瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:秋山文書

2018年6月に、三豊市の真鍋家の「文化四丁卯二月箱浦御番所」と書かれた箱のなから16点の古文書が見つかりました。その中に戦国期の古文書が二通ありました。真鍋氏は秋山氏と共に甲斐から臣従してきた伝承があります。ただ戦国期の真鍋氏については、いつどのような経緯で香川氏の臣下になったのかは分かっていません。 生駒家分限帳には「真鍋某」の名があります。戦国末期の戦乱の中で、主君をうしなった国人の中には、三野氏のように生駒氏に仕えた者が何人かいます。この真鍋氏も同じようにで生駒氏に仕え、生駒氏転封の後には丸亀藩主に仕え庄内半島の「箱浦御番所」の役人として地域に根付いていたようです。それは、明治初期の戸籍簿からも裏付けられようです。
 真鍋家の戦国時代の文書2通は、天霧城主香川氏が河田氏に宛てたものです。
これと同じようなタイプのものが秋山家文書の中にも残されています。今回はこの二つを比較検証することで、当時の香川氏をとりまく情勢を見ていきます。テキストは、  「橋詰 茂  史料紹介 戦国期香川氏の新出文書について 四国中世史研究NO15 2019年」です。
真鍋家の2通の新出文書は次の通りです。
A 永禄六年九月十三日の香川之景・五郎次郎連署状(折紙)
B 年末詳正月十一日の香川之景書状(折紙)

真鍋家文書 香川之景・五郎次郎連署状(折紙)
真鍋家文書A   永禄六年九月十三日の香川之景・五郎次郎連署状(折紙) 二人の花押が並ぶ
    同名与五郎無別儀
        相届候ハゝ彼本知之
        内真鍋三郎五郎かたヘ
        惜却之田地令扶持
        候此旨於相意得可申候
        恐々謹言
永禄六(年)九月十三日     五郎次郎 (花押)
                                   (香川)之景 (花押)
河田猪右衛門尉とのヘ
ここからは次のようなことが分かります。
⓵香川五郎次郎と之景の連名で出されていること
⓶あて先は河田猪右衛門尉で、河田氏が三野氏と同様に、香川氏の重臣的存在であったこと
③内容は川田氏と与五郎の届け出ている本知行地の内、真鍋三郎五郎へ売却した田地を扶持することを川田氏に命じています。
④「同名与五郎」という宛名の河田と同姓を指しているのかどうか、よくわからない人物。
⑤三野平野に秋山氏や河田氏・真鍋氏の知行地が散在していたこと

真鍋家文書 B 香川之景書状(折紙)
真鍋家文書B 年末詳正月十一日の香川之景書状(折紙)
同名与五郎舎弟
跡目被申付可被作
奉書候忠節之儀
候之条四人真鍋之内
両人之分可扶持候
但河人三郎兵衛尉二令
扶持之内総六郎
依無案内申付候哉
自然於其筋目者
可加異見候柳
不可有別儀候何も
長総折紙候者
令披見可分別候
只今目録以下
無之条先如此候
何も河人二堅令
異見不可有相違候
此旨可申聞候也
謹言
正月十一日              香川 之景(花押)
河田猪右衛門尉殿
  意訳変換しておくと
同名(河田?)与五郎の舎弟に跡目を申しつける奉書を与える。ついては忠節を励むように。
四人の真鍋家の内、両人分を扶持することと
但し河人三郎兵衛尉の扶持については、総六郎に案内なく申し付ける。
これについて異議が出された場合には、長総の折紙を参考にして判断するように
以上について目録に記したようにすべきで、河人に意見して相違無いように申し聞かすこと
以上のような内容の執行を、香川之景が河田伝右衛門尉に命じています。

ここには、真鍋氏や河田氏・河人氏などさまざまな人物が登場してきますが、その立場がどんなものだったのかはよく分かりません。そのため内容もよく分かりません。ぼやっとわかるのは、与五郎の知行地と跡目をめぐる争いが起きたこと、その紛争に香川氏が介入して、このような処置を出したことは分かります。よって、登場人物は香川氏配下の国人衆と研究者は考えています。
  ふたつの文書に共通して登場するのは、同名与五郎・真鍋某・真鍋三郎五郎です。Bの真鍋某は三郎五郎と研究者は推測します。宛名の河田猪右衛門尉は、天霧城代の河田伝右衛門尉の一族でしょう。香川氏の発給文書には、このような役目を担う者としてに河田姓がよく登場します。  発行時期については文書Aは永禄六(1563)年9月で、香川氏が天霧城籠城から退去した後で、香川之景の単独発給です。
  
比較のために秋山文書の永禄四年の文書を見ておきましょう。これは香川之景が秋山良泰に賞として、所領の給付を行ったものです。

1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」

1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」
1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」2

