瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:秋山氏と本門寺

   甲斐国から高瀬郷の地頭としてやってきた秋山氏を系図で追ってみます。
1秋山氏の系図4

13世紀末に西遷御家人として讃岐にやって来たのは、①秋山阿願光季でした。彼の元で高瀬郷の下高瀬を拠点として居館を構え、新田開発や塩田造成が行われていったようです。その後を継いだのが②源誓のようです。彼からの③孫次郎泰忠への領地の譲状が秋山文書が残っています。ところが、秋山家の正史は、②の源誓の存在を認めません。③泰忠の残した置文や譲り状に、①の祖父光季から譲られたと父を抹消しています。その理由はよく分かりませんが、父の源誓は法華教徒でなかったためかもしれません。
 ③泰忠は、長寿で10歳前後で高瀬郷にやって来て、その後80年以上を過ごしています。その後の活動を年表に示すと、次のようになります。
弘安年中(1178~88)泰忠が祖父や父とともに高瀬郷に来讃。
建武3(1336)年に足利尊氏からの下知状を受け取る
観応2(1352)年の管領細川氏よりの預ヶ状受給
文和2(1353)年 泰忠が最初の置文と譲状を書く
永和 (1376)年 泰忠が最終の置文(遺言)を書く
 泰忠は、最後の置文には「ゆずりはずし(譲外し」を行っています。これは勘当や病気による「廃嫡」で、一旦相続させたものを取り上げることです。相続人としていた嫡男④泰綱を廃嫡し、その次男の⑤孫四郎水田(泰久)を新しい嫡子として、惣領職を相続させることを置文に記しています。泰忠は、この相続のことを「あがん(阿願)のこれい(古例)にまかせて」と記します。祖父阿願から孫である自分に直接譲りを受けた先例を引いて正当化しています。その理由に、孫四郎泰久(水田)の「器量」の良さを挙げ、泰忠にとって「心安」きこと、すなわち、安心を得ることが出来るからであるといっています。
 孫次郎泰忠から孫四郎泰綱への単独相続という形がとられているように見えます。が、その他の息子たちにも土地は譲られ分限に応じて、知行を行っています。兄弟(姉妹)やそれぞれの家人らには各々耕作地があって自営ができるうな体制で、実質的には分割相続です。

 秋山氏は、鎌倉時代から南北朝期のころまでは、分割相続
 一族間で細分化された土地を所有し、それを惣領が統括し、法華信仰による結合力でまとめていこうとしていたようです。しかし、室町時代になると、分割相続をやめます。泰忠直系の惣領による一子相続に変更し、所領の分割を防ぎます。そして所領を集約一元化しながら、一族家人や百姓らをまとめ国人領主として在地領主制を形成していきます。
 この間に秋山氏は、塩浜開発や赤米、エビ等の塩干物、畳表などの地域産品の育成開発を行い、それらの販売を通じて、積極的な商業活動や交易活動を行ったようです。そうした経済力を背景に一族と郷中の発展があったのです。これが本門寺一山の隆盛を実現させ、文安年中(1444年~49)には、11か寺以上の末寺を擁した大寺に育って行きます。
 しかし、秋山氏の嫡流である泰忠の子孫たちにも、15世紀後半がくると危機がやってきます。
 泰忠の後を継いだ⑤水田泰久の傍系・庶流の源太郎の家筋が台頭し主流を譲ることになります。また、上の坊近くの帰来橋の周辺を拠点とする帰来秋山氏も、本家を圧倒していくようになります。

秋山家本家の衰退の背景は、何だったのでしょうか?
  永正三(1506)年 秋山家本家の⑧孫二郎(二代目)泰久は、高瀬郷中村の「土居下地」「二反」分を分家である秋山源太郎に売却しています。その文書を見てみましょう。  
1 秋山氏 永代売り渡し申す高瀬郷中村2

1 秋山氏 永代売り渡し申す高瀬郷中村3
読み下し文に変換してみましょう。
永代売り渡し申す高瀬郷中村土居下地の事
合弐反有坪者(道そい大しんつくり直米四石則時請取分)
右、件の下地は、私領たりといえ共、用々あるによつて、永代うり渡し申す所実正なり、
しかる上は、子々孫々において(違乱)いらん妨げ申す者あるまじく候、若しとかく(書)申す者候はば、御公方へ御申し、此のせう状の旨にまかせ、下地に於いてまんたく御知行あるべく候、依って後日の為、永代の状件の如し
(孫)
               秋山まこ二郎
永正三年ひのえとら八月二九日       泰久(花押)
秋山源太郎殿
「高瀬郷中村土居下地の事」の「下地」とは、土地そのもの、その土地に関わる権利全てという意味です。「坪」が条里制の場所を示します。「直米四石」とは、米四石を契約成立時に、受け取つたことを示しているようです。銭ではなく「直米」で支払われているのは、銭千枚で一貫文なので、大量の銭を揃えることができない地方では、現物で取引されることが多かったと研究者は指摘します。
 「私領たりといえ共、用々あるによつて」とは、「個人の領地であるのだけれども、必要があるので」

