瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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秋山氏

以前に秋山氏のことは上のようにまとめておきました。
今回は、上表で⑥と⑦の間に位置するころの「秋山氏の鷹贈答文化政策」を見ていくことにします。
テキストは「溝渕利博 中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要」です。
香西元長による管領細川政元暗殺に端を発する永世の錯乱(1507年)は、「讃岐武士団の墓場」と呼ばれ、多くの讃岐武士団の凋落をもたらします。同時に、中央での細川氏同士の争いは、阿波細川氏の讃岐への侵攻をもたらします。その結果、讃岐は他国に魁けて戦国時代に突入したと研究者は考えています。

1 秋山源太郎 細川氏の抗争
この時期に秋山源太郎は、細川澄元や淡路守護家細川尚春(以久)に接近しています。
その交流を示す資料が、秋山家文書の(29)~(55)の一連の書状群です。阿波守護家は、細川澄元の実家であり、政元の後継者の最右翼と源太郎は考えて、秋山家の命運を託そうとしたのかも知れません。 
 この時期の城山文書からは次のような事がうかがえます。
①高瀬郷内水田跡職をめぐって秋山源太郎と香川山城守が争論となった時に、京兆家御料所として召し上げら、その代官職が細川淡路守尚春(以久)の預かりとなっていたこと。
②この没収地の変換を、秋山源太郎が細川尚春に求めていたこと。
③そのために、源太郎は自分の息子を細川尚春(以久)の淡路の居館に人質として仕えさせていたこと
④淡路守護家に臣下の礼をとり、尚春やその家人たちへの贈答品を贈り続けていたこと。
⑤その淡路守護家からの礼状が秋山文書の中には源太郎宛に数多く残されていること。
⑥ここからは、秋山氏と淡路の細川尚春間の贈答や使者の往来が見えてくること。
この文書については、以前にお話ししました。それを一覧化したものを見ておきましょう。

秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧

秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧2
     秋山源太郎への淡路細川尚春(以久)やその奉行人からの書状一覧
①一番上が日付 
②発給者の名前に「春」の字がついている人物が多いので、細川淡路守尚春(以久)の一字を拝領した側近
③一番下が秋山源太郎からの贈答品です。鷹・小鷹・鷂(ハイタカ)・悦哉(えっさい:ツミ)が多いのが分かります。
鷹狩り

鋭いかぎ爪でハト襲うハイタカ 繰り返された野生の攻防 沖縄・名護市 | 沖縄タイムス+プラス
            鳩を捕らえたハイタカ(牝)

鷹狩りには、オオタカ・ハイタカ・ハヤブサ・ツミ(愛玩用?)が用いられたようですが、秋山源太郎が贈答品に贈っているのはハイタカが多いようです。
ハイタカは鳩くらいの小型の鷹で、その中で鷹狩りに用いられるのは雌だけだったようです。そのハイタカにも細かいランク分けや優劣があったようです。源太郎から送られてきたハイタカは「山かえり(山帰り)」で一冬を山で越させて羽根の色が毛更りして見事なものだったようです。
文書の中に贈答品として、鷹がどんな風に登場するかを見ておきましょう。
(年欠)7月5日付 秋山源太郎宛 細川氏奉行人薬師寺長盛書状 
「就中、重寶之給候」
(年欠)10月29日付 細川氏奉行人 春綱書状
「就之儀、石原新左衛門尉其方へ被越候、可然様御調法候者、可為祝着之由例、諸事石原方可被申候間、不能巨細候」
調教済みの鷹を贈られたことへのお礼が述べられています、
同11月9日付 細川氏奉行人 春綱書状
「なくさミのためゑつさい所望之由」
なぐさめ(観賞用)の悦哉(ツミ)を、細川家の奉行人が所望しています。
同12月27日付 細川氏奉行人 春綱書状
「鷂(ハイタカ)二居致披露候處祝着之旨以書札被申候」
秋山氏から鷂が贈られてきたことへの細川氏奉行人の春綱書状お礼です。用件のついでに、鷹の進上への謝辞をさらりと入れています。
 今度は、淡路守護細川尚春から秋山源太郎へ書状です。                    
今度御出張の刻、出陣無く候、子細如何候や、心元無く候、重ねて出陣調に就き、播州え音信せさせ候、鷹廿居尋ねられ給うべく候、子細吉川大蔵丞申すべく候、
恐々謹言          以久(淡路守護細川尚春)花押
九月七日
秋山源太郎殿
意訳すると
今度の出陣依頼にも関わらず、出陣しなかったのは、どういう訳か! 非常に心配である。重ねて出陣依頼があるようなので、播州細川氏に伝えておくように、
鷹20羽を贈るように命じる。子細は吉川大蔵丞が口頭で伝える、恐々謹言
先ほど見たように、当時は「永世の錯乱」後に、細川政元の養子となっていた「澄之・澄元・高国」による家督争いが展開中でした。澄元方の播州赤松氏は、播磨と和泉方面から京都を狙って高国方に対し軍事行動を起こします。しかし、京都の船岡山合戦で破れてしまいます。これが永正8(1511)年8月のことです。この船岡山合戦での敗北直後の9月7日に淡路守護細川尚春が秋山源太郎に宛てて出された書状です。 内容を見ていきましょう。冒頭に、尚春が荷担する澄元側が負けたことに怒って、秋山源太郎が参戦しなかったのを「子細如何候哉」と問い詰めています。その後一転してハイタカ20羽を贈るようにと催促しています。この意味不明の乱脈ぶりが中世文書の面白さであり、難しさかもしれません。
それから3ヶ月後の淡路守護細川尚春からの書状です。
鵠同兄鷹(ハイタカ)給い候、殊に見事候の間、祝着候、
猶田村 弥九郎申すべく候、恐々謹言
           (細川尚春)以久 (花押)
十二月三日
秋山源太郎殿
意訳すると
  特に見事な雌の大型のハイタカを頂き祝着である。
猶田村の軒については、使者の弥九郎が口頭で説明する、恐々謹言
先ほどの書状が9月7日付けでしたから、それから3ヶ月後の尚春からの書状です。 出陣しなかった罰として、ハイタカ20羽を所望されて、急いで手元にいる中で大型サイズと普通サイズのものを秋山氏が贈ったことがうかがえます。重大な戦闘が続いていても、尚春はハイタカの事は別事のように執着しているのが面白い所です。当時の守護の価値観までも透けて見えてくるような気がします。
 ここからは、澄元からの出陣要請にも関わらず船岡山合戦に参陣しなかった源太郎への疑念と怒りがハイタカ20羽で帳消しにされたことがうかがえます。鷹の価値は大きかったようです。細川家の守護たちのご機嫌を取り、怒りをおさめさせるのにハイタカは効果的な贈答品であったようです。三豊周辺の山野で捕らえられたハイタカが、鷹狩り用に訓練されて淡路の細川氏の下へ贈られていたのです。

