瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:秀吉の四国平定

秀吉の長宗我部元親処遇案

前回は、秀吉の四国出兵が長宗我部元親処遇案が、あいまいな部分を残したまま開始されたことを見ました。また、四国出兵は秀吉が陣頭指揮をしないという初めてのケースでもありました。そのため今までにない指揮系統や戦術が見られます。その辺りのことを阿波方面を中心に今回は見ていくことにします。テキストは「川島桂弘 羽柴秀吉の四国出兵の意図」です。

秀吉の四国侵攻6
四国征伐・羽柴本軍
羽柴軍の進撃ルート
秀吉の四国出兵 阿波戦線

羽柴軍が阿波に上陸したのは6月23日のことです。そして、撫養の土佐泊城に集結します。ここが阿波制圧のスタート地点となります。これも秀吉の事前の指示によるものでした。
 緒戦となったのが木津城攻めでした。この城について「ウキ」は、次のように記します。

秀吉の四国侵攻 阿波木津城
木津城 羽柴軍に8日の籠城で落城
    「永禄年間(1558年 - 1570年)から三好氏の武将篠原自遁が守っていた。1582年(天正10年)の長宗我部元親による阿波侵攻では、十河存保方についたものの、中富川の戦いや勝瑞城攻防戦には参加しなかった。しかし頼りの織田信長が本能寺の変で討たれ、織田方の援軍が期待できないため、自遁は城を明け渡し淡路へ逃走した。
 長宗我部元親領有後は腹心である東条関之兵衛が城主となった。この時期に秀吉の侵攻に備えて大規模な城郭改築を行なったと見られる。1585年(天正13年)、羽柴秀吉による四国攻めでは、羽柴秀長の攻撃を受け、8日間後に水の手を断たれて落城した。関之兵衛は脱出し、土佐に帰還したが敗戦の責を問われて首をはねられた。
木津城を秀長と秀次の大軍が囲みます。そして8日後の7月5日には落城します。その後、羽柴軍は二手に分かれますが、そこへ黒田官兵衛など讃岐方面の軍勢も合流し、次のように手分けして攻略します。
A 秀長+宇喜多勢           一宮城
B 秀次+近江衆・仙石秀久・蜂須賀正勝 牛岐城(牟岐)
秀次勢は7月10日には調略によって牛岐城を開城させ、15日には脇城攻めに取り掛かります。こうして羽柴軍は一宮・脇両城を包囲し、7月下旬に長宗我部氏が降伏するまで攻城戦を続けます。

 木津城・一宮城・脇城の攻城戦には共通点があることを、研究者は指摘します。
①木津城「木津ノ城、敵楯籠之条、即座押詰、本城塀際迄仕寄、責破処」
②一宮城「其後一宮取巻、諸口以仕寄押詰、水を相留候条、一途不可有程候」
③脇城
「当脇城へ押詰、山下追破、従翌日仕寄等丈夫二申付候」
「当城も水之手不自由にて迷惑由、従城内闕落申越候、殊懸樋をも切落候間、弥不可有程候」
    意訳変換しておくと
①木津城の攻城戦では、敵の籠城戦対して、即座に押詰め、本城塀ぎわまで仕寄、これを攻め破る
②一宮城では、城を取り囲み、諸口を仕寄って押詰め、水源を遮断し、水が手に入らないようにした。
⑧脇城では押詰て、山下で追い破り、翌日に仕寄を丈夫に設置することを申し付けた
「当城も水之手がなく、飲み水に不自由している様子なので、城内に水をひく懸樋をも切落し、水を断った。
 ここには、共通した戦法として「押詰」「仕寄」と「水断」という言葉が出てきます。
「仕寄」とは、「敵の城を攻撃する際に用いる、竹などを束ねた防具」のことのようです。

仕寄り戦法

「仕寄り」

仕寄せ 真田丸に出てきた
大河ドラマ 真田丸に登場した「仕寄り」作り
 仕寄せは、盾や竹の束で身を守りながら、城を攻めるためのもの簡易な基地です。鉄砲から身を守るためのもので、この小型の基地を移動させて城を攻めたようです。鉄砲が普及した戦国時代後半に出てきた戦い方です。これに加えて、水断ちが行われています。四国出兵はちょうど夏季(現在の8月頃)にあたりました。真夏に、水を断たれることは籠城側にとっては、致命傷となったことが推測できます。

7月18日に戦地の伊藤祐時に、秀吉が宛てた書簡を見ておきましょう。
 去十四日書状十六日於京都到来、披見候、
一、其面取巻丈夫成由、兵吉口上之通、何も聞届尤候事、
一、一宮城如此取巻、既仕寄以下入精、水手相留由候条、少々日限延候共、菟角国々こらしめ、旁以千殺二可然、委細兵吉二申聞候事、[中略]
 意訳変換しておくと
 14日の戦地から書状が、16日に京都に届いた。
一、籠城戦への対応が指示通り首尾良く進んでいるとの報告を受け取った。
一、一宮城のように、兵で取巻き、仕寄で対応し、水断ちすれば、少々日数はかかろうが、阿波国衆をこらしめ、干乾しにすべし。委細は兵吉に伝えている[中略]
ここからは「仕寄」と水断による包囲戦は、秀吉の命令によるものであったことが分かります。秀吉の指示で「押詰(包囲)」「仕寄(接近)」と「水断」が、セットとなって、各攻城戦で展開されていたことを押さえておきます。
 また「国々こらしめ、旁以干殺二仕可然候」とあります。阿波の国衆をこらしめ、干殺しにするよう指示しています。これは見せしめの意図も読み取れます。これに加えて秀吉は、繰り返し前線に次のような指示を出しています。
「手負等無之様二木津城責殺可申候」(7月3日付)
「手負無之様二可申付候事」(7月10日付)
「少々長陣候事者不苦候条、少之手負無之様二」(7月27日付)
ここからは秀吉が「手負等無之様」と、「たとえ長引いたとしても、自軍の損害を最小限におさえることを優先せよ」と求めていたことが分かります。

秀長は7月19日付の伊予戦線の小早川隆景に宛てた書状で、一宮・脇城攻めの近況を次のように報告しています。
9000とされる一宮城兵は善戦したが、筒井定次・藤堂高虎・蜂須賀正勝・増田長盛など5万の我が軍に兵糧を絶たれ、城への坑道を掘り水の手を断つ戦法で、7月中旬には開城した。

これに前後して脇・岩倉城も、秀次・黒田・蜂須賀勢らによって陥落します。この結果、白地城の長宗我部元親は、東からの秀長・秀次勢、西から川之江まで進撃してきた毛利氏に挟撃される形になります。
『南海治乱記』には、前線から白地城へ戻った谷忠澄が、次のように述べて長宗我部元親に降伏を勧めたと記します。
上方勢は武具や馬具が光り輝き、馬も立派で、武士たちは旗指物を背にまっすぐに差して、勇ましい。兵糧も多くて心配することは少しもない。これに比べて、味方は10人のうち7人は小さな土佐駒に乗り、鞍も曲って木の鐙をかけている。武士は鎧の毛が切れくさって麻糸でつづりあわせてある。小旗を腰の横に差しており、上方とは比較にならぬ。国には兵糧がなく、長い戦争などできるはずがない。

これに対し『元親記』には、長宗我部元親が言葉が次のように記されています。
縦(たと)い、岩倉・一の宮を攻落さるる共、海部表へ引請け、一合戦すべき手立、この中、爰許(ここもと)に詰候つる軍兵、又、国元の人数打震いて打立ち、都合その勢一万八千余、信親大将して野根・甲浦に至り着合ひ、海部表への御働を相待つ筈なり。
意訳変換しておくと
たとえ、岩倉・一の宮城を奪われようとも、海部城に退却し、合戦すべき手立がある。そうなったら白地城に集結している軍兵や土佐国元の兵力を総動員すれば、一万八千余の兵力になる。それを、信親が大将として率いて野根・甲浦で待ち受け、海部城を支援する。

