取り囲んでいるが、これらも近日中には落城するだろう。そうすれば、(香川氏の居城である)雨霧城にも兵を差し向けることになろう。それで、阿波・讃岐・伊予の三国共に決着することになる。

ここには阿波戦線が片付けば、香川氏の居城雨霧(天霧)城への攻撃も予定されていたこと、そして香川氏を叩いて、四国平定の決着をつけると認識していたことがうかがえます。しかし、天霧城攻めは、それよりも先に長宗我部氏が降伏したために実行されませんでした。それでも和議成立後の8月には、羽柴秀長と小早川隆景が実際に「西讃岐」まで赴いて、香川氏と面会したようです。ここからは秀吉の戦略上の想定に讃岐西部が含まれていたと研究者は判断します。

香川氏の安芸亡命
香川氏は天霧城落城後、毛利を頼って安芸亡命 帰国は元吉合戦の時であった。

それでは香川氏は、羽柴軍や毛利軍の動きをどのように警戒していたのでしょうか?
三野郡の秋山氏に宛てた(香川)四郎五郎の書状を見ておきましょう。
毛利氏の伊予侵攻 香川氏の警戒

意訳変換しておくと
 戦況に対する情報がもたらされたので伝えておく。秋山氏が派兵した兵力について、早々の帰還についてを羽久地(白地)の長宗我部元親にお伺いしたところ、近々に帰還予定とのことであった。なお、油断することなく細心の対応をすること。櫓などの修築なども怠らないこと。観音寺方面の情勢については、油断のないように注視・対応すること、新居・西条あたりからは今朝より、兵火が上がっているようだ。伊予方面の情勢を今後も注意深く見守ること。
 与岐(余技崎)・ミの(箕浦)浦に煙(狼煙)が立ちのぼっているという報告も受けているが、その実態は分からない。観音寺については、主人が留守でであるので、その動向を注視したい。三孫(三野氏)へも、その旨のことを伝え、警固を強化するように指示した。明日にも、柞田・観音寺方面で軍事的な動きが発生することも考えられる。西表之衆(反長宗我部勢力?)が集結し、進軍してくることもありえる。そのために観備(観音寺香川氏)と連絡を取り、協議しておく必要ある。与次兵が帰還して、詫間衆へは連絡がついている。大見(秋山氏?)には番衆を派遣した。 くれぐれも貴所次第被相談候へと被仰候、其御心得候て、可然様御才覚肝要候、西表之事も其分別たるへく可被仰談候、恐々謹言、      
 (天正十三(1585年) 七月十九日                                (香川)四郎五郎(花押)
(秋山)木工御宿所
ここからは次のような情報が読み取れます
①天霧城の香川氏の関係者である「四郎五郎」から、三野の秋山氏(木工)への書簡であること。
②毛利軍の伊予上陸で戦闘が激化し、新居・西条あたりで火災が起きていること
③伊予との国境の与岐(余技崎)・ミの浦(箕浦)からの煙(狼煙?)が上り、三豊地方に軍事的な警戒感が強まっていること
④「三孫(三野氏)」や「観備観音寺(香川)備前守)」を、香川氏配下の自軍の者としてあつかっていること
⑤それに対して、観音寺方面の軍勢を「西表之衆」と呼んでいる
⑥香川氏が派遣した軍勢の帰還に「羽久地(白地=長宗我部元親)」の指示が必要になっていること、

天霧城3
香川氏の天霧城
西方で発生した兵火が新居や西条方面ものであることは、日付からみて金子元宅が籠る高尾城攻めの戦火と研究者は考えています。その根拠は次の通りです。
A 金子氏の高尾城落城は17日夜の出来事である(【史料】「十七日亥刻落去仕候」)
B 翌18日以降にもたらされ伊予東部の異変に関する報告
C その報告への返書が、19日付のこの四郎五郎書状
つまり、この史料に年紀は入っていませんが、天正13(1585)年のものと研究者は判断します。この香川氏の書簡からは、毛利勢が伊予制圧後に讃岐方面に東進してくるのではないかと警戒を強めていたことが分かります。そして、配下の三野氏や秋山氏、「観備観音寺(香川)備前守)」と連絡を取り合いながら、軍勢配置を確認するとともに、防御施設の準備を進め、毛利軍の侵攻に備えています。ちなみに観音寺方面の敵対する軍勢を「西表之衆」と表記しています。これがどのような勢力を指すのかも、今の私には分かりません。
 この史料からは、秀吉の「四国平定(出兵)」が今まで言われてきたように、讃岐東部に限定した作戦でなかったことが分かります。東讃を通過した宇喜多勢は、一旦阿波へ転戦しますが、長宗我部氏の出方次第で、香川氏を攻めるために西讃にやってきて、三豊も戦場となる可能性があったのです。このあたりのことは、南海通記などの軍記ものでは何も触れていません。