 ところで秋山氏の所領がある三野郡に、これだけの鷹類がいたのでしょうか?
 私もかつて日本野鳥の会に入っていて、鷹類の渡り観察会に参加していました。阿波の鳴門や伊予の三崎半島の突端には、東から多くの鷹たち(多くはサシバ)がやってきて、西へと渡って行きます。鷹柱になることもあります。それらを見晴らしのいい高台から眺めるのは気持ちのいいものでした。香川県支部タカ渡り調査グループの調査記録によれば、荘内半島近辺は、春に朝鮮半島へ向かう鷂が集まりやすい地形で、秋には差羽(サシバ)、雀鷹(ツミ)・鷂(ハイタカ)なそが岡山県側から備讃瀬戸の島伝いに南下してくることが報告されています。秋山氏の所領の高瀬郷付近は、春と秋に渡り鳥が飛来する適地であったようです。
 鎌倉時代の関東からの西遷御家人によって、西国に東国の鷹狩り文化が持ち込まれたと云われます。元寇後に讃岐にやって来た西遷御家人でもある秋山氏も、東国で行っていた鷹狩りを讃岐でも行うようになった可能性はあります。贈答用のハイタカは庄内半島周辺で捕らえられ、源太郎家で飼育され、狩りの訓練もされていたのでしょう。尚春のもとで仕えていた秋山新六も、鷹の調教には詳しかったようで、他の書簡には「調教方法は詳しく述べなくても新六がいるので大丈夫」などと記されています。ハイタカの飼育・調教を通じて新六が尚春の近くに接近していく姿が見えてきます。

どうして上級武士達は鷹狩りに熱中したのでしょうか?
古代の鷹狩は「遊猟」と書き、「かり」「みかり」と読まれる神事・儀式だったようです。
遊猟(鷹狩) は「君主の猟」といわれ、皇族や貴族に限られ、庶民が鷹を飼うことは厳禁でした。その背景には、鷹が「魂の鳥、魂覓(ま)ぎの鳥」と見なされていたことがあります。中世でも鷹は仏神の化身として、神前に据える「神鷹」の思想へと受け継がれていきます。このように古代から支配者の狩猟活動は、権威のシンボル的意味を持っていたことは、メソポタミアの獅子刈りがそうであったように世界の古代帝国に共通します。その中で鷹狩(放鷹)は、調教した鷹を放って鳥や獣を捕える技で、天皇・皇族が行う遊猟とみなされてきました。そのため鷹狩はレクレーションではなく、国家権力行使の一部と見みられます。こうして鷹の雛採取の権利は、山林支配権とも結びつきます。それは天皇家から武家政権にも継承されます。今でも「鷹の巣山・大鷹山、鷹山(高山)」などの山名を持つ山は、この系譜に連なっていた可能性があるようです。その一大イヴェントが源頼朝が建久4年(1193)に富士の裾野で大規模で行った巻狩です。これは軍事演習であると同時に、統治者としての資格を神に問うものでもありました。

源頼朝の富士裾野の巻狩り
源頼朝の富士の裾野の巻狩図
「一遍上人絵伝」を見ていると、武家屋敷主屋の縁先に鷹が描かれています。中世武士と鷹との関係は日常的なものだったようです。
 室町期には、狩野永徳の「洛中洛外図屏風」等に嵐山渡月橋近くを行く鷹匠一行が描かれています。鷹狩が定着すると、室町幕府は公家の放鷹や諏訪流鷹術を学んで大名・守護の鷹狩を公認するようになります。その一方で、幕府への鷹の進上を大名・守護に求めるようになります。これはドミノ理論のように、将軍家の鷹献上のために、守護は被官たちに鷹の進上を求めるようになります。自分で鷹狩りをするためだけでなく、鷹が贈答品としての大きな価値を持つようになったのです。だから、守護の中には幾種類何十羽の鷹を飼育し、専業者を雇い入れる者も出てきます。
 そのような中で出されたのが6代将軍足利義教の時の鷹・猿楽統制令です。
これは鷹狩と猿楽は室町殿だけに許される芸能として、他のものには許認可制とするものです。鷹狩と猿楽を権力の象徴として、室町殿の管理下に置こうとする動きと研究者は考えています。その後、三管領等の有力大名から、年頭に将軍に「美物」が献上されるようになります。「美物」として挙げられているのが次のものです。(室町幕府政所代蜷川親元の日記『親元日記』文明17年(1485)

「白鳥・雁・鴨・鶇・青鷺・五位鷺・菱食・鴫・初雁・水鳥・鷹」

こうして室町時代には、鷹の献上・下賜儀礼品化が進んでいきます。
後の信長や秀吉も、この先例を引き継ぎます。こうして戦国期には鷹狩が大流行し、織田信長は大名や家臣から鷹を献上させます。それでは満足できずに、鷹師を奥羽に派遣して逸物の鷹を手に入れ、朝廷に「鷹・雁・鶴」を献上します。それだけでなく「鷹」を家臣団をはじめ安土城下の町民にも下賜しています。
 続いて豊臣秀吉は、全国の鷹を居ながらにして獲得できる鷹の確保体制を築き上げます。
そして、朝廷と武家の儀礼を融合した独自の贈答儀礼を創りだします。天正16年(1588)5月には、鷹狩の獲物が献上品となり、朝廷へは白鳥が、大名には鶴・雁が献上されるようになります。こうして家臣や従属下にある領主から献上させる場合には「進上」という言葉が使われるようになります。これは単なる贈与ではなく、従属関係にあることをはっきりとさせたものです。それだけにとどまりません。それは次のような2つの政治的意図がありました。
①鷹の上納を一元化することで、小領主が持っていた山野支配権を否定
②村落内の小領主は、棟別銭免徐と竹林伐採禁止の特権を獲得
秀吉のやり方は、見事です。村落は鷹を進上することで山野の利用権(野山入会権)を設定し、村落内の小領主も鷹を進上することで、彼らの既得権を維持させたのです。