    意訳変換しておくと
今度の合戦について、辛労について感謝する。ついては、三野郡高瀬郷水田分内の原・樋口の三野掃部助知行分と、同分守利名内の真鍋三郎五郎の買徳した田地の両所を知行地として与えるものとする。恐々謹言
永禄四(1561年)正月十二日             (香川)之景(花押)
秋山兵庫助(良泰)殿
御陣所
秋山兵庫助に高瀬郷水田分のうち、原・樋口にある三野掃部助知行分と守利名内真鍋三郎五郎買徳地を与えています。「真鍋三郎五郎買徳地」というのは、真鍋氏が秋山氏より金銭で手に入れた土地名のようです。最初に見た真鍋家文書Aにも出てきました。この他にも真鍋氏は、土地を購入していたことが分かる史料があります。香川五郎次郎の唯一の単独発給文書である年未詳二月二日付けの秋山藤五郎知行宛の書状にも次のように出てきます

(前略)
於国吉扶持分事
一 三野郡打上之内国ケ分是者五郎分也
一 同郡高瀬之郷帰来分内 真鍋三郎五郎 売徳七反小有坪かくれなく候也
一 同郡高瀬之郷内武田八反、是も真鍋三郎五郎買徳有坪かくれなく候
右所々帰来(秋山)善五郎二令扶持候、全可知行者也
永禄六(年)六月一日
河田伝右衛門尉殿

帰来善五郎は、香川氏の家臣である秋山氏の一族で、高瀬郷帰来を拠点としたことからから帰来秋山と称するようになったことは以前にお話ししました。帰来分内の土地は真鍋三郎五郎に売却されていましたが、それが全て秋山善五郎へ宛行われています。これらは真鍋氏が「買徳」によって手にいれたものです。
これらの史料には、真鍋三郎五郎が高瀬郷内で多くの買徳地を持っていたことが分かります。この背景には、高瀬郷はもともとは秋山氏の本貫地でしたが、分割相続で秋山氏本家が衰退、一族の分裂によって所領を手放していき、それを真鍋氏が買徳したと研究者は考えています。真鍋氏も秋山氏と同じ様に高瀬郷内に居住していた国人なのでしょう。 しかし、真鍋氏からすれば「買得」によって手に入れた土地を、他人に宛がわれたことになります。その背後に何があったのかは分かりません。
 真鍋は高瀬郷内で多くの田地を買徳していたことは、先ほど見た通りです。真鍋氏が土地を集積するだけの経済力を、どのようにして持っていたのかはよく分かりません。三野湾の製塩・廻船業などが思い浮かびますが、それを裏付ける史料はありません。

 次に二通の文書の宛名の河田猪右衛門尉を見ておきましょう。
彼は河田伝右衛門尉の一族のようです。猪右衛門尉が香川家でどんな役割を果たしていたかは分かりません。しかし、之景の知行宛行は伝右衛門尉を通じて行われています。ここからは彼は所領に関する役職に就いていたことがうかがえます。
 猪右衛門尉の名が出てくる史料が一点あります。それは秋山藤五郎宛の五郎次郎発給文書です。「委猪右衛門可申渡」と、猪右衛門を用いての通達です。五郎次郎の唯一の単独発給文書であることに研究者は注目します。このような形で、猪右衛門を用いることは、五郎次郎(信景)の直属家臣となっていることだと研究者は指摘します。これも天霧籠城を契機に、領主関係が強化された結果かもしれません。最終的には、猪右衛門は五郎次郎付きの家臣となっています。「香川氏は讃岐で唯一、戦後大名化の道を歩んでいた」とされますが、その兆候がこの辺り見えます。
天霧城を退城した後、之景・五郎次郎両名とも毛利領国内へ退去します。天正五年に元吉合戦に合わせて香川氏は讃岐に帰ってきます。そして信景が登場します。これは五郎次郎が家督を相続して信景と名乗ったものと研究者は判断します。
  
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「橋詰 茂  史料紹介 戦国期香川氏の新出文書について 四国中世史研究NO15 2019年」」
関連記事

  秋山家文書は、大永7(1527)年から永禄3(1560)年までの約30年間は空白期間で、秋山氏の状況はほとんど分かりません。しかし、この期間に起きたことを推察すると、次のようになります。
①新たに秋山家の統領となった分家の源太郎死後は、一族は求心力を失い、内部抗争に明け暮れたこと
②調停に入った管領細川に「喧嘩両成敗」で領地没収処分を受け、秋山一族の力は弱まったこと。
③そのような中で、秋山氏は天霧城主香川氏への従属を強めていくこと
 秋山氏の「香川氏への従属化=家臣化」を残された秋山文書で見ていくことにします。 テキストは前回に続いて「高瀬町史」と「高瀬文化史1 中世高瀬を読む 秋山家文書①」です。