 次に、秀吉が戦後の讃岐支配について、どんな指示を出していたかを見ておきましょう。
  8月4日ニ「秀吉は「四国国分」の構想を弟秀長に書状で伝えています。その中で讃岐に関する部分を抜き出したのが次の史料です。
羽柴秀吉朱印状写(部分)「毛利博物館所蔵毛利家旧蔵文書」
一、淡路事ハ心安者を可置候間、野口孫五郎(長宗)儀ハ小六(蜂須賀家政)与カニいたし、只今淡路にて取候高頭辺二弐三千石も令加増、小六与カニ可仕候、其仔細ハ千石(仙石)権兵衛尉二つけて讃岐へ可遣候へ共、さぬきハ安富又(又三郎)・十川孫六郎(存保)両人者為与力、権兵衛二可引廻由申出候、其国ニハ与力類一人も在之間敷候間、担々孫五郎事目をかけ可馳走事、(略)

一、権兵衛可申間儀ハ安富忠切越候間、郡切二いたしいつれの方へ成ともかたつけ安富二遣可申由、前廉に可被申聞候、但於大坂国儀をも聞届、権兵衛安富召寄知行所々可相定事、
意訳変換しておくと
一、淡路については、信頼できる者を配置したい。ついては、野口孫五郎(長宗)は小六(蜂須賀家政)に味方し、淡路の筆頭知行主となっているが、それにさらに高頭辺りに2,3千石を加増して、小六の与力としたい。仙石権兵衛(秀久)には、讃岐を与え、その与力として安富又三郎・十川存保の両人を配する。讃岐には与力となる者が一人も居ないので、孫五郎に目をかけ褒美を取らせること。(略)

一、仙石権兵衛に伝えることは、安富氏は忠節な働きぶりだったので、讃岐のどこかの郡を分割して、安富に知行させることを前廉に申し聞かせておくこと。ただ大坂のことも聞届け、権兵衛が安富氏を召寄て知行するような形をとること。

ここからは次のような情報が読み取れます。
①秀吉が弟秀長に、讃岐のことについて指示を出していること
②讃岐は仙石秀久に与えるが、国衆で信頼できる者が少ないので、安富又三郎と十河存保を与力と育てること
③安富は「忠切(忠節)」であったので、 一郡を与えて知行として与えること
④安富・十河の両氏以外に、秀吉の目から見て信頼できる国衆が讃岐にはいなかったこと