ここでは元親は、一度も決戦せずに降伏するのは恥辱であり、たとえ本国まで攻め込まれても徹底抗戦すると言います。そして、降伏を勧めた谷忠澄を罵倒し、腹を切れとまで言っています。
しかし、重臣らの説得を受けて、元親も最後には折れ、7月25日付の秀長の停戦条件を呑んで降伏します。交渉の仲介役を務めたのが蜂須賀正勝です。
 降伏から和睦条件の成立に至る経過を整理しておきます。
①天正13年7月下旬、一宮・脇両城を包囲する羽柴軍に対し、長宗我部方から降伏交渉の打診。
②7月25日、羽柴秀長は一宮城の長宗我部重臣の江村親俊・谷忠澄に、土佐一国安堵と、五日間の「矢留(戦闘停止)」を約束
③同じ頃、秀吉は秀長に宛て、元親の土佐一国のみの安堵と降伏条件を確認し、最終的な判断を秀長らの判断に一任
  そして8月4日までに、長宗我部元親の正式な降伏が了承されます。8月6日に成立した和睦条件の内容は、次の4項目です。
①長宗我部氏に土佐一国のみ安堵
②長宗我部家当主が毎回兵3000を率いて軍役を務めること、
③人質の提出
④徳川家康との同盟禁止
これによって、長宗我部氏は阿波・讃岐・伊予を失います。ちなみに、秀吉から秀長への指示書にかかれた阿波国の統治方針についての部分を見ておきましょう。

 一、阿波国城々不残蜂須賀小六二可相渡候、然者小六居城事、絵図相越候面ハいの山麓二覚候、去我々不見届事候条、猶以其方見計よき所居城可相定、秀吉国を見廻二四国へ何頃にても可越候条、其時小六居城よき所と思召様なる所を、其方又ハ各在庫の者とも談合、よく候いん所相定、さ様二候ハ、大西脇城かいふ牛木かせてよく候いん哉、小六身二替者可入置候、但善所ハ立置悪所かわり、新儀にも其近所にこしらへ候事、[四~六条目略]

意訳変換しておくと
一、阿波国については、城はすべて蜂須賀小六に渡すこと、小六の居城については、絵図からすれば「いの山(渭山:現徳島城)」山麓が適地と思うが、実際に見ていないのでなんとも云えない。ついては、その方(秀長)が候補地をいくつか選定し、秀吉が四国を見廻りに行き決定しても良い。また小六が適地と考えるところを、秀長や各在庫衆と協議して決定してもよい。大西・脇・海部・牟岐城については、城の現状を維持し、小六が信頼が出来る者を選んで配置すること、ただし、戦略上からして立地条件が不適切な城は、新規に適所に移転して築城すること。

 読み取れる情報を挙げておきます。
①阿波国内の諸城は、残らず蜂須賀家政に渡すこと、
②居城は「いの山(渭山)」を適地とするが、秀長ら在庫衆で談合して定めること、
③大西・脇・海部・牛岐の各城は今まで通り存置し、しかるべき人物を配置すること。

研究者が注目するのは、③で具体的な城郭整備について言及している点です。
渭山に置かれた新城が徳島城で、大西城ほかの4城は近世初期まで阿波の支城体制「阿波九城(一宮・牛岐・仁宇・海部・撫西条・川島・脇・大西)」として活用されていきます。阿波では、戦後処理の初期段階から、秀吉の統治方針が明確にあらわれています。四国出兵で羽柴軍の攻撃対象となった一宮・牛岐・脇の諸城は、「阿波九城」に含まれます。四国侵攻の軍事行動の意図には、領国支配のための拠点となる城郭の掌握があったと研究者は考えています。

 阿波での戦いは、羽柴軍の主力(秀長・秀次勢+宇喜多)を動員した四国出兵最大の軍事作戦でした。
秀吉の指示に基づき、攻めるべき城が 事前に選定され、そこでの採用される戦術まで指定され、自軍兵力の消耗をおさえる慎重な戦術を行うように求められています。さらに、後の蜂須賀氏による領国支配につながる地域の拠点城の掌握まで考えられていたと研究者は評します。

以上をようやく整理しておきます。
①阿波・讃岐への侵攻については、兵力の集結メンバー・日時・場所・ルートについて事前に秀吉が指示を詳しく示している。
②その立案や連絡調整に当たったのが黒田官兵衛や小西行長である。
③阿波戦線は、羽柴軍の主力(秀長・秀次勢+宇喜多)を動員した四国出兵最大の軍事作戦であった。
④木津城・一宮城・脇城に対しては「押詰」→「仕寄」→「水断」という共通した戦法が採られている。
⑤「これは
自軍の損害を最小限におさえることを優先せよ」という秀吉の指示でもあった。
⑥同時に攻城対象の城は、蜂須賀氏による領国支配のための拠点となる城郭でもあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「川島桂弘 羽柴秀吉の四国出兵の意図」
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長宗我部元親6

長宗我部元親年表

信長による本格的な四国攻めは、本能寺の変で実現しませんでした。長宗我部元親は、ある意味で命拾いしたのかもしれません。

秀吉の備讃瀬戸・淡路への進出

しかし、信長の後を継いだ秀吉は一貫して長宗我部氏に対して対決姿勢で臨みます。これに対して長宗我部元親も「秀吉の敵は味方だ」で、常に秀吉の敵対勢力と手を結んで、秀吉を牽制します。例えば

長宗我部元親の反秀吉政策
①天正11年(1583)の賤ケ岳の戦いでは「柴田勝家」「織田信孝」と同盟
②翌年の小牧長久手の戦いでは「徳川家康」「織田信雄」と同盟
③天正12年(1584)に、長宗我部氏と毛利氏との軍事同盟が破綻。その背景には、毛利氏が秀吉と停戦し、同盟関係を結んだことです。対秀吉同盟戦線としての長宗我部・毛利の利害関係が消滅したのです。
④天正13年(1585)には、秀吉によって紀州が攻略され、長宗我部氏の強力な同盟者であった「根来衆」「雑賀衆」が壊滅。
こうして、長宗我部氏は軍事的孤立状態へと追い込まれます。今回は、秀吉の長宗我部元親に対する対応がどのように変化したのか見ていこうと思います。テキストは「川島桂弘 羽柴秀吉の四国出兵の意図」です。 

通説では天正13年(1585)の春に、長宗我部元親が四国統一を果たしたとされてきました。

長宗我部元親の四国平定?