最後に秋山氏以外の讃岐における国人・土豪層の鷹狩文化を見ておきましょう。
①明応元年(1492) 香川備中守息の香河五郎次郎が鷹野に往っている(蔭凉軒日録)。
②明応6年(1497) 山城国守護代となった香西元長は、翌年に南山城で鷹狩実施。
新しく守護代となって支配者の特権である鷹狩権を山城で行使しています。これは自らの支配権を目に見える形で行使するデモンストレーションでもありました。
③永正元年(1504) 主君細川政元から東讃守護代安富元家に対して「自御屋形鷹二・鳥十・鯛一折、被送下候、祝着畏入候」とあり、鷹・鳥・鯛が下賜。(『細川家書札抄』(高松松平家蔵)
④阿波の三好長治が元亀3年(1572)冬に、山田郡木太郷で讃岐諸将(多度津雅楽助・大林三郎左衛門)を召集して鷹狩実施(南海治乱記)。
これも三好氏による讃岐占領地である山田郡での支配者としての示威行動ともとれます。
⑤『玉藻集』には「阿波の屋形へ羽床伊豆守より白鷺を指上る」とあり、羽床伊豆守政成が「今度於綾川ニ、盡粉骨白鳥一羽生捕畢。進上之如件」(綾川で取れた白鳥(白鷺)を進上)という宛状を調えて、「屋形様 御近習衆中」宛てに送っています。ここからは、白鳥が「美物」であったことが裏付けられます。
⑥「多田刑部は西郡に住す。代々鷹の道をよく知ると云々」とあり、讃岐西部の香川氏家臣多田刑部が「鷹の道」に通じていたこと。ここからは西讃には秋山氏以外にも鷹匠的技能をもつ武士たちがいたことが分かります。彼らが近世になると大名の鷹匠へと招聘されていくのかも知れません。
以上をまとめておきます
①日本には古代の天皇の放鷹にみる「鷹狩する王」(狩る王)の系譜があった。
②中世にはその伝統が在地武士の小領主の間にも広がり、
③鷹はその小領主権を象徴し、鷹の献上は服属の儀礼を意味するようになった
④秀吉は、それを逆手にとって鷹の上納を一元化することで、小領主が持っていた山野支配権を否定
⑤その代償として、村落内の小領主に対しては棟別銭免徐と竹林伐採禁止の特権を与えた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

1 秋山氏の本貫地
秋山氏の本貫 甲斐国巨摩郡青島(南アルプス市)

秋山氏は甲斐国巨摩郡を本貫地とする甲斐源氏の出身で、阿願入道光季が孫二郎泰忠とともに弘安(1278~88)年中に来讃したことは以前にお話ししました。鎌倉幕府は、元寇後に西国防衛のために東国の御家人を西国へシフトする政策をとります。秋山氏も「西遷御家人」の一人として、讃岐にやって来た東国の武士団であったようです。秋山氏が、後世に名前を残した要因は次の点にあると私は考えています。
①日蓮宗の本門寺を下高瀬に西日本で最初に建立したこと。
②本門寺を中心に「皆法華」体制を作り上げたこと
③秋山家文書を残したこと
1秋山氏の系図
秋山家系図(江戸時代のもの 下段右端に光季(阿願入道)

秋山氏は三野郡高瀬郷を本拠としますが、高瀬に定着する前には、丸亀市の田村町辺りを拠点にして、他にも讃岐国内に数か所の所領を持っていたようです。讃岐移住初代の光季(阿願入道)に、ついては、江戸時代に作られた系図には、次のように記されています。
1秋山氏の系図2jpg
秋山家系図拡大(秋山家文書)
系図の阿願入道の部分を意訳変換しておくと
讃岐秋山家の元祖は阿願入道である
号は秋山孫兵衛(光季)。甲州青島の住人。正和4年に讃岐に来住。嫡子が病弱だったために孫の孫の泰忠を養子として所領を相続させた。
 阿願入道は、甲斐国時代から熱心な法華宗徒で、孫の泰忠もその影響を受けて幼い頃から法華宗に帰依します。阿願入道は、那珂郡杵原を拠点にして、日仙を招いて田村番人堂(杵原本門寺)を建立します。これが西日本初の法華宗の伝播となるようです。しかし、杵原本門寺が焼亡したため、正中二年(1325)に高瀬郷に移し、法華堂として再建されます。これが現在の本門寺のスタートになります。
秋山氏系図の泰忠の註には、次のように記されています。
   泰忠
「号は秋山孫次郎。正中2(1325)年 法華寺(本門寺)をヲ建立セリ」
ここからは、下高瀬の日蓮宗本門寺を、秋山氏の氏寺として創建したのは泰忠だったことが分かります。同時に、祖父・阿願入道の跡を継いだ孫の泰忠が実質的な讃岐秋山氏の祖になるようです。彼は歴戦の勇士で長寿だったことが残された史料から分かります。
三野・那珂・多度郡天保国絵図
天保国絵図 金倉郷から高瀬郷へ

 秋山泰忠は、どうして金倉郷から高瀬郷へ拠点を移したのでしょうか?
圓城寺の僧浄成は、高瀬郷と那珂郡の金倉郷を比べて次のように記しています。
「……於高勢(高瀬)郷者、依為最少所、不申之、於下金倉郷者、附広博之地……」

ここには高瀬を「最少」、丸亀平野の下金倉郷を「広博之地」として、金倉郷の優位性を記しています。中世の「古三野津湾」は、現在の本門寺裏が海で、それに沿って長大な内浜が続いていたことは以前にもお話ししました。そのため開発が進まずに、古代から放置されたままになっていた地域です。それなのにどうして、秋山氏は金倉郷から下高瀬に移したのでしょうか。
三野町大見地名1
太い実線が中世の海岸線
秋山氏の所領はどの範囲だったのでしょうか?
秋山氏が残した一番古い文書は、次の泰忠の父である源誓が泰忠に地頭職を譲る際に作成した「相続遺言状」で、ひらがなで次のように記されています。