  21香川之景感状(折紙)(23・5㎝×45、2㎝)   麻口合戦
1 秋山兵庫助 麻口合戦

 このような形式の文書を包紙と呼ぶそうです。本紙を上から包むもので、さまざまな工夫がされてます。包紙に本紙を入れたあと、上下を持って捻ること(捻封)で、開封されていない状態を示す証拠とされたり、「折封」や「切封」などの方法がありました。包紙に記された「之景感状」とは、当初記されたものではなく、受領者側の方で整理のため後に書き込まれたもののようです。宛人の(香川)「之景」に尊称等が付けられていないので、同時代のものではなく時代を下って書き加えられたものと研究者は考えているようです。

1 秋山兵庫助 麻口合戦2
  読み下し文に変換します。
今度阿州衆乱入に付いて、
去る十月十一日麻口合戦に於いて
自身手を砕かれ
山路甚五郎討ち捕られる、誠に比類無き働き
神妙に候、傷って、三野郡高瀬
郷の内、御知行分反銭並びに
同郡熊岡・上高野御
料所分内参拾石新恩として
合力申し候、向後に於いて全て
御知行有るべく候、此の外の公物の儀は、
有り様納所有るべく候、在所の
事に於いては、代官として進退有るべく候、
いよいよ忠節御入魂肝要に候、
恐々謹言
(香川)
十一月十五日   之景(花押)
秋山兵庫助殿
御陣所
 内容を見ていくことにします
まず見ておくのは、いつ、だれが、だれに宛てた文書なのかを見ておきます。年号がありません。発給者は「之景」とあります。当時の天霧城主で香川氏統領の香川之景のようです。受信者は、「秋山兵庫助殿  御陣所」とあります。
1秋山氏の系図4


秋山氏の系図で見てみると、「兵庫助」は昨日紹介した秋山家分家のA 源太郎元泰の嫡男になるようです。父親源太郎の活躍で分家ながらも秋山氏の統領家にのし上がってきたことは、昨日お話しした通りです。父が1511年の櫛梨山の戦いの活躍で、秋山家における位置を不動にしたように、その息子兵庫助良泰も戦功をあげたようです。
 感状とは、合戦の司令官が、委任を受けた権限の範囲で発給するものです。この場合は、秋山兵庫助の司令官(所属長)は香川之景になっています。ここからは秋山氏が、香川氏の家臣として従っていたことが分かります。
 内容を見ていきましょう
文頭の「今度阿州衆乱入」とは、阿波三好氏の軍勢が讃岐に攻め込んできたことを示しているようです。あるいは、阿波勢の先陣としての東讃の武士団かもしれません。
 「麻口」は、高瀬町の麻のことでしょう。
ここには近藤氏の「麻城」がありました。近藤氏が、この時にどのような動きを見せたかは、史料がないので分かりません。どちらにしても、長宗我部元親の土佐軍の侵攻の20年ほど前に、阿波の三好軍(実態は三好側の讃岐武士団?)が麻口まで攻め寄せてきたようです。その際に、 秋山兵庫助が山路氏を討ち取る戦功をあげ、それに対して、天霧城の香川之景から出された感状ということになります。「御陣中」とありますので、作戦行動中の兵庫助の陣中に、之景からの使者が持ってきて、その場で渡したものと考えられます。この後に正式な論功行賞が行われるのが普通です。

 後半は「反銭」や「新恩」の論功行賞が記されています。
この戦いで勝利を得たのは、どちらなのかは分かりませんが、両軍の雌雄を決するような大規模の戦いでなかったようです。これは、2年後の天霧城籠城合戦の前哨戦のようです。
 それでは、この麻口の戦いがあったのはいつのことなのでしょうか。
『香川県史』8「古代・中世史料編」では、永禄元(1558)年としています。それは『南海通記』に、この年に阿波の三好実休の攻撃を受けた香川氏が天霧城に籠城したことが記されているからです。これは讃岐中世史においては、大きな事件で、これ以後は香川氏は三好氏に従属し、讃岐全域が三好氏の支配下に置かれたとされてきました。『南海通記』の記述を信じた研究者たちは、この文書を永禄元(1558)年の香川氏の籠城戦を裏付ける史料と考えてきたのです。
 しかし、永禄元年に天霧城籠城戦が行われたとする記述は、『南海通記』にしかありません。しかも同書は、年代にしばしば誤りが見られます。秋山文書の分析からは、この文書の年代は、他の史料の検討や之景の花押の変遷などから、永禄三年のものと研究者は考えているようになってきました。
 また、三好側の総大将の実休が、この時には近畿方面で転戦中で四国にはいなかったことも分かってきました。三好軍の讃岐侵入と香川氏の籠城戦は、永禄元(1558)年ではなかったようです。

