タイムトラベル 太閤検地 全体図
          中学校歴史教科書 帝国書院 タイムトラベル 太閤検地

 このイラストは秀吉によって天下平定が進む西日本のお城と城下をイメージして描かれているようです。
前面には田んぼと農家、その背後に姿を現しつつあるお城と城下町が描かれています。遠くの山の上には中世の山城が見えます。それがやって来た藩主によって、海の近くに新しいお城が築かれています。丸亀城や高松城もこんな風に作られたのかも知れません。 城の周りには同時並行で、城下町が作られます。これについては、また別の機会に見ていきます。今回見るのは、中央の田んぼの中です。

太閤検地 kakudai

竹竿と縄で測量が行われています。これが太閤検地です。田畑の面積は、それまでは百姓の自己申告による「指出検地」でした。それがひとつの土地にひとりの年貢請負人(=土地所有者)を決め、面積と田畑の質によって年貢を決める仕組みになります。役人が田畑に直接入り込んで検地をするというのは、それまでなかったことで画期的な出来事です。今回は、秀吉によって行われた太閤検地を、阿波に残された史料で見ていくことにします。テキストは、徳島県立文書館の展示史料です。

上のイラストをもう一度見てみます。
中央の田んぼの中では、棹を立て縄を張っているようすが見えます。これは検地をしている場面です。編笠をかぶり刀を差している武士らしい人が何人か見えます。彼らは検地役人です。戦国時代の検地は,その土地の持ち主の自主申告による差出検地でした。しかし、ここで行われている太閤検地は,検地役人が実際にその土地に入り,決められた基準で検地を行っています。これを丈量(じょうりょう)検地といいます。土地の所有者、面積、生産力ランクなどが決められると、それに応じた年貢が定められます。
検地2
         『徳川幕府県治要略』に描かれている江戸時代の検地
①真ん中の十字の器具をもった人がいて、この「十字木」を中心に縄が張られる。
②田んぼ周囲には長い竿をもった人達が8人。
③四角形の頂点に立つのが「細見竹持(さいみだけもち)」
④各辺中点に立つのが、先に梵天のついた竿をもつ「梵天竹持(ぼんてんたけもち)
⑤指揮・記載していく役人(二本差しの武士)

検地用用具 茨城大学
復元された十字木と縄(茨城大学教育学部)
面積を測りたい土地について、それがどんなに複雑な形だったとしても、同程度の面積の四角形に見なします。そして梵天竹持や細見竹持の動きで、さまざまな形の土地を等積の四角形にしていきます。
検地台帳には何が記録されたのでしょうか。阿波に残る史料で見ていくことにします。

検地帳 阿波那賀郡
阿波那賀郡の検地帳
 
阿波の本格的検地は1589(天正十七)年に始まります。
その前年に佐々成政が秀吉の命令を無視して肥後で検地を強行して失敗します。それを受けて秀吉は、蜂須賀家政、浅野長政・加藤清正・福島正則などを肥後に派遣して検地を行わせます。その経験を活かして翌年に、蜂須賀家政は自国阿波で検地を行います。この時の「阿波天正十七年検地」は、里の村だけでなく、ソラの村も含めた全域で実施されています。
太閤検地 阿波の検地台帳
                      阿波天正十七年の検地台帳

検地の4つの項目
土地ランクを灌漑の実利便性・作物の生育状況等から、上々田・上田にランク分け、
田畑一筆ごとに検地縄と検地竿を使って土地の面積を計測
その土地の生産力を米の収穫高として表示する石高を算出
名請(名負=所有権を認められた)百姓を定めて検地帳。
具体的な表記例を見ておきましょう。
阿波の 太閤検地の記載例 

太閤検地 天正検地帳の基本石高

上記のように検地によって田畑の面積が確定され、それに応じた税が決定されます。
これは農民にとってはそれまでになかった利点がありました。名負人に名前が記されれば、その土地の所有者として認められたことになります。もっと云えば、農民の土地所有が新たにやってきた大名によって保障されたことになります。これは、古代以来の荘園制にとどめをさします。
太閤検地が中世を終わらせた
同時に、荘園の財政基盤としてきた寺社勢力にとっては大きな打撃となります。ある意味で、太閤検地によって中世は終わったと云えそうです。そういう意味では、秀吉は中世を終わらせ、近世の幕を開いたといえるのかもしれません。
  検地を行う役人への注意書きも残されていますので見ておきましょう。