1秋山氏 さぬきのくにたかせのかうの事
秋山源誓の置文(秋山家文書)
   本文              漢字変換文
さぬきのくにたかせのかうの事、    讃岐の国高瀬郷のこと 
いよたいたうより志もはんふんおは、 (伊予大道より下半分をば)
まこ次郎泰忠ゆつるへし、たたし 孫次郎泰忠譲るべし ただし)
よきあしきはゆつりのときあるへく候 (良き悪しきは譲りのときあるべ候)
もしこ日にくひかゑして、志よの   (もし後日に悔返して自余の)
きやうたいのなかにゆつりてあらは、 (兄弟の中に譲り手あらば)  
はんふんのところおかみへ申して、  (半分のところお上へ申して)
ちきやうすへしよんてのちのために (知行すべし 依て後のために)
いま志めのしやう、かくのことし        (戒めの条)、此の如し) 
                    (秋山)源誓(花押)
  元徳三(1331)年十二月五日        
左が書き起こし文 右に漢字変換文
父源誓がその子・孫次郎泰忠に地頭職を譲るために残されたものです。「讃岐の国高瀬郷のこと伊予大道より下半分を孫次郎泰忠に譲る」とあります。ここからは、高瀬郷の伊予大道から北側(=現在の下高瀬)が源誓から孫次郎泰忠に、譲られたことが分かります。
 ここで気づくのは先ほど見た系図と、この文書には矛盾があります。江戸時代に作られた系図は祖父・阿願入道から孫の泰忠に直接相続されていました。「父・源誓」は出てきませんでした。しかし、遺産相続文書には、「父・源誓」から譲られたことが記されています。
ここからは、後世の秋山家が「父・源誓」の存在を「抹殺」していたことがうかがえます。話を元に返します。

讃岐国絵図天保 三野郡
天保国絵図の三野郡高瀬郷周辺 赤い実線が伊予街道

 伊予大道とは、現国道11号沿いに鳥坂峠から高瀬を横切る街道で、古代末期から南海道に代わって主要街道になっていました。現在の旧伊予街道が考えられています。その北側の高瀬郷(下高瀬)を、泰忠が相続したことになります。現在、国道を境として上高瀬・下高瀬の地名があります。下高瀬は現在の三豊市三野町に属し、本門寺も下高瀬にあります。この文書に出てくる「下半分」は、三野町域、本門寺周辺地域で「下高瀬」と研究者は考えています。そうだとすると、この相続状で高瀬郷が上高瀬と下高瀬に分割されたことになります。歴史的に意味のある文書です。
 この相続文書が1331年、系図には法華堂建立が1325年とありました。父の生前から下高瀬を、次男である泰忠が相続することが決まっていて、それを改めて文書としたのがこの文書なのかもしれません。文書後半には、兄弟間での対立があったことがうかがえます。
 長男が金倉郷を相続したことも考えられます。
 
三野湾中世復元図
    三野湾中世復元図 黒実線が当時の海岸線 赤が中世地名
 
  秋山氏は三野津湾での塩浜開発も進めます。
当時の塩は貴重な商品で、塩生産は秋山氏の重要な経済基盤でした。開発は三野町大見地区から西南部へと拡大していきます。
秋山家文書中の沙弥源通等連署契状に次のように記されています。

「讃岐国高瀬の郷並びに新浜の地頭職の事、右当志よハ(右当所は)、志んふ(親父)泰忠 去文和二年三月五日、新はま(新浜)東村ハ源通、西村ハ日源、中村ハ顕泰、一ひつ同日の御譲をめんめんたいして(一筆同日の御譲りを面々対して)、知きやうさういなきもの也(知行相違無きものなり)」

意訳変換しておくと
「讃岐国高瀬郷と新浜の地頭職の事について、当所は親父泰忠が文和二年三月五日に、新浜、東村は源通に、西村は日源、中村は顕泰に地頭職を譲る。

 泰忠が三人の息子(源通・日源・顕泰)に、それぞれ「新はま東村・西村・中村」の地頭職を譲ったことの確認文書です。ここに出てくる
新はま東村(新浜東村)は、①東浜、
西村は現在の②西浜、
中村は現在の③中樋
あたりを指します。下の地図のように現在の本門寺の西側に、塩田が並んでいたようです。

中世三野湾 下高瀬復元地図

他の文書にも次のような地名が譲渡の対象地として記載されています。
「しんはまのしおはま(新浜の塩浜)」
「しおはま(塩浜)」
「しをや(塩屋)」
ここから秋山氏は、三野湾に塩田を持っていたことが分かります。

兵庫北関入船納帳(1445年)には、多度津船が「タクマ(塩)」を活発に輸送していたことが記されています。
兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾周辺船籍と積荷

上の表で2月9日に兵庫北関に入港した多度津船の積荷は米10斗と「タクマ330石」です。「タクマ」とは、タクマ周辺で生産された塩のことです。三野湾や詫間で作られた塩は、多度津港を母港とする荷主(船頭)の紀三郎によって定期的に畿内に運ばれていたことが分かります。船頭の喜三郎は、以前にお話しした白方の海賊衆山地氏の配下の「海の民」だったかもしれません。
 また問丸の道祐は、瀬戸内海の25の港で問丸業務を行っている大物の海商です。その交易ネットワークの中に多度津や詫間・三野は組み込まれていたことになります。
 讃岐東方守護代の香川氏と、三野の秋山氏は塩の生産と販売という関係で結ばれ、同じ利害関係を持っていたことになります。これが秋山氏の香川氏への被官化につながるのかもしれません。香川氏が多度津港の瀬戸内海交易で富を蓄積したように、塩は秋山氏の軍事活動を支える基盤となっていた可能性があります。その利益は、秋山氏にとっては大きな意味を持っていたと思われます。
  甲州から讃岐にやって来た秋山氏が金倉郷から高瀬郷に拠点を移したのは、塩生産の利益を確実に手に入れるためだった。そのために塩田のあった高瀬郷に移ってきたと私は考えています。

  古代中世の三野湾は大きく湾入していて、次のようなことが分かっています。
①日蓮宗本門寺の裏側までは海であったこと
②古代の宗吉瓦窯跡付近に瓦の積み出し港があったこと
海運を通じて、旧三野湾が瀬戸内海と結びつき、人とモノの交流が活発に行われていたことを物語ります。そして中世には、港を中心にお寺や寺院が姿を現します。その三野湾や粟島・高見島などの寺社を末寺として、管轄していたのが多度津の道隆寺でした。下の表は、道隆寺の住職が導師を勤めた神社遷宮や堂供養など参加した記録を一覧にしたものです。