ということでしょう。経済的な困窮で、先祖代々の土地を手放さざるえない状態に追い込まれていたことがうかがえます。
差出者は、秋山孫二郎泰久(二代目)で、「秋山まこ二郎」は秋山惣領家系の家督継承者の幼名です。その泰久から庶流家系の源太郎に土地が売却されたことをしめす証文です。

源太郎に売られた「中村土井」は、本門寺の高瀬川対岸で甲斐源氏の祖先神新羅神社が祀られ、中の坊などのある秋山氏の屋敷地の中枢部であったようです。その「土居(居館)」の一部が源太郎の手に渡ったという意味は軽くはありません。これは秋山家本家の没落を人々に印象づけることになったでしょう。そして、源太郎が新たな秋山一族のリーダーとなったことを告げるものでした。

  この背景には何があったのでしょうか。
系図を見ると秋山泰忠の所領は、
⑤泰久(一代目)→⑥有泰→⑦泰弘→⑧孫二郎泰久(二代目)

へと譲り渡されてきます。
1秋山氏の系図4

しかし、応仁の乱以後の混乱の中で、秋山氏一族内で分裂が起きていたようです。応仁の乱から永正の錯乱時期に、畿内への度重なる出陣を細川家から求められます。その経済的な負担と消耗が重くのしかかります。さらに細川氏の内部抗争(両細川の乱)の際に、勝ち馬に乗れなかったことが挙げられます
 他方で、着々と財力を蓄え、同時期の混乱に乗して本家に代わって台頭してくるのが⑤水田泰久の傍系・A 庶流の源太郎元泰です。源太郎は細川氏と誼を通じることで、高瀬郷の大部分を領有し、確固たる地位を築いていきます。こうして、惣領家から源太郎に秋山氏の主流は移っていきます。
それを決定的にしたのが櫛梨山の合戦での源太郎の活躍です。
 細川澄元感状    櫛梨合戦                      52p
1 秋山源太郎 櫛梨山感状

去廿一日於櫛無山
太刀打殊被疵
由尤神妙候也
謹言
七月十四日 澄元(細川澄元 花押)
秋山源太郎とのヘ
読み下し変換しておきましょう。
去る廿一日、櫛無山に於いて
太刀打を致し、殊に疵を被るの
由、尤も神妙に候なり、
謹言
七月十四日
           (細川)澄元(花押)
秋山源太郎とのヘ
 切紙でに小さい文書で縦9㎝横17・4㎝位の大きさの巻紙を次々と切って使っていたようです。これは、戦功などを賞して主君から与えられる文書で、感状と呼ばれます。その場で墨で書かれたものを二つ折りにしたのでしょう。「去十一日」「七月十四日」などの墨が阪大側の空白部に写っています。
 折り目は、まず中央で折ったのではなく、左部分の宛て名のところを残して半分に折り、裏返して折り目の部分から順々に折っていくというスタイルがとられました。そうすると表部分に、一番最後の宛て名のところが上に出る形となります。これが太刀傷を受けた秋山源太郎の下に、届けられたのでしょう。戦場で太刀傷を受けることは不名誉なことでなく、それほどの奮戦を行ったという証拠とされ、恩賞の対象になったようです。こうした家臣団の活動をきちんと記録する専門の書記官もいたようです。
 感状は、後の恩賞を得るための証拠書類になります。
これがなければ論功行賞が得られませんので大切に保管されたようです。そして恩賞として新領地を得た後は、それを報償する絵図も描かれたりしたようです。
  この文書には年号がありませんが状況から推定して、櫛無山の合戦が行われたのは永正八(1511)年頃のようです。「櫛無山」は、現在の善通寺市と琴平町の間に位置する古代の霊山です。麓には式内社の櫛梨神社が鎮座し、ひとつの文化圏を形成していました。中世の善通寺の中興の祖とされる宥範を生んだ岩田氏の拠点とされる地域です。
 上の感状の論功行賞として出されたのが次の文書です。