論功行賞の内容を見ておきましょう
「三野郡高瀬郷の内、御知行分反銭」の「反銭」とは、はじめは臨時の税でしたが、この時代には恒常的に徴収されていたようで、その徴収権です。「熊岡上高野御料所分内参拾石」の三〇石は、収入高を表し、その内の香川氏の取り分を示しています。この収入高は検地を施行するなど、厳密に決められたものではないようです。
「代官として進退あるべく候」とありますので、熊岡や上高野には、秋山氏の一族が代官として分かれ住んだ可能性があります。先ほども確認しましたが、この文書には日付のみで年号がありません。そんな場合は、両者の間の私的な意味合いが濃いとされます。ここからも天霧城主の香川之景と秋山兵庫助が懇意の間柄であったことがうかがえます。
 ここからは秋山氏が細川氏に代わって、香川氏の臣下として従軍していたことが分かります。逆に、香川氏は国人武士たちを家臣化し、戦国大名への道を歩み始めていたこともうかがえます。
 従来は讃岐に戦国大名は生まれなかったとされてきましたが、香川県史では、香川氏を戦国大名と考えるようになっています。

   次に、永禄4年(1561)の香川之景「知行宛行状」を見てみましょう。   
1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」
   
1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」2

書き下し文に変換しておきましょう
今度弓箭に付いて、別して
御辛労の儀候間、三野郡
高瀬郷水田分内原。
樋日、三野掃部助知行
分並びに同分守利名内、
真鍋三郎五郎買徳の田地、
彼の両所本知として、様体
承り候条、合力せしめ候、全く
領知有るべく候、恐々謹言
永禄四
正月十三日
(香川)
之景(花押)
秋山兵庫助殿
御陣所

これも先ほどの感状と同じく、香川之景が秋山兵庫助に宛てた文書で、これは知行宛行状です。これには永禄4(1561)年の年紀が入っています。年号の「永禄四」は付け年号といって、月日の右肩に付けた形のものです。宛て名の脇付の「御陣所」とは、出陣先の秋山氏に宛てていることが分かります。次の戦いへの戦闘意欲を高まるために陣中の秋山兵庫助に贈られた知行宛行状のようです。
  先ほどの麻口の戦いと併せての軍功に対しての次のような論功行賞が行われています。
①高瀬郷大見(現三野町大見)・高瀬郷内知行分反銭と
②熊岡・上高野御料所分の内の三〇石が新恩
③高瀬郷水田分のうち原・樋口にある三野掃部助の知行分
④水田分のうち守利名の真鍋三郎五郎の買徳地
以上が新恩として兵庫助に与えられています。
 水田名は大永7(1527)年に、幸久丸(兵庫助の幼名?)が阿波の細川氏の書記官・飯尾元運から安堵された土地でした。それが30年の間に、三野掃部助の手に渡っていたことが分かります。つまり、失った所領を兵庫助は、自らの軍功で取り返したということになります。兵庫助は、香川氏のもとで軍忠に励み、旧領の回復を果たそうと必死に戦う姿が見えてきます。この2つの文書からは、侵入してくる阿波三好勢への秋山兵庫助の奮闘ぶりが見えてきます。
しかし、視野をもっと広くすると讃岐中世史の定説への疑いも生まれてきます。
従来の定説は、永禄元(1558)年に阿波の三好氏が讃岐に侵攻し、天霧城攻防戦の末に三豊は、三好氏の支配下に収められたとされてきました。
しかし、それは秋山文書を見る限り疑わしくなります。なぜなら見てきたように、永禄3・4年に香川之景が秋山氏に知行宛行状を発給していることが確認できるからです。つまり、この段階でも香川氏は、西讃地方において知行を宛行うことができたことをしめしています。永禄4(1561)年には、香川氏はまだ西讃地域を支配していたのです。この時点では、三好氏に従属したわけではないようです。
 この文書で秋山兵庫助に与えられているのは、かつての三野郡高瀬郷の秋山水田(秋山家本家)が持っていた土地のうちの原・樋口にある三野掃部助の知行分と、同じく水田分のうち守利名の真鍋三郎五郎買得の田地のニカ所です。
 宛行の理由は「今度弓箭に付いて、別して御辛労の儀」とあるとおり、合戦の恩賞として与えられています。合戦の相手は前年の麻口の戦いに続いて、阿波の三好勢のようです。香川氏の所領の周辺に、三好勢力が現れ小競り合いが続いていたことがうかがえます。三好軍が丸亀平野に侵入し、善通寺に本陣を構え、天霧城を取り囲んだというのは、これ以後のことになるようです。
それでは天霧城の籠城戦は、いつ戦われたのでしょうか。
それは永禄6(1563)年のことだと研究者は考えているようです。
三野文書のなかの香川之景発給文書には、天霧龍城戦をうかがわせるものがあります。
永禄6(1563)年8月10日付の三野文書に、香川之景と五郎次郎が三野勘左衛門尉へ、天霧城籠城の働きを賞して知行を宛行った文書です。合戦に伴う家臣統制の手段として発給されたものと考えられます。
『香川県史』では、この文書について次のように記します。
「籠城戦が『南海通記』の記述の訂正を求めるものなのか、またその後西讃岐において別の合戦があったのか讃岐戦国史に新たな問題を提起した」