イメージ 2
中世道隆寺の末寺への関与
 神仏混合のまっただ中の時代ですから神社も支配下に組み込まれています。これを見ると庄内半島方面までの海浜部、さらに塩飽の島嶼部まで末寺があって、広い信仰エリアを展開していたことが分かります。たとえば三野郡関係を抜き出すと
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382)白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷宮
文明14四年(1482)粟島八幡宮導師務める。
享禄3年(1530) 高見島善福寺の堂供養導師
西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社を道隆寺が掌握していたことになります。『多度津公御領分寺社縁起』には、道隆寺明王院について次のように記されています。

「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院(道隆寺)より執行仕来候」

 中世以来の本末関係が近世になっても続き、堂供養や神社遷宮が道隆寺住職の手で行われたことが分かります。道隆寺の影響力は多度津周辺に留まらず、詫間・三野庄内半島から粟島・高見島の島嶼部まで及んでいたようです。
 供養導師として道隆寺僧を招いた寺社は、道隆寺の法会にも参加しています。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されますが、『道隆寺温故記』には、次のように記されています。

「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧集会ス」

 ここからは道隆寺が讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしてきたことが分かります。道隆寺の法会は、地域の末寺僧の参加を得て、盛大に執り行われていたのです。
 堀江港を管理していた道隆寺は海運を通じて、紀伊の根来寺との人や物の交流・交易を展開します。
そこには備讃瀬戸対岸の児島五流の修験者たちもかかわってきます。
「熊野信仰 + 修験道信仰 + 高野聖の念仏阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰」という道隆寺ネットワークの中に、三野湾周辺の寺社も含まれていたことになります。

三豊市 正本観音堂の十一面観音像
正本観音堂の十一面観音像(三豊市三野町)

旧三野湾周辺のお寺やお堂には、次のような中世の仏像がいくつも残っています。
①弥谷寺の深沙大将像(蛇王権現?)
②西福寺の銅造誕生釈迦仏立像と木造釈迦如来坐像
③宝城院の毘沙門天立像
④汐木観音堂の観音菩薩立像
⑤吉津・正本観音堂の十一面観音立像
  伝来はよく分からない仏が多いのですが、旧三野湾をめぐる海上交易とこの地域の経済力がこれらの仏像をもたらし、今に伝えているようです。そのような三野湾の中に、秋山氏は新たな拠点を置いたことになります。
秋山氏が金倉郷から高瀬郷に拠点を移した背景について、まとめておきます。
①西遷御家人として讃岐にやって来た秋山氏は、当初は金倉郷を拠点にした。
②秋山氏は、日蓮宗の熱心な信者で、日仙を招いて氏寺を建立した
③この寺が田村番人堂(杵原本門寺)で、西日本で最初の日蓮宗寺院となる。
④しかし、讃岐秋山家の実質的な創始者は、拠点を金倉郷から三野郡の高瀬郷に移し、氏寺も新たに、法華堂を建立した。
⑤その背景には、三野湾の塩田からの利益があった。秋山氏は塩田の拡張整備に務め、自らの重要な経済基盤にした。
⑥塩田からの利益は南北朝動乱時の遠征費などとして使われ、その活躍で足利尊氏などから恩賞を得て、領地支配をより強固なものとすることができた。
⑦兵庫北関入船納帳(1445年)には、詫間(三野)産の塩が香川氏の配下にあった多度津船で畿内に運ばれていることが記されている。
⑧塩の生産と流通を通じて、讃岐東方守護代の香川氏と秋山氏は利害関係で結ばれるようになっていた。
⑨旧三野湾は、製塩用の薪を瀬戸の島から運んでくる船や、塩の輸送船などが出入りしていた。
⑩海運を通じて、旧三野湾が瀬戸内海と結びつき、人とモノの交流が活発に行われていたことが弥谷寺など旧三野湾周辺のお寺やお堂に、中世の仏像がいくつも残っていることにつながる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

          
 讃岐に鎌倉幕府が送り込んだ新補地頭(しんぽじとう)について以前にお話ししました。彼らは、幕府の西国支配強化の尖兵として送り込んできた東国の御家人たちでした。御家人は武装集団で、守護が現在の県警本部長とすれば、地頭は「市町村の警察署長 + 税務署長」といったところでしょうか。その一覧表が次の表です。
 
1 秋山氏 讃岐の地頭一覧
東国から讃岐にやってきた地頭たち
 二度にわたる蒙古襲来を経験した鎌倉幕府は、三度目の来襲に供えるために、東国の御家人を西国に転封させるという軍事力のスウイング戦略を行います。この時に、讃岐に地頭としてやってきた東国武士団が秋山氏です。
今回は、秋山氏について見ていこうと思います。
テキストは高瀬文化史1 中世の高瀬を読む 秋山家文書①です。
寛永五年(1628)に秋山一忠が作成した系図を見てみましょう。

1秋山氏の系図
秋山氏系図
秋山氏の祖は、新羅三郎義光に始まる「本国甲斐国青嶋之者」と記されています。
清和源氏流の「甲斐源氏」は、平安時代後期に源義光の息義清か常陸国から甲斐国八代郡市川荘(山梨県西八代郡市川三郷町)へ入り、甲府盆地一帯に勢力を拡大します。秋山姓は、義清の孫光朝が甲斐国巨摩郡秋山(同県南アルプス市秋山)を拝領し、ここに拠点を構えたことから生まれたと研究者は考えているようです。
   源頼朝が平家打倒を掲げて挙兵した時に、惣領武田信義が率いる「甲斐源氏」一族は、その大半が勝者の源氏方について参戦します。秋山氏も源氏方に付きます。ところが光朝の妻が平重盛の娘であったことから、頼朝に冷遇され、秋山氏は一時的に没落したようです。
 しかし、光朝は承久三年(1221)武田信光に従い、鎌倉幕府方として後鳥羽上皇方と弓矢を交えます。いわゆる承久の乱です。この戦功によって、秋山氏は武家としての名誉を回復します。その後、光朝の嫡男光季(阿願入道)は、子息泰長(源誓)・孫泰忠(日高)と共に讃岐へやってきます。 蒙古襲来に備え、幕府の命で安芸国へ西遷した武田氏と同じような処遇と研究者は考えているようです。