1 秋山源太郎 櫛梨山知行

 讃岐の国西方の内、秋山
備前守跡職、所々散在
被官等の事、新恩として
宛行れ詑んぬ、早く
領知を全うせらるべきの由候なり、依って執達
件の如し
永正八    (飯尾)
十月十三日 一九運(花押)
秋山源太郎殿
この文書は、この前の感状とセットになっています。飯尾元運が讃岐守護細川氏からから命令を受けて、秋山源太郎に伝えているものです。
 讃岐の西方にある秋山備前守の跡職を源太郎に新たに与えるとあります。秋山備前守とは、秋山家惣領の秋山水田のことと研究者は考えているようです。

この文書の出された背景としては、
応仁の乱の後、幕府の実権を握った細川政元の三人の養子間の対立抗争があります。高国・澄之・澄元の三人の養子の相続争いは、讃岐武士団をも巻き込んで展開します。香川氏・香西氏・安富氏などの守護代クラスの国人らは、澄之方に従軍して討ち死にします。秋山一族の中でも、次のような対立がおきていたようです。
①庶流家の源太郎は細川澄元方へ
②惣領家の秋山水田は細川澄之方へ
1 秋山源太郎 細川氏の抗争

 この対立の讃岐での発火点が先ほど見た櫛梨合戦だったようです。澄之方について敗れた秋山水田は所領を奪われ、その所領が勝者の澄元側につき武功を挙げ源太郎に与えられたようです。ここで秋山家の惣領家と庶流家の立場が入れ替わります。
 管領細川氏の相続争いが讃岐の秋山氏一族の勢力争いにも直結しているのが分かります。
 土地が飽和状態になった段階では、報償を得るためには誰から奪い取らなければなりません。こうして秋山泰忠が願った法華信仰の下に、一族の団結と繁栄を図るという構想は、崩れ去っていきます。 しかし、秋山氏の内部抗争にもかかわらず本門寺は発展していきます。それは、本門寺が秋山氏の氏寺という性格から、地域の信仰センターへと成長・発展していたからです。それは別の機会に見ることにします。
 この文書の発給人の飯尾元運となっています。彼は、室町幕府の奉行人であるか、細川氏の奉行人のどちらかでしょう。飯尾氏は幕府奉行人に数多くく登用されていますが、阿波の細川氏の奉行人となった飯尾氏もいますが、研究者は阿波の飯尾氏と考えているようです。
こうして永正年間には源太郎流が、秋山一族を代表するようになります。
 源太郎は、最初は細川澄元に接近し、忠勤・精励また贈答によって恩賞を受け、のし上がっていきます。その後は、細川高国方に付いて惣領家を完全に圧倒するようになります。秋山源太郎が、細川氏淡路守護家や阿波守護家に忠節・親交を深めていったことが、秋山文書の細川氏奉行人奉書等からうかがえます。
ここからは、従来の讃岐中世史を書き換える構図が見えてきます。
従来の中世の讃岐は
宇多津に守護所を置いた細川京兆家の守護支配下に置かれていた

とされてきました。しかし、細川勝元亡き後の讃岐については、細川氏阿波守護家(官途は代々讃岐守で細川讃州と呼ばれた)の支配が讃岐に浸透していく過程だと研究者は考えるようになっています。阿波守護家が、岡館(守護所=香南町岡)を拠点にして讃岐支配を強めていく姿が見えてくるようになりました。それが後の三好氏の讃岐侵攻につながっていくようです。
 秋山家文書には、源太郎宛の折紙が27点もあります。
発給者は、淡路守護細川(以久)尚春とその奉行人らや阿波守護の奉行人達からの書状群です。これらは、新しい秋山氏の当主である源太郎と在京の上級武士らとの交流の実際を伝えてくれます。源太郎は宇多津を向いていたのではなく、はるか淡路や阿波に顔を向けていたのです。源太郎への指示は岡館(守護所=香南町岡)から出されていたのかもしれません。