仙石秀久に讃岐を与えることが指示されています。そして、与力として、安富氏と十河氏をつけるとことが記されています。しかし、占領した緒城の扱いなどについては何も触れていません。これについては、各地の城についてまで詳細な指示を出していた阿波の戦後占領方針とは対照的なことを押さえておきます。
 こうして讃岐には秀吉の命を受け仙石秀久が入部しています。仙石氏は、最初は宇多津の聖通寺城に入城し、讃岐東部に拠点をもつ十河氏、安富氏を与力とします。
それでは、無傷のままに接収した天霧城はどうなったのでしょうか?
先ほど見た史料の中に「讃州■吉・雨霧可取懸との由候」とあったように、天霧城攻めが当初の攻撃目標にリストアップされていたことは確かです。しかし、無傷で残った天霧城を、仙石氏が活用したという痕跡はありません。
 ここからは、秀吉の西讃への軍事行動は城主香川氏を標的とした作戦であったと研究者は考えています。その背景には、長宗我部元親の次男が香川氏を継いで、長宗我部元親の同盟軍として讃岐制圧を行ったことへの報復・見せしめ的なものではなかったかと云うのです。それは、前回見た伊予の金子氏と同じ立場であったことになります。そうだとすれば、香川氏は秀吉に降伏しても、厳しい措置が待ち受けていたはずです。その後の仙石氏や生駒氏に登用される道も閉ざされていたことになります。在野に下っても、「長宗我部元親の手先」として厳しい世間の目が待ち受けていたことになります。香川氏が、土佐に亡命するという道を選んだのも納得できます。ここでは、予定されていた天霧城攻撃も伊予東部と同様に、拠点確保ではなく、香川氏を標的とした作戦であったこと。それを知っていた香川氏はいち早く土佐に落ちのびたことを押さえておきます。
こうしてみると秀吉の対讃岐戦略には、東讃と西讃では異なる戦略方針があったことがうかがえます。
東讃では、出兵の前から十河氏や安富氏などの羽柴方に味方する勢力が根強く残っていました。そのため屋島に上陸した宇喜多軍が直面したのは、長宗我部勢を牽制する程度の局地戦にとどまりました。そして、上陸後は植田城を無視して、短期間で阿波の木津城攻めに合流しています。ここからは羽柴軍の当初の戦略は、讃岐よりも阿波の制圧を優先したことがうかがえます。
 一方、長宗我部方の香川氏が支配した西讃については、毛利軍が天霧城攻めが計画していました。そのため元親の降伏が遅れれば、西讃は戦場となり、天霧城をめぐる攻防戦が展開された可能性があったと研究者は考えています。
 平井氏は毛利氏の伊予侵攻について、次のように述べています。

「降伏したい元親と、元親が降伏してくることを確信している秀吉の戦いだったのであり、その結果、本来の降伏条件に、毛利側が求める伊予国没収を追加させる効果だけをもたらしたのである」「秀吉にとっ四国出兵は、毛利輝元に自力で伊予国を奪い取らせ満足させるための戦争であった」

 藤田氏は金子家文書を再検証するなかで、四国出兵について次のように記します。

「四国における秀吉の統一戦は、毛利氏による金子攻撃(高尾城の戦い)と羽柴秀長による三好氏領奪還戦(一宮城・木津城の戦い) を本質としていた」

以上を要約・整理しておきます。
①秀吉は讃岐制圧のために宇喜多直家を大将とする軍を小豆島を拠点に送り込んできた。
②宇喜多軍は屋島に上陸して、最小限の限定的な戦闘だけで阿波に転戦した。
③ここには秀吉とって、四国平定の主戦場は阿波にありと認識されていたことがうかがえる。
④宇喜多軍の屋島上陸で、安富氏・十河氏など反長宗我部の諸勢力が抵抗が活発化して、讃岐は放置しても脅威にはならないと判断したのかもしれない。
⑤一方、天霧城の香川氏の対応については、従来の軍記ものは何も語たらず、土佐に亡命したことだけが記される。
⑥しかし、毛利側の戦略には新居浜・西条制圧後は、東進して天霧城を攻めることが予定されていた。
⑦それは、香川氏が秋山氏に送った書状などには毛利軍の動きと、戦闘準備の対応策が記されていることからも裏付けられる。
⑧しかし、長宗我部元親は早期に降伏し、香川氏は土佐に落ちのびることを選択した。
⑨無傷で残った天霧城は放置され、これを仙石氏や生駒氏が活用した痕跡は見られない。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

毛利の伊予出兵は、秀吉の戦略方針・指示のもとにおこなわれたと研究者は考えています。毛利氏は秀吉から、4月の段階で伊予方面の担当を命じられ、さらに5月下旬には、次のような指示を安国寺惠瓊を通じて受けています。
「仍動方角之儀、以安国寺従羽筑被申候間、至上伊予新居・宇摩郡諸勢差渡候」