 この永禄6年の天霧龍城こそ『南海通記』に記述された実休の讃岐侵攻だと、研究者は考えているようです。
 この当時、香川氏の対戦相手は、前年に三好実体が死去していることから、三好氏家臣の篠原長房に率いられた阿波・東讃連合勢になります。善通寺に陣取った三好軍に対して、香川氏が天霧城に籠城するようです。従来の説よりも5年後に、天霧城籠城戦は下げられることになりそうです。
 永禄8(1565)年には、秋山家は兵庫助から藤五郎へと代替わりをしています。
天霧寵城戦で、兵庫助か戦死して藤五郎に家督が継承されたことも考えられます。その後、天正5(1577)年まで秋山文書には空白の期間がります。この間の秋山氏・香川氏の動向は分かりません。最近の研究からは、この時期の香川氏は毛利氏を頼って安芸に亡命中だったと研究者は考えています。香川氏の去った後に、三好氏の重臣・篠原氏の発給文書が西讃でふえることがそれを裏付けます。香川氏が毛利氏の支援を受けて天霧城に帰還するのは、元吉合戦のあった年になります。この時期の瀬戸内海の諸勢力は、織田政権と石山本願寺・毛利氏との抗争を軸に、どちらの勢力につくのかの決断を求められた時代でした。
以上をまとめておくと次のようになります
秋山氏は鎌倉末期には足利尊氏、南北期には細川氏と勝ち馬に乗ることによって勢力を拡大してきました。しかし、16世紀初頭の細川氏の内部抗争に巻き込まれ、秋山一族も一族間で相争うことになり、勢力を削られていきます。そして、16世紀後半になると戦国大名に成長脱皮していく天霧城主・香川氏に仕えるようになっていきます。そして、失った旧領復活と生き残りをかけて、必死の活動を戦場で見せる姿が秋山文書には残されていました。
 同時に秋山文書からは、阿波三好氏の西讃進攻や支配が従来よりも遅い時期であること、さらに香川氏を完全に服従したとは云えず、西讃地方までも支配下に治めたとは云えないことが分かってきました。
以上です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
高瀬町史
高瀬文化史1 中世高瀬を読む 秋山家文書①

P1130010
本門寺 西門

 本門寺は、中世に高瀬郷に西遷御家人としてやってきた秋山氏が氏寺として創建した西国で最も古い法華宗寺院です。地元では、高瀬大坊と呼ばれ親しまれています。秋の日蓮上人命日(旧暦十月十三日)に開かれる大坊市は、くいもん市とも呼ばれ、食物を商う露店が多く集まり、近隣各地から多くの参詣者を迎え賑わってきました。
P1130051
本門寺案内図
 境内には、元禄十(1697)年建立の開山堂を始め、本堂・古本堂・庫裡・客殿・鐘楼・宝蔵・山門・西門などの堂字が点在し、いくつもの末坊を擁する大寺院です。

P1130027
開山堂と客殿
 本門寺は、甲斐国から乳飲み子時代にやってきた秋山泰忠(日高)が、建立したと寺院です。彼は、日華の弟弟子を招き、最初は那珂郡杵原郷田村(現丸亀市田村町)に法華堂を建立します。そして、丸亀を拠点として法華宗の流布に努めます。が、兵火で焼け落ちてしまいます。そこで、武元(1334)年 高瀬郷に一堂(後の中之坊)を建立し、日仙を招き法華堂の上棟を目指し、翌年に完成させます。これが現在の本門寺です。このように本門寺は、秋山氏の氏寺として創建されます。
創建者の秋山泰忠は、弘安年間(1278~88)に、西遷御家人の祖父の光季(阿願)と来讃します。
その時の年齢は10歳未満だったと考えられています。
 泰忠の祖父阿願は、甲斐において法華信仰に深く、帰依していました。泰忠はその影響を受け、幼少より法華信仰に馴染んでいたようです。故郷を離れ、遠く讃岐までやってきた泰忠にとっては、年少の頃から南北朝の動乱の戦いを繰り返す中で心を癒すために、法華経に信仰心を傾けていったようです。彼は、晩年に置文(遺言状)を12回も書いていますが、そこには子孫に法華宗への信仰を強く厳命しています。残された置文からは、年を経るに連れて法華宗への信心が深まっていったことがうかがえます。
 泰忠により本門寺は創建され、彼の庇護のもとに領民に法華宗が広められていき、後の高瀬郷皆法華信仰圏が成立するということになります。甲斐からやってきた一人の男の信仰心と強い意志が現在の下高瀬の法華信仰を形作ったのです。本門寺に残された文書から秋山泰忠と本門寺の関係を見ていくことにします。参考文献は「三野町文化史3 三野町の中世文書」  です。

P1130057
本門寺開祖秋山孫次郎 泰忠の墓(本門寺の墓所)