 一度一族間で血が流されると、怨念として残り、秋山一族の抗争は絶えなくなります。
源太郎が亡くなると求心力を失った秋山家は、内部抗争で急速に分裂していきます。
一族間の抗争は「喧嘩両成敗」の裁きを受け領地を没収され、細川氏の直轄領とされます。こうして秋山氏は、存亡の危機に立たされます。
 一方、細川氏も内部抗争で弱体化し、下克上の舞台となります。そんななかで戦国大名化の動きを見せ、三野郡に進出してくるのが西讃岐守護代で天霧城主の香川氏です。秋山氏は、香川氏に従属化し家臣団を構成する一員として、己の生き場所を見つける以外に道はなくなって行きます。
 こうして、香川氏の一員として従軍し活躍する秋山氏一族の姿が秋山文書にも見られるようになります。それはまた次の機会に・・・

以上をまとめておきます。
①西遷御家人としてやってきた秋山泰忠は、高瀬郷の北半分を祖父から相続した。
②秋山泰忠は敬虔な法華信者で、下高瀬に法華王国の建設を目指し、本門寺を建立した
③秋山泰忠は孫に所領を相続させたが、その他の子ども達にも相続分は分け与えた
④秋山惣領家は、応仁の乱以後の混乱の中で衰退していく
⑤代わって分家の源太郎が細川氏の内部抗争の勝ち馬に乗ることで台頭してくる
⑥櫛梨山の合戦での源太郎の活躍以後は、源太郎が新たな統領となって仕切っていく
⑦しかし、源太郎以後は内部抗争のために一族は分裂し、領地を没収される危機を迎える
⑧秋山氏は、戦国大名化する香川氏への従属を強めていく。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 高瀬町史

 
古代三野湾1
                
三豊市の古三野湾をとりまく古代史については、以前にお話ししました。改めて確認しておくと
①三野津湾が袋のような形で大きく入り込み、現在の本門寺付近から北は海だった。
②三野津湾の一番奥に宗岡瓦窯は位置し、舟で藤原京に向けて製品は積み出された。
③三野津湾に流れ込む高瀬川下流域は低地で、農耕定住には不向きであった
④そのため集落は、三野津湾奥の丘陵地帯に集中している。
⑤集落の背後の山には窯跡群が数多く残されている。
⑥南海道が大日峠を越えて「六の坪」と妙音寺を結ぶラインで一直線に通された
⑦南海道に直角に交わる形で、財田川沿いに苅田郡との郡郷が引かれた。
⑧郡境と南海道を基準ラインとして条里制が施行されたが、その範囲は限定的であった。
以上のように古代三野郡は、古墳時代の後期まで古墳も作られません。そして、最後まで前方後円墳も登場しない「開発途上エリア」でした。
今回は中世の三野湾について見ていこうと思います。
三野という地名の由来は、古代律令制下の郡名からきているようです。古代の讃岐国には11の郡がありましたが、その内の一つが三野郡です。三野郡は
勝間・高瀬・熊岡・大野・高野・本山・詫間の七郷

からなっていました。現在の三豊市のエリアとほぼ重なることになります。三野湾をとりまく旧三野町は、昭和三十(1955)年に大見・下高瀬・吉津の三つの旧村が合併してできた町でした。大見・下高瀬地区は、高瀬郷、吉津地区は詫間郷に属していたようです。つまり、古代の三野郡と戦後にできた三野町とはまったくエリアが異なることを初めに確認しておきましょう。その上で、旧三野町の大見・下高瀬・吉津の地域を見ていきましょう。
下高瀬は、高瀬郷が二つに分けられた片方です。
鎌倉時代末期の元徳三(1331)年の史料(秋山家文書)に、
「さぬきのくにたかせのかうの事、いよたいとうよりしもはんぶんおは、まこ次郎泰忠ゆつるへし」
漢字に置き換えると
讃岐国高瀬郷の事、伊予大道より   下半分をば   孫次郎泰忠に譲るべし

となります。高瀬郷を支配していた秋山家の当主・源誓が、息子の孫次郎泰忠へ地頭職を譲る際に作成した文書です。ここからは、次のような事が分かります。
①伊予大道が高瀬郷を貫いていた
②「伊予大道より下半分」の所領が孫次郎に譲られた
これで伊予大道を境にして、高瀬郷が上下に区分されたことになります。つまり上高瀬・下高瀬が生まれたようです。上下のつく地名は、各地にありますが、街道や河川を境に分けられた地名のようです。上高瀬は高瀬町、下高瀬は三野町に属していますが、高瀬と名がつけばどちらも高瀬町だと思ってしまいます。