しかし、実際には阿波・讃岐・伊予各地で残存勢力がゲリラ的抵抗活動を続けていたことが近年には明らかになってきました。そのため元親が四国全土を完全制圧したわけではないとする説が提唱されています。そして、秀吉はこれらの反長宗我部抵抗勢力に戦略物資補給などの支援を行っています。つまり、元親が四国を統一したとは言いがたく、軍事的優位に立っていたにすぎないと捉えるのが現実的な解釈だというのです。こういう状態では、長宗我部元親は秀吉と戦うことはできません。
長宗我部側としては、四国制覇どころではなく、秀吉との和睦交渉に全力を尽くすというのが実情だったのかもしれません。以下、史料で「長宗我部 vs 秀吉」外交の足跡をみてみましょう。
1585年の正月17日付けの、蜂須賀正勝と黒田官兵衛の連署による書状では、毛利家臣の井上春忠に対し、以下の旨のようなことを伝えています。(『小早川文書』)
①秀吉=毛利間の婚姻締結のこと
②人質の小早川秀包のこと
③秀吉は3月には紀伊国雑賀を攻めること
④秀吉は夏に四国を攻める予定であること
⑤秀吉は伊予・土佐両国を毛利氏に与えること
⑥元親から色々懇願されているが、秀吉はこれを受け入れないこと。
同じころ、毛利輝元も児玉元良に対して「秀吉が伊予・土佐両国を毛利家に渡すと伝えてきた」と言っています。(『山口県史』)。
 ここからは、長宗我部元親は土佐と伊予2か国の安堵を秀吉に懇願していたようですが、秀吉はこれを受け入れずに、その2か国は毛利に渡すことにしていたことが分かります。こうしてみると、両者の交渉は対等な立場での和睦交渉ではなく、立場の弱い長宗我部側が、より有利な形で降伏条件を求める交渉だったことがうかがえます。
 両者は和平交渉の可能性を探っていました。一旦は長宗我部側の要求を一蹴した秀吉ですが、元親が土佐・伊予2か国の安堵と引き換えに、以下の2点を申し出たため、秀吉も手を打とうとしたようです。
①嫡男の長宗我部信親を大阪に居住させ、奉公させる。
②信親の他、実子をもう1人人質として提出する。
このような交渉が出兵期限とされていた6月になっても続いたために、出兵は繰り延べられます。しかし、最終的に和平交渉は決裂します。
その背景には毛利氏と長宗我部元親の伊予をめぐる対立がありました。

毛利氏と長宗我部元親の伊予を巡る対立

     瀬戸内から南下する毛利(小早川)氏 宇和島方面から北上する長宗我部氏

毛利氏には伊予と土佐に対する領土的な野心がありました。
本願寺の記録『貝塚御座所日記』には、次のように記されています。

「元親と秀吉の和睦交渉は成立しようとしていたが、毛利氏の望みでそれが断たれた」

『小早川文書』等では、次のように記します。
「秀吉は、伊予国を求める毛利家に配慮し、人質を返却して四国出兵を決意した」

ここからは、毛利氏が強く秀吉に伊予の割譲を求めていることが分かります。
秀吉の長宗我部元親処遇案が、どのように変化していったかを見ておきましょう。

秀吉の長宗我部元親処遇案

天正13(1583)年正月、秀吉は長宗我部氏征伐を打ち出し、夏に四国出兵を行う事を表明。同時に、毛利氏に伊予・土佐両国の領有を約束。
4月 紀伊雜賀根来寺を制圧し、改めて毛利氏に四国出兵の具体的な準備を指示
5月上旬には、6月3日の出兵と決まるが、下旬に6月16日に延期。この背景には、秀吉と長宗我部氏の最後の交渉が続けられていた。
6月中旬までに長宗我部氏は、阿波・讃岐の献上と実子を人質として差し出すことを条件に、土佐一国と伊予領有分の支配を承認され、和睦がほぼ成立していた。これに対して、伊予一国の領有を求める毛利氏(小早川隆景)が難色を示しめす。
そのため秀吉は一転して毛利側の主張を受け入れ、長宗我部氏との交渉は決裂、四国出兵へと進む。最終的な長宗我部氏の処遇案は、全面降伏を前提条件とする土佐一国のみの領有となる。

 平井氏は、秀吉の四国出兵について次のように評価します
「降伏したい元親と、元親が降伏してくることを確信している秀吉の戦いだったのであり、その結果、本来の降伏条件に、毛利側が求める伊予国没収を追加させる効果だけをもたらしたのである」
「秀吉にとって四国出兵は、毛利輝元に自力で伊予国を奪い取らせ満足させるための戦争であった」
 一方、藤田氏は金子家文書を再検証するなかで、四国出兵について次のように記します。

「四国における秀吉の統一戦は、毛利氏による金子攻撃(高尾城の戦い)と羽柴秀長による三好氏領奪還戦(一宮城・木津城の戦い) を本質としていた」

 長宗我部氏の「宥免」か「成敗」かの判断は、6月時点でも流動的であったようです。
秀吉・長宗我部・毛利の三者間における国分交渉は、次のように「A→B→C」と変化していきます。
A 「長宗我部=成敗、毛利=土佐・伊予領有」
B 「長宗我部=土佐・伊予(領有分)、毛利=伊予(残り分)」
C 「長宗我部=土佐、毛利=伊予」
ここでは、秀吉の長宗我部氏への対応が、わずか半年の間にめまぐるしく変化したことを押さえておきます。
その一方で、長宗我部や毛利など当事者以外に宛てた秀吉書状からは、別の秀吉の意向が見えて来ます
五月の段階で、秀吉は黒田孝高や一柳直末、加藤嘉明、中川秀政などの家臣に対して、長宗我部成敗を命じています。
 出兵開始時に秀吉から中川秀政らに宛てた書簡には、次のように記されています。
「秀吉相定候背法度候者、縦長曾我部首を捕候共、可成敗候間、可成其意候」
 将亦、秀吉相定候背法度候者、縦長曾我部首を捕候共、可成敗候間、可成其意候、申遣候、諸勢渡海候哉、再三如申聞候、物をしミ不仕、一手二令野陣、所々見斗、無越度様二可申付候、其方一左右次第、不移時日、内府可出馬候、成其意、路次中道橋、同泊々要害以下、権兵衛与相談候て、見刷普請可被申付候、路次伝、渡口、城之何と申所二誰を置候哉、委書付可申越候、何も其表様子、切々可有注進候、不可有油断候、謹言
                       秀吉(朱印)
(天正十三年)六月十七日
中川藤兵衛尉殿
高山右近殿
   意訳変換しておくと
秀吉の定めた法度に背く者は、たとえ長曾我部であろうとも首を取り、成敗する。諸勢が瀬戸内海を渡り、四国出兵を行うことになる。ついては、物見などの敵情偵察を怠ったり、戦場候補地を選定してなかったりなどのことがくれぐれもないように申しつける。内府が出馬した際には、路中の道や橋、港などについて、(仙石権兵衛)と相談して、普請して置くように申付ける。また、道順や、上陸地点、城の位置・名前・城主なども調査し報告すること。さらに、その時々の情勢の変化なども、油断せずこまめに注進すること。謹言
(天正十三年) 六月十七日                                秀吉(朱印)
中川藤兵衛尉殿
高山右近殿
ここでは「秀吉の定めた法度に背く者は、たとえ長曾我部であろうとも首を取り、成敗する意向」とあり、長宗我部成敗を前提としています。
ところが出兵時に秀吉が弟の秀長に宛てた史料には、長宗我部元親の処置について次のように記されています。
 尚、土佐一国にて候い長曾我部可指置候、細甚右衛門尉・三郎四郎二申含候、巳上、書状?蜂須賀其方への書中、遂披見候、
一、長曾我部事、最前申出候つるハ、土佐一国・伊与国、只今長曾我部かたへ進退候分にて、毛利方・小早川方へ安国寺を以令相談、尤之内義二候て、右之通二国宥免与申聞候処、間違候て、安国寺此方へ罷上、伊与国二不給候者、外聞迷惑候由、小早川申由候条、与州国二小早川二遣候、然間、土佐一国にて言申候者可指置候、委細尾藤甚右衛門尉・戸田三郎四郎二申含、重而差越候条、定而懇可相達候、

一廿五日・廿八日・朔日、追々人数遣、三日二出馬候条、成其意、早々渡海候て、木津城成共何成共、見合取巻儀可申付候、面々人数何も一手二居陣候て、無越一度様二調儀専一候、