  秋山氏のルーツとなる甲斐国巨摩(こま)郡秋山を地図で見ておきましょう。
1 秋山氏の本貫地

現在の南アルプス市に「秋山」の字名が残っていて一族の「秋山光朝館跡」も史跡とされています。地元では、ここが秋山氏発祥の地とされているようです。
「秋山家記」(秋山家文書)には「青島」を故地としていますが、それがどこなのかは分かりません。旧甲西町秋山の東南にあたる釜無川と笛吹川の合流地点付近に江戸時代に青島新田という地名が残っています。この新田の開拓者としてスタートしたのかもしれないと研究者は考えているようです。どちらにしても、この地で治水・灌漑工事などを行いながら所領の拡大を行っていたのしょう。それが幕府の「西国防衛力の向上」という政策の中で、讃岐高瀬郷に所領を得て一族の嫡男がやってきたようです。
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 このような経緯が分かるのは、「秋山家文書」という中世の置文(遺言・相続状)など多数の文書が秋山家に繋がる家に残されてきたからです。これだけの文書が残されているのは非常にめずらしいことのようです。例えば、後世のものになりますがこのような系図も残されています。
1秋山氏の系図2jpg
秋山氏系図 「讃岐秋山之祖也 阿願入道」とある

先ほどの系図の下段の一番右側に「讃岐秋山之祖也 阿願入道」とあります。拡大して見てみましょう。
系図的には讃岐秋山氏は、この阿願入道=光朝からはじまります。
入道と称するのは、彼が日蓮宗の熱心な信徒で入信していたためです。その註を見ると、次のように記されています。

号は 秋山又兵衛で、甲州青島の住人である。政和4年に讃岐に来住した。嫡子は病身のため嫡孫泰忠を養子として所領を相続させた。

これには、疑義がありますので後ほど述べます
元寇の頃、甲斐国から来た武士|ビジネス香川
本門寺(三豊市)

実質的な秋山氏の祖 
秋山孫次郎・泰忠は歴戦の勇士で長寿だった
祖父・阿願入道の跡を継いだ孫の泰忠については

「号は秋山孫次郎。正中2年法華寺(本門寺)をヲ建立セリ」

とあります。現在の下高瀬の日蓮宗本門寺を、秋山氏の氏寺として創建したのは泰忠だったことが分かります。孫次郎泰忠は11通もの置文(遺言状)を残しています。その最終年紀は、永和2(1376)年です。仮に弘安最末年の11(1288)年に讃岐へやって来たとしても、通算88年も讃岐で過ごした事になります。
いったい泰忠は何歳で讃岐にやってきたのでしょうか。
乳呑み児で、故郷の甲斐の「青島」を離れ高瀬郷にやってきて、およそ90歳以上生きていたようです。当時としては、祖父の阿願と同じように異常なまでの長寿ということになります。
実質的な讃岐秋山氏の祖になる泰忠について見ておきましょう
 泰忠は、鎌倉時代末期から南北朝時代の動乱の時期を生き抜いた武将のようです。長い従軍生活の中で、波瀾万丈の人生を送ったようです。彼の実戦での記録は、その片鱗が秋山家文書の中の4通からうかがい知ることができるだけです。秋山氏は、南北朝の争乱期には、北朝方として活動しています。泰忠は病弱の父に代わって、秋山氏惣領として一族と高瀬郷域の武士団を率い、畿内はじめ西国各地を転戦する日々を送ったのでしょう。
秋山文書から泰忠に関する文書を年代順に見ていきましょう。

1秋山氏 さぬきのくにたかせのかうの事
秋山源誓の置文(秋山家文書)

①鎌倉時代末期の元徳三(1331)年十二月五日の年号が入った秋山源誓の置文です。
   本文             漢字変換文
さぬきのくにたかせのかうの事、   讃岐の国高瀬郷のこと 
いよたいたうより志もはんふんおは、(伊予大道より下半分をば)
まこ次郎泰忠ゆつるへし、たたし (孫次郎泰忠譲るべし ただし)
よきあしきはゆつりのときあるへく候(良き悪しきは譲りのときあるべ候)
もしこ日にくひかゑして、志よの  (もし後日に悔返して自余の)
きやうたいのなかにゆつりてあらは、(兄弟の中に譲り手あらば)  
はんふんのところおかみへ申して、 (半分のところお上へ申して)
ちきやうすへしよんてのちのために(知行すべし 依て後のために)
いま志めのしやう、かくのことし        (誠めの条)(此の如し) 
                  秋山)源誓(花押)
  元徳三年十二月五日                 

置文とは、現在及び将来にわたって守るべき事柄を認めたもので、現在の遺言状的な性格を持つようです。財産相続なども書かれています。 この置文は、源誓がその子・孫次郎泰忠に地頭職を譲るために残されたものです。
讃岐の国高瀬郷のこと伊予大道より下半分を孫次郎泰忠に譲る

とあります。ここからは、高瀬郷の伊予大道から北側(=現在の下高瀬)が源誓から孫次郎に、譲られたことが分かります。しかし、これは現在のような土地所有でなく「下高瀬の地頭職」の権利です。
 伊予大道とは、現国道11号沿いに鳥坂峠から高瀬を横切る街道で、古代末期から南海道に代わって主要街道になっていたようです。その北側の高瀬郷(下高瀬)を孫次郎泰忠が相続したことになります。これは高瀬郷が上高瀬と下高瀬に分割されたことを意味します。大見地区は、この時点では下高瀬に属していました。
 同時にこの史料からは源誓が、孫次郎泰忠の父も分かります。秋山氏の家系が
「祖父 阿願 → 父 源誓 → 子 孫次郎泰忠」

とつながっていたようです。
ところが後の秋山氏系図は先ほど見たように「父 源誓」を「病弱者」として無視し、祖父阿願から直接孫の孫次郎泰忠に相続されたとします。そして「父 源誓」の名前は系図からも抹殺されています。
1秋山氏の系図3
秋山家系図