 次に大見地区です。
この地区は、中世には高瀬郷に含まれていました。そのため中世の下高瀬というのは大見地区も含んでいたようです。
 秋山家の源誓が、息子の孫である泰忠に譲った所領は、大半が三野町域にあったようです。例えば、
「すなんしみやう(収納使名)」
「くもん(公文)」
「たんところみやう(田所名)」
は、大見地区に見る砂押・九免明・田所が比定できます。
 最後に吉津地区です。
詫間町の浪打八幡宮の年中行事番を示した南北朝期の史料(宝寿院文書)に、「吉津」の地名が見えます。吉津は、詫間とや比地と同じグループで、詫間郷に属していたようです。
以上から中世と現在の行政地域とは、まったく異なることが分かります。行政区域は、人為的に後世に引き直されることが多々あります。丸亀藩と高松藩の「国境」などもその例かもしれません。人間が勝手に行政区域を設定しても人や物の移動は、地域を越えて行われます。行政単位で見ていると、見落とす事の方が多くなります。

平安時代末の西行の『山家集』には、讃岐を訪れた際のことを次のように記しています。
さぬきの国にまかりてみのつ(三野津)と申す津につきて、月の明かくて ひびの手の通わぬほに遠く見えわたりけるに、水鳥のひびの手につきて飛び渡りけるを

ここからは西行が「みのつと申す津」に上陸したこと分かると同時に、三野に港があったことも分かります。

中世三野湾 復元地図
太実線が中世の海岸線 青字が海岸関係地名 赤字が中世関連地名 
三野町の中世文書より

吉津には「津の前」という地名が残ります。これは港湾施設に関係する地名と研究者は考えているようです。また「東浜・西浜」もあります。これは、この地域が砂浜であったことがうかがえます。津ノ前から東浜・西浜を結ぶラインが、海岸線であったようです。中世の三野津湾の海岸線を示したのが上図ですが、大きく南の方へ湾が入り組んでいたことが分かります。その奥まったところに港が建設されたようです。ここから宗吉瓦窯で焼かれた瓦も藤原京に向けて積み出されていたと研究者は考えているようです。

古代三野湾2 宗吉瓦窯積み出し

私は、津嶋神社のある津嶋に古代の港があったのではないかと思っていたのですが、「津の島」は津(港)に入るための目印の島と研究者は考えているようです。
  
讃岐では古くから塩が作られてきました。讃岐の生産地を見てみると。
①九条家領であった庄内半島の三崎荘
②阿野郡林田郷の潮入新田が開発され塩浜造成
③石清水八幡宮の神事に用いる塩が小豆島肥土荘で生産
④塩飽でも盆供に用いる塩が生産され、年貢として貢納
三野湾でも中世には塩田があったことが史料に見えます。
 秋山泰忠の置文(秋山家文書)の中に、次のように塩田が登場します。
「ははの一こはしんはまのねんく又しをのち志をはしんたいたるへし」
漢字に変換すると
「母の一期は新浜の年貢、又塩の地子をば進退たるへし)」

と、母の供養には、新浜の年貢や、塩の売上金を充てなさいと、指示しています。ここからは秋山氏が「新浜」に塩田を持っていたことがうかがえます。塩の売買という農業収入以外のサイドビジネスを持っていたことは、秋山氏の経済基盤強化には大いに役立ったことでしょう。また、塩の輸送を通じて、瀬戸内海交易への参入も考えられます。
しかし「しんはま」が、どこにあったのかは分かりません。新しい塩浜という意味で、それ以外の海浜ではもっと早くから製塩が行われていたのかもしれません。それが先ほど見た「東浜・西浜」なのかもしれません。
 塩浜があったとすれば、塩作りには燃料となる材木が必要になります。この材木を供給する山を塩木山と呼び、塩浜の近くに確保されていました。東浜・西浜の付近で材本を提供できる山を探してみると、吉津の北に「汐(塩)木山」があります。この山が製塩に使用する材木を供給した塩木山であったと研究者は考えているようです。
 三野湾周辺は、古代後半には開発が急速に進み、宗吉窯や製塩の操業のために燃料となる木材が周辺の山々から切り出されます。禿げ山化した山からは大量の土砂が三野湾に流れ込むようになります。それが急速に三野湾に堆積していったことは以前にお話ししました。古代に環境破壊問題が三野湾には起きていたのです。
もう一度、中世地形を復元しながら三野湾周辺の地名を見てみましょう。
大見地区は砂押・九免明・田所といった地名がありました。これらはいずれも農村から税を徴収する機構や年貢請負人の役職名に由来する地名です。弥谷山系と貴峰山とに挟まれた谷筋を水源として早くから田畑が開かれていたようです。中世では、農地を切り開くにはまず水の確保が必要でした。山間部で、不便と思われる谷筋ですが、湧き水などを確保しやすいので、大きな労働力が組織できない中世では「開発適地」だったようです。谷筋を水源とし、そこから引いた水で山裾の田畑を潤すという灌漑方法です。秋山氏が所領として、開発していったのは大見地区と研究者は考えているようです。大見地区が先進地域でです。
ところで、この水田では、どんな米が作られていたのでしょうか? 
 永和二(1376)年の日高譲状(秋山家文書)の中に、次のように生産米が記されています。
「たうしほふつかつくり候た、にんかうかちきやうせしかとも、ちふんやふれてもたす」
漢字変換すると
「唐師穂仏禾作り候田、日高か知行せしかとも、地文破れて持たす」
とあります。
「唐師穂を作っていたが、日高(秋山泰忠)が所有していたが、土地が崩壊して栽培出来なくなった」
というのです。
唐師穂とはインディカ種赤米のことで「大唐米・とうほし(唐法師)・たいまい」などと呼ばれていたようです。この赤米は旱魃に強く、地味が悪くても育つので、条件の悪い水田で古代から栽培されていました。
赤米