一甚右衛門尉・三郎四郎二申含遣候間、其様子聞届、蜂須賀へ相談肝要候、謹言、
(天正十三年) 六月廿日                  秀吉(朱印)
     意訳変換しておくと
 なお土佐一国の長曾我部についての措置については細甚右衛門尉・三郎四郎に申し伝えている。蜂須賀方への書簡を参考にすること

一、長宗我部元親所領の土佐と伊予の配分については、毛利方・小早川方と安国寺惠瓊が協議して決定する。伊予・土佐両国を毛利に与えると漏れ伝わっているのは間違いである。それについては安国寺惠瓊を通じて調整しする。小早川は、与州を小早川に与え、土佐一国については留保するようにとの申し入れがあった。このことについての仔細は尾藤甚右衛門尉・戸田三郎四郎に言い含めてあるので、そちらに出向いた際に、聞き置くように。

一 25日・28日・30日に、次々と兵を出発させ、私は3日に出馬予定である。ついては、早々に渡海して、木津城でも、どこの城でもなんなりと、攻城することを申付ける。一手に集結して、攻め立てること。

一 甚右衛門尉・三郎四郎に申し伝えているので、そのことを聞き届けた上で、蜂須賀と相談しながらすすめることが肝要である。謹言
(天正十三年) 6月20廿日              秀吉(朱印)
ここには、国分交渉決裂の経緯を事細かに説明したうえで、次のように繰り返し長宗我部氏への対処の指示をしています。
「土佐一国にて侘言申候者可指置候」、
「土佐一国にて候ハ長曾我部可指置候」
この様子をみると、四国出兵の先陣をつとめた秀長でさえも、出兵時には長宗我部成敗と思っていたのも当然です。
 四国渡海後の7月になると、国分交渉決裂の経緯を本願寺が漏れ知ります。そして、四国出兵の背後事情が世間にも漏れ伝わるようになります。しかし、少なくとも六月の出兵開始までは、秀吉が家臣や外部勢力に長宗我部氏を「宥免」すと伝えた形跡はないと研究者は判断します。あくまで「長宗我部元親=征伐」だったのです。
 これに対しする長宗我部元親の動きを見ておきましょう。
秀吉の四国侵攻6
秀吉の四国出兵時の城郭
元親は羽柴軍の渡海に備えて5月17日には、吉野川沿いの阿波大西、翌日には岩倉に着陣しています。その後は「元親記」などには、阿波西部の白地城に入ったと記されます。この間も長宗我部元親は、水面下で秀吉と国分交渉を継続し和睦の道を探ります。一方で秀吉が出兵準備を進め、長宗我部成敗の方針を表明し続けているので、戦いの備えも必要でした。長宗我部方は、基本方針が分からないまま宙ぶらりんの状態に置かれます。

豊臣秀吉の四国征伐前

四国出兵は阿波・讃岐・伊予の三方面からの進軍になりますが、阿波・讃岐を担当した羽柴軍の構成メンバーについては、記録上で一部錯綜があるようです
ここでは改めて出兵時の羽柴軍の動向について見ておきましょう。
「大日本史料」では、天正13年6月16日条には次のように記されています。

「羽柴秀吉、弟秀長ヲシテ、諸軍ヲ率ヰテ、四国二渡海セシム」

これをみると、6月16日に秀長が諸軍を率いて四国に渡海したように思えます。しかし、続く関連史料(「多聞院日記』天正十三年六月十六日条)には、「四国ハ陳立在之云々、当国衆ハ不立、如何」とあるだけで、出発したとは記されていません。
 天正13年10月に大村由己が記した「天正記」の「四国御発向井北国御動座記」(以下、「四国御発向」と略す)には次のように記されています。


A 秀長は大和・紀伊・和泉の軍勢を率いて淡路洲本に、
B 羽柴秀次は摂津・丹波の軍勢を率いて播磨明石より淡路岩屋に渡海
C その後、淡路南部の福良に一旦集結し、そこから阿波土佐泊に渡った

讃岐方面を担当した宇喜多秀家は備前・美作の軍勢を率いて、蜂須賀正勝家政父子、黒田孝高らと讃岐屋島に上陸したとされます。

 次に、羽柴軍の四国上陸までの過程を見ておきましょう。
秀次の部隊と同じ明石から岩屋に渡った中川秀政は、6月17日前後に淡路に上陸したようです。
史料に「権兵衛(仙石秀久)与相談候て」とあるので、秀吉の指示を受けながら、現地の仙石秀久と対応にあたっています。ここからは、急ピッチで阿波上陸に向けた準備が進められた様子がうかがえます。そして「四国御発向」とあるので、秀長・秀次らの軍勢は福良周辺に集結して、6月23日に阿波に渡海しています。
【史料3】
書状披見候、早々渡海之由尤候、美濃守・孫七郎二相尋可入精事用候、不可有由断候、謹言、
                                        秀吉(朱印)
(天正十三年) 六月廿四日
中川藤兵衛尉殿
  意訳変換しておくと
 書状を見た。早々に阿波への渡海が完了したことは幸先がよい。以後は美濃守・孫七郎と相談しながら事を進めること。由断することなかれ候、謹言、
                                秀吉(朱印)
(天正十三年) 六月廿四日
中川藤兵衛尉殿
この書簡は、阿波への渡海終了を伝えた中川秀政への秀吉の返書です。中川氏は秀吉から個別に命令を受ける立場にありましたが、ここには「美濃守・孫七郎二相尋可入精事用候」とあるように、渡海をする過程のなかで、秀長秀次を中心とした軍勢に、次第にまとめられていると研究者は指摘します。

 一方、蜂須賀氏も淡路で秀長と協議しています。しかし蜂須賀氏は「四国御発向」では宇喜多秀家の率いる讃岐方面軍の所属となっています。
さらに、「改選仙石家譜」や「森古伝記」には、蜂須賀氏のほか尾藤・仙石らの諸氏も、宇喜多氏と讃岐屋島に上陸したと記します。これをどう理解すればいいのでしょうか?
 研究者は次のように解釈します
①蜂須賀氏らは備前・美作の軍勢を率いて渡海した
②しかし、宇喜多氏とは別行動で、淡路・阿波方面から讃岐に渡った
③蜂須賀氏・尾藤氏は、長宗我部氏の最終処遇案を詳しく知る立場であった。
④彼らが淡路で秀長に接した後、別働隊として宇喜多氏に合流した
⑤これは、秀吉からの戦略的な情報を現地で共有するという点においても重要だった。
 四国出兵は、豊臣政権による国内統一戦のなかで唯一、秀吉が現地に出馬しなかった戦いです。
史料でみたように、当初は6月25日、28日、7月1日と順次出兵を進め、秀吉自身も7月3日に出馬する予定でした。それが先陣の秀長への配慮などを理由に、最終的に出陣することはありませんでした。四国出兵は、秀吉が陣頭指揮を執るこれまでの秀吉の軍事行動とは異なるものでです。そのため、命令伝達や作戦指示も、多少ギクシャクしたものになったと研究者は考えていここでは四国出兵における羽柴軍は、秀吉の指示を逐一受けながら、秀長・秀次を中心に一定の戦略方針のもとに軍事行動にあたったことを押さえておきます。
  以上を整理しておくと
①長宗我部元親は、信長政権の後継者となった秀吉にも敵対的な行動を取り続けた。
②一方、伊予をめぐって長宗我部は、毛利とも敵対関係に入り、外交的に孤立化した。
③秀吉は長宗我部元親制圧のために四国出兵を実行した。
④最初のその軍事行動の目的は、長宗我部元親の打倒と、伊予・土佐の毛利への配分であった。
⑤これに対して、毛利方は外交交渉で譲歩し、土佐と伊予の南半分の領有という妥協案が生まれた。⑥しかし、これに対して毛利氏の反発があり、秀吉は毛利側の主張を容れた。
⑦こうして開始された四国出兵は、秀吉が陣頭指揮をとらない初めてのケースで、指揮系統や戦略目標の選定などに今までにない動きが見られる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「川島桂弘 羽柴秀吉の四国出兵の意図」
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 天正10(1582)5月7日に、信長は四国遠征を決定します。このとき、三男の織田信孝に対して以下の計画を伝えています。
①信孝を三好康長の養子とする。
②讃岐国を信孝に、阿波国を三好康長に与える。
③伊予国・土佐国については信長が淡路に到着してから決める。
こうして5月11日、信孝は丹羽長秀・津田信純・蜂屋頼隆を副将として大坂・堺方面に兵を集結させ、6月3日に出発する予定を立てました。このような中で、信長の意向を讃岐の国衆ヘ伝達する役割を担っていたのが安富氏でした。今回は、信長の四国平定策が頓挫した後の、秀吉と安富氏の関係に焦点を当てて見ていくことにします。テキストは「嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021年」です。