この背景には何があるのでしょうか。今思い浮かぶのは次の2点です。
①「父 源誓」は日蓮信徒でなかったために秋山家の系譜から排除された
②泰忠の相続が孫に相続させるという異例のものであったために「祖父から孫」への「相続先例」を「創出」した
  これくらいしか今の私には、出てきません。系図上での「父 源誓」抹殺の背景はよく分かりません。 最後に

「もし後日に、この地頭職を悔い返す事態が起こったときには、兄弟に適任者がいたならば、申し出て知行するように」

と指示しています。ここからは孫次郎泰忠には何人かの兄弟がいたことが分かります。彼は次男であったようです。次男にもかかわらず秋山家の統領に就いています。
P1130054
孫次郎泰忠の墓(本門寺)
 秋山氏の所領開発は、どのように行われたか
圓城寺の僧浄成は、高瀬郷と那珂郡の金倉郷を比べて次のように記しています。
「……於高勢(高瀬)郷者、依為最少所、不申之、於下金倉郷者、附広博之地……」

ここからは、最初に拠点とした丸亀平野の下金倉郷と比べて、高瀬郷が未開発の土地で、しかも狭かったことがうかがえます。中世の「古三野津湾」は、現在の本門寺裏が海で、それに沿って長大な内浜が続いていたことは以前にもお話ししました。そのため古代から放置されたままになっていた地域です。それならどうして、丸亀から下高瀬に拠点を移したのでしょうか。それが次の疑問となっていきます。それは「塩田開発」にあったと研究者は考えています。

三野町大見地名1
太実線が中世の海岸線

 秋山文書の中に「すなんしみやう(収納使名)・くもん(公文)・「たんところみやう(田所名)」といった地名が出てきますが、これは今も三野町内に残る砂押・九免明・田所です。この地域を中心に高瀬郷の大見地区の段斜面を開発したことがうかがえます。
 泰忠が相続したのは「高瀬郷の伊予大道より下半分」の「下高瀬」の土地です。そこには現在の大見も含まれていましたし、三野津湾沿いの「新浜」などの塩浜も地頭職分として含まれています。これが泰忠の領地的なスタートラインだったようです。この最少の土地を、甲斐からやって来きて以後、一族はじめ名主・百姓ら手で懸命に開発したのでしょう。そこには開発に携わった名主たちの名前が地名として残っています。
P1130055
孫次郎泰忠の墓 墓碑には延文4年日高大居士と刻まれてい


 秋山氏は三野津湾での塩浜開発も進めます。
当時塩は貴重な商品で、塩生産は秋山氏の重要な経済基盤でした。開発は三野町大見地区から西南部へと拡大していきます。
秋山家文書中の沙弥源通等連署契状に次のように記されています。

「讃岐国高瀬の郷並びに新浜の地頭職の事、右当志よハ(右当所は)、志んふ(親父)泰忠 去文和二年三月五日、新はま(新浜)東村ハ源通、西村ハ日源、中村ハ顕泰、一ひつ同日の御譲をめんめんたいして(一筆同日の御譲りを面々対して)、知きやうさういなきもの也(知行相違無きものなり)」

 泰忠が三人の息子(源通・日源・顕泰)に、それぞれ「新はま東村・西村・中村」の地頭職を譲ったことの確認文書です。ここに出てくる新はま東村(新浜東村)は、現在の東浜、西村は現在の西浜、中村は現在の中樋あたりを指しすものと研究者は考えているようです。
他の文書にも
「しんはまのしおはま(新浜の塩浜)」
「しおはま(塩浜)」
「しをや(塩屋)」
等が譲渡の対象として記載されています。ここから秋山氏は、この辺りで塩田を持っていたことが分かります。作られた塩は、仁尾や宇多津の平山の海運業者によって畿内に運ばれ販売されていたようです。このような経済力が泰忠の軍事活動を支える基盤となっていたのでしょう。その利益は、秋山氏にとっては大きな意味を持っていたと思われます。
P1130052
本門寺本堂
      足利尊氏下知案
②建武三年(1336)足利尊氏より勲功の賞として高瀬郷領家職があたえられた文書です。
1秋山氏 足利尊氏no高瀬郷領家職
   足利尊氏下知案(秋山家文書)
書き起こすと以下のようになります。
讃岐の国高瀬の郷領家職の事、
勲功の賞として宛行う所なり、
先例を守り、沙汰致すべし、
将軍家の仰せに依って、下知件の如し
   建武三年二月十五日
        (細川顕氏) 兵部少輔在御半
        (細川和氏 )阿波守   
   秋山孫次郎殿(泰忠) 
 二行目一番下は「依」で終わっています。そして三行目の「将軍家」と続きます。ここには一字空白があります。これをは「閥字(けつじ)」と云い尊称する場合に、一字から三字の空白、あるいは改行する「平出」によって尊敬の意を表する方法のようです。閥字より平出の方がより尊敬の意を表すといいますが、ここでは両方の方法が採られています。
 「領家」とは、土地の収益に対する権利の意味で、この文書全体の解釈は、合戦の功労賞として土地の収益に対する権利を与えるので、これまでの作法や先例をまもり、権利を執行しなさい」という意味になります。それを将軍足利尊氏に代わって、兵部少輔と阿波守が伝えるという形式です。
「下知状」とは末尾に「下知」と記されていることからきています。
 差出人の二人は、この時期に将軍足利尊氏から四国方面の代官として任されていたために、下知状の差出人となったようです。この後、両名は讃岐国守護・阿波国守護に任命されています。宛所の秋山孫次郎は、泰忠です。
 この文書の背景としては、前年の建武2(1335)年に足利尊氏は畿内から瀬戸内を経て、九州方面に逃走しました。この文書は、尊氏が再び上京するまでの間に、瀬戸内海沿いの武士団の棟梁たちにを味方に付けるために檄を飛ばした文書のようです。つまり、参戦して軍功を挙げれば「高瀬の郷領家職」を宛がうので軍を率いてやってこいということになるのでしょうか。もちろん、泰忠は、尊氏方について参戦したようです。
P1130061
本門寺境内の泉

その翌年の建武4(1337)に細川顕氏から秋山孫次郎泰忠に出された細川顕氏書下です。
原本は虫食いで上半分しか残っていませんが、江戸時代に書写された下の文書が残されています。