「御両国御検地御作法之事」出原家文書九三 役人への注意書き1
意訳変換しておくと
 (「御両国御検地御作法之事(出原家文書九三)
一 検地をする村々については、前年の収穫高の善し悪しを考慮して竿を入れること。
一  検地に出かけた時は、村全体を見た上で、土地の善し悪しを考慮して検地を行う事
一 御検地之村々、第一用水之有無、悪水仕之趣洪水之害被是相考、田畠之差別尤矩之了簡可仕事
一 方円曲直之外異形之地面竿立難随其地形、猶又地主難心得於地面引地主とも致得心候様可仕候地面之広狹相改候儀竿立肝要之事
一 大地を以小切ニ仕入、尤間数相延口地面ハ是又ヲ引、随其縄打可申事
一 竿立之次第雖為委細、竿之打様依善悪余田不足地有之事二候故、竿ニハ両手をかケヲ折右之ヲ、竿先不曲候様打可申旨、打之者とも二可申付候、竿立竿打悪敷、縦ハ壱反之地壱歩広ク成候へハ壱歩之御年貢百姓永代作取仕、赤壱反之地壱歩狭ク成候へハ壱歩之無地御年貢永代百姓まとひ中段、彼是ヲ以無物仕合、不安義二候事【後略】
(「御両国御検地御作法之事」出原家文書九三)
意訳変換しておくと
一 検地をする村々については、用水の有無、排水の状況洪水の害など、いろいろ考えて、田畠のランク付けを行い、石盛の基準を決定すること。
一 方形・円形・曲線・直線のほか特異な地形の土地の検地は、その地形にしたがって計測すること。それでも、地主が納得しない土地は地縄を引いて、地主共が承服するように検地をせよ。土地の広さ・狭さを再調査する場合も竿できちんと測ることが大事である。
一 広い土地は検地縄で小さく分割して竿で測れ。長さが長い土地も検地縄を引いて、縄に沿って竿で測ること。
一 検地竿の立て方の善し悪しにより、実際の土地より広くなったり狭くなったりする。そこで竿には両手をかけ、腰を折り、右膝を突き、竿先が曲がらないように測れと打ちの者共に申し付けるべし。検地の仕方が悪く、例えば一反の土地で一歩広くなれば、一歩の年貢を百姓が永代作り徳になり、逆に一歩狭くなれば、実際には一歩の土地が無いにもかかわらず、百姓はその年貢を永代払い続けねばならなくなる。あれこれ無駄になるのが惜しく、心配である。
【後略】                 
ここには農民達の反発に学んで、できるだけ納得のいく形で検地を進めていこうとする藩の意向が具体的に示されています。ここには悪代官と大庄屋の賄賂や癒着などは入り込めない緊張感が感じられます。
 時代は下りますが19世紀の住吉新田の検地古文書を見ておきましょう。
住吉新田は、笹木野村の東側に広がる扇形の干潟で干拓されたものです。天明三(1783)年に阿波郡伊沢村(阿波町)の伊沢亀三郎が大坂の商人鴻池清助の出資を受け天明七(1787)年に37町歩の新田を完成させます。その後、弘化四(1847)年に初めて検地を受けています。この時の検地文書を対岸の村の大松村の中家の人が写したものには次のように記します。(意訳)
御検地に付き、氏神の前にて以下のことを誓った
起請文前書きのこと当新田(住吉新田)にご検地が仰せ付けられた。田畑は一カ所も一歩も隠すようなことはしないこと。また道・溝(用水路等)・堀・岸等を田畑にするようなことは少しもしないこと。もちろん、村境もはっきりと申し出ること。
1 田畑であると言って掠めるようなことはしないこと。
2 この度のご検地で、万一竿違い(土地の計り違い)があり、田畑の広い狭いがあった場合は、遠慮なく申し出ること。
3 この度お断り申し上げた、道・畦・用水・堀などに仰せ付けられた土地は、後年になって田畑にすることがないようにすること。
4 この度ご逗留中のお奉行様方は当然ですが、お竿打衆、ご家来衆まで草履、草鞋、雑子(人夫役もしくは粗末な食事の外は、少しもお礼のようなことはしないこと。
この文書が村の氏神(住吉神社?)の前で検地について間違いがないように、起請文形式で取交わしたものであることが分かります。第四条の「お礼をするな」というのは、役人へ賄賂を送るなと云うことです。ここでも同じような細かい注意がされています。(「起請文前書之事」中財家文書二〇)