信長に代わって権力を握った秀吉は、畿内情勢が落ち着くと四国平定に乗り出します。
秀吉が黒田官兵衛に宛てた書状には、当時の阿波・讃岐の情勢が次のように記されています。

書中令披見候、阿州相残人質共、堅被相卜、至志智被相越候者、尤候、行之様子、委細小西弥九郎(行長)二書付を以、申渡候、能々可被相談候、将亦雑説申候者、沙汰之限候、牢人共申出候者を搦取、はた物二かけさせ候、随而讃州安富人質召連、親父被相越候、彼表行之儀、何も具弥九郎可申候、恐々謹言、
天正九年九月廿四日                          筑前守秀吉(花押)
黒田官兵衛尉殿

  意訳変換しておくと
書状は拝見した。阿州の人質の扱いについては、丁寧に取り調べて、志智などを見分したうえで、対応を行うのはもっともなことである。委細は小西弥九郎(行長)に書付で申渡した。よく相談して、雑説を申す者には、沙汰限で、牢人共の申出を搦取、はた物二かけさせ候、讃州の安富の人質を召し連れ、親父でやってきた。讃岐のことについては、いずれも弥九郎に伝えてある。恐々謹言、
天正九年九月廿四日         筑前守秀吉(花押)
黒田官兵衛尉殿

  ここからは次のような情報が読み取れます。
①秀吉に、阿波や讃岐の多くの武将が庇護を求めて、人質を差し出していたこと
②秀吉は人質の才能・人格チェックを行い、使える者は育てて使おうとしていたこと
③出先の黒田官兵衛との連絡役を務めているのが小西弥九郎(小西行長)であること。
④小西行長が秀吉の「若き海の司令官」として、各地を早舟で飛び回っていたというイエズス会宣教師の報告を裏付けるものであること
⑤同時に、黒田官兵衛に対して小西行長と協議した上で進めることとあるように、行長は戦略立案などにも参画していた。
⑥最後に「讃州安富人質召連」と、多くの人質の中で、安富氏を「特別扱い」していること

⑥からは、安富氏の人質は「利用価値」が高いと秀吉が考えていた節があります。
それは、安富氏の持つ海運力だったと研究者は考えています。安富氏は東讃守護代で、小豆島や東讃岐の港を支配下においていました。そして、引田や志度、屋島の港を拠点に運用する船団を持っていたことは以前にお話ししました。安富を配下に置けば、それらの港を信長勢力は自由に使えることになります。つまり、播磨灘沖から讃岐にかけての東瀬戸内海の制海権を手中にすることができたのです。言い方を変えると、安富氏を配下に置くことで、秀吉は、東讃岐の船団と小豆島の水軍を支配下に収めることができたことになります。これは秀吉にとっては、大きな戦略的意味がありました。こうして秀吉は、戦わずして淡路の岩屋の与一左衛門を味方に付けることで、明石海峡の制海権を手に入れ、安富氏を配下に繰り入れることで、東讃・小豆島の港と廻船を手に入れたと云うことになります。秀吉らしい手際の良さです。
年表をもう一度見てみましょう
1582 9・- 秀吉の命で、仙石秀久が河存保を救うため,兵3000を率い小豆島より渡海.
   屋島城を攻め,長宗我部軍と戦うが,攻めきれず小豆島に退く
1583 4・- 仙石秀久,再度讃岐に入り2000余兵を率い,引田で長宗我部軍と戦う
1584 6・11 長宗我部勢,十河城を包囲し,十河存保は逃亡
6・16 秀吉,十河城に兵粮米搬入のための船を用意するように,小西行長に命じる
1585年4・26 仙石秀久・尾藤知宣,宇喜多・黒田軍に属し、屋島に上陸,喜岡城・香西城などを攻略
以上のように秀吉軍の讃岐への軍事輸送を見ると「小豆島より渡海」とあります。ここからは、 讃岐派遣の軍事拠点が小豆島であったことが分かります。そして、小豆島・塩飽の領主に任じられていたのが「若き青年海軍将校・小西行長」でした。秀吉の讃岐出兵や後方支援を行ったのは舟奉行の小西行長だったことになります。それだけではありません。③には、秀吉から黒田官兵衛への指示書には、小西行長と協議しながら戦略立案せよとありました。
ここでは秀吉は、東讃守護代の安富氏を配下に置くことで、労せずして東讃・小豆島の港を支配下に置き、播磨灘以東の制海権を手に入れたことを押さえておきます。。

【史料14】羽柴秀吉書状写「十林証文」        89p
急度申候、乃去廿三日調略之以子細柴田打果候、近日其国ハ可令出馬候条、右之趣味方申江可被申遣候、猶千石(仙石)権兵衛(秀久)尉可申候、恐々謹言、
成刻                  羽筑   秀吉(花押影)
三月二十四日     
安富又三郎殿
御宿所
意訳変換しておくと
急ぎ知らせる。3月23日に柴田勢を打ち払った。ついては、近日中に四国平定を開始するつもりである。このことを味方に急ぎ知らせるように。なお千石(仙石)権兵衛(秀久)には連絡済みである。恐々謹言、
成刻                  羽筑   秀吉(花押影)
三月二十四日     
安富又三郎殿
御宿所
この書簡は、天正11(1583)3月23日に賤ヶ岳の合戦で柴田勝家を敗死に追い込んだことを秀吉が安富氏に送ったものです。「右之趣味方申江可被申遣候」と、勝利の知らせを味方に伝達せよとあります。ここからは安富氏は、信長時代に引き続いて四国側の情報喧伝の役割を果たしていたことが分かります。
 ここで研究者が注目するのは、安富氏の宛名にいままでの筑後守がなく「又三郎」となっていることです。ここからは、筑後守は死去するか隠居して、又三郎が安富氏の当主になったことがうかがえます。この頃には前年に中富川の戦いで長宗我部氏に敗れ讃岐に逃れていた十河(三好)存保も羽柴氏に属していました。四国の「味方中」へ連絡することが求められていたのは、存保ではなく安富氏であったことを押さえておきます。