意訳変換しておくと
「伊予方面への兵力派遣については、安国寺惠瓊が羽筑秀吉より指示された通り、伊予新居・宇摩郡方面へ差し向けること」

ここからは「秀吉 → 安国寺恵瓊」というルートを通じて、新居・宇摩郡へ侵攻するよう指示を受けていたことが分かります。なぜ新居・宇摩郡だったのでしょうか? それは後ほど見ることにして、先に進みます。
 五月下旬の時点で、小早川隆景はすでに出港準備完了段階だったようです。しかし、先述したように、秀吉と長宗我部氏の国分案に毛利氏(特に小早川隆景)が強く反対し、水面下での交渉は難航し、出兵が伸びます。最終的に小早川隆景が毛利勢を率いて伊予に渡したのは、1ヶ月後の6月27日のことでした。この時には、秀吉から伊予一国領有の確約を得ています。伊予戦線の簡単な経緯は、次の通りです。
四国征伐・毛利軍
毛利軍の進撃コース
秀吉の四国出兵 伊予方面NO1

 ここからは毛利軍がまず目指したのが新居郡の金子元宅の城であったことが分かります。金子氏を撃破した後に、東の川之江方面、西の今治・松山方面に進撃しています。
毛利家と吉川家
そのことを押さえた上で、小早川隆景の甥の吉川元長の書状をもとに伊予の戦いをみていくことにします。
毛利氏の伊予侵攻 吉川氏の書状

 意訳変換しておくと
 現在は、土州長宗我部征伐のために、(川之江の)仏殿城から六里ほどに後備えとして布陣している。今までの経過を述べると、日に今治に着岸し、そこで叔父の小早川隆景と今後の方針を協議した。そして竹子まで進軍し、陣を敷いた。14日に高尾城と丸山城を包囲し、出城の丸尾城は当日に落城させた。高尾城も、その日のうちに攻め落とそうとした。しかし、隆景公が云うには、この先の数ヶ所の城には、土佐勢が入って加勢してるので士気も高く、強引に攻めるとこちら側の負傷者も増え、今後の戦闘に支障がでるかもしれません。そこで、翌日十五日から仕寄戦法を採用して、負傷者が出来るだけでないようにしながら、戦意高揚を図った。その結果、17日亥刻に落城させた。城内の金子(元宅)備後守を始め、六百余の兵を打果した。これを見て、高峠・近藤しやうし山・小城・岡崎・金子本城の兵は戦わずして逃亡した。下伊予方面の五つの城からも兵は逃走し、今では川之江の仏殿城だけが残っている。これも近々に落城するであろう。
 長宗我部元親の籠もる本陣がどこに置かれているのかが分からない。ちなみに今張津(今治湊)から高尾城までは道前と云う。そして、このあたりは新居郡と呼ばれる。これは宇摩郡の仏殿城を境に、阿波や讃岐と国境を接する。現在、阿波の一宮・岩倉・脇城は羽柴軍が攻城中であるが、近日中には落城するであろう。
 また讃州方面の雨霧城へも進軍して取り囲む予定である。阿波・讃岐と伊予の境界の戦いも、今少しで決着がつくであろう。そうすれば急ぎ帰陣し、みなを安心させることができよう。又某気分きとくニ能候、今日迄ハ如形候、可御心安候、定而無御心元可被思召と存、申上事候く、万慶重畳可得尊慮候、恐惶敬白、(天正十三年)
 七月廿七日                     元長(花押)
ここには今治に上陸し、先に渡海した小早川隆景らと合流しています。そして、まっすぐに新居郡の金子氏が籠る高尾丸山両城に攻めかかっています。そして、「仕寄」戦法で攻め寄り、17日の夜に高尾城を落城させ、金子元宅をはじめ六百余名を討ち取ったと伝えます。

高尾城と金子氏


 伊予東部における中心的人物であった金子元宅が討ち取られたことは、長宗我部方の諸将にとっては大きな衝撃だったようです。高尾城の落城後、高峠城・近藤城生子山城や小城・岡崎城・金子城の諸城、さらには「下伊予(伊予東部より西側の地域を指すか)」の拠点も「退散」したとしています。つまり戦わずして逃げたようです。
 一方、近世編纂の地誌「西條誌」には、周辺寺社が戦火の被害を受けたという伝承が多数残されています。ここからは高尾城や金子氏の本拠の金子城の周辺では小規模な戦いが継続した模様です。その後、毛利勢はさらに東進を続け、七月末の頃には予讃国境に近い宇摩郡川之江の仏殿城を取り囲みます。
金子山城(新居浜市)
 伊予の高尾城攻めにおいても阿波と「仕寄」を用いて敵城を包囲する作戦が採用されています。しかし、阿波とは異なる点は、包囲して籠城軍を疲弊させるのではなく、積極的に城を攻撃する所に主眼が置かれていることです。毛利軍は、短期に伊予を制定する方針だったことがうかがえます。