 本門寺に残された中世文書
 本門寺には桐箱の中の黒漆塗りの本箱に中世文書12が収納されています。その中で分類番号1・2号を読んでみましょう。その前に注意点として
①全文がひらがなで書いているため大変読みづらいので、( )内は漢字変換しています。
②文書の上の方が虫食いで欠けているので読めない部分(空白?)があります。
③当時は濁音表記がありません。想像力で補っていきます。
内容は、沙弥日高(泰忠)の置文で本門寺中に対して出された遺戒です。子孫や郷内の人々に本門寺以外の崇敬を禁ずることを戒めています。本門寺の一番古い文書である沙弥日高(秋山泰忠)置文を見てみましょう。
のためにさためをき(定め置き)候てうてう(条々)の事
?月十五日は、こハゝにて(故母にて)わたらせ給候人の御めい日(御命日)
???給候、別に月こと(月毎)にそのひ(日)をかき申し???と
???ともその日か(書)き申候事のみ候あいた御???
???のために御はたき(畑)しんたてまつり候 はたけ(畑)あはせて三たん(三段)なり
このところは、あくわん(阿願)よりにんかう(日高)ゆつり(譲り)給ハるなり
しかるを、うは(乳母)にてわたらせ給候人と、はは(母)にてわたらせ給二人の御けふやう(供養)のために、そう(添)ゑ御やしき(屋敷)のためにきしん(寄進)候ところなり、しかるをまこ(孫)七わか(我)ゆつり(譲)うち(内)といらん(違乱)を申事あらは、なかくふけふ(不孝)の人なり ほんかう(本郷)?い 
 しんはま(新浜)とい(土井分)ふんと にんかう(日高)かあと(跡)においてはふん(分)もち(知行)きやうする事あるへからす、もしまこ(孫)七いらん(違乱)を申候はゝ、かの人のふん(分)をは、きやうたい(兄弟)のなか(中)にかみ(上)へ申てちきやう(知行)すへきなり、
 又はそう(僧)お そむ(背)き申候はんすることもまことも(孫共)又は、そうしう(僧衆)のなかにもはしまし候ハんする人とく いんきよ(隠居)し候ハ、ふけふ(不孝)の人としてにんかう(日高)かあとにおいてハ ちきやう(知行)すへからす
御そう(僧)(御僧は百貫坊日仙)より御のちハたいの御そう(僧)一ふんものこさす御あとハ御ちきやう(知行)あるへきあいた、こ(後)日のためにいまし(戒)めのお(置)きしやう(状)くたんのことし
ちやハくねん(貞和9年)十月三日

                      しゃミ(沙弥)にんかう(日高)(花押)
文頭に
「さためをき(定め置き)候てうてう(条々)の事」

とあるので置文だということが分かります。置文とは、将来にわたって守るべき事柄を示したものです。ある意味、遺言のような性格もあります。
 文末署名は
「しゃミ(沙弥)にんかう(日高)」

と記されています。これを「につこう」と読むようです。日高は、前回にお話しした秋山泰忠のことで、彼の法名です。法華宗では法名に「日」の文字を用いることが多いようです。秋山家文書の置文は「秋山孫次郎泰忠」の署名で残されています。一方、宗教関係で本門寺に残された文書には 「しゃミ(沙弥)にんかう(日高)」が用いられて云います。俗と聖を使い分けているようです。それだけの分別ができる人だったようです。
 年紀には、ひらがなで「ちやハくねん」と記されています。当時は濁音がありませんので、これを「じょうわ」と読むようです。
 日高(秋山泰忠)は、60歳を越えたと思われる文和2年(1353)から翌年にかけて置文を多く発給しています。死期を察したのかもしれませんが、実はその後も40年近く生き続けます。そして、息子よりも長生きすることになり、置文を何度も書き直すことになります。結局12通も残しています。
P1130054
本門寺開祖秋山孫次郎 泰忠の墓(本門寺の墓所)

 もう一度置き文に戻りましょう。
文中に「あくわん」と見えますが、これは秋山文書にも登場した「阿願」で、秋山泰忠の祖父・光季のことです。祖父の時代に乳飲み子の泰忠は、「阿願」に連れられて高瀬郷にやってきたことは前回にお話しした通りです。
「しんはまのといふん」とありますが、これは「新浜土井分」です。
新浜には塩浜(塩田)が開発されており、塩の生産が行われていました。秋山家文書にも、新浜の年貢貢進の記事があり、この年貢は塩年貢のことと推定できます。塩田からの収入が秋山氏の経済的な強みであったことは、前回にお話ししました。
 後半では、本門寺と秋山家とは必ず寺檀関係を保つべきことを特に戒めています。これは本門寺が根本檀越であるとの立場を強く打ち出しています。秋山家の身内に残した置文とは、性格が少し違うようです。
「御そう(僧)」は本門寺を開基した百貫坊日仙です。「たいに(第二)の御そう」は日寿で、どちらも本門寺の歴代住職になります。
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              正面には延文4年 日高大居士(泰忠)
本門寺文書 文書番号2の日高置文 その2を見てみましょう
申しまいらせをきゆつりしやう(置き識り状)にも、いましめの□やうにしのおち(字の落ち)候ところ候は、みな入し(字)をして候、これをうたか事あるへからす候、
ともにもゆつり(譲り)おき候しやううことに志(字)のおちて候ところには、みなみな入しをして候
 かうかしそんの中に大にの御そう(第二の御僧=日寿)のほかに し(師)をとり申候人もし候はゝ、日かう(日高)かあとにをき候ては、 一ふんちきやう(知行)する事ゆめゆめあるましく候、もしも候はゝ、そうりやうみつた(惣領水田)かはからいとして、かみ(上=幕府)へ申て御たう(塔)へきしん(寄進)申へく候