住吉新田の検地前には、担当名主に対して次のような心得が出されています。
  申渡覚【中略】
板野郡住吉新田が、この度御検地を仰せ付けられ、名主の心得は誓紙前書きの通り大事なことなので、すべて忘れることがないようにしなさい。少しでも心得にくいことがあれば指図を受けなさい。
 御検地のことは百姓にとってずっと気にかかることであり不安なことである。だから心して取り組んで行くが、問題は多岐に渡るので、土地の善し悪しをきちんと掌握することは難しく、不行届になることもある。だから名主(庄屋)の覚悟が肝心である。御検地に出来不出来があっては、後々まで煩わしいことになり、作人共の苦労はとても重いことになる。名主はすべてに心を配り、問題が生じたときには申し出なさい。言うには及ばないことだが、不埒な申し出に対しては、監督不届きとして処罰もある。
一 検地の際に、周辺に戸外に出て見守ることは、役目を勤める者以外で無用の者が出てくることは、絶対に止めさせること。
一 郷役の雑子(人夫役もしくは粗末な食事)、草履、草鞋以外、少しのお礼(賄賂)も厳禁でである。そのことは役人の家来の者共へも申し付けてある。万一家来の理不尽な行動があったならば、早速申し出なさい。そのことを隠しおいて後で分かった場合は、あなた方が不届きなこととなり処罰の対象となる。
一 役人の旅宿へ名主の外、無用の人々の出入りは差し止める。もっとも、名主であっても用事が済んだならば、早速退出すること。
 火の用心を堅く申し付けておく。
 右の条文の通り、忘れないように、堅く心得ておくこと。
(「申渡覚」中財家文書二〇七)
 これを見ると起請文前書きを受けて、さらに細かな名主の心得が書き出されています。第六条には起請文前書きと同じく検地役人に対する賄賂の禁止が繰り返して記されています。さら第七条では、農民が検地役人に近づくことまで規制しています。幕末になっても検地作業の現場は、緊張感でピリピリしていたことがうかがえます。研究者は次のように指摘します。
私たちは、映画やテレビドラマから、ともすれば、検地役人が一方的に土地の面積を測り、等級を決め、石高を定めたように思いがちですが農民側の意向も踏まえながら慎重に検地をしたようです。検地帳は、土地基本台帳として、筆写されたり、付箋が貼られたりし ながら幕末・明治初めまで、大切に使用・保管されてきました。 
次に一番手前の農家の庭先を見ていくことにします。

タイムトラベル 太閤検地 升

庭先には、役人がやってきて、村絵図を見ながら枡を主人に渡しています。なんと言いながら渡しているのでしょうか?
こことここが、お前の土地に間違いないか。この土地の面積や等級は検地台帳の通りに決まった。ついては、これらの土地の所有をみとめるので、定められた石高の年貢をきちんと納めること。その際には、この升を使用すること。今まで使っていた升は廃棄せよ。

秀吉の度量衡


この農家を見ると、築地塀に囲まれ、牛や馬がいるので、この村を代表する指導的な本百姓のようです。彼らは戦国時代には国衆として、戦国大名の軍事力を担う存在でもありました。新たにやって来た大名とっては彼らを支配下にうまく組み込んでいき、年貢徴収などに協力させることが大きな課題となります。江戸時代になると彼らに,年貢の徴収や村の中のさまざまな事件の処理,人心の掌握などを任せるようになります。その最初の接点が、検地であり、刀狩りであったことになります。

石高制の確立
太閤検地 年貢米の計算

こうしてみると、秀吉は課税をしにくい畠や宅地(居屋敷)についても、米価に換算するための価値尺度を作ったことになります。豆類や大根やニンジン、野菜などの農作物を、米だったら○石○斗になりますと換算表示するのが石高制です。そしてその石高をもとに徴税するシステムです。また、田も畠も土地の善し悪し(土質)や水利によって収穫高は異なるります。そのために田畠をランク分けして、公平に徴税できるようなしくみをつくったことになります。現在なら、給料30万円の月収といえばその人の財力をだいたい知ることができるように、30石の米がとれる農地を持っている百姓とか、30万石の米がとれる領地を持っている大名とかいえば、同じ米という価値基準でその人の財力をはかることができます。石高や徴税の原則を立ててしまえば、米という価値に一本化するので、徴税・納税もやりやすくなります。ここでは石高制とは、お金の代わりに米で農民や武士の収入基盤を表現し、課税したり知行地として支給したりするために考え出された制度であるとしておきます。しかし、米はお金と違って、年によって収穫量が変化します。
 