秀吉の四国出兵 伊予方面金子氏g
毛利軍の伊予出兵と金子氏の抵抗

毛利軍は
新居郡の高尾城高峠城金子城を次々と攻め落とし、宇摩郡に転進して仏殿城を攻め落とします。しかし、長宗我部元親が降伏したこともあって終戦となります。そのため毛利軍が讃岐に進行することはありませんでした。仏殿城には吉川元長が城主として入り、天正14年(1586)には福島正則の持ち城になりますが、その後に廃城となり、現在はその跡地に「川之江城」が建っています。

川之江城 - お城散歩
仏殿城(現川之江城)
伊予の戦後処理について、秀吉の指示書を見ておきましょう。
  一、伊予国へ蜂須賀彦右衛門尉・くろた官兵衛両人差遣、城々請取、小早川二可相渡、自然何かと申延城を不渡輩在之ハ、後代のこらしめに候間、為毛利家取巻悉成敗可被申付旨、小早川懇二可申渡旨、両人二可被申付事
一、いよの国城ともさかい目かなめの城と申て、自然わたし候てハ如何と、はちすか彦右衛門尉・黒田官兵衛秀吉かたへ可尋事も可在之候、早与州儀ハ小早川へ出置候上、何たるおしき城成とも与州の内ならハ、此方へ不得御意、請取次第毛利かたへ可相渡候事、
〔十六十七条目略)
意訳変換しておくと
 一、伊予へは蜂須賀彦右衛門尉・黒田官兵衛の両人を城の受取役として派遣する。その後、両人から小早川に引き渡すこと。この際に、何かと不平を述べて占領した城を渡さない者も出てくることも考えられる。その際には、後代の見せしめに、毛利家の取巻連中であろうとも成敗することを申付ける。この件については、小早川にも両人にこのように伝えていることを言い含めておく。

一、伊予の国城であるとか、重要な城であるからと言い訳して、蜂須賀彦右衛門尉や黒田官兵衛秀吉に引き渡すのは如何なものかという者も現れるかもしれない。その際は、伊予は小早川が領有するするという決定なので、どんな城でも伊予の城なら受け取り次第に毛利方へ渡すこと。

伊予では、蜂須賀正勝・黒田孝高が諸城を請け取り、小早川隆景に渡すことが第十四条に定められています。十五条には、どんなに重要な城であっても秀吉の許可を得るまでもなく、請け取り次第に毛利に渡すべきことが重ねて指示されています。ここでは、伊予では、阿波とちがって、「どの城を残して整備しろ」などという、具体的な城郭整備についての指示は何もありません。新しく統治担当者となる小早川氏に委ねる方針だったのでしょう。