【史料15】羽柴秀吉書状写「改撰仙石家譜」
書状之旨、逐一令披見候、
一、去四日至阿州表讃岐十河(存保)・安富合手、河北不残令放火、則河端城押詰、外構乗崩、首八十余討取被指上、実二安度候、
一、今度於阿州表令忠節面々二対し一札被遣候、忠節神妙二候問可被申聞候、猶以入念無越度様分別尤二候、尚寺木口上二相含候、恐々謹言、
十二月十一日               筑前守(秀吉)直判
仙石権兵衛殿
尚以今度高名之もの共、能々書付候而可被参候、来春我々褒美可申付候間、出馬之刻聞届寺木へ申含候、
意訳変換しておくと
書状について拝見し、次のように申し伝える、
一、去る四日から阿波で讃岐十河(存保)・安富と合力して、吉野川河北地方を残らず焼き払い、河端城に押し寄せ、外構を乗崩して、首八十余を討取ったと報告を受けた。これは実に立派な働きである。
一、今度の阿波での軍功に対して、忠節神妙なので一札入れておく。猶以入念無越度様分別尤二候、尚寺木口上二相含候、恐々謹言、
十二月十一日               筑前守(秀吉)直判
仙石権兵衛殿
なお、今回の功名について、それぞれの書付を持参すれば、来春以後に褒美を取らせることにする。やってくる日時などを寺木へ提出すること。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①天正11(1583)12月となっても、仙石氏と安富氏・十河存保が羽柴陣営下の一員として、阿波方面で侵入してきた長宗我部元親に対して軍事活動を展開していたこと
②阿波での軍功の褒賞を約束していること
しかし、天正12(1584)6月に、讃岐の十河城が長宗我部元親によって陥落させられます。すると、讃岐における反長宗我部方の活動はあまり見られなくなります。この時期の安富氏が讃岐で活動を続けたのか、それとも落ちのびたのかはよく分かりません。分かっているのは、安富氏が反長宗我部・親秀吉の立場を貫いたということです。これが後の秀吉の「安富氏=忠義の者」という好印象につながったようです。

秀吉の四国平定1

 天正13(1585)になると羽柴秀吉は、それまでの守勢から反撃態勢に出ます。
大軍を動員し、三方から四国に侵入し、またたくまに長宗我部元親の防備ラインを突破していきます。こうして降伏した長宗我部氏の領国は、土佐一国となり、残りの三国は没収されます。
秀吉は「四国国分」の構想を弟秀長に述べていますが、その中で讃岐に関する部分を抜き出したのが次の史料です。
羽柴秀吉朱印状写(部分)「毛利博物館所蔵毛利家旧蔵文書」
一、淡路事ハ心安者を可置候間、野口孫五郎(長宗)儀ハ小六(蜂須賀家政)与カニいたし、只今淡路にて取候高頭辺二弐三千石も令加増、小六与カニ可仕候、其仔細ハ千石(仙石)権兵衛尉二つけて讃岐へ可遣候へ共、さぬきハ安富又(又三郎)・十川孫六郎(存保)両人者為与力、権兵衛二可引廻由申出候、其国ニハ与力類一人も在之間敷候間、担々孫五郎事目をかけ可馳走事、(略)
一、権兵衛可申間儀ハ安富忠切越候間、郡切二いたしいつれの方へ成ともかたつけ安富二遣可申由、前廉に可被申聞候、但於大坂国儀をも聞届、権兵衛安富召寄知行所々可相定事、

  意訳変換しておくと
一、淡路については、信頼できる者を配置したい。ついては、野口孫五郎(長宗)は小六(蜂須賀家政)に味方し、淡路の筆頭知行主となっているが、それにさらに高頭辺りに2,3千石を加増して、小六の与力としたい。仙石権兵衛(秀久)には、讃岐を与え、その与力として安富又三郎・十川存保の両人を配する。讃岐には与力となる者が一人も居ないので、孫五郎に目をかけ褒美を取らせること。(略)
一、仙石権兵衛に伝えることは、安富氏は忠節な働きぶりだったので、讃岐のどこかの郡を分割して、安富に知行させることを前廉に申し聞かせておくこと。ただ大坂のことも聞届け、権兵衛が安富氏を召寄て知行するような形をとること。

ここからは次のような情報が読み取れます。
①秀吉が弟秀長に、讃岐のことについて指示を出していること
②讃岐は仙石秀久に与えるが、地侍で信頼できる者が少ないので、安富又三郎と十河存保を与力と育てること
③安富は「忠切(忠節)」であったので、 一郡を与えて知行を確定するように指示している
④安富・十河の両氏以外に、秀吉の目から見て信頼できる国衆が讃岐にはいなかったこと
仙石秀久的軍裝: WTFM 風林火山教科文組織
仙石秀久

こうして安富又三郎は、十河存保とともに仙石秀久の与力に位置付けられることになります。

結果として両氏は、領主の地位を保つことができました。長宗我部元親の侵攻と、その直後の秀吉の四国平定で、讃岐国内は動乱の舞台となり、多くの国人が讃岐からの離国を余儀なくされました。その中で、安富氏と十河氏だけが讃岐では領主として生き残ったことになります。ただし、讃岐一国を代表する地位は仙石秀久です。安富氏は、それまでの讃岐を代表する地位を失うことになります。

戸次川
四国衆の墓場となった戸次川の戦い 仙石・十河の名が見える
翌年、仙石秀久は九州攻めへ出陣しますが、秀久が率いるのは「四国衆」と総称されます。
そして、天正14年(1586)12月の戸次川の戦いで、仙石秀久が島津氏に大敗し、その責任によって改易されます。同時に、十河氏・安富氏も領主として姿を消します。十河存保が戸次川の戦いで戦死したことは知られています。「十河物語」には、安富氏(玄蕃允?)も戦死したと記されています。「十河物語」は作者も成立年代もよく分からない軍記ですが、長宗我部氏の讃岐攻めでは十河氏と安富氏が協働して戦ったことが記されています。こうした状況から一定の事実性を認めてもよいと研究者は評します。ここでは、安富又二郎も戸次川の戦いで死亡し、後継者が不在か幼かったことにより、改易されたとしておきます。

以上を整理しておきます
①信長の四国平定政策を引き継いだ秀吉も、讃岐国衆のまとめ役として安富氏を重視した。
②その後も安富氏は十河氏とともに秀吉側に付いて、長宗我部氏と戦い続け、讃岐を追われた。
③その忠節を認めて秀吉は「四国国分」の中で、仙石秀久の与力として領主の地位を十河氏と共に与えた。
④翌年の九州の戸次川の戦いで安富氏又三郎が戦死し、その地位も失われた。

最後に史料から確認できる安富氏の系図を研究者は次のように考えています。
安富氏系図

安富氏系図
①戦国期の安富氏当主は、元家以来の仮名「又三郎」、受領名「筑後守」を通称として使っている。
②彼らを特定する根本史料はないが、前後の当主は親族関係にある。
③南海通記など軍記ものに出てくる当主名と、一次史料の記述は、ほとんど合わない。
④又三郎や筑後守などの伝統的な通称さえ、南海通記には出てこない。
以上から、安富氏については南海通記の記述からは明らかに出来ない研究者は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021年」
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豊臣秀吉の四国支配体制は?
長宗我部元親侵攻図

長宗我部元親の四国平定

天正13年(1585)春、土佐の長宗我部元親は四国統一を果たします。しかし、それもつかの間、秀吉が差し向けた三方からの大軍の前に為す術もなく飲み込まれ、8月に四国は豊臣統一政権に組み込まれます。その後の四国の大名配置は、四国平定の論功行賞として行われます。秀吉は、四国の大名達を「四国衆」と呼んでいたと言われます。ここからは、四国の大名を一括して認識していたフシが見えられます。どんな思惑で秀吉は、大名達を配置していったのでしょうか。讃岐に生駒氏が配される背景を巨視的に見ていきたいと思います。テキストは「川岡勤  豊臣政権における四国の大名配置 中世西国社会と伊予所収」です。 
51585年頃の大名配置図
  