検地帳に基づく年貢徴収は、村役人の高度な簿記・計算能力が求められました。
同時に、年貢割りつけの本百姓同士の連帯と調整能力も必要です。村役人の高い能力があって初めてできることでした。同時に、検地で本百姓に登録され、土地所有を認められたことは、子孫に至るまでずっとこの土地を耕し、年貢を皆済し、家を存続させていくことが勤めという意識が生まれることにもなりました。

ここまでは阿波蜂須賀藩の検地を見てきましたが、讃岐生駒藩の状況はどうだったのでしょうか?
生駒藩では組織的な検地が行われなかったようです。そして家臣が藩から与えられた所領(知行地)を自ら経営して米などを徴収する昔ながらの方法が続きます。生駒藩の出来事を記述した「小神野夜話」には次のように記します。

御家中も先代(生駒時代)は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,(松平家)御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」

意訳変換しておくと

家臣団も先代(生駒時代)は、地方で知行取が行われていた。そのため城下に家臣の屋敷は少なかった。それが松平家の入部以後に、家臣団の多くが城下に屋敷を構えるようになった。そのため新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁などに、侍屋敷が形成拡大されることになった

ここからは次のような事が読み取れます。
生駒時代は知行制が温存されため、高松城下に屋敷を持つ者が少なかったこと、
②松平家になって家中が大勢屋敷を構えるようになり、城の南に侍屋敷が広がったこと
つまり太閤検地によって否定された「国人領主制」が生駒藩では温存され、知行制がおこなわていたようです。そのために家臣団は、讃岐各地に自分の所領を持っていて、そこに屋敷を構えて生活している者が多かったと記されています。さらに、生駒家に新たにリクルートされた讃岐侍の中には、さかんに周辺開発を行い知行地を拡大する動きも各地で見られるようになります。つまり、生駒藩では検地も不徹底で、家臣団の髙松城下町への集住も進まなかったことを押さえておきます。言い換えると、讃岐では太閤検地は、農村に劇的な変化をもたらさなかったし、兵農分離も進まなかったということになります。
歴史の授業では、次のように展開します。
タイムトラベル 秀吉が近世への道を開いた

ここまでは太閤検地の統一性に重点を置いて見てきましたが、近年になって報告されている不統一性や不完全性を挙げておきます。
1590年の小田 原攻撃後に、秀吉は腹心の増田長盛を安房国に派遣して検地を行わせていますが、その知行充行状には次のように記します。

「一、本銭百六十五貫文 三百三拾石 な かさ郡かいすか村」

ここには知行高が石高で表示され ていますが、その実体は本銭の貫文を1貫文=2石の比 率で換算しなおしたものです。(川名登『戦国近世変革期 の研究』岩田書院、pp.230 ~ 233、要約)
②1597 年に徳川家康が行った武州入西郡妙覚寺内桃木村の検地では「一 畑百弐拾文」と貫文表示しか記録されていません。(中野達 哉『近世の検地と地域社会』吉川弘文館、pp.44 ~ 48、要約)
③太閤検地には朝鮮侵略の兵力動員の割当て を定める目的もあったと研究者は指摘します。。
④長宗我部元親が行った検地帳には石高の記録がない。長宗我部が秀吉に申告 した石高は9万8千石でうが、関ヶ原の戦い後に土佐国領主になった山内氏の報告では、24 万8千石だっ た。(三鬼清一郎「天下人秀吉の誤算」NHK取材班『歴史誕 生7』角川書店、pp.46 ~ 53、要約)

秀吉による近世の幕開け
秀吉による近世社会の幕開け
このような報告から近年の研究者は、秀吉の太閤検地や刀狩りで兵農分離が劇的に進行したとは考えていないようです。それは江戸時代を通じて長い年月を経て形成されたと考えるようになっています。次回は、この絵図に書かれている刀狩りを見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
徳島県立文書館の展示史料
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