七月十四日の小早川隆景からの高尾・丸山両城攻めの報告に対する羽柴秀吉の返書を見ておきましょう。
(天王十三) 去十四日之書状、今日廿一至大坂到来、令披見候、
一、州内金子城被取卷候之?、為後卷長曾我部人数出候処、則被及一戦、切崩、数多被両城被乗捕之誠御手柄之段、昔中難中尽候事(*)
一、其表弥被申付、新広・宇麻郡へ被相移、阿讃在陣候美濃守可被仰談旨尤候、無越度様行専用候、永陣之儀不苦候条、可被得其意候事、
七月廿一日              秀吉(花押)
小早川(隆景)左衛門佐殿
吉川治部少輔殿 
意訳変換しておくと
(天王十三(1585)年 14日の書状について、今日21日に大坂に届いたものを見た。
一、伊予国の金子城を取り囲み、長曾我部勢が討ち出てくる所を切り崩し、両城を落城させたのは なかなか挙げられる手柄ではない。
一、伊予方面の戦後処理については、新広・宇麻郡へ移、阿波・讃岐に在陣中の美濃守とよく協議し、独断専行のないようにすること、長引く陣中で生活に苦労が多いと思うが、励むように。
七月廿一日              秀吉(花押)
小早川(隆景)左衛門佐殿
吉川治部少輔殿 
ここでは秀吉は、毛利勢が金子城を取り巻き、後巻の長宗我部勢を撃退したことを称賛しています。研究者が注目するのは、毛利勢の攻撃対象を最初は「金子城」としながら、後半で「両城」と記している点です。毛利方は伊予東部に土地勘があり「高尾」「丸山」と正確に書き分けています。「両城」とあるということは、毛利方からの報告には「高尾」・「丸山」と記してあったはずです。 それをどうして、秀吉は「金子城」と書いたのでしょうか?。
 開戦前の天正13年5月下旬の段階で秀吉は、攻撃目標として金子氏の支配領域である新居・宇摩郡を攻撃するよう毛利氏に指示していたことは、最初に見た通りです。
 毛利勢がおこなった高尾城攻めでは、「仕寄」を用いた包囲戦が採用されています。しかし、これは前回見た阿波の攻城戦のように、敵に圧力をかけるというものではなく、非常に攻撃的なものです。そして、降伏や落ちのびることを許さずに「殲滅」を図ろうとしていた節が見えます。これは高尾城や丸山城の占拠ではなく、金子氏の殲滅が目的であったからと研究者は推測します。先ほど見た史料に出てくる「金子城」という表現は、城の名称ではなく、「金子氏が籠る城」の意味で秀吉は用いたものとすると、「金子氏殲滅」の秀吉の意思が見えて来ます。
 これを裏付けるのが阿波戦線・副大将の羽柴秀次の7月21日付の小早川隆景への返書です。
「敵方両城令落去事」
「長宗我部内金子相蹈候城」
ここからも羽柴軍のなかは、伊予の金子氏に対する憎悪的感情が生み出されていたことがうかがえます。 この感情は、毛利方にもあったことを裏付ける史料を見ておきましょう。毛利輝元が元康に伊予の戦況を伝えた書簡です
 呉々今度之御粉骨之段、無比類存候隆景・元長へも即申遣候、弥御吉左右所仰候、河原山之儀被差寄、即被切崩由御注進、真無比類御粉骨之至、中々申も疎之候、就中与州表儀去十七日金子城高尾之儀被切崩、敵千余討捕之候、以其響石川城其外十ヶ所二余落去候、即至土州境一昨日陣易之由候、打続諸方任存分候と本望此事候弥吉事承可申入候、恐々謹言、
(天正十三年) 七月廿日               右馬元(毛利輝元)  (花押)
 元康 参御返報
  意訳変換しておくと
 今度の無類の粉骨の働きぶりについて、隆景・元長へも即申遣候、弥御吉左右所仰候、河原山之儀被差寄、即被切崩由御注進、真無比類御粉骨之至、中々申も疎之候、就中伊予方面の戦いについて17日に金子城・高尾で敵を切崩し、千余討を捕虜としたこと。さらに石川城やその外十ヶ所以上の城を落城させたこと、そして、昨日は土佐の国境まで進軍して布陣していること、打続諸方任存分候と本望此事候弥吉事承可申入候、恐々謹言、
(天正十三年) 七月廿日               右馬元(毛利輝元)  (花押)
元康 参御返報
ここでは、高尾城を「金子城高尾之儀」、高峠以下の諸城を「石川城其外十ヶ所」と記しています。ここでも城の名称ではなく、金子・石川の家名を冠した表現となっています。これをみると、金子氏のほかに石川氏も攻撃の対象のトップに置かれていた可能性があるようです。  ここでは金子氏を第1標的とする方針は、毛利勢を含めた羽柴軍の共通認識となっていたことを押さえておきます。
最後に、秀吉の四国出兵の意図について見ておきましょう。
四国出兵の根本的な目的は、長宗我部氏を降伏させ、土佐一国に封じることでした。そのうえで秀吉は、第一に四国東部の平定、特に阿波の直接支配を目論んでいました。秀吉は、国分交渉で阿波と讃岐の二か国の領有を基本目標としていました。その中でも、秀吉の出した細かな作戦指示や戦後処理の方針から見て、とりわけ阿波を四国のおさえとして重視したことがうかがえます。
その意味は何なのでしょうか?
 淡路を支配下に置いていた秀吉は、阿波を確保したことで、大坂湾・瀬戸内海東部の制海権の支配権を手にしました。これは大坂方面から淡路を経て阿波に至る四国へのルートの確保も意味します。小牧・長久手の戦いの際には、織田・徳川方が長宗我部氏に淡路に攻め上がるよう促しています。そういう意味では、このルートは四国攻略だけでなく、大坂防衛の観点からも重要な意味をもつと秀吉は判断していたはずです。
 秀吉の伊予方面での戦略的な目的のひとつに金子氏懲罰がありました。
秀吉は、伊予の戦後処理の方針を示した第十四条に次のように記します。