1秋山氏 細川顕氏から秋山孫次郎泰忠書下

細川顕氏書下(秋山家文書)
讃岐の国財田(の凶徒蜂起の由)、其聞え(之有るの)間、
(月城太郎次郎周頼、助房)宇足津に差し下す所(なり)、
(早く当国に下向せしめ、諸)事の談(合)に加わり、
(在国の一族相催し、且つ)地頭御家人
(相共に誅数に廻らるべきの□)状、此の如く候
建武四(1337)年三月廿六日
          (細川顕氏)
          (兵部少輔)
秋山孫(二郎殿)                   
(  )部分が江戸時代の書写から補った部分です
意訳しておくと
讃岐国財田で南朝方の凶徒が蜂起したと報告が入っている。
阿波の月城太郎次郎周頼、助房らに鎮圧を命じるように宇足津に指示している所である。
早く帰讃して、討伐軍に合流し、作戦計画に加わり、在国の一族を率いて地頭御家人が協力し鎮圧するように命じる。
建武四(1337)年三月廿六日
当時の足利尊氏の動きを年表で確認しておきましょう
1335年8月足利尊氏が征東将軍として鎌倉へ向かい、そのまま建武政権から離反する。
1336年1月尊氏が京都へ入り、後醍醐天皇は比叡山へ逃れる。
2月 足利尊氏が豊島河原などで敗北し、九州へ敗走。
  3月 足利方は筑前国多々良浜の戦いで菊池武敏らに勝利する。
   4月 足利方は仁木義長などを九州へ残して再び上京する。
   5月足利方が湊川の戦いにて新田・楠木軍を破る。後醍醐天皇は比叡山へ逃れる。
   8月光明天皇が即位して北朝が開かれる。
12月後醍醐天皇が京都を脱出し、吉野(奈良県)で南朝を開く。
この文書で使われている「建武四年」とは、北朝方の使用した年号で、南朝方はこの前年に「延元」という年号に改元しています。後醍醐天皇の檄により熊野行者たちが支援する南朝方に、阿波や財田の山岳武士団が呼応し、活動が活発化していた時期です。
「月城」は、現在は「つきしろ」ですが、阿波国の月成(つきなり)氏のことのようです。「宇足津」は讃岐国守護が居た場所で、守護所は円通寺付近にあったとされます。差出人の「兵部少輔」は、讃岐守護の細川顕氏です。
「財田凶徒」とは、徳島県の西野氏所蔵文書にも「財田凶徒」の記事が見えることから、南朝方の大規模な勢力であったようです。この時期の讃岐国では、南朝方の勢力が山岳地帯に拠点を持って活動していたことがうかがえます。
 秋山泰忠は、この書状を受け取った時点では讃岐国以外に転戦中だったことがうかがえます。足下の財田方面で南朝が蜂起したので、急いで帰国するように命じられていると解釈できます。それでは「財田の凶徒」の本拠はどこだったのでしょうか。また、その勢力は? このあたりもよく分かっていないようです。
  ここからは室町幕府の成立時に泰忠は足利尊氏軍に従い、国外に遠征していたこと。南朝勢力の蜂起に対して讃岐守護細川氏の命で動いていることは分かります。  

P1130059
本門寺境内

③観応二年(1351)には、細川頼春から泰忠へ高瀬郷領家職が兵糧料所として預け置かれた書状です。
1秋山氏 細川頼春から泰忠へ高瀬郷領家職g
細川頼春書状(秋山家文書)
讃岐の国高瀬の郷領家職の事、御沙汰落居の間、
兵糧所として、預け置く所なり、先例任せ、
沙汰致すべきの状、件の如し
観応二年八月十三日  (細川頼春)在御判
                   散位
秋山孫次郎(泰忠)殿
この文書は案文のようですが、直状形式で発給者が直接に秋山孫次郎(泰忠)に対して所領を預けています。文書が出された観応(1351)年は、讃岐武士団が細川頼春・頼有方(主に西讃地方)と同顕氏方に分立している時期で、中央では観応の擾乱が起こっていた頃にあたります。同じ年の9月5日付細川頼春預ケ状(紀伊国安宅文書)と同じ筆跡・スタイル・同じ署名なので、「散位」とは細川頼春で、観応の擾乱の働きに対する恩賞と研究者は考えているようです。
 秋山氏が総領・泰忠の下に、讃岐守護細川氏に従って武功を上げていった結果としての恩賞のようです。足利尊氏から細川頼春・頼有と、「勝ち馬」に乗り続けることによって、秋山氏は三野郡での権益を着実の拡大していたようです。
 ここまで泰忠は、現役であったようです。
この時にすでに60歳を超えていたと考えられます。高瀬郷領家職を得て、郷内の軍勢催促権も獲得しました。父から相続した地頭職と併せて、東本山郷(現高松市水田)内の水田名も泰忠の時の加増地と考えられます。
このように歴戦の強武者として活躍した泰忠も、ようやく引退の時を迎えます。
しかし、必ずしも平穏の毎日ではなかったことが、残された11通の置文・譲状から見えてきます。その最初のものは、文和二(1353)年の置文と譲状です。以後足掛け23年以上の間、合戦による傷に痛みながら時に病床にあっで老骨に鞭打ちつつ置文を書き続けています。老後の泰忠が、子や孫たちに何を言い遺したかは、また別の機会に見ることにします。
P1130058
泰忠墓碑の裏面 平成になって改修されたことが分かる

 以上をまとめておきます
①西遷御家人として元寇後に讃岐にやってきた秋山氏は最初は那珂郡金倉郷に拠点をおいた。
②3代目秋山泰忠の時に高瀬郷に拠点を移し、氏寺として日蓮宗本門寺を建立した。
③秋山氏は下高瀬を中核として、塩田開発になど周辺地域に勢力を伸ばした。
④塩生産が秋山氏の財政基盤と成り、南北朝の軍事行動や、本門寺創建などの資金となった。
⑤そして、室町期には細川氏の被官として、国人へと成長を遂げてきた。
⑥しかし、分割相続に伴い一族間の抗争が繰り返されるようになり、所領の細分化が進み、その勢力は衰退していく。
⑦それに引き替え、香川氏は西讃守護代として守護細川氏に代わって勢力を伸ばし、細川氏の御料所を押領するなど戦国大名化への道を歩み始める
⑧戦国期になると、秋山氏は細川氏の被官から香川氏の家臣へと転化する。

最後まで おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
高瀬文化史1 中世の高瀬を読む 秋山家文書①

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