 十三日のかう(講)、又十五日かう(講)の人  ひやくしやう(百姓)も、御めい(命)をそむ(背)き候は、みなみな大はうほうとして、りやうない(領内)のかま(構)いあるましく候 
 ちうふん(註文)やふ(破)れ候ても候はゝ、もと(元)ことくきしん(寄進)申候ところおは、そうりやう(惣領)まこ(孫)四郎まんそく(満足)には(果)すしまいらせ候へいくらも中をきたき事とも、なをもをんて申し候へく候
おうあん五年二月二日    
しやミ日かう(花押)
内容は
 最初に、以前に書いた置文に、字の欠けたところがあったので、その部分を追記した。それをもって偽文書とうたがうことなかれと云っています。この時代にも譲り状に関して、偽物が出回っていたことをうかがえます。自分の書いた譲り状に対しての疑義は認めないという強い意志表明です。

次に、泰忠の子孫は「大弐(二代目)の僧日寿」を本門寺の住持として崇めるよう強く戒めています。
もし、日寿以外を師とする者が出てきたら、泰忠の遺領を知行することは認めない。そしてそのような者は惣領の孫四郎泰久(水田)から幕府へ申し出て、他に堂塔を寄進して新たに寺をおこすようにせよ、と本門寺に対して背くことはならないと戒めます。法華宗の本義としての不受布施の立場を表明したものと研究者は考えているようです。

1 本門寺 御会式

 十三日の講とは、日蓮の命日に行う報恩講のことであり、

秋山一族だけでなく、領内の百姓にまでも絶対に行うよう厳命しています。本門寺を中核とした、秋山一族の結合を図っていこうとするねらいがうかがえます。これについては、
秋山家の惣領家にも次のように置文をのこしています。
秋山家文書 文和二年の源泰忠置文、一ッ書き五条目十月の十三日の御事
十月の十三日の御事をハ、やすたたかあとをちきやうせんするなん志、ねう志、まこ、ひこにいたるまて、ちうをいたすへし、へちに御たうおもたて申、このうちてらをそむきも申ましき事、たといないないハきやうたいとい、又ハいとこ、おちのなか、又ハいとことものなかにも、うらむる事ありといふとも、十三日にハよりあいて、御ほとけ上人の御ため、そう志うおもくやう申、志らひやう志、さるかく、とのハらをも、ふんふんに志たかんて、ねんころにもてなし申ヘきなり、ない〆ハいかなるふ志んありとも、十三日、十五日まで、ひところにあるへきなり
漢字変換すると
(十月の十三日の御事をば)  (泰忠が跡を知行せんする男子)、(女子、孫)  (ひごに至るまで忠を致すべし)  (別に御堂をも建て中し)  (この氏寺を背きも申すまじき事)    (たとえ内々は) (兄弟と言)   (又はいとこ)(叔父の中) (又はいとこ共の中にも)  (恨むる事)(ありというとも)(十三日には寄り合いて) (御ほとけ上人=日蓮の御ため)(僧衆をも供養申し) (白拍子)(猿楽)(殿原をも)(分々に)(従って) (懇ろにもてなし申すべきなリ)  (内々はいかなる不信ありとも)(十三日、十五日まで)(一心にあるべきなり)

ここからは次のような事を指示していることが分かります。
①子孫代々、本門寺への信仰心を失わないこと。別流派の寺院建立は厳禁
②一族同士の恨み言や対立があっても、10月13日には恩讐を越えて寄り合い供養せよ
③13日の祭事には、白拍子・猿楽・殿原などの芸能集団を招き、役割を決めて懇ろにもてなせ。
④一族間に不和・不信感があっても、祭事中はそれを表に出すことなく一心に働け。
 十月十三日の日蓮上人の命日法要は、法華信仰を培っていくための重要なイヴェントと考えていたことがうかがえます。この行事を通じて秋山一族と領民の団結を図ろうとしていたのでしょう。
その祭事については
「白拍子・猿楽・殿原をも分々に従って懇ろにもてなし申すべきなリ」