十五世紀中頃の『兵庫北関入船納帳』にも、讃岐船が大量の赤米を輸送していた事が記録されています。赤米は、干害に苦しむ讃岐の「特産物」となっていたようです。この赤米が日高(秋山泰忠)の所有する土地で作られていたことが分かります。耕作地は、「すなんじき(収納使職)」で、すなわち砂押地域のことです。この赤米耕作地が「ちぶんやぶれ」(土地の状態が変化し)たため耕作できなくなったというのです。その理由は分かりませんが、自然災害かもしれません。

今までの情報をまとめて、もう一度、下高瀬地区を見てみましょう。
中世三野湾 下高瀬復元地図

下高瀬は、現在はその真ん中を高瀬川が流れています。しかし、古代・中世は西浜・東浜まで三野湾が入り込んできていたことを先ほど見てきました。現在の本門寺の裏あたりまでは海でした。三野中学校は、海の中だったのです。高瀬川周辺は、塩田・瓦窯の操業に伴う木材伐採で、洪水による氾濫が多発化し、田畑は度々流失したようです。葛の山より北の河口部分は、デルタ地帯で、荒地が多かったと研究者は考えているようです。下高瀬地区が現在のように水田化されるのは、江戸時代になって千拓と灌漑設備が整備された後のことになります。
 高瀬川の河口には塩浜が形成され、製塩業者がいました。また本門寺の創建以降は、その門前には寺に関わる職人や商人が門前町を形成します。大見という地名は、史料上では南北朝期から見えます。ここは、先ほど見たように下高瀬地区に含まれていました。大見村が形成されていくのは近世になってからです。

吉津地区にも「津の前」という地名が示す通り海岸線が入りこんできて、当時は水田はほとんどありません。
中世三野湾 吉津復元地図

七宝山の麓に畑地が形成されただけで、水田は未形成だったと考えられます。ただ、港があったことから海に関わる仕事に従事する人たちがいたようです。「兵庫北関入船納帳』では、仁尾から多量の赤米が輸送されています。三野地域で生産された赤米が七宝山を越えて仁尾まで運搬して積み出したと考えるより、吉津の港へ仁尾輸送船がやってきて、そこで赤米を積み込んで輸送したと考える方が合理的です。仁尾湊の輸送船は、三野地区を後背地にしていたと考えられます。

 大見・下高瀬・吉津の三地区の中で、農業生産力が最も高かったのは大見地区でしょう。しかし、ここでも赤米栽培が行われています。大見以上に劣悪な土地であった高瀬川河田部分や吉津の畑地では、当然赤米が作られていたと研究者は考えているようです。

以上をまとめておくと
①古代・中世の三野湾は南に大きく入り込んで本門寺の裏が海であった。
②大見地区は秋山氏が西遷御家人としてやってきて開発が行われた
③大見地区の新浜では、秋山氏が塩田を経営していた
④伊予大道を境に、高瀬郷が上高瀬と下高瀬に分けられた
⑤下高瀬には秋山氏の氏寺である本門寺が建立され、門前町も形成され地域の中核となった
⑥吉津は目の前まで海で、中世には水田はほとんどなく畑作地帯であった。
  おつきあいいただき、ありがとうございました。

橋詰茂     中世三野町域の歴史的景観と変遷   三野町の中世文書所収

このページのトップヘ