四国平定後の秀吉の大名配置を見ておきましょう。
長宗我部元親には土佐一国のみの領有が許され、
阿波・蜂須賀家政
讃岐・仙石秀久
伊予・小早川隆景
このほか詳しく見ると各国の一部は、
阿波には 赤松則房・毛利兵橘
讃岐には 十河存保・安富又三郎
伊予には 安国寺恵瑣・来島通総・得居通久にも与えられています。彼らは、いずれも長宗我部戦での活躍が認められたものです。長宗我部から奪った瀬戸内三国を見ると、阿波・讃岐には豊臣大名が、伊予には秀吉に近い毛利系大名の小早川氏が配されています。以前から河野氏と結び伊予に進出していた毛利氏は、平定前に秀吉から伊予拝領を約されていました。この大名配置のねらいは、阿波・讃岐・伊予の瀬戸内三国に政権下の有力大名を配置し、九州征討に備えることにあったようです。それを裏付けるように天正13年~15年にかけて、この三国では検地が行われています。これは新たな軍役賦課のためであったと研究者は考えているようです。そして実際に、九州攻撃の先陣を務めたのは「四国衆」でした。
 
仙石秀久、戦国を駆ける | 書籍 | PHP研究所

 讃岐の領主とまった仙石秀久は天正14年(1586)9月に島津征討に参陣しますが、豊後・戸次川の戦で大敗し、その責任を問われて領地没収となります。代わって翌年正月に、讃岐国領主になったのは尾藤知宣です。しかし、彼もまた日向での作戦失敗で領知を没収されます。その後を受けて、天正15年8月に讃岐領主に封じられたのが、生駒親正(近規)です。短命に終わった仙石・尾藤氏に代わって領主となった生駒氏によって讃岐は戦国時代にピリオドを打ち、近世へと脱皮していくことになります。

高松城 周辺地理図

生駒親正の高松城築城の戦略的なねらいは?

 天正十五年の九州平定後は、讃岐・伊予の大名が入れ替えられて瀬戸内の固めが増強されます。秀吉の子飼いの豊臣大名によって、この地域が占められるようになります。その中でも生駒親正が築城した高松城は、城の中に港湾機能を取り込んだ今までにない構造であることは以前にお話ししました。その規模や岡山城などの移転状況などから判断して、瀬戸内海の制海権を握るための重要な役割を担うために作られた水城だと研究者は考えているようです。
 秀吉は生駒親正を信頼し、頼りとしていたようです。秀吉は親正に「讃岐国一円領知状」〔生駒家文書〕を出し、国内に秀吉直轄の蔵入地を観音寺に設定し、その代官にも任命しています。豊臣政権下での讃岐や生駒親正の重要性をうかがい知れます。さらに、親正は中村一氏・堀尾吉晴とともに三中老(小年寄)として、五大老・五奉行間の調整を図る要職にも就いています。
 こういう中で親正は、自らの居城築城を開始します。
その選定にあたっては、まず引田浦・宇多津という港町に入りますが適地とせずに、最終的に野原庄(現在の高松)を選定したことは以前にお話ししました。「南海通記」によれば、戦国時代の野原庄には香西氏配下の武将達の小城が多数あったとされます。その記録通りにサンポート開発の発掘によつて、港湾施設や積荷が出土し、中世の港町があったことが分かっています。西浜や東浜や砂州の存在、船便の良さや背後の高松平野のヒンターランドとしての潜在力も、高松選定の大きな要因だったと研究者は考えているようです。
 高松城と生駒親正は、西国全体を支配下に置いた豊臣政権にとって、瀬戸内海の防衛・侵略拠点としての大きな布石の役割を果たすことになります。

次に伊予の情勢を見てみましょう
小早川隆景の肖像画の画像 | 戦国ガイド 
小早川隆景(毛利元就の三男)
伊予を支配することになったのは、安芸から海を越えてやってきた小早川隆景です。彼は秀吉の意向を受けて、城割・検地などを実施し、近世伊予の礎を築いたとされます。これらの政策は、先ほど見たように九州侵攻をにらんでのことでした。しかし、伊予国内には先ほど見たように旧領主の河野氏や西園寺氏の領地も混在し、小大名領が入り交じった状態でした。その結果、中世的遺制が残り、これが払拭されるのは九州平定後のことになるようです。
 しかも秀吉は、翌年の天正15年(1587)6月には、隆景(毛利元就二男)に筑前一国と筑後二郡・肥前二郡が与えて九州に転封させます。これに併せて毛利秀包(元就九男・隆景養子)に筑後三郡が与えられます。この転封は、朝鮮半島への侵攻準備のためだと研究者は考えているようです。九州平定のために四国にその侵攻の中核となるべき大名が配置されたのと同じ手法です。秀吉の信頼の厚かった小早川隆景に、朝鮮半島侵攻の基盤となる筑紫が任されたのです。こうして筑前名島城に入った隆景は、太閤検地など近世的政策が展開され、地元領主階級の結集がなされていきます。
5 四国の大名配置表

このような動きと連動する形で、秀吉は四国の大名配置を行なったことを改めて確認する必要がありそうです。
九州平定とそれに続く朝鮮出兵の布石として、秀吉は四国の大名配置を行ったという視点です。その動きを簡単に見ておくことにしましょう。

5 秀吉の四国大名配置図

 小早川隆景を筑紫に転封したの後、秀吉は東・中予に福島正則、南予に戸田勝隆を入れます。こうして瀬戸内三国全てに、秀吉子飼いの豊臣大名が配されます。福島正則や戸田勝隆は、伊予の近世化を進め、地付きの土豪族を弾圧し多くの悲劇が生まれますが、それも後に控える朝鮮半島侵攻のためには不可欠な準備の一つだったと考えていたのかも知れません。領内の不満分子弾圧を果たした後、戸田勝降は大津城から板島丸串城へ、福島正則は湯築城から国分山城へ短期間で移ります。
国分山城 - 城見る人も好きずき
国分山城に迫る小早川軍
 
文禄4年(1595)7月、関白秀次は高野山へ追放され、切腹を迫られます。その検使役を勤めた福島正則は、尾張清州34万石に転じ、代わって池田秀雄が国分山城へ入ります。秀雄の子秀氏は、南予の大津二万石に移された。同じく文禄4年7月には、加藤点明が文禄の役の功によって増封され、淡路から正木に入ってきます。そして同月、板島の戸田勝隆に換わり、藤堂高虎がやって来ることになります。豊臣秀長配下で、高野山に隠居していた高虎を秀吉に仕えさせたのは、讃岐藩主の生駒親正でした。

国分山城の写真:今治城天守にあった解説文 | 攻城団

朝鮮出兵にみる「四国衆」
豊臣秀吉は四国の大名を「四国衆」と呼んでいたことは最初に述べました。秀吉は小田原の役から朝鮮出兵にかけて、四国衆を水軍として軍団編成を行ったようです。当時の四国衆の大名にとって、朝鮮半島出兵のための水軍編成が大きな課題として秀吉から求められていたことになります。しかし、朝鮮での実戦では「四国衆」として統一的に動くことはありませんでした。それどころか大名間で反目し、ばらばらに動きに終始して、そこを朝鮮水軍に各個撃破されることが多かったようです。
阿波の古狸と呼ばれた『蜂須賀家政』したたかに乱世を生き抜く - YouTube