とあり、地方を巡回している白拍子・猿楽・殿原などの芸能集団を招いて、いろいろな演芸が催されるイヴェントであったことが分かります。殿原とは廻国の武芸者のようです。それを今後も続けよと具体的に指示しています。祭事における芸能の必要性や重要性を認識していたのでしょう。

1 本門寺 大坊市2

 ちなみにここには芸能集団を「懇ろにもてなし申す」と、宿泊させてもてなすように指示しています。ところが百年後の高松の田村神社文書には「興行が終了したら即座に退去させる」と、芸能集団に対する差別意識が生まれているのがうかがえます。さらには、十三日から十五日の間は「皆心にあるべし」との戒めます。これらの戒めは、本門寺の発展と共に郷内に広まり「皆法華」の宗教圏を形成することとになるようです。
 他に残された置文を見てみると、次のような戒めも記されています
① 泰忠が信仰するのと同様に勤行をしなさい
②「蚊虻浅謀」といって法華宗以外の宗義を信仰することは、蚊や虻のごとき浅はかさである。
 この「十月の十三日の御事」が現在の本門寺門前において市が立つ「大坊市」の起源となっているのです。ひとりの男の思いが引き継がれてきた祭事のようです。
1 本門寺 大坊市


 秋山泰忠は、日仙への帰依することを通じて、戦いで血糊のついた己の姿を清め、武士の安心を得ようとしたのかもしれません。同時に、この法華信仰を媒介として秋山一族、家人や下高瀬郷内の百姓住人すべてを支配することを望んだようにも思えます。

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日仙上人の隠居寺である上の坊の墓
晩年の応安五(1372)年の沙弥日高置文(本門寺)には、本門寺への信仰を次のように求められるようになります。
①開山日仙と共に二代日寿(大弐房、本門寺歴代では、日華の跡の三代目)にも忠孝を尽くし、
②氏寺本門寺の「師」以外に宗教上の「師」を認めず、
③子ども・若党から下々まで不信心者は「大法度」である
と記します。さらに十三日・十五日の講会に参加しない郷民らには「碩びいのか樋い」が許されないとされるようになり、法華信仰の実を見せなければ、実質的には高瀬郷内には生活できなかったようです。その信仰拠点が、大坊本門寺であり、数多く建立された寺内坊や支坊でした。

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日仙上人の墓(上の坊)

次の表からは、幕末の下高瀬住民の法華宗比率は90%を越えていることが分かります。
1 本門寺 皆法華

室町時代以降は、秋山氏が支配する高瀬郷内のすべての住人が皆法華の状況であったようです。
 以上のように、秋山泰忠は法華宗への熱烈な信仰心を持ち、個性的な独特の置文を残しています。そして、讃岐の新しい所領に「郷内皆法華」の法華王国の実現をめざして、強力な宗教政策を展開していきます。
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本門寺本堂
次に、本門寺や子院が果たした役割を、別の視点から見てみましょう。秋山氏は、水利管理についても、寺の力を利用していたことがうかがえます。例えば、高瀬郷領内の要所に本門寺末坊を配置していまが、その配置場所を見てみると
①音田川からの取水源である木寺井近くに上之坊があり、
②高瀬川と音無川の合流地点の荒井及び中ノ井近くに宝光坊、
③その下流の屈曲点の新名井及び額井近くに西山坊、
④そして、高瀬川の旧河口付近に中之坊
  これは井手の分岐点の近くに子院が配置されています。つまり、お寺という宗教組織を通じて、用水管理を行っていたのです。
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本門寺の子院 奥の院

これらの「井手五箇所」は、中世以来の井手(取水堰)です。
そこに配置された子院の住僧には、あらかじめ寺領免田への用水使用の優先権を持たせていたことが秋山文書からは読み取れます。これらの井手からの用水確保は「一日二枚宛」と決め、子院が管理していたのです。この権利を通して、各坊は信者である住人を監督・勧農させていたのです。この体制の下では、本門寺門徒でない非法華信者は、水利権においても差別的な待遇を与えられたことが考えられます。このような経済的な強制も「皆法華」体制を形作る力となったのでしょう。
1 本門寺 子院

  以上をまとめておきます
①鎌倉幕府は西国の防衛力強化のために甲斐から讃岐高瀬郷の地頭として秋山氏を西遷させた。
②少年としてやって来た秋山泰忠は、熱烈な法華信徒になり新天地に法華王国を築こうとした。
③そのために百貫坊日仙を本山から向かえ、氏寺として本門寺を創建した
④本門寺は、秋山泰忠の篤い保護の下に地域の宗教・文化・教育・水利管理センターとしても機能し、寺勢を拡大していった
⑤秋山泰忠は、具体的な信仰実践を子孫に書き残し、戒めとするように伝えている。
⑥秋山泰忠亡き後も、本門寺は教勢を拡大し「皆法華」体制を形作っていく。

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