「自然何かと申延城を不渡輩在之い、後代のこらしめに候間、為毛利家取巻悉成敗可被申付」

つまり城郭接収(武装解除)に応じない領主たちを「後代のこらしめ」に成敗するよう命じています。阿波一宮城攻めの「菟角国々こらしめ、旁以千殺二仕可然候」の指示も同じような匂いがします。

伊予の金子元宅

 金子元宅は四国出兵の直前にも、周敷郡の知行獲得を画策していました。
こうした領土拡大を天下人の秀吉に対しても露骨に示す金子氏は、秀吉から見せしめとして成敗の対象とされた可能性があるというのです。ただ、見せしめにするだけであれば、阿波の一宮城などと同様に包囲して圧力をかける戦法でもよかったはずです。しかし、高尾丸山両城への攻撃は厳しく、金子氏を殲滅しようとする強い意思が感じられます。なぜ、金子元宅は討ち取られなければならなかったのか。これについては、私にはよく分かりません
ウキには、金子元宅について次のように記します。
 「天正13年(1585年)の羽柴秀吉の四国攻め(天正の陣)の直前、妻の実家の石川家中で毛利軍との和戦の議論が行なわれた際、「昨日は長宗我部に従い、今日は小早川に降る。土佐の人質を見捨てて他人に後ろ指を指されるのは武士の本意ではない。」「勝負は時の運なり、死力を尽くして一戦を交えて、刀折れて矢尽きる迄身命を賭して戦うべし」と元宅は敵に臆することなく戦いを決意する。
 羽柴秀吉の命を受け圧倒的な兵力数(3万人)で瀬戸内海を渡り侵攻してきた小早川隆景率いる小早川・毛利軍を総勢2千とも云われる金子軍が迎え撃った。岡崎城、金子城などが陥落する中、元宅は氷見の高峠城に入り敵の大軍を迎え撃つべく残党兵を高尾城に集結させた。
 高峠城主石川備中守をはじめ金子・高橋・松木・藤田・菰田・野田・近藤・塩出・徳永・真鍋・丹・久門・難波江などが高尾城に拠って抵抗した。全軍を指揮をとったのは元宅であり、総勢6百程であったとされている。小早川・毛利軍の多勢に対し、最期を悟った元宅は自ら高峠城に火を放ち、百人程で野々市ヶ原に打って出て奮戦。その生涯を終えた。
 小早川隆景は元宅らの見事な散り様を称え、将兵たちの亡骸に向かって合掌し、鎧の上に法衣を置いて自ら弔いの舞を舞ったと言われ、居合わせた将兵の舞に合わせた拍子がトンカカと聞こえた事から、トンカカさんという踊りが生まれたとされる。その後、供養のために金子山麓の金子氏居住跡に元和4年(1618年)頃に元宅の実弟である金子元春によって慈眼寺が建立された」
  以上を整理・要約しておきます
①1585年6月 毛利輝元配下の中国8ヶ国の軍勢3万から4万は、小早川隆景を総大将として出港した。
②毛利氏の伊予での重点的な攻撃目標は、新居郡の金子元宅の高尾城であった。
③元宅は、長宗我部元親と同盟関係にあり、反秀吉・反毛利の急先鋒の象徴的な存在であった。
④そのため天下人となった秀吉に抵抗する金子氏が第1の攻撃目標に選ばれた。
⑤このような機運は、金子氏に対する憎悪を高め「殲滅戦」が展開されることになった
⑥毛利勢は東進して川之江の仏殿城を攻略中の25日に元親が降伏した。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「川島桂弘 羽柴秀吉の四国出兵の意図」
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