その中で、讃岐の生駒親正と阿波の蜂須賀家政だけは名実ともに同一ユニットで動いていたと研究者は指摘します。蜂須賀正勝は、秀吉の与力としてその統一過程に深く関わり、播磨国龍野5万石余の大名となります。四国平定においても、嫡子家政とともに讃岐・阿波に侵攻して活躍し、長宗我部元親との講和も結んでいます。その功績を認められ戦後に、阿波一国が与えられ、長男家政は父同様、政権下での重要な置を占めることになります。
  一方、土佐の長宗我部元親は、柴田勝家や徳川家康と結び、島津義久を援助するなど、豊臣政権においては「外様」大名扱いされます。土佐の長宗我部は秀吉にとっては仮想敵国だったのです。これに対して、秀吉子飼いの重要な豊臣大名である生駒・蜂須賀は、瀬戸内海だけでなく士佐を抑える役割も担っていました。そのために、生駒・蜂須賀両藩は対土佐・長宗我部に対する同一ユニットの軍事編成が想定されていたと研究者は考えているようです。それを裏付けるように城下町の防衛ラインである寺町は、高松・徳島ともに土佐を向いて形成されています。また実際に、生駒・蜂須賀連合軍が上佐を攻める軍事演習を行っていたことも紹介されています。このような「讃岐・阿波」の同盟関係が朝鮮半島侵攻の際にも発揮されたようです。

 朝鮮出兵した豊臣大名同士でも大きな軋蝶があったことはよく知られています。
それがその後の関ヶ原の戦いなどにどのような影響をもたらすのか、ひいては四国の大名配置にどう働いたのかという視点で見ておきます
 伊予の藤堂高虎と加藤嘉明は、同じ水軍に編成されていました。しかし、この両者は激しく対立し、軍事行動の分離・排斥がたびたびあったようです。そのため高虎は独断で、秀吉に注進しています。その際に蜂須賀家政は嘉明に同情的だったと伝えられます。
 朝鮮出兵では、関ヶ原合戦の要因ともなる事件も起きています。
石田三成の腹心・福原長尭が軍目付として派遣され、蜂須賀家政らの戦線縮小策を秀吉に報告し、家政らが罰せられます。後に家政は、福島正則・藤堂高虎・加藤清止・浅野幸長・細川忠興・黒田長政とともに石田三成襲撃を決行しています。朝鮮戦線に出兵した大名達の間には、大きな亀裂が生まれ豊臣政権は内部から分裂していたのです。その中で「四国衆」と呼ばれた大名たちの連携・対立が次代へと受け継がれていきます。

慶長五年(1600)9月15日、関ヶ原合戦における四国大名の動向を見ておきましょう。

5 四国の大名配置表 関ヶ原直前

徳川家康の東軍についていたのは
①阿波の蜂須賀至鎮
②讃岐の生駒一正
③伊予の加藤嘉明・藤堂高虎
石田三成の西軍についたのは
④讃岐の生駒親正
⑤伊子の安国寺恵瑣・小川祐忠・池田高祐・来島康親、
⑥土佐の長宗我部盛親

東軍勝利の結果、合戦後の論功行賞では、
⑦伊予が加藤嘉明・藤堂高虎に三分
⑧土佐一国に山内一豊
⑨讃岐の生駒氏は親子が両軍に分かれて戦ったが、一正の活躍が認められ、旧領を安堵された。
⑩蜂須賀家政は、領国家臣を豊臣秀頼に返却して高野山に隠遁
関ヶ原合戦を四国衆の視点で見ると、次のようになるようです。
①徳川秀忠軍の遅参のために、家康は旧豊臣大名中心の陣立てで勝利を得た
②そのため戦後の論功行賞では、旧豊臣大名に報いる必要があった
③結果として徳川政権成立期には、阿波・讃岐・伊予には秀吉子飼いの「外様」大名領が残った

そのような中で、長宗我部氏の居城であった土佐浦戸城の受け取りには井伊直政が派遣されますが、長宗我部軍の激しい抵抗を受けます。阿波・讃岐・伊予軍の動員によって,ようやく城が明け渡され、翌年正月に山内一豊が入城し、高知築城に着手するという不穏な情勢もあったようです。徳川の天下に決まったとは思わない人たちも数多くいたようです。

徳川の時代到来と四国衆
慶長八年(1603)2月、家康は征夷大将軍に任命され、江戸城・城ドの増改築を進めるなど二重公儀・東西分治体制を確立していきます。「四国衆」もこれに協力していく姿勢を取るようになります。山内一豊は、御前帳において9、8万石の拝領高を10、36万石に改正して提出します。応分の軍役を負担することをこのような形で申し出たのです。「四国の押さえ」としての自覚ともいえます。
 風見鶏と云われながらも外様大名として家康の信頼を得て、側近的地位を築いたのが藤常高虎です。
彼は伊予から伊勢・伊賀への転封後、家康の下で大坂を包囲する戦略を練り、それを具体化するための各地の城造りに携わります。高虎の旧領大津へ、洲本から高虎に近い脇坂安治が入ります。高虎は家康の意を汲んで、洲本城を大津に移し、板島城を改築して、大坂包囲網を完成させます。その後、伊達秀宗がこの地に入国し、宇和島と改称します。
大坂の陣へは、四国衆も出兵します。
戦後に、諸大名の中で最も高い評価を受けたのは、松平忠直・井伊直政・藤常高虎でした。四国衆では蜂須賀至鎮の評価が高かったようです。至鎮へは淡路一国7万石が加増さています。蜂須賀家では、この武功は後の世まで語り継がれることになります。
 大坂夏・冬の陣で豊臣家が減亡することによって、「二重公儀体制」は清算されました。しかし、秀吉時代に配置された旧豊臣大名が四国や西国を占るという問題は解消されませんでした。
            
 この状況が大きく変化するのは、三代将軍家光治世の寛永期になってからです。
この時期は、キリスト教禁止令・貿易制限令・ポルトガル船来航禁止令の発布、島原の乱平定など、幕府の「鎖国」(海禁)体制整備期でもあり、西日本は対外的・軍事的緊張が高まっている時でした。そのような西日本の軍事的緊張を背景に、瀬戸内海沿岸にも御家門が配置されていきます。それまで、瀬戸内の中国・四国筋に御家門はありませんでした。ただひとつだけ備後福山に「譜代」水野家があるだけです。そういう意味で、四国に御家門を置くということは徳川政権にとって家康以来の大きな課題でもあったようです。
寛永13年(1645)には、松山15万石、今治3三万石が久松松平家に与えらます。そして、この藩は正保4年(1647)のポルトガル船来航に際し、長崎警備を命じられています。
さらに生駒騒動の後、寛永19年には水戸徳川家の連枝として高松城に入った松平頼重もまた、徳川政権下で瀬戸内海掌握を期待されていました。将軍から「西国・中国の目附たらんことを欲す命」〔「英公実録」〕があったようです。幕府の意を汲んで、松平頼重は高松城の海側への拡張工事を行い、軍事機能を充実させています。頼重は、朝鮮出兵も経験した生駒家の船団をそのまま引継ぎ、さらに紀伊徳川家からは、軍船が武器を備えて贈呈されています。頼重はこの船に乗って、宮島参り称して安芸の宮島近くまで船団の「軍事訓練兼示威パレード」を何度も行っています。
高松城122スキャナー版sim

 つまり、生駒氏によって築城された高松城は秀吉の大阪城を守るためであり、瀬戸内海の制海権防衛の拠点、さらには豊臣家の外様である土佐長宗我部への備えという戦略的な意味がありました。しかし、松平高松藩の高松城は大坂防衛の水城であると同時に「西国・中国の目付」の役割を求められていたようです。それを体現したのが松平頼重による高松城の改修だったことになるようです。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
川岡勤  豊臣政権における四国の大名配置
中世西国社会と伊予所